2001年4月

ハンニバル4/10上野東急監督/リドリー・スコット脚本/デビッド・マメット、スティーブン・ザイリアン
フィレンツェの前半と、アメリカの後半。前半には100点をつけるが、後半は60点というところ。その落差が激しすぎる。冒頭の銃撃戦では、先走って事件を大きくしてしまう地元警察官がでてくるが、こいつが何か関係してくるかと思いきや、無関係。ちと肩すかし。で、閑職に追いやられるクラリス。そのときレクター博士はフィレンツェに潜んでいる。偶然にもレクター博士を発見して賞金目当てに追いつめようとするイタリア刑事。この辺りの思惑というか、動きがスリリング。大きなドラマがあるわけじゃないんだけど、何が起こるんだろうと心がそわそわする。かつての被害者で大富豪の黒幕はあまり魅力ないけど、彼がいないと話にならんからしょうがない。いや、とにかく、フィレンツェの部分はそそる。ところが、レクター博士が罠にかかるようにしてアメリカにやってきてクラリスに接触を図る辺りから、がぜんつまらなくなってくる。簡単に捕まってしまったり、わざとらしい残酷シーンだの、最後の晩餐だの。これ見よがしで、浅はか。とはいうものの、つまりはレクター博士の凄さが描き切れていず、つたわってこないのが最大要因。なぜって、フィレンツェにいるのにクラリスの窮地が分かってしまうんだぜ。どういうネットワークだ? で、仕掛けられた罠にみすみす引っかかってしまうんだぜ。なんで? しかし、これはレクターが罠にはまったんじゃなくて、故意に罠にはまってやったが正解。だって、捕まる前にレクターは病院で手術道具一式を盗んで、司法省の役人の別荘に運び込んでいるんだ。つまり、レクターはクラリスと接触しようとした時点で相手のたくらみを見抜き、自分が逮捕されて殺されかけたときにクラリスが助けに来ることを予想し、かつ、クラリスが傷つくことも計算に入れて、さらに、司法省役人がタイミングよく別荘にやってきて、んでもって晩餐のメインディッシュにすることも予定していた、ってことだ。さらに、あと10分で警官がくるというのに、ゆっくりと晩餐を楽しみ、あっという間に逃げ去って機上の人となるという離れ業をする。これが、ほとんど計算上のこと。これができるレクター博士の凄さというものが、画面からつたわってこないのだから、まいってしまう。それと、それほどまでにレクター博士はクラリスを・・・という、犯罪者とFBI捜査官の絆というのもつたわってこない。説得力がない。げてな晩餐のメインディッシュに力を注ぐより、そういう心のひだに分け入って欲しかった。ちなみに、私は原作をよんでいないけれど、あのメインディッシュは司法省役人の膝から下あたりがステーキで出てくるのかな? と思ったのですが、もっとグロでした。いやほんと。笑ってしまうほど、グロでした。それにしても、盗んだ外科手術道具で、あんなにきれいに頭蓋骨が切れるものなのかどうか? アンソニー・ホプキンスの存在感(主に前半ね。後半はダメ)はさておいて、ジュリアン・ムーアは任じゃない。体型がぶよぶよで、ランニング姿などむくんだしろブタさん。どうも、フツーのオバサン面で、感情移入できなかったです。
バトル・ロワイアル<特別篇>4/11上野東急2監督/深作欣二脚本/深作健太
こいつは傑作だね。映画として傑作だけれど、オリジナル・ストーリーではなくて原作があるから、これは原作の勝ち。もっとも、原作を見ていない。けど、極限状況で中学生たちが殺し合う、という枠組みを設定したところで、これはストーリーの勝ち。お互いが殺し合う場面は、ひとつも嫌悪感が感じられなかった。もっとも、悲壮感も哀愁も共感もなかった。ひたすら淡泊。淡々と殺し合って、または、心中、自害していく。こうしたさまざまな死について、これはこうである、といったような利いた風な口をきいていないのがいい。解釈は、見たあなたがご勝手に、と突き放している。だから、多様に解釈することができる。その思いは、人それぞれ違うことだろう。たとえば、私は、「信じ合える仲間と思っていても、真実はわからない」とか、「外面は悪いが、いい人だったりする」とか考えた。自分が生きるために人を殺していいのか、という考えだって成り立つだろうし。戦わずして死んでいいのか、とも考えられる。正解なんて、多分ない。社会を凝縮したアナロジーとして、「蝿の王」と並ぶぐらい素晴らしい設定のストーリーだと思う。バスケットのシーンや、河原の教師と女子中学生、父親の縊死のシーン、ファミレスのしーんなど、現実の場面がインサートされるのも、効果的。
日本の黒い夏 冤罪4/26シネマミラノ監督/熊井啓脚本/熊井啓
ナレーションのような感情のこもっていないセリフ。パターンにのっとったような動き。メッセージを直接口にする陳腐さ。PR映画か教育映画って感じ。記者の1人、浩司って人物は人格がコロコロ変わるようなことばかり言ってるね。変なやつ。しかも、マスコミと警察に不快感を感じるようにつくっているから、見ていてほんと不愉快になる。それはそれで映画としては成功しているのだろうけど、たんに非難するだけでは解決にもならんだろう。帝銀事件や下山事件などが発生したのは戦後のどさくさ期。陰謀や欲望、政治性なども加わって、闇の中の不気味さがあった。だから、見えない敵への告発があった。けど、現在に闇はない。映画ではカルト集団といってるけど、あれはオウムだし、犯人をでっちあげたのは警察、それを鵜呑みにして視聴率を優先したのはマスコミ。そういう図式はみんな知ってる。それをいまさら言われても、だからなんだい、だね。浅野健一の言っている“犯罪報道の犯罪”にも及ばない。人間に迫ってないんだよな。容疑者家族へいたずら電話をかける真理へのつっこみとか。こないだ電車の中で三浦和義が出所しているという週刊誌の中吊り記事をみたジジイが、連れに「なんで人を殺して出てこれるんだ」といつていたけど。そう思うような扇動記事を書いているマスコミもマスコミだけど、疑問もなく鵜呑みにしてしまう一般大衆も一般大衆。疑問をもたないことは、荷担しているのと同じなんだよ、というようなつっこみも欲しいね。それに、高校生の男女が取材するシーンから始まるけど、地味すぎ。オウムが松本の事件も自白した、という展開になった後で、松本での事件の模様が描き出される。おいおい。こういうシーンは冒頭にやるべきだろう。あるいは現実の進行とパラレルで交互にインサートしていくとか。さらに、最後の特別番組製作の部分と、快復しない妻と川辺に行くシーンはたるい。いらない。というよか、社会ドラマだけではもたないから情に訴えようとしたんだろう、きっと。うーむ。熊井啓も浪花節をうなる、か。
ザ・セル4/26新宿ピカデリー1監督/ターセム脚本/マーク・プロトセヴィッチ
なーんも予備知識なしに見た。オープニングの砂漠のシーンのフォトジェニック。アートだね。なんの話なんだ? と、思っていたら、がらり現実。脳の中に入り込む。「ブレーンストーム」っていう映画が昔あったなあ、と思っていると別のドラマが同時進行。カメのアップからカメラが右へ移動して宙に浮き、道路の上にたどり着いたとき、下をクルマが走り去っていく。おお。なんと凝った映像だ。こら凄いな。水槽の中の死体。これがなかなか美しかったりする。殺人ビデオ。こらあ「コレクター」のリメイクか? しかし、男の背中の鉄の板は、誰がどうやって埋めたんだ? しかし、つり下げマスターベーションは、見ていて痛かった。で、この異常性各者の犯人はいとも簡単に逮捕されちまう。ん? と思ったら、最後に誘拐された女性を救出するために脳の中に入り込む・・・。おお。そういう展開か。なんか、粗筋を書いているみたいだけど、こういうスピーディでスリリングな展開は、なかなか興奮する。先入観がなかったからだし、また、意外性がそのままつたわったからだろう。捨てられた女性の死体は、鑞のように屍蝋のように白い。これもアートだ。心理学者ジェニファー・ロペスが飼っているのは、猫。犯人が飼っているのは、犬。犯人の脳の中で出会うのは、馬。この馬がプラスティネーションのように断面にカットされる。誘拐された女性たちが様々な姿態で拘束されている。その様子が、これまたアート。しかも、ミステリアスで無機的で耽美的で退廃的。ざらついた画面もなかなかセンシティブ。犯人の子どものときの洗礼の想い出・・・カメラが弧を描いて水没する。おお。凄いカメラアングル。父親の幼児虐待。それをのぞき見するような興奮がつたわってくる。嫌悪感よりも、様式的な美をかいま見る感覚ただね。入眠するときに着る筋肉スーツはちゃっちい。FBI捜査官が入眠するときの映像は安手のCGで、これもちゃちい。さて。ジェニファー・ロペスは、犯人を自分の脳へと導き入れる。この世界が何ともオリエンタル。桜の花が咲いているのは黒沢明の「夢」だね。聞こえてくるのはシタール? ジェニファー・ロペスは東洋的なメイクだし、着ているのも釈迦か菩薩のよう。いるのは孔雀。そうか。これは、菩薩による救済の映画なのだ。ちゃちい楽園だけど。ビジュアルも、暗喩がたっぷり。もぐる、くぐるシーン。地下室。つり下げる、つり上げる。こういうのは、潜在意識の下に入り込むことを表しているんだろうなあ。誘拐された女性が水槽から救われるとき、犯人はジェニファー・ロペスによって水没されている・・・とか。仕掛けもたっぷり。しかし、特殊な分裂病という犯人の脳の世界は、なんと饒舌で蠱惑的なのだ。すごいね。これが全編に漂っていたら、もっと凄かったろうに。

 
 

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