2000年5月

ボーン・コレクター5/2上野東急監督/フィリップ・ノイス脚本/ジェレミー・アイアコン
のめり込むようにして見てしまった。これは、なかなかスリリングで、心をえぐってくるドラマだ。アンジェリーナ・ジョリーがまずいい。アシュレイ・ジャッドをサル顔のファニー・フェイスにデフォルメした感じで、個人的に好みです。あどけなさと知性が混ざった感じが、新鮮。チャームポイントは、あの、めくれあがった唇でしょう。それぞれの人物の設定も興味深い。ほぼ全身マヒだけど頭脳明晰なデンゼル・ワシントン。心に傷をもつ元モデルの若い女性警官アンジェリーナ・ジョリー。強さと弱さを体内に共存させた2人が、互いに欠落している部分を補いながら次第に前向きに往きようとしていく姿が描かれる。こういう成長ドラマには、感情移入してしまうのだよ。他にも、デンゼル・ワシントンの看護婦役の黒人女性がいい味を出しているし、口数の多い鑑識などの元同僚、さらに出し抜かれる新任部長とか、それぞれにいい役回りをしている。犯罪への興味でいえば、警官を推理させるという犯人側の意図にも惹かれた。推理ドラマとしても意外性があって楽しく見られました。ただの劇場型猟奇殺人犯なのかな? と思わせて実は・・・。私はまんまとひっかかって、最後まで犯人が分からなかった。でね、その恨みで言うわけではないのですが、不満をいわせてもらうと、このラストの10分ぐらいはつまらなかった。あえて言ってしまえば、犯人当てなんてどうでもいいんだよなあ、ここまでドラマを見せてもらえると。たまたま原作があって、それにしたがって意外な犯人を創出しているわけだけれど、あれが単なる行きずりの男だったとしても十分に映画は成立している。むしろ、最後につじつま合わせをしたおかげで安っぽいエンディングになってしまっていると思う。動機だって説得力ないしね。さらに、犯人指摘後の大団円も、なんか付け足しすぎて要らないと思う。必ずしもハッピーエンドにならなくったっていいんだよ。最後で艶消しになってしまったけれど、でも、それでもなかなかレベルの高い映画であった。
ワンダフルライフ5/3ル テアトル銀座監督/是枝裕和脚本/
今年も「日本インディペンデント映画祭2000」の時期がやってきた。今回から場所を朝日ホールからル テアトル銀座(旧銀座セゾン劇場)に移し、期間も3日から4日に増え、料金も高くなり、一日中居つづけ可能なチケットから1回毎に入れ替える制度になって、しかも、司会も替わっていた。このほとんどすべてが私にとって不愉快な結果になってしまっているぞ、という話はこちらの「日本インディペンデント映画祭2000」への不満コーナーへ。
で、映画ですが、あまりの対応および運営の酷さにイライラしてしまって、集中できなかったのです。それを抜きにしても、ちと退屈でつまらない映画だった。ひとことでいうと、行き当たりばったり過ぎて“つくりこみ”が足りないのだ。天国に召されるまでの1週間に思い出をひとつ選ばなくてはいけないアイディアはよろしい。しかし、死人たちはみな座ってぼそぼそと思い出を語るだけ。ドラマがない。素人のなまなましい口調に対して、俳優の演技している口調がむしろぎこちない。死人を送り出す場所にしては、生々しすぎる。昭和30年代風の時代考証だね。この時代考証はひつようあるのか? 僕がこのテーマを知って連想したのは村上春樹の「ハードボイルド・ワンダーランド」であり、絵でいえば落田洋子の世界なんだ。時代性や地域性を排除した、妙な空間であって欲しかったですね。そして、そういう奇妙な世界をつくりこんで欲しいと思った。なのに、成仏できていないコーディネーター役の死人たちは夜は眠るし風呂にも入る、紅茶も飲む。これって、生理的にとっても変だよ。成仏できない彼らには夜も昼も時間の経過もなく、ひたすら堂々めぐりでなくてはいけないはずだ。さらに、思い出づくりを映画に撮るってね、じゃあね、100年以上前の人々はどうやって成仏していったのさ。という、根ほり葉ほりをしたくなるのだ。あ、それと、自分を担当したコーディネーターが、昔の妻の許嫁だったということを知った死人(内藤武敏)とその許嫁のコーディネータが成仏したくなった理由が、私にはよく分からなかった。とにかく、食い足らない。
ナビィの恋5/3ル テアトル銀座監督/中江裕司脚本/中江裕司
79歳のばさんと80歳超のじいさんの駆け落ち物語なんだけど、なんて沖縄っていうのはこんなに明るいんだ? って思わせる不思議な魅力がある映画だ。映画に力がある。そう。映像の力がある。編集も優れている。場面転換のタイミングが実にいい。意味ある有機的な映像の連結を見せてくれる。しかも、前の場面の音楽や声などを引きずりながら次の場面に移っていくことが多いのだけれど、その余韻がとてもいい。さらに、エミール・クストリッツァの「黒猫・白猫」を連想させるダイナミズムがあって、これもいい。なぜそんな映画を連想したのかというと、まず音楽。雑貨屋の店先で奏でられるトラッドなケルト音楽が最初だった。雰囲気がとても似ていたのだ。しかも、あちらはジプシー。こちらは沖縄。そして、異物をどんどん呑み込んでしまうタフな人間たちにも連想がおよんだ。で、この映画は、沖縄の裏の顔の物語なんだよね。表の顔からはつまはじきされている、常識的観点から見たらとんでもない連中の話だ。ナビィは好きな男の子を宿しながら別れさせられる。その好きだった男は島から追放されてブラジルに渡った。そして、60年たって舞い戻ってきた。・・・ここで疑問。なぜ男は追放されたか? その理由は描かれていないけれど、ふつうの沖縄人ではなかった、ということだろう。何らかの差別的待遇を受けていた人間だと思う。・・・にしては、ちゃんとした先祖の墓があったけれど。さて、つづき。奈々子は本土で失業して舞い戻ってきた・・・はいいけれど、両親の元に戻らないで祖父母の家に転がり込む。ついでに、旅人の青年も転がり込む。さらに、アイルランド人や門付けみたいな仮面の音楽家もいる。みんな、どっか尋常じゃない。この尋常でない人々をも暖かく包み込んでしまう沖縄と、いまだに占いで排斥したりする沖縄の姿が描かれている。・・・ここのところが、僕には理解不能だった。尋常でない人々をも、村長のような人や子どもたちなどからは、この異人たちは排斥されていない。排斥しているのは、父母の世代・・・というのが、よく分からない。まあとにかく、なんか、ダイナミズムを感じさせるのだ。しかも、人物がいい。ナビィの亭主は年下で牛を飼っているが、朝は星条旗よ永遠なれを弾きながらでかける。「お昼は12時フォーティにもってきて」なんてブロークンをしゃべるところをみると、かつて基地で働いていたのかな。この人物のユーモア感覚と明るさが、すごくいい。でね、ナビィとこの亭主の、言葉を交わさなくても通じる意志っていうのが、映像でとってもよく表現されているのが、これまた凄い。で、ラストのワンカットで数時間から数年の時間経過を見せてしまう演出も面白かった。うーむ。だらだら長くしなくたって、90分あまりでこんな感動的な映画が作れてしまうのだ。
酔夢夜景5/4ル テアトル銀座監督/片岡修二脚本/
「日本インディペンデント映画祭2000」2日目。古典的映画作法で新鮮味なし。教育的色彩が強い映画って、なんでこういうタッチになっちゃうんだろう。まず、不要なシーンが多すぎる。人が移動するとか街頭とか女のシャワーとか裸とか、意味がないか、単につなぎのためとか、時間を埋めるためのカットは捨ててしまえばいい。類型的な人物表現もウソっぽい。もっと、映像で語りかけてくれれ! といっても、ムリだろうけど。あと、タイトルもよくないな。もちっと考えたらどう?
第七官界彷徨〜尾崎翠を探して5/4ル テアトル銀座監督/浜野佐知脚本/山崎邦紀
上映前の林あまり+浜野佐知+司会のトークは、小言がつたわったのでしょうか、内容に触れないいいものでした。監督は女性で、ピンク映画を300本も撮ってきた人だそうですが、一般映画が撮れるとなって、この映画を選んだとか。そして、主演の白石加代子を説得し、昔のピンク仲間の女優たちにノーギャラで出てもらったとか。それでも、1億の資金がかかったそうです。資金が足りなくて、不満なところはたくさんあるけれど、100%の力を出しきった、と語っていた。だから、ひどい映画かな、と思って見始めたんだけど、なんのなんの。厚み、深みのある画調で、なかなか迫ってくるものがあった。さて。映画は、現代の若者たち、「第七官界彷徨」の物語、尾崎翠の人生の3つのドラマが錯綜する。私が思うに、現代の若者たちは蛇足であって不要だ。むしろ、艶消しになっている。「第七官界彷徨」の美術と、安上がりだけれど効果的な照明がいい。1920年代の風俗の蠱惑的で耽美的な様子がまざまざとつたわってくる。色彩感や、透明感に満ちた画面も、よろしい。一方、尾崎翠の生涯を追う部分では、興味深いことに死から始まって次第に時代を遡っていくのだ。この発想に、私は訳も分からず共感を覚えた。尾崎翠の人生は晩年が恵まれず、若いうちが華だということでそうしたのかも知れないが、なかなかのアイディア。しかも、絶対的にいいのは白石加代子だ。この人の存在感だけで映画が成立してしまっている。他の役者なら、この雰囲気が出せたかどうか疑問だ。・・・もっとも、いくらなんでも30代に入るとかなりムリが出てくるので、そこはちょっと考えて欲しかった。そうそう。この、白石加代子の出てくる部分は彼女のオフの10日間だけで撮影したそうで、よくも短時間に撮れたものだと感心してしまう。ツメの甘さはあるものの、なかなかの作品だった。そうそう。現代の若者たちのシーンに登場してくるミルキーなんとかという、真っ赤なフリルのワンピースにランドセル姿のオヤジ、あの人がロビーでうろうろしていたな。どこかの取材を受けていたけれど、観客はだれも見ていない。監督は上映後に片隅で、これも取材を受けていた。こういうシーンが当たり前に見られるのも、この映画祭の面白いところなんだよね。
鮫肌男と桃尻女5/4ル テアトル銀座監督/石井克人脚本/
上映前のサンプラザ中野+石井克人+司会のトークは、司会のコントロール不足で失速気味。内容に触れられないので何を言っていいのか戸惑い気味だった。でもしょうがないね。で、ビートの効いた疾走感のあるドラマかと思ったら、そうじゃないんだよね。テンポはよくないし、リズムもよくない。ハイテンポかと思うとスローになったり、ズレたり、一気呵成感がないんだよね。音楽とも合っていなかったし。という基本的な欠点はあったとしても、興味深い点がいくつもある楽しい映画。トークでデビット・リンチの名前が出てきていたけれど、そうじゃないだろ。こりゃあ、タランティーノの影響が大だな。オープニングのわけ分からんシーンがラストでつながったり、ラスト前のシーンで3すくみ状態になったり。これ、「パルプフィクション」と「レザドアドックス」を連想してしまう。しかも、チンピラの手下たちが無駄話を延々としてたりね(ヨガのことやガチャガチャのこととか世間話とか)、ボスが田舎のホーロー看板集めにご執心だったり。そういうつくりって、タランティーノだよ。それにあの血糊もそう。飯食いながら引きつけ起こす子分、皮ジャンが濡れるのを嫌がる幹部とか、そういうキャラクターの造型もおかしくて楽しい。しかし、なんといっても白眉なのは地元の殺し屋山田君だ。若人あきら演ずるこの山田君のキャラクターは、Mr.ビーンみたいでもう相当に楽しかったぞ。桃尻女のセクシー姿があまりなかったのは残念だったけど。
アイ・ラヴ・ユー5/5ル テアトル銀座監督/大澤豊・米内山明宏脚本/
「日本インディペンデント映画祭2000」3日目。上映前に手話つきで、簡単な監督の舞台挨拶あり。昼時の映画はパスして、夕方5時近くから2本見たうちの1本目。観客は150ぐらい? 父親が健常者の消防隊員、母親は元公務員の聾唖者、娘は健常者の小学3年生という家族。聾唖の母の友だちが聾唖劇団を主宰しているが人材不足で誘われて芝居にはまり、静岡県が主催するイベントで劇をやり遂げるまで。カメラは岡崎宏三。古典的な映画作法にのっとっているけれど、脚本も演出もしっかりしていて、泣かせどころはちゃんと泣かせる。よくできた映画だと思う。しかし、所詮、お役所的発想の教育映画の域を脱していない。きれいごとを描いただけで、物足りない。そういう中で注目に値するのは、この映画のスタンスが、聾唖者の美化や礼賛になっていないことだ。ありがちな「耳が聞こえなくても、話せなくても、人間に変わりはない。何でもできる、健常者と区別しないでくれ」的なメッセージがないことだ。むしろ、そうした見解をもっている聾唖者の母親に対して、健常者の夫が「現実を直視しろ」と言っている。さらに、健常者と同じように扱って欲しいと願う両親に、普通の学校に行かされたおかげで不幸になった、と語る娘も登場する。また、劇団主宰者の聾唖の未亡人は、健常者を毛嫌いしている。さらに、聾唖者である母親が過去に静岡県庁に勤務していたような形跡があるのだが、そのときの上司は彼女のことを「言われたことはきちんとやる。文句は言わないし」と半ばからかうような口調で他人に言ったりしている。こういうスタンスの映画を、よく聾唖者団体は認めたものである。また、障害者どうしの差別感にふれていることも興味深い。母親が駅でキップを落とすが気がつかない。浮浪者のような障害者が気づいて渡そうとするが、母親は襲われると思って逃げ出す。男は人々に取り押さえられる・・・。これ、耳が聞こえたら避けられた問題かな? といっているようではないか。また、聾唖の娘と聾唖の青年が愛し合って、娘が妊娠する。娘が結婚したいと両親に告げると、父親は「お前は小さい頃の高熱が原因で聞こえなくなった。相手は親も聾唖で息子も聾唖で遺伝的だ。生まれてくる子どもだって聾唖の可能性がある。これ以上不幸な子どもを増やすつもりか」と逆上するのだ。こうした、障害者間の心のひだに入り込んでいるのは、どういう理由なんだろう? 文部省の政策とか、関係があるのだろうか? 私にはよく分からなかった。・・・それはともかく、子役の子どもが茶目っ気があってよかったね。あと、思うのは、こういう存在が、こういうよくある教育映画臭いものとしてつくられるのではなく、もっと一般の観客の目にふれる普通の映画としてつくれないものなのか、ということだ。狭い社会の人たちを対象にするのではなく、ありきたりの、ハリウッド映画かホラー映画しか見ない人たちにも見られるような映画づくりにしてもらいたいものだと思う。
ダブルス5/5ル テアトル銀座監督/井坂聡脚本/
舞台挨拶があった。司会(これまでのと違う人)と井坂聡、平愛梨、萩原健一。ショーケンは「監督のうわさは聞いていて、機会があればぜひやりたいと思っていた。それにTBSの○○の強い勧めがあって出た。監督には、遠慮した。いまから思えば本を直した方がいいな、と思うところはあるが、今回は遠慮した。次にやるときには、本音を言うだろう」というようなことをいった。井坂監督は「トリッキーなところがある映画なので、楽しんで欲しい」と。平愛梨は少女役の娘。それから、この映画は来年1月公開予定で、本日がマスコミも含めての初めての一般試写だそうです。観客は300人以上入っていたけれど、「東京国際映画祭」なら満員だったろうに。
で、映画ですが、期待はずれ。あの「FOCUS」の監督の面影はない。「破線のマリス」でも相当ひどかったけれど、あれは原作・脚本の野沢尚に振り回されたのかな? と思っていたのですが、今回の仕事を見て、「FOCUS」は偶然に近い産物だったのかも知れないな、と思い始めました。映像のダイナミズムがない。つまり、なんていうか、階段を駆け上がっていく快感というか、あるポイントに向けてかっかっかっと突き進んでいくリズムがない。仕掛けはあるものの、意外性に乏しくて新鮮味もない。長いセリフに頼りすぎてしまっている感もある。だからその分、人物の心の動きや行動を支える心理のようなものが映像で表現されていない。小道具とか情景とか、周囲のあれやこれやにも配慮が足りない。なんかこう、頭でつくって頭で撮っただけ、っていうような出来上がりだ。テレビの1時間番組にちょうどいい程度の内容、といってしまってもいいかなあ。うーむ。
チンパオ/陳宝的故事5/6ル テアトル銀座監督/中田新一脚本/中田新一
「日本インディペンデント映画祭2000」4日目。本日も客の入りは悪くて、どの映画も50人〜150人ぐらいだった。
ここで語られるエピソードは、主人公の老人が55年間も封印するほど大変な話ではないんじゃない? という違和感を感じてしまいますね。さらに、いくら子どもだからといって、たかが牛一頭に命がけで挑むものか、という違和感があります。さらに、主人公も戦場という限界状況で子どもたちはもちろん、牛一頭のために命令違反を犯すものかね? いやいや、はじめは嫌な奴だった堀軍曹までが牛一頭と中国人の子ども2人を救うために軍律違反を犯して銃殺される。それって、不自然としか思えない。だから、この話自体にリアリティも説得力もない。わからないのは、最後に堀軍曹が態度を変えて、子どもの味方になることなんだけど。まあ、そのきっかけになったのは転進を命ずる上官への反抗心もあるんだろうが。それと、日本と中国の合作というと「悪い日本軍の中にもよい日本人もいた」というパターンばっかりで。なんとかならないですかね。ああ、それに、戦闘シーンのいい加減さは酷かった。別に爆破シーンも戦闘シーンも必然性がないと思いますがね。ああ、それにそれに。主題歌がパクリといわれても仕方がないようなメロディだったなあ。
SFサムライ・フィクション5/6ル テアトル銀座監督/中野裕之脚本/
気持ちのいい映画だ。リズムがとってもいい。音楽も効果的。ユーモア感覚も過剰にならず、ウィットが効いている。力が抜けていて、気持ちがいい。全編モノクロの中に、刀のブルー、線香の火のレッド、焚き火のイエロー、海のブルーの他に、血のイメージのレッドが挟まる。これが、心地よいアクセントになっている。しかも、いままでのチャンバラ映画のエッセンスを凝縮しているから、時代劇らしさのいいとこどりで楽しいのなんの。布袋の浪人も迫力ある。風間杜夫の娘・小雪がチャーミングで、多弁に語ったと思うと、ほんわかなムードを漂わせたり。とってもいい味を出している。しかし、風間杜夫の役の侍は、「雨あがる」の主人公とまったく同じシチュエーションじゃないか。原作が同じものなのか、なんなんだろう。ひとつだけ注文を出すとしたら、クレジットの人名はローマ字ではなく日本語で表示してくれい。読めないよ。
梟の城5/6ル テアトル銀座監督/篠田正浩脚本/
CGに凝るのに頭がいっぱいで、映画になっていない。ドラマがないんだもん。誰と誰がなぜ対立しているか、とても分かりづらい。人物もちょっと出てはすぐに死んでいく。造型がぜんぜんなされていない。ずっと死なない何人かも、描かれ方が浅く、とても感情移入できるようなキャラクターがいない。ストーリーも、3年もの間、秀吉暗殺を狙っていた割に、暗殺シーンは1度、能を舞っているところだけ。これじゃ、必死に暗殺を狙っていたという印象はとてももてない。しかも、ラストではいとも簡単に城内に侵入し、なぜか、「秀吉が老人過ぎる」からという理由だけで殺害をやめてしまう不思議さ。さらに、意外と簡単に逃げ出せてしまう。だったら、さっさと殺しておけばいいじゃねえか、と思ってしまう。画面の派手な表現にばかり意識が向けられていて、ストーリーに観客を巻き込んでいく巧みさがまるでない。まるでダイジェストを見ているような、ぶつぶつ感がある。CGが見え見えなのも哀しい。
アメリカン・ビューティー5/25渋谷パンテオン監督/サム・メンデス脚本/アラン・ボール
アカデミー賞をたくさんとった映画にしては、感動もたいしてなかった。悪い映画じゃない。けど、通りいっぺんのありきたりの話を、こぢんまりとまとめた佳品というところだね。アメリカ人の生態、課題、問題点などを、数家族に凝縮して、その家族のあれやこれやを通してアメリカ社会をあぶりだす。うん。それはいいよ。でも、それだけ。2度も3度も見たくなる映画じゃない。アメリカの病理は日本にも数年後には伝播するって? うーん。各論としては、アメリカの先をいっているかも知れないよ。わからなかったのは、妻の反応だった。娘や夫に怒るとき、なんでかよくわからない、という部分が多い。これって、日本とアメリカの違いだろうか? それと、主人公の旦那のモノローグ。これも、よくわからない。だから、共感もわかない。隣家のオタク少年とか、実はオカマの大佐だとか、オカマの税理士と麻酔医(この2人、もっと描いてもよかったのでは?)だとか、周囲の存在の方がリアリティがあるなあ。主人公の家族の両親と娘の存在って、それほど外見的には、ぎくしゃくしているように見えないんだもん。
マーシャル・ロー5/29渋谷東急3監督/エドワード・ズウィック脚本/ローレンス・ライト&メノウ・メイエス&エドワード・ズウィック
原題の"SIEGE"ってのは"包囲"ってことで、"Martial Law"は"戒厳令"なんだね。こんなの、いっそのこと「ニューヨーク・テロ戒厳令」とでもすりゃあいいんだ。まったく。しかし、どれもこれも中途半端なできだね。何をいいたいのかも曖昧。黒人のFBI役人に、相棒はアラブ人。ま、この関係で映画を象徴させているつもりなんだろうけど。アラブ人はみんなテロリスト、っていうイメージ付けが強いから、戒厳令もしょうがないんじゃないの? ってな気分になってしまう。だけど流れは、民主主義のアメリカがそんなことをしてはいけない、なんだよね。でも、説得力ないよ。それぐらいアラブのテロは危ない、っていう文脈で描かれている。ところがとっこい、このアラブのテロは宗教上の理由ではなく、アメリカの支援が得られなかった元アメリカの協力者たちの怨恨だ、っていうのがウソ臭い。で、ニューヨークに戒厳令が敷かれる、って、どーもこの辺もリアリティないな。アラブ人はどんな隙間もくぐりぬけて悪さをする、って印象だけが残ってしまう。民主主義を標榜しつつ、仮想敵国を肥大化させているようにしか思えない。アラブ人隔離政策に反対する白人は出てこないしね。悩むのは相棒でアラブ人のFBI捜査官であり、慰めるのは黒人だ。白人の代表ブルース・ウィリスは戒厳令で得意になる将軍と来ている。だいたいこの将軍は、なに考えているのかわからん。結局、アラブ人抹殺を企んでいる方の味方じゃないか。可哀想なのは、アメリカの手先に使われて、捨てられたアラブ人の工作員でござい、か。とにかく、掘り下げ不足で、適当にアクション交えてしまって、いまひとつ共感できない映画だね。みんなアホじゃん、って印象。人物の造型が甘いし、対立も明確じゃない。誰に感情移入させようとしているのか、それも曖昧。美しいヒロインも出てこない。デンゼル・ワシントンのヒーロー振りだけが突出していて、なんか違和感。だからさ、一般アメリカ人はアラブ人をどう思っているんだ? それが知りたいなあ。

 
 

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