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古代史について

古代史について

ぼくが所属している「古代史通信」というサークルの会誌に載せた、日本の古代史関連の文章を中心にご紹介します。

1.蘇我善徳の正体

 蘇我氏と言うとまず頭に思い浮かぶのは、皇極四年(645年)六月十二日に時の皇太子・中大兄皇子とその朋友・中臣鎌足によって飛鳥・板蓋宮大極殿で誅殺された蘇我入鹿だが、天皇をないがしろに権勢をほしいままにしていた蘇我蝦夷・入鹿父子にあまり良いイメージはない。正史『日本書紀』にも「入鹿」や「蝦夷」などと実名ではなく穢名で記されるほどだ。しかし、蝦夷の父・馬子や祖父・稲目がかつて物部氏との間で宗教戦争を起こしてまでも仏教導入に力を注いだ姿勢と比べると、どこか違和感を感じるのは僕だけであろうか。

 大臣蘇我馬子の息子にこの蝦夷以外に「善徳」という人物がいたことはあまり知られていない。蝦夷の兄弟に当たるわけだが、『日本書紀』ではなぜか推古四年の条にただ一ヶ所記されているだけである。

「冬十一月に、法興寺、造り竟(おは)りぬ。則(すなは)ち大臣の男善徳臣(ぜんとこのおみ)を以て寺司に拝す。是の日に、恵慈・恵聡、二の僧、始めて法興寺に住り。」

 門脇禎二氏によれば、『扶桑略記』の所伝に従うと推古十八年の新羅使引見で初めて『日本書紀』に現れたときの蝦夷の年齢は25歳という。それが正しいとすると推古四年には蝦夷は11歳となり、善徳が蝦夷の兄と想定されるのである。

 法興寺は蘇我馬子が用明二年(587年)に発願した飛鳥寺のことだが、この他にも元興寺・明日香寺・本元興寺・建通寺などと数多くの名前を持つ蘇我氏の氏寺である。ここで興味深いのは、恵慈・恵聡の二僧は、推古三年にそれぞれ高麗・百済から来朝した仏僧で、時の皇太子・聡耳皇子つまり聖徳太子が師として仰いだ人だという。

 もう一つ興味深いのは、この法興寺に残る『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』の次の記事だ。

「この国は、ただ尼寺ありて、法師寺なし。尼たちも法のごとくせむとせば、法師寺を設け、百済国の僧尼らを請し、戒を受けしむべし」と曰しき。時に池辺天皇〔用明天皇〕、命を以て、大々王〔炊屋媛・後の推古天皇〕と馬屋門皇子との二柱に語りて告宣わく、「法師寺を作る処を見定めよ」と宣り給いき。時に百済の客の曰さく、「我らが国は、法師寺と尼寺の間、鐘の音互いに聞こえ、その間に難きことなし。半月々々に中の前に往還する処に作るなり」と。時に聡耳皇子、馬子大臣と倶に、寺を起こす処を見定め給いき。」

 ここで言う「馬屋門皇子」とは誰か。ご存知の通り、厩戸皇子は聡耳皇子つまり聖徳太子のことだが、この文章では「馬屋門皇子」は聡耳皇子とは全くの別人で、用明天皇の側近として炊屋媛と共にいる。しかも、聡耳皇子が一介の皇子として大臣馬子と働いているのだ。

 先ほどの『日本書紀』の記述と並べて見てみると、もしかしたら「馬屋門皇子」とは蘇我善徳のことではないかと思えてくる。さらに言えば、「聖徳太子」として書かれた事績は実はこの善徳のものだったのではないか。そして、あの「入鹿」誅殺の「大極殿のクーデター」(乙巳の変)は実は「馬屋門皇子」の暗殺事件だったのではないか。奇抜な説だとお思いかもしれないが、高野勉と関裕二の二人の研究家が別個に考察を加えた結果だとしたら、検討してみる価値があるのではないだろうか。

 仏教信者でなかった用明天皇と穴穂部間人皇女との間に生まれた皇子が生まれながらに仏教信者となり、後の世に「聖徳太子」として崇められるようになったと考えるよりも、仏教浸透に異常な情熱を注いだ蘇我氏の嫡男が「聖徳太子」だったと考える方が自然なのではないだろうか。

 それではなぜ聖者「善徳」は中大兄等に殺されたのだろうか。高野・関両氏とも、この裏には二朝並立の事実が隠されていると見ている。高野氏は、「騎馬民族国家」の旧王朝派であった武烈天皇の後に「農耕民族」の継体天皇の北陸王朝が成立し、その後、継体・安閑・宣化・敏達・用明・推古の王朝と欽明・崇峻・舒明・皇極の王朝が並立したという。「善徳」は推古亡き後、実質的な天皇だったのではないか。だが、『日本書紀』は後に「旧王朝」派のもとで、万世一系の皇統を謳った<皇国史観>をもとに作り上げられた。

 関氏は高野氏の「旧王朝」を「九州王朝」、「北陸王朝」を「出雲王朝」と見るが、両氏の各王朝の系譜の一致には正直なところ、驚きを禁じ得ない。

 北陸王朝と「善徳」は、和と仏法を基本とした地上の楽園(寿国)を建設しようとしていたという。<和を以て貴しと為す云々>という十七条憲法は好戦的な「旧王朝」に対して向けられたものとも考えられている。

「善徳」暗殺で再び「旧王朝」の天下となったが、国民の多くは農耕民族派の北陸王朝を慕っていた。「旧王朝」はそのため、皇極天皇の弟で仏教信者となっていた孝徳天皇を新しい天皇に据えた。しかし、「善徳」の夢を実現しようする孝徳天皇と皇極天皇・中大兄皇子・皇后間人皇女等「旧王朝」とが対立し、孝徳は難波に置き去りにされ、やがて憤死する。

 そのときに孝徳天皇が皇后に贈った歌が『日本書紀』に載っている。

   鉗つけ吾が飼う駒はひき出せず吾が飼う駒を人みつらむか

 これは最愛の妃、間人皇女を遠く飛鳥につれ去られた孝徳天皇の哀歌と一般に受け取られているが、この<駒>とは実は「善徳」のことを言っているのではないか。とすると、<吾が飼う駒>とは孝徳が善徳から受け継いだ寿国実現の悲願となろう。「私がこの心奥に育ててきた寿国実現の計画は閂をかけられ何ひとつ引き出すことが出来なかった。私を信じ私に期待をかけてくれた人たちは、この不甲斐ない私を一体何とみているであろうか」(高野勉)というのがこの歌の正しい解釈なのかもしれない。

[参考文献]
1.高野勉「聖徳太子暗殺論−農耕民族と騎馬民族の相克−」光風社出版、1985年
2.関裕二「聖徳太子は蘇我入鹿である」フットワーク出版社、1991年
3.門脇禎二「蘇我蝦夷・入鹿」吉川弘文館、1977年

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2.倭王・多利思比孤の正体

 推古十五年に、聖徳太子が小野妹子を隋に派遣し、煬帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」云々と記した国書を手渡し対等外交を迫り煬帝を激怒させた話は有名である。隋王の煬帝は、「蛮夷の書、無礼なるもの有らば、復た以聞することなかれ」と言ったという。これは、『隋書』倭国伝に記載されている記事だが、使者を派遣したのが「聖徳太子」で、その使者が「小野妹子」だと教科書では述べられているが、これは実は自明のことではない。

『隋書』では、大業三年のこととしているが、西暦に直すと607年となり、日本史では推古十五年に当たるとされる。当然、当時の天皇は推古女帝だが、『隋書』では「其の王多利思比孤(たりしひこ)、使を遣はして朝貢せしむ」と「女帝」とは書かれていない。ここから、この「多利思比孤」は、当時摂政をしていた「聖徳太子」に違いないと考えられている。推古天皇は祭祀を司り、政治は聖徳太子が取り仕切ったので、このようなことも不思議ではない。

 つまり、実質的には聖徳太子が「天皇」だったという見方だが、なぜ聖徳太子は天皇とならなかったのか・・・。一般的には、推古女帝の皇子の竹田皇子との間での争いを避けるため、推古女帝が天皇となったといわれている。だが、聖徳太子は名実ともに「天皇」だったとか、作家の豊田有恒氏のように「天皇になれる精神状態ではなかった」といった説まで、さまざまな説が登場してきた。

 この件に関してはいずれ整理してみたいが、今回は「倭王・多利思比孤」とは誰かに焦点を当ててみたい。

 正史『日本書紀』に述べられている事柄は事実そのものでなく、当時の権力者であった藤原氏の意向のもとにかなり改竄されていると見られており、『日本書紀』をもとに作られた「教科書」は、いま、全面的な見直しを求められていると言えよう。

『隋書』にはその七年前の開皇二十年の記事として、

「倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤、阿輩鷄弥(おおきみ)と号す。使を遣はして闕に詣らしむ。(略)王の妻は鷄弥と号し、後宮には女六、七百人有り。太子を名づけて利歌弥多弗利と為す」

 と同王について詳細に記している。

 聖徳「太子」を「倭王」と間違えたというのが定説で、上記記事の内容は、隋の担当官が倭国の使者から聴取したものと考えられるが、はたして、倭国の使者が「倭王」のこととして、聖徳「太子」のことを持ち出すだろうか。しかも、その妻や太子のことにも触れられている。

 自国の史書『日本書紀』の自国の記事と他国の史書『隋書』の自国の記事を比較して、どちらが史実に近いかと問えば、やはり後者と答えるのではないだろうか。『隋書』の倭国記事を改竄する理由がない。

 とすると、『隋書』の記事から言えることは、

(1) 倭国が大和朝廷だとしたら、聖徳太子が倭国の天皇だったことになり、また、
(2) 教科書の言うとおり大和朝廷の天皇が推古女帝だとしたら、隋に朝貢したのは別の国だ

 ということだ。

 隋の開皇二十年(600年)は、推古八年に当たるが、『日本書紀』には「八年、春二月に、新羅と任那と相攻む。天皇、任那を救はむと欲す」と、朝鮮半島情勢を載せるのみで、隋への朝貢の記事はない。翌九年には「九年の春二月に、皇太子、初めて宮室を斑鳩に興てたまふ」と記されている。推古十五年には小野妹子を通訳鞍作福利とともに隋に遣わしその後推古十六年四月に隋の裴世清(はいせいせい)とともに帰国する。小野妹子が隋の煬帝から受け取った書を失ったと告げるが、天皇はそれを許してしまう。

 推古十六年八月には京に着き、歓迎の儀式が進むが、不思議なことに推古天皇がその場に列席しているかどうかがはっきりしない。隋の裴世清は持参した親書を差し出し、大伴齧連が「迎え出でて書を承けて、大門(みかど)の前の机の上に置きて奏す」と言うだけで、そこに推古天皇がいたと書かれていない。「大門」を「みかど」と読むところから天皇は列席していたと思われるが、なぜ明確に書かれてないのか。

 吉留路樹氏は『倭国ここに在り』で、『随書』に載る倭国は、推古天皇の大和朝廷とは別の国だという。『旧唐書』には「倭国」と「日本」が別々に記されており、日本は倭の別種と書かれている。開皇二十年に隋に朝貢したのはこの「倭国」であり、倭国の別種である「日本」が大和朝廷だと吉留氏は考えている。「大和朝廷とは別の王朝が筑紫に先行して存在し、それがやがて七世紀の対唐・新羅戦争を経て大和に完全統合された」というが、倭王「多利思比孤」が誰なのか。太子「利歌弥多弗利」が誰なのか、吉留氏も述べていない。

 しかし、門脇禎二氏や『聖徳太子暗殺論』の高野勉氏は、その手掛かりを探っている。二人はどちらも「利歌弥多弗利」は「和歌弥多弗利」の誤記であり、「和歌」は「若き」、「弥」で「美もしくは御の美称」で、「多弗利」は「田村(たふり、または、たふる)」つまり、推古天皇の次に即位した舒明天皇、田村皇子に比定している。

 門脇氏は、倭王は「聖徳太子」と見て、聖徳太子が実際に天皇だったと考えているが、一方、高野氏は、『隋書』の「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天、未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して坐し、日出づれば便ち理務を停め、我が弟に委ぬと云へり」という記述から、倭王と皇太子は兄弟で、倭王は「茅渟王(ちぬおう)」、後の皇極天皇(斎明天皇)の父だと考えている。「田村皇子、後の舒明天皇の和風諡号は『息長足日広額天皇』であるから、兄・茅渟王も、当然、同様の息長系タラシヒコの諡号があったかもしれない」という。

 継体天皇崩御後、農耕民族国家「北陸王朝」と騎馬民族国家「旧王朝」に分裂し、二朝併立時代を迎えたとする、高野氏は、崇峻天皇が蘇我馬子の差し金で東漢直駒に暗殺された後、推古天皇の「北陸王朝」に対抗する「旧王朝」派は茅渟王と皇太子・田村皇子が再興を画策し隋との接触を図りその使者が隋を訪れたと見ている。

 どの説が正しいかはまだ判断できないが、『隋書』に載る倭王とその皇太子が誰なのか、いくらか手掛かりが出てきたと言えるだろう。

[参考文献]
1.門脇禎二「聖徳太子は大王ではなかったか」『中央公論・歴史と人物』昭和54年12月号、1979年
2.高野勉「聖徳太子暗殺論−農耕民族と騎馬民族の相克−」光風社出版、1985年
3.吉留路樹「倭国ここに在り」葦書房、1991年

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3.天平僧・行基と大仏造営

 行基というと僕はすぐに近鉄奈良駅前の「行基菩薩像」を思い浮かべるが、像が立つほど有名な割に、行基自身について分からないことが多い。行基自身が書き記したものが皆無ということもあるが、理由はそれだけだろうか。『続日本紀』天平勝宝元年(749年)二月八日の行基の死亡記事とその後に記された伝記や文暦二年(1235年)に墓所である竹林寺から発見された「大僧正舎利瓶記」(行基墓誌銅板)や安元元年(1174年)に泉高父宿禰が書いた「行基年譜」といった資料が残されている。

 これらの資料から、行基が生前行った数々の社会事業(寺院建築はもちろんのこと道路や河川・地溝の整備や掘削や架橋)については千田稔氏の丹念な調査でかなりのところまで判明してきている。それにもかかわらず氏がそのような調査は「劇場で役者のいない舞台をながめているようなもの」だと漏らしたのは、結局のところ、行基をこれらの事業に駆り立てたものが何なのかがはっきりしないからではないか。

『続日本紀』養老元年(717年)四月に僧尼を統制する詔(僧尼令)が発布され、その中で「方に今、小僧行基、併せて弟子等、街衢に零畳して、妄に罪福を説き、朋党を合せ構えて・・・百姓を妖惑す」と行基の布教活動が強く指弾されている。それが、天平三年(731年)になると、「比年、行基法師に随逐ふもの優婆塞・優婆夷等、法の如く修行する者は、男は年六十一已上、女は年五十五以上、咸く入道することを聴す」と高齢の行基信者の出家が許されるようになる。

 さらに、天平十五年(742年)十月になると「盧舎那の仏像を造り奉らむが為に始めて寺の地を開きたまふ。是に行基法師、弟子等を率ゐて衆庶を勧め誘く」との記事が載っている。禁圧されていた行基が最終的には聖武天皇の求めに応じ、大仏造営に力を貸すこととなる。
 当時、農民の困窮の最大の原因は公民公地制のもとでなされる徭役であった。租庸調といった物納も都まで農民が交替で運ばねばならず「行役」という徭役を伴っていた。また、天平十二年(740年)の藤原広嗣の乱に端を発した遷都騒ぎも、農民の徭役の増加という結果しかもたらさなかった。そして、さらに大仏造営である。農民の悲惨さが想像できる。

 行基やその弟子や信者の農民はこのような矛盾に気が付かなかったのだろうか。大仏造営が農民の徭役を増やすのを承知で、行基は大仏造営に荷担したのだろうか。聖武天皇が行基の農民に対する影響力を利用するために行基を動かそうとしたのは理解できるが、行基が何を目的にしていたのかはっきりしない。矛盾は感じていたが、これにより農民らの仏教への帰依を一層進められるとでも考えていたのだろうか。

 それとも今まで農民に注がれていた関心が、哀れな聖武天皇へと向かい、聖武天皇の心の安定を祈願していたのか。

 そして、天平十七年(745年)には行基は異例の「大僧正」となる。そのとき行基は78歳。かなり高齢だが、元気に活動していたらしい。行基四十九院と呼ばれた行基道場の建築が、天平十三年から十六年まで一件もないのは「恭仁京の造営・紫香楽での大仏造営・勧進などに従っていた反映かと思われる」と井上薫は述べている。

 おそらく、大仏造営に纏わる行基の行動を正当化する理由が見つからない限り、いつまでたっても「行基論」は「劇場で役者のいない舞台をながめている」ままで終わってしまうのではないだろうか。

 前述の養老元年(717年)の僧尼令が出された時も、養老六年(722年)に僧尼令に反する布教を禁止する詔が出された時も、行基が処罰されたという記載はない。詔は単なる脅かしととれなくもないが、森田悌氏は、

 行基集団は宗教的活動として街衢における罪福の講説・乞食・焚身まで行い、仏教による救済を求める行動を行っていたのであるが、対権力ということでは積極的な活動をした様子がないのである。多くの庶民の不満・苦悩は大宝前後以降浸透してくる律令支配と相関関係を もち、国家支配を見据えなければ解決のつかない問題なのであるが、恐らく個人レヴェルの罪福論に終始し、権力が弾圧に出れば、集団は専ら退くという態のものだったのである。

 という。「行基集団は国家にとり無気味な存在で危険な要素を孕んでいるにしても、本質的には日和見的な存在であり、律令国家を危うくする如きものではなかった」という氏の結論が正しいのかもしれない。ある意味で純粋な信徒組織の長であった行基が、一般の信徒に対するのと同じ気持ちで聖武天皇と接したのだとしても不思議ではない。

 行基は、百済系の帰化人(王爾の末裔)で高志氏の出身で、中級の豪族であった。また、師と推察される僧道昭も船史恵尺(蘇我臣蝦夷が死に臨んで、天皇記・国記・珍宝を焼こうとして時に、国記が焼かれるのを救った人物)の息子で、同じく百済系の帰化人であった。おそらく、百済系の帰化人のスポンサーが、行基の裏についていて、資金面や技術面で諸々の社会事業を支えていたのではないだろうか。

 律令制度の矛盾に気付かぬぼんぼんで、ひたすら善行を積めば、必ず成仏できると信じて疑わず、率先して衆生の中に入り衆生の心の救済に努めた「純粋な宗教家」・・・どうも行基に対する僕のイメージはそこに落ち着きそうである。

[参考文献]
1.新日本古典文学体系「続日本紀二」岩波書店、1990年
2.新日本古典文学体系「続日本紀三」岩波書店、1992年
3.北山茂夫「萬葉の世紀」東京大学出版会、1953年
4.井上薫「行基」吉川弘文館、1959年
5.千田稔「天平の僧行基」中公新書、1994年
6.森田悌「行基の宗教活動」『金沢大学教育学部紀要』第39号、1990年

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4.彷徨五年

 天平12年(740)10月のこと。藤原広嗣の乱を鎮圧するために大将軍・大野朝臣東人等を派遣した後、聖武天皇は突然、将軍等に対して勅を発して東国行き(伊勢行幸)を決行する。

「朕意ふ所有るに縁りて、今月の末暫く関東に往かむ。その時に非ずと雖も、事已むこと能はず。将軍これを知るとも、驚き怪しむべからず」(続日本紀)

 大宰府で広嗣が玄坊・真備両名の排斥を天皇に上表し軍を起こしてからすでに2ヶ月が経とうとしていた。この勅が発せられる3日前に広嗣は逮捕されていたが、聖武天皇のもとにまだその知らせは届いていなかったという。そのような最中、聖武天皇は東国行きを決行し、何と天平17年(745)8月に平城京に戻るまでの5年間、恭仁宮、紫香楽宮、難波宮等を転々とする。北山茂夫はこの5年間を「彷徨五年」とその著書で述べているが、何が聖武天皇を動かしたのか。正史『続日本紀』も度重なる遷都の事実は詳しく記述しているが、天皇の胸のうちは明らかにしてくれていない。

 北山氏は「疫病の災禍にうちのめされた聖武は、酸鼻をつくした平城京をはなれて新しい土地への転移を望んでいたと解釈するのがごく自然」と述べているが、結局「怪奇な彷徨は依然としてつづく」とか「天皇彷徨の、解しがたい異常性」といった具合で、その真意は不明のままである。

 聖武天皇の「彷徨五年」をたどってみると、広嗣の乱におびえ、逃げ惑っているような印象も受けるが、中西進、関裕二、遠山美都男の諸氏が最近出された「聖武天皇論」を読むと、それとは違って力強い聖武天皇像が浮かんでくる。どれもまだ仮説の域を出ていないし、「彷徨五年」の天皇の行動をそれですべて説明できる訳でもないと思うが、正倉院に残された数々の宝物を見ると、あれだけの宝物を集められた天皇が定説のような優柔不断ななさけない天皇とは思えないのも確かである。諸氏の考えを簡単に紹介すると以下のようになると思う。

 遠山氏は「聖武の行動は決して何かに怯えて逃げ回るといった一貫性のないものではなかった。むしろそれは、一つの明確な目的に向って邁進するものであって、その意味で極めて計画的な行動なのであった」とし、その目的は「大仏造立」であるという。首皇子(聖武天皇)は「年歯幼稚にして」天皇にはなれないと元明天皇から伯母の元正天皇への譲位が行われたとき以来、首皇子はコンプレックスを抱くようになりそれを克服するために「智識」による盧舎那仏造立を思い立ったという。「聖武は既存の律令制にもとづく国郡制という行政機構に依存することなく、いい換えれば、国司・郡司といった地方行政官の強制によって民衆から徴収された労力や資材にたよることなく、全国の豪族や民衆らの自発的な意思によって供出された労力や資材によって盧舎那仏を造り上げようとしたのである」「この方式によって盧舎那仏造立を成し遂げたならば、彼は律令制国家の最高首長である天皇以上の実力の持ち主であるという評価をうけることになる」という。「智識」とはご存知の通り仏教用語で信者が財産や労力を提供することを意味する。天皇を超えた存在になるために大仏造立を考え、その計画を練るために「彷徨五年」の行動を起こしたというのである。

 関氏は「藤原氏が造りあげた体制を、聖武天皇が破壊しようとしていたのではなかったのか」と仮設を立てている。「藤原氏が造りあげた体制」とは、台閣を藤原一族で独占し、傀儡の天皇をたてて国を思うのままに支配するといったことのようだが、天平9年(737)12月に、母・宮子と生まれて初めて対面してから、聖武天皇の藤原氏への対立姿勢が見え始めるという。母・宮子が、聖武に「藤原の子」であると同じに「天武の子」であることを教え込ませたのではないかと考えている。聖武が「傀儡」であり続けるように、藤原氏は母・宮子を幽閉し、聖武に会わせなかったのではないかと氏は考えているのだ。確かに「幽憂に沈み久しく人事を廃むるが為に、天皇を誕れましてより曾って相見えず」だった宮子が玄坊と会って突然目覚め聖武と再開するというのはどうも信じられない。

 中西氏は「大仏という新しい神を作ることで、聖武天皇が天武天皇の現人神の思想をうけついだ」とし「仏教国家の範を聖徳太子に仰ぎ、白鳳の精神を伝統として日本を築こうとした英主が、聖武天皇だと思う」と述べている。「彷徨五年」の間、聖武は「法都」の紫香楽宮、「港都」の難波宮、「水辺のリゾート都市」の恭仁宮といった「多首都構想」を練っていたのだという。

 3人が共通して指摘しているのは、最初の東国行き(伊勢行幸)が、壬申の乱で天武天皇がたどった経路と似ているということである。遠山氏は「聖武の伊勢行幸は四百名の騎兵集団に前後を守られてすすむという、さながら軍事パレードだった」とし、関氏も「聖武天皇の関東行幸の真の目的──それは、壬申の乱の真似事をして、聖武の固い意思を大々的に喧伝することではなかったか。すなわち、没落したとはいえ、未だ強大な勢力を誇る藤原氏に対する宣戦布告であり、九州の藤原広嗣を威嚇するだけでなく、都に残った藤原氏を脅迫したものではなかったか」と述べている。中西氏も「軍事演習」とみて「天皇周辺は、まだまだ非常体制に中」にあったという。

 聖武天皇が生まれてから一度も会ったことのなかった母・宮子と対面してはじめて藤原氏の「傀儡」であった自分に気づき、それを打破するために天皇を超えた存在となるべく、「智識」による大仏造立にのめりこんで行くといった筋書きが、3人の説から伺うことができる。

 天平17年(745)4月、大仏造立が計画されていた紫香楽宮に、山火事や地震が頻発する。地震はさておき、度重なる遷都で民衆の不満が爆発し放火が発生したのかもしれない。聖武は結局、紫香楽宮を大仏造立の場とするのはあきらめるが、「大仏造立」そのものはきちんと成し遂げている。ここからも聖武天皇の意思の強さが伺われる。しかし、大仏が完成する前に娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位し、その3年後の天平勝宝4年(752)には大々的な開眼供養を執り行うが、その4年後には既に他界している。確かに「巨大な夢」だったが、はかない夢だったような気がしてならない。

[参考文献]
1. 遠山美都男「彷徨の王権・聖武天皇」角川選書、1999年
2. 関裕二「鬼の帝・聖武天皇」三一書房、1998年
3. 中西進「聖武天皇・巨大な夢を生きる」PHP新書、1998年
4. 北山茂夫「萬葉の時代」岩波新書、1954年
5. 新日本古典文学大系「続日本紀二」岩波書店、1990年

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5.光明皇太后

 聖武天皇が出家して沙弥勝満と名乗り、天平感宝元年(749)7月に娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した後、光明皇后の家政機関である皇后宮職が「紫微中台」として改組される。正確に言うと、改組の記事はないが、譲位の約1ヶ月後、紫微中台の職員の任命記事が「続日本紀」に載っており、このときに改組されたと考えられている。この中で、大納言の藤原仲麻呂が紫微令(長官)として任命される。(天平宝字元年(757)に「紫微内相」に改名)
その後の孝謙天皇の治世で政治の実権を握っていたのは一体だれなのか。聖武天皇が一線から退いた後、この光明皇太后が政治の実権を掌握するために作られたのが、この「紫微中台」だと言われているが、実のところはっきりしていない。

 常識的に考えれば、それは時の天皇である孝謙天皇であり、政府の最高決定機関である太政官であると考えられる。その当時の太政官の首長は左大臣の橘諸兄で、紫微令の藤原仲麻呂は右大臣の下の大納言に過ぎなかった。天平9年(737)に藤原四卿が天然痘で相次いで亡くなってから、政治の実権はこの諸兄に移っていた。従って、この仲麻呂と諸兄の対立は当然存在していた訳で、

(1) 孝謙天皇 − 太政官
(2) 光明皇太后 − 紫微中台

 のどちらが実権を握っていたのかが問題になってくる。また、一線から退いた聖武太上天皇も、実は、後世の「院政」のように実権を持ち続けていたとの見方もあり(たとえば、遠山美都男「彷徨の王権・聖武天皇」)、

(3) 聖武太上天皇(沙弥勝満)

 も、この時期の権力者の候補として考えられるのである。
聖武太上天皇が亡くなった後の天平勝宝9歳(757)に、橘奈良麻呂のクーデター計画が露見し、藤原仲麻呂に捕らえられた奈良麻呂は、

先づ内相(藤原仲麻呂)の家を囲くみて其を殺して、即ち大殿を囲みて皇太子(大炊王)を退けて、次には皇太后(光明皇太后)の朝(みかど)を傾け、鈴・印・契を取りて、右大臣(藤原豊成)を召して天下に号令せしめむ。

 とクーデター計画の概要を証言している。ここに出てくる「印」とは「天皇御璽」のことで、本来、政府の最高機関である太政官が保管している詔勅を発行するのに必要とされた非常に重要な印である。その天皇御璽がこの当時、光明皇太后側の手にあったことが明らかになっている。つまり、この時期、確かに政治の実権は、光明皇太后と紫微中台にあったと言えるのである。

 それでは、いつ天皇御璽は光明皇太后側に移ったのだろうか。聖武天皇の譲位のときか。由水常雄は、聖武太上天皇崩御後の「七七忌法要」のときではないかと考えている。

 天平勝宝8歳(756)6月21日の七七忌法要の日に聖武遺愛の品々が東大寺に奉納されたが(これが「正倉院宝物」の元となった)、その目録が「東大寺献物帳」として残されている。この詔勅でもない書類になんと天皇御璽が486箇所も押されているのだ。しかし、同月の12日に孝謙天皇が東大寺に官宅田園などを施入するという勅書には、「東大寺献物帳」と同じ仲麻呂らの署名があるが、天皇御璽は押されていないという。

 つまり、この勅書は紫微中台側(藤原仲麻呂)が正式な手続きを経ないでで発行したため、太政官が天皇御璽の使用を拒否したもので、この時点では太政官の管理下にあったが、聖武大上天皇の七七忌法要で遺品を東大寺の納めることを理由に、太政官から手に入れたと由水氏は考えている。

 この七七忌法要も謎に満ちていて、その日に聖武大上天皇の遺品を納めるにも関わらず、何故か法要は藤原氏の菩提寺の興福寺で執り行われている。由水氏は、献物品に大量の武器や薬が納められていることから、実は光明皇太后と仲麻呂が仕組んだ「無血クーデター」だと考えている。

 この法要の直後、孝謙天皇は「来年の法要は東大寺で行うべし」との勅を発している。孝謙天皇側の悔しがる様が目に浮かぶようだ。

 しかし、一体、光明皇太后と藤原仲麻呂のどちらがこのクーデターの首謀者だったのか。それによって、孝謙天皇と光明皇太后の関係も変わってくる。だれが本当に当時の政治の実権を握っていたのか。この視点から、この孝謙天皇治世の政治の流れを整理してみるのも面白いだろう。

[参考文献]
1. 由水常雄「正倉院の謎−激動の歴史に揺れた宝物−」中公文庫、1987年
2. 新日本文学大系「続日本紀三」岩波書店、1992年

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6.ポンペイと鉛公害

 つい先日のことだが、地下鉄の広告で「世界遺産ポンペイ展」が江戸東京博物館で開かれていることを知り、早速、出かけていった。ポンペイは、10年ほど前、初めてヨーロッパ旅行でローマへ行ったときに、ポンペイのオプショナル・ツアーに参加したことがあったので、懐かしさもあり、つい、覗いてしまった。

 江戸東京博物館は、両国国技館のすぐ隣にできた大規模な博物館で、まず、建物の大きさに驚いてしまった。建物の上部が異様に張り出していて、重さに耐えきれずに、ぽきっと折れてしまうのではないかと、上が気になってしかたがなかった。

 ポンペイは、ナポリ近郊の古代都市で、西暦79年に、ヴェスヴィオ山の大噴火で、一瞬の内に埋もれてしまったことは、良く知られている。近年になって大規模に発掘が行われ、ポンペイの人々が火山灰の下に埋もれ、そこでできた空洞に石膏を流し込んで作られたものを見ると、一瞬のできごとであったことが分かる。火砕流に逃げ惑う姿がそのままの姿で残っているのは、痛ましい限りである。

 ポンペイの遺跡を見て驚くのはそれだけではない。何と、現在と変わらないような水道や劇場、公共浴場、市庁舎などが発見されているのである。2000年近く前の古代に、これほどの施設があったというのは、信じられない気がする。今回の展示物では、水道に使われたポンプや、医療に使われた器具なども展示されていて、興味深かった。

 写真ではあったが、ポンペイ市内の街路に埋められていた水道管が、一部露出している個所が紹介されていた。当時、鉛は利用価値の高い唯一の金属で、水道管だけでなく、あらゆる所で、この鉛が使われていたという。当時、その毒性については全く認識がなく、むしろ、その効用が高く評価されていたと言う。

 帰りに、金子史朗氏の『ポンペイの滅んだ日』が売店で売られていたので、買って読んで見た。

 ヴェスヴィオ山の大噴火で火砕流に遭って滅びた町は、ポンペイだけでなく、この外にも幾つかあって、ヘルクラネウムもその一つで、そこから出土した多量のローマ人の人骨から、かなりの多量の鉛が蓄積されていたことが、確かめられたという。ヘルクラネウムでは、豪華な別荘が発見されており、裕福なものが住んでいたと見られている。

 金子氏は、歴史学者のギルフィランの仮説を紹介している。それは、ローマ社会における鉛汚染の問題が、ローマ帝国の衰亡と深くかかわっているとするもので、「慢性鉛中毒によって真にローマ文化の担い手である上流の知的な、創造的家系が消滅した」というのである。

「ローマ帝国の衰亡をめぐっては、これまでにさまざまな仮説が提議されてきた。たとえばマラリア、土壌消耗、悪性伝染病(ペスト)、北部や東部の未開野蛮人の興隆と勢力の増大とか、その帝国への侵入、キリスト教信仰と教義に対するギボンの有名な見解、あるいは、生長しすぎた官僚政治の結果による政治的保守主義など、これらの主張のすべてには真実があろうとギルフィランは言う。そして、人口や人種混血、経済的要因や社会体制など−複数主義史観ではないが、取り上げなければならない問題が多いと思う。しかしギルフィランは、ローマの衰亡は軍事的敗北や分裂でもないし、人口や富の衰微でもない。長期、広範囲にわたる上流階級の鉛中毒汚染にもとづく、すぐれたファミリーの選択的消滅にそもそもの原因があるというのである。」金子氏は、特にこの仮説を支持している訳ではないが、今後の調査に期待したいとしている。

 本書の「あとがき」に書かれてあるのだが、フニクリ・フニクラの民謡が、あのヴェスヴィオ山を歌ったものだとのこと。著者同様、僕自身もはじめて知ったが、訳詞を読むと「なるほど」と感じる。

 赤い火をふくあの山へ/登ろう登ろう/そこは地獄の釜の中/覗こう覗こう/登山電車が出来たので/誰でも登れる/流れる煙は招くよ/みんなをみんなを/ゆこうゆこう火の山へ/ゆこうゆこう火の山へ/フニクリ・フニクラ…暗い夜空をあかあかと/見えるよ見えるよ/あれは火の山ヴェスヴィアス…(青木爽・清野協訳詞)

 また、ポンペイを訪れて見たい気がしている。

[参考文献]
1.金子史朗『ポンペイの滅んだ日』東洋書林、2001年(原書房、1988年、中央公論社、1995年)

〈ポンペイのアルバム〉

             一瞬のうちに火山灰に飲み込まれた人


             邸宅跡にはきれいな中庭がありました


           向こうの方に微かに「ヴェスヴィオ山」が見えます


      きれいな町並みが残っています

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7.元興寺伽藍縁起

 以下は「元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳」の現代語訳である。元興寺はご存知のとおり、現在奈良にある飛鳥寺のことを言うが、蘇我氏の菩提寺として有名なところである。聖徳太子の実像を知る上でも重要な文献だが、興味深いのは、正史『日本書紀』と微妙に内容が異なることである。また、大王、大々王といった耳慣れない言い方や、正史の上で敏達天皇の正妻とされている推古天皇(大々王)が、敏達天皇の正妻と並んで座りながら、蘇我稲目の遺言を聞いていたり、馬屋門皇子と豊聡耳皇子が別人であるかのような記述など、謎に満ち溢れている。原文でも結構読み易いので、興味のある方は是非原文に当たって頂きたい。(日本思想体系20「寺社縁起」岩波書店、1975年刊)尚、固有名詞は極力原文のままとし、記述を統一することは避けた。カッコ内の記述は、訳者が挿入したものである。

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 揩井等由羅の宮で天下を治められた等与称気賀斯岐夜比売の命(推古天皇)がお生まれになってから百年目の癸酉(613年)正月九日に、馬屋門豊聡耳皇子(聖徳太子)が、(推古天皇の)勅を受けて、元興寺等の本縁及び等与称気の命の発願并びに諸々の臣等の発願を記したものである。

 大倭の国の仏法は、斯帰嶋の宮で天下を治められた天国案春岐広庭天皇(欽明天皇)の御代に、蘇我大臣稲目宿禰が仕えてたとき、その七年戊午(538年)十二月に、海から渡ってきたのが始まりである。百済国の聖明王のときに(聖明王は)、(悉達)太子像并びに灌仏の器一式、及び仏起を説く書巻一篋を渡して仰られた。「当に聞くところによれば、仏法は既にこの世の最高の法であり、貴国もまた(仏法を)修行すべきであろう」と。ときに(欽明)天皇は、これを受けて諸々の臣等に対して、「この他国より送られてきた物を、用いるべきか、それとも用いざるべきか、良く相談して申しなさい」と仰られた。そのとき、他の臣等は、「我国は天つ社・国つ社の百八の神を一所に祀っております。我国の国つ神の御心が恐ろしいので、他国の神を祀らないほうがよいでしょう」と申しあげた。そのとき、(欽明)天皇は(稲目)大臣に対して、「どこに安置して祀るべきだろうか」と仰られた。大臣は、「大々王(後の推古天皇)の後宮と離れの家を安置場所としたらよいでしょう」と申した。ときに、天王(欽明天皇)、大大王をお呼びになり、「汝の牟久原の後宮を、私は、他国の神の宮としたい」と仰られた。そのとき、大々王は、「御心に従って、後宮を離れることにします」と申された。そのときから、その御殿に安置して祀り始めることとなった。

 その後、百済人・高麗人・漢人が、個人的に少しずつ修行を進めていった。そのころ、一年ごとにしばしば神の怒りが起こった。ときに、他の臣等は、「このように神の怒りがしばしば起こるのは、他国の神を祀っているからだ」と言った。そのとき、稲目の大臣は、「他国の神を祀らないからだ」と言った。他の臣等は、「神の子等である我々の言うことを聞かないでいると、国内が乱れるだろう」と言った。そのとき、天王はそれを聞いて、大臣に対して次のように仰られた。「国内がしばしば乱れて病死のひとが多いのは、他国の神を祀っているからだと言う。(仏法を)禁じることにしよう」と。ときに大臣は、長い間考えた末、次のように申し上げた。「外面上、他の臣等に従いますが、内心は他国の神を捨てたくありません」と。そのとき、天王は、「私もまたそう思う」と仰られた。

 その後、三十余年後、稲目の大臣が病気にかかり、危険な状態になった。そのとき、池辺皇子(後の用明天皇)と大々王の二柱の前で、次ぎのような遺言を述べた。「仏法を修行すべきでしょうと私が申し上げたことによって、天皇も修行なさっている。それにもかかわらず、他の臣等は、取り壊して捨てようとしている。だから、この仏神の宮として公に祀っている牟久原の後宮が滅んでも、物主の大命(欽明天皇)のお考えに従いなさい。但し、天皇と私は心を同じくしてます。皇子等もまた、密かに同じ気持ちを持っており、どうか仏法を忌み捨てることのないように」と申した。そのとき、大々王は、日並四皇子(後の敏達天皇)の正妻と並んで座っていた。池辺皇子は他田皇子(後の敏達天皇)の隣に座っていた。このような状況の中で、(大臣は)遺言を述べたのである。

 このようにして、己丑の年(569年)に、稲目の大臣が亡くなった後、他の臣等が共謀して、庚寅(570年)に堂舎を焼ききり、仏像・経教を難波江に流そうとした。ときに、二柱の皇子等(後の用明と推古天皇)は、「この御殿は仏神の宮ではなく、仮に安置していたにすぎない。これは、大々王の後宮である」と述べて、焼き尽くされるのを免れた。但し、非常に残念に思わざるを得なかった。(悉達)太子像は持ち出されたが、灌仏の器は隠し納めていたいたため、持ち出されずにいた。いま、元興寺にあるのがこれである。

 その後、辛卯の年(571年)に、神の怒りが増し、国内に病死のひとが多く発生した。日照りが多く、雨が降らなかった。また、天から大雨が降ったりもした。その後、大宮に火災が発生して焼けた。天皇は、にわかに驚いて、たちまち病気となり、危険な状態になった。ときに、池辺皇子と大々王の二柱をお呼びになり、次のように仰った。「仏神は恐ろしいものだ。大父(稲目)の遺言を忘れることのないように。ゆめゆめ仏神を憎んで捨てることのないように。大々王の牟久原の後宮は、今後も物欲を捨て、終生仏を祀り、共同して管理し、自己のものとしないように。この代わりに耳无宮気弁田を既に確保したので、これを後宮としなさい」と仰られた。そのとき、二柱の皇子等は、その命を丁重に承った。しかし、同年、天皇は崩御された。

 崩御から十一年目の辛丑の年(581年)に、他田天皇(敏達天皇)の前で、大后大々王(後の推古天皇)は、「先の己丑の年(569年)に、大父祖(稲目)大臣から『仏法を憎むことなく、捨てないように』との遺言を受けた。しかし、庚寅の年(570年)に、仏法の諌止により(仏法を)怠ってしまった。また、辛卯の年(571年)には、父(欽明)天皇の遺言も受けている。池辺皇子と私と二人をお呼びになって仰られたのは、『仏法を憎んで捨てることのないように。また、大々王は、その牟久原の後宮は、今後も物欲捨て、終生仏神を祀り、自分のものにしないように』ということです。このように、二度、遺言を受けたわけです。しかし、仏法の諌止により、十余年の間、(仏法を)怠ってしまった」と仰られた。 そのとき、他田天王は、「いまでも尚、他の臣等は、我々と同じ気持ちにはなっていない。だから、もし事(仏法)を行なうとしたら、密かに行うべきだ」と仰られた。

 ときに、このように命を承り終わった後、壬寅の年(582年)に、大后大々王と池辺皇子の二柱は、同じ気持ちを抱いて、牟久原の御殿を揩井に遷し、癸卯の年(583年)に初めて桜井道場とし、灌仏の器を隠して納めた。その後、癸卯の年(583年)に稲目の大臣の子馬古(馬子)足禰(宿禰)は、国内に災いをが発生し、筮卜に問うたとき、「これは父の世に祀った神の心である」と言った。ときに、(馬子)大臣は、恐れ懼んで仏法を広めようと願い、出家するひとを求めたが、一人もそれに応ずるものがいなかった。但し、このときに、針間国に脱衣の高麗の老比丘の恵便と、老比丘尼の法明というものがいた。ときに、按師首達等の娘の斯末売は、十七であった。阿野師保斯の娘の等已売、錦師都瓶善の娘の伊志売の三人の娘が、法明に就いて仏法を学んでいた。(三人が)共に言うには、「我らは、出家して仏法を学びたいと思う」と。大臣は、喜んですぐに、(三人を)出家させた。そのとき、大臣と、大々王と池辺皇子の二柱は、歓喜し、(三人を)桜井道場に住まわせることにした。

 次に、甲賀臣が、百済から弥勒菩薩の石像をもたらした。三柱の尼等は、家の間口に置いて、供養し祀った。そのころ、按師首が飯食の儀式のときに舎利を手にいれて大臣に差し上げた。大臣は乙巳の年(585年)二年十五日に、止由良佐岐に刹の柱を立てて大会を実施した。この会のとき、他田天皇は仏法を破り捨てようと、この二月十五日に、刹の柱を切り割き、再度、大臣や仏法を縋る人々の家を責めたて、仏像や御殿をすべて焼きつくしてしまった。佐俾岐弥牟留古造に三人の尼を呼び寄せた。泣きながら出ていくとき、大臣の方を見た。三人の尼等を率いて都波岐市の長屋に着いたとき、その法衣を脱がして仏法を破り捨てた。そのとき、桜井道場は、大后大々王の命により、攻め込まれるのを免れた。「(ここは)私の後宮であるぞ」と仰られたので、焼かれなかった。

 仏法が破り捨てられたとき、国内に悪瘡が流行り、病死するひとが多かった。ときに、病人が皆自ら言うには、「(身が)焼かれ、裂かれ、切られるようだ」と言った。そのとき、三人の尼等は、外に出ずに堅く自分等の身を守った。ときに、大臣は、またも病にかかった。そのため、他田天皇の御前で申し上げた。「また三宝を敬いたいと思う」と。天皇は大臣にだけに(仏法を)許された。大臣は、更に三人の尼等に頼んで三宝を敬わせた。

 他田天皇は同年乙巳の年(585年)に崩御された。次いで、池辺皇子が天皇に立たれた。馬屋門皇子が申されるには、「仏法を破り捨てようとすれば、災いがさらに増える。だから、三人の尼等は桜井道場に住まわせ、ぜひとも供養させねばならない」と。そのとき、天皇はお許しになって、桜井寺に住まわせて供養させた。ときに三人の尼等は、官に言うには、「伝え聞くところによると、出家をするひとは戒を受けなければならないと。しかし、ここには戒師がいない。だから、百済国に言って戒を受けたいと思う」と言う。

 しかし、ほどなくして、丁未の年(587年)に百済国から客が訪れた。官が聞くには、「この三人の尼等は百済国に渡って戒を受けたいと思っております。どうしたら実現できるでしょうか」と。そのとき、百済の使者が言うには、「尼等が戒を受けるには、まず、尼寺のなかから十人の尼師に頼んで本戒を受けます。その後、法師寺に赴いて、十法師にお願いします。先の尼師十人と合わせて二十人の師から本戒を受けます。しかし、この国には尼寺しかなくて、法師寺も僧もおりません。尼等がもし法に則るとするならば、法師寺を設け、百済国の僧や尼等に来て貰い、戒を受けるがよいでしょう」と言う。そのとき、池辺天皇は、命をもって、大々王と馬屋門皇子の二柱に仰るには、「法師寺を建てるべき場所を見定めなさい」と。そのとき、百済の客が言うには、「我国では、法師寺と尼寺の間で鐘の音が交互に聞こえ、絶えることがありません。半月ごとに午前のうちに行き来出来るところに建てております」と。ときに、聡耳皇子と馬古大臣がともに寺を建てる場所を見定めた。丁未の年(587年)に、百済の客が本国に帰った。そのとき、池辺天皇が申すには、「まさに仏法を広めたいと思うが故に、法師等や寺を造る大工が必要となる。私は病気にかかっている。だから、早急に対処するように」と。しかし、使いが来る前に、天皇は崩御された。

 次いで、椋橋天皇(崇峻天皇)は、天下を治められていた戊申の年(588年)に、令照律師、弟子の恵聡、令威法師、その弟子恵勲、道厳法師、その弟子令契の六人の僧と、恩率首真等の四人の大工と、本堂の模型を送り奉った。いま、この寺に残っているのがこれである。そのとき、聡耳皇子が大々王の御前で申し上げた。「昔、百済国から法師と大工を派遣してほしいとお願いしたことがあります。これをどう対処いたしましょう」と。そのとき、大后大々王が仰られるには「いま述べたようなことは、いまの帝の御前で申し上げましょう」と。ときに、聡耳皇子は(いまの天皇の御前で)詳しくいま述べたことなどを申し上げた。そのとき、天皇が仰られるには「先の帝(用命天皇)のときに、願ったとおりにしなさい」と。ときに、三人の尼等が官に申し上げるには「但し、六人の僧が来ただけでは廿師にはなりません。だから、百済国に渡って戒を受けたいと思います」と。そのとき、官は、諸々の法師等に問うには「この三人の尼等が(百済国に)渡って戒を受けたいと思っております。このことについてどう思われますか」と。そのとき、法師等が答えたのは、先の(百済蕃客の)客人の申したのと同じで、異なるところがなかった。そのとき、尼等は「是非とも渡りたいと思っております」と申し上げた。そのとき、官は、派遣を許した。(尼等の)弟子の信善・善妙を含めた五人の尼等を遣わし、戊申の年(588年)に(百済国に)渡った。

 ときに、聡耳皇子が大后大々王の御前で申し上げた。「仏法を広めることを官は許されました。今後、如何に致しましょうか」と。そのとき、大后大々王は、聡耳皇子と馬古大臣の二柱に告げるには「今は、百済の大工に二寺を造らせましょう。しかし、尼寺はすでに述べたように建造されているから、法師寺を造るようにしなさい」と。ときに、聡耳皇子と馬古大臣の二柱は、共に法師寺を建てる場所に、戊申の年(588年)に仮の垣根と仮の僧房を造り、六人の法師等を住まわせた。又、桜井寺の中に家屋を造り、大工をそこに住まわせ、二寺を造るために寺院建築の骨組みとなる木組を作らせた。

 庚戌の年(590年)に、百済国より尼等が帰ってきて、官に申し上げるには「戊申の年(588年)に行き、己酉の年(589年)の三月に大戒(具足戒)を受け、今、庚戌の年に帰って参りました」と。また元のとおり、桜井寺に住んだ。ときに、尼等が申し上げるには「礼仏堂を急いで造るのが良いでしょう。また、半月ごとに白羯磨を行なうために、法師寺を急いで造って頂きたい」と。このようにして、桜井寺の中に堂があらまし造られるようになった。

 しかし、大々王天皇命が等由良の宮で天下を治められていたときの癸酉(癸丑?)の年(593年)に、聡耳皇子をお呼びになり、申し上げた。「この桜井寺は、私もそなたも忘れ去ることができません。牟都々々斯於夜座す弥与(御代)に仏法を始めた寺です。また重々しい後の天皇(欽明・用命両天皇)の大命を受けて造られた寺です。私たちが存命であってさえも、この寺はまさに荒れて滅びようとしています。斯帰嶋の宮で天下を治められていた天皇(欽明天皇)のためにも、(寺を)造り上げなさい。それならば、私たちは、この等由良の宮を寺にしたいと思う。だから、宮門へ遷して速やかに造りなさい。今すぐに、わが子よ、速やかにことに当たりなさい。私のためには、小治田の宮を造りなさい」と。また、「尼等が白羯磨を行えるように、法師寺を急いで造りなさい」と仰られた。ここに癸丑の年(593年)に、宮の中に(寺を)遷し入れて、先ず最初に金堂と礼仏堂等をあらまし造り、等由良の宮を寺にした。だから、等由良寺と名づけた。

 また、大々王天皇(推古天皇)が天下を治められたとき、天皇がお生まれになってから百年目の癸酉の年(613年)の春正月元旦に、善事を仰られた。同日、聡耳皇子が申された。「今、私どもの天朝の生年を数えると、まさに百の位に達し、道俗の法を並べて、世間では建興・建通と言います。密かに思うには、このようなことがどうして至徳ではないのでしょうか。仏法が最初にもたらされたとき、後宮は破られず、揩井に遷して、道場を作りました。そのとき、三人の女が家出しました。ときに、大いに喜びになり、その道場に住まわせて、仏法の兆しが生まれてきました。だから、元興寺と名づけました。その三人の尼等が、経典によると比丘の身で得度しようとするものは即ち比丘の身を現して説法を行なう、と言ったのは、このことをいうのです。今また、更に仏法が興って世に広まり、元興寺が建ちました。元の名は、だから、建興寺と名づけられていました。次ぎに、法師寺は、高麗・百済から法師等がたびたび訪れ、仏法を奏し、寺を建てて、建通寺と名づけました。皇后の帝の世に当たって、道俗の法を並べて、建興・建通と言います。だから、大影にましますことを知ることができるわけです。経典によると、王の後宮では、女身となって説法を行なうというのは、つまりこのことを言うのです。これによってこの国の機に相応することを知ることができます。だから、その徳義により、(天皇を)法興皇と名づけたいと思います。この三文字の名をもって、永く世に流布されるべきでしょう。このように、諸々の臣に申しておきたい」と。このように話し終わると、発願して申し上げた。「願わくは、三宝の頼を蒙うると、皇帝陛下、雨土とともにあり、四海が安らかで、正しい法が益々増えて、聖化の無窮にましまさんことを」と。

 そのとき、天皇は、すぐに座より起ち合掌され、天を仰いでこころから涙を流し、懺悔を発して述べられた。「私の現在の父母六親眷属(すべての血族)は、愚癡邪見の人に従って、三宝を破壊焼流し、奉るところの物を戻って取り壊した。しかし、今、私は、等由良の後宮を尼寺にし、山林・園田・池・封戸・奴婢等をさらに納め奉った。また敬って、丈六の二体(仏像)を造り、また自余の種々の善根を修めた。この功徳により、私の現在の父母六親眷属等が仏法を焼き流した罪と、奉るところの物を戻って取り壊した罪を、ことごとく購い除きたいと思い、弥勒に向かって、正法を聴聞し、無生忍を悟り、速やかに正覚を成し、十方の諸仏と四天等に、至誠心をもって誓願するのは、造り奉った二寺と二体の丈六をさらに破らず流さず滅ぼさず流さず裂かず焼かず、二寺に納める種々の諸々の物をさらに取らず滅ぼさず犯さずみだらにしないためである。もし私自身が、もし私の生んだ子供等が、もし疎他人等と、この二寺と二体の丈六を、凌げ軽しめ裂き焼き流すことがあったり、もしこの二体の丈六に納められている物を戻って取ったり、みだりにこのような事があれば、必ず、まさに種々の大きな災いや大きな羞を受けるべきだ。もし、仰信が高く、供養が恭しく、修治が豊かであるならば、三宝の頼を被ふり、身命は長く安らかに、種々の幸いを得て、万の事々は思いのままに、万世に絶えることはないだろう。私は既に定めて知り尽くした。尊きを誹謗し施しを奪えば、それぞれ、その災いを得るだろう。私は既にこれをあきらめ尽くした。ゆめゆめ三宝を軽ろんじてはいけない。三宝の物を犯すべきではない。堪えるに従って修行し、善く営みを捧げよう。願わくは、後嗣を引導し、後嗣の類はこの法の頼を蒙ふり、現在未来に最勝の安楽が得られるように。信心絶やさずにこの法を修行し、永世窮まりなければ、願わくは、一切の含識有形と共に、あまねくこの福と同じになり、速やかに正覚を成さしめんことを」と。

 このように誓い終わるや否や、大地が動揺し、雷が鳴り、すぐに大雨が降り、ことごとく、国内が清められた。そのとき、聡耳皇子と諸々の臣等は、共に天皇の所願を聞いた。

 ときに、聡耳皇子が諸々の臣等に語ってのべた。「伝え聞くところによると、君、正法を行ひたまわば、即ち随ひ行ひ、君、邪法を行ひたまわば、即ち慰め諌めむと。いま、我が天皇が、行ないたいと願っていることを見聞きしていると、この正しい行ないをしたいと願っているようだ。天下の万民は、ことごとく、(天皇に)随って行なうべきである」と。ときに、中臣連と物部連等をはじめとする、諸々の臣等は、心を同じにして、申し上げた。「いまから後は、三宝の法を、二度と破ったり、焼き流したり、凌げ軽ろしめたり、三宝の物を摂ったり、犯したりしません。いまから後は、左の肩に三宝が坐し、右の肩に我々が神坐して、並んで礼拝して尊重供養いたします。もしこの願がみだりに破られれば、まさに天皇の所願のように、種々の大きな災いを被ることになりましょう。仰ぎ願わくは、この善願の功徳によって、皇帝陛下が日月とともにあり、天下が安らかになり、後嗣が頼を蒙ふり、世時が異なっても得益が異なることのないように」と。

 ときに、聡耳皇子は、この言葉を聞き終わると、つまびらかに天皇に申し上げた。そのとき、天王は、讃めて仰られた。「善いことだ。私もまた非常に喜ばしい」と。ときに、聡耳皇子をお呼びになり仰られた。「そのことをつまびらかに知り、私が治めているときに、仏法が起こり、ついで元興寺・建通寺等が建立される様と、私の発願をつまびらかに詳しく記するようにしなさい」と。また、仰られるには、「刹の柱が立っているところと、二体の丈六が作り奉れるところは、けがし汚すことのないように。また、ひとが住んでけがすことのないように。また、この諌めを破り、法を犯すものがあれば、前願と同じく大きな災いを受けることになろう」と。いわゆる刹の柱が立っているところとは、宝欄の東、仏門のところである。いわゆる二体の丈六を作ったところとは、物見の岡の北の方か。地の東に十一丈の大殿がある。銅の丈六を作って奉った。西に八角の円殿があるのは、繍で仏像を作り奉ったからである。

 池辺列槻宮で天下を治められた橘豊日命(用命天皇)の皇子、馬屋門豊聡耳皇子が、桜井等由良の宮で天下を治められた豊弥気賀斯岐夜比売(推古天皇)がお生まれになってから百年目の癸酉(613年)の正月元日、吉事を啓聞す日に、(推古天皇の)勅を受けて諸事を記して奉る。大々王天皇は、勅で、私を沙弥善事と称された。前の二寺および二体の丈六に伝わる衆物を、むさぼり盗ろうとする悪人には、この文を授け写して開示してはならない。もしこの文を滅ぼし、もし違えて乱れるならば、二寺もまた滅びることを知るべきである。汝ら三師、堅く受けて持つようにしなさい。
 厳順法師・妙明法師・義観法師。

 難波天皇(孝徳天皇)の世の辛亥の年(651年)に、塔の露盤の銘をお授けになった。
 大和国の天皇、斯帰斯麻の宮で天下を治められていた阿米久爾意斯波羅岐比里爾波の弥己等(欽明天皇)の世に仕え奉っていた巷宜伊那米(蘇我稲目)が大臣であったとき、百済国の正明王(聖明王)が申し奉った。「万法のなかで仏法が最上のものである」と。ここに、天皇と大臣がこれをお聞きになって、「良いことだ。仏法を受けて倭国に造りたてよう」と。しかし、天皇と大臣等は、報いの業を受けて尽ててしまわれた。

 だから、天皇の娘で、佐久羅韋(桜井)等由良の宮で天下を治められた、等已弥居加斯支夜比弥の弥己等(推古天皇)の世と、その甥である有麻移刀等已刀弥々の弥己等(馬屋門豊聡耳命)のときに、仕え奉った巷宜有明子(蘇我馬子)の大臣が領となり、諸々の臣等と、讃えて言うには、「魏々たり、善いことだ、善いことだ」と。仏法を造り立てたのは、父の天皇、父の大臣である。つまり、菩提心を発し、十方の諸仏、衆生を化度し、国家太平となることを誓願して、敬って塔廟を造り立てまつった。この福力により、天皇、大臣と諸々の臣等の過去七年の父母、広く六道四生の衆生、生々処々十方浄土に及ぶまで、あまねくこの願に因り、皆仏果を成し、以て子孫、世々忘れず、綱紀を絶つことのないように、建通寺と名づけた。

 戊申の年(588年)に、初めて百済の主、昌王(聖明王)に法師と諸仏等を求めた。だから、釈令照律師・恵聡法師・鏤盤師将徳自昧淳・寺師丈羅未大・文買古子・瓦師麻那文奴・陽貴文・布陵貴・昔麻帝弥を遣わし上った。作り奉ろうとする者は、山東漢大費直の麻高垢鬼と意等加斯費直である。書人は百加博士と陽古博士である。丙辰の年(596年)の十一月に終わった。そのとき、作金せしめた人等は、意奴弥首辰重、阿沙都麻首未沙乃、鞍部首加羅爾・山西首都鬼である。この四人の首を将として、諸々の人により作り奉られたものである。

 丈六の光銘によると、天皇広庭(欽明天皇)は、斯帰斯麻の宮にいらっしゃるとき、百済の明王(聖明王)が申した。「臣が聞くところによると、いわゆる仏法は既に世間無上の法である。天皇もまた修行されるべきです」と。仏像・経教・法師を捧げ奉った。天皇は巷宜伊那米(蘇我稲目)の大臣に詔し、この法を修行させた。このように、仏法は初めて大倭に建てられた。広庭天皇の子、多知波奈土与比天皇(用明天皇)は、夷波礼の池辺の宮にで、みこころのまにまに広く慈び、ますます三宝を重んじ、魔眼を捐棄して仏法を紹ぎ興された。その後、妹の公主の、止与弥挙奇斯岐移比弥天皇(推古天皇)が、揩井等由良の宮で、池辺天皇の志しを紹盛なさり、また、三宝の理を重んじなされ、池辺天皇の子である等与刀弥大々王(推古天皇)と巷宜伊那米の大臣の子である有馬子の大臣が、道を聞こうとする諸々の王子に緇素を教え、百済の恵聡法師、高麗の恵慈法師、巷宜有馬子大臣の長男である善徳を領として、元興寺をお建てになった。

 (推古)十三年(605年)乙丑の四月八日戊辰に、銅二万三千斤、金七百五十九両を以て、敬って尺迦(釈迦)丈六像、銅・繍の二体と、狭侍を造り奉った。高麗の大興王は、方に大倭と睦み、三宝を尊重し、遥かにいたく喜び、黄金三百廿両を以て、大福を助成し、同心結縁し、この福力を以て、亡くなられた諸々の皇より、あまねく含識に至るまで、信心を保って絶やさず、目の当たりに諸仏を仰ぎ、ともに菩提の廊に登り、速やかに正覚を成そうと願った。
 戊辰の年(608年)に、大隋国の使主、鴻濾寺の掌客、裴世清、使副、尚書祠部主事、遍光高等が来て、奉った。

 明くる年己巳(609年)の四月八日甲辰に造り終えて、坐せ奉った。(訳了)

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現代語訳というより、「てにをは」を単に現代語的に変えただけになってしまったが如何でしたでしょうか。再度読み直してみて、「官」というのが一体誰なのか。また推古天皇が生まれてから百年目に推古天皇の勅により発願を記したというのをそのまま受け取ると、推古天皇は百歳以上生きたことになる。・・元興寺の謎は尽きない。尚、誤訳があっても一切責任は負いませんので、あしからず。

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8.綾羅木遺跡と弥生の土笛

 昭和44年3月8日土曜日、午後六時半過ぎのこと。自動車エンジン部品などの鋳型材料に用いられる珪砂を取るために、山口県下関市の砂採取業者である瓢屋がブルドーザー十台を出動し、県下の弥生遺跡・綾羅木町郷台地遺跡を掘り返し始めた。遺跡調査を進めていた下関市教育委員会の職員や調査を委託された国分直一教授ら考古学者や学生らの制止を振り切り、何と一夜の破壊行動により一万七千平方bもの遺跡がなくなった。この事件は新聞やテレビ・ラジオでも取り上げられ、文化庁も3月11日には異例の史跡の緊急指定を決定し、残る遺跡を守ることができた。当時の状況は当日の新聞記事を参照していただきたいが、現場の緊迫した状況がよく分かる。

 かねてから、業者は「採掘を妨げる行為があれば、台地全体を蹂躪する」と発言していたという。また、事件直後には「史跡に指定されれば珪砂採掘はできなくなる。指定を不可能にするため遺跡を徹底的に破壊した。文化財の保存より産業開発が優先する」と豪語したという。

 前年には史跡指定の計画案も作成され、秋にはその実現も期待されていたが、「採砂業者との契約に縛られた土地所有者から史跡指定に対する同意が得難いことと、指定を強行すれば、設備投資をした業者から莫大な損害賠償の訴えを受けることが予測され、現行の文化財保護法では敗訴となる可能性があることを慮って、指定は実現しなかった」(『綾羅木郷遺跡・発掘調査報告第一集』)

 文化財保護が叫ばれている現在では考えられないことだが、貴重な遺産の多くをなくしてしまったことは取り返しのつかないことだけに残念でならない。もし、綾羅木遺跡全体が破壊されることなく調査されていたら、歴史を覆すような発見もあったかもしれない。その後に実施された残存状況調査で「予想を下回って被害の少ないことが確認された」というのが救いである。

 業者との騒動だけが印象に強いが、綾羅木遺跡は西日本最大の弥生遺跡であり、日本で初めて土笛「陶ケン(とうけん)」が見つかったところで有名である。陶ケンは、6〜8センチの小さな卵型の土器で、上に吹口があり、側面にいくつか小さな指孔(前面に4つ、背面に2つ)が空いている。綾羅木遺跡では、6例が確認されているが、その後の調査で、松江市西川津町字橋本のタテチョウ遺跡で2例、丹後の蜂山町杉谷の扇谷遺跡と同町長岡の途中ヶ丘遺跡で1例ずつ、また静岡県伊場遺跡からも1例見つかっている。

 この陶ケンというのは、武智鉄二氏によると「古代中国の民族楽器で、後に民族音楽家孔子が、礼楽の楽器として採用されて」おり、「殷墟(中国安陽付近・侯家荘小屯)からは、綾羅木の笛と同じ形式の陶ケンが発掘されて、出土している」という。殷王朝が滅亡したのが、BC1050年頃。一方、綾羅木の弥生遺跡の年代は、「古代磁気法」で紀元0年±50年と証明されいている。武智氏は、

  貝塚茂樹氏の著『古代殷帝国』の中で、殷の滅亡後、華中の地から 民族移動を開始した農耕民族の一団が、河北(北京付近)を経て白河(パイ川)流域を開拓しつつ、約一千年をかけて渤海湾沿岸に達するという指摘がなされている。
  農耕民族の移動の速度は、騎馬民族と違って、たいへん緩慢なので ある。そうして華中河北地方で集約農耕を体験しつつ渤海湾に達した 殷系の民族(華夏民族)が、遼東半島から海を渡ったとすれば、殷と綾羅木との間の、一千年の空間は消滅してしまう。

という。

 氏は、海岸線近くの綾羅木の台地が「米作、それも水田稲作を目的とするには、やや土質も悪く、水利も不便そうで、その目的だけで、この台地が弥生人の住居に選ばれたとは、にわかに信じられない」が、「眺望のよい点では、この台地にまさる台地は、そういくらもあろうとは思えない」とし、「住居であると同時に、城塞として選ばれたのではないか」と推理している。綾羅木の「木」も「城」を意味していたのでないか。

 氏の『古代出雲帝国の謎』では、この綾羅木の土笛をもとに氏独自のユニークな議論を展開しているが、そのユニークさが災いしてまともに取り上げられることなくきてしまったような気がする。(たとえば、邪馬台国は「邪馬壱国」が正しく、魏の当時の音では「サバイ」と読み、現在の福井県鯖江地方に当たるとか)

 しかし、綾羅木の土笛を歴史的な流れの中で考察したのは、武智氏のみであり、関祐二氏の「九州王朝」と「出雲王朝」の対立の図式の上でどう位置付けられるか、興味のあるところである。

 なお、綾羅木遺跡の出土品は、現在、次の施設で見られるとのこと。機会があったら是非訪れてみたい。

1.郷台地資料館(下関市大字横町53、TEL0832(58)0724)
2.下関市考古館(下関市唐戸4-11、TEL0832(31)1238)
3.下関市考古館安岡資料室(下関市大字横町53、0832(58)0724)

[参考文献]
1.下関教育委員会「綾羅木遺跡・発掘調査報告第一集」1981年3月
2.国分直一・伊東照雄他「弥生の土笛」赤間関書房、1979年
3.武智鉄二「古代出雲帝国の謎」祥伝社、1985年

[資料]

1.読売新聞、昭和44年む3月10日(月)

  西日本一の弥生遺跡
   掘りくずしを強行
    ベトナム戦で輸入を中断
     硅砂ほしさの業者

[下関]西日本最大の弥生式遺跡といわれ発掘調査中の山口県下関綾羅木町、郷台地遺跡に八日夜、砂採取業者のブルドーザー十一台がはいり遺跡のほとんどをめちゃくちゃに掘り返した。業者は遺跡指定による砂採取中止を恐れてやったもので、市がすでに文化庁に史跡指定を申請、今月中に文化財保護審議会にかけられる矢先だっただけに地元の郷土史家、一般市民の間に失望と怒りの声が上がっている。
 同日午後七時すぎ、郷台地の砂採取権を持つ同町、瓢(ひさご)屋下関営業所(渡辺重弥所長、本社名古屋市)のブルドーザー群が同台地の未調査地域にはいり、深さ一−三bにわたって掘り返し始めた。このことを知った市教委や地元の郷土史会員ら約二十人がかけつけ作業員に中止を申し入れたが聞き入れず、約三時間で約一万八千平方bにわたり掘り返し、砂を山積みにしてひきあげた。あとには遺跡のツボとみられる土器片などがたくさんころがっていた。
 同台地の広さは約三十万平方b。標高十八b前後で、このうち十万平方bにおよぶ地域に縄文、弥生、古墳時代の遺跡が重層しており、中でも弥生時代のピット(穀物貯蔵用のたて穴)群は西日本でほかに例のないほど規模が大きい。
 ところが台地下層の古い砂は純度の高い硅砂で、鋳物工業の型取り用には欠かせないもの。ベトナム戦争で硅砂の輸入がストップしたため瓢屋は同台地を硅砂採取地として目をつけ地主と採取契約を結び以後弥生砂≠フ名称で鋳物業者に供給されてきた。
 同台地がつぶされることを知った市教委はあわてて当時の下関水産大学校の国分直一教授(考古学担当)に調査を依頼、考古学を研究している学校教諭や下関市立大生らが中心となって同年七月から発掘調査を始めた。市教委は史跡保存について地主や業者と再三にわたり協議したが、地主側は史跡指定になると現状変更ができなくなるため反対の意向を示し、指定の申請も昨年十月まで延びた。
 このため発掘調査はいつもブルドーザーに追いたてられる格好で行なわれてきた。これまで五次にわたり同台地の西半分の調査を終ったが、無数の土器や石器が出土、中には日本でも初めての土笛(卵型、直径六・五a)、土器を焼いたカマ跡なども見つかった。
 市教委は台地の北側にある若宮古墳(前方後円墳)を中心に史跡指定後に直ちに遺跡公園をつくる計画で青写真までつくったが、今度の騒ぎで遺跡はほとんど壊滅したとみており、今後の対策について十日文化庁から来る技官の調査結果を待って検討する。

2.読売新聞、昭和44年3月11日(火)夕刊

  破壊される「郷台地」
   「緊急史跡」に指定
     文化庁、けさ異例の告示

 文化庁は十一日、業者が地元民の反対を押し切って弥生時代の重要遺跡を国の史跡に緊急指定、ただちに告示した。同庁が古代遺跡の破壊阻止にこのような非常措置をとったのは例のないことで、全国各地で問題化している開発と保存の対立に警鐘となりそうだ。
 今回緊急指定の対象となったのは、同遺跡の中央から北半分にかけての地域約三万三千平方b。この指定によって、こんご業者は現状変更申請を出さない限り、遺跡に手をつけられなくなるが、同申請が認められる可能性はなく、また無断で工事を進めれば懲役五年以下の罰則規定の適用を受けるので、事実上の工事ストップ命令となる。文化庁はこの指定と並行して同日、警察庁へも連絡、現地での警戒をも要請した。
 同遺跡は弥生時代の一大遺跡で四十年度から国の補助金も加えて地元大学、市教委の手によって発掘調査が行なわれ、これまでに竪穴住居跡、わが国ではじめての土笛、土鐘など多数の貴重な遺跡が発掘されている。市からは昨年十月、史跡指定の申請が文化庁に出され、同庁は今月二十日に史跡指定をする予定だったがその矢先のさる八日から九日にかけて、業者がブルドーザー十台で指定予定地であった中心部(約七千三百平方b)を掘り起こし、重要な遺跡を多数破壊、十日も文化庁の中止要請を無視して、ブルドーザーを動かしていた。
 遺跡のある台地は、材質の優秀な珪砂(ケイシャ)があるため、業者にとっては大きな魅力で、とくにベトナム戦争で、これまで輸入されていた南ベトナム・カムラン湾の珪砂が輸入されなくなったため、この遺跡台地の破壊活動がひどくなったといわれる。

 内山文化庁文化財保護部長の話
「業者のやり方があまりにも世論を無視し、文化財保護を軽視したやり方であるため、やむを得ず前例のない緊急指定にふみ切った。こんごも文化財保護の立場から強い態度をとる考えだ」

 採掘業者の田中正重・瓢屋下関営業所営業課長(50)の話
「文化庁や市からまだ連絡を受けていないが、もし国の文化財に指定されたとしたらやむを得ない。しかし民主主義の世の中で業者のいい分も聞かず、一方的に国権を発動、弾圧するのは理解に苦しむ。国は大企業を保護しても、われわれ小企業はどうでもいいというのか」

 指定の知らせに歓声

[下関]史跡指定決まる――の知らせが郷台地にとどいた瞬間、つめかけていた下関市始原文化研究会、郷土を守る会の人たちから「もうこれ以上荒らされずにすむ」と歓声があがった。午前十一時ちょうど。肩をたたき合う学生。だれかれとなく握手する市教委職員。さる八日いらい一睡もせず、遺跡を守ろうとつめかけていただけに、この感激はひとしお。荒れはてた遺跡の上で喜びがいつまでもくりひろげられた。
 この朝も、ただ一ヵ所残された若宮古墳の攻防をめぐって、ブルドーザー二台を出動させ作業を強行した砂採取業者と市教委、考古学関係者が対立。下関署から三千人の警官が出動し、警戒に当たるという緊迫した空気だっただけに、史跡指定のニュースは郷台地の重苦しい空気をいっぺんに吹き飛ばした。
 なお下関署は、郷台地遺跡が史跡に指定されたため、当分の間、警官を派遣、警戒に当たる。

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9.二朝並立論

 ここで言う「二朝並立」とは、継体天皇病死後、欽明天皇の王朝と安閑・宣化天皇の王朝の二王朝が出現し、持統天皇のころまでその状態が存続した、というひとつの仮説のことである。教科書では、継体天皇死後、安閑・宣化・欽明と続くのだが、『元興寺縁起』などの資料と正史『日本書紀』を比較すると、この時期の年代(干支)の記述に不合理な点が見うけられる。百済の聖明王が仏像と経論を朝廷に贈り、仏教が公伝したのは戊午の欽明七年十二月のことだと『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』は言うが、『日本書紀』の記述に従うと、それが宣化二年(538年)のこととなってしまうのである。
 このことから即「二朝並立」が存在していたとは言えないが、継体天皇誕生の謎とからめて考えると、実は・・・と思いたくなるのである。『日本書紀』の継体紀の最後に次のような記述がある。

  或本に云はく、天皇、二十八年歳次甲寅に崩(かむあが)りましぬと いふ。而(しか)るを、此に二十五年歳次辛亥に崩りましぬと云へる  は、百済本記を取りて文を為れるなり。其の文に云へらく、太歳辛亥 の三月に、軍進みて安羅(あら)に至りて、乞G城(ぼくとくのさし)を 営る。是の月に、高麗、其の王安(こしきあん)を弑(ころ)す。日本の 天皇及び太子・皇子、倶に崩薨(かむさ)りましぬといへり。此に由り て言へば、辛亥の歳は、二十五年に当る。後に勘校(かむが)へむ者、 知らむ。

 継体天皇が病に倒れたと記す『日本書紀』のこの注は奇妙だ。病死だというのに、百済の史書では当時の日本の天皇と太子・皇子が殺されたという。しかも、「後に勘校へむ者、知らむ(後の者、検討せよ)」と謎めいた言葉を残している。当時『書紀』を編纂したひとが分からないで、どうして後の者が分かるというのだろう。『書紀』の記述者の良心がこの注を書かせたのか。

 ともかく、継体天皇の時代に起こった国造筑紫君磐井の叛乱を考えると、国内に異変が起こり、天皇が暗殺されたとも考えてもおかしくはない。
 応神王朝最後の王・武烈天皇が崩御された後、跡を継ぐべき皇子がなく、当時の朝廷の権力者・大伴金村が「応神天皇五世の孫」と伝える男大迹王を越前の三国(福井県坂井郡)より迎え入れて、継体天皇が誕生された訳だが、大和の聖地・磐余(いわれ)に宮を置くまで、なんと20年もの歳月がかかっている。「応神王朝」から「継体王朝」へ王朝の交替があり、継体王朝誕生後も不穏な空気が流れていたとも想像できる。

 二朝並立論はこれらの状況を説明するために考え出されたものだが、喜田貞吉氏や林屋辰三郎氏の研究から始まったという。喜田氏は「継体帝崩年」をめぐる疑問からその当時、二つの朝廷が並立して存在していたとの仮説を発表し(昭和3年)、林屋氏は、継体天皇を「暗殺」したのは、対抗勢力である欽明派の領袖の蘇我氏であったと戦後発表した。

 その後、この説をもとに「二朝並立論」を唱えたのが、ぼくがよく引き合いに出す高野勉氏である。氏の『聖徳太子暗殺論』はその書名がわざわいして、ほとんど無視されてしまっているが、これは誰かが聖徳太子を暗殺した、という話ではなく、「聖徳太子の実像」が史書を改竄することにより隠蔽されていることを「暗殺」といっているのである。

 農耕民族王朝である「継体王朝」と騎馬民族王朝である「欽明王朝」の二朝が並立していたと見る高野氏は、前者を「北陸王朝」、後者を「旧王朝派」と呼んでいるが、

 <北陸王朝>
   安閑→宣化→敏達→用明→推古→(古人)

 <旧王朝派>
   欽明→崇峻→(空白)→舒明→皇極→孝徳→斉明

 の二朝が並立していたとみる。
 在位2年で亡くなった安閑天皇と在位4年で亡くなった宣化天皇が実はほぼ欽明朝と匹敵する期間、朝廷を治めており、推古天皇は孝徳天皇の頃まで存命していたという。『書紀』の推古前紀には、推古女帝の生涯を「記年ではなく年齢で」次のように記している。

(1)推古18歳−敏達天皇の皇后となる。[敏達五年] (578年)
(2)推古34歳−敏達天皇と死別           (592年)
(3)推古39歳−崇峻天皇が暗殺され皇位を継ぐ    (597年)
(4)推古75歳−推古天皇、崩御される        (628年)

 しかし、高野氏は、推古天皇即位時の「姿色端麗(みかおきらきら)しく、進止軌制(みふるまいおさおさ)し」という『書紀』の記述から、女帝の実際年齢は10歳程度若く、


(1)推古18歳−敏達天皇の皇后となる。[敏達五年] (586年)[用明元年]

(2)推古24歳−崇峻天皇が暗殺される        (592年)[崇峻五年]
(3)推古29歳−用明天皇が崩御し皇位を継ぐ     (597年)[推古五年]
(4)推古75歳−推古天皇、崩御される        (643年)[皇極二年]

 と考えている。推古天皇は祭祀のみを執り行い、政治はすべて「聖徳太子」が取り仕切っていたという。ここでいう「聖徳太子」は厩戸皇子のことではなく、蘇我馬子の嫡男であり法興寺(後の元興寺)の寺司である「蘇我善徳」のことである。「蝦夷」「入鹿」と穢名で呼ばれた蘇我氏も、この善徳だけは異なる。しかも、「聖徳」と「善徳」と名前も似ている。『書紀』には一度しか登場しない「蘇我善徳」だが、『元興寺縁起』の「馬屋戸皇子」とも重なる。何と『元興寺縁起』では、「馬屋戸皇子」と推古天皇が「法師寺を作る処を見定めよ」と述べ、聡耳皇子と蘇我馬子が実際に場所を探しに行ったと記述されているのである。馬屋戸皇子と聡耳皇子は別人と考えないとどうも『元興寺縁起』の記事は理解できないのである。しかも、馬屋戸皇子は推古天皇と同等の立場にいる。そして、「旧王朝派」の中大兄皇子と中臣鎌足に殺害された「蘇我入鹿」は、実はこの善徳のことだったという。「馬屋戸皇子=蘇我善徳=聖徳太子=蘇我入鹿」が高野氏の結論であり、「蘇我氏=悪」という図式は「旧王朝派」が作った作り話であり、自分たちの悪逆な行動を正当化するために、蘇我入鹿を捏造し、悪者に仕立て、蘇我入鹿と別人の「聖徳太子」を作り上げた。

 氏の『聖徳太子暗殺論』にはさまざまな「状況証拠」が書かれているが、この小論では説明が難しい。興味のあるひとは是非この本を読んでほしい。

 高野勉氏だけなら「変わった意見だな」程度で済んでいたと思うが、新進気鋭の歴史作家である関祐二氏も同様の考えを発表しており「もしかしたらこれが真実では・・・」と思えてくる。

 関祐二氏のデビュー作『聖徳太子は蘇我入鹿である』がそれだが、これを皮切りに数多くの本を書き、卑弥呼の時代までさかのぼる雄大な「二朝並立論」を展開している。

 高野勉氏が、継体王朝を「農耕民族」、旧王朝派を「騎馬民族」と見ているのに対し、関祐二氏は、継体王朝を「縄文人国家=先住民国家=出雲王朝」、旧王朝派を「弥生人国家=渡来人国家=九州王朝」と呼んでいる。
 旧王朝派が渡来人であるとの考えは両者一致しているが、継体王朝=農耕民族、弥生人=農耕民族、と見るところが異なる。騎馬民族が日本を支配したとの江上波夫の説は最近では否定されてきており、その点では、関氏の方が正しいと言える。また、高野氏は、農耕民族は温和で、騎馬民族は交戦的だというが、関氏によると、農耕民族の方が交戦的だという。『縄文人国家=出雲王朝の謎』では、

  ひとつには、狩猟民族の場合、食料を生産するのではなく、あくま で自然界からおこぼれを頂戴しているという意識があった。すなわち、 自分たちの採り分を守ってさえいれば、生活を維持することができた。 だから、人々は縄張りを設定し、お互いにそれを侵そうとはしなかっ た。この原理に背くことは、すなわち自滅への道を歩むことを、彼ら は本能で知っていたのである。
  一方、稲作民族の場合、まず前提がちがった。つまり、彼らは何も ないところから土地を耕し、作物を栽培しなければならなかった。だ から、彼らは、まず、出来る限りの土地を必要としたのである。さら に、農耕を進めるにつれ、食料事情は向上し、子孫が増える。すると また土地を耕す。するとまた子が増える・・・。といったように、膨 張することが宿命であるかのように、農地を広げていかざるをえない のが、稲作民族であった。そこで土地の奪い合いがおきるのは、むし ろ当然のことなのである。

 という。

 高野勉と関祐二、細部では異なるが、「蘇我善徳=聖徳太子」で「継体王朝=平和的」で「旧王朝派が交戦的」で「旧王朝が返り咲いて現皇室に繋がっている」といった基本的な事項は完全に一致している。しかも、上述の各王朝の流れも一致している。関氏が高野氏の本を参照していた形跡はなく、独自の研究の成果と言える。だとすると、かなり信憑性のある「仮説」といえるのではないだろうか。

 関氏は、すでに「聖徳太子」を離れ、「神功皇后=賀夜奈留美=もうひとりの卑弥呼」(つまり卑弥呼は二人いた)との説を立てて、耶馬台国と大和朝廷との繋がりまで話を進めている。また、壬申の乱で勝利をおさめた天武天皇が古人大兄王であったとの仮説も提示している。

 教科書に毒された教養人や歴史学者には苦々しく思われるかもしれないが、歴史上の疑問を説明する一つの仮説として検討の余地があるのではないだろうか。遠山美都男氏の『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』のような歴史学者からの解答も、高野氏や関氏の本と比べると、ほとんど疑問に答えてくれていない。『日本書紀』を疑ってかかることが必要である。歴史は時の権力者の都合の良いように作られがちだからである。

 奈良朝後期に、淡海三船が歴代の天皇の漢風諡号を選定した。壬申の乱で敗れた大友皇子の孫であった三船王が臣籍に下って淡海三船となった。壬申の乱がなかったら歴代の天皇のひとりとなっていたかもしれない。かれが時の朝廷に反逆の思いを抱いていたとしても不思議はない。以下は高野氏が解釈した漢風諡号である。

 <神武> − 武を以って神に対したる者(神とは国ツ神、大和の地の祖神)
        騎馬民族の来襲による祖神の没落
 <崇神> − 神に祟られた大王
        乱後の、悪疫の蔓延、農産の壊滅、民衆の逃散・騒擾
 <応神> − 神に順応せしもの
        民意に応じた偉業
 <神功> − 神に対し功あるもの
 <武烈>より<継体> − 「武烈」より「継体」への時代の転移は、<武の裂>によって騎馬民族の支配体制が挫折し、農耕国家体制に継がれたこと
 <推古> − <古人を推す>即ちこの女帝が舒明を皇祚したのではない
 <皇極> − <継体皇統の終極>即ち北陸王朝の挫折
 <斉明> − <明を斉らす>即ち旧王朝派の再登場

 これを見ると、淡海三船は事態をかなりよく理解していたのではないだろうか。
 関氏は、古人大兄皇子が天武天皇であり漢皇子(=中大兄皇子の兄)とも言っている。これが正しいとすると、天武天皇は「継体王朝」の天皇であるから、持統天皇の即位は、天智天皇(=中大兄皇子)系、つまり「旧王朝派=九州王朝」の復活を意味すると言える。

[参考文献]
1.高野勉「聖徳太子暗殺論−農耕民族と騎馬民族の相克−」光風社出版、1985年
2.関祐二「聖徳太子は蘇我入鹿だった」フットワーク出版、1991年
3.関祐二「天武天皇・隠された正体」KKベストセラーズ、1991年
4.関祐二「謀略の女帝・持統天皇」フットワーク出版、1992年
5.関祐二「縄文人国家=出雲王朝の謎」徳間書店、1993年
6.関祐二「ヒミコは二人いた−古代九州王朝の陰謀−」新人物往来社、
 1993年
7.関祐二「聖徳太子はだれに殺されたのか」学習研究社、1993年
8.関祐二「謎の出雲・伽耶王朝」徳間書店、1995年
9.関祐二「継体東国王朝の正体」三一書房、1995年

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10.上宮王家の実像


 皇極二年(643年)に、蘇我入鹿が聖徳太子の嫡男である山背大兄王一族を斑鳩寺に自害に追い込んだ事件に関し、『日本書紀』は「蘇我臣入鹿、獨り謀りて、上宮の王等を廃てて、古人大兄を立てて天皇とせむとす」と述べるが、『聖徳太子伝補闕記』には蘇我蝦夷、蘇我入鹿、軽皇子(後の孝徳天皇)、巨勢徳太古臣、大伴馬甘連公、中臣塩屋枚夫ら6名が鳩首会議を開いたことが記録されており、『書紀』には何故か入鹿一人を悪人に仕立てあげ、この山背大兄王を実際以上に美化しようとしている節がある。

 不思議なことに、『書紀』には、山背大兄王が後に「聖徳太子」と呼ばれる上宮の豊聡耳皇子の嫡男であるとは、どこにも明確に述べてられていない。ただ、「上宮の王」と呼ばれ、「斑鳩宮」に住んでいたという状況証拠が述べられているだけである。さらに、『上宮聖徳法王帝説』では「聖徳太子が大臣馬子の娘・刀自古郎女を娶り、生まれた児が山背大兄王である。この王には賢しく尊き心があり、身命を捨てて民を愛んだ。後の人、父の聖王と相い濫(みだ)ると云うは、非(よくもあら)ず」という。つまり、後の人の中には、聖徳太子と山背大兄王が実の親子ではないと疑っているひともいるが、それは良くないことだというのだ。

 山背大兄王は、「斑鳩寺」に追いつめられると、三輪文屋君等の軍將に対し「吾、兵を起こして入鹿を伐たば、其の勝たむこと定(うつむな)し。然るに一つの身の故に由りて、百姓(おほみたから)を残(やぶ)り害(そこな)はむことを欲りせじ。是を以て、吾が一つの身をば、入鹿に賜ふ」と言うと「終(つい)に子弟・妃妾と一時に自ら経(わな)きて倶に死せましぬ」という。「吾が身」とは言いながら、妻子をや孫を20人も道連れにしている。

 百姓に害が及ばないように自ら死を選んだのは、聖徳太子の嫡男らしいと言えなくもないが、この事件の発端となった田村皇子との間の「推古天皇の後継者争い」の経緯を読むと、山背大兄王が実は非常に権力志向の強い自己中心的で強引な人間のようで、どうも死に際に語った言葉と合わない。「実の親子でない」との噂が出て当然だと思うが、皆さんはどう感じるだろうか。

 山背大兄王の強引なところは、どこか欽明天皇と小姉君との間に生まれた子息等の強引さとも似ている。聖徳太子の母は、この二人の間に生まれた泥部穴穂部(間人)皇女だが、この兄弟姉妹は皆暗い運命を辿っている。長男の茨城皇子は、欽明天皇と堅塩姫(推古天皇の姉)の娘で伊勢大神に仕えていた磐隈皇女を犯し、そのため磐隈皇女は斎宮の任を解かれてしまう。三男の泥部穴穂部皇子は用明元年(586年)に天下を取ろうと敏達天皇の殯宮に押し入り、推古天皇を犯そうとし、その邪魔だてをした三輪君逆を物部守屋に殺させる。しかし、結局、用明二年(587年)、馬子の追手に殺される。(このとき殺された宅部皇子は長男の茨城皇子とも考えられる。)また、四男の泊瀬部皇子は用明天皇の後を継ぎ崇峻天皇となった(588年)が、献上の猪を見て「何の時か此の猪の頚を断るが如く、朕が嫌しとおもふ所の人を断らむ」と口をすべらしたことにより、蘇我馬子大臣の遣わした東漢直駒により殺される。崇峻天皇は殯の儀式もされぬまま、即日、墓穴を掘られ埋葬されてしまう。天皇が家臣に殺されるのも異常だが、天皇が即日のうちに埋葬され、犯人の蘇我馬子が何等おとがめも受けずに済んだのは、どうも蘇我馬子よりも崇峻天皇の方に問題があったような気がしてならない。

 二朝並立論によると、欽明朝と安閑・宣化朝は同時に存在したという。確かに、『元興寺伽藍縁起并びに流記資材帳』では欽明七年が戊午の年となっているが、『書紀』では戊午の年は欽明天皇の時代にはなく、宣化三年(538年)のこととなってしまう。もし、このころ、二朝並立の状態が続いていたのだとしたら、欽明天皇と小姉君の子息による強引な行動も「九州王朝」が「出雲王朝」へ入り込もうとする強引な行動ととれなくもない。

 崇峻天皇は蘇我馬子の娘の河上娘を妃としていたが、天皇の死後、東漢直駒が盗み出し妻にしてしまったために、馬子は駒を殺したと『書紀』では述べられている。河上娘については「死去(まか)りけむと謂(おも)ふ」と微妙な言い回しをしている。

 高野勉氏はその著『聖徳太子暗殺論』の中で、この「河上娘」が、豊聡耳皇子の妻の一人の刀自古郎女であり、その子の山背大兄王は、崇峻天皇の忘れ形見ではないかと推理している。(「刀自」とは夫を亡くした女性のことを言うし、「古」は年嵩を示している)

 これが正しいとすると、山背大兄王は、「九州王朝」の再興を祈って、入鹿(蘇我馬子の嫡男の善徳のことで、聖徳太子の実像であるとの関裕二説を採っている)を暗殺しようと画策し、それが露見したがために、蘇我蝦夷等に殺されたとも考えられる。

 一般に聖徳太子と思われている「豊聡耳皇子」は、「九州王朝」の欽明天皇と小姉君との間に生まれた泥部穴穂部皇女と用明天皇との間に生まれた、一介の皇子に過ぎない。用明天皇は「出雲王朝」の天皇だから、彼女を妃として置いたかどうかも疑問である。梅原猛氏の調査では、丹後半島の西端に近い「間人村」(たいざむら)という寒村に古代からの「伝誌」があり、間人皇女(泥部穴穂部皇女)が世を避けるため「御退滞」されたことが明らかにされているという。おそらく、「九州王朝」の娘を妃にするわけにいかず、丹後半島のこの地に幽閉していたのかもしれない。

 実際の聖徳太子(蘇我善徳)は、豊聡耳皇子が亡くなったと言われる推古三十年(622年)以降も生き続け、大化元年(645年)の乙巳の変で、中大兄皇子と中臣鎌足に暗殺される。

 一方、上宮王家と呼ばれる豊聡耳皇子の一族は、入鹿(善徳)暗殺の陰謀が発覚し、皇極二年(643年)に蘇我蝦夷等によって「斑鳩寺」にて殺される。

 山背大兄王が「九州王朝」のものだとすると、聖徳太子(蘇我善徳)の地上の理想郷<寿国>である「斑鳩寺」に、上宮王家がいたとは思えない。それでは、大和の地以外に「斑鳩寺」はあるのだろうか。

 高野勉氏によると、葛城系丹後韓族の内海進出の拠点である播磨国佐勢(今の太子町)より加古川の「戸田」に至る地域が「鵤(いかるが)」と呼ばれていたという。ここには、大和の斑鳩にちなんだ「斑鳩寺」がある。また、戸田には、「四天王聖霊院」または「刀田山四天王」とも呼ばれる「鶴林寺」がある。この寺は「西の法隆寺」とも「刀田の太子」とも呼ばれている。山背大兄王等上宮王家のひとびとがいたのは、もしかしたらこの「鵤」ではなかったか。その後、山背大兄王が豊聡耳皇子の嫡男との『書紀』の記述から、次第に、聖徳太子ゆかりの「鵤」となったのだろう。

関係者の年表を簡単に纏めてみると次のようになる。

1)敏達二年(572年)   豊聡耳皇子生まれる
2)敏達九年(580年)   蘇我善徳(聖徳太子)生まれる(筆者の推定)
3)敏達十四年(585年)  蘇我蝦夷生まれる(善徳5才)
4)用明二年(587年)   蘇我馬子、物部守屋を滅ぼす。その時、聖徳太子(善徳)7才にして、白膠木に四天王の像を刻んで、仏に誓願し、崇仏派勝利の端緒を作る(一般には、豊聡耳皇子が14才にして行ったとされるが、幼少の善徳が行ったことで、人々に驚きをもって迎えられたのだと言える)
5)崇峻五年(592年)   崇峻天皇、東漢直駒に殺される(善徳12才)
6)推古四年(596年)   法興寺(元興寺)が完成し、蘇我善徳、寺司になる(善徳16才)
7)推古九年(601年)   豊聡耳皇子(善徳)、斑鳩宮を作る(善徳21才)
8)推古十二年(604年)  豊聡耳皇子(善徳)、冠位十二階を施行し、憲法十七条を制定する(善徳24才)
9)推古十六年(608年)  小野妹子、隋使裴世清等とともに帰国(善徳28才)
10)推古三十年(622年)  豊聡耳皇子、斑鳩宮(「鵤」?)で没する(善徳42才)
11)推古三十四年(626年) 蘇我馬子没する(善徳46才)
12)推古三十六年(628年) 推古天皇、病気重く、田村皇子と山背大兄王とに遺言して没する(善徳48才、山背36才)
13)舒明元年(629年)   舒明天皇(田村皇子)即位する(善徳49才)
14)皇極元年(642年)   皇極天皇(宝皇女)即位する(善徳62才)
15)皇極二年(643年)   蘇我入鹿(善徳)等、巨勢徳太等を遣わし、山背大兄王を斑鳩寺(「鵤」?)で殺す(善徳63才)
16)大化元年(645年)   蘇我入鹿(善徳)、中大兄皇子と中臣鎌足に殺され、蘇我蝦夷も自殺する(善徳65才)<乙巳の変>


[参考文献]
1.高野勉「聖徳太子暗殺論−農耕民族と騎馬民族の相克−」光風社出版、1985年
2.関裕二「聖徳太子は蘇我入鹿である」フットワーク出版社、1991年
3.上原和「斑鳩の白い道のうえに」朝日新聞社、1978年
4.田村圓澄「聖徳太子−斑鳩宮の争い−」中公新書、1964年
5.梅原猛「聖徳太子(上)(下)」小学館、1989年

[参考]「'94るるぶ兵庫」(JTB)に次のような紹介記事が載っている。
○聖徳太子が建立したと伝えられる鶴林寺。その由来から播磨の法隆寺、刀田の太子さんとして親しまれている。ここは国宝、国重文の宝庫。中でも平安末期創建と伝えられる太子堂(国宝)は、古すぎて肉眼では見えないが13面にわたって九品来迎図や仏涅槃図、聖徳太子像が描かれているもの。また白鳳時代の金銅造聖観音立像(重文)はその昔これを盗み出した泥棒が鋳壊そうと槌でたたいたところ、「あいたた」という声がしたので、驚いて像を返して改心したという伝承から「あいたたの観音さま」といわれている。右に腰を少しひねった立ち姿が美しい。境内は鶴林寺公園の木々に囲まれ静かだ。
○太子町は聖徳太子が生まれた所という伝説の町。この土地に太子の荘園があったのは事実らしい。ここにある斑鳩寺は法隆寺にそっくり。特に八角堂や室町時代に建てられた重要文化財の三重の塔も、法隆寺の夢殿を彷彿させる。寺は聖徳太子が推古十四年(608年)に建てたといわれ、当時は7堂の伽藍と数十の坊庵があったと伝えられているが、兵乱で焼失。のちに再建され長く法隆寺の支院となっていたが、いまは天台宗の寺。境内には聖徳太子2歳の像も建っている。

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11.五百重娘


 五百重娘(いおえのいらつめ)は中臣(藤原)鎌足の娘で、天武天皇の夫人となり、新田部皇子を生んでいる。鎌足の邸宅かその近くに住んでいたと見られ、そこにいた五百重娘と天武天皇との間で交わされた歌が『万葉集』に残されている。

   天皇、藤原夫人に賜ふ御歌一首
 わが里に大雪降れり大原の古りにし里に落(ふ)らまくは後  (2-103)
   藤原夫人、和へ奉(まつ)る歌一首
 わが岡のおかみに言ひて落らしめし雪のくだけし其処に散りけむ(2-104)

 この大原の里は奈良県高市郡明日香村小原(おうばら)のことで、天武天皇が居住していた飛鳥浄御原宮からほんの500メートルほど東に位置したところだと言う。豪雪地帯ではないし、雪の降る時間が遅れるほど離れた距離でもない。この地方として珍しく降りはじめた雪をみて、近くに住む夫人におどけてみせたのだろう。夫人の返事がまたいい。ユーモアがあると同時に、夫婦のあたたかさがよく伝わってくる。

 天武天皇の皇子皇女を産んだ女性は10人ほどいるが、どういう経緯で何時どのように妃や夫人となって、何時亡くなったのか。多くは謎のままである。この五百重娘もそのひとりで、何時亡くなったのかまったく不明である。
 それが分かったところで、その当時の歴史の認識が変わるというようなことにはならないのだが、興味があるのは この五百重娘は、天武天皇が亡くなってから、あの藤原不比等との間に子供をもうけていることだ。不比等も鎌足の子供だから、二人は兄妹の間柄となる。

『尊卑分脈』には「義兄の淡海公不比等と密通し麻呂を生んだ」と記されていると言う。兄妹の間柄だが、母親は違うらしい。同母の兄妹でないから、それほど驚く必要もないのかもしれないが、「密通」と書かれていることを考えると、当時としても結構スキャンダラスな事件だったのではないだろうか。

 ふたりの間に生まれた「麻呂」は、天平9年(737)の疫病で亡くなった藤原四卿のひとり、四男の藤原麻呂のことだが、『懐風藻』の中で自分のことを「僕(やつがれ)は聖代の狂生のみ」と述べている。はたして、「聖代の狂生のみ」とは何を意味しているのだろう。

 麻呂が生まれたのが、持統9年(695)のこと。不比等37才のときのことである。天武天皇との間にできた新田部皇子が亡くなったのが天平7年(735)で、当時50才代との見解があり、かれが浄広弐となった文武4年(700)を新田部20才と考えると、新田部皇子の生年は天武9年(680)となり、麻呂が生まれたときの五百重娘の年齢を35才とすると、五百重娘の生年は天智元年(661)あたりで、新田部皇子は五百重娘20才のときの子供ということになる。その2〜3年前に天武天皇に入内したとすると、おぼろげながら五百重娘の一生が見えてくる。

 少し整理すると、以下のようになる。

(1) 天智元年(661)生まれ(五百重娘1才)
(2) 天智8年(669)鎌足死去(9才)
(3) 天武7年(678)天武天皇に入内(18才)
(4) 天武9年(680)新田部皇子を生む(20才)
(5) 朱鳥元年(686)天武天皇死去(26才)
(6) 持統9年(695)不比等との間に麻呂が生まれる(35才)
(7) 養老4年(720)不比等死去(60才)
(8) 天平7年(735)新田部皇子死去(75才)
(9) 天平9年(737)藤原四卿天然痘で死去(77才)

 天武天皇の皇子も生み、不比等との「密通」の子である麻呂も、天平元年(729)の長屋王事件の直後、従三位に昇進して、兄の宇合(うまかい)と並んでいる。おそらく、生きていればそれ相応の対応を受けていたと思われるが、実際はどうだったのだろうか。

 麻呂の残した「聖代の狂生のみ」がその出生に絡んでの言葉だとしたら、五百重娘のこころの中にも何か傷を残していたかもしれない。

[参考文献]
1. 上田正昭「藤原不比統」朝日新聞社(朝日選書)、1986年
2. 中西進「聖武天皇−巨大な夢を生きる−」PHP新書、1998年
3. 日本古典文学大系「萬葉集二」岩波書店、1957年

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12.一大率と邪馬台国論争



「一大率(いちだいそつ)」とは一体何だろう。最近、この「一大率」が気になって仕方がない。邪馬台国ファンで『魏志倭人伝』を読んだことのある方なら、おそらくご存知かと思われるが、『魏志倭人伝』を読み返しても、どうも実態が分からない。いろいろと本を調べてみたが、はっきりしない。役職名なのか、機関(組織)なのか、それすらもはっきりしない。

「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国。・・・」で始まる『魏志倭人伝』はご存知の通り、『三国志』の中の『魏志』巻三十・東夷伝の倭人の条のことで、女王国・邪馬台国のことがいろいろと書かれている。その中で、

 女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。国中において刺吏の如きあり。

 と書かれてある。当時の中国における「刺吏(しり)」のようなものだ、と編者の陳寿(233−297年)は述べている。それでは、「刺吏」とは何なのか。漢和辞典で調べると「国守の唐名。漢では地方監察官、唐では州の長官の名」(岩波「新漢和辞典」)となっているので、「地方監察官」と見ていいのかもしれない。編訳者の石原道博氏は「郡国を刺挙し、その政績を奏報する官。前漢武帝の元封五年(前106)に始めておかれた。」と注記しているが、現代語訳では「一大率(王の士卒・中軍)」となっており、軍事組織のような書き方もしている。「解説」では、「大宰府のさきがけともみられる」とも述べている。
 果たして、一大率は、役職名なのか、警察や軍隊のような機関(組織)なのか。「諸国を検察せしむ」という記述から、機関(組織)のような気もする。
 一大率があったとされる「伊都国」の比定地は、ほぼ、どの学者も一致しており、今の福岡県糸島郡深江付近と言われている。

 それにしても、「女王国より以北」を「検察」し、諸国が「畏憚」していたとは、絶大な権力を有していたのではないだろうか。先の引用文には続きがあり、

 王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯することを得ず。

 という。難しい言葉が出てきて、少し分かりにくいが、どうも、女王国の対外的な窓口がこの伊都国(の一大率)にあったようなのだ。

 これに関連して、『魏志倭人伝』に気になる記述がある。

 (伊都国は)郡吏の往来常に駐まる所なり。

 と書かれてある。何と、帯方郡の中国のお役人が、常に常駐していたというのだ。つまり、伊都国には、邪馬台国の軍隊が駐留し、しかも、中国の役人も常駐していたというから、これが本当だとしたら、驚きだ。

 関裕二は、東京大学の東洋史学者の榎一雄氏の「放射説」(伊都国を基点に行程距離を考える説)の理由付けとして、「女王国の北の地に一大率を置いて、諸国を治めていて、皆これを恐れていたという。そして、それは伊都国だった、とする。つまり、女王国=倭国の実質的な政務は、北部九州の沿岸に近い伊都国で行われていた、ということになる。このことから、魏からの使者は、邪馬台国に至ることなく伊都国にとどまり、このことは、魏の使者が卑弥呼に会った形跡がないことからもいえるのではないか」と述べている。

 このことが正しいとすると、魏の使者は、伊都国に留まり、一大率の役人から「女王国・卑弥呼」の話を聞き、それが、『魏志倭人伝』に載ったということも十分考えられる。

 もしも、一大率の役人が偽って話をしていたとしたら、今までの「邪馬台国論争」は一体どうなってしまうのだろうか。

[参考文献]
1. 石原道博編訳「魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」岩波文庫、1951年
2. 関裕二「検証・邪馬台国論争」KKベストセラーズ、2001年

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13.天武天皇の年齢と出自

 佐々克明氏が『諸君』(1974年8月号)で「天智・天武は兄弟だったか」という論文を発表して以来、この件に関しては主に『東アジアの古代文化』誌上でさまざまな意見が出されてきた。残念ながら、まだ日本史の教科書の記述を書き換えるまでには到っていないが、多くのひとがこの問題に興味を持ってきたようだ。

 紙幅の関係で、到底詳細な説明などここではできないが、簡単に整理してみるのも無駄ではないだろう。詳細な説明を必要とするひとは、ぜひ後ろに載せた参考文献に直接当たっていただきたい。

1.年齢について

 天智天皇と天武天皇の没年はと言うと、『日本書紀』には一切その記述がない。ただ、天智天皇に関しては、その父である舒明天皇が亡くなった舒明十三年(641年)に東宮開別皇子(後の天智天皇)が16歳で誄をしたとの記述が『書紀』にあり、逆算すると天智天皇の生年は625年(推古三十三年)で、天智十年(671年)に没したときのその崩年は46歳となる。

 一方、天武天皇に関しては、『書紀』にはその年齢を示唆するものは何ひとつない。しかし、鎌倉中期の史書『一代要記』や南北朝時代の『本朝皇胤紹運録』などの後代資料では崩年65歳の記述がある。天武天皇が亡くなったのは『書紀』によれば朱鳥元年(686年)だから、逆算すると天武天皇の生年は621年(推古二十九年)となる。

 これらの記述が正しいとすると、天武天皇は実の兄とされる天智天皇よりも4歳も年長になってしまう。

 北畠親房の『神皇正統記』では天武天皇の崩年は73歳で天智は58歳となっており、逆算するとどちらも613年(推古二十一年)の生まれとなる。小林恵子氏は、

 北畠親房が、従来の天武六十五崩説を知らないとは考えられない。では、何故、天武の年齢を変更して、あえて同年になしたのであろうか。そこには、天武が年長という伝承が隠されていたからではないだろうか。

 と述べている。

 川崎庸之氏や直木考次郎氏といった学者は天武の没年は56歳の写し間違いであると片づけており、不思議なことにこれがいまでは「定説」となっている。しかし、これが古代史家の間で「有力な説」となったのはごく最近のことであり、天武の崩年65歳という記述を無視するわけにはいかない。(川崎庸之『天武天皇』昭和27年、岩波書店と直木考次郎『壬申の乱』昭和36年、塙書房)

2.出自について

 天武天皇の出自については、小林恵子氏がその論文「天武天皇の年齢と出自について」(昭和53年)で、大海人皇子(天武天皇)=漢皇子であるとの説を出して以来、大和岩雄等この説に従うひとが多い。この漢皇子とは斉明天皇の皇子であり、『書紀』の斉明紀のはじめに一ヶ所だけ記載されている名前だが、そこには次のように書かれている。

  天豊財重日足姫天皇(斉明天皇=天智・天武の母)は、初めに橘豊日天 皇(用明天皇)の孫高向王に適して、漢皇子を生れませり。

 小林恵子と大和岩雄の両氏は、この漢皇子は大海人皇子の別名だったのを『書紀』の編者が「別人」に書き換えたと見ている。天智天皇なども中大兄皇子の他に葛城皇子とか開別皇子といった名前を持っており、天武天皇が複数の名前を持っていたとしても不思議ではない。

 むしろ、天智天皇に異父兄(=天武天皇)が存在していたことにより、いままで疑問とされてきた点に、一応の理由が付けられるようになってきたことが興味深い。なぜ中大兄皇子が舒明天皇没後も長い間皇太子のままで即位できなかったのか。(東宮の記事が載った舒明十三年(641年)から天智七年(668年)の即位まで、何と27年もかかっている)また、なぜ天武天皇に自分の娘を4人も妃として出しているのか。(持統天皇・大田皇女・新田部皇女・大江皇女の4人)

 これらの疑問も異父兄がいてそれが大海人皇子だとすると納得がいくのである。

 この大海人皇子(=漢皇子)が誰かについては、意見の一致が見られず、新羅王族の金多遂(佐々克明氏)、高向漢人玄理の息子(小林恵子氏)、高句麗末期の宰相の淵(泉)蓋蘇文(小林恵子氏)、高向臣(『常陸国風土記』)の子息(豊田有恒氏)、当麻皇子(用明天皇の皇子)の孫(大和岩雄氏)などいろいろと出されているが、大和氏が言うように、皇族出身と考えるのが妥当と思われる。

 奇抜な説としては、前号の拙稿「蘇我善徳の正体」で紹介した関裕二の説がある。関氏によると、蘇我入鹿(=蘇我善徳=聖徳太子)と斉明天皇の子が天武天皇で、古人大兄皇子と同一人物という。そう言えば、大海人皇子が『日本書紀』に登場するのが古人大兄皇子の謀反事件(645年)後の天智三年(664年)のことである。この年、上で述べた天武天皇の生年が正しいとしたら、43歳となる。それまでの大海人皇子の記述が『書紀』に全く残されていないのは不思議としか言いようがない。中大兄皇子に謀反を企て、吉野に隠棲するところも天武天皇と似ている。

 どの説が正しいかは現時点では何とも言えないが、大和朝廷成立・二朝並立・乙巳の変・壬申の乱等を一連の流れで矛盾なく説明できないか、といった点から見ていく必要があろう。少なくとも天智天皇は天武の実兄ではなかったとは言えそうである。

[参考文献]
1.佐々克明「天智・天武は兄弟だったか」『諸君』1974年8月号
2.佐々克明「古代史の史実と真実−天智・天武非兄弟説をめぐって−」『東アジアの古代文化』4号、1975年
3.佐々克明「天武天皇と金多遂」『東アジアの古代文化』18号、1979年
4.小林恵子「天武天皇の年齢と出自について」『東アジアの古代文化』16号、1978年
5.小林恵子「天武は高句麗から来た」『別冊文芸春秋』1990年夏号
6.大和岩雄「古事記と天武天皇の謎」六興出版、1979年
7.大和岩雄「天武天皇出生の謎」六興出版、1987年(増補版、1991年)
8.大和岩雄「天智・天武天皇の謎」六興出版、1991年
9.豊田有恒「英雄・天武天皇」祥伝社、1990年
10.関裕二「天武天皇・隠された正体」KKベストセラーズ、1991年

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14.二つの飛鳥

 『万葉集』巻一に、和銅三年(710年)の藤原宮から寧樂宮への遷都の際の太上天皇の御製として次のような歌が載っている。

  飛鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ
                           (巻1−78)

 和銅三年というと、文武天皇没後にその母・阿閉皇女(元明天皇)が皇位についていた時代であり、既に持統太上天皇が亡くなって8年も経っていた頃だから、この歌の作者である「太上天皇」は実は存在しない。後のひとは元明天皇に比定したり、持統太上天皇に比定したりしているようだが、僕がここで問題にしようとしているのは作者が誰かということではなく、またこの「飛鳥の明日香」という枕詞の話でもない。実は飛鳥という地名が問題なのだ。

 この歌を読む限りでは、飛鳥は現在の奈良県高市郡の明日香村付近一帯と考えて間違いはない。だが、この飛鳥という地名が実は二ヶ所存在する。これは研究家や学者の間ではよく知られた事柄かもしれないが、僕が知ったのは比較的最近のことである。神田の古本屋街の店頭の廉価本を見ているときに、杜澤健次郎氏の『飛鳥』という小さな本が目に入った。この本のページをパラパラとめくっていたら、次のような文章に出会った。

  現在ではあすかというと奈良県高市郡のあすかをいうが、もとは二 ヶ所に同時に命名されたという由来をもつもので、もう一つは大阪府 羽曳野市にある。両所は命名された後、安須加などと宛てられていた が、高市郡の阿須加が明日香とされるに伴って大阪の阿須加も明日香 とされ、さらに高市郡の明日香が飛鳥になるに及んで大阪の明日香も 飛鳥とされたのであろう。

 飛鳥といえば奈良県高市郡明日香村とばかり思いこんでいた僕には、杜澤氏の指摘は新鮮な驚きであった。
 氏が指摘する飛鳥命名の由来は、『古事記』の履中記・墨江中王の乱の項に載っている。それは概略次のような話だ。

 伊邪本和氣命(履中天皇)は大和の伊波礼に若桜の宮を造って天下を治めていたが、父君の仁徳天皇が亡くなってまだ難波の宮にいた頃のこと、大嘗の祭の酒宴の後に酒に酔って眠り込んでいると、弟の墨江中王が天皇を殺害しようと御殿に火をつけた。そのとき大和の漢の直の祖先である阿知の直が、眠っている天皇をひそかに連れだし、大和に逃れた。天皇は石上の神宮に難を逃れると、弟君の水歯別命が会いたいとやってきた。疑心暗鬼にかかっていた天皇は、墨江中王を殺してきたら会おうと言って弟を追い返した。

 水歯別命は墨江中王の側近である隼人の曾婆加里に働きかけて、墨江中王を殺した。しかし、水歯別命は「曾婆加里は確かによくやってくれたが、かれは仕えている主君を殺したのだから不義を働いたことになるし、かれの功績に報いなければ信義を欠くことになる」と考えた。結局、水歯別命はかれに「大臣の位を授ける」とだまして酒宴に誘い、かれが大きな椀で酒を飲み顔が隠れたときを見計らって、隠し持っていた太刀でその隼人の首をはねた。

 その翌日かれが大和に上っていったのでそこを近飛鳥と呼び、大和に着いた時に「今日この土地に泊まり、穢を清める禊ぎの祓いをして、その上で明日参上して神宮を拝むことにしよう」と言ったのでその土地を遠飛鳥と名付けたという。こうして石上神宮の天皇のもとに参上し、約束通り平定したことを告げ、天皇の疑いを晴らすことができたという。

 何んとも分かったようで分からない話だが、ここでいう遠飛鳥が奈良県高市郡明日香村を指し、近飛鳥が大阪府羽曳野市を指すという。つまり、難波の宮に近い飛鳥が近飛鳥(河内飛鳥)で、石上神宮に近い飛鳥が遠飛鳥(大和飛鳥)という訳だ。しかし、どう考えてもこの話が飛鳥という地名が生まれた由来とは思えない。この話が出来た当時、既に別個の土地に同じ「飛鳥」という地名が付けられていて、後から話を作ったようである。

 『万葉集』巻十に載っている次の歌は、近飛鳥(河内飛鳥)の歌とも言われている。

   明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらむ
                         (巻10−2210)

 『古事記』と『日本書紀』の記述を比べると、この飛鳥に関しては以下のようになっている。

 1.古事記
   (1)履中記    近飛鳥・・・・・・・・・・河内飛鳥
            遠飛鳥・・・・・・・・・・大和飛鳥
   (2)允恭記    遠飛鳥宮・・・・・・・・・大和飛鳥
   (3)顕宗記    近飛鳥宮・・・・・・・・・河内飛鳥
 2.日本書紀
   (1)允恭記    大宮の記載なし
   (2)顕宗記    近飛鳥八釣宮

 ここで問題なのは、顕宗記の八釣宮の所在地である。現在、この地は奈良県高市郡明日香村字八釣と比定されているが、『古事記』の記載から考えると、河内の飛鳥となる。岩波の古典文学体系『日本書紀』の註にも「今日の八釣の地は地形上宮址の地にはふさわしくないので、この近飛鳥宮は河内安宿郡飛鳥であり、八釣もその地に求むべきかもしれない」(518頁の註6)とある。八釣という名前が残っているにもかかわらず、別の土地の可能性もあるという。

 なぜ同じ地名が二つ存在したのか未だに判然としないが、『古事記』『日本書紀』が語っていない世界がまだかなりあるような気がする。時代は別にしても、一つの飛鳥を中心とした勢力に対して、別の勢力が対抗して同じ「飛鳥」の地を作ったとしたら、二つの飛鳥が存在してもおかしくはない。二朝並立の可能性がここにもあると思うのだが、どうだろうか。


[参考文献]
1.杜澤健次郎「飛鳥−その歴史の問題点−」三交社、1971年
2.日本古典文学体系「萬葉集一」岩波書店、1957年
3.日本古典文学体系「萬葉集三」岩波書店、1960年
4.日本古典文学体系「古事記・祝詞」岩波書店、1958年
5.日本古典文学体系「日本書紀上」岩波書店、1967年

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15.縄文人国家「出雲王朝」

 縄文人国家「出雲王朝」といっても、いわゆる縄文時代に「出雲王朝」という国家が築かれていたというわけではない。そもそも、縄文時代という時代区分そのものにも問題がある。洪積世から沖積世に移ったとされる今から約一万二千年前から弥生時代の到来する紀元前二、三百年までの一万年以上も続く時代を日本では「縄文時代」としているというが、このような長い期間をひとつの「時代」として見るのは極めて乱暴に思える。

「縄文時代」そのものについての議論はここでの目的ではない。ここでの問題は「縄文人」自身である。ともかく、ここでは、その一万年もの長い時間をかけて日本列島に住み着いた、われわれ日本人の祖先を「縄文人」と呼びたい。狩猟・漁労・採集を生業としたこの「縄文人」は、朝鮮半島を経由してきた渡来民(弥生人)のもたらした稲作文明を摂取し、ほぼ一世紀という短い間に、「北九州の海岸地帯を起点として伊勢(三重県)敦賀(福井県西部)の線まで」この文明は伝播した。「それから、しだいに、東日本から、東北地方へと、稲作文明はひろがっていった」と北山茂夫氏はいう。

 また、関裕二氏は、「七世紀まで東国の入口とされてきた尾張地方(愛知県)では、弥生後期にいたるまで稲作を受けつけなかったらしいことがわかっている。西国にもっとも近い東国、尾張がこうであるなら、さらに東は推して知るべしであろう」という。つまり、なぜかこの稲作文明の伝播のスピードが鈍る時期があり、地理的には「伊勢・敦賀」(関氏は「名古屋−富山ライン」という)がその境として考えられるというのである。

 これは、いったい何を意味するのだろうか。結論を先にいうと、「縄文人」である現地民と渡来民との間の共存生活や混血が、実はそれほど順調に進まず、「伊勢・敦賀」を境に両民族が対峙していたことが想像できるのである。関氏によると、両民族の相克が実は「出雲王朝=縄文人国家」と「九州王朝(現天皇家)=弥生人(渡来人)国家」との間の相克として飛鳥・奈良時代まで続き、「二朝並立」が出現したと考えられるのだ。

 拙論の「蘇我善徳の正体」(本誌7号掲載)では、高野勉氏に従って、ここでいう九州王朝を騎馬民族国家である「旧王朝派」、出雲王朝を農耕民族である「北陸王朝」と比定し、好戦的な「旧王朝派」に対して、平和的な「北陸王朝」とその王と目される蘇我善徳(蘇我馬子の長男で、聖徳太子の実像。大極殿で中大兄皇子と中臣鎌足によって殺された蘇我入鹿はこの善徳のことと考えられる)についてまとめてみた。平和的な「北陸王朝」が和と仏法を基本とした地上の楽園「寿国」の建設を目指していた蘇我善徳の意向と旨く結びついていたため取り上げたわけだが、関氏のいうように「九州王朝」を弥生人国家とすると、九州王朝が稲作文化を広げたことになり、「北陸王朝」が農耕民族であるとの高野説とはどうもしっくりこない。

 しかし、関氏の『縄文人国家=出雲王朝の謎』の中に、次のような記述がある。「普通常識で考えれば、弓矢をもち、野原を掛けめぐり、獲物を追いまわしていた狩猟民族と、田圃に苗を植え、刈り取り暮らしていた稲作民族と比べてみれば、狩猟民族の方が好戦的と思うであろうが、これが逆なのだ。狩猟民族は平和主義者で、稲作民族は好戦的なのである」・・・なぜなら、

  ひとつには、狩猟民族の場合、食料を生産するのではなく、あくま で自然界からおこぼれを頂戴しているという意識があった。すなわち、 自分たちの採り分を守ってさえいれば、生活を維持することができた。 だから、人々は縄張りを設定し、お互いにそれを侵そうとはしなかっ た。この原理に背くことは、すなわち自滅への道を歩むことを、彼ら は本能で知っていたのである。
  一方、稲作民族の場合、まず前提がちがった。つまり、彼らは何も ないところから土地を耕し、作物を栽培しなければならなかった。だ から、彼らは、まず、出来る限りの土地を必要としたのである。さら に、農耕を進めるにつれ、食料事情は向上し、子孫が増える。すると また土地を耕す。するとまた子が増える・・・。といったように、膨 張することが宿命であるかのように、農地を広げていかざるをえない のが、稲作民族であった。そこで土地の奪い合いがおきるのは、むし ろ当然のことなのである。
という。

 武智鉄二氏も、氏の専門の伝統演劇の研究から、「伝統的な身ぶりや歌声の中には、北方騎馬民族の影響の跡がまったく見られず、北方騎馬民族の日本支配という歴史的事実はなかった」と述べ、氏独自の日本古代史論を展開しているが、ここからも、高野氏の「旧王朝(九州王朝)=騎馬民族、北陸王朝=農耕民族」の図式は、関氏の「九州王朝=弥生人国家=稲作民族、出雲王朝=縄文人国家=狩猟民族」の図式に替えるべきだと思われる。関氏の出雲王朝は単なる「出雲地方」ではなく、北陸や東北(蝦夷)をも含めた概念であり、二朝の図式を関氏のものに替えても、高野氏の議論の根幹は生きてくると思う。

 出雲王朝は「大極殿のクーデター」(乙巳の変)で蘇我善徳の死後、その子・天武天皇が「壬申の乱」で再興を図ったが、その死でもって完全に滅びた。一方、日本を征服した九州王朝は万世一系の皇統を謳った皇国史観をもとに『日本書紀』を作り上げ、二朝並立の事実を隠し、神話の世界のことにしてしまった。九州王朝と出雲王朝の相克は天照大神(天津神)と素佐之男(国津神)の二神に始まる国譲りの話となってしまったのだ。

 そして、以後、天皇家は、何と明治維新まで国津神を祭る出雲系の神社に異常な神経を使い、「奈良時代からこのかた、国内や宮中になにかの変事が起こるたびに、出雲系の神々にお伺いをたて、丁重に祭りあげてきた」という。それはなぜか。関氏によると、それは、天皇家が、先祖が滅ぼした縄文人国家=出雲王朝の祟りを恐れてのことだという。

 蘇我氏の氏寺である飛鳥寺(元興寺)の近年の発掘調査で、本堂の西側にある入鹿(善徳)の首塚が、甘樫丘に向かう飛鳥寺の西門の外側の路傍に位置していることが判明した。おそらく、偉大な聖人である入鹿(善徳)は門外のこの場所で無惨にも中大兄等によって暗殺されたのであろう。あらためて、蘇我善徳の無念さを感じるとともに、天皇家が長い間、恐れ畏怖した理由も分かるような気がした。

[参考文献]
1.関裕二「縄文人国家=出雲王朝の謎」徳間書店、1993年
2.高野勉「聖徳太子暗殺論−農耕民族と騎馬民族の相克−」光風社出  版、1985年
3.武智鉄二「古代出雲帝国の謎」祥伝社、1985年
4.北山茂夫「日本の歴史1・古代王朝の興亡」築摩書房、1980年

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16.藤原京を巡って

 この8月10日から9月29日まで、ここ上野の東京都美術館で「飛鳥・藤原京展」が開かれている。最近、奈良も訪れてないなと、土曜の休みを利用して行ってみた。窓口に並んで入場券を買おうとしていたら、知らないご婦人が「招待券が余ってますが、お使いになりませんか」と、無料招待券をいただいてしまった。ちなみに当日券は1,200円。丁重にお礼を述べて、喜んで使わせていただいた。感謝、感謝。世の中、いいひとがいるんですね。

 この展示会は、奈良文化財研究所の創立50周年記念として開催されているもので、本研究所が実際に手がけた発掘の結果をベースに、飛鳥時代から天武・持統の時代を詳しく説明している。(複製)と書かれた展示物がいくつかあり、少し興ざめといった気分も感じたが、考えてみれば、吉備姫王檜隈墓の「猿石」なんて持って来れませんものね。

 図録もまた立派で、しかも、最新の成果を取り入れた、体系的に書かれた教科書といった感じで、非常に感激した。ちなみに、図録は、以下のような章立てとなっている。

   プロローグ 飛鳥・藤原京へのいざない
   第T章 飛鳥時代の幕あけ
   第U章 律令国家の胎動
   第V章 天武・持統朝の世界
   第W章 中国式都城「藤原京」の世界
   エピローグ 律令国家の完成と遣唐使の再開

 また、各章の頭に、奈良の風景と万葉集が載っているのも、泣かせるところだ。読んでいくうちに、すっかり、その当時の世界に入り込んでしまう。

 ところが、その図録の中で、一箇所、気になるところがあった。

「特筆すべきは、藤原京の広さが、かつて推定されていたよりもはるかに大きく、ほとんど平城京に匹敵することがわかってきたことである。このことによってようやく藤原京の全体像が見え始め、平城京と異なった建設理念のもとに造営された様子もわかってきた。

「しかし、これほど大規模で計画的な藤原京を、わずか16年という、あまりにも短い期間で捨て、なぜ平城京へ遷都したのか、あらためて問われている」という。

 平城京では、大極殿や朝堂院などのある「宮」は、平城京の北の端の中央に位置しているが、藤原京の場合は、「藤原宮」はその中央に位置しており、「この配置は他の都城には見られない独特のもので、中国の理想的な王城をそのまま形にしたのではないかともいわれる」という。

 また、従来、中ッ道・下ッ道・横大路・山田道で囲まれた東西2.1km、南北3.2kmの範囲と考えられていたのが、発掘調査の結果、現在では、東西十坊(5.3km)の範囲まで広がることが明らかになっているという。平城京との比較の図も載っているが、平城京よりも藤原京の方が広い感じで、あらためて、驚かせられる。それにしても、短い期間で、なぜ平城京に遷都したのか。

 従来の日本史の教科書では、平城京については、

(1) 平城京の都市プランは藤原京を規準にしていた(岸俊夫)
(2) 大和三山に囲まれた藤原京は狭いので、中央集権的な律令国家の象徴として平城京を建設した

と言われていた。(伊藤博・橋本達雄編「万葉集物語」)素人目にも、藤原京についての認識が変わってきたなと感じる。

 万葉集の作者未詳の歌のなかで「藤原宮の御井の歌」がある。柿本人麻呂の作とも見られているが、その中で、「やすみしし わご大王 高照らす 日の皇子 あらたえの 藤井が原に 大御門 始めたまひて」と書かれている。(わが大王の皇子は、荒地のひろがる藤井が原に、京の建設をお始めになり)

 この「大王の皇子」を持統天皇とするのが教科書だが、「皇子」を女性の持統天皇に比定するのは無理があるような気がする。末田重幸氏は、「皇子」は高市皇子で、当時の天皇は高市皇子本人で、持統が彼を暗殺したとのショッキングな説を披露していたのを思い出した。高市が天皇だとすると、その子供の長屋王が「長屋親王」と呼ばれていたことも理由がつくし、藤原京を建設したのが、持統ではなく高市皇子だとすると、平城京遷都の理由もつくのではないだろうか。(関裕二氏も同様の指摘をしており、今後研究を進めたい)

[参考文献]
1. 図録「飛鳥・藤原京展」奈良文化財研究所創立50周年記念、2002年
2. 伊藤博・橋本達雄編「万葉集物語」有斐閣ブックス、1977年
3. 末田重幸「秘められた挽歌−柿本人麻呂と高市皇子−」講談社、1977年

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17.仏都・紫香楽宮

 狸の焼き物で知られる信楽町(滋賀県甲賀郡)の黄瀬(きのせ)には古くから「内裏野(だいりの)」呼ばれる丘陵地があり、聖武天皇の在所であった「紫香楽宮跡」とみなされてきたが、その後の発掘調査から、東大寺式伽藍配置の寺院遺構であることが判明し、この地が紫香楽宮跡とみる説は後退していた。その後、この「紫香楽宮跡」の北方、宮町から新たに木簡や大規模な遺構を推測させる柱根が見つかり、最近では、この宮町遺跡が紫香楽宮跡で、「紫香楽宮跡」は、造仏の故地である甲賀寺跡との説が有力となっている。

 この甲賀寺跡の南側が小高い山々に囲まれた盆地になっており、ここに都が建設されたものと思われるが、今は、広々とした田園風景があるだけで、ここに都があったとは想像できない。今回、古代史通信会合で、この地を訪れてみたが、それにしても、思っていた以上に狭い空間であることに驚いた。とても平城京の代わりとはなりえない、まさに仏像建立のための「仏都」であるという感じを強く受けた。

 最近の聖武天皇研究では、従来のひ弱な天皇というイメージではなく、意志の強い聖武という点で、研究者の意見は一致している。

 そもそも、藤原広嗣の乱直後に聖武天皇が行った「関東行幸」も、乱を恐れての逃避行ではなく、天武天皇の壬申の乱の足跡を辿る、示威運動だったとみられているし、この5年にもわたる「彷徨」も、「大仏建立」を目的に計画立てられた行動であることも、表現上の差異はあるが、どの研究者も一致している。

 それでは、何故この時期に「関東行幸」を実行に移したのか。数年前の天平九年(737)に藤原四兄弟が相次ぎ疫病で死に、藤原の勢力が大きく後退した時期であることも、大きな要因のひとつであろうが、天平十二年(740)に難波宮に行幸した際に、聖武天皇が、河内大県郡の知識寺に立ち寄り、盧舎那仏を礼拝したことが、この大仏建立=仏都建設の大きなきっかけになったことは間違いない。「知識」という万民の自発的な協力(資材や労力の提供)のもとで建てられた廬舎那仏であることが、聖武天皇を強く動かしたようだ。

 脱藤原氏を目指す聖武天皇が、藤原氏の勢力の後退時期を見計らって、藤原氏(仲麻呂)を牽制するために、一大「パフォーマンス」(関東行幸)を行ったというのが、関祐二氏の見解だが、藤原氏の建てた平城京から離れた地で、万民の「知識」をもとに、大仏を建立し、一大仏都を作るというのが、聖武天皇の夢だった。藤原氏の傀儡ではなく、万民に支えられた天皇。天武天皇の時代に戻り、また、天皇親政を夢見ていたのかもしれない。

 関東行幸が、天平十二年(740)十月。恭仁京の造営着手が同年十二月。また、紫香楽宮へ延びる「東北道」の開通が翌天平十三年(741)閏三月であり、そのとき、既に、紫香楽宮造営が最終的な目的であったことが、ここから読み取れる。恭仁京は、言うなれば、紫香楽宮での造仏事業を推進するための、拠点と見られている。

 それにしても、聖武天皇は大仏建立の地として、何故、この紫香楽の地を選んだのだろうか。ここ甲賀郡に住む鹿深臣という豪族の始祖が百済から弥勒の石像一体を持ってきたという伝承が『日本書紀』に載っており、おそらく、当時、日本に仏法を広めた最初の地として、聖武天皇の頭の中に思いが広がっていたのかもしれない。

 しかし、この造仏事業は頓挫する。天平十七年(745)初夏を迎えると度重なる山火事と地震・・・。地震は天災であり仕方がないが、山火事はあきらかに人災である。聖武天皇の紫香楽宮の造営に反対しての山火事であることは明らかだ。
 遠山美都男氏が言うように、「民衆が自発的に資材や労力を供出することに期待する知識方式で、盧舎那仏を造立することは、経済的に見て、最初からかなり無理があったと思われる。聖武は巨大なる幻想にとらえられていたといわねばならない」

 天平十七年(745)、聖武天皇は、ついに、紫香楽宮での造仏をあきらめ、恭仁京に立ち寄ってから、平城京へと戻る。仏都・紫香楽宮建設の夢は潰えたが、その後、奈良・東大寺に大仏を建立することで、聖武は大仏建立の夢は実現される。だが、果たして、聖武の本来の目的は果たせたのだろうか。

[参考文献]
1. 関裕二「鬼の帝・聖武天皇」三一書房、1998年
2. 中西進「聖武天皇・巨大な夢を生きる」PHP新書、1998年
3. 瀧浪貞子「帝王聖武・天平の勁き皇帝」講談社、2000年
4. 遠山美都男「彷徨の王権・聖武天皇」角川書店、1999年

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18.天皇陵古墳について

 大阪府羽曳野市誉田の「応神天皇陵」や堺市大仙町の「仁徳天皇陵」などは教科書でも「天皇陵」としておなじみだが、最近は「・・天皇陵」という呼び名ではなく、「誉田(こんだ)御廟山古墳」とか「大山(だいせん)古墳」と呼ばれるケースが多い。これは、ご存知の通り、「応神天皇陵」が本当に応神天皇の墓かどうかがはっきりしていないからである。

 森浩一氏によると、被葬者が確定されると言われる、奈良県明日香村の天武・持統陵でさえ、被葬者が天武天皇と持統天皇かどうかは疑わしいとのことだ。天武・持統陵は正式には「野口王墓古墳」と呼ばれているが、

「1791年(寛政三)年に刊行された『大和名所図会』では、「倭彦命窟、土人武烈の窟といふ」としている。野口王墓古墳が天武・持統合葬陵に指定されたのは、『阿不幾乃山稜記』の発見の翌年の1881年(明治十四)年のことであり、したがってこの古墳を伝天武陵などとあらわすことには何の根拠もないことがわかるであろう。野口王墓古墳については、北浦定政の『打墨縄』(1848年<嘉永元年>)でも里人が武烈陵と伝えていることを記している。」

 という。ここに出てきた『阿不幾乃(あおきの)山稜記』は、この古墳が文暦二年(1235)三月に盗掘されたときの陵内実検記で、「墳丘・石室の形状構造から内部の状況に及び、乾漆棺、遺骨、金銅製蔵骨器、副葬品などについても形態・寸法を詳細に記述しており、終末期の古墳の実態を知りうる貴重な資料」とされる。

 しかし、不思議なのは、天皇家の祖先を葬ったとされる古墳の被葬者がなぜこうも不明な状況となっているのだろう。いろいろと歴史の中での天皇の地位そのものは変遷を重ねてきたが、一応、わが国の君主として存続してきたという事実を考えると、非常に不思議に思えてくる。

 これらの古墳を管轄している宮内庁も、天皇の陵墓と断定している訳ではなく「御陵墓参考地」または「御陵墓伝説地」として規定しているだけで、森浩一氏は、天皇陵は「宮内庁古墳」とでも呼んだ方が正確であるという。彼は、一般の方々が、「天武・持統陵」と聞いたときに、それが本当の天武天皇と持統天皇の合葬陵と無条件に受取ってしまうことを危惧している。

 このような性格の「天皇陵」を「御陵墓参考地」に指定したというだけで、発掘調査が一切できないというのは、どうも納得のいかないところである。

 それにしても、天皇家の祖先を葬ったとされる古墳の被葬者が不明なのは、一体なぜだろうか。最近出版された、尾藤正英『日本文化の歴史』の中でも、同様の疑問が出されているが、近世の「両墓制」の風習が興味深い。

「両墓」とは、二つの墓のことで、「埋(う)め墓」と「詣(まい)り墓」の二つの墓が別々に作られる風習のことを意味している。「死者は埋め墓に葬られる(土葬)が、そこにはそれ以後は家族も近づかず、年忌の法事などは、すべて詣り墓で行われる」という。近世の風習がそのまま古代の古墳に適用されるとは考えられないが、日本人が「死の穢れ」を畏怖するという考えは、古代から面々と続いていたのではないかと思う。

 古墳も天皇や皇室、地域の有力な首長や豪族の墓であるが、それは、「詣り墓」ではなく「埋め墓」だったのではなかったか。前方後円墳という日本独特の形の古墳は、その古墳の上で祭祀を執り行ったと考えられているが、それは、故人を偲んでというより、皇位を継承した者が、その正統性を内外に示すために行われたものではなかったか。古墳が「詣り墓」だったとしたら、「天皇陵」の被葬者が不明だということは考えられないと思うのだが、どうだろうか。

 自由な調査ができないという制約から、江戸時代の古記録や航空写真などを手がかりに天皇陵を考古学的に検討を加えることは可能だが、森氏は、このような研究方法は限界に近づいているという。一方、江戸時代の研究家が行った天皇陵の探索も、何のために探索し研究するのかという面では、曖昧さがたちはだかっているという。

「天皇陵」の被葬者が不明確な状況である以上、そこには一般の古墳と何ら変わるところはない。宮内庁も「御陵墓参考地」の制約を外して、早く自由な調査を認めてほしいところである。

[参考文献]
1. 森浩一(編著)『天皇陵古墳』大巧社、1996年
2. 尾藤正英『日本文化の歴史』岩波新書、2000年

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19.書評

1.千田稔『天平の僧行基』(中公新書、1994年、iii+218頁、720円)

 本書第一章の表紙に清涼山喜光寺(別名菅原寺)の写真が載っている。ここは行基入滅の寺として知られ、本誌『古代史通信』の会合で訪れた所でもあるので、ご存知の方も多いと思う。垂仁天皇陵の近くにあり、寺のすぐそばを阪奈道路が通っている。今では、荒れ果てた雑草の生い茂る寺内に、本堂のみがひっそりと佇んでいる。

 著者の千田氏が言うように、天平二十一年(749)に享年82歳でこの地に没したこの行基という奈良時代の僧侶について意外と知られていない。近鉄奈良駅前の「行基像」を知らないひとが多いのにも驚く。行基自らが書いたものが何も残ってないし、その足どりもはっきりしていないが、行基が知られていない理由はそれだけだろうか。
『続日本紀』天平二年(730)九月二十九日の条で、安芸・周防の人々がみだりに禍福を説き、多くの人々を集めて死魂を祀って祈るところがあるという記事に続いて、京に近い東側の山原に多くの人数を集めて妖言をはき、民衆を惑わしている者がいて、多い時は一万人、少ない時でも数千人が集まり、このようなことは法律に違反するので、放置すれば被害が大きくなるから許してはならない、という記事が載っている。千田氏は、この人物こそが行基と見ている。

 行基についての文献というと、行基生誕地とされる家原寺(和泉国大鳥郡善光寺)から出土したとされる行基墓誌銅版『大僧正舎利瓶記』(天平二十一年、奈良国立博物館所蔵)と、墓所にある奈良県生駒市の竹林寺に残る『竹林寺縁起』(文暦二年(1235))と、泉高父宿禰が書いた『行基年譜』(安元元年(1175))があげられる。

 千田氏は、これらの文献と氏の専門である歴史地理学の知識をもとに、主に『行基年譜』の「天平十三年記」に載る行基の事業(架橋、道路建設、池の築造と樋の建設、船息(港)の設営、堀の開削、布施屋の設営)を一つ一つ丹念に追っていく。それはまるで状況証拠を次々と抑えていく刑事のような感じで小気味良い。今更ながら行基事業の範囲と規模に驚かされる。これらの事業の財源はどこなのか。信仰の力だけでひとが動くとは思えないが・・・。少し疑問が残るところである。

 土師氏を中心とする渡来人とのつながりや、道教の影響等、新たな指摘もあるが、氏自らが「本書で試みた作業というのは、劇場で役者のいない舞台をながめているようなものである」と述べているように、どうも行基本人が生き生きとした姿で僕の頭の中に浮かんで来ない。行基をこれらの事業へと駆り立てたものは一体何だったのか。朝廷から「妖言をはく」として禁圧されていた行基が何故聖武天皇と結びつき、大仏建立に至ったのか。そこに焦点を当てて見ていく必要があるのではないだろうか。


2.森田悌『長屋王の謎−北宮木簡は語る−』(河出書房新社、1994年、
  253頁、2,200円)

 奈良県奈良市のそごうデパート進出予定地より発見された「長屋親王」と書かれた木簡により、この平城宮近くの四町を占める大邸宅が悲劇の宰相・長屋王の邸宅祉だと新聞各紙に報じられたのは、昭和63年のことである。3万5千点に及ぶ木簡の整理・研究も進み、これに関する研究書もいろいろと出版されるようになってきた。

 しかし、この邸宅祉を「長屋王邸」として無条件に受け入れていいものだろうか。『別冊文藝春秋』188特別号(平成元年)に載せている永井路子氏の「異議あり!長屋王邸」では、木簡出土邸宅を長屋王邸と見る当時の風潮の中で、氷高・吉備内親王邸ではないかと述べている。

 それを発展させる形で、森田悌氏が近著『長屋王の謎』で鮮やかに論旨を展開している。「北宮木簡は通常長屋王家木簡と称されているのであるが、木簡群から抽出されるのは二品家相当の家政機関の活動であり、まずは氷高内親王の邸宅とみざるを得ず、氷高内親王が即位したのちは吉備内親王が邸宅の本主となったと思われるので、当時の呼称をとってこの邸は北宮と称し、北宮木簡と呼称するのが適当なのである。決して長屋王の邸宅ではない」と氏は断言する。

 律令の「家令職員令」では、各位品ごとの家令職員が厳格に定められており、「定められているもの以外の官員を置くと職制律官有員数条や詐偽律に違反したとして、処罰することになっている」従って、当時従三位の長屋王が二品格の家政機関を持つことはありえないのである。

 しかし、律令はそれほど厳格に守られていたのだろうか。このような疑問に対して氏は、「平城に都が営まれるようになった段階においては、律令法秩序の浸透をみるべきであり、律令法と明白に背反するようなあり方は、原則として姿を消すようになっていたと思う。もちろん、八世紀中葉に至っても律令法を施行し得ない領域は残るが、官制・身分標識・家令制度などといった面では律令法制が貫徹するようになっていたとみるべきで、木簡が関わる貴族家のあり方に関しては、律令法を念頭において検討しなければならないと考えるのである」と言う。

「冷静かつ論理的に分析していけば、自ずと右のような結論に達する」と述べるように、森田氏の著書は非常に説得力がある。この他にも、奈良務所の存在とその比定地、不比等と長屋王の関係、首皇太子の即位が遅れた理由など、興味ある論旨が展開されている。是非一読をお勧めしたい。

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