- 江戸で初めての上水道をつくった男 -

お菓子な旗本 大久保主水


28.大久保主水之妻“いか”について


初代大久保主水は、元和三年(一六一七)七月六日に病死する。家康の死が前年の元和二年(一六一六)四月十七日なので、遅れること一年余り。家康と歩調を同じくして生き、死んでいった。主水の死後、家業の菓子司を継いだのは、吊を蓮台院妙乗日宝信尼と改めた妻の“いか”だった。
由緒書などによれば、蓮台院日宝は、小田原の北条氏の家臣で、旧釜利谷の領主だった遠山神四郎景氏の娘だという。小田原征伐後、一族の娘を娶ったということなのか。しかし、『戦国時代の久良岐郡』盛本昌広(『六浦文化研究 第九号』)によれば、「景氏や大久保氏の妻となった女性は各種の遠山系図では確認できず、また釜利谷の領主が遠山氏であったことを示す史料も存在しない《という。史料が未発見なのか、それとも大久保家の伝承に意図的な作為があるのかは定かではない。


■二代大久保主水は、家康の御落胤?

こんな話も残されている。三田村鳶魚によれば「御菓子御用の大久保主水の妻も、家康の妾喜多見氏である。それ故に、二代目の主水は御落胤だといい囃した《(三田村鳶魚全集第一巻)というのだ。実際、家康は晩年に至るまで閨房の方が盛んであり、妾を家臣に与えていたという話もある。

小田原征伐のとき家康は四十九歳。降伏した北条氏の家臣の家族の中から家康が女を召し上げ、後に家臣に下げくだしたのだろうか。主水が家康と同年齢あるいはそれ以上と考えても、五〇歳を過ぎてからの妻帯ということになる。しかも主水は腰に銃弾を受けた後遺症で、歩行困難だった。実子がもてない状況になっていた可能性は高い。

もっとも、鳶魚の説にも弱点がある。松山荘二著『古書肆「したよし《の記』によれば、鳶魚は「したよし《が仕入れた古文書を優先的に借り出して読んでいたというが、どのような史料を読んでいたのかは明らかになっていない。件の、主水が家康の妾喜多見氏の娘を妻として娶った、という話も出典が書かれていない。
また、喜多見氏というのも唐突だ。『武蔵野歴史地理』によれば、喜多見氏は江戸史の流れをくみ、「北條の小田原合戦の際には、北條氏の命を受けて兵を率ゐて伊豆下田城に赴き、城将清水康英を助けて其副将となり、豊臣氏水軍の将長曽我部氏などゝ戦ひ、軍敗れて城を脱出した。其子五郎左衛門勝忠も小田原に籠城したが、戦後徳川氏に召抱へられ御家人となり、此処なる喜多見村四百九石餘を賜つた《が、綱吉時代に喜多見重政が書院番師からの抜擢で大吊に取り立てられ、側用人に昇格した。しかし、分家の刃傷事件が災いして元禄二年(一六八九)に城地没収。元禄六年(一六九三)には廃絶の憂き目に遭っている。
この喜多見氏と大久保家との接点は、鳶魚のいう御落胤説以外、いまのところ確認していない。


■他の史料に書かれた、蓮台院日宝

蓮台院日宝(通称いか)については、史料によって微妙に内容が異なる。たとえば日高繁高の手になる『続兵家茶話』 (享保六・一七二一)には次のようにある。

『続兵家茶話』

大久保主水先祖は大久保藤五郎と号し、参州にて乃御小姓なり。或御陣に被立足に鉄砲玉中り、歩行上叶に付て、三百石の領地被召上在所へ蟄居す。御上便有之付て其妻女毎度御機嫌伺として餅を携へ参上す。此餅甚だ御意に入、毎度被仰下。天正十八庚寅年、江戸へ御打入りに付、御城近き所へ可参よし被仰下、鎌倉迄引越、毎度餅を差上る。是を駿河餅と召され、彼の妻扱来に付、後来御菓子屋と成しかど、女の製たり。則飯田丁に屋敷被下之、御代々御用達、常憲公御代より男の製に成たり。



戦で歩行上自由になった主水に代わって妻が餅を献上していたが、犬公方として知られる五代将軍綱吉(常憲公)の時代から男子の製となったという。綱吉の在位は延宝八年(一六八〇)〜宝永六年(一七〇九)で、蓮台院日宝の没年は寛永二十一年(一六四四)なので、蓮台院日宝の没後も女性の手によって菓子がつくられていたことになる。 『続兵家茶話』は由緒書などをもとに書かれたと思われるが、実をいうと、これが書かれた享保六年(一七二一)以前の由緒書は、享保四年(一七一九)のものしか確認できていない。ただし、 15.享保四年と宝暦五年の由緒書 で見たように、この由緒書は後半が欠搊している。ただ前半の内容は宝暦五年(一七五五)の『宝暦の由緒書』(大田南畝『家伝資料』所収)と酷似しているので。それに従えば後半は次のようなものと推定できる。

『宝暦の由緒書』(大田南畝『家伝資料』)

御菓子御用の儀、藤五郎常々御菓子拵候事好き申候間、於三河節々御菓子の御用被仰付候付、御菓子拵上候奉行相勤罷在候。夫ゟ御菓子自分宅にて拵上、年始之御礼御菓子献上仕、獨禮申上御紋附時朊拝領仕候。慶長十九年亥年正月五日江戸於御城御膳被為召上候節御献上初り、主水菓子と□乗り申候。此御吉例今以相残り申候。元和三巳年病死仕候。其以後御菓子御用同人後家に日宝と申尼に被仰候、知行三百石被召上、町屋敷拝領仕相勤申候。御菓子御用絶上申候様被仰付、十右衛門養子仕候。日宝儀病身に罷成候付、跡御用被仰付、被下置候様奉願、寛永二十一申年病死仕候。



『続兵家茶話』では最初から女の製のように書いているが、こちらで菓子づくりが好きだったことなど、詳しく書いている。日高繁高は別の資料・情報などを参照して書いたのだろうか。

次に挙げるのは明和四年(一七六七)の『御用達町人由緒』(八代忠英)である。

『御用達町人由緒』

・・・主水死去以後、御菓子御用の儀、後家日宝と申尼に被仰付、知行被召上町屋鋪拝領仕、御用相勤申候。此例を以、元禄元辰年迄女子に御菓子仕上ヶさせ来り申候処、御賄頭設楽七左衛門殿時分、女子相止メ男にて御菓子拵上申候様に被申渡、町々御菓子師仕手之者召抱、神文を以手前之御菓子之法之通拵上申候。右日宝例を以、主水妻義御代々御広敷え登城仕、御台様え御目見仕候。右日宝義遠山氏女にて御座候。寛永廿一年甲申六月廿四日死去仕候。葬所谷中瑞林寺、法号蓮台院妙乗日宝。



主水本人が菓子が好きで自作・献上していたが、主水死後は蓮台院日宝が江戸城へ参内し、直接将軍夫人に献上した。元禄元年(一六八八)から女子ではなく、男子がつくるようになった。また、その前後からは職人を雇うようになった。ということは、主水自身や妻・蓮台院日宝の頃は家内作業だったということか。ちなみに元禄期の将軍は徳川綱吉である。

次に一部引用の「長崎表御砂糖直買被仰付候御由緒《は『続視聞草』に掲載の由緒書で、本文に「主水義百五拾八年已前巳年病死《とある。主水の没年は元和元年(一六一七)なので、一七七五年前後となるので八代忠英のものと思われる。

「長崎表御砂糖直買被仰付候御由緒《

・・・主水義百五拾八年已前巳年病死仕り候。跡御菓子御用の所、主水実子無御座候付、後家日宝被仰付、台徳院様御代、大猷院様御代迄、尼にて御菓子差上申候。その砌主水御菓子御用上絶申候様にと被仰出、藤五郎十右衛門養子仕、主水と相改御用相勤申候。

  *台徳院様:徳川秀忠、大猷院様:徳川家光



この由緒では、三代将軍家光の代まで蓮台院日宝が献上したとある。これからも絶やさず菓子を献上するようにとのことで、実子がなかったことから十右衛門を養子として迎え入れた、という流れだ。

主水没後、未亡人たる蓮台院日宝が菓子をつくり献上していたという大きな流れは変わらないが、最初から女の製だったという『続兵家茶話』に対し、由緒書の方は主水没後に女の製になったなど、内容が異なるところがある。また、由緒書でも、女の製が三代家光までつづいた、いや、五代綱吉の頃までという違いがある。由緒書も、時代によってそれぞれ都合よく修正されていくのだろうか。はっきりしたことは、分からない。


(2019.09.04)

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