2000年12月

チャーリーズ・エンジェル12/1上野宝塚劇場監督/マックジー脚本/ライアン・ロウ、エド・ソロモン、ジョン・オーガスト
いやー。楽しかった。いうことなし。娯楽映画っていうのは、こうでなくっちゃ。あれこれてんこもり。でも、魅力あふれる調理法で「わけわからん!」なんてことはひとつもなし。しかも、次々に展開するスピード感。だらける暇なんかありゃしない。スーパー・ウーマンたちなのに恋に(男に?)うつつをぬかす人間くささもあって、愛らしさは十分すぎるほど。もう、最高だね。で、3人についての感想はというと、キャメロン・ディアスは、ちと痩せすぎで皺が目立ってた。ドリュー・バリモアはお色気たっぷり。でも、とんまな役回りだったね。ルーシー・リューは・・・好みでないのでパス。
シャフト12/7渋谷パンテオン監督/ジョン・シングルトン脚本/リチャード・プライス、ジョン・シングルトン、シェーン・サレモ
クールで格好いいサミュエル・L・ジャクソンを期待していったら、とんまで頑固な反差別主義者の間抜けな顛末を見せられた、って気分。全然スカッとしない。途中で出ようかと思ったぐらい盛り上がらない。だいたい、すぐにキレまくる若造の人殺し程度に何年も首を突っ込んでいるというシチュエーションが、映画としてはせせこましい。それに、殺人を目撃したウェイトレスが逃亡し続ける、ってのも説得力不足。だって、金持ち若造に巨大な悪組織がいるように見えないんだもん。だいたい、人種差別殺人若造、麻薬王ともにダークな部分がない。若造には「家庭が悪かったんだね」と同情したくなるし、麻薬王は愛嬌があってかえって共感してしまう。おまけに、こういう映画にはつきものの“謎”がない。目撃者が犯人側から金をもらっていたからって、大して衝撃的な事実じゃないもんね。さらにさらに、シャフト刑事は簡単に犯人や目撃者を捜し出してしまう。苦労とか困難が見えないのも面白くないよね。つまんねえったらありゃしない。しかも、シャフトが動き回ることで事件を大きくしてしまっているんだよな。金田一京助みたいじゃん。お前が動かなきゃ、怪我したりしなかった連中が何人もいたぞ。あー、つまんねー。
バーティカル・リミット12/12池袋東急監督/マーティン・キャンベル脚本/ロバート・キング、テリー・ヘイズ
遭難して助けを待つのが3人。救助に行くのが6人。それぞれ1/3ずつ生き残って、生存者は合計3人。これは、意味のある救助なのかどうか? という疑問もあるのですがね。さて、雪山映画はあまり見てないのだが、なかなかのスリル。ほんと。手に汗握るシーンが連続展開する。このスピード感も心地よい。脚本は最初から最後まで一貫したテーマ“生きるために他人を殺す”を、いろんな視点から照らし出している。他者のために自分から死ぬ、自分のために人を殺す・・・。その極限状況が、短い時間にたくさん詰め込まれている。登場人物も、味がある。死んだ妻の遺体を探す登山家(実は裏がある)や、陽気な兄弟登山家(この陽と陰がなかなかいい)、シェルパ・・・。その他の周辺の脇役も、なかなか。とはいいつつ、どうも頭でつくりあげた無理矢理さ加減があちこちでほころびを見せている。たとえば、主役の兄弟と、名誉と金が目当ての企業家登山家ボーン、トムという堅実風な登山家といった、本来なら中心的な役割を果たすべき連中が、いまひとつ平板というかステレオタイプ。魅力がない。とくに、主役の兄弟のお涙頂戴的な浪花節演技は閉口した。この2人の精神的な成長物語にすべきなのに、それができてないというか、脇に追いやられている。「オヤジを犠牲にしているのに、こいつら、バカじゃないのか?」と思わざるを得ないアホさ加減である。というわけで、人間ドラマはいまひとつだけれど、サスペンスの畳込みはなかなかなので、見ていて楽しい映画。もっとも、下手な字幕スーパー(ときどき何をいってるのかわからなかったぞ!)は、混乱の元になったけれど。
サークル/日本公開名「チャドルと生きる」(2002.8)12/16ル テアトル銀座監督/ジャファル・バナヒ脚本/●
2000年、イラン映画。ベネチア映画祭金獅子賞グランプリ作品。最初の20分ぐらいは何のことやらさっぱり分からなかった。登場人物はどんどん入れ替わっていく。おいおい、最初の赤ん坊はどうなったんだ? 次に出てきた女3人はなぜ警官におびえているんだ? なんていう疑問が湧いてきていらいらする。しかも、出てくる女がどうもとろい。要領が悪いんじゃないか、と思わせるような行動しかとらないんだよ。と、途中でなんと、この3人組が刑務所から脱走してきたつてことが判明する。おお。なるほど。そして、映画全体が人物から人物へとエピソードをバトンタッチしていく「マグノリア」スタイルなんだな、気がついたときに、かなりの納得をしてしまった。そーかそーか、である。最初の女児の出産で「男じゃないの? 女? 追い出されちまうよ」とつぶやいていたのは、イランにおいて女の価値がないということのメッセージだったのだ。そして、次々に不幸な女(何かの罪で牢獄に入ったが脱走した女、その刑務所仲間で前歴を隠して結婚している看護婦、未婚の孕み女、子供を捨てる女、娼婦・・・)を出していって、その輪(まさにサークル)を描いているのだ。しかも、オープニングの映像は病院の小窓であり、エンドシーンは結局みんな捕まってしまって放り投げられた監獄の小窓。なかなかに芸が細かい。長廻しのシーンが多く、街頭などもドキュメンタリーのように自然。重いテーマを陰気にならずに、優しい眼差しで描いているのが好感が持てる。イランの社会状況を考えると、なかなかの冒険なんだろう。イランにも娼婦がいるんだ、と分かっただけでも人間らしい国だということがわかる。そういう人間のどうしようもない本能を妙ちきりんな枠組みで抑えつけることに疑問を感じている人がいる、そして、メッセージとして表現していることは大変なことだ。そういう意味では、命がけなんだろう。こういったテーマが映画の題材になってしまう国なんだ、ということでもある。だからまあ、映画的にどうのこうの言えない、のかも知れないけど。しかし、メッセージばかりが全面に出ているプロパガンダではなく、見ていても押しつけがましくない、技術的にも高度なレベルの映画になっていた。もっとも、いくらイラン国内で女性の自由がないといっても、でてくる女性たちは犯罪者や道徳観のひどくずれた連中ばかりで、同情しろといわれても、日本人の感覚で判断しても、「こいつら不良じゃなえか」と、言下に吐き捨てることができそうな役ばかり。彼女たちがどういう犯罪行為で入獄したのかまでは描かれていないので、にわかには判断できないのだけど、この映画の登場人物だけから、イラン女性は抑圧されているとか差別されているとか、いえないんじゃないのかな、と思った。
■アジア映画を主体にした第1回TOKYO FILMeX 2000にでかけた。会場は銀座と京橋の境にある、ル テアトル銀座。こういう映画祭だから客はたかが知れていると思っていたが、本当に800人ぐらい入る場内には200人ぐらいしか入っていない。日本人白人、そして、イラン人。近くにイラン人一家が陣取った。こいつらが上映中ずっとしゃべりっぱなし。子供2人は飽きちまって足を延ばしたり前の席にもたれたり。日本人ならはり倒したいところだが、あいにくとイラン語を知らないので、ちょっと遠くに避難するだけにとどめておいた。かの国では映画鑑賞するのにわいわいやるのが常識なのかも知れない。いや、ほんとのところはよく知らない。スクリーンの右側に縦に黒い線があるので何かと思っていたら、スクリーンの右端を日本語の字幕用に当てていたのだった。映画の画面には英語の字幕、右側には縦に日本語の字幕という上映スタイルだった。ロビーではジョニー・ウォーカー水割りが提供されていた。こちとら飲みながら映画を見る習慣はないので遠慮しておいた。映画は、6時40分、上映予定時間になったらさっさと始まった。東京映画祭のように最初の挨拶はなし。司会も出てこない。いいことだ。これでいいのだ。で、上映後に司会の男性と通訳と監督のジャファル・バナヒが登場。5人ぐらいの質問に応えていた。
では、ティーチインでの監督の応え。
○勇気をもった映画だ。テーマを選んだ理由は?
●子供を扱った映画を撮っていたが、子供が大きくなったら社会でどんな苦しみをうけるかを考えたからだ。自殺した母親のニュースを読んだのもきっかけになった。イランの女性たちは、社会的、政治的、宗教的なサークルに閉じこめられている。そして、そのサークルを少しでも大きく広げようと努力している。そういう現実を描きたかった。
○街頭シーンが自然に撮れているが、エキストラか?
●エキストラではない。しばらく一緒にいると慣れてきて、自然な映像が撮れた。
○望みがないまま映画が終わっているが・・・。
●社会の現実を描くとなると、どうしても暗くなる。現実のままを撮りたかったのだ。描いたのは現実の一面ではあるが、その周辺を描くことになる。実をいうとイランではまだ公開の許可が下りていない。
○役者はプロか?
●孕み女と子捨て女の2人は、以前映画に出たことがあるという意味で、プロだ。あとはすべて素人だ。
天上の恋歌12/21ル テアトル銀座監督/余力為(ユー・リクウァイ)脚本/余力為
香港映画。原題は「天上人間」。“Love Will Tear Us Apart”・・・って、いまは大陸の政府の許可を得てつくってるのかな? どうなんだろ。えー。印象は、香港の市川準かあ? ってな感じ。私は市川準のテンポが好きではないので、うううううという気分。夜のシーンの色彩美がなかなか。けど、香港らしさはあんまりでていない。喧噪も雑踏も動きもなく、静かな空気感が漂っている。まあ、そういう陰気な連中しかでてこない映画なんだがね。AV屋の青年は女に振られたばかり。ダンス場で拾った女は年増で義足。淫売宿で出会った少女は大陸から出てきたばかり。そこに、AV好きなエレベーター点検工がからむ。というのが大枠で、ストーリーはないも等しい。未来に夢もなく、楽しく語れる過去もない。そんな、大陸に吸収された香港そのもののような人々の交錯模様を描いている。が、とってもわかりにくい。なにしろ具体的な説明のセリフもシーンもないんだもん。なぜそうなったか、なぜここにいるか、これからどうするか、といったことは全く説明されていない。しかも、4人以外の人物の状況がインサートされたりして、なんだか混乱してしまう。できることなら、もう一度見たいけれど(面白かったからではなく、いったいあれは誰だったのだ? なんてことを確かめたいから)。恋人が大陸で泥棒して銃殺された、なんてナレーションが入るけれど、あれはいったい何なんだ? なんて場面がいっぱいあんのよ。いらいら。つまりまあ、“だからなんだよ”といいたいような映画である。楽しくはない。面白くもない。でも、退屈はしない。とくに、青年がいきつけのコンビニがいい。ここの店員がいい味を出しているし、アラジンのビデオを探しているオタクがでてきたり。テレクラやビニ本やカラオケとか、かの地の風俗が見られるのが興味深い。うーむ。中国本土もあんなになっちゃってるの? って、ちと驚き。
第1回TOKYO FILMeX 2000である。7時10分〜9時05分まで。ティーチインが、9時20分過ぎまで。今日の映画は日本語字幕が打ち込まれていた。そのかわり、画面の下に英語用字幕用の小さなスクリーンがしつらえられていた。この映画、来春に日本公開されるとか。では、ティーチインの模様を・・・
○寂しく哀しい、喪失感のある映画だが
●単なる男女関係ではなく、人間関係を描いている。人間が、人間をどうやって背負っていけるか、だ。
○その場で演出を変えたりしたのか?
●事情があって撮影日数は18日と余裕がなかった。セリフはほとんど台本のまま。即興はない。
○テレビ画面にビキニ姿で歌うカラオケの曲が流れたが、あれは大陸の歌か?
●台湾の曲だ。それがビデオクリップになって大陸に流れているのだ。歌詞が、見ている義足の女の風刺になっている。
○突然関係ないシーンがでてきたり、不連続性が混乱した
●前後とつながりのないシーンが入っている。それは、われわれの人生にも思いがけないことが起こったりするが、そういうことを表しているつもりだ。
○大陸出身の役者が広東語をしゃべっていたが
●広東語と北京語をごっちゃにしゃべることは、香港の日常にもよくあることだ。
○原題の「天上人間」の意味は?
●素晴らしい世界、という意味だ。逆説的な意味を込めている。香港が大陸の一部になってしまったことの意味も含めている。
○最初に「去年撮った映画なので、いま見ると妙な気がする」と言ったが、最近の香港はどう変わっているのか?
●設定していた1999年とはだいぶ変化している。香港人には自分の位置をどこに定めたらいいか分からない、という気持ちがある。物質的に大陸に依存していながら、大陸を排斥する意識もある。疎開地だったこともあるだろう。これから生きていくために、自分の位置を見定める必要があるだろう。
忘れられぬ人々12/23ル テアトル銀座監督/篠崎誠脚本/●
新聞に「ナント映画祭で三橋達也、大木実、青木富夫がそろって男優賞、風見章子が女優賞を受賞」という記事が出ていたので急遽見ることにした。“老境を迎えた3人の戦友が誇りと友情を守るために立ち上がる姿を感動的に描く”という解説文があったが、これでは到底見ようと言う気持ちは起きなかったのだ。どうせよくあるパターンの・・・と思っていた。まあ、その感想は半分は当たっていたが、半分は外れていた。外れていた半分は、老人を食い物にする霊感商法の部分だ。これは意外な展開。つまりまあ、前半は戦友たちの友情をほのぼのと。それが霊感商法でずたずたにされていく。それに立ち向かうという流れなのだが、違和感がないかといえば、ウソになる。といってもNHKが放送するようなきれい事ではないのは確か。私にはそれほど共感できる終わり方ではなかったので、泣ける映画ではなかったけれど。泣く人もいるのかも知れない。問題は、映画としてのディテールが甘いこと。たとえば、三橋達也の役どころは終戦で帰ってきたら妻も子もなくやくざになって、後に足を洗った。だから、戦友会にもなかなか顔を出せない。というものだけれど、そういう過去が映像ではなく言葉でしか語られない。だから、説得力がない。大木実の妻の内海桂子が入院していて、そこの看護婦と彼氏が老人たちといつの間にか仲良くなっているのだけれど、どうしてそうなったのか、ということも映像では描かれない。また、兵隊たちの会話や襟章など、首を傾げる部分もあったり。つまり、説得力が弱いんだよな。接続詞がなくて単語だけが並んでいる映画みたいなのだ。ここらへんが整理できたら、もっと質が上がるんじゃないだろうか。しかし、興味深い試みもなされていた。それは看護婦の祖父で、三橋達也の戦友の金山という一等兵が、朝鮮人だということだ。韓国併合中に召集されて日本軍に入ったのだろう。しかし、家族には日本語で手紙を書いているから、おそらく日本人の妻を娶り、内地に暮らしているという設定か。しかし、そうしたことは一切映画では説明されていない。戦時中のシーンで話す金山の日本語がちょっとおかしいこと。それと、戦場で致命傷を受けた金山に、三橋達也が上官の命令でとどめを刺そうとしたとき「お前に殺されてもおれは・・・(英語の字幕しか出なかった)」と、多分朝鮮語で言う部分だけが判断材料なんだけど。この設定は、現代の部分で、三橋達也が黒人との混血少年と交流をもつことと深い関係がある。なにしろ、金山から形見で渡されたハモニカは、現代の黒人少年へと手渡されていくのだ。それも、死ぬ間際の血痕を染みつかせて・・・。サブテーマとして何気なく紛れ込ませているけれど、実はなかなか意味が深い問題だと思う。さて、この映画で活き活きとしている、または、得をしているのは青木富夫だ。風見章子の生け花の先生に老いらくの恋をする役なのだが、尻の軽い様子がコミカルに描かれている。が、これは老人問題(老人にとってのセックスなど)にも関わる問題で、それをユーモラスに描いているのはなかなか。また、春風亭昇太、内海桂子が出ているが、内海桂子のセリフに、これは芸人でなくちゃ出てこない、というようなセリフがあったねえ。
映像のトリミングが生理的に変。上部に無駄なアキがあって、下部が詰まっている。流れが平板。もっとリズムがあっていいのではないか。公園の石垣や飲み屋で座っている3人の横姿、後姿は、小津そのものだね。
上映開始時間は5時40分だったが、その時間から舞台挨拶が始まった。篠崎誠監督、風見章子、青木富夫が登場。風見、青木の2人は、身体全体をつかって嬉しさ、喜びを表していた。
●風見章子/この映画は6カ月前に、夏に撮影したんですけど、私が女優賞だなんて、びっくり。男の人3人が主演の映画だと思っていたから。この歳でフランスから賞をいただくなんて。(司会を振り返って)もっと話してもいいのかしら。(話したくて話したくてしょうがない様子がうかがえる。ほんと、心がうきうきと躍動して興奮しているみたい)最近は来る役がみなボケ役で。台本見たら名前が小夏ってかわいい名前だったから。私なんか、演技に垢がついているので、監督さんはそれを落とすので大変だったみたい。ずいぶんしごかれました。青木さんは無声映画の時代からやっている方ですけど、いろいろとアドバイスをもらったりしました。
●青木富夫/授賞式ではフランスの女優さんからキスされちゃって、それからもう何が何だかわからなくなっちゃって。“初恋の人とのキスより嬉しい”っていったら、笑われちゃいました。賞はスタッフのみんなの手によって得られたもの。篠崎組ありがとう!
●篠崎誠/シナリオを書いてから3年。ストーリーは10代の頃から温めてきたものだ。青木富夫さんと撮影のフルヤさんと出会いで、話に現実性が出てきた。2人以外にもいろんな局面で励ましてくれた人がいる。6年かかって、2本目の映画が撮れた。
ヴェルクマイスター・ハーモニー12/23ル テアトル銀座監督/タル・ベーラ脚本/●
ハンガリー、ドイツ映画。いまどき珍しい白黒映画。8時40分-11時05分。“不穏な空気漂う村にやってきた移動サーカスの一座。村は不思議な狂騒に包まれた。『サタンタンゴ』のタル・ベーラ監督が創造した脅威の映像世界”という惹句につられて見ようと思った。私としては「アンダーグラウンド」とか「白猫・黒猫」みたいな映画かと期待していたのだが。しかし、単調で躍動感もなく、何が何だかわからない、壮大なる退屈映画でしかなかった。深夜の訳の分からない太陽と地球と月のダンス。巨大なトラック。音楽家の世話。新聞配達。朝食。音楽家の妻の策謀。明け方の鯨。音楽家の意味不明な音楽観・・・。だから何なんだ。そういう積み重ねに、始めのうちは意味を読み取ろうとしていたけれど、これは読み取られることを巧妙に避けている映画だということに気づいた。サーカスや鯨や広場や暴動や音楽など、描かれるエレメントは意味ありげに設置されているけれど、読み取ってもらいたい、または、読みとれるはずだというレトリックのかけらも用意されていない。しかも、ストーリーらしいものも、ない。あるように見せて、始まりも終わりも何も用意されていない。エピソードすらねない。思わせぶりなセリフが散在しているだけだ。そうか。もういいや。そういうつもりならば、こちらも読みとってなんかやるものかという態度に変わっていった。だから、30分をすぎる辺りから、ただ漫然と画面だけを眺めることに徹していた。まあ、そうしていてもさほど退屈しないだけの映像のクオリティがあったからだ。このクオリティには、2つある。ひとつは芸術写真と見まごうばかりの深みのある白黒画像だ。しっかりした構図。ムダを極力省いた表現力。手前から遠方までフォーカスの合った緊張感のある画質。そういうものすべてが、映画を超えてスチル写真の連続性のように見えた。もう1つは、キャメラの動きだ。キャメラはステディカムを使っているのか、動きがとてもなめらかだ。しかも、数分単位の長まわしは当たり前。広場のシーンなぞは屹立する人の柱の間を抜けながらの延々と主人公を追っていったりする。そうとうのリハーサルと緊張感がつづいたはずだ。1日に1カットも撮れないようなことが、ままあったのではないかと思わせる、恐ろしいシーンの連続だ。2人がそろって歩くシーンなどは、歩いている2人の顔を、歩いている時間そのままにずーっと撮り続けている。「私は省略はしない。移動するには、実際にこれだけの時間がかかるんだよ」と、作り手が薄ら笑いをつくっているかのようだ。つまりこれは、逆にいえばすべてのシーンのカット尻が悪魔のように長いということである。もし、普通の感覚で編集したならば、4/5ぐらいのフィルムは必要なしとして捨てられてしまうことだろう。まさに、そういう長尺のシーンの連結が、この映画の持ち味だろう。しかし、私はこういうリズムの映画に、最後まで共感することはなく、ただ漫然と、寝気を抑えて画面に視線を供給することだけに力を注いでいた。1時間を過ぎた辺りから、何度時計を見たことだろう。後方にある私の座席からは、途中退席する人が10人ぐらいいたこと、途中で抜けてまた戻ってくる客が普通の映画に比べて多かったこと、また、携帯の画面を見だす人(時間を見ただけかも知れないが)までいたことを見逃さなかった。っていうか、画面にそれだけ集中できなかった、つていうことだな。ははは。
ティーチインは、上映終了後の11時05分過ぎから始まった。100人余りいた客の半数ぐらいが、さっさと帰っていく中、タル・ベーラ監督が登場。これまでのように舞台で座ってではなく、舞台の下、最前列の座席のすぐ前に立っての質疑応答だった。
○病院のシーンで殴る音がなかったが・・・
●物事には音のないものがある。多分、音がない方がいい。
○裸の老人を見て悟ったようになったのは?
●文明に関わるものはすべて破壊しようとしている。病院も襲うようになる。その先はもうない。そういう人がいつ踵を返すのか、その境界がある。
○白黒で長まわしだが、アフレコか?
●私はけばけばしい色が好きではない。色は見かけだけ。本質には迫れない。映画とは音であり映像でありリズムだ。人のまなざしやメタコミュニケーションであり、私とあなたとの間に起こる何かだ。私はカットは大嫌いだ。ストーリーはあくまで表面的なもの。本質はストーリーの下に隠れている。その境界線を超えたら何をやっても自由だ。私は編集室は大嫌い。撮影中は怒鳴ってばかりなので、オリジナルの音は使えない。だから、すべてアフレコだ。
○ヴェルクマイスター・ハーモニーの意味は?
●映画中にも出ているが、妥協、ウソ、真実でないもののことだ。バッハを発見したのは、ヴェルクマイスターだ。妥協なしにヨーロッパ文明はあり得ない。野蛮とは何だろう。文明と野蛮の境界はどこにあるのか。第三世界だけでなく、欧州内にも対立はある。ハンガリーは東西の中間にあり、倫理的にもきついものがある。
○署長の子供がでてくるが、妥協しないことの象徴か?
●その問いに答えるなら、この映画はつくらない。子供がやっていることのすべては、ロックンロールといってもよい。子供はすべてを超えている。
○主人公だけが鯨を見て、他の人は見ない。神が創造したともいっているが・・・
●この映画に神はでてこない。主人公がかってに信じているだけだ。サーカスには2つのだしものがある。鯨とプリンスだ。主人公は鯨を見たいのであり、群衆はプリンスを見たいと思っている。
○・・・
●遠くハンガリーから来たが、わざわざくすんだ色のつまらない映画を見に来てくれてありがとう。これから、何によって崩壊していくのか、考えてもらえれば嬉しい。
ナトゥ 踊る!ニンジャ伝説12/31渋谷東急3監督/大森一樹脚本/●
ひたすら眠い。大森一樹といえば「暗くなるまで待てない」だけれど、いまやなんでも撮りますの御用監督になってしまった。それはそれでいいのだけれどね、見られる映画を提供してくれれば・・・。しかしなあ、「ゴジラ」には強烈なキャラもいるし、特撮は監督が別にいるし。ごく普通の映画となると、“こいつ無能なんじゃなかろうか?”としか思えない退屈な、映画的きらめきというか発見のなにもない、フィルムのクズを見せつける。とんでもないことだ。さて。インド映画といえば集団の踊りだけれど、そのレベルがいかに高いものか、この映画を見ればすぐわかる。日本人の踊りのレベルと、段違いなのだ。見てはっきり分かるほどの差。それを埋める努力というものを、大森一樹はいささかでもしたのだろうか? テキトーに撮り終えて「はい、オーケー!」なんてやってたんじゃないのかね。やれやれ。とんでもない時間のムダだった。

 
 

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