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埼玉古墳について

埼玉古墳について

関東でも関西に負けないような大型の古墳が存在しています。古代、関東はどのような地域だったのか? 実は、関西とそん色ないようなくらい文明が進んでいたのではないかと考えています。

1.埼玉古墳と武蔵国造の乱


 JR高崎線の北鴻巣駅に着いた日は、生憎の曇り空だったが、風のない穏やかな天気で、久しぶりに田舎に来たさわやかな気分を肌に感じた。上野駅から1時間足らずの場所にも係わらず、そこはすっかり田舎のたたずまいで、少し歩くと、一面の田んぼが広がり、はるか向こうに、上越新幹線の高架が望める。

 古墳というと奈良に点在する古墳群を思い出すぼくにとって、関東の大型古墳はまったくの未知の世界だった。この日、向った先は、北武蔵の大型古墳群「埼玉古墳群」であった。

 北鴻巣駅を降り、駅前から延びるアベリア通りを300mほど少し進み、赤見橋を渡ると、左手に赤見台近隣公園があり、そこから、武蔵水路に沿って「さきたま緑道」という散歩道が5Kmほど伸びている。その先を右に折れると、「さきたま古墳公園」につながっている。正確に言うと、ここは埼玉県行田市大字埼玉といい、埼玉県名発祥に地となっている。ここに、9基の大型古墳が群集しており、「埼玉古墳群」として国の史跡として登録されている。埼玉県は、この地域30万uを「さきたま風土記の丘」として整備を進めてきた。

 昭和43年(1968)に、この埼玉古墳群の中の大型古墳のひとつである稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣が有名だ。昭和53年(1978)に保存処理を目的にレントゲン撮影したところ、剣の両面に金で115の文字が刻まれていたことが分かり、新聞各紙の紙面を賑わせた。

 その銘文には、辛亥の年(西暦の471年)7月、乎獲居(おわけ)臣が、先祖のオオヒコから自分にいたるまで八代が代々「杖刀人」(じょうとうじん)の首(おびと)として朝廷に仕えたこと、そして自分が大和の獲加多支鹵(わかたける)大王を補佐したこと記念してこの剣を作った、とある。「杖刀人」とは大王につかえた武人のことで、獲加多支鹵大王は『日本書紀』の大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)天皇、つまり雄略天皇であろうと考えられている。

「さきたま古墳公園」内の埼玉県立さきたま資料館では、この金錯銘鉄剣の実物が展示されている。鉄剣そのものはさび付いているが、金色の文字が今尚、鮮やかに残っており、見学者のひとりが、しきりに係員に「これは本物ですか」と確かめていた。

 この展示室の中で、特に気になったのは、『日本書記』安閑天皇元年(534)の紹介パネルであった。『日本書記』の記事の全文を引用してみよう。

 武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族(うがら)小杵(をき)と、国造を相争いて、使主・小杵、皆名なり。年経(としふ)るに決(さだ)め難(がた)し。小杵、性(ひととなり)阻(うぢはや)くして逆(さか)ふこと有り。心高びて順(まつろ)ふこと無し。密(ひそか)に就(ゆ)きて援(たすけ)を上毛野君小熊(かみつけののきみをくま)に求む。而(しかう)して使主を殺さむと謀(はか)る。使主覚りて走げ出づ。京に詣でて状(そのかたち)を言(まう)す。朝庭(みかど)臨(つみ)断(さだ)めたまひて、使主を以て国造とす。小杵を誅(ころ)す。国造使主、悚(かしこまり)憙(よろこび)懐(こころ)に交(み)ちて 、黙已(もだ)あること能(あた)はず。謹みて国家(みかど)の為に、横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(おほひ)・倉樔(くらす)、四處の屯倉(みやけ)を置き奉(たてまつる)る。是年、太歳甲寅(きのえとら)。

 同族である笠原直使主と小杵の両名が国造の地位を求めて争っていたが、性格の荒い小杵が、隣国の豪族である上毛野君小熊に使主の刺殺を頼んだところ、それを悟った使主が京に逃げ出し朝廷に直訴した。朝廷はその訴えを聞き入れ、使主を国造と定め、小杵を殺した。朝廷と地方が使主と小杵の代理戦争を行った形となったわけだが、晴れて国造となった使主は、朝廷に対して、横渟・橘花・多氷・倉樔の四箇所を屯倉として差し出したという。

 歴史学者はこの一件を「武蔵国造の乱」と呼んでいるが、この登場人物「笠原直使主」の笠原は、「和名抄」に載る「武蔵国埼玉群笠原郷」のことで、現在の埼玉県鴻巣市笠原と見られている。そこから、この武蔵国造の乱と埼玉古墳群の関係を想定している学者もいる。

 また、使主が朝廷に差し出した土地が「南武蔵」に属していると見られることと、考古学的に見て武蔵の古墳の築造が南から埼玉古墳群のある北へ移動したと見られること、埼玉古墳群の「丸墓山古墳」が6世紀前半に作られたとすることから、この丸墓山古墳が何かしら使主と関係があると見る向きもあるという。

 真偽のほどは何とも言えないが、古代武蔵の国の勢力図を思い描くのも楽しい。

[参考文献]
1.日本古典文学大系「日本書記(下)」岩波書店、1965年

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2.さきたま古墳公園


さきたま古墳公園へは、この「さきたま緑道」を歩いて行きます



ところどころ、紅葉が見られます


「さきたま古墳公園」の看板はどれも汚れています
もっと整備をしたほうがいいのではないでしょうか


瓦塚古墳の前で、児童たちが食事をしています


手打ちうどんのおいしい古墳亭、二子山古墳前にあります


古墳亭前から見た二子山古墳です


さきたま古墳群唯一の円墳、丸墓山古墳です


少し離れてみると、丸墓山古墳の大きさが分かります


稲荷山古墳、手前に見える前方部は後で復元されたとのことです


おみやげ屋さんで、民芸のはにわを買うことができます

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