2000年11月

11/1新宿東映パラス3監督/阪本順治脚本/阪本順治、宇野イサム
おお。久しぶりに密度のある日本映画を見た。こいつは、凄い映画だ。ちょっと知恵が回らず、内向的な主人公が、妹殺しの逃亡の過程で次第に心を開いていく様子が生々しい。ボキャブラリーが増え、表情が豊かになり、化粧をして色気まで振りまき始める。そして、恋心まで抱くのだ。逃げることにバイタリティのすべてを注ぎ込んでいるのも、パワフル。さらに、現れてはどんどん消えていく脇役たちの存在感が、凄まじい。いずれもワケありという様子で、いかがわしくて。しかも、笑えながらも共感できるところがたくさんあったり。生活感の濃さというかリアリティさも、いかにも生っぽい。くだくだだらだらと撮らずに、省略するところはバッサリとカットしてテンポだしたり、また、意外な展開をさらりと見せたり。このあたりのシナリオ作法は小気味いい。しかも、構図もいい。画面の端と端、上と下に人物を配して演技させたり。いろいろと見るべきところがある。これは、快作である。
伊勢丹斜め前にある43席のミニシアターでした。なかなか快適。オバサン客多し。しかし、問題はジジイだった。最後列に座ったジジイが、上映開始から10分ほどしてコンビニ袋をカサカサいわせはじめた。そして、弁当のパッケージらしいのをパキパキいわせる。ぐうううう。ちょうど主人公が妹を扼殺する前後だったので、気になってしまった。しばらく静かだったのがまたカサカサパキパキ。私、たまらずジジイの背後に忍び寄って「うるさいから静かにしてください」といってしまった。まあ、それからも少しカサカサいっていたけど、もう片づけなくていいからさ。袋にさわるんじゃねえ! という気分だった。
モンディアリート11/2渋谷ジョイシネマ監督/ニコラ・ヴァディモフ脚本/●
第13回東京国際映画祭。雨。会場が狭いので早め(10時35分)に行ったら、なんとまだ4番目。25分も立ちつづけて疲れてしまった。11時開場、11時20分開演。240席のうち100席ぐらいが埋まっているだけ。上映前に運営(?)の女性(外国人みたい)が舞台に上がり、「本来なら上映前に監督の挨拶を予定していたが、今日、日本に到着し、会場に向かっているところ。上映後のティーチインには間に合う予定」と日本語と英語で説明した。そうそう。上映が始まっても10分以上、遅れて入ってくる客がぞろぞろいたのには閉口した。みな、カサカサと紙袋の音を立て、人の視線を遮り、うろうろと。しかも、人が入るたびに背後から光が射してくる。上映後の入室は、最後列で立ち見に限るとでもして欲しいものだ。
映画の感想はというと、ちょっとした感動も味あわせてくれるし、移民の力強さなども感じさせてくれるもので、なかなかよかった。とはいうものの、問題はいくつかある。まず、「また、子連れのロードムービーかよ」という感想が、第一に浮かびました。先日見た「見知らぬ街へ」がドイツのトルコ移民の話で、子供の母親探し。そして、今度はフランスのアラブ移民の話で、マルセーユで開かれるサッカー大会が見たいという孤児に引きずられるもの。なんか、似たような話がごろごろと出てくるのは、これが現在のヨーロッパにおける少数民族の問題だからでしょう。けれど、こうつづけて見せられると、ちょっと鼻につく。とはいうものの、主人公には暗い過去がある。いまはガソリンスタンドで働いているけれど、実は元サッカー選手。15年前に監督の奥さんと不倫して足を折られてマルセーユを追放されたのだ。これは、後半に分かって来るんだけどね。そのサッカー心を刺激したのが、友達になったいたずら小僧。そこに、ペット屋をやっている娘が絡んでくる。私は彼女をフランス人かと思っていたのだけれど、アラブ人だったのだね。とても愛らしくてかわいい。さらに、オモチャ売りのロシア人。この4人がくっついたり離れたりしながら一路マルセーユへ。その珍道中はなかなか面白い。タイトルのモンディアリートは、途中ででくわすビーチサッカー大会の名前だ。この商品が、サッカー大会のチケット。もっとも、ゲットすることはできなかったけど。さて、気になるのは、仲間となるのが同じアラブ人(アラブ人といってもどこの国かは分からない)と、ひょうきんなロシア人。で、フランス人は彼らを軽蔑し、差別する存在としか出てこない。ガソリンスタンドの店主、カフェの店員と客、ビーチバレーの審判と相手チーム・・・。どこにもフランス人との心温まる交流というのは出てこない。この辺りの敵対心というのは、なかなか強烈だなあと思う。日本であれば、悪い人ばかりでなくいい人も紛れ込ませて救いを感じさせるんだけど、なんとも徹底している。おかしかったのは、カフェで差別されて怒った主人公が喧嘩をふっかけるんだけれど、主人公が自分の名前をチコと適当に言ったら、近くにいたジプシーの2人連れが「1人でよく戦った」と感激してクルマで送ってくれる・・・が、チコというのは本名でないと分かると「降りろ」と怒り出すところ。ふーん。ジプシーとアラブ人は仲がよくないのか。さて、ラストで主人公とペット売りの娘と孤児は3人で家庭をつくるだろうことが暗示されている。それは、なんともほほえましい。けれど、結局アラブ人だけの閉鎖的な家庭となってフランスの中に出現するだけ何じゃないだろうか、という危惧がある。フランス人たちとの共生というものに、なんの可能性も見いだしていない。それは、社会的真実なのか、たまたまこの映画がそうだっただけなのか、知りたいところだ。
監督のニコラ・ヴァディモフと主演のムサ・マースクリ、女優の○○・○○が登場して挨拶。15分前に成田から着いたばかりだとか。ムサ・マースクリは、映画の中の風貌とまったく変わりなかった。監督は「マルセイユはいろんな人種がミックスしている。その現状はニュースなどではいい部分しか報道しないが、実際はこういう部分がある。しかし、そんな中で自分たちは誇りを持って生きている。それを表現したかった。この映画は、みんなが自分を捜し出す旅なのだ」と語っていました。また、あるご婦人が「ムサさんがマルセーユに戻って母親と再会しますが、本当のお母さんのように見えました」と感想というか、質問をしました。そうしたらなんとムサさんの答えは「はい。あれは本当の私の母親です。この映画には、他にも私の父や甥、従兄弟、マルセイユ時代の昔の友達なんかも出演しています」とのこと。うーむ。ご婦人の慧眼に感服。
ノーバディ・ノウズ・エニバディ
(日本公開名『パズル』/2001.6)
11/2オーチャードホール監督/マテオ・ヒル脚本/●
第13回東京国際映画祭。前売券を買ってなかったので、2時過ぎにオーチャードホールの総合受付で「当日券はどこで買えばいいんですか?」と問うと、受付嬢は「映画によって違いますので・・・」と返事が尻つぼみ。「それじゃ地図で探せっていってるのと同じだよ」と語気強く言ってしまう。「あ・・・はい。どちらで上映の映画ですか?」「オーチャードホール」「それでしたら、そのガラス扉を出てエスカレーターを上がって、オーチャードホールの入口の方でお尋ねください」ですと。ちやんと言えるじゃないか。やれやれ。で、そのオーチャードホールの入口近くにいた青年係員に「当日券はどこで買えばいいんですか?」と訊くと「は? どの映画でしょう?」という。なんでこう不親切なやつが多いんだ。オーチャードホールの正面入口で、あと50分ぐらいで開演するだろう映画を見るためにすでに並んでいる客もいる。そういう場所で「どの映画でしょう?」はないもんだ。「オーチャードホールの前で訊いているんだから、オーチャードホールでやる映画って考えるのが普通だろう」というと、「オーチャードホールでやる映画っていっても、1回目2回目3回目とありますが・・・」ときた。「1回目と2回目で、当日券を売り出す場所が変わるって、どういうことだよ」「ああ、場所が変わるわけではなくてえ・・・」「なに? あなたいま言ったじゃないか。1回目と2回目で、当日券を売り出す場所が変わるって」「誤解を招いたかも知れませんが・・・」「誤解だ? そんな政治家みたいな弁解するんじゃないよ。誤解じゃないだろ。それは、明らかな間違いだろ。なんで素直に間違えたって言わないんだ」「・・・」と黙り。そばにいた別の青年に「この人が言っていることと私が言っていることで、どちらが正当だと思いますか?」と訊くと「詳しくやりとりを聞いていなかったもので・・・」というので、経過を説明。と、その間に当の青年はふらふらと場所を離れようとする。で、「おい、あなたのことを話しているのだから逃げるんじゃないよ」と引き戻す。さて、もう1人の係りの青年は困ったような顔をしてい。「仲間だから庇いますか?」というと、「間違っていたようだから、謝った方がいいよ」と。で、当の青年は、“なんで謝んなくちゃいけないの。だいいち、このオヤジなんでがみがみいってんの?”てな顔でとりあえず謝ってくれる。「だいたいな、客をもてなす態度じゃないよ。ホスピタリティがない。ちゃんとしろい」と捨てぜりふを投げつけてしまう。で、もう1人の青年の説明によると「すでに並んでいる列は前売り券、特別招待券、スペシャルパスをもっている人が並んでいる。定刻になるとこの人たちが入場する。(この青年も話が長いので少しいらいらした)で、入場が済んだ時点で会場内の空席状態を見て、その判断によって当日券を発売することになっている。だから、当日券を売り出さない場合もある。当日券を売り出すかどうかは、開場時間の3時を過ぎてみないと分からない。その時間に来てくれ」ということ。はいはい。始めから端的にこういう具合に説明してくれればいいんだよ。まったく、とんまなやつばかりだ。ぷりぷり。で、ブックファーストで時間を潰して3時前に再びオーチャードホール。当日券発売窓口。先客は1人。どんどん伸びる前売りの列に少し心配になるも、これまでの経験では満員になることは特別な映画か夜の回しかないと分かっていたので、安心していた。と、若い男性が私に近づいてきて「あのう、当日券を買うので並んでいるのですか?」と訊く。「そうです」と、私。列の確認かと思いきや「あのう、これ、友達からもらったチケットがあるんですけど・・・」と差し出してくる。おお。「いくら払えばいいですか?」と訊くと「いくらでもいいです」という。いくらでもいいといわれてもねえ・・・。「いくら払えばいいですか?」としつこく訊くと「もらったものだから、いくらでも・・・100円でも」という。ぼらないところがかわいい。で、私の経済バランスで算出したのは500円。前売り料金の半額。それを渡すと交渉成立。私は、前売りの列にさっさと並んだのだった。さつきのアホな係員は、列の整理にだらだらと精を出していた。ははは。というわけで、3時入場。またまた2階席に行きました。開演しても周囲には空席が山のようにありました。上演に先立って襟川クロと通訳、監督のマテオ・ヒルと主演のエドゥアルド・ノリエガが登場して挨拶。あんまり大したことはいわなかったね。
映画は、なんというか、ミステリでもない。時の間隙に突然引きずり込まれてしまった売れない小説家兼クロスワード作家の物語。早い話が、狂信的なテロ集団に翻弄される話。しかし、全然ミステリアスじゃないんだよ、これが。どうして彼がターゲットにされたのか、テロ集団のボス(意外でも何でもない、実はルームメートの教師だってさ)は、どうして彼を仲間に入れようとして、時間と手間のかかる殺人などをしているのか、さつぱりわからない。しかも、ボスは仲間まで爆殺してしまう。意味不明。神秘さと奥深さが足りないし、終わったときにバラバラのピースがぴたりとはまる快感もない。たんに、少しぶっているだけじゃん。底が浅いね。ところで、日本の地下鉄サリン事件がヒントになっているようなシーンもあって、あらまあと思った。時間がないので、ティーチインは、パス。
バトルフィールド・アース11/4上野東急監督/ロジャー・クリスチャン脚本/コーリー・マンテル、J.D.シャピロ
どこが「映像化不可能」なんだかね。ベースは「猿の惑星」で、「ランボー」や「マトリックス」なんかのイメージがでてきたり。ほとんど突き抜けていない映画。笑っちゃうのは、「家族5人が養えない」とか「給料カットは困る」なんてことを異星人が言ってること。そして、金塊に目がくらむ異星人というのも、同情に値するばかばかしさ。これっていう見せ場がないまま、なんとなく終わってしまった。眠くて困ったぞ。
カル11/12渋谷東急3監督/チャン・ユニョン脚本/●
まったく思わせぶりな映画をつくりやがって。「ツインピークス」とか「ブレアウィッチ・プロジェクト」のノリだねえ。まあ、それはそれでいいとして。なかなか上出来というか、ほほう、韓国映画もこういうレベルにまできたかと感慨も新た。「シュリ」といい、エンタテイメントに徹しつつ、血糊べったり生首ごろりもOKとなっているのだね。しかも、婚前交渉や不倫や児童虐待や、いろいろなタブーが盛り込まれている。日本映画でも、このレベルの完成度に達している映画はないね、なかなか。ま、注文を出すとしたら、男優がもっと男前でかっこよく、女優もキュートに美しくありたい。ちょっとね、役者のバラエティに乏しいと思う。でもって、入場したときにくれたカードを見ると、ラスト近くに出てきた別荘の死体の写真があって、あの死体の手足と胴が縫い合わせてあるのがわかった。あらあら。見ているときには気がつかなかったよ。そういう“気がつかなかった”は、きっとたくさんあるんでしょう。もう1回ぐらい見た方がいいのかな。って、それじゃ監督の思うつぼじゃん。むむむ。えーと。分かりにくかったことの第一は、名前でした。正直いいまして、名前が似ているので、誰のことを話しているのか当初は分からなかったりした。まあ、こっちの注意不足かもしれないが。そうそう。監督という国は表面的に日本と類似の文明社会なので、出てくる映像のほとんどは、日本と区別がつかないねえ。文明の同質化っていうのは、あんまり面白くないな。
グリーン・デスティニー11/16上野東急2監督/アン・リー脚本/ジェームズ・シェイマス 、ワン・ホエリン、ツァイ・クォジュン
原題は「臥虎藏龍」。縦軸は、剣の達人ムーバイの師を殺害した碧眼狐への復讐譚。そこにム−バイと運送屋の娘シュ−リン、貴族の娘イェンと盗賊の頭ローのロマンスが絡む。ストーリーを貫くのは、名剣グリーン・デスティニー(碧名剣)。なかなか古典的かつオーソドックスなストーリー。変に凝るよりも、このぐらい大らかな方が見ていて楽ちんだ。考えなくて済むし。見物は、ワイヤーによる空中疾駆。これは、凄い。空中をほんとに走るんだから。壁を斜めに走り抜け、駆け上る。日本の忍者映画でこの技法が使えたら、どんなものができるだろうかと思いを馳せてしまう。それほど凄いし、見ていて快感だ。ちょっと残念なのは、仇敵・碧眼狐がただのちんけなババアなこと。もっと強大でいいんじゃないのか。とも、思うが、ここにもメッセージがあるんだろうと思う。女性として剣の奥義を学びに行った碧眼狐だが、きっと奥義を極めるだけの才覚がなかった。そこで、師は碧眼狐を女として性の対象にした。それを恨んで毒殺した・・・。抑圧される女性の叫びが、かいま見えるのだ。抑圧されるといえば、貴族の娘イェンもそうだ。おてんばな彼女は父親の転勤で西域へ赴く。そこで碧眼狐と出会い剣の極意を伝授される。実は、奔放に育ったのだ。しかも、気性の荒い彼女は、盗賊に襲われても平気の平左。奪われた櫛を取り返すため、盗賊の頭ローを単身で追いかけたりする。でまあ、ローとできちゃうわけだけどね。このエピソードはなかなか楽しかった。という、映画の現在進行形では現れてこない部分に、なかなかユニークなというか、興味深い内容がある。で思った。これは「非行少女に、人間としての愛を取り戻そうとする熱血教師の物語だ」と。でも、それをそのままやると、コメディになってしまう。それを避けるために、いろいろなエピソードを絡めているんだよ、と。まあ、そのために、いったいイェンがなぜ反抗するのか、貴族的生活から逃れ、何を求めようとしているのか、ということが明瞭になっていない。だって、盗賊的自由生活なら、一度はローと実現したのだからね。なのに、親元に帰ってきてしまう純なところが残っている。けど、やっぱり自分には剣の道が合っているわ・・・って、こいつは何を考えているんだ、おい。というところが、いまひとつ説得力に欠ける。ラストは、願いを込めて橋の上(山の頂上じゃなかったの、本来は?)から身を投げる。あれは、碧眼狐の毒針で死んだムーバイが生き返るように、という願いではないのかな、と私は思ったのですが、どうなんでしょう?
スペース・カウボーイ11/26新宿ピカデリー1監督/クリント・イーストウッド脚本/ケン・カウフマン、ハワード・クラウスナー
これは、傑作。コミカルになりすぎず、こけおどしの宇宙物にならず。ちゃと人間ドラマになっているところが買いですな。40年も前の恨みを宇宙で返す。その気っ風がいい。「七人の侍」風にメンバーを集めるところも、定番のスタイルだけど掘り下げ方が深くて、なかなかの人物描写。トレーニング中も、いささかコミカルだけれど、下品にならず。この、あらゆる面で抑制されているところが、ドラマに厚みを加えている。最後の40分近くは宇宙ドラマだけれど、ここで俄然白熱して、ハラハラドキドキのドラマに。そして、ラストの月面のシーンでは、恥ずかしながら目頭が熱くなってしまった。うう。泣かせてくれるじゃないか。というわけで、私はオープニングの10分足らずの過去のシーンをもう一度見てしまった。イーストウッド役は分かったけど、後はあやふやだったので。なるほど。この過去のシーンには、現代で繰り広げられるドラマの伏線が、いっぱい詰め込まれているんだね。とにかく、世のオヤジ世代に元気を付加する、なんていう形容詞は要らない。なかなかの傑作である。と、誉めておいて。NASAの女性スタッフがトミー・リー・ジョーンズに惹かれた理由が描かれていないね。それと、オールド宇宙飛行士と、若い宇宙飛行士との対立が、ほとんど食堂でしか描かれていない。これも、ちょっと不満。もう少し突っ込んでもよかったんではないのかな。それにしても、ロシアはコケにされているね。アメリカ人のうっぷんは、こんなところに向けられるの? 予告編で「パールハーバー」なんていうのもやっていたけれど、いまさら日本に矛先を向けるというのは、どうしてかな?
漂流街 THE HAZARD CITY11/30ニュー東宝シネマ監督/三池崇史脚本/龍一郎
数寄屋橋のこの映画館って、シネマ1と2があるんじゃなかったっけ? いまはひとつなの? うーむ。情報が遅いのかな、私は。それはさておき、銀座4丁目交差点近くの地下にあるディスカウントショップで東宝の株主招待券を1,400円で購入して見たのである。11月中有効の最後の日なんだからさ、デパートの鮮魚売場みたいにどんどん値段が下がっていくかと思いきや、そういうこともないようだ。くそ。それはさておき、凄いという人もいれば糞という人もいるこの映画。三池崇史のトンデモぶりは「DEAD OR ALIVE」で分かっていたけれど、まあ、その範疇を出なかったというのが率直な感想。いいセンスはそこら中に溢れているんだけど、それがひとつの固まりとして機能していないという状況かな。もうちっと時間をかけて練り上げて、思いつきではなく計算されたユーモアなり映像として定着してもらえると、いいんじゃなかろうか。アリゾナみたいな埼玉県戸田市だとか「マトリックス」のパロディとか屋上に出てくるクルマだとかLOVEと書かれた血痕だとか自転車の行列とか「最も危険な遊技」みたいな殴り込みだとかピンポンCMのパロディとか。ごった煮がごった煮のまま放り出されているだけという気がする。だからまあ、勢いでつくつているんだよな、多分。でその、オープニングだとか随所に挟み込まれている疾走感のある映像。テンポのいいこまぎれのカット。リズミカルでいいんだけど、これが単にアクセントとして使われているだけで、テイストになっていない。だって、大半の場面はFIXか単純なカメラ移動やフォーカスの移動ぐらいで、ひどく単調なのだ。間も、悪い。長すぎるんじゃないか、要らないんじゃないかというカットがたくさんある。この、疾走感とテンポの悪さが混濁している様子は、どちらかというといらいらを助長させると思う。・・・のだが、実をいうと見終わったあともう一度最初から30分ぐらいを見直した。そうしたら、このテンポの悪さというのはあまり気にならなくなっていったのだ。うーむ。思うに。最初に見たときは映像の中にあまり情報を見いだせなかったのだけれど、2度目はかなりの情報を見いだすことができたせいかも知れない。ああ、こいつはこういう登場の仕方をしていたのか、ストーリーの流れを補うオブジェクトもいろいろと詰め込まれているのが発見できたのだ。でもさ、たとえば、どんな役者が参加しているかなんて知らないフツーの観客(つまり私だ)が、なんの前提もなしに見て理解できなければ意味がないわけでね。2度3度見て「なるほど」って感心してもしょうがないんだよな。というわけで、伏線なりなんなり、描くべきは分かりやすくしてもらわなくちゃ、困るよな。役者の顔がほとんど見えなかったり(野村祐人)とか、会話が別の映像にかぶったりしている演出は、観客を混乱に陥れるだけではないかと思ったりもしたのだ。だからって、アクもなにも抜けきってしまっては困るのだが。

 
 

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