2001年6月

トラフィック6/1上野セントラル3監督/スティーブン・ソダーバーグ脚本/スティーブン・ギャガン
うわ。手持ちカメラでぶれぶれ。メキシコのシーンは粒子ざらざら。他のシーンも屋外は緑や青などに偏向した色彩。フルカラーのきれいきれい画面はほとんどなし。最初は、あざとさが鼻につく。ドキュメンタリーっぽく撮ることで“らしく”見せようという意図が見え見えだったから。しかしまあ、慣れてくれば、そういうものかと気にもならなくなる。米国の麻薬取締官トップ(マイケル・ダグラス)に任官するエリート、その娘が麻薬に溺れていく話、米国の麻薬取締官2人、メキシコの警官2人、という4つのドラマが3つになり、さらにいくつかの接点をもちながら進展する。説明を排除し、なおかつ、人物の正確描写まで生々しく鋭い。鋭いんだけど、いずれもどっかで見たことがあるような話で、ストーリー自体にはとくに新鮮みはない。けど、やっぱりたどり着くのは描き方だよね。被写体を対象化してとらえ、感情移入を極端に避ける視点。これが、徹底してる。ほんと。ドキュメンタリーみたい。ドキュメンタリーにしてはマイケル・ダグラスがスター過ぎるんだけど、権威を失墜させるには、あのぐらいのスター性があることが必要なのかも。当初は分かりやすいストーリー運びだったけど、メキシコの相棒の1人が組織に殺される辺りからごちゃごちゃしてきて、いったい背景は? となってしまった。ベニチオ・デル・トロのところにちょくちょく顔を見せいていた女は、相棒の女房だったのか、と後から気づいたり。まあ、私が人物の名前や顔を覚えるのが苦手、ということもあるんだがね。ははは。なんか、まとまりがない感想だけど、演出力と表現力が厚い。この厚みが人物の描写にもなっている。すべての登場人物が助演賞の対象になるほど、濃い。まあね。とはいいつつも、結局は最後も正義の立場にたっているところが、また、あざとい。身も蓋もない話にせず、ちゃんと救いのある形(公園に照明がついて野球に興じる子供たちがふえた、とか、無罪放免になったボスのところに盗聴器が設置できたとか)で終わらせているところなど、賞を、というより、選考委員の心情にきめ細かく応えているなあ、と思ったのでありました。ついでに、小屋のこと。上野セントラル3は、何と席数68のミニシアター。しかも、コンクリの固まりが波打っている床で、なんともシュールであった。
15ミニッツ6/4上野東急2監督/ジョン・ハーツフェルド脚本/ジョン・ハーツフェルド
いや、凄かった。2時間、途中で時計をちらりとも見ることなく、ノンストップ。ひさびさに画面に釘付け状態。あら探しや解釈をしている間もなく、いやがおうでも映画を見せつけられてしまった。設定も面白い、人物も興味深い、これでもかこれでもかと畳みかける先が読めないスリリングな展開。いやもう、楽しみました。広告の惹句にはメディアがどうの現代社会がどうのと偉そうに書いているけれど、そんなこたあ二の次というか、映画の背景だよな。要は、殺人吉害とビデオオタクの2人連れ犯人と、メディアオタクの刑事と純粋な若い消防刑事という図式だ。しかし、面白いのは殺人鬼がチェコ人でビデオオタクがロシア人。すごい設定だ。日本でこんな映画(殺人犯が韓国人とフィリピン人の2人連れ)つくったら、差別だ偏見だのとうるさいだろうに。それを堂々とやってのける。こないだ見た「トラフィック」はメキシコ人の不法入国と麻薬だったけど、今度は東欧からの犯罪者の流入への警鐘だ。ほら、目撃者の女(目が異様に魅力的だったなあ)も、正当防衛ながら母国で警官を射殺して米国に不法滞在する設定だし。そういやあ「パールハーバー」なんていう映画も公開されるけど、この映画のもうひとつの主役であるビデオカメラはフジフイルムの製品だったね。つまり、日本も脅威のひとつということか。アメリカは、仮想敵国をつねにつくりつづけないと気が済まない民族なんだねえ。で、この映画がどこのフィルムで撮影されているかと思ったら、おお、フジフィルムじゃないの。なんともおかしい仕掛けだ。さて、ストーリーに関してはさほどいうことはない。ラスト近く、犯人たちがレストランで自分らがメディアに売った殺人ビデオを見ている。そのうち制作者はだれだという言い争いになったところに消防刑事がやってくるんだけど、彼はこの場所をどうやって突き止めたのだろう? というのぐらいかなあ。あとはもう、堪能いたしました。真面目な映画のようだけど、思わず吹き出してしまうようなギャグもたくさんあったりして、笑える。消防刑事役の、ダイエット中のリチャード・ギアみたいな役者は、なかなか印象的。デ・ニーロは、もう、これ以上はいないというキャスティング。もっとも、若い客には受けないかも。デ・ニーロの彼女になるキャスターは、いまひとつ不細工。ああ、そうだ。キャスターで思い出したけれど、最初にテレビ局の話かと思わせて、あとはどどどっと犯罪ドラマになって、忘れた頃にメディアが登場する。ほんとうに、とって付けたように。とにかく、メディアの貪欲さなんて、これまでも幾度となくテーマになってきてる。いまさら正義漢ぶってるはずもない。ドラマの枠組みとして、おあつらえ向きだった、ということだろう。しかし、タイトルがよくないね。これじゃ客が入らんよ。「血を吸うビデオ」とか「クリミナル・ビデオ」とか「殺しの目撃者」とか、こう、もっとセンセーショナルのがいいんじゃねえのか?
初恋のきた道6/6丸の内シャンゼリゼ監督/チャン・イーモウ脚本/●
原題は「我的父親母親」。主演のチャン・ツィイー(「グリーン・デスティニー」に出てたんだって? 様子が違うのでわからなかった)の1人プロモーションビデオか? これは。中味すかすかじゃん。うーむ。完全なる中国映画かと思ったら、ソニーとユニバーサルピクチャー・アジアのクレジット。しかも、香港の機材を活用している様子。うーむ。するってえと、ユニバーサルが買い付けたかバックになってつくらせた中国映画で、香港の機材とスタッフが使われているということか。なるほど。ドルビーデジタル。現代の家で貼られているサッカーと「タイタニック」のポスター。ヌケのいい画像と大胆な構図。赤い服。草原の羊、馬、牛。うねるような山々。風で揺れる麦畑(?)では、風を送る機器が使われているんだな。晩秋の紅葉。雪景色。雪の中を町に行くシーンではスモークが焚かれていたし。クレーンで被写体を追うシーンも多かった。こういうのって、ハリウッド的に金をかけているよな。貧乏くさくない。中国も、自由化でこんなになっちゃったのか。ううむ。で、思ったんだけど、このシチュエーションって、西部劇を思わせるところがある。開拓農民の村にやってくる東部の大学出の教師。彼に惚れる百姓の娘。家をつくるシーンや羊や馬なども、ウェスタン風。これって、読み過ぎかなあ。さてと、現代の部分が白黒。過去がカラー。意図は明白。美しかった想い出だけが色彩が豊かだということだろう。あまりの分かりやすさに、あざとい感じがにじみ出ている。しかし、クルマは4WDで「タイタニック」のポスターがあったりして、貧乏という印象はまるでない。これ、中国か? と疑ってしまう。で、ストーリーはバカいってんじゃないよ、というようなもの。1960年代の中国の田舎村に、町から教師がやってくる。その教師に村一番の美少女が一方的に恋をする。恋いこがれて一緒になる。その父親が死んだ。息子が町からやってくる。母(かつての美少女)は、町から田舎まで棺をかついで帰りたいという。担ぎ手がいない、といっても聞かない。金を払って担ぎ手を雇おうとしたが、かつての教え子がやってきて無償で雪の中を担いでいった。という、それだけのもの。ほんと、アホみたい。これを90分もたせたのは、チャン・ツィイーの笑顔とあどけなさ(手と足が同時に出るような走り方は子供そのもの)。それ以外、ない。いやー、中味すかすか。で、思ったのはも今の中国ではドラマがつくりにくいのかな、ということ。1960年、若い教師は赴任してすぐに町に連れ戻される。その理由が語られていない。わずかに、右傾化しているというのが知れるのみ。ってことは、町で再教育でもされていたんだろう。2年後戻ってきたのだから、毛思想を徹底的に身につけさせられた? にしては、その後の文化大革命から4人組、天安門事件などの時の流れをあの村で過ごしたはず。っていうことは、彼はどこかで批判の嵐に晒されたときがあったのではないのかな? というようなことは、問題があるからなのか、一切触れていない。たーだ、少女の恋物語を描く。おいおい、それって、表面だけを美しく描きすぎてやしないか? そうそう。1960年の教室には毛沢東の肖像画があったが、1999年の教室にはエジソンが「天才とは1%のひらめきと99%の努力てである」という名言とともに貼られていた。ほかに、西洋人(マルクスじゃなかったような・・・)、東洋人(周恩来か?)の肖像があったな。様変わりするもんだ。やれやれ。では、あら探しをすると。教師が少女に与えた髪留めは、昼めしと夕飯の間に村の中で買ったと思われるが、店はどこにあるんだ? 少女は毎日教師を追って山谷をうろうろしていたようだが、畑仕事はしないのか? 少女の母親は盲人。あれで食っていけるのか? あんなに教師を追いかけて、村中に「さかりのついた淫乱娘」なんて、噂はたたなかったのか? ええい、核心にふれてきたぞ。私はこの映画を、田舎の貧乏娘が自分の容姿を武器にして、優秀な遺伝子を得るために都会出の教師を色仕掛けで仕留めた物語、と読んだ。でなけりゃなんだ。相手の正確も心根もわからないっていうのに、子供たちを送っていく道すがらに張り込んできっかけをつくり知り合いになり、井戸に行くといって教師の周囲にフェロモンをふりまき、女っ気のないところにつけ込んだのだ。動物学的には、そう解釈できる。それを、なんともまあ清純そうな娘と熱血教師(一目惚れされるほど恰好よくないぞ、この教師)の市場あふれるドラマにしちまったもんだ。やれやれ。少女が餃子をもって走れば転ぶのは目に見えているし、熱を押して雪の中を歩けば倒れるに決まっている。お話も類型的。こういう映画に、ころりといっちゃう人って、いるんだねえ。まったく。でも、チャン・ツィイーは可愛かったよ。だから、ラストの現代部分では、40年後にはこうなるというババアの姿は写して欲しくなかった。棺を担ぐシーンはしょうがないけれど、老婆は写さないで欲しかったです。現代に、昔のままの容姿で現れてきちゃってもよかったんじゃないのかな。
で、一晩寝てちょっと考えたんだけど。表面的には「カワユイ女優のアイドル映画」でありながら、いろんな小道具で「ささやかな自己主張」をしているっていうことなんだろうな、と。青年教師は若い頃から世界に目を向けていた。それで党から呼び出されて再教育のためたびたび呼び戻された。しかし、彼の革新的な考え(中国では右傾化になるな)は変わることがなかった。珍しかった自由恋愛をして、教育に身を捧げた。彼の世界に向けた視線は、年老いてますます盛んだった。たとえば、サッカーW杯も見ているし「タイタニック」も見ている。そんな熱血教師だった彼。40年の教師生活で、この気持ちを子供たちにつたえてきた。ときには党の政策に反発を感じつつ・・・(党に反抗して無事でいられるはずはないのだけど。ま、いいか)だからこそ、葬式のときあれだけの教え子がやってきた。・・・という裏ストーリーを、ちゃんと読んであげるべきなのだろうな。ほぼ全編アイドルのプロモの様相を呈していながら、ちゃんとメッセージも潜り込ませている。なかなかしたたか。
ガールファイト6/6丸の内ピカデリー2監督/カリン・クサマ脚本/カリン・クサマ
ちっょと期待していったんだけどね。がっかり。なんだあ、このリズム感のないだらだら映画は。よかったのは主人公の少女ミシェル・ロドリゲスの存在感、それと三白眼の睨み目かな。最大の欠点は、彼女がボクシングをやろうという気持ちになった原因が描かれていないこと。モチベーションもなく、ただ「やりたい」じゃ共感はできないよな。そんな中途半端な気持ちで始めた女に殴られる男(それも、プロを目指しているんだぜ)の気持ちも考えて見ろよ。やりきれないじゃないか。あとから、父親への憎しみなどがちらちらと見え隠れするけれど、強調されてはいない。反抗する対象というのを、もう少し描き込んでいくべきだったろう。父親なんて、最初の頃は仲よさげに描かれているもんな。家族3人で食事してるし。この食事のシーンも含めて、女友達と買い物したりふらついたり、そういう日常のシーンはこの映画の本来あるべき主題の意図を削ぐだけだ。あんなものは要らない。もっと、彼女が向かって行くべき対象を描くべきだった。これに関連していえば、この映画にはドラマに不可欠な対立関係というのが希薄。弟をいじめるレイという少年との確執が簡単に描かれる程度で、いささかもの足りない。だから、彼女が次第に逞しくなっていき、ライバルのボクサーを倒していっても、たいして感動に結びつかない。まして、最後は恋人関係にある彼氏との決勝戦。これって、男には不利だよ。こないだ足を負傷して欠場かという貴乃花が千秋楽に土俵に上がり、武蔵丸と本割り、同点決勝と2番相撲を取ったけれど、武蔵丸は本気が出せなくて結局負けてしまった。それと同じじゃないかと思う。まあ、はやくいえば、女を武器に(怪我を武器に)、男に(強い相手)勝ったということだ。見終わってもスカッとしない。不完全燃焼。もやもやばかりが残る映画だ。気になったのは人種。東洋系の混じったような黒人の父親。ラテン系(中南米?)の弟。黒人とラテン系が混じったような主人公。いったい、母親は同じなのだろうか? 異母兄弟か? よくわからんです。
ベティ・サイズモア6/6シャンテシネ1監督/●脚本/ジョン・C・リチャーズ、ジェイムズ・フランバーグ
「ガールファイト」が終わって日比谷へ。時間がぴったりだったので飛び込んだ。先入観ゼロ。予告編もなにも、映画の存在さえ知らなかった。原題は“Nurse Betty”。日本題は、主人公の名前。原題の方が味があっていいなあ。さてと。これはもう、映画を堪能。笑わせていただきました。いや、こんな面白くておかしくて不思議なストーリーをよく思いつくものだ。ストーリー展開の意外性だけで、しっかり惹きつけられてしまった。みんな魅力的な出演者ばかりだ。主人公のレニー・ゼルウィガーは、昔は看護婦志望だったのにぃ、という人妻。亭主は秘書と昼間っからHしてる。自身はちんけなレストランでウェイトレスをしている。頭がよくなくても雇ってもらえる最低の職業だ。つまらない日々のストレスの行方は病院を舞台にした昼メロ・・・。誕生日の晩も誰も祝ってくれなくて家でビデオを見ていると・・・亭主が客を連れてくる・・・が、本業の中古車の客じゃなさそう。亭主は女房が家にいることを知らない・・・。そこで、突然事件が・・・。てな流れで、いったい何がどうなるのやら分からないうちに彼女はカリフォルニアへ。ショックによる記憶の混濁で、昼メロの世界を現実と認識してしまうようになってしまった・・・。なんと、まるで漫画みたいなお話の展開。もう、笑いの連続。意外性の連続。決して下品にならず、クライム・ストーリー(といっても、まあ、たいしたことはないんだけど)が縦軸となり、厚みのあるコメディが螺旋のようにからまっていくお話。知っている役者も多くでていて、なんとなく近しい感じもしたりした。ははは。シャンテシネ1は、30%ぐらいの入り。ここ、奥行きがない割にスクリーンがでかいね。右端の中頃からちょっと後方で見たんだけど、それでも字幕を読むのが大変だった。映画の日でもなければ足を踏み入れない映画館で、こんな日でなくては見ないような映画を、存分に楽しんでしまった。レニー・ゼルウィガーの、無垢で純真な娘を演じている姿が、なかなか魅力的だった。そんな彼女に惚れてしまう老悪党モーガン・フリーマンも、なかなかチャーミング。
マレーナ6/12渋谷東急2監督/ジュゼッペ・トルナトーレ脚本/ジュゼッペ・トルナトーレ
完成度が高い佳品といった感想。ストーリーはよくあるような物語で、手垢のついた、目新しくないものだ。けど、その大したことのない話を、情感豊かに膨らませている。でもって、まずこれは野郎の映画である。野郎といっても、ガキの野郎である。野郎ならだれしも記憶の底に残している、年上の女の話である。それに戦争という味つけをして、さほど暗くなく、むしろたっぷりのユーモアを込めて描いている。自我が大きく膨らみすぎて、の。自分が騎士やガンマンやターザンになるという妄想は、なかなかに楽しい。ミケランジェロの彫刻そのままのシーンは、おかしかった。ラテンなイタリアだねえ。主人公の少年の妄想と行動は、でも、ちと異常。完全なるストーカーで窃視で変態で不法侵入で窃盗だ。あぶないやつである。けど、その過剰はまあ、映画だかんな、で許されてしまうかも知れない。でもって、決して甘く切ない物語でもない。残念ながら「想い出の夏」にはならないのだけど、それでいいんだろうなあと思う。見てるだけ〜、で、手を触れることのできない憧れの対象だったんだよ。でね、見る前、または、見ながらの私の推測はことごとく外れていった。実をいえば、少年はマレーナに言い寄る男の誰かを背後から棍棒かなんかで殴って殺して・・・「天城越え」みたいになるのかと想像した。けど、結局、彼は離れてみているだけだった。うんうん、普通の子供はそれだけなんだよなあ、いくら妄想を逞しくしたってさ。それと、もしかしたらマレーナは連合軍の諜報活動をしていて、秘密の世界が隠されているのではないか? などとも思った。けど、そうはならなかった。結局、尻軽で男好きな女なだけだった。この現実。このシンプルさも、終わってみれば、なかなかに印象的。小細工でひねくり回さないだけ、インパクトが残ったように思う。役者もいい。少年の家族、とくにお父さんがいいなあ。あの、ひっぱたきまくりが、家長だよ。はしゃぎまくる姉や妹、心配する母親も楽しい。町の人々も、異様な髪型でマザコンの弁護士やスケベな歯科医、床屋などそれぞれにユニーク。マレーナ役は、ちと若々しさに欠ける気もしないでもないが、下半身のだらしなさが画面に出ていて、なかなか。そうそう。マレーナがドイツ軍将校相手に身体を売ったからといたぶられ髪を切られるシーン。ああいうシチュエーションの映画は、よくあるよね。タイトルは思い出せないけど、記憶にある。といっても占領時代のフランスでドイツ人将校に身体を売ったフランス人をつるし上げるというものだ。だから、イタリアにアメリカ軍がやってきたのにまるで解放軍を迎えるみたいな騒ぎで、しかも、同盟国のドイツ人将校相手なんだから、あそこまでしなくても・・・と、思った。第二次大戦の後期、ムッソリーニが処刑されてファシスト党も壊滅の後は、イタリアもドイツに占領されたも同じ、だったような淡い知識しかないので、イタリア人のドイツ人に対する感情や、アメリカに対する気持ちが素直に理解できない。そこんところ、知りたいものだ。あと、戦時中とはいえ自転車を買ったり物質的には日本の戦時下よりものんびりした風景を見ると、マレーナが“やむをえず”身体を売ったとは思えなかったりする。あ、そうそう。ラストで死んだはずの亭主が生きて戻ってくるけど、これは要らないんじゃないのかなあ、とも思った。よくある話の展開だしなあ。かつては淫売とののしったけど、時が過ぎれば愛想よくつつみ込んでくれるシチリア人たちという印象よりは、この無神経女め、という印象が強く残ってしまうような気がするのだ。もひとつそうそう、音楽がとってもよかった・・・といっても、どっかで聞いたメロディだなあ、と思うような旋律だったけど。
ギフト6/20上野東急2監督/サム・ライミ脚本/ビリー・ボブ・ソーントン、トム・エパーソン
私はホラーはおっかないから嫌いなのだ。予告編でも、死蝋化したような女の裸が浮かんでいたりしたので、どーもおどろおどろしそうだなあ、と思ってた。けど、おどろおどろしそうでもあるけれど、なにやら神秘的で蠱惑的な死体でもあったので、興味を抱いていたことは確か。で、見ての感想をいうと、怖かったところはちゃんと怖かった。ぞくぞくしてしまった。けど、その反面、母親としての存在の暖かさや、幼少期にトラウマをもつ青年との交流が描くやさしさなどは、なかなかに感動的。音楽がね、アイリッシュ・トラッド風で落ち着きがあ。映画もなんとなく英国風な落ち着きがある。オカルトを見せ物にするという短絡的なお話ではなく、あらら、いつのまにか法廷劇になり、最後は犯人探しになるという、おいしさたっぷりの映画だった。だから、まあ、おどろおどろしさやショッキングなシーンや画像は、あんなに要らなかったんじゃないのかな、とも思う。思うけど、怖がるのが好きな人を劇場に足を運ばせるためには、あの程度はいたしかたないのかな、とも思ったりする。ケイト・ブランシェットは、あのオバサン顔がいいなあ。美人でない故の、繊細さというか人肌の暖かさが感じられる。爪が伸びていない指も、いい。あれ、本人のものなんだろうか。それはいいとして。主人公の霊能者が、夫が工場で事故死するのを明確に予知できなかった、という設定がなかなかではないか。霊的能力や予知は、見ようと思ってすらりと見えるものではない、そういうものだという限定付きで提示してくる。その上で、見えるものは見える、と主張する。そのバランス感覚が、この映画のバックグラウンドをしっかりしたもの、というか、そういうものなんだろうな、と観客を納得させてしまうものになってると思う。えーと。キアヌ・リーヴスは、なんか唐突な感じがして浮いていた思う。実父に性的暴力を受けていたトラウマ男は、印象が深い。また、父親を事故で失った子供たちには、がんばれよ、と声をかけてやりたくなる。脇役までちゃんと人物造形がされているから、お話に厚みがでるね。小道具の活かし方も含めて、布石がちゃんとあとで生きてきたりするのも、気が利いているね。さて、以下はネタバレ・・・>>ケイト・ブランシェットは、被害者の女がパーティ会場のトイレで男とHしてたのを目撃した。裁判がはじまり、その男が検察官であると知る。・・・この時点で、私は真犯人はこの検察官だと確信してしまった。ところがどっこい、それは脚本の罠だった。ラスト近く、犯人の可能性があるのは、婚約者である教師、被害者の浮気相手の1人であるキアヌ・リーヴスの妻、それに、トラウマ男も関係ありや? と思わせる展開。うわわわ。これはうまくひっかかっちまったよ。というわけで、なかなか巧妙に練られた脚本であると思う。ひっかかった私がアホなのかも知れないけどね。

 
 

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