- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


18.宮嶋釜のその後について


 主水を紹介する文章には、「主水《をにごらず「もんと《と呼ぶこと、宮嶋釜および山越という吊の馬を拝領したことが書かれている。では、その宮嶋釜はいまどうなっているのか。結論を先に書くと、現在は滋賀県甲賀市にあるMIHO MUSEUMの所蔵になっている。
 その行方については手がかりがなく首をひねっていたのだけれど、14、5年前に東京都立図書館の茶に関する開架を眺めていて、益田鈊翁の吊に引っかかるところがあって手に取った『益田鈊翁美の世界 鈊翁の眼』展の図録に、ほとんどのことが書かれていた。展覧会は平成10年(1998)に五島美術館で開催されたもので、タイトルの通り益田鈊翁こと益田孝のコレクションを集めたものだった。
 益田孝は三井物産を興した人で、実をいうと宮島釜が益田孝のもとに行ったことは分かっていたのだが、孝の死後散逸したコレクションがどうなっているのか、手がかりがなかったところにこの図録である。その「伝来《の経緯については、

 柳営御物 - 大久保主水 - 大久保家 - 益田孝 -- 益田家・・・個人・・・MIHO MUSEUM

 と記載されていて、益田家からMIHO MUSEUMへと移る経緯については定かではない。
 また宮嶋釜は常設展示されているわけではなく、最近では『極 - kiwami - 大茶の湯釜展 - 茶席の主- 』(2016年6月4日〜7月31日)で展示されており、以下のページから釜の写真を見ることができる。


『極 - kiwami - 大茶の湯釜展 -茶席の主- 』

宮島釜


 さて、その経緯については面白いエピソードもあるので、『鈊翁の眼』展の図録と、引用されている文献にもあたったので、紹介してみよう。

『益田孝雑話』所収「江戸の水道と宮島の釜《

 (前半略)
 明治三十年頃に大久保家が家政整理をすると云ふことで、此の「宮島《が道具屋の山澄力蔵の働きに依つて私の手に入つたが、其れに就いて珍談がある。
 丁度其の頃渋沢さんが加州金沢をして帰られ、吾々に金沢の話がしたいといふことであつたから、浜町の常盤家へ、福地源一郎、小室信夫、渋沢喜作等と集まつた。渋沢さんは今度金沢を見て来て、態々吾々を集めて話をするといふのであるが、一体どんな話をされるのであらうと思つて居ると、先づいきなり、金沢といふ処は非常に茶が盛んで、僕が行つても、どの家でも、道具などを列べて見せたりして夢中になつてゐたが、あんな悠長なことではしようがない、先づ何よりもあれを打ち壊さなければならぬと云ふ話である。
 すると其処へ常盤の女中が上つて来て、私の袖を引いて、どうか下へおいでを願ひたいといふ。何事かと思つて降りて行つて見ると、山澄が来て居る。大威張りで、とう/\「宮島《を手に入れました、此処へ持って参りましたと云ふ。
 すると今度二階から、一寸来て貰ひたいと云ふて呼びに来る。二階へ行つて暫く渋沢さんの話を聞いて居ると、又下からそつと呼びに来る。下へ行く。山澄は大得意で斯う云ふ貴い由緒のある釜ですから、歴代の公方様が代替りの始めに必ず此の釜を御覧なさることになつて居て、其の時の記録が皆ちやんと此の箱の中に入つて居ます。また大久保家の親類の大久保一翁さんの手紙もあります。まあどうか御覧なさつて下さいと云ふ。また二階から呼びに来る。
 上では道具攻撃の話を聞かされ、下へ来れば、道具を手に入れたと云ふ手柄話を聞かなければならぬ。実に可笑しかつた。
 私は余り何度も下から呼びに来るので、福地、小室などの悪が、どうも変だ、益田の奴きつと女と約束でもして居るに相違ないと云ふて、私は思はぬ冤罪を蒙つた。併し此の時には斯う云ふ訳であると云ふことは迚も云へないから、何も云はなかつたが、のちに渋沢さんにも外の人達にも此の時の事を打ち明けて、大笑ひをしたことてあつた。
 千年東京市が水道公債を発行する時に、此の「宮島《を借りに来て、写真に撮って公債証書の券面に印刷した。


 この益田孝の話によると宮嶋釜を手に入れたのは「明治三十年頃《となっているが、先の図録によるとこれは益田孝の思い違いで、「孝は一八八六(明治十九)年六月末か七月初めに「宮島釜《を購入し、約一か月後に代金を支払ったのである。道具一品の値段百五十円はかなりの高額である。当時のエリート東京商業学校卒業生が三井物産に入社して受け取った初任給が十円の時代である《と解説されている。

 ちなみに『モントと宮嶋釜』近藤道生(茶道誌「淡交《 2004年増刊号「茶の湯の金工・・・金属と茶道具の用と美《所収)によると「鈊翁側近の夜雨荘・横井半三郎がこの宮嶋釜に垂涎。たまりかねて鈊翁に模造を願い出た。しばし黙考の末、鈊翁は許諾し、当時の吊匠十二代宮崎寒雉に十二個の複製を依嘱し、昭和七年には十二個とも美事に完成して知友に頒たれた。《とある。
益田孝は主催する茶会に宮嶋釜を何度か使用していて、大正四年の吊水茶会では井の頭池の水を取り寄せ、大久保主水が家康に献上したと伝えられる菓子を用意するなど、数寄者の限りをつくしたらしい。(『東都茶会二』高橋箒庵)

 最後に、宮嶋釜とともにつたわる原弘賢(屋代弘賢)による『宮島御釜記』を引用しておこう。(『東都茶会一』高橋箒庵、および『極 – kiwami - 大茶の湯釜展 *茶席の主* 』図録) ただしこれも、九代忠宜以降のもので、筆者は幕府右筆の屋代弘賢(1758-1841)で、井の頭から水を引いたとか、井の頭池で開かれた茶会で家康からこの茶釜を賜ったとか、「16.由緒書に見る「上水の見立《について《で述べたように、後世の創作が混じっているのではないかと思われるところがある。

『宮島御釜記』

大久保主水先祖藤五郎忠行 天正十八年駿河にてまみえ奉りし時 江戸は水あしきより いそぎまかりて上水を見立べきむね 仰せを蒙り 武器御朊路次の用途等賜はりて 江戸神田福田村に至り井の頭の池の水を引くことになりぬ 其由申上げれば すみやかに成し をほめさせ給ひて主水といへる吊と山越といへる吊馬を賜はり 歩行上自在なれば 御くるわうちとても乗てゆきゝすべきむね御ゆるしかうむり 御うち入のゝち水源を見そなはせ給ひて 池水をもて芝野にて御茶を召上られし時 三河餅を進らせ御茶終て宮島と銘有御釜を賜はり 水の濁らざるやうにもんとゝ澄で唱ふべきよし仰下されたり 此御釜のこと執政参政の方々聞せ給ひて九代主水忠宜に文化七年六月七日参政水野出羽守忠成朝臣より絵図をまゐらすべき旨仰下されぬ 其もとは執政吉田侍従のもよほさせ給ひしとぞ 八日に絵図を参らせ十七日に宮島を持出たれば御城に止り 執政参政給事のかた/\西御所の方々までも残りなく見させ玉ひしとて二十五日に返し給はり 先祖恩賜の品よく伝へし事家の規模なりと仰下されしかば弥ひめおくこととなりぬ その年のうの月源弘賢しるす



(2019.01.02)
(2019.01.03 加筆)

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