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万葉集について

万葉集について

万葉集には様々な魅力があります。そして、また、なぞもあります。万葉集を読んでいると、古代日本史の舞台裏が見えるようなそんな感じにさせてくれます。

1.万葉集の魅力

 ある友人が、「『万葉集』の歌というのは、読む人の感性によっていろいろな解釈が出来ると思います。そこが「万葉ファン」の多い理由でもあるんでしょう」と語っておりますが、そのような自由な読みかたができる古典として「万葉集」は希有な存在なのではないかと感じています。

「源氏物語」「今昔物語」などすばらしい古典だと思いますが、自由に夢を膨らませ、想像の世界に入って行けるものではありません。万葉集がそのような読みかたができるのは、短歌(あるいは長歌)といった形式で書かれているということもあると思いますが、何よりも歴史と密接に繋がっているという点にあるのではないでしょうか。

 歴史上の有名人が至る所に登場しています。その中には悲劇的な最後を遂げたひとびとも数多くおり、事件の背景や状況を想像することができます。大津皇子とその姉の大伯(来)皇女の歌や皇子の辞世歌、有馬皇子の歌などがそれに当たります。大津皇子は姉のもとを訪ね何を話したのか。興味は尽きません。

 また、この万葉集には結構スキャンダラスなことが載っています。今のように、テレビや週刊誌のなかった時代、原・万葉集はいろいろなひとからひとへ回し読みされたのではないかと思っています。天武天皇と額田姫王と天智天皇の三角関係、高市皇子の妃の但馬皇女と穂積皇子の不倫、十市皇女の挽歌で見せた高市皇子の思いなど、天皇家の系図を片手に歌を見ていくと、意外な事実が分かってきます。

 宮廷歌人である柿本人麻呂は、僕の大好きな歌人のひとりですが、あれだけの歌を作り、皇子・皇女の挽歌を歌っていながら、不思議なことに正史(日本書紀・続日本紀)にはどこにも「柿本人麻呂」の名前が登場しません。正史に載っていないから「微位微官」であるというのが通説ですが、和同元年(708年)従四位下で死んだ「柿本佐留」が人麻呂本人であるという説に興味を感じています。

 人麻呂の辞世歌と人麻呂の死を悼んで歌われた歌の状況がバラバラであるために、人麻呂の死はいろいろと憶測を生んでいます。多くのひとが様々な角度からこの点を論じていますが、どれが正しいかどうかは別として、どれも「人麻呂」への思い入れがあるようです。

 ぼくが、人麻呂の歌にのめり込むきっかけは、一般に「泣血哀慟歌」と呼ばれる歌で、軽の里に住む人麻呂の妻の死を悼んだ歌です。長歌であるため少し読みにくいところはありますが、何か映画のワンシーンを見ているような感動をおぼえました。人麻呂の短歌もすばらしいが、人麻呂の真骨頂は長歌だと考えています。

 山上憶良というと必ず教科書に「銀も金も玉も何せむに勝れる宝子に及かめやも」が載っていますが、その歌の前に「釈迦如来の、金口に正に説きたまわく『等しく衆生を思ふことは、羅喉羅の如し』と。又説きたまわく『愛びは子に過ぎたるはなし』と。至極の大聖すら、尚ほ子を愛ぶる心ます。況むや世中の蒼生の、誰かは子を愛びざらめや」という文が付けられています。「沈痾自哀の文」も立派な文章で、憶良の歌は歌そのものより文章を読むのがたのしい。

「貧窮問答歌」は貧乏人と極貧者との問答形式の歌ですが、律令制度の矛盾を突くと同時に、万葉集にはめずらしく人間の平等主義とでも言えるものがでています。「・・・里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり 術無きものか 世間の道」と訴えていますが、ちょうど同じ頃、海犬養岡麿が歌った「御民われ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば」とは対照的です。天皇・貴族と農民との貧富の差ははげしく、「公地公民制」が農民の肩にずっしりとかかっている様が読み取れます。

 このように、ひとつ万葉集といっても様々なものが載録されていることがお分かりと思いますが、大伴家持の「歌日誌」も載せられています。不思議なのは、恋の歌である相聞歌ではなく、ほととぎすや花を歌った歌が多く、友人の大伴池主や橘奈良麿の交友との間で交わしたこれらの歌には、何年何月何日と日付まで振っています。天平宝字元年(757年)の橘奈良麿の変で池主も投獄されますが、家持が「歌日誌」を付けたのは、自分が奈良麿らの謀議には荷担していないことを立証するためだと考えています。その証拠に謀議に参加している池主ら同胞に対し「族を喩せる歌」という歌を歌っています。

 事件も一見落着し、自分に嫌疑がかからないと知ってからプッツリと歌を作るのを止めてしまいます。万葉集の最後には、この大伴家持の次ぎの歌が載っています。「新しき年の始の初春の今日ふる雪のいや重け吉事」意味深長な歌とは思いませんか。

 奈良麿の変では、家持も無傷ではなく因幡国守に左遷されます。奈良麿らの謀議に荷担していたとは考えられませんが、奈良麿らの謀議のカモフラージュに家持の歌会が利用された可能性もあると、最近考えています。だからこそ因幡国に左遷されたのではないでしょうか。

 万葉集の魅力は尽きません。

[資料]

1.大津皇子関連

 (1) 大津皇子ひそかに伊勢神宮に下りて上り来ましし時、大伯皇女の作りませる御歌二首
   ・わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露にわが立ちぬれし
                           (巻2-105)
   ・二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ
                           (巻2-106)

 (2) 大津皇子薨りましし後、大来皇女、伊勢の斎宮より京に上りましし時、作りませる御歌二首
   ・神風の伊勢の国にもあらましをいかにか来けむ君もあらなくに
                           (巻2-163)
   ・見まく欲りわがする君もあらなくにいかにか来けむ馬疲るるに
                           (巻2-164)

 (3) 大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りし時、大来皇女哀傷みて作りませる御歌二首
   ・うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を兄弟とわが見む
                           (巻2-165)
   ・磯の上に生ふるあしびを手折らめど見すべき君がありといはなくに
                     (巻2-166)
      右の一首は、今案ふるに、葬を移す歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢神宮より京に還りし時、
      路の上に花を見て、感傷み哀咽しみてこの歌を作りませるか。

 (4) 大津皇子の被死えし時、磐余の池の般にして流涕みて作りませる御歌一首
   ・ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
                           (巻3-416)
      右、藤原宮朱鳥元年冬十月なり。

2.有馬皇子関連

 (1) 有馬皇子、みづから傷みて松が枝を結ぶ歌二首
   ・磐白の浜松が枝を引き結びまさきくあらばまたかへり見む
                           (巻2-141)
   ・家にあれば笥に盛る飯を草まくら旅にしあれば椎の葉に盛る
                           (巻2-142)

 (2) 長忌寸意吉麻呂、結び松を見て、哀咽める歌二首
   ・磐白の岸の松が枝結びけむ人はかへりてまた見けむかも
                           (巻2-143)
   ・磐白の野中に立てる結び松情も解けずいにしへ思ほゆ
                           (巻2-144)

 (3) 山上臣憶良の追ひて和ふる歌一首
   ・つばさなすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
                           (巻2-145)
    右、件の歌等は、柩を挽く時に作れるにあらずといへども、歌の意に准擬へて、故、挽歌の類に載せたり。

 (4) 大宝元年辛丑、紀伊国に幸しし時、結び松を見る歌一首・柿本朝臣人麻呂歌集の中に出でたり
   ・後見むと君が結べる磐白の小松が末をまた見けむかも
                           (巻2-146)

3.天武天皇・額田姫王・天智天皇の三角関係

 (1) 天皇、蒲生野に遊猟しましし時、額田王の作れる歌
   ・あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
                           (巻1-20)

 (2) 皇太子の答へませる御歌
   ・むらさきのにほえる妹を憎くあらば人づまゆゑに吾恋ひめやも
                           (巻1-21)
    紀に曰く、天皇七年丁卯夏五月五日、蒲生野に縦猟したまひき。時に大皇弟、諸王、内臣、及び群臣、悉皆に従ひきといへり。


4.但馬皇女の不倫関係

 (1) 但馬皇女、高市皇子の宮に在しし時、穂積皇子を思ひて作りませる御歌一首
   ・秋の田の穂向のよれる片よりに君によりなな言痛かりとも
                           (巻2-114)

 (2) 穂積皇子に勅して近江の志賀の山寺に遣しし時、但馬皇女の作りませる御歌一首
   ・おくれゐて恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ吾背
                           (巻2-115)

 (3) 但馬皇女、高市皇子の宮に在しし時、ひそかに穂積皇子に接ひ、既にあらはれて作りませる御歌一首
   ・人言をしげみ言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る
                           (巻2-116)

5.高市皇子の十市皇女への思い

 (1) 十市皇女薨りましし時、高市皇子尊の作りませる御歌三首
   ・三諸の神の神杉巳具耳牟自得見監乍共いねぬ夜ぞ多き
                           (巻2-156)
   ・神山の山辺まそゆふ短ゆふかくのみ故に長くと思いき
                           (巻2-257)
   ・やまぶきの立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
                           (巻2-158)

6.柿本人麻呂関連

 (1) 柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死らむとせし時、自ら傷みて作れる歌一首
   ・鴨山の岩根しまける吾をかも知らねと妹が待ちつつあらむ
                           (巻2-223)

 (2) 柿本朝臣人麻呂の死りし時、妻依羅娘子の作れる歌二首
   ・今日今日とわが待つ君は石川の貝に交りてありといはずやも
                           (巻2-224)
   ・直にあふはあひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
                           (巻2-225)

 (3) 丹比眞人、柿本朝臣人麻呂の意に擬へて報ふる歌一首
   ・荒波に寄りくる玉を枕に置き吾ここにありと誰か告げけむ
                           (巻2-226)

 (4) 或本の歌に曰く
   ・天離る夷の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし
                           (巻2-227)
      右の一首の歌、作者いまだ詳かならず。但、古本はこの歌をこの次に載せたり。

 (5) 柿本朝臣人麻呂、妻の死りし後、泣血哀慟みて作れる歌二首併に短歌(最初の長歌のみ載録−編者)
  ・天飛ぶや 軽の路は 吾妹子が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど やまず行かば 人目を多み
   数多く行かば 人知りぬべみ さねかづら 後もあはむと 大船の 思ひたのみて 玉かぎる 岩垣淵の 隠りのみ
   恋ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 沖つ藻の なびきし妹は もみち葉の
   過ぎていにきと 玉づさの 使の言へば あづさ弓 声に聞きて 言はむすべ せむすべ知らに 声のみを
   聞きてあり得ねば わが恋ふる 千重の一重も 慰むる 情もありやと 吾妹子が やまず出で見し 軽の市に
   わが立ち聞けば 玉だすき 畝火の山に なく鳥の 音も聞えず 玉ほこの 道行く人も 一人だに 似てし行かねば
   すべをなみ 妹が名よびて 袖ぞ振りつる (巻2-207)

 (6) 問答(柿本朝臣人麻呂歌集の中から)
   ・皇祖の神の御門をかしこみとさもらふ時にあへる君かも
                         (巻11-2508)
   ・まそ鏡見とも言はめや玉かぎる石垣淵のこもりたる妻
                         (巻11-2509)

7.山上憶良関連

 (1) 貧窮問答の歌一首併せて短歌(短歌は省く)
   ・風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は 術もなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろい
    糟湯酒 うちすすろいて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ ひげかきなでて 吾を除きて
    人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻ぶすま 引き被り 布肩衣 有りのことごと 著襲へども
    寒き夜すらを 吾よりも 貧しき人の 父母は 飢え寒からむ 妻子どもは 乞ひて泣くらむ この時は
    いかにしつつか 汝が世は渡る
    天地は 広しといへど 吾が為は 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 吾がためは 照りや給はぬ
    人皆か 吾のみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 吾も作れるを 綿も無き 布肩衣の
    海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち懸け 伏いほの 曲いほの内に 直土に 藁解き敷きて
    父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲みゐて 憂へ吟ひ かまどには 火気ふき立てず こしきには
    蜘蛛の巣かきて 飯炊く 事も忘れて 奴延鳥の のどよひをるに いとのきて 短き物を 端きると
    いへるがごとく 楚取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり 術なきものか 世中の道
                                                            (巻5-892)

8.大伴家持関連

 (1) 三年春正月一日、因幡国の庁に、国郡の司等に饗を賜へる宴の歌   一首
   ・新しき年の始の初春の今日ふる雪のいや重け吉事
                         (巻20-4516)

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2.真間の手児奈

 養老年間、当時常陸国司であった藤原宇合の部下として、高橋連虫麿は、「常陸国風土記」の資料収集に携わる傍ら、その資料を題材とした歌をいくつも歌っている。その中に「勝鹿の真間娘子を詠める歌一首并せて短歌」と題して、以下の歌が『万葉集』巻九に載っている。

 鶏が鳴く 東の国に 古に ありける事と 今までに 絶えず言ひ来る 勝鹿の 真間の手児奈が 麻衣に 青衿着け 直さ麻を 裳には 織り着て 髪だにも 掻くきは 梳らず 履をだに 穿くかず行けども 錦綾の 中につつめる 斎児も 妹に如かめや 望月の 満れる 面わに 花の如 笑みて立てれば 夏虫の 火に入るが如 水門入りに 船漕ぐ如 行きかぐれ 人のいふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて 波の音の 騒く湊の 奥津城に 妹や臥せる 遠き代に ありける事を 昨日しも 見けむが如も 思ほゆるかも
                                                        (巻9−1807)
     反歌
 勝鹿の真間の井を見れば立ち平らし水汲ましけむ手児奈し思ほゆ
                                                        (巻9ー1808)

 勝鹿(葛飾)の真間とは、現在の千葉県市川市真間のことで、もちろんのこと後代の作ではあるが今もこの地に手児奈霊堂が建立されている。多くの男たちに求婚されてついには真間の入江に身を投じたという手児奈の入水伝説が叙情豊かに歌われており、粗末な身なりで「髪もとかさず、履き物もはかずにいる」が、その清純な姿に誰もが魅了され、「夏虫が火に入るように」「湊に船が入ってくるように」多くの男たちがこの手児奈に求愛した。手児奈が微笑んで立ってると、「錦綾に大切に包まれている子ども」ですらその笑顔には勝てなかったという。

 高橋連虫麿がこの地を訪れた時は、すでにこの話は伝説となっていたが、虫麿は昨日のことであるかのように、生き生きとした手児奈の姿を映し出してくれる。
 手児奈はここでは清純な処女と見られているが、山部宿禰赤人が「勝鹿の真間娘子の墓を過ぎし時に」歌った歌は少し感じが違う。

 古に 在りけむ人の 倭文幡(しつはた)の 帯解きかえて 伏屋立て 妻問ひしけむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城を こことは聞けど 真木の葉や 茂りたるらむ 松の根や 遠く久しき 言のみも 名の みもわれは 忘らえなくに
                                                         (巻3−431)
     反歌
 われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児奈が奥つ城処
                                                         (巻3−432)
 葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児奈し思ほゆ
                                                         (巻3−433)

 「帯解きかえて伏屋立て妻問ひしけむ」という表現からすると、どうやら手児奈が清純な処女であると考えたのは、どうやら僕の勝手な思いこみであったようだ。
 それを証明するかのように、大和岩雄が近著『遊女と天皇』の中で、真間の手児奈は「遊行女婦(あそびめ、または、うかれめ)」と呼ばれる人であり、後代の「遊女」につながるものだと述べている。また、手児奈という名もてっきり固有名詞だと思っていたが実は普通名詞であって、手児奈の「奈」は主に「東国語に見られる愛称の接尾語」で、手児は「本来幼児をいう言葉であった」という。「手で抱かれる幼児、赤ん坊をいう『てこ』(東国方言では『てご』)が、女を指すようになったのは、たぶん抱かれる女を抱かれる幼児と同じと見たからであろう。『てごめ』という言葉からみても、女性一般ではなく、本来は、特別な若い女性をいったのであろう」

 柳田国男は、「遊女といふ語には、本来売春といふ意味はありませんでした。万葉集の頃には之を遊行女婦(うかれめ)と名つけて居りまして、九州から瀬戸内海の処々の船着き、それから北は越前の国府あたりにも、此者が居て歌を詠んだ話が残って居ります。其名称の基く所は、例の藤沢寺の遊行上人などの遊行も同じで、所謂一所不在で、次から次へ旅して居る女と謂ふに過ぎませぬ。日本の語に直してうかれ女と申したのも、今日の俗語の浮かれるといふのとは違ひ、単に漂泊して定まった住所の無いことです。後に之を『あそび』と謂ったとは、言はば一種のしゃれの如きもので、遊といふ漢字が一方には又音楽の演奏をも意味し、遊女が通例其『あそび』に長じて居った為に、わざと本の意を離れて斯うも呼んだものかと考へます」と言っているが、大和岩雄の言うように、「彼女たちは男から男へと『遊行』する女婦」であり、「彼女たちが『常に孤独であった』のは、心(というより『愛』)において『うつろふ』女婦、つまり遊行する女婦であったからである」

 その昔、葛飾の真間は、「真間・国府台の南方、中山・鬼越の台地から西方の江戸川まで東西に細長く砂州が堆積し、真間の台地下は江戸川河口からの入江となって船の出入りする湊や岸辺に集落を形成した。真間川流域の低地はその入江の名残である」と地元の歴史家である千野原靖方氏は述べている。

 多くの男に求婚され、ついにはこの入江に入水した「真間の手児奈」の自殺の真相は、この大和岩雄のいう「孤独感」と、「遊行女婦」という身の上ではなかったか。多くの男から求愛されても彼女の孤独感は癒されず、かえって多くの男に愛されれば愛されるほどその孤独感が増していき、ついに自殺に到ったとは考えられないか。

 北山茂夫が、その著『萬葉集とその世紀(中)』で、上で述べた高橋連虫麿の歌を評して、「ただ一つ残念なのは、何故に娘子が死をえらんだのかの悲劇の焦点が、つっこんで書かれていないことである」と述べているが、「手児奈」が普通名詞で、単なる娘子でなく、「遊行女婦」を意味していたとしたら、虫麿にしてみれば言うまでもないことだったのかもしれない。

 そう考えると、「いくばくも生けらじものを(いくばくも生きられないと知って)」という虫麿の歌の意味も明らかになってくるのではないだろうか。

[参考文献]
1.日本古典文学体系「萬葉集二」岩波書店、1959年
2.北山茂夫「萬葉集とその世紀(中)」新潮、1984年
3.大和岩雄「遊女と天皇」白水社、1993年
4.千野原靖方「江戸川ライン歴史散歩−川沿いの史跡を訪ねて−」崙書房、1991年

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3.謎の歌人・柿本人麻呂


1.はじめに

 柿本人麻呂というと、高校の古文の時間に先生から代表的な『万葉集』歌人のひとりと教えられ、その代表作として、

 東の野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ
                          (巻1−48)

 という歌を読まされた思い出を持たれている方もおられると思います。ぼくも当時の古文の授業を思い出すと「こんな歌のどこがいいのだろう」と不思議でなりませんでした。社会人になって、いつしか飛鳥・奈良時代に興味を持ちはじめ、その時代背景が分かってくると、俄然、この歌の意味や『万葉集』の魅力が分かってきました。岩波文庫の『万葉集』をパラパラめくっただけで、歴史上の人物の名前がそこかしこに出てきます。これが『万葉集』の大きな魅力ですが、作家・永井路子女史の言うように「わからなくても口ずさんでいるうちになんとなくわかってくる」という現代人にとって非常に接しやすい古典であることもその魅力のひとつと言えます。

 この『万葉集』に登場する歌人の中でも異彩を放っているのがこの柿本人麻呂です。持統天皇の治世とほぼ同時期に活躍した歌人ですが、『日本書紀』や『続日本紀』といった正史にまったく名前がでてきません。多くの皇族(皇子・皇女)の挽歌を歌っているので「宮廷詩人」とも言われていますが、そのような役職があったという証拠はどこにもありません。正史に載っていないから「微位微官」だというのが定説になっていますが、このような皇族との密接なつながりを考えるとそれも疑問に思えてきます。

 また、柿本人麻呂は挽歌の他に多くの相聞歌、つまり、恋の歌を歌っています。これらには非常に情熱的な歌が多く、人麻呂の素顔が出ている気がします 以下、この謎めいた柿本人麻呂について、その「妻」のひとりと思われる「軽の里の女人」について、人麻呂本人の「実像」に関するいくつかの見解、そして、「いろは歌」と人麻呂との意外な関連について述べたいと思います。(これは、ぼくが所属していた「古代史通信」という歴史サークルの同人誌に掲載した文章に一部手を加えたものであることをあらかじめお断りしておきます)

2.軽の里の女人

 柿本朝臣人麻呂がその妻の死んだ後に「泣血哀慟」して作った長歌と短歌が『万葉集』巻二に載っている。

 天飛ぶや 軽の路は 吾妹子が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ 狭根葛(さねかずら)  後も逢はむと 大船の 思ひ憑(たの)みて 玉かぎる 磐垣淵(いわかきふち)の 隠(こも)りのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れ行くが如 照る月の 雲隠る如 沖つ藻の 靡きし妹は 黄葉の 過ぎて去にきと 玉梓の 使の言えば 梓弓(あづさゆみ)  声(おと)に聞きて 言はむ術 為むすべ知らに 声のみを 聞きてあり得ねば わが恋ふる 千重の一重も 慰むる 情(こころ)もありやと 吾妹子が 止まず出で見し 軽の市に わが立ち聞けば 玉襷(たまたすき) 畝火(うねび)の山に 鳴く鳥の 声も聞えず 玉桙(たまほこ)の 道行く人も 一人だに 似てし行かば すべをなみ 妹が名喚びて 袖そ振りつる
                          (巻2−207)
   短歌二首
 秋山の黄葉を茂み迷(まと)ひぬる妹を求めむ山道(やまぢ)知らずも
                          (巻2−208)
 黄葉の散りゆくなべに玉梓(たまづさ)の使を見れば逢ひし日思ほゆ
                          (巻2−209)

 これに続いてもうひとつ長歌と短歌二首とその別伝が載っているが、一部研究者は歌の対象となる女性が上の歌の「軽の里の女人」とは別人と見ているので、ここでもそれに倣って省略したい。

 この歌は、ぼくが好きな『万葉集』の歌のひとつだが、皆さんはこの歌を読んでどのような感じを受けただろうか。

 題詞にある「泣血哀慟」とはなんともすごい言葉だが、亡き妻との出逢いの場と思われるこの軽の市を訪れた人麻呂が、その人混みの中でひたすら亡き妻の姿を追い求める情景は、何か映画の一場面を見ているかのように読むものの心の中に迫ってくる。千数百年を過ぎてもいまなお読者を感動させる歌を作った柿本人麻呂はやはり「歌聖」と呼ぶにふさわしい大歌人と言えよう。

「軽の里」とは、現在の奈良県橿原市大軽付近とのことだが、人麻呂は人目を気にして亡き妻に逢いに行けずにいる。当時、結婚というと、ご存知のとおり「妻問婚」といって、男と女は同居せずに男が女の家を訪れて一夜を共にする形をとっていた。当然、当時は現在のように結婚相手はひとりという制約もなかった。

 そのような状況の中で人目をはばかるのは、「軽の里の女人」が高貴なひとと何かしらの関係のある女性だったからではないだろうか。

『万葉集』巻十一に、柿本朝臣人麻呂歌集の歌として次の二首の短歌が載っている。

 皇祖(すめろき)の神の御門(みかど)を懼(かしこ)みと侍従(さもら)ふ時に逢える君かも
                         (巻11−2508)
 真祖鏡(まそかがみ)見とも言わめや玉かぎる石垣淵の隠(こも)りたる妻
                         (巻11−2509)

 この「問答」という題詞の歌を、北山茂夫等の一部の研究家は「軽の里の女人」と人麻呂との間での相聞歌と見る。確かに、石(磐)垣淵という言葉は、上の長歌にも出てきており、2509番の歌は柿本人麿本人の歌と考えられる。それにしても、「隠りたる妻」とは、まさに上に掲げた長歌の物語の状況そのものではないか。

 この短歌が「軽の里の女人」と人麻呂の歌だとすると、2508番の歌から見て、この女性は人麻呂と同様に天皇の行幸に従駕していたと考えられる。

 宮廷に仕えていた女性との出逢い。人目を忍ぶ邂逅。そして、使いのものから聞いたその女性の突然の死・・・。

 柿本人麻呂自身の記録が正史『日本書紀』や『続日本紀』にまったく残されていないので、単なる思いつきとしかいいようがないのだが、この女性は文武天皇と関係のあるひとではないだろうか。文武天皇の名はご存知の通り、草壁皇子の嫡子の軽皇子である。当時、皇子の名前は生育地などから付けられていた。「軽の里」で育った若き皇子が宮廷に出仕していた年上の同郷の女性に恋をした。が、実はその女性が恋していたのは「宮廷詩人」として持統天皇に仕えていた人麻呂だった、とは考えられないか。

 人麻呂は持統女帝の行幸に従駕したときの歌をいくつも残しているので、「軽の里の女人」が「侍従ふ時」に人麻呂と出逢ったのも同じ持統女帝の行幸のときと見られている。北山茂夫氏は、その論文「詩人と軽の里の女人との恋」の中で、

<この女人と人麻呂の恋の成立は、あるいは、天武朝の末期まで遡れるかもしれないが、すくなくとも持統女帝の紀伊行幸(690年)、伊勢行幸(692年)の期間に、二人の親密な関係をあとづけることができる。この年代こそは、人麻呂ははじめて宮廷詩人として登上し、旺んに儀礼歌を制作した、かれの作歌史のうえでの重大な画期であった。・・・・この女人が、軽の地の生家で死没したのは、692年(伊勢行幸あり)から701年(伊勢行幸あり)までの間の或る年月である。>

と述べている。

 また、梅原猛氏の言うように、柿本朝臣人麻呂が『続日本紀』の和銅元年(708年)に死亡記事が出ている柿本朝臣佐留と同一人物で、享年60有余歳だとすると、上で述べた思いつきが成り立つかどうか。仮にこの女性の死亡した時期を大宝元年(701年)とすると、そのとき、

(1)柿本朝臣人麻呂 ・・・・・ 55才くらいか
(2)軽皇子(文武天皇)  ・・・ 19才

となる。泣血哀慟歌のイメージからすると「軽の里の女人」は当時20才と言いたいところだが、人麻呂の年齢を考えると、若くても25才くらいか。また、軽皇子が立太子したのが文武元年(697年)で15才のときだから、軽皇子が「軽の里の女人」に出逢ったのは、その後のことと考えられる。

 しかし、人麻呂がこの女性と出逢ったとする持統四年(690年)には、軽皇子はたったの8才であり、その女性がその皇子のために「隠りたる妻」とならなければならないとはとうてい考えられない。人麻呂と持統女帝との間に関係があったとの説もあるようなので、女帝の目を気にしていたというのが真相かもしれない。

「軽の里の女人」にはどこか神秘的なところがある。源氏物語の夕顔のようなはかなさを感じる。あれこれと詮索しないで、そっとしてあげたほうがいいのかもしれないが、なぜか気になってしかたがない。

3.人麻呂の実像について

 哲学者・梅原猛氏がその著書『水底の歌−柿本人麿論−』を世に出し、古代史ファンに一大センセーションを巻き起こしてからすでに二十年以上の歳月が流れた。その間、万葉学者や古代史の先生方は、どちらかと言うと、同書を無視するかあるいは否定的な意見を出すかであったが、

(1)人麻呂が『続日本紀』の「従四位下柿本朝臣佐留」と同一人物で、
(2)政争に巻き込まれ、流罪の後美濃郡高津鴨島で水死刑に処せられた

とする梅原説を支持する古代史ファンは意外と多い。かく言うぼくもかつて梅原説の熱烈な信奉者であった。しかし、「氏は学者であるというよりも、はるかに芸術家なのであろう」という古田武彦氏の指摘に納得される方も多いのではないだろうか。

『万葉集』巻二に載る人麻呂の辞世歌に対し、丹比真人某が歌った「柿本朝臣人麻呂の意に擬へて報ふる歌」、

 荒波に寄りくる玉を枕に置きわれここにありと誰か告げなむ
                        (巻2−226)

の「海浜に詩人が瀕死で横たわる」イメージと室町時代の万葉学者・由阿の『詞林采葉抄』に載る「石見風土記逸聞の人麻呂配流の伝承」等から「人麻呂は流罪の後に水死刑に処せられた」との結論が生まれ、強引にそこに話しを持っていったのが『水底の歌』である。あれほどまでに強烈に斎藤茂吉説を非論理的だと批判した梅原氏が、その後の同氏に対する批判に一切答えず沈黙を守っているのは、同氏自身「梅原説」の論旨の脆弱性をよく知っているからであろう。

 しかし、先学の批判を通じて自己の「人麻呂論」を打ち立て、人麻呂研究の端緒を開いた功績は大いに称えねばなるまい。また、通説となっている真淵等の「微位微官説」よりも「従四位下で死に、死後正三位を追贈された」と言う方が「直感」として優れているとも言える。梅原氏と同様、ぼくには、持統天皇の行幸に従駕したり天武天皇の諸皇子・皇女の挽歌を作った人麻呂が「朝集使・税帳使」として全国を旅したとは思えない。ましてや「砂鉄事業の監督にいった人麿は激務に疲れはて、伝染病にかかって死んだ」(『水底の歌』)という斎藤茂吉説は問題外と言えよう。

 ここでは、『水底の歌』以降の柿本人麻呂論からいくつかをピックアップし、ぼくなりに簡単にまとめてみたい。興味ある人は参考文献に直接当たっていただきたい。

a.微位微官説批判(田崎宏氏)

 人麻呂を論じる人のほとんどすべてが、人麻呂は六位以下の官人であるとしている。これは、『日本書紀』や『続日本紀』といった正史に人麻呂の名が見えないことと、江戸時代中期の学者・契沖が『万葉代匠記』で人麻呂の辞世歌の題詞に言及し、「臨死時といえるにて六位以下にて官位は云うに足らざる程なること知られたり」と述べ、賀茂真淵らがこれをもとに人麻呂論を展開したことにより、ほぼ定説となっている。梅原猛氏も「卒と書かれるべきところを流人であったために死と書かれている」とし、「死」と書かれているから六位以下の官人であるとの論理には疑問を挟んでいない。

『養老律令』の「喪葬令」には「凡そ百官身亡しなば、親王及び三位以上は薨と称せよ。五位以上及び皇親は卒と称せよ。六位以下庶民に至るまでは死と称せよ」とあり、契沖はこれをもとに人麿は六位以下と断定している。

 これの元となった中国の『典礼』には「天子死曰崩。諸侯曰薨。大夫曰卒。士曰不禄。庶人曰死」とある。これをもとに『歴史研究』誌上で会員研究「人麻呂の実像」を発表した埼玉県会員の田崎宏氏は「崩・薨・卒」等は「普通の死、いいかえれば生物学的死という前段現象が発生した後」に用いられる「死後の敬称的表現」であるが、人麻呂辞世歌の「臨死時」の「死」はまさにその「生物学的死」を意味するものであり、「死」という字が使われているからといって人麿が六位以下とは断定できないという。人麻呂が辞世歌を歌ったのは「臨死時(みまからむとせしとき)」であり、まだ死んではいないのである。「六位以下であれば死と表記されるが、死と書いてあるから六位以下だということにはならない。逆は真ではない」

 真淵は契沖の「微位微官説」を受けて、「従四位下」で死亡した佐留が「六位以下」の人麻呂と同一人物であるはずがないと結論付けるが、田崎氏の議論が正しいとすると、真淵説の前提そのものが否定され、「別人」だとする根拠もなくなってくる。

「別人でなければ同一人であるほかない」と田崎氏は言うが、果たしてそうだろうか。氏は「人麻呂」の名を柿本朝臣佐留の「字(あざな)または別名と考えた方が、人麻呂の名が史書にないことの説明にも役立つ」と言う。しかし、微位微官説の崩壊は真淵の別人説の根拠をなくすが、だからといって、同一人説が成立すると結論付けられない。「その宮廷活動の期間や死亡の時期もほとんど重なっている」し、「殊に人麻呂が多くの皇子や皇女と幅広い接触を持ち得たということは、それだけ顔も知られた相応の有位者であったからであろう。それも丁度佐留の位階に対応する」から、同一人説が成り立つ可能性があることは否定できない。田崎氏の議論で言えるのはそこまでである。

b.鴨山考批判(古田武彦氏)

 柿本人麻呂の辞世歌が『万葉集』巻二に載っている。

 柿本朝臣人麻呂、石見国に在りて臨死らむとせし時、自ら傷みて作れる歌一首

 鴨山の岩根しまける吾をかも知らにと妹が待ちつつあらむ
                         (巻2−223)

 斎藤茂吉はこの「岩根しまける」という表現から、人麻呂の終焉地の「鴨山」は「ただの丘陵あるいは小山ではなく、ほぼ三○○メートルぐらいの巌石のあらわれてゐる山」と考え、そのイメージから石見国の大河・江ノ川沿岸の「津目山」を探し出す。「江ノ川」に茂吉がこだわったのは、やはり、同じ『万葉集』巻二に載る人麻呂の妻・依羅娘子(よさみのおとめ)」が「柿本人麻呂の死りし時」に歌った歌の中で、「石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ」との表現から、「石川=大河=江ノ川」と判断したのであった。

 これに対し、梅原猛氏は斎藤茂吉の「津目山説」の根拠が薄弱であるとして、以前から有力説とされていた高津川河口の「鴨島説」を唱えた。『沢江家文書』等の伝承によると万寿三年(1026年)に大津波で水没したとされるが、氏が「鴨島説」を唱えたのは「もしも人麿が流人だとすると、まことにこの高津沖合の鴨島の地は、流人の住家に適当なところであるように思われる。なぜなら、流人の住家は古来から多く島である」と言うように氏の「人麻呂配流」説の補強ともなるからである。

 後に一読者の手紙から「粕淵村湯抱(ゆがかえ)」に「かも山」と称する山があると聞くや、「石川は大河でなくてはならない」との当初の条件をも忘れ「湯抱」を人麻呂終焉地としてしまった茂吉もいただけないが、「鴨山=鴨島」と全くの別物(山と島)なのにもかかわらず何等疑問もなく自説を披露するのは如何なものか。

古田武彦氏は、人麻呂辞世歌の表現に着目する。「石見国に在りて」と石見国の何処と明記しないのは「石見国の石見で死んだ」からだと言う。

<・・・例をあげよう。『京都で死んだ』という。京都市の市内か郊外で死んだとき、この表現は正しい。『京都府の京都市で死んだ』などという必要はない。いってまちがいではないけれど、やぼくさい。やはり『京都で死んだ』でいい>

と言う。その後の氏の調べで国府の所在地である現在の浜田市がその昔「石見」と呼ばれていたことが分かる。さらに、浜田市のど真ん中である「浜田城」のあるところが「鴨山」と呼ばれていたことも分かり、裏付け資料も見つかった。

 古田氏の新発見かとも思えたが、茂吉も「鴨山考」の中で検討しており、「浜田では国府にあまりに近く、依羅娘子が国府にいたとすれば、『知らにと妹が待ちつつあらむ』という歌の感じに適当ではない。その上、この鴨山もあまりに低い山で『鴨山の磐根し纏ける』という感じではなく、また浜田川は小さい川で『石川に雲たちわたれ』という感じはしない」(『水底の歌』)と茂吉はこの説を一蹴する。

 古田氏の新発見ではないがこの「浜田説」が現時点では一番真実に近いようだ。というのも古田氏の調査で「浜田川が石川と呼ばれていた」という資料が出たことと、この川に洪水が多く「凡庸きわまる相貌の浜田川。いったん、水を吐きはじめると、手がつけられない。家屋は流され、人は死ぬ」という地元の人の話しから、「人麻呂は洪水で死んだのではないか」との仮説が立てられたからだ。

 これは、依羅娘子のもう一首、

 今日今日とわが待つ君は石川の貝に交りてありといはずやも
                         (巻2−224)

の状況説明ともなり、梅原猛の「水死刑」よりも説得力を持つ。ほど遠くない場所におりながら、洪水に遭遇し死を感じた人麻呂は、会いにいけない依羅娘子を思い「知らにと妹が待ちつつあらむ」と考えていたのだろうか。しかし、素朴な疑問だが、はたして、そのような場面で和歌を作れるのだろうか。古田氏の推す「浜田説」も、まだ、仮説の域を脱していないように思える。

c.高市皇子との関係(末田重幸氏)

 人麻呂は、ご存知の通り、高市皇子の殯宮で挽歌を歌ったが、人麻呂の最高傑作とも言われるこの歌が、人麻呂と高市皇子の結び付きの強さを暗示してくれる。しかし、いま注意を向けたいのはこの歌ではなく、『万葉集』巻一の「藤原宮御宇天皇代」の歌として載る「藤原宮の役民の作れる歌」である。これは多くの識者が人麻呂作と考えている歌である。

 やすみしし わが大君 高照らす 日の皇子 あらたへの 藤原が上に 食国を 見し給はむと 都宮は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてありこそ 磐走り 淡路の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜のつまでを もののふの 八十氏川に 玉藻なす 浮べ流せれ そを取ると 騒く御民も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮きゐて わが作る 日の御門に 知らぬ国 寄り巨勢道より わが国は 常世にならむ 図負へる 神しき亀も 新代と いづみの河に 持ち越せる 真木のつまでを 百足らず いかだに作り のぼすらむ 勤はく見れば 神ながらならし
                          (巻1−50)

 人麻呂が時の天皇・持統に献呈した歌と見られている。北山茂夫氏もまた、「すぐれて人麻呂的で、余人にかくまでは模倣できないものではないか」とし「詩の構造からいって、句切れがまったくなくて息長く、しかもたるむことのない力強いリズムもまた、人麻呂の長歌に特有の文学的手法であ」り、「この儀礼歌の作者が人麻呂であることを雄弁に内証する」と述べている。

 だが、この歌を読んでみて不思議に感じた点が三点ほどある。ひとつは持統天皇に献呈したにもかかわらず「日の皇子」と書かれていることだ。女性に対して「皇子」という表現を使った例をぼくはいままで見たことがない。北山氏は現代語訳(大意)の中では親切にも敢えて「日の皇子(持統)」と断り書きを入れている。だが、これはどう考えてもおかしい。

 末田重幸氏は『秘められた挽歌−柿本人麻呂と高市皇子−』の中で、上に述べた疑問から次のように現代語訳をしている。「わが大王の皇子(高市皇子)が田野のひろがる藤原の地に、その国を治めようと広壮な宮殿を建てようとなさり、神意そのもののようにお考えになると、それに応えて天地も相寄って力を貸していくからこそ、近江国の田上山の良質の檜の材を(八十)宇治河に浮かべて流していく。それを引き寄せようと大声で合図しあう人びとも、家を忘れ、わが身のことも忘れて、水のなかで鴨のように浮かんでいて、「わが作る」都の宮殿に、外国からにぎやかに慶賀の使節がやってくる巨勢道から、わが国が永久に栄える国になるという図を負う神亀も、新しい世の到来を告げるように出現して、木津川(泉川)に移動させた檜の材を数十本集めて筏に組み、川をさかのぼらせるのだろう。(天地をあげて)勤め励んでいるさまを見ると、さながら神の御業そのものだ」

 この歌の疑問点の二番めは、人麻呂作歌だとしたら何故作者を明記しなかったのかということだ。名を出すのをはばかる訳があったのだろうか。

 三つめの疑問は、何故この歌には「反歌」がないのかということだ。長歌には必ず「反歌」が添えてある。「反歌」のない長歌は異常である。『万葉集』に採用された経緯にいわくがありそうな気もする。

『日本書紀』持統十年(696年)条に

<秋七月の辛丑の朔に。日蝕有り。庚戌。後皇子尊薨ぬ。八月庚午朔甲午。直広壱を以て多臣品治に授く。併せて物を賜う。元より従ひたてまつれりし功と堅く関を守れることとを褒美てなり。>

 とある。
「後皇子」と高市皇子だと明記しないのもおかしいし、その死の理由が全く記されてないのも気にかかる。さらに、皇子の死亡記事のすぐ後に壬申の乱で活躍した「多臣品治」が三関を守ったことで褒美をもらっているのは、何かしらの異変があったのではと思わせる。

 また、人麻呂の「高市皇子の殯宮の挽歌」の中でも「行方を知らに舎人は惑う」とあり、突然の皇子の死に舎人らの慌てているさまが良く書かれている。関祐二氏は当時の天皇は持統天皇ではなく高市皇子であると述べているが、「日の皇子=高市皇子」はそれを物語っているのかもしれない。さらに言えば、近年、北宮(通称「長屋王邸宅」)跡で高市皇子の長子・長屋王の名が「長屋親王」と書かれていた木簡が見つかり大きな関心を集めたが、これも、父・高市皇子が天皇だったと考えると肯ける。

 柿本人麻呂は、われわれが思っていた以上に政治的で、末田氏の言うように、持統天皇等のクーデターにより時の天皇・高市皇子が暗殺された事件(実際にあったらの話しだが)に深く関与していた可能性もある。

 その事件後石見国に左遷され、失意のうちに暮らしていた時に、石川(浜田川)の洪水に遭遇したのだろうか。大和岩雄氏の言うように「自殺した」とも考えられる。辞世歌を残してひとり石川の濁流に身を任せたのだろうか。

「人麻呂」転じて「人丸」とも言う。後にそこから「火止ル」になったり「人生マル」になったりして、火難防除や安産、疫病防除のための語呂合わせともなり、その後「人麻呂信仰」ともなっていった。地元の研究家・矢富氏が言うように「石見には殊に柿本神社、人丸社がおびただしく建立されていて、地区民の信仰を集めているわけである」と述べており、人麻呂が石見の地で亡くなったのは事実であろう。また、信仰の対象になっているという事実から、大和氏の言うように人麻呂が悲劇の死を迎えたのも確実と思われる。

4.いろは歌と人麻呂の意外な関係

「いろは歌」は日本語の清音のすべてが一音も重複することなく巧みに作られた歌であるが、誰がいつ何のために作られたものなのか。弘法大師空海の作との話もあるが、それよりも、『金光明最勝王経音義』の巻頭に載る「万葉仮名」で綴られた「いろは歌」が何故か「七行書き」になっており、その最終文字を読むと「咎なくて死す」と読めることに興味を覚える。

   い ろ は に ほ へ と
   ち り ぬ る を わ か
   よ た れ そ つ ね な
   ら む う ゐ の お く
   や ま け ふ こ え て
   あ さ き ゆ め み し
   ゑ ひ も せ     す

 篠原央憲氏は、その著『柿本人麻呂・いろは歌の謎』で、『金光明最勝王経音義』について次のように述べている。

<『金光明最勝王経音義』(十巻)は、仏陀が王舎城霊鷲山で弟子や菩薩に、諸天善神の加護を得る最勝の法を説いた仏経で、大宝三年(703年)唐の義浄により漢訳され、その数年後に日本に渡来したものである。わが国でも、『大般若経』、『法華経』とともに、護国の経典として重んじられ、奈良朝以来、なにごとか異変があると、祈請のため諸大寺に命じてこれを読ませていたことが、記録に残っている。>

 そして、何故か柿本人麻呂との繋がりが見えるという。氏の説明を続けよう。

<ところが、『金光明最勝王経音義』が講ぜられ、祈られるその直後に、かならず柿本氏の名が史実にあらわれてくるのである。すなわち聖武天皇の神亀二年(725年)七月には、七道諸国の僧尼に対し、これを読ませて国家平安を祈らせているが、その一年半後、神亀四年(727年)に、それまでずっと正史に名前の見えなかった柿本氏の名前が、突然あらわれる。

『続日本紀』神亀四年正月二十七日付きで、「正六位上柿本朝臣建石に従五位下を授く」の記事がある。その前には「二十日夜、月、大星の心を犯せり」という奇妙な記事がある。この柿本建石は、おそらく人麻呂の息子であろう。それにしても、「柿本」の名が、このような正史の記録に見えたのは、「佐留卒す」以来十九年ぶりのことである。>

 正史『続日本紀』には、その後も『金光明最勝王経音義』と柿本氏の関係記事が続くという。

<天平十九年(747年)十一月には、「去る天平十三年、諸国国分寺に『金字金光明経』を安置せよと命じたにもかかわらず、まだ完全に行なわれていない。天地異変がつづくのは、これが原因なり」と詔が発せられている。この三か月後の二十年二月、「柿本朝臣市守に従五位下を授く」の辞令があった。

 さらに翌天平勝宝元年には、正月元日、天下の寺に四十九日の間、『金光明経』を転読せよ、と令が出ており、その年の五月に、この市守は、丹後守に任じられ、さらに七か月後「柿本朝臣小玉に従五位下を授く」の辞令があり、翌二年、小玉は外従五位上、天平宝字年には、さきの市守が安芸守に任じられている。>

 柿本氏が再び正史に載りはじめたのが、時の権力者藤原不比等の亡くなった養老四年(720年)以降のことであることを考えると、

(1)藤原不比等の策略により、柿本人麻呂は流刑の身になった。
(2)人麻呂の死後、異変が起こると、人麻呂の怨霊とささやかれた。
(3)不比等死後、人麻呂の霊を慰めるため『金光明経』が説かれた。

という彼の考えも一笑に付す訳にはいかない。一回目の『金光明経』読経の時は、藤原不比等の死、元明上皇の死、地震・水害が相次ぎ、不穏な状況であった。また、二回目の『金光明経』読経の時は、長屋王謀殺事件の後、天平九年(737年)に始まる天然痘の蔓延で、藤原四兄弟が相次いで倒れた頃である。

 獄中の人麻呂が、外部の誰かに自分の無実を伝えようと、暗号をちりばめた「いろは歌」を作成したのだとすると、『金光明最勝王経音義』の巻頭に載る「いろは歌」も人麻呂のこころの叫びだと思えなくもない。

 篠原氏の推論は、例の梅原猛氏の「人麻呂流刑説」を無条件に前提としている点が引っ掛かるが、人麻呂が政争に巻き込まれ不遇な一生を終え正史から抹殺されたと考えているぼくにとっては興味ある説である。

 その後、氏の見解を発展させるような形で、栗崎瑞雄氏や村上通典氏が本を出している。ただ、残念なのは、かれらは「いろは歌」の暗号解読に力を注いだため無理な解読と感じられるところが多々あることだ。

 果たして「いろは歌」の作者は柿本人麻呂なのだろうか。

(注)村上通典氏は「いろは歌」の作者を源為憲、柿本人麻呂の正体を三輪高市麻呂と推論しており、「いろは歌の作者が柿本人麻呂では」という本稿のテーマとは異なると、著者からお叱りをいただいた。確かにご指摘の通りで、この場でお詫びを申上げる。しかし、氏の着想はおもしろいが、その暗号文の解読に関しては、やはり個人的には無理なところが感じられる。読者は直接著書に当たっていただき各自ご判断をいただきたい)


[参考文献]
1.永井路子「万葉恋歌」光文社、1972年
2.北山茂夫「柿本人麻呂論」岩波書店、1983年
3.北山茂夫「柿本人麻呂」岩波書店、1973年(新版1994年)
4.梅原猛「水底の歌−柿本人麿論−(上)(下)」新潮社、1973年
5.田崎宏「人麻呂の実像」歴史研究会編『歴史研究』第387号、
 1993年
6.古田武彦「人麿の運命」原書房、1994年
7.末田重幸「秘められた挽歌−柿本人麻呂と高市皇子−」講談社、
 1977年
8.関祐二「謀略の女帝・持統天皇-古代正史への挑戦状-」フットワーク出版社、
 1992年
9.大和岩雄「人麻呂の実像」大和書房、1990年
10.矢富厳夫「柿本人麻呂」益田市観光協会、1982年
11.篠原央憲「いろは歌の謎」三笠書房(知的生きかた文庫版)、1990年
12.栗崎瑞雄「柿本人麿の謎」現代日本社、1980年
13.栗崎瑞雄「柿本人麿の暗号歌」現代日本社、1989年
14.村上通典「『いろは歌』の暗号」文藝春秋、1994年

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3.天平の歌日誌

 『万葉集』の中でも、特に巻十七〜二十の4巻は、他の巻と趣を異にしている。何よりも、万葉後期の代表的な歌人である大伴家持の作品が中心となっているだけでなく、その歌の題詞一つ一つに細かな年月日が付されており、正に、家持の「歌日誌」といっても過言ではない。巻三・六・八にも同じように日付の付いた家持の歌が載せられており、これが、『万葉集』の最終編纂者を家持と見る大きな理由となっている。

 いま、日付の明確な家持の歌を年代順に並べると、別紙の資料ができあがった。不思議なことに、家持が多くの女性との間でやり取りした数多くの相聞歌(巻六・八)には、ほとんど日付が付けられていない。養老二年(718年)生まれの説が正しいとすると、この「歌日誌」を書き始めた天平八年(736年)には家持は18才であり、当然、この「歌日誌」の中にその後の恋いのやり取りである相聞歌が含まれても良いように思うのである。

 もう一つの不思議は、川崎庸之氏が述べているように、「天平宝字三年(759年)正月一日、この日を期して、万葉棹尾の歌人、大伴家持も、ついに歌わぬ人になってしまった」ことである。その後、延暦四年(785年)に死没するまでの間の約26年間、かれはなぜ「歌わぬ人」となったのか。

 家持の公人としての生活は、天平十年(738年)、20才にして内舎人となったときに始まったと見るのが通例である。天平九年の大疫疾がもとで、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の四卿が相次いで倒れ、この年、政界は大混乱を迎えていた。その中で、収拾者として現れたのが、橘諸兄であった。阿部内親王の立太子と同時に、右大臣に任ぜられ、諸兄の時代が到来する。しかし、藤原広嗣の反乱や、それに端を発した聖武天皇の「彷徨の五年」(北山茂夫)や大仏造立による混乱の過程で、藤原仲麻呂が台頭してくる。

「歌日誌」からも分かる通り、大伴家持は、橘諸兄やその子・奈良麻呂との親交があり、かれらの進める皇親政治に期待をかけていたが、かれらの「反仲麻呂」の動きに積極的に応えた形跡はない。

 むしろ、橘奈良麻呂や大伴古麻呂等のクーデターの謀議を意識的に避けていた。当時は、人の讒言により簡単に自害に追い込まれることもあった。長屋王の変がその良い例である。そのような物騒な世の中で、家持は、ひたすら自分に嫌疑が及ぶことを恐れていた。家持が残した「歌日誌」は、実は自分が無実であることを立証するために書き留めておいたのではないだろうか。やたらと宴での歌や霍公鳥の歌が多いのと、大伴氏一族が謀議に加担しないように戒めた「族に喩せる歌」がそれを物語っている。

しかし、家持は、全くの無実ではなかったようだ。天平宝字元年(757年)の橘奈良麻呂の乱の後、しばらくして、家持は因幡国守に左遷される。しかし、事件も一件落着し、家持もほっとした、というのが正直なところだろう。天平宝字三年の次の賀歌を最後にこの「歌日誌」も終わりを告げる。

   新しき年の始めの初春の今日降る雪のいや重け吉事 (巻20−4516)

 北山茂夫氏は、「かれのおかれた悲運の境涯と、かれの志からいって、今後も歌作をなしたと想像するよりも、もはやこの貴族政治家が、風雅のすさびとしても、それをつづけられなかったと見るほうが、より真実にふれているのではなかろうか」と見ている。それを否定する根拠は何もないが、「歌日誌」を書き留める理由がなくなったからと考えるほうが、すっきりしている。北山説だと、天平宝字三年に「歌日誌」を終えなければならない積極的な理由が見あたらないのである。

 天平宝字六年(762年)に信部大輔で返り咲いたあと、藤原宿奈麻呂の事件のからみで、薩摩国守にまたもや左遷されるが、天平神護元年(765年)に再度返り咲きを果たす。その後は、比較的順調に官位を上げていく。

 宝亀十一年(780年)には、参議として台閣に列し、最終的には中納言まで進み、陸奥按察使鎮守将軍・持節征討将軍を拝命する。しかし、陸奥の任所で死没した後、藤原種嗣の暗殺事件で嫌疑をかけられ除名、家財一切が没収される。家持がこの事件に本当に関係があったかどうか実際は分からないが、自ら進んで謀議に参加したとは考えにくい。

 このとき没収された家財の中に、『万葉集』二十巻があったと見られている。度重なる事件に心身共に疲れた家持は、仕事の合間に歌集を纏めていたのだろうか。「歌日誌」を政争からの盾として利用したかれも、最後には歌を本来の位置に戻したようだ。

[参考文献]
1.北山茂夫「萬葉の時代」岩波書店、1954年
2.北山茂夫「大伴家持」平凡社、1971年
3.川崎庸之「記紀万葉の世界」御茶の水書房、1952年
4.中西進・辰巳正明・日吉盛幸「万葉集歌人集成」講談社、1990年
5.日本古典文学体系「萬葉集四」岩波書店、1962年

年月日 歌の題詞 家持の官位 歌番号
天平8(736).9 秋の歌四首 8-1566:69
天平10(738).7.7 独り天漢を仰ぎて懐を述べたる 17-3900
10.17 橘卿の旧宅に集いて宴飲せり 内舎人 8-1591
天平11(739).6 亡りし妾を悲傷びて 3-462
6 砌の上のなでしこの花を見て 3-464
7 秋風の悲しび嘆きて 3-465
7 また、作れる歌 3-466:69
7 悲緒いまだ息まず 3-470:74
9 坂上大娘の贈れるに報へたる歌 8-1625:26
天平12(740).6 坂上大嬢に贈れる歌 8-1627:28
10 藤原広嗣の謀反に依りて 内舎人 6-994
天平13(741).4.3 久邇の京より弟書持に報へり 内舎人 17-3911:13
天平15(743).8 秋の歌三首 8-1597:99
8.16 鹿鳴の歌二首 8-1602:03
8.16 久邇の宮を讃めて 内舎人 6-1037
天平16(744).1.11 一株の松の下に集いて飲せる 6-1043
2.3 安積皇子の薨りましし時に 3-475:77
3.24   同上 3-478:80
4.5 独り平城の旧き宅に居りて 17-3916:21
天平18(746).1 詔に応へたる歌 17-3926
8.7 家持の館に集いて宴せる 越中守 17-3943
9.25 遥かに弟の喪を聞き感傷しびて 越中守 17-3958:59
天平19(747).2.21 病に臥し悲傷しびて 越中守 17-3962:64
2.29 大伴池主に贈れる歌 17-3965:66
3.3 更に贈れる歌 17-3969:72
3.5 病に臥して作れり 17-3976:77
3.2 夜の裏に恋の情を起して 17-3978:82
3.29 霍公鳥の喧くを聞かず 17-3983:84
3.3 二上山の賦 17-3985:87
4.16 霍公鳥の喧くを聞きて 17-3988
4.2 秦八千鳥の館にして家持に餞け 越中守 17-3989:90
4.26 大伴池主の館にして家持に餞け 税帳使越中守 17-3995:97
4.26 家持の館にて宴飲せる 越中守 17-3999
4.27 立山の賦 17-4000:02
4.3 京に入らむこと漸く近づき 17-4006:07
9.26 放逸せる鷹を思いて夢に見 越中守 17-4011:15
天平20(748).1.29 二十年の春正月二十九日 17-4017:20
3.23 田辺史福麿を家持の館に饗宴 越中守 17-4031
3.24 田辺史福麿に和える歌 越中守 18-4043
3.25 道中に馬の上にして口号へる 18-4044:45
3.25 久米広縄の館に福麿を饗せる 18-4051
3.26 前の件の歌は二十六日に作れり 18-4054:55
3.26 後に追いて橘に和へたる歌 18-4063:64
4.1 久米広縄の館にして饗せる 越中守 18-4066
天平21(749).3.16 大伴家持の報へ贈れる歌 越中守 18-4076:79
天平感宝1(749).5.5 東大寺僧平栄等を饗す 越中守 18-4085
5.9 秦石竹の館に会いて飲宴す 越中守 18-4068:88
天平感宝1(749).5.10 遥かに霍公鳥の鳴くを聞きて 18-4089:92
5.12 陸奥国より金を出せる詔書 越中守 18-4094:97
5.14 真珠を願せる歌 18-4101:05
5.15 尾張少咋に教え喩せる歌 越中守 18-4106:09
5.17 先の妻の自ら来たりし時 18-4110
5.23 橘の歌一首 18-4111:12
5.26 庭中の花に作れる歌一首 越中守 18-4113:15
5.27 久米朝臣広縄、本任に還り到る 越中守 18-4116:18
5.28 霍公鳥の鳴くを聞きて作れる 18-4119:21
6.1 六月に至りて忽ちに雨雲の気 越中守 18-4122:23
6.4 雨降るを賀ける歌一首 18-4124
7.7 七夕の歌一首 18-4125:27
12 宴席に雪、月、梅の花を詠める 18-4134
天平勝宝2(750).1.2 国庁に饗を諸郡司に給える宴 越中守 18-4136
1.5 久米朝臣広縄の館にして宴せる 越中守 18-4137
2.18 多治比部北里の家に宿る 越中守 18-4138
3.1 春の苑の桃李の花を眺矚めて 19-4139:40
3.2 柳黛を攀ぢて京師を思へる 19-4142
3.3 家持の館にして宴せる歌三首 越中守 19-4151:53
3.8 白き大鷹を詠める歌一首 19-4154:55
3.9 渋谿の崎を過ぎて 19-4159
3.2 霍公鳥と時の花とを詠める 19-4166:68
3.23 霍公鳥の暁に鳴かむ声を思ひて 19-4171:72
3.27 大宰の時の春の苑の梅に和へる 19-4174
4.3 大伴池主に贈れる霍公鳥の歌 19-4177:79
4.6 布施の水海に遊覧して作れる 19-4187:88
4.9 水烏を池主に贈れる歌 19-4189:91
4.9 霍公鳥と藤の花とを詠める歌 19-4192:93
4.12 布施の水海に遊覧し 19-4199
4.22 久米朝臣広縄に贈れる 19-4207:08
5.6 処女の墓の歌に同へたる 19-4211:12
5.27 藤原二郎が慈母を喪へる患 19-4214:16
5 霖雨の晴れし日、漁夫の火光 19-4217:18
6.15 萩の早花を見て作れり 19-4219
9.3 宴の歌 19-4223
10.16 秦忌寸石竹に餞せし時に 19-4225
12 雪の日に作れる歌一首 19-4226
天平勝宝3(751).1.2 守の館に集りて宴せり 越中守 19-4229
1.3 介内蔵忌寸縄麿の館にして会集 19-4230
2.2 守の館に会集ひ、宴して作れる 越中守 19-4238
4.16 霍公鳥を詠める歌一首 19-4239
7.17 少納言に選任せらゆ 少納言 19-4248
8.4 久米朝臣広縄の館に贈り貽せる 19-4248:49
8.4 八月五日をとりて京師に入らむ 19-4250
8.5 五日平坦に、上道す 19-4251
10.22 紀飯麿朝臣の家にして宴せる歌 少納言 19-4259
天平勝宝4(752).11.8 左大臣橘朝臣の宅に在して 少納言 19-4272

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