2000年10月

キッド10/17渋谷東急2監督/ジョン・タートルトーブ脚本/オードリー・ウェルズ
ほのぼのとしたテーマで、なんとなく見てしまう。といっても、全体が冗漫であることは疑えない。単純なテーマで少ないエピソードをムリに引っ張っているからだ。意外な展開や謎などを盛り込めばもっとスリリングになっただろう。けど、そうするとディズニー映画らしくなくなる可能性もある。ま、予定調和的な安心できる枠の中の物語ですね。で。最後に登場するパイロットは、あれは8歳の少年が喧嘩相手を殴り倒したおかげで達成できる、もうひとつの夢の自分なのかい? するってーと、なんか、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」だね。音楽はまるっきり、いや、月に重なる映像などまるっきり「E.T.」だったのに。
マルコヴィッチの穴10/17渋谷東急監督/スパイク・ジョーンズ脚本/チャーリー・カウフマン
これは刺激的。発想も面白ければ、展開もスリリング。ヴィーグル(時の乗り物)としてのジョン・マルコビッチという肉体に入る穴をたまたま見つけてしまった人形師と、その妻(動物を飼うのが趣味)と、わけわかんない女。自分たちがジョン・マルコビッチの脳内に入って快楽を貪っているスキに、これまで延々とヴィーグルを乗り継いで生き延びてきた老人たちが反撃する? 人間は寄生される乗り物か? なんだか、利己的な遺伝子を思い出してしまった。ラストの少女のプール内の映像も生きている。なかなかの快作。素晴らしい。それにしても、マリオネットは色っぽかったね。
デトロイト・ロック・シティ10/19シネマミラノ監督/アダム・リフキン脚本/●
KISSフリーク用、または、ただのおバカ映画かと思ったら、あにはからんや。なかなかの青春コメディ。若者4人の興味の対象がSEXというより“まずロック”なので、当時の風俗描写も多い。あの時代の若者と大人の世代間ギャップや1970年代末の世相もかいま見えて興味深い。KISSが悪魔の歌と忌み嫌われて反対運動のオバサンがいたりというのも、時代だなと思う。しかし、もっと驚いたのは、当時の高校生にとって親というのは恐怖の対象だったのだな、ということ。たかがオバンではないか、と思うのは現代の視点だからだろう。親の権威というのは、相当にあったのだな。ロック狂いの青年すら、親が怖いんだから。きっと、あの4人は素直でいい子供たちなんだよ。ロックだけでなく、4人それぞれに女性との思い出をつくるという設定も、さりげなくていい。高校最後の日(だと思うのだけど)の、こんな過ごし方もあったんだね。
五条霊戦記//GOJOE10/26上野東宝監督/石井聰亙脚本/中島吾郎、石井聰亙
日本版「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」かっつーの。ひでえ映画だ。人様に見せられるものではない。全編にわたって生理的に苛立ちしか覚えなかった。手持ちカメラでブラせばダイナミックさが出るだろうとでもいうのか。ピンぼけも含めて見苦しいだけ。森の疾走シーンなど何がなんだか分からない。ああいうシーンは、分からないなりに流れというものが必要だ。神経を逆なでするイメージしか出てこないじゃないか。カメラが壁塗りパンしすぎ。「ええい、動くな。FIXしていろ」と叫びたくなった。これは、カット割りができないことの証明だな。感情のこもっていない一本調子の科白まわしが、気色悪い。殺陣がまったく存在しない。役者に覚えさせる時間がなかったのか。カメラをブンまわして適当に誤魔化したのか。ストーリーが明瞭でない。なぜ義経は殺戮するのか、弁慶は立ち向かおうとしつつ逡巡しているのか。そして、最後に戦うのか。その絵解きがない。必要な映像がなくて、不要なシーンが多すぎる。画面がごちゃごちゃしている。画面の中に登場人物を詰め込みすぎ。人物と人物の距離もくっつきすぎ。空間を活かした構図が欲しい。構図といえば、でたらめな構図がごまんとあった。多くの人とは違う尺度の美学でももっているんだろう、きっと。とにかく、素材はそろっているのに、こんなゴミフィルムをつなげたような映画しか撮れないのが、日本の現状だといってもいい。もっと丁寧に、美しくダイナミックな映像を提供してもらいたいものだ。
ジャニスのOL日記(Janice Beard 45WPM)10/29オーチャードホール監督/クレア・キルナー脚本/クレア・キルナー、ベン・ホプキンス
第13回東京国際映画祭です。11時開場、11時20分開演ということなので、私は雨中10時45分ぐらいにたどり着いて列に並びました。2階席に座ったのですが、2階はずっとがらがらでした。日曜日の午前中だというのに、入りが悪いですね。もっとも、11/4日のチケットは、もうすべて売り切れと言うことでしたが・・・(チケットぴあ)。11時15分になるとCMが上映されて、CMが終わるといったん幕が閉まり、司会の襟川クロと通訳の女性が登場。そして監督のクレア・キルナーが壇上に上がり、簡単な挨拶。で、上映は11時26分から。上映後に再び3人が登場して、会場からの意見を聞きつつ監督が応えるというシステムでティーチイン。こちらは司会がムダなことや余計なことをいわないので、とても快適かつスムーズに進行していた。上映終了後、20分以上もやりとりがつづいたので、私は12時15分には抜け出した。次、2時から秩父宮へ行かなくてはならなかったから。そうそう。上映中に、映写室からの影が3階席の横壁に映って動く。振り返ると、映写技師が映写機のレンズを調節している腕が影になっているのがわかった。ここの映写室の窓は縦1メートル横1.5メートルぐらいと、とても大きい。中の人物も見えるほど。しかも、発光が凄い。だから、中で人物が動くだけで背後の光量が変化して、それも気になった。文句いってやろうと思ったけど、面倒くさい(フロアにいる女性から上司、そして、当の映写技師まで長くかかりそうだった)ので、やめた。しかし、気になるものであった。
んでもって、私の映画の感想はというと。はじめは主人公の我が儘さ(注意されても会社でビデオを撮るとかの身勝手さ)や間抜け具合に「こういう女がいたら、俺なら即刻首だし、個人的につきあいたくもない」と思っていた。多分、故意に嫌な面を強調していたのだろう。ところが、だんだん彼女に愛着が湧いて来るんですね、これが(多分、監督が上映後に言ってたアウトサイダーの魅力かも知れません。見ているときは理論づけて考えられませんでしたが、つまりは我が儘さはひとつの才能である、というか、並の人間ではなく個性的で普通の常識の枠に収まらないタイプの人間、ということかも知れません)。同僚に嫌われるようなことをズバズバいいながらも、その指摘の鋭さに共感してくれる同僚も出てくる。歯車となってこつこつ働くタイプの人間を描こうとしているのではなさそうだ。次第に開花してくる彼女の才覚に(といってもとても切れる女って印象ではないだけれどね)それでも感情移入してしまう。最後にはとても心が安らいで、気持ちよくなってしまうという映画だ。周囲の反発から、次第に尊敬を集めていく様子が描かれているのだ(もっとも、日本ではこんなに単純に尊敬してくれるとは限らないだろうね。もっと妬みやイジメがあるだろう)。で、この手のサクセスストーリーでは、もともと可愛目の女優に汚いメイク+メガネってことをして、出世とともに化粧も綺麗に、メガネもコンタクトにして美しく仕立てていくのが通例だけれど、そうしていない潔さがいい。主人公のジャニスはずっと不細工なままだし、着ているもののセンスがよくなることもない。そして、ドジは最後まで治らない。つまり、ある種の才能がある人格には、社会不適応があるよということを言っているのかも知れない。まあ、個性的で独創的でありながら感情移入させるには、人格に不備(虚言癖、とろい、ずぼら、センスが悪いとか)な要素を加味しなくてはならなかったのでしょうがね。そうそう。社会不適応といえば、ジャニスの母親は出産とともにうつ病と広場恐怖症になる。会社に誘ってくれた友達は紫色の呪縛から逃れられず、それ以外の色の服が着られない。こうした、なんらかのトラウマに絡み取られた人々が登場しているのも、興味深い部分。こうしたインセインによる囚われが、ふとしたことから消え去る。それは、強制的にでも自らの努力によっても。これは、「広い世間を見ようとせずに、狭い自分の殻に閉じこもっていると、本当の自分は発揮できないよ」と言われているようでもある。さて、ストーリーのもう一つの横糸に企業スパイがあるが、こちらはちょっとカリカチュアライズされすぎているというか、つっこみが足りないと言うか、もの足りなかった。ま、そっちの話を目立たせるつもりがなかったのかも知れませんがね。ハリウッド映画のように、トントン拍子のサクセスストーリーではないので、スカッとした気分と元気の素をもらえるわけではないけれど、なかなかにエキセントリックな人物が造形されています。ま、じつさいこういう人物がいても契約社員で能力を発揮することは難しいでしょうけれど。そうそう。画面がとつてもきれいだった。けれんはないけれど、とても丁寧に撮影しているだろうことが見て取れた。あ、そうそう。原題の45WPMっていうのは、1分間に45単語しか打てないタイプ技術のことで、契約社員としては“最低レベル”のことらしい。オープニングタイトルでタイプミスが訂正されるしゃれたビジュアルは、ここから来ているらしい。
監督とのティーチインでの談話を紹介します。「契約社員をしている頃、嘘ばかりついている社員がいた。それで、嘘つきが2人いたらどういう話ができるだろうか、と考えた。しかし、ただの嘘つきでは観客が感情移入できない。そこで、母親の存在を考えついた。それで、主人公に共感=感情移入できるようにした。私は最近まで契約社員をやっていた。そこでは幹部社員はみな男、秘書などの仕事はみな女性だった。最近の大企業は男女差別について変わりつつあるといわれているが、私のいた企業では映画で描いたままだった。私は、アウトサイダーを描きたかった。周囲の人に先入観をもたれてしまう人物。その人物が次第に“ああ、この人は違うんだ”って思われて、認められていく姿を表現したかった。この映画はアメリカの映画関係者の間で上映されて、ウケがよかった。ハリウッドでのリメイクはして欲しくない。ただ、いま、アメリカでテレビシリーズの話が出ていて、パイロット版をつくった」というような話でした。
見知らぬ街へ10/31オーチャードホール監督/アイゼ・ボラート脚本/●
第13回東京国際映画祭。11時開場、11時20分開演。先日と同じ2階席に座ったのですが、客は10人未満。1階も寂しい様子。まず、開演前に係りの女性に先日の映写室の影のことを言いました。彼女は携帯で上司に連絡。「映写技師につたえるとのことでした」という。しかし、たぶん正確に伝わらないと思ったので、「技師の直接言いたい」といい、席で待つ。暫くしてきたのは技師ではなく男性の係り人。これだからな。人をバカにしている。技師に直接言いたいといったのに、というが時間も迫ってきている。しかたがない。その係りに先日の一件をいう。「関係者が見ているので映写技師もピントには気をつかうのだろう」なんて言ってましたが。こんな、伝言ゲームみたいな連絡網では、観客にとって快適な鑑賞環境まではほど遠いと言わざるを得ない。幸いにして、この映画は暗闇が多かったので映写室の影はあまり目立たなかったけどね。上演に先立って襟川クロと通訳、監督(女性だった)と主演のオカマ役の男優が登場。男優が「ドイツを代表してトルコの映画をもってきた」と挨拶。
さて、感想。かつて3人の仲間がいた。女性歌手とオカマの歌手と影絵師。影絵師は他の女に興味があったが、女性歌手に手を出して妊娠させた。その後3人はバラバラに。どういう訳か、できた子供は影絵師が引き取って育てていた。ある日、影絵師が交通事故で死んだ。中年のオカマが連絡を受けていくと、孤児の少女を押しつけられた。2人は行方不明の母親を探しにヨーロッパ旅していく。という話だが、表面をなぞっているだけで人物造形が甘い。オカマの過去や背負っているもの、その心の中までは表現できていない。また、少女はたんなる孤児であり、それ以上ではない。だから、この2人が連れ立って旅をしていても、なんの面白みもない。2人の間に反発や怒りがないとね。「セントラル・ステーション」とか「ペーパー・ムーン」のように、心のひだを剥がしていく過程や、深い感動を与えることはできないよ。しかも、当初はとまどったのだけれど、舞台がどこだかわからない。「ドイツを代表してトルコ映画を」という言葉からドイツかな、と思っていたのだけれど、テレビがフランス語だとか言っている。あとはどこの国なんだろう。言葉や看板の文字だけでは判断がつきかねる。あの、片腕がもぎれた、と夜な夜な叫ぶ元軍人のいるホテルはトルコに近い所だったのかな。そういえば、突然、15年ぶりに生まれ故郷のトルコに帰っていったり。はっきり言って、母を求めていく旅は、どこをどう彷徨っているのか見当がつかない。だから、その時間感覚もわからない。疲労感もなにもつたわってこない。結局、見つけた母親には逃げられてしまって、元の家に帰っていくのだけれど、それでハッピーエンドでもない。また、ヨーロッパの中のどこにトルコ人街やコミュニティがあるかとかわからない。第一、ヨーロッパ人があまり出てこない。ホテルのボーイぐらいだ。なんか、中途半端な映画だね。
で、監督の弁は「移民(セカンド・イミグレーション)としてのトルコ人を扱った。戻るべき場所である“故郷(ホーム)”を描きたかった。2つの文化をもって育つことの意味を表現したかった。2人がヨーロッパ中を旅するが、どこにいるかが問題ではなく、誰に出会うかが大事なのだ。ホームとは、自分の過去を思い出させてくれる場所だと考えている」といったようなことを話していました。まあ、私の困惑した「どこを旅しているか」は、あえて表現していないようなのですが、それは結果的によかったとはどうしても思えません。
非・バランス10/31オーチャードホール監督/富樫森脚本/風間志織
第13回東京国際映画祭。2時40分開場、3時開演。またまた2階席に座ったのですが、がらがらでした。襟川クロ、通訳、監督の富樫森、主演の小日向文世(オカマ役)、派谷恵美(はたちや・めぐみ15歳、170cm)が壇上に。富樫監督は「台風クラブ」(1985)で相米慎二の助監督を務めたとかで「これで映画の面白さに目覚めた」といってました。それで「自分も中学生の女の子が主人公の映画を撮ってみたいと思っていた」そうです。
さて、感想。見るからに、短期間で撮り上げた日本映画、っていう見かけと色彩をしているなあ、と思わせるもの。まあ、ひとことでいうと、ちゃちいところがある。冒頭からつづくシーンは街頭風景や学校の中など、自然光が中心で丁寧なライティングをしていない。まあ、これはもしかしたら、ドキュメンタリータッチを意識して故意にやっているのかも知れませんが、安手の映画にも見えてしまう。昔の日活ポルノ映画みたいにね。たとえば、逆光で主人公がミドルショットで顔が暗いなんていうのは、見ていて美しくない。さらに、画面構成もぐちゃぐちゃしている。整理されていないで、夾雑物がどんどん入り込んでいるのに、それを排除していない。いうならば、画面をつくり込んでいっていない。だから、見るからにスナップショットのような映画なのだ。もう少し、対象を目立たせるためにアングルを選んだりトリミングをしたり、こう、かっこよくてリズミカルな映像をつくれなかったものかね。と、私は思う。次に、科白が聞きづらい。とくに、年頃の女子生徒の脳天から出るような声がキンキンと響くので、何しゃべっているのかわからない。同時録音かな。科白が大事な役割を果たしているのだろうから、もうすこし配慮して欲しいものだ。緑のオバサンという都市伝説が、願い事を叶えてくれる存在、というのも女子生徒たちの会話の中で説明されたようだが、よく聞けなかったのだよ。というようなことが物理的な注文。まあ、いろんな部分で折り合いをつけながら製作したのでしょうけれど、完成度は高くない。内容で言うと。本人の中学校生活のルールが「友達をつくらない、クールに生きていく」というものなのに、彼女のやっていることと言えば万引き、ホラービデオ鑑賞、ビデオショップの店員とのデート、小学校時代に意地悪した相手への無言電話、夜遊び・・・。小学校時代のイジメ体験から人との接触を自分に禁じた人間としては、これって全然クールじゃないよね。とってもステレオタイプな掘り下げ方でもある。この辺りが、主人公の性格というか心の位置づけの判断材料としては理解に苦しむ。まあ、自分がわからない状態とでも解釈すればいいのかなあ。うーむ。そういう彼女が出会うのが、願い事を叶えてくれる緑のオバサンへのアナロジーとしてのオカマの菊ちゃんなわけだ。この存在は興味深い。なぜなら同性でもなく異性でもないから。とはいうものの、オカマという存在は現在ではありがちな素材だけどね。少女松本チアキも宙ぶらりんなのだ。悪ぶっていながら飛び降り自殺をして仲間を抜ける友達がでてくる。彼女もきっと自分を見失っていたのだろう。ただ、周囲に流されていた。その事実に気づいたとき、自分を消滅させたかったのだろう。松本チアキの友達をつくらない、というのも、自分を消滅させること、につながるね。さて、小学校時代のイジメだけれど、原因はよく描かれていない。独裁者(だったかな?)とか言葉を投げつけられていたが、いじめられる人物が独裁者ってことはないだろう、と思いながら見ていた。だから、余計に私は困惑した。もう少し、その原因などを表現する必要があったのじゃないだろうか。まあ、なんだかんだ難癖をつけたけれど、それを差し引いて、なかなかしっかりした構成をもったシナリオだし、展開もきびきびしている。松本チアキを演ずる派谷恵美の妙に大人っぽい風貌が不思議な魅力になっている。なぜか知的で哲学的で、子供子供していない。芯がしっかりしていそうに見えるのだ。この弱さを感じさせない、けど、内向的という位置づけはキャスティングとしては成功しているように思う。なかなかに瑞々しい映画だ。オカマの菊ちゃんもグロになっていない。この2人の役者がいい。もっとも、原作がしっかりしているから、という理由もあるからかも知れません。印象に残ったのは、自殺シーン。淡々と撮っている。そして、ああいう場合には止めるまもなく見てしまうものだ、というところがよく出ていた。もっとも、落下している生身を上から撮るシーンは不要だろう。それから、小学校のイジメシーン。いじめられる松本チアキと、いじめる主犯の女の子だけが現在の中学生の姿で、残りは小学生という演出はなかなか面白かった。そうそう。松本チアキの家族が母親しか登場していないのは、食い足りない。父親もいるなら出すべきだ。母親が「こないだも無断外泊して」なんて言うシーンがあって、全然怒っていないんだけど、そういう家族って外国人から見たら異常に見えるんじゃないのかねえ。
で、ティーチインでの監督の言葉は。「いじめをテーマに撮るつもりは全くなかった。内向的な少女を描こうと思っただけで、原因はいじめでもほかのなんでもよかった。チアキという孤立した少女を描くのが目的だった」ということでした。これって「?」ですね。いじめが原因で内向的になって、ラストでは小学校時代のいじめっ子に小学校の校庭で復讐の決闘を挑むのだから、それなりに監督さんの中で位置づけてもらわないと困ります。これが「なんでもよかった」なら、彼女の「友達をつくらない、クールに生きていく」も意味が薄れてしまう。この、家族のあり方やイジメへのアプローチの意識の希薄さが、映画の完成度の低さにつながっているのかも知れません。松本チアキは決してクールでも何でもない。いつも心の奥底で友達を求め、そして、機会があれば願い事をしたがっているという弱い存在であること。そういう中学生がオカマと知り合い、人とコミットすることを覚えていき、過去への決別としての決闘までしてしまうという、そういう流れがちょっと散漫。せっかくいいテーマ、面白い素材を見つけながら、十分に生かし切れていないのは、残念です。

 
 

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