2001年9月

テルミン9/4恵比寿ガーデンシネマ2監督/スティーヴン・M・マーティン脚本/スティーヴン・M・マーティン
1993年の映画で尺は83分。サンダンス・フィルム・フェスティバル「ベスト・ドキュメンタリー賞、サンフランシスコ・フィルム・フェスティバル「ゴールデンゲート賞」を受賞しているらしい。ということは後で知った。で、映画といってもドキュメンタリー。それも、テレビ的な編集でドラマチックなところがない。淡々とインタビューに答える関係者。そして、当時(1920年代)のスチルと、わずかな動画、新聞記事が混じる。たまにテルミンによる現代の演奏が挟まり、ちっょとリラックス。てな具合で、こう、ドキドキしないのだ。テルミン博士はいたって普通の人物のように見えるし、世紀の大発明というより、たまたま発生したノイズに加工したら楽器ができた、ってな印象。むしろ、関係者が口にした「テレビを発明していた」という言葉にひっかかった。正確な時期はわからないが、テレビをつくっていたというのは、興味深い。しかし、この演出者はそういうことにはお構いなしに、話を淡々と進めてしまう。ほんと、呆気ないぐらい。テルミン博士が黒人女性と結婚して迫害されたことや、ロシア人に拉致された下りも、その後の獄中生活や武器開発も、さらりと流してしまう。おい、もっと突っ込んで聞けよ。こいつ、もしかしたらとんでもない事実を隠しているかも知れないじゃないか、と何度思ったことか。この食い足らなさがすべてではないだろうか。しかも、おのおのの出来事が「いつ」なのかというのが、とても分かりにくい。そういう配慮も足りないので、追究への興味を削ぐ結果となっている。結局、この映画はテルミンという奇妙な楽器の存在そのものへのスポットライトであって、人間に肉薄していない。それじゃ、「知ってるつもり」レベルのドキュメンタリー。そんな中で面白かったのは、ビーチボーイズなどのロッカーがこの楽器の存在を知っていて、使っていたということ。へー、である。映画の恐怖シーンに使われているという例もでてきたけど、ほとんど押入の中から引っぱり出してきたような古色蒼然映画ばっかり。むしろ、ジェリー・ルイスのでている底抜け?シリーズのような映画のひとコマが、まさにテルミン博士そのもののパロディでおかしかった。
魚と寝る女9/5テアトル池袋監督/キム・キドク脚本/キム・キドク
こりゃあ、今村昌平が撮りそうな映画だな。「うなぎ」にもなんとなく似てるし。沖山秀子の荒々しさに木村佳乃の面影をのせたような女が、妖しく蠱惑的。土俗的な臭いもぷんぷんする。というのが、パッと見の感想。でも、そのなだらかな時間の流れが、ただもうひたすら快感。隠喩に満ちた様々なオブジェクトも印象深い。こういう映画づくりは日本人が得意なはずだが、完全にお株を奪われている。あの、湖上の釣りボートハウスは、韓国ではよくあるのかな? あんなのに1カ月も住み込みしてるやつはいるの? てな感想はさておいて。殺人を犯して逃げてきた、らしい男がポートハウスに隠れる。その管理者は若い女。請われれば春もひさぐ。しかし、一言も声を発しない。過去に何があったか、なぜボートハウスを経営しているか、そんなことには全く言及がない。このムダをザクッと切ってしまっている潔さが、いい。潔さは、画面にも現れている。ムダな夾雑物が一切入らないのだ。シンプル。絵的にきれい。日本なら、物足りないからと手前になにかおいて、なめさせるとか、なんらかの物体を画面の隅に置いたりするところだ。そういうのが一切ない。しかも、このシンプルさはストーリーにも徹底されている。サブキャストがいないのだ。女を不審に見ている近所のババアとか、女にいいよる近くの失業者だとか、そんなのがでてこない。女郎屋の主人と女郎数人、刑事2人、指名手配犯1人、釣り客数人。彼らは、一時だけ活躍すると、さっといなくなる。だらだら引きずらない。この潔さが、日本とは違うすがすがしさを画面に与えている。さて。ストーリーは、解釈の余地ありの奇妙なもの。いったい女は男が好きなのか? なら最初になぜ拒んだのか? 男と同じレベルまで堕ちるために釣り針を陰部に押し込んだり、人を殺すのはなぜか? そんなことが基本的にあるのだけれど、私にはなんだか分からない。女は湖から逃げ出したいという素振りも見せないのに、最後はボートハウスごと逃避行へと走る。逃げおおせるはずもないのに。そして、魅惑のラストシーンは孫悟空とお釈迦様のエピソードを思わせるもの。結局、男は自由に動いているつもりでも、女から逃げおおせたつもりでも、せいぜい女の股ぐらから遠く離れることはできない、というのは、意味深であるね。それにしても、タイトルはどういう意味なんだ? 私には女は実は魚で、その魚と男が寝ているように見えたんだけどね。
リトル・ダンサー9/7新文芸坐監督/スティーヴン・ダルドリー脚本/リー・ホール
イギリスの貧困を見た。その(1)・・・元気のでる映画、かな。いくら貧困でも夢をもちつづけていりゃあいいことがある。家族の献身的な愛もある。周囲のあたたかいまなざしもある。だから、自分の信じる道を真っ直ぐに生きていこう・・・。てな感じ。だから、まあ、実をいえば大変にクサイ内容だし、きれいごとだともいえる。けど、それがそう感じられない仕組みになっているんだな。このあたり、日本映画ならお涙頂戴のグズグズ状態になっちゃうんだが、すがすがしさすら感じさせてくれるから大したものだ。これは、登場人物のキャラクターに負うところが非常に大きいような気がする。なーんも考えていない直情径行方の主人公。おかま道一直線の友達など、子供がじめじめしてないんだよ。欲をいうと、もっと子供たちの世界を描いて欲しかった。学校での生活や、遊びとか。子供同士の社会の中で、少年がどんな位置づけなのか、もっと知りたい(いつも家の前に佇んでいる少女がいたけど、あれはあれで面白い演出だ)。炭鉱労働者のオヤジと兄貴。この、どーしようもなくアナクロで無学な2人にしても、寅さん映画の連中とは違うんだよな。決して単純バカじゃないんだよ。知性はないにしても、魅力的な人物になっいてる。とはいうものの、少年が田舎を捨ててしまう、というのは先ず、合格の知らせをバレエの先生に真っ先につたえないということで、分かる。彼にとって、田舎のバレエ教室は過去のもの。捨て去るべきものなんだ。上を目指す人間の、この辺りの性格を見事に描いてるね。彼は1人、有名になる。そして、田舎を省みない。う〜む。「ニューシネマパラダイス」みたい。表面的には元気がでるけれど、その背後には政治や階級問題や貧困やなんかが、どろどろとしていることを見せてくれる。その辺りの深さは、買いである。で、ラストのシーン。オヤジと兄貴が上京して息子の晴れ舞台を見るっていうの、あれ、余計だなあ。わたしゃ2〜3年後の晴れ姿かと思ったんだけど、10年以上たってるような様子。かわいい少年は少年のままで、大人になった姿をさらして欲しくはなかった。だから、あったとしても、オヤジと兄貴が劇場に駆けつけて、着席して、幕があがるあたりでやめて欲しかった。
新文芸坐に初めて入った。なかなかオシャレな劇場になっていた。そこらのロードショー館と比べても、劣らない。むしろ、ミニシアターなんかよりずっといい設備。前の回が終わらないうちは場内に入れてくれない、というのは、席をみつけるのに焦るときは、困るかも。問題は、映写室のプロジェクターの音がでかすぎること。なんとかならんのかね。
シーズンチケット9/7新文芸坐監督/マーク・ハーマン脚本/●
イギリスの貧困を見た。その(2)・・・最低の環境に打ちひしがれる、かな。いやー、どん底の家庭の少年たちが非行に走るのはしょうがないこと? と、同情をもとめるかというと、これがぜーんぜん。なんともあっけらかんでユーモアもある。よくいう「悪い子じゃないんだけど・・・」ってなとこか。しかし、同じ低所得で家族に恵まれなくても、非行に走らない子供もいるわけだから。たとえば、「リトル・ダンサー」みたいにさ。って、家庭の充実度が違うといえばそうなんだけど。こちらの少年はオヤジに恵まれていない。けど、目先の夢はある。サッカーのシーズンチケットを手に入れること。そのために普段やってるタバコに酒にドラッグをやめて、万引きや泥棒で金を稼ぐ。はては幼稚な銀行強盗までやっちゃうんだけど。う〜む。こういう破天荒に走ってしまう一途なバカ少年の見本のようなものか。せいぜい、暴力を振るわないということが、救いのような気もする。「リトル・ダンサー」の少年より、こちらのパターンの少年の方が現実には圧倒的多数を占めるんだろうな。でも、だからといって映画は彼らを美化もしないし同情を寄せてもらおうともしていない。ものすごく淡々と、ひどく素っ気なく描く。きっと彼らは大人になっても平均的な低所得層になって、普通の貧困生活を送るだろうよ、というような素っ気なさ。すべては、お前自身の問題だ、っていってるみたい。その冷ややかな距離感が、いい。強盗の見返りに奉仕活動を強要される2人だけど、ある老婆の住まいのベランダからサッカー場が一望できるとあって、結局シーズンチケットを手に入れるというオチが最後にある。そう。幸せは追い求めているときは手に入らないが、あきらめた途端に簡単に手に入る、ってやつかな。悪ガキ2人のキャラクターがなかなかいい。主人公の少年が学校の無理に行かされ、最初の体験を話すのだが、その話が実は友達の体験で、自分にはそんな体験のかけらもないことがわかるシーンは、なかなか感動的。幼児虐待の多い今日この頃だけれど、そんなことしちゃいけないよ、という教訓のような映画だな。それにしても、これが英語か? というような発音の映画だ。ドイツ語かフランス語にも聞こえるような単語・発音・・・。低所得者層のスラングが使われているのかも知れない。
ラッシュアワー29/22上野東急監督/ブレット・ラトナー脚本/ジェフ・ナサンソン
所詮はコメディだから、予定調和的な流れを楽しむ映画。話の細かなところのつながりやなにや、なぜ? と追求していってもしょうがない。なんで2人や3人殺すのにビルを爆破しなくちゃならないんだ、とかさ。ちなみに、世界貿易センタービルのテロ事件を連想してしまうので、ドキとした。これじゃ、ホントにハリウッドは映画がつくりにくくなるね。ともかく、真剣に見るような映画じゃないんだから。というわけで、ここは各論を見ましょう。前作ではいささかお年かな、と思ったんだけど、第2作目のこれは動きがいい。若々しい。銀行の小さな窓口をするりと入り抜ける場面は、おお、とオドロク凄さ。もっとも、エンド・クレジットとともに流れるNG集では、いかに苦労しているかが分かるんだけど。クリス・タッカーのおバカぶりは相変わらず。これはもう、いらいらするほど脳天気。悪玉の男は、だれだっけ? あとで分かったジョン・ロー。じわりと老けたね。すばしこいお姉ちゃんは「グリーン・デスティニー」の・・・とすぐ分かる容貌。「初恋のきた道」のふくよかな様子とは全然違う。チャン・ツィイー。かわいいね。もう1人、いかつい顔の女性がシークレット・サービスででてくるけど、サンドラ・ブロックを連想してしまった。クライマックスで起爆装置がカジノの床に落ちて、それを追い求めるシーンが、「インディ・ジョーンズ」シリーズの2作目だったか3作目だったかと似ているのは、なんか理由があるんだろうか。最後のNG集が楽しかった。
コレリ大尉のマンドリン9/24渋谷東急2監督/ジョン・マッデン脚本/●
面白かった(イタリア軍が主人公の映画など、ほとんど見た記憶がないぞ!)。とはいえ、映画としての出来はいまひとつ。第一に、医者の娘がイタリア大尉(ニコラス・ケイジのイタリア訛の英語、おかしいなあ)に恋した理由が定かでない。娘の婚約者は、ごく普通の感覚で見たらイタ公なんかより立派な英雄じゃねーか。なのに、どーして娘はイタ公に惚れてしまうのか? 理解できない。彼の屈折した心理などをもっと描いてももかったんじゃないの? 第二に、破れたイタリア部隊がドイツ軍と戦った理由がはっきりしない。第三に、人物の掘り下げ方がいまひとつ足らない。これは、メインキャストもサブキャストも。せいぜい満足できるのは、ジョン・ハートが演じた娘の父親の医者とドイツ軍大尉ぐらいかな。あとは、中途半端。もっと、サブの人間にスポットを当てて、ドラマに厚みをもたせればいいのに。イタリア大尉の部隊の面々など、ほとんど描かれていない。娘の友達で、ドイツ兵と関係して吊される女もそう。どーも、史実に引っ張られすぎ、って感じがしたね。地震のエピソードも、そう。本筋にはあまり関係ないしねえ。その史実(戦争の方ね)だけど、いろいろ考えてしまった。中立を主張しているところに攻撃したきたイタリア軍。それを撃退したギリシア軍。そこに口を出してギリシアを制圧したドイツ軍。・・・だから、ギリシアの寒村の市長も、イタリア軍には降伏せずに、ドイツ軍になら降伏する、という意地っ張り具合。この当たりの意識の持ち方が、興味深い。それにしても、島に駐留しにきたイタリア軍は、なんたる腑抜けか。いままで人に銃口を向けたことのない大尉に率いられた合唱団。しかも、戦場とは縁もなく、娼婦と浜辺にいって酒食らって合唱してる・・・。こんなイタ公と一緒に戦争していたのか・・・。いやいや、それだけではない。このイタリア兵たち、イタリア本土が連合軍に攻撃され、ローマが占拠されたと聞くと拍手して喜んでいる。なんだ? こいつら。自分の国が負けて嬉しいのか? さらに、ムッソリーニが降伏した、と聞くと大騒ぎ。これで故国へ帰れると笑って喜んでいる。こんな奴らと枢軸国を形成していたのかとおもうと、なんか、情けなくなってくる。イタリアって国は、イタリア国民は、第二次大戦を本気で戦っていなかったんだな。ムッソリーニの独裁に、みながみな嫌々戦場へ行っていたんだよ。しかも、その不満を軍の中で漏らしていたんだ。なんたる連中。頼りにならないやつらだよ。これじゃ、ギリシア軍にも、ドイツ軍にバカにされるのも分かるね。で、ここでも悪役はドイツ軍になっちゃってる。ドイツ軍としては武装解除して送り出すのは、しょうがないんじゃないか? 一緒に戦っていたにもかかわらず、途中で降参しちゃったんだからさ。武器がレジスタンスに渡るのを防ぐため、っていうのも当然だろ。負けた軍隊が武器背負って連合国に投降するか? そばにドイツ軍がいるのにさ。で、同じように島を占拠していながら、イタリア人に対しては悪感情をもっていないギリシア人たちっていうのにも、首をひねってしまう。ドイツ軍将校と仲良くなった島の娘は吊されて、イタリア大尉と通じた娘はお咎めなし? っていうのも、わからん。「マレーナ」のときも、そうだった。イタリア娘がドイツ将校に媚びを売って、迫害されていた。イタリア人は、ドイツが嫌いなの? と思ったものだけど、この映画ではなお複雑怪奇。枢軸国の独伊の関係が理解できてないと、わからん世界だなあ。・・・というようなことを考えてしまった。というわけで、なかなかに興味深い映画である。不満はいろいろあるけれど、飽きない映画だった。そうそう。戦争映画でいつも思うんだけどさ。軍服を着ていると凛々しいのに、私服になるとどーも胡散臭く見えてしまうのはなぜだろう。時を経て戻ってきた元大尉。彼の現在の職業が、妙に気になってしまったのだった。
COWBOY BEBOP 天国の扉9/29シネマミラノ監督/渡辺信一郎脚本/信本敬子
アニメにしては手の込んだストーリー運び、と前半は思って見ていた。けれど、真相が分かりかけるにつれて、つまらなくなっていく。なーんだ。てなもんだ。テロリストがテロをしつづける理由に説得力がない。死ななくなった代わりに過去の記憶を失った。だから、テロをする。じゃあ、記憶喪失者はみなテロリストになるのか? それと、ナノメータレベルのロボットっていうのも、ちゃち。そんなの、きっと簡単に現実レベルで開発されちまうだろう。うわ! と驚くには当たらない。他にも、、なんで賞金稼ぎの女はナノロボットに犯されないのだ? とか、なぜその彼女をテロリストは助けるのだ? などと、理解に苦しむ展開もあり。中盤から眠くなった。絵のセンスは、半分ぐらいいい。というのは、スチル風にでてきたり、背景だったりする人物や街の風景が、なかなかにいいから。鈴木英人タッチであったり、大友克洋風であったりはするのだけど、自然な感じがいい。といっても、おそらくは実写で撮影したものをトレースしているんだろうな、という感じはするのだが。主人公をはじめとする登場人物が現れると、とたんに漫画になる。もちっと、くどいキャラじゃない人物というのは、ないものなのかねえ。ふにゃふにゃしたハッカーの少女のキャラは、不思議っぽくてよかったけど。そうそう、MacintoshがG11ででてきていたが。いまはG4マックだから・・・2年ごとにクロックアップして進化するとして、14、5年後の話か? と思っていたら、ホームページには2071年の物語、とある。うげ。そんな風には見えなかった。ガソリン自動車とジェット機が同居する変な時代だなあ、とは思っていたが。・・・私はテレビ版は知らないもんでね。

 
 

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