蘇我氏と言うとまず頭に思い浮かぶのは、皇極四年(645年)六月十二日に時の皇太子・中大兄皇子とその朋友・中臣鎌足によって飛鳥・板蓋宮大極殿で誅殺された蘇我入鹿だが、天皇をないがしろに権勢をほしいままにしていた蘇我蝦夷・入鹿父子にあまり良いイメージはない。正史『日本書紀』にも「入鹿」や「蝦夷」などと実名ではなく穢名で記されるほどだ。しかし、蝦夷の父・馬子や祖父・稲目がかつて物部氏との間で宗教戦争を起こしてまでも仏教導入に力を注いだ姿勢と比べると、どこか違和感を感じるのは僕だけであろうか。
大臣蘇我馬子の息子にこの蝦夷以外に「善徳」という人物がいたことはあまり知られていない。蝦夷の兄弟に当たるわけだが、『日本書紀』ではなぜか推古四年の条にただ一ヶ所記されているだけである。
「冬十一月に、法興寺、造り竟(おは)りぬ。則(すなは)ち大臣の男善徳臣(ぜんとこのおみ)を以て寺司に拝す。是の日に、恵慈・恵聡、二の僧、始めて法興寺に住り。」
門脇禎二氏によれば、『扶桑略記』の所伝に従うと推古十八年の新羅使引見で初めて『日本書紀』に現れたときの蝦夷の年齢は25歳という。それが正しいとすると推古四年には蝦夷は11歳となり、善徳が蝦夷の兄と想定されるのである。
法興寺は蘇我馬子が用明二年(587年)に発願した飛鳥寺のことだが、この他にも元興寺・明日香寺・本元興寺・建通寺などと数多くの名前を持つ蘇我氏の氏寺である。ここで興味深いのは、恵慈・恵聡の二僧は、推古三年にそれぞれ高麗・百済から来朝した仏僧で、時の皇太子・聡耳皇子つまり聖徳太子が師として仰いだ人だという。
もう一つ興味深いのは、この法興寺に残る『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』の次の記事だ。
「この国は、ただ尼寺ありて、法師寺なし。尼たちも法のごとくせむとせば、法師寺を設け、百済国の僧尼らを請し、戒を受けしむべし」と曰しき。時に池辺天皇〔用明天皇〕、命を以て、大々王〔炊屋媛・後の推古天皇〕と馬屋門皇子との二柱に語りて告宣わく、「法師寺を作る処を見定めよ」と宣り給いき。時に百済の客の曰さく、「我らが国は、法師寺と尼寺の間、鐘の音互いに聞こえ、その間に難きことなし。半月々々に中の前に往還する処に作るなり」と。時に聡耳皇子、馬子大臣と倶に、寺を起こす処を見定め給いき。」
ここで言う「馬屋門皇子」とは誰か。ご存知の通り、厩戸皇子は聡耳皇子つまり聖徳太子のことだが、この文章では「馬屋門皇子」は聡耳皇子とは全くの別人で、用明天皇の側近として炊屋媛と共にいる。しかも、聡耳皇子が一介の皇子として大臣馬子と働いているのだ。
先ほどの『日本書紀』の記述と並べて見てみると、もしかしたら「馬屋門皇子」とは蘇我善徳のことではないかと思えてくる。さらに言えば、「聖徳太子」として書かれた事績は実はこの善徳のものだったのではないか。そして、あの「入鹿」誅殺の「大極殿のクーデター」(乙巳の変)は実は「馬屋門皇子」の暗殺事件だったのではないか。奇抜な説だとお思いかもしれないが、高野勉と関裕二の二人の研究家が別個に考察を加えた結果だとしたら、検討してみる価値があるのではないだろうか。
仏教信者でなかった用明天皇と穴穂部間人皇女との間に生まれた皇子が生まれながらに仏教信者となり、後の世に「聖徳太子」として崇められるようになったと考えるよりも、仏教浸透に異常な情熱を注いだ蘇我氏の嫡男が「聖徳太子」だったと考える方が自然なのではないだろうか。
それではなぜ聖者「善徳」は中大兄等に殺されたのだろうか。高野・関両氏とも、この裏には二朝並立の事実が隠されていると見ている。高野氏は、「騎馬民族国家」の旧王朝派であった武烈天皇の後に「農耕民族」の継体天皇の北陸王朝が成立し、その後、継体・安閑・宣化・敏達・用明・推古の王朝と欽明・崇峻・舒明・皇極の王朝が並立したという。「善徳」は推古亡き後、実質的な天皇だったのではないか。だが、『日本書紀』は後に「旧王朝」派のもとで、万世一系の皇統を謳った<皇国史観>をもとに作り上げられた。
関氏は高野氏の「旧王朝」を「九州王朝」、「北陸王朝」を「出雲王朝」と見るが、両氏の各王朝の系譜の一致には正直なところ、驚きを禁じ得ない。
北陸王朝と「善徳」は、和と仏法を基本とした地上の楽園(寿国)を建設しようとしていたという。<和を以て貴しと為す云々>という十七条憲法は好戦的な「旧王朝」に対して向けられたものとも考えられている。
「善徳」暗殺で再び「旧王朝」の天下となったが、国民の多くは農耕民族派の北陸王朝を慕っていた。「旧王朝」はそのため、皇極天皇の弟で仏教信者となっていた孝徳天皇を新しい天皇に据えた。しかし、「善徳」の夢を実現しようする孝徳天皇と皇極天皇・中大兄皇子・皇后間人皇女等「旧王朝」とが対立し、孝徳は難波に置き去りにされ、やがて憤死する。
そのときに孝徳天皇が皇后に贈った歌が『日本書紀』に載っている。
鉗つけ吾が飼う駒はひき出せず吾が飼う駒を人みつらむか
これは最愛の妃、間人皇女を遠く飛鳥につれ去られた孝徳天皇の哀歌と一般に受け取られているが、この<駒>とは実は「善徳」のことを言っているのではないか。とすると、<吾が飼う駒>とは孝徳が善徳から受け継いだ寿国実現の悲願となろう。「私がこの心奥に育ててきた寿国実現の計画は閂をかけられ何ひとつ引き出すことが出来なかった。私を信じ私に期待をかけてくれた人たちは、この不甲斐ない私を一体何とみているであろうか」(高野勉)というのがこの歌の正しい解釈なのかもしれない。
[参考文献]
1.高野勉「聖徳太子暗殺論−農耕民族と騎馬民族の相克−」光風社出版、1985年
2.関裕二「聖徳太子は蘇我入鹿である」フットワーク出版社、1991年
3.門脇禎二「蘇我蝦夷・入鹿」吉川弘文館、1977年
倭王・多利思比孤の正体
推古十五年に、聖徳太子が小野妹子を隋に派遣し、煬帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」云々と記した国書を手渡し対等外交を迫り煬帝を激怒させた話は有名である。隋王の煬帝は、「蛮夷の書、無礼なるもの有らば、復た以聞することなかれ」と言ったという。これは、『隋書』倭国伝に記載されている記事だが、使者を派遣したのが「聖徳太子」で、その使者が「小野妹子」だと教科書では述べられているが、これは実は自明のことではない。
『隋書』では、大業三年のこととしているが、西暦に直すと607年となり、日本史では推古十五年に当たるとされる。当然、当時の天皇は推古女帝だが、『隋書』では「其の王多利思比孤(たりしひこ)、使を遣はして朝貢せしむ」と「女帝」とは書かれていない。ここから、この「多利思比孤」は、当時摂政をしていた「聖徳太子」に違いないと考えられている。推古天皇は祭祀を司り、政治は聖徳太子が取り仕切ったので、このようなことも不思議ではない。
つまり、実質的には聖徳太子が「天皇」だったという見方だが、なぜ聖徳太子は天皇とならなかったのか・・・。一般的には、推古女帝の皇子の竹田皇子との間での争いを避けるため、推古女帝が天皇となったといわれている。だが、聖徳太子は名実ともに「天皇」だったとか、作家の豊田有恒氏のように「天皇になれる精神状態ではなかった」といった説まで、さまざまな説が登場してきた。
この件に関してはいずれ整理してみたいが、今回は「倭王・多利思比孤」とは誰かに焦点を当ててみたい。
正史『日本書紀』に述べられている事柄は事実そのものでなく、当時の権力者であった藤原氏の意向のもとにかなり改竄されていると見られており、『日本書紀』をもとに作られた「教科書」は、いま、全面的な見直しを求められていると言えよう。
『隋書』にはその七年前の開皇二十年の記事として、
「倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤、阿輩鷄弥(おおきみ)と号す。使を遣はして闕に詣らしむ。(略)王の妻は鷄弥と号し、後宮には女六、七百人有り。太子を名づけて利歌弥多弗利と為す」
と同王について詳細に記している。
聖徳「太子」を「倭王」と間違えたというのが定説で、上記記事の内容は、隋の担当官が倭国の使者から聴取したものと考えられるが、はたして、倭国の使者が「倭王」のこととして、聖徳「太子」のことを持ち出すだろうか。しかも、その妻や太子のことにも触れられている。
自国の史書『日本書紀』の自国の記事と他国の史書『隋書』の自国の記事を比較して、どちらが史実に近いかと問えば、やはり後者と答えるのではないだろうか。『隋書』の倭国記事を改竄する理由がない。
とすると、『隋書』の記事から言えることは、
(1) 倭国が大和朝廷だとしたら、聖徳太子が倭国の天皇だったことになり、また、
(2) 教科書の言うとおり大和朝廷の天皇が推古女帝だとしたら、隋に朝貢したのは別の国だ
ということだ。
隋の開皇二十年(600年)は、推古八年に当たるが、『日本書紀』には「八年、春二月に、新羅と任那と相攻む。天皇、任那を救はむと欲す」と、朝鮮半島情勢を載せるのみで、隋への朝貢の記事はない。翌九年には「九年の春二月に、皇太子、初めて宮室を斑鳩に興てたまふ」と記されている。推古十五年には小野妹子を通訳鞍作福利とともに隋に遣わしその後推古十六年四月に隋の裴世清(はいせいせい)とともに帰国する。小野妹子が隋の煬帝から受け取った書を失ったと告げるが、天皇はそれを許してしまう。
推古十六年八月には京に着き、歓迎の儀式が進むが、不思議なことに推古天皇がその場に列席しているかどうかがはっきりしない。隋の裴世清は持参した親書を差し出し、大伴齧連が「迎え出でて書を承けて、大門(みかど)の前の机の上に置きて奏す」と言うだけで、そこに推古天皇がいたと書かれていない。「大門」を「みかど」と読むところから天皇は列席していたと思われるが、なぜ明確に書かれてないのか。
吉留路樹氏は『倭国ここに在り』で、『随書』に載る倭国は、推古天皇の大和朝廷とは別の国だという。『旧唐書』には「倭国」と「日本」が別々に記されており、日本は倭の別種と書かれている。開皇二十年に隋に朝貢したのはこの「倭国」であり、倭国の別種である「日本」が大和朝廷だと吉留氏は考えている。「大和朝廷とは別の王朝が筑紫に先行して存在し、それがやがて七世紀の対唐・新羅戦争を経て大和に完全統合された」というが、倭王「多利思比孤」が誰なのか。太子「利歌弥多弗利」が誰なのか、吉留氏も述べていない。
しかし、門脇禎二氏や『聖徳太子暗殺論』の高野勉氏は、その手掛かりを探っている。二人はどちらも「利歌弥多弗利」は「和歌弥多弗利」の誤記であり、「和歌」は「若き」、「弥」で「美もしくは御の美称」で、「多弗利」は「田村(たふり、または、たふる)」つまり、推古天皇の次に即位した舒明天皇、田村皇子に比定している。
門脇氏は、倭王は「聖徳太子」と見て、聖徳太子が実際に天皇だったと考えているが、一方、高野氏は、『隋書』の「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天、未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して坐し、日出づれば便ち理務を停め、我が弟に委ぬと云へり」という記述から、倭王と皇太子は兄弟で、倭王は「茅渟王(ちぬおう)」、後の皇極天皇(斎明天皇)の父だと考えている。「田村皇子、後の舒明天皇の和風諡号は『息長足日広額天皇』であるから、兄・茅渟王も、当然、同様の息長系タラシヒコの諡号があったかもしれない」という。
継体天皇崩御後、農耕民族国家「北陸王朝」と騎馬民族国家「旧王朝」に分裂し、二朝併立時代を迎えたとする、高野氏は、崇峻天皇が蘇我馬子の差し金で東漢直駒に暗殺された後、推古天皇の「北陸王朝」に対抗する「旧王朝」派は茅渟王と皇太子・田村皇子が再興を画策し隋との接触を図りその使者が隋を訪れたと見ている。
どの説が正しいかはまだ判断できないが、『隋書』に載る倭王とその皇太子が誰なのか、いくらか手掛かりが出てきたと言えるだろう。
[参考文献]
1.門脇禎二「聖徳太子は大王ではなかったか」『中央公論・歴史と人物』昭和54年12月号、1979年
2.高野勉「聖徳太子暗殺論−農耕民族と騎馬民族の相克−」光風社出版、1985年
3.吉留路樹「倭国ここに在り」葦書房、1991年
天平僧・行基と大仏造営
行基というと僕はすぐに近鉄奈良駅前の「行基菩薩像」を思い浮かべるが、像が立つほど有名な割に、行基自身について分からないことが多い。行基自身が書き記したものが皆無ということもあるが、理由はそれだけだろうか。『続日本紀』天平勝宝元年(749年)二月八日の行基の死亡記事とその後に記された伝記や文暦二年(1235年)に墓所である竹林寺から発見された「大僧正舎利瓶記」(行基墓誌銅板)や安元元年(1174年)に泉高父宿禰が書いた「行基年譜」といった資料が残されている。
これらの資料から、行基が生前行った数々の社会事業(寺院建築はもちろんのこと道路や河川・地溝の整備や掘削や架橋)については千田稔氏の丹念な調査でかなりのところまで判明してきている。それにもかかわらず氏がそのような調査は「劇場で役者のいない舞台をながめているようなもの」だと漏らしたのは、結局のところ、行基をこれらの事業に駆り立てたものが何なのかがはっきりしないからではないか。
『続日本紀』養老元年(717年)四月に僧尼を統制する詔(僧尼令)が発布され、その中で「方に今、小僧行基、併せて弟子等、街衢に零畳して、妄に罪福を説き、朋党を合せ構えて・・・百姓を妖惑す」と行基の布教活動が強く指弾されている。それが、天平三年(731年)になると、「比年、行基法師に随逐ふもの優婆塞・優婆夷等、法の如く修行する者は、男は年六十一已上、女は年五十五以上、咸く入道することを聴す」と高齢の行基信者の出家が許されるようになる。
さらに、天平十五年(742年)十月になると「盧舎那の仏像を造り奉らむが為に始めて寺の地を開きたまふ。是に行基法師、弟子等を率ゐて衆庶を勧め誘く」との記事が載っている。禁圧されていた行基が最終的には聖武天皇の求めに応じ、大仏造営に力を貸すこととなる。
当時、農民の困窮の最大の原因は公民公地制のもとでなされる徭役であった。租庸調といった物納も都まで農民が交替で運ばねばならず「行役」という徭役を伴っていた。また、天平十二年(740年)の藤原広嗣の乱に端を発した遷都騒ぎも、農民の徭役の増加という結果しかもたらさなかった。そして、さらに大仏造営である。農民の悲惨さが想像できる。
行基やその弟子や信者の農民はこのような矛盾に気が付かなかったのだろうか。大仏造営が農民の徭役を増やすのを承知で、行基は大仏造営に荷担したのだろうか。聖武天皇が行基の農民に対する影響力を利用するために行基を動かそうとしたのは理解できるが、行基が何を目的にしていたのかはっきりしない。矛盾は感じていたが、これにより農民らの仏教への帰依を一層進められるとでも考えていたのだろうか。
それとも今まで農民に注がれていた関心が、哀れな聖武天皇へと向かい、聖武天皇の心の安定を祈願していたのか。
そして、天平十七年(745年)には行基は異例の「大僧正」となる。そのとき行基は78歳。かなり高齢だが、元気に活動していたらしい。行基四十九院と呼ばれた行基道場の建築が、天平十三年から十六年まで一件もないのは「恭仁京の造営・紫香楽での大仏造営・勧進などに従っていた反映かと思われる」と井上薫は述べている。
おそらく、大仏造営に纏わる行基の行動を正当化する理由が見つからない限り、いつまでたっても「行基論」は「劇場で役者のいない舞台をながめている」ままで終わってしまうのではないだろうか。
前述の養老元年(717年)の僧尼令が出された時も、養老六年(722年)に僧尼令に反する布教を禁止する詔が出された時も、行基が処罰されたという記載はない。詔は単なる脅かしととれなくもないが、森田悌氏は、
行基集団は宗教的活動として街衢における罪福の講説・乞食・焚身まで行い、仏教による救済を求める行動を行っていたのであるが、対権力ということでは積極的な活動をした様子がないのである。多くの庶民の不満・苦悩は大宝前後以降浸透してくる律令支配と相関関係を もち、国家支配を見据えなければ解決のつかない問題なのであるが、恐らく個人レヴェルの罪福論に終始し、権力が弾圧に出れば、集団は専ら退くという態のものだったのである。
という。「行基集団は国家にとり無気味な存在で危険な要素を孕んでいるにしても、本質的には日和見的な存在であり、律令国家を危うくする如きものではなかった」という氏の結論が正しいのかもしれない。ある意味で純粋な信徒組織の長であった行基が、一般の信徒に対するのと同じ気持ちで聖武天皇と接したのだとしても不思議ではない。
行基は、百済系の帰化人(王爾の末裔)で高志氏の出身で、中級の豪族であった。また、師と推察される僧道昭も船史恵尺(蘇我臣蝦夷が死に臨んで、天皇記・国記・珍宝を焼こうとして時に、国記が焼かれるのを救った人物)の息子で、同じく百済系の帰化人であった。おそらく、百済系の帰化人のスポンサーが、行基の裏についていて、資金面や技術面で諸々の社会事業を支えていたのではないだろうか。
律令制度の矛盾に気付かぬぼんぼんで、ひたすら善行を積めば、必ず成仏できると信じて疑わず、率先して衆生の中に入り衆生の心の救済に努めた「純粋な宗教家」・・・どうも行基に対する僕のイメージはそこに落ち着きそうである。
[参考文献]
1.新日本古典文学体系「続日本紀二」岩波書店、1990年
2.新日本古典文学体系「続日本紀三」岩波書店、1992年
3.北山茂夫「萬葉の世紀」東京大学出版会、1953年
4.井上薫「行基」吉川弘文館、1959年
5.千田稔「天平の僧行基」中公新書、1994年
6.森田悌「行基の宗教活動」『金沢大学教育学部紀要』第39号、1990年
彷徨五年
天平12年(740)10月のこと。藤原広嗣の乱を鎮圧するために大将軍・大野朝臣東人等を派遣した後、聖武天皇は突然、将軍等に対して勅を発して東国行き(伊勢行幸)を決行する。
「朕意ふ所有るに縁りて、今月の末暫く関東に往かむ。その時に非ずと雖も、事已むこと能はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず」(続日本紀)
大宰府で広嗣が玄坊・真備両名の排斥を天皇に上表し軍を起こしてからすでに2ヶ月が経とうとしていた。この勅が発せられる3日前に広嗣は逮捕されていたが、聖武天皇のもとにまだその知らせは届いていなかったという。そのような最中、聖武天皇は東国行きを決行し、何と天平17年(745)8月に平城京に戻るまでの5年間、恭仁宮、紫香楽宮、難波宮等を転々とする。北山茂夫はこの5年間を「彷徨五年」とその著書で述べているが、何が聖武天皇を動かしたのか。正史『続日本紀』も度重なる遷都の事実は詳しく記述しているが、天皇の胸のうちは明らかにしてくれていない。
北山氏は「疫病の災禍にうちのめされた聖武は、酸鼻をつくした平城京をはなれて新しい土地への転移を望んでいたと解釈するのがごく自然」と述べているが、結局「怪奇な彷徨は依然としてつづく」とか「天皇彷徨の、解しがたい異常性」といった具合で、その真意は不明のままである。
聖武天皇の「彷徨五年」をたどってみると、広嗣の乱におびえ、逃げ惑っているような印象も受けるが、中西進、関裕二、遠山美都男の諸氏が最近出された「聖武天皇論」を読むと、それとは違って力強い聖武天皇像が浮かんでくる。どれもまだ仮説の域を出ていないし、「彷徨五年」の天皇の行動をそれですべて説明できる訳でもないと思うが、正倉院に残された数々の宝物を見ると、あれだけの宝物を集められた天皇が定説のような優柔不断ななさけない天皇とは思えないのも確かである。諸氏の考えを簡単に紹介すると以下のようになると思う。
遠山氏は「聖武の行動は決して何かに怯えて逃げ回るといった一貫性のないものではなかった。むしろそれは、一つの明確な目的に向って邁進するものであって、その意味で極めて計画的な行動なのであった」とし、その目的は「大仏造立」であるという。首皇子(聖武天皇)は「年歯幼稚にして」天皇にはなれないと元明天皇から伯母の元正天皇への譲位が行われたとき以来、首皇子はコンプレックスを抱くようになりそれを克服するために「智識」による盧舎那仏造立を思い立ったという。「聖武は既存の律令制にもとづく国郡制という行政機構に依存することなく、いい換えれば、国司・郡司といった地方行政官の強制によって民衆から徴収された労力や資材にたよることなく、全国の豪族や民衆らの自発的な意思によって供出された労力や資材によって盧舎那仏を造り上げようとしたのである」「この方式によって盧舎那仏造立を成し遂げたならば、彼は律令制国家の最高首長である天皇以上の実力の持ち主であるという評価をうけることになる」という。「智識」とはご存知の通り仏教用語で信者が財産や労力を提供することを意味する。天皇を超えた存在になるために大仏造立を考え、その計画を練るために「彷徨五年」の行動を起こしたというのである。
関氏は「藤原氏が造りあげた体制を、聖武天皇が破壊しようとしていたのではなかったのか」と仮設を立てている。「藤原氏が造りあげた体制」とは、台閣を藤原一族で独占し、傀儡の天皇をたてて国を思うのままに支配するといったことのようだが、天平9年(737)12月に、母・宮子と生まれて初めて対面してから、聖武天皇の藤原氏への対立姿勢が見え始めるという。母・宮子が、聖武に「藤原の子」であると同じに「天武の子」であることを教え込ませたのではないかと考えている。聖武が「傀儡」であり続けるように、藤原氏は母・宮子を幽閉し、聖武に会わせなかったのではないかと氏は考えているのだ。確かに「幽憂に沈み久しく人事を廃むるが為に、天皇を誕れましてより曾って相見えず」だった宮子が玄坊と会って突然目覚め聖武と再開するというのはどうも信じられない。
中西氏は「大仏という新しい神を作ることで、聖武天皇が天武天皇の現人神の思想をうけついだ」とし「仏教国家の範を聖徳太子に仰ぎ、白鳳の精神を伝統として日本を築こうとした英主が、聖武天皇だと思う」と述べている。「彷徨五年」の間、聖武は「法都」の紫香楽宮、「港都」の難波宮、「水辺のリゾート都市」の恭仁宮といった「多首都構想」を練っていたのだという。
3人が共通して指摘しているのは、最初の東国行き(伊勢行幸)が、壬申の乱で天武天皇がたどった経路と似ているということである。遠山氏は「聖武の伊勢行幸は四百名の騎兵集団に前後を守られてすすむという、さながら軍事パレードだった」とし、関氏も「聖武天皇の関東行幸の真の目的──それは、壬申の乱の真似事をして、聖武の固い意思を大々的に喧伝することではなかったか。すなわち、没落したとはいえ、未だ強大な勢力を誇る藤原氏に対する宣戦布告であり、九州の藤原広嗣を威嚇するだけでなく、都に残った藤原氏を脅迫したものではなかったか」と述べている。中西氏も「軍事演習」とみて「天皇周辺は、まだまだ非常体制に中」にあったという。
聖武天皇が生まれてから一度も会ったことのなかった母・宮子と対面してはじめて藤原氏の「傀儡」であった自分に気づき、それを打破するために天皇を超えた存在となるべく、「智識」による大仏造立にのめりこんで行くといった筋書きが、3人の説から伺うことができる。
天平17年(745)4月、大仏造立が計画されていた紫香楽宮に、山火事や地震が頻発する。地震はさておき、度重なる遷都で民衆の不満が爆発し放火が発生したのかもしれない。聖武は結局、紫香楽宮を大仏造立の場とするのはあきらめるが、「大仏造立」そのものはきちんと成し遂げている。ここからも聖武天皇の意思の強さが伺われる。しかし、大仏が完成する前に娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位し、その3年後の天平勝宝4年(752)には大々的な開眼供養を執り行うが、その4年後には既に他界している。確かに「巨大な夢」だったが、はかない夢だったような気がしてならない。
[参考文献]
1. 遠山美都男「彷徨の王権・聖武天皇」角川選書、1999年
2. 関裕二「鬼の帝・聖武天皇」三一書房、1998年
3. 中西進「聖武天皇・巨大な夢を生きる」PHP新書、1998年
4. 北山茂夫「萬葉の時代」岩波新書、1954年
5. 新日本古典文学大系「続日本紀二」岩波書店、1990年
光明皇太后
聖武天皇が出家して沙弥勝満と名乗り、天平感宝元年(749)7月に娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した後、光明皇后の家政機関である皇后宮職が「紫微中台」として改組される。正確に言うと、改組の記事はないが、譲位の約1ヶ月後、紫微中台の職員の任命記事が「続日本紀」に載っており、このときに改組されたと考えられている。この中で、大納言の藤原仲麻呂が紫微令(長官)として任命される。(天平宝字元年(757)に「紫微内相」に改名)
その後の孝謙天皇の治世で政治の実権を握っていたのは一体だれなのか。聖武天皇が一線から退いた後、この光明皇太后が政治の実権を掌握するために作られたのが、この「紫微中台」だと言われているが、実のところはっきりしていない。
常識的に考えれば、それは時の天皇である孝謙天皇であり、政府の最高決定機関である太政官であると考えられる。その当時の太政官の首長は左大臣の橘諸兄で、紫微令の藤原仲麻呂は右大臣の下の大納言に過ぎなかった。天平9年(737)に藤原四卿が天然痘で相次いで亡くなってから、政治の実権はこの諸兄に移っていた。従って、この仲麻呂と諸兄の対立は当然存在していた訳で、
(1) 孝謙天皇 − 太政官
(2) 光明皇太后 − 紫微中台
のどちらが実権を握っていたのかが問題になってくる。また、一線から退いた聖武太上天皇も、実は、後世の「院政」のように実権を持ち続けていたとの見方もあり(たとえば、遠山美都男「彷徨の王権・聖武天皇」)、
(3) 聖武太上天皇(沙弥勝満)
も、この時期の権力者の候補として考えられるのである。
聖武太上天皇が亡くなった後の天平勝宝9歳(757)に、橘奈良麻呂のクーデター計画が露見し、藤原仲麻呂に捕らえられた奈良麻呂は、
先づ内相(藤原仲麻呂)の家を囲くみて其を殺して、即ち大殿を囲みて皇太子(大炊王)を退けて、次には皇太后(光明皇太后)の朝(みかど)を傾け、鈴・印・契を取りて、右大臣(藤原豊成)を召して天下に号令せしめむ。
とクーデター計画の概要を証言している。ここに出てくる「印」とは「天皇御璽」のことで、本来、政府の最高機関である太政官が保管している詔勅を発行するのに必要とされた非常に重要な印である。その天皇御璽がこの当時、光明皇太后側の手にあったことが明らかになっている。つまり、この時期、確かに政治の実権は、光明皇太后と紫微中台にあったと言えるのである。
それでは、いつ天皇御璽は光明皇太后側に移ったのだろうか。聖武天皇の譲位のときか。由水常雄は、聖武太上天皇崩御後の「七七忌法要」のときではないかと考えている。
天平勝宝8歳(756)6月21日の七七忌法要の日に聖武遺愛の品々が東大寺に奉納されたが(これが「正倉院宝物」の元となった)、その目録が「東大寺献物帳」として残されている。この詔勅でもない書類になんと天皇御璽が486箇所も押されているのだ。しかし、同月の12日に孝謙天皇が東大寺に官宅田園などを施入するという勅書には、「東大寺献物帳」と同じ仲麻呂らの署名があるが、天皇御璽は押されていないという。
つまり、この勅書は紫微中台側(藤原仲麻呂)が正式な手続きを経ないでで発行したため、太政官が天皇御璽の使用を拒否したもので、この時点では太政官の管理下にあったが、聖武大上天皇の七七忌法要で遺品を東大寺の納めることを理由に、太政官から手に入れたと由水氏は考えている。
この七七忌法要も謎に満ちていて、その日に聖武大上天皇の遺品を納めるにも関わらず、何故か法要は藤原氏の菩提寺の興福寺で執り行われている。由水氏は、献物品に大量の武器や薬が納められていることから、実は光明皇太后と仲麻呂が仕組んだ「無血クーデター」だと考えている。
この法要の直後、孝謙天皇は「来年の法要は東大寺で行うべし」との勅を発している。孝謙天皇側の悔しがる様が目に浮かぶようだ。
しかし、一体、光明皇太后と藤原仲麻呂のどちらがこのクーデターの首謀者だったのか。それによって、孝謙天皇と光明皇太后の関係も変わってくる。だれが本当に当時の政治の実権を握っていたのか。この視点から、この孝謙天皇治世の政治の流れを整理してみるのも面白いだろう。
[参考文献]
1. 由水常雄「正倉院の謎−激動の歴史に揺れた宝物−」中公文庫、1987年
2. 新日本文学大系「続日本紀三」岩波書店、1992年