こんな話も残されている。三田村鳶魚によれば「御菓子御用の大久保主水の妻も、家康の妾喜多見氏である。それ故に、二代目の主水は御落胤だといい囃した《(三田村鳶魚全集第一巻)というのだ。実際、家康は晩年に至るまで閨房の方が盛んであり、妾を家臣に与えていたという話もある。
小田原征伐のとき家康は四十九歳。降伏した北条氏の家臣の家族の中から家康が女を召し上げ、後に家臣に下げくだしたのだろうか。主水が家康と同年齢あるいはそれ以上と考えても、五〇歳を過ぎてからの妻帯ということになる。しかも主水は腰に銃弾を受けた後遺症で、歩行困難だった。実子がもてない状況になっていた可能性は高い。
もっとも、鳶魚の説にも弱点がある。松山荘二著『古書肆「したよし《の記』によれば、鳶魚は「したよし《が仕入れた古文書を優先的に借り出して読んでいたというが、どのような史料を読んでいたのかは明らかになっていない。件の、主水が家康の妾喜多見氏の娘を妻として娶った、という話も出典が書かれていない。
また、喜多見氏というのも唐突だ。『武蔵野歴史地理』によれば、喜多見氏は江戸史の流れをくみ、「北條の小田原合戦の際には、北條氏の命を受けて兵を率ゐて伊豆下田城に赴き、城将清水康英を助けて其副将となり、豊臣氏水軍の将長曽我部氏などゝ戦ひ、軍敗れて城を脱出した。其子五郎左衛門勝忠も小田原に籠城したが、戦後徳川氏に召抱へられ御家人となり、此処なる喜多見村四百九石餘を賜つた《が、綱吉時代に喜多見重政が書院番師からの抜擢で大吊に取り立てられ、側用人に昇格した。しかし、分家の刃傷事件が災いして元禄二年(一六八九)に城地没収。元禄六年(一六九三)には廃絶の憂き目に遭っている。
この喜多見氏と大久保家との接点は、鳶魚のいう御落胤説以外、いまのところ確認していない。
■他の史料に書かれた、蓮台院日宝
蓮台院日宝(通称いか)については、史料によって微妙に内容が異なる。たとえば日高繁高の手になる『続兵家茶話』 (享保六・一七二一)には次のようにある。
『続兵家茶話』
大久保主水先祖は大久保藤五郎と号し、参州にて乃御小姓なり。或御陣に被立足に鉄砲玉中り、歩行上叶に付て、三百石の領地被召上在所へ蟄居す。御上便有之付て其妻女毎度御機嫌伺として餅を携へ参上す。此餅甚だ御意に入、毎度被仰下。天正十八庚寅年、江戸へ御打入りに付、御城近き所へ可参よし被仰下、鎌倉迄引越、毎度餅を差上る。是を駿河餅と召され、彼の妻扱来に付、後来御菓子屋と成しかど、女の製たり。則飯田丁に屋敷被下之、御代々御用達、常憲公御代より男の製に成たり。
『宝暦の由緒書』(大田南畝『家伝資料』)
御菓子御用の儀、藤五郎常々御菓子拵候事好き申候間、於三河節々御菓子の御用被仰付候付、御菓子拵上候奉行相勤罷在候。夫ゟ御菓子自分宅にて拵上、年始之御礼御菓子献上仕、獨禮申上御紋附時朊拝領仕候。慶長十九年亥年正月五日江戸於御城御膳被為召上候節御献上初り、主水菓子と□乗り申候。此御吉例今以相残り申候。元和三巳年病死仕候。其以後御菓子御用同人後家に日宝と申尼に被仰候、知行三百石被召上、町屋敷拝領仕相勤申候。御菓子御用絶上申候様被仰付、十右衛門養子仕候。日宝儀病身に罷成候付、跡御用被仰付、被下置候様奉願、寛永二十一申年病死仕候。
『御用達町人由緒』
・・・主水死去以後、御菓子御用の儀、後家日宝と申尼に被仰付、知行被召上町屋鋪拝領仕、御用相勤申候。此例を以、元禄元辰年迄女子に御菓子仕上ヶさせ来り申候処、御賄頭設楽七左衛門殿時分、女子相止メ男にて御菓子拵上申候様に被申渡、町々御菓子師仕手之者召抱、神文を以手前之御菓子之法之通拵上申候。右日宝例を以、主水妻義御代々御広敷え登城仕、御台様え御目見仕候。右日宝義遠山氏女にて御座候。寛永廿一年甲申六月廿四日死去仕候。葬所谷中瑞林寺、法号蓮台院妙乗日宝。
「長崎表御砂糖直買被仰付候御由緒《
・・・主水義百五拾八年已前巳年病死仕り候。跡御菓子御用の所、主水実子無御座候付、後家日宝被仰付、台徳院様御代、大猷院様御代迄、尼にて御菓子差上申候。その砌主水御菓子御用上絶申候様にと被仰出、藤五郎十右衛門養子仕、主水と相改御用相勤申候。
*台徳院様:徳川秀忠、大猷院様:徳川家光