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萬葉の歴史学者・北山茂夫

萬葉の歴史学者・北山茂夫

万葉集が好きになるきっかけは、この北山茂夫氏の「萬葉の時代」「萬葉群像」(岩波新書)を読んでからでした。

萬葉の歴史学者・北山茂夫

 素夫人が夫・北山茂夫が自宅の食堂の床に倒れているのを発見したのは、昭和59年1月30日の10時過ぎ。ライフワークとも言える『萬葉集とその世紀』(新潮社刊)の下巻の校正をしている最中のことであった。享年74歳。直前に書かれた日記には「下巻を、一日半かかってもう一度点検、一言半句でも直す。ベストをつくせ、これ、人はライフワークと言うならん」と記されていた。
 全三巻のこの書は、自ら「ライフワーク」と言うだけあって、北山史学の集大成とも言うべき書物である。師である羽仁五郎氏の影響のもとに「通史的な」説明をバックボーンとして、萬葉集の世界をみごとに再現させた。萬葉集の歌を中心にその時代背景を説明する概説書は至るところにあるが、歴史の流れの中で萬葉集全般を解説する本は意外と少ないのではないだろうか。従って、萬葉集に興味のあるひとにも、「萬葉の世紀」と北山茂夫が言う大化改新後の激動の一世紀に興味を持つ歴史ファンにも、非常に役に立つのではないかと思う。
 以下、松尾氏の書かれた『伝記』をもとに、かれの人生を簡単に追ってみたい。(詳細は原典を当たってください)
 紀州鳥屋城村に生まれた茂夫は「優等生タイプの少年ではなかった。陸軍幼年学校を志望し、六年のとき、授業から仲間とともに抜け出して、演習に来た兵士たちを村境の峠に迎え、教師に大目玉をくらったこともあった。また、ふだんからいじめられていたクラスのボスと対決し、腕に食いついて離さず、ボスの専制をくつがえす事件をおこした。茂夫は終生、これを『人生の快事』とした」という。
 『源氏物語辞典』を編纂した父の影響からか、県立耐久中学に進学するや、文学の世界にのめり込む。新潮社刊の文学書を取り寄せ、『文学倶楽部』を定期購読し、同人誌『オリーブの森』を作り、詩を書いたりもした。終いに、文学熱が昂じて学校を放棄し、三年後半になると、登校もせず、絶望した父親はついに、退学届けを提出してしまう。
 教師をしていた父は、教え子の京都帝国大学生の助言で、茂夫を京都中学に編入させ、その教え子のもとから通わせることにする。文学熱も次第にさめ、社会科学研究グループに参加し、英文の『共産党宣言』を読んだりして、社会科学に深入りしかかったが、目前の高校受験で避けられたという。
 「負け犬になりたくない」という気持ちから三高受験を決意したが、二年失敗し、三度めにようやく合格した。「家族も村人も、三高に合格するとは思わなかった」という。三高での一年生のときの成績は、「七九人中七○位の『特及』で辛うじて落第を免れた」次第であった。数学と自然科学が苦手だったが、国語・東洋史・語学には秀で、「のちのちまで英書は自由に読め、ドイツ語能力も晩年復活した」
 東洋史を担当していた教員・宮崎市定氏に出会ったのが、歴史研究に入り込むきっかけとなった。
 三高では、学生たちが寮の自由化を求めて全校ストライキを行い、多くの生徒が処分された。「学生大会では登壇して学校当局を糾弾し、ストの統制委員として指導部の一員となり、学校側と交渉」していた茂夫は、「除名になるべきところを、日頃の勉学態度と、籠城を解くときのいさぎよさが評価され、罪一等を減ぜられて無期停学となった」六四日間の停学の末復学したが、大学受験に夢中になっている級友をみて、孤立感を深め、「体質的に合わぬ酒を無理に飲み、東京へ脱走することばかり思っていた」
 その後、東大国史学科を受験し合格。ただ、「将来学者になろうというつもりはなく、漠然と、父同様に中学教師になろうと考えて」のことだったという。
 大学の一年も終わりに近づいた頃、史学会の一月例会で、東大山上会議所で、羽仁五郎氏が「東洋に於ける資本主義の形成」という講演を行った。聴講していた茂夫は感銘を受け、仲間を引き入れて目黒の羽仁邸に集まるようになり、羽仁五郎に師事するようになる。羽仁の指導のもとで、卒論「奈良時代の公民に就いて」を仕上げる。これが奈良時代の研究のスタートとなった訳だが、自ら古代史を選んだ訳ではない。羽仁のもとで勉強していたグループの四人が農民問題に関心があり、たまたま、古代を担当したのが北山茂夫だっただけだったという。『六国史』『大日本古文書』等の他に『萬葉集』もたびたび登場し、二年後に公表された「奈良前期における負担体系の解体」の原型ともなった論文だが、羽仁五郎が激賞した力作であった。
 大学卒業後は大学院に進み「明治史の研究」をテーマとして選んだが、大学院へはほとんど顔を出さず、活動の主要拠点は羽仁五郎のサークルであった。北山茂夫は羽仁サークルの東大グループのリーダー格であり、「当時北山を通さねば羽仁の門は叩けないという風評が京都まで伝わってきたという」
 大学院の研究テーマである近代史研究の成果は活字にならなかったが、古代史研究は何編か論文を発表し、学会の注目するところとなる。「奈良朝の政治と人民」は「階級闘争の見地から、八世紀の政治とその推移を分析したもので、『人民』の実態とその動きの分析に最大限の力点がおかれていた」
 この他、北山茂夫の名を一躍有名にしたのは、正倉院文書で『大日本古文書』で三つの断簡となっている肥君猪手の戸籍を復元した「大宝二年の筑後国戸籍残簡について−大日本古文書の基礎的研究その一−」(『歴史学研究』1937年2月号)であった。
 羽仁五郎の指導のもと、古代史家の地歩を固めた茂夫だったが、『歴史教育』の女性史研究特集での人選と寄稿を頼まれた茂夫が、羽仁五郎に相談をせずに話を進めたことで、羽仁の不興を買い、茂夫の「律令制と女性」の合評会で羽仁と衝突し、師と訣別してしまう。
 羽仁と別れる二ヶ月前に横浜の私立女学校潤光学園に就職し、教育にも力を注いだが、この頃から、本格的に『萬葉集』を研究しはじめる。しかし、戦局の苛烈化で、栄養失調とカゼで体調を崩し、父に迎えられて帰郷。郷里の田辺中学に赴任する。その間に、浅田素と見合い結婚する。だが、新婚二ヶ月目で招集令状が届いたが、「前夜の壮行会で食べた鯖にあったて発熱、全身に斑点が出、これが幸いして即日帰郷となった」
 敗戦後、茂夫は「猛然と生きる欲望が湧いて」きて、勉強を再開。だが、学園民主化を進める茂夫に、田辺中学の先輩や市の有力者が「北山排斥」に動きだし、和歌山の米軍軍政部に「田辺中学はソ連が侵入したハルピンの如き有様で、その責任者は北山だ」という投書が投げ込まれる事件が発生し、取り調べを受ける。「これに失望した北山は、教壇を去ることを決意した」就職のあてのないまま教壇を去った茂夫を支えたのは、素夫人であった。夫人は新制中学の教壇に立ち、その後の生活を支えることとなった。夫人の友人の勧めで、東京に移る。
 少しして、奈良本辰也氏らの斡旋で立命館大学法学部専任講師の口が見つかる。当時既にゾッキ本化していた『奈良朝の政治と民衆』という本が評価され、満場一致で決定されたという。中学教師時代の遅れを取り戻そうと一生懸命研究に励んだ。退職するまでの一九年間に「単行本八冊(うち五冊が書き下ろし)、学術論文五一篇を発表している」
 その後、文学部日本史学科の定員増により立命館法学部から文学部へ転じたが、学生運動に巻き込まれ、退職する。「北山に対しては、文学部教授会はもとより末川総長はじめ全学の教員有志・学生有志より熱心な辞表撤回の要請があったが、北山は辞表を『一身上の理由』と改めただけで、断固初志を貫いた。後半年つとめれば、勤続二〇年となり、退職金も年金も大ちがいになるのだが、これに未練をもつような北山ではなかった、一度決意をしたことは変えないというのが、羽仁との別れ、田辺中学退職、そしてこのたびの立命辞職と、一貫してみられる北山の行動パターンであった。しかし北山は大学の運営には協力を惜しまず、卒業論文・修士論文審査はもとより、辛うじて行われた入学試験でも日本史の主査としての職務を忠実に果たした」
 以後、自ら「独学のソロ奏者」と称して、何処の学校にも属さずに研究を進め、「死を迎えるまでの一五年間に、実に一六冊の単行本を書いている。二冊を除き、すべて書き下ろしである。驚くべき精励ぶりというほかない」
 青少年向けに企画した『日本の歴史』が、北山茂夫の急逝のために、二巻を刊行しただけで終わってしまったこと、本人が楽しみとしていた「漱石論」が書けなかった、という無念はあるが、遺稿となったライフワーク『萬葉集とその世紀』が予定通り完成し全三巻の刊行を終えたことは、すばらしいことだと思う。
 ぼくが萬葉集に興味を持ち、奈良時代の歴史に興味を持ちはじめたのは、北山茂夫の『萬葉集とその世紀』の三巻を読んでからである。その後、『大化の改新』『壬申の内乱』『萬葉の時代』(岩波新書)『天武朝』(中公新書)を読み進めた。これらは、現在でも手軽に手に入るので、古代史ファンに是非一読をお勧めしたい。また、萬葉ファンにとっては、『柿本人麻呂』『萬葉群像』(岩波新書)がお勧めである。その外、何冊か学術書も復刊されている。北山ファンの一人として、ひとりでも仲間が増えれば幸いです。

[参考文献]
 1.松尾尊兌編『北山茂夫 遺文と書簡 別巻・伝記と追想』みすず書房,1991年

[北山茂夫書誌]
1.「奈良時代の農民問題について−政治史的分析の試図−」『社会経済史学』四・五月号,1936年
2.「奈良前期に於ける負担体系の解体」『歴史地理』五・六・七月号,1936年
3.「大宝二年の筑後国戸籍残簡について−大日本古文書の基礎的研究その一−」『歴史学研究』二月号,1937年
4.「律令制と女性」『歴史教育』六月号,1937年
5.「萬葉人の生活と文化」『三田新聞』一月一日号,1943年
6.「天平期の文化と民衆」『私の大学』6・7,1947年
7.「古代農民の労働と闘争」『日本史研究』9・10,1948年
8.「藤原宮の役民の作れる歌について」『文学』六月号,1948年
9.「萬葉における慶雲期の諸様相」『思想』九月号,1948年
10.『奈良朝の政治と民衆』高桐書院,1948年
11.「萬葉論」『日本文学』1,1949年
12.「貧窮問答歌の成立」『文学』八月号,1949年
13.「行基論」『東方』十二月号,1949年
14.「一九五○年大会のことなど」『歴史学研究』一四八号,1950年
15.『大仏開眼』福村出版,1951年
16.「古代天皇制と賎民」『部落』七・八月号,1950年
17.「大化の改新と律令体制」『日本歴史講座2』河出書房,1951年
18.「壬申の乱」『立命館創立五十周年記念論文集 法学部編』,1951年
19.「七四○年の藤原広嗣の反乱」『法と経済』一一六号,1951年
20.「壬申の乱前後」『日本史研究』16,1952年
21.「最近の歴史学界における主潮」『思想』八月号,1952年
22.「大仏開眼記」『ブディスト・マガジン』十・十一・十二月号,1952年
23.「天平末葉における橘奈良麻呂の変」『立命館法学』2,1952年
24.「長屋王」『立命館文学』93,1953年
25.「白鳳の宮廷詩人」『萬葉』四月号,1953年
26.「歴研大会についてのいくつかの所感」『歴史学月報』八月号,1953年
27.『萬葉の世紀』東京大学出版会,1953年
28.「藤原恵美押勝の乱」『立命館大学人文科学研究所紀要』1,1953年
29.「民族の心」(のち「日本における英雄時代の問題に寄せて」と改題)『改造』十月号,1953年
30.「歴史教育と部落問題」『部落』十二月号,1953年
31.「吉野作造」『日本の思想家』毎日新聞社,1954年
32.『部落の歴史と開放運動』(古代編執筆)部落問題研究所,1954年
33.「七、八世紀における『公民』の歴史的性格」『立命館法学』8,1954年
34.『萬葉の時代』岩波書店(岩波新書),1954年
35.「萬葉の盛期としての白鳳」『萬葉集大成』5,1954年
36.「大伴家持小論」『萬葉』15,1955年
37.「大化改新」『日本歴史講座1』東京大学出版会,1955年
38.「吉野裕『防人歌の基礎構造』書評」『日本文学』八月号,1956年
39.「柿本人麻呂」『体系文学講座7』青木書店,1955年
40.「女帝と詩人」(立命館土曜講座),1955年
41.「萬葉人の恋と愛」『国文学 解釈と鑑賞』十月号,1955年
42.「大化改新−班田農民をめぐる諸問題−」『日本史研究』33・44・46,1956年
43.『新日本史のカギ』(座談会)第一巻、第二巻,東京大学出版会,1957年
44.「持統天皇論」『立命館法学』19,1957年
45.「部落史研究の問題点」『部落』九月号,1957年
46.「萬葉の精神」(のち「日本浪漫派の古典評価について」と改題)『文学』四月号,1958年
47.「萬葉集の創造的精神」『日本文化研究1』新潮社,1958年
48.『日本の歴史 第二巻 飛鳥と奈良』(共著)読売新聞社,1959年
49.「蘇我倉山田石川麻呂事件について1」『立命館法学』28,1959年
50.『日本古代政治史の研究』岩波書店,1959年
51.「萬葉時代」『古典日本文学全集』2,1959年
52.「基本的人権と日本文化」『文化と部落問題』二月号,1960年
53.『萬葉の創造的精神』青木書店,1960年
54.「万葉における『みやび』の発現について」『歴史における芸術と社会』(中井宗太郎傘寿記念)みすず書房,1960年
55.『大化の改新』岩波書店(岩波新書),1961年
56.「律令体制の成立」『立命館法学』39・40(合併号),1962年
57.「天平文化」『岩波講座 日本歴史3』岩波書店,1962年
58.「摂関政治」『岩波講座 日本歴史4』岩波書店,1962年
59.「平城上皇の変についての一試論」『立命館法学』44,1963年
60.「日本近代史学の発展」『岩波講座 日本歴史22』岩波書店,1963年
61.「近江朝における宮廷文化の発現」『立命館文学』二一九号,1963年
62.「憶良、旅人と家持の世界」『国文学 解釈と鑑賞』一月号,1964年
63.『日本の歴史4 平安京』中央公論,1965年
64.「萬葉集と古代政治史」『国文学 解釈と教材の研究』十一月号,1965年
65.『国民の歴史 飛鳥朝』文英堂,1966年
66.『女帝と道鏡』中央公論社(中公新書),1969年
67.『王朝政治史論』岩波書店,1970年
78.『藤原道長』岩波書店(岩波新書),1970年
79.「清水克彦『萬葉論集』書評」『文学』一月号,1971年
80.「若き日の家持像」『文学』九月号,1971年
81.『大伴家持』平凡社,1971年
82.「歴史の変貌と萬葉集」『国文学 解釈と教材の研究』五月号,1972年
83.「柿本人麻呂論序説 その一」『文学』九月号,1972年
84.「柿本人麻呂論序説 その二」『文学』三月号,1973年
85.『柿本人麻呂』岩波書店(岩波新書),1973年
86.「柿本人麻呂論序説 その三」『文学』四月号,1975年
87.『平将門』朝日新聞社,1975年
88.『続萬葉の世紀』東京大学出版会,1975年
89.「王朝文化における異質なるもの」『国文学』六月号,1976年
90.「神亀年代における宮廷詩人のあり方について」『文学』四月,1977年
91.『天武朝』中央公論社(中公新書),1978年
92.『壬申の内乱』岩波書店(岩波新書),1978年
93.「柿本人麻呂論序説 その四」『文学』六月号,1979年
94.「柿本人麻呂論序説 その五」『論究日本古代史』学生社,1979年
95.『萬葉群像』岩波書店(岩波新書),1980年
96.『古代王朝の興亡』筑摩書房,1980年
97.『中世の武家と農民』筑摩書房,1982年
98.『柿本人麻呂論』岩波書店,1983年
99.「大化改新への政治過程」『明日香風』1983年
100.『萬葉集とその世紀(上)』新潮社,1984年
101.『萬葉集とその世紀(中)』新潮社,1984年
102.『萬葉集とその世紀(下)』新潮社,1985年
103.『北山茂夫 遺文と書簡1・萬葉の世紀とその前後(上)』みすず書房,1985年
104.『北山茂夫 遺文と書簡2・萬葉の世紀とその前後(下)』みすず書房,1985年
105.『北山茂夫 遺文と書簡3・学究として教師として』みすず書房,1985年
106.『北山茂夫 遺文と書簡4・向南山書簡集(上)』みすず書房,1985年
107.『北山茂夫 遺文と書簡5・向南山書簡集(中)』みすず書房,1986年
108.『北山茂夫 遺文と書簡6・向南山書簡集(下)』みすず書房,1986年

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