2001年10月

ヤマカシ10/4渋谷松竹セントラル監督/アリエル・ゼトゥン脚本/リュック・ベッソン
原案・脚本・提供リュック・ベッソンだそーだ。サブタイトルの仏語は、“現代のサムライ(?)”見たいに読めたけど、いったい何て書いてあったんだろ。ストーリーは単純明快。肉体を誇る7人の若者が、心臓病の少年の移植手術費を泥棒する話。しかし、どーやったって、これでは美談にならないだろ、というのが感想。病院や厚生省などのダーティな部分をもっと強調しないと、あえて泥棒してもいいだろうとまではならん。とても拍手喝采できない。もっと戯画化してでもよいから、権力の悪の部分、横着な部分、貧困層を無視する態度を描いて欲しかったね。私ははじめ、移植する心臓をみんなでアクロバチックに運ぶのかな、と思っていたので、ちとガッカリ。というか、いやーなものを見てしまった、という気分にさせられた。だって、理は警察や病院や理事たちにあるとしか思えないんだもの。せいぜいがこそ泥しかできないというのは、カッコよく見えない。ヤマカシたちのアクロバットが全編にひゅんひゅん現れるのかと思ったら、そうでもなかったのも不満。ドラマの部分がつまんなかったから、余計に不満。それに、画質が荒くて汚い。画面に奥行きがなく安上がりの映画に見えてしまうのも、マイナスだな。
カルテット10/6渋谷東急2監督/久石譲脚本/長谷川康夫、久石譲
いやー、古くさいテーマを扱って、中味も相当古くさい。大時代的な演出もたっぷりあって、思わず笑っちゃうシーンがたくさんあったね。70年代映画のパロディかと見まがうほどだ。お話は、そうさねえ、2時間ドラマでも企画が没になりそうな物語だね。感心したのは、みんな楽器をちゃんと吹き替えなしでそれらしくやっていること。とくに、チェロ担当のお嬢様の手の動きは、ありゃあなんだ? 合成か? 凄く速い。で、後からHP見たら彼女(久木田薫)って、芸大生のチェロ弾きなんだね。なるほど。
ブリジット・ジョーンズの日記10/10新宿文化シネマ1監督/シャロン・マグワイア脚本/ヘレン・フィールディング
なんだかな。男に縁のなかったでぶの30女が、たまたま2人の男とロマンすらしきものが芽ばえ、一方でもてあそばれ、一方ですれ違う、コメディじゃん、ただの。といっても笑うところがないのだけれど・・・。体重の変化もタバコや酒の量も日記も、あんまりストーリーには関係なかったね。彼女がダイエットの結果、どっかでスレンダーな美女に変身して現れるのかな、と思っていたら、そういうこともナシ。ひたすら、ぶよぶよの肉体を見せるだけ。うーむ。最初にヒュー・グラントと寝た、ということも、それと想像させるモノローグ(だっけか?)があるだけで、映像にはなっていない。そもそも、支社長であるヒュー・グラントがどうして彼女の尻を触る気になったのか、というような部分が欠落しているから、いまひとつ説得力がない。幼なじみの弁護士が彼女を気に入るのも、なるほど、という部分がない。肝心なところ、映画の接続詞をすっとばしてご都合主義的に話を進めていく感じがして、なんだかなあ・・・。男に相手にされない、という部分がちゃんと描かれていなければ、単に“太った30女と、2人のとんまな男”の話じゃないのかなあ。
ロック・スター10/10新宿東急監督/スティーブン・ヘレク脚本/ジョン・ストックウェル
雨中、急ぎ足で新宿文化から歌舞伎町へ。台南担仔麺で650円の八宝菜丼をかっこんでシネマ・ミラノ行ったらまだ「COWBOY BEBOP」やってた。え? この映画ってシネマ・ミラノじゃないの? で確かめたら新宿東急。げ。こんな大きな小屋でやるような映画じゃないだろに。入ったら、がらすきであったよ。ま、いいけど。話はシンプル。コピーバンドのボーカルが引っこ抜かれて一躍スターダムに。けど、自分がどこにもない世界に絶望を感じてステージを後にする。で、小さなステージで好きな歌を唄うようになる、というありがちなもの。流れとして下積み時代から一気にスターになってしまうのはちと物足らない。もちっと苦労させた方が感情移入できるだろうに。しかし、まあ、そんなことは全編に流れるロックと同じでどうでもいいことなのかも知れない。だって、この映画は、2つの点で語ればすむのだから。1つはラスト近く、主人公が行く先を見失っているときに、マネージャーから「小便に行って来る」といって妻をおきてきぼりにして出奔したエピソード。2つめは、それにつづくコンサートで、かつての自分と同じ若者が絶叫しているのをステージに引き上げ、一緒に歌い、自分はステージを去る、というこの2点にある。あとは、すべてお膳立て。この、客の一人に昔の自分をみてステージに招くシーンはなかなか感動的。ロック・スターなんて、セリフにもあったけど「雇われボーカル」で、ダメになったらお払い箱で、次々に取り替えが効く、ってことなんだものな。自分探しともいうべき物語の大半がロック賛歌のようにも見えるけれど、実は「ロックも商業主義に陥っていて堕落している」とはっきり主張しているわけだ。ロックのすべてを否定しているわけではないけれど、ロクでもないのである、と言っているのである。その割にはロック・スターも出ているようなのは、おかしな話だなあ、とも思う。でも、面白く見たぞ。
陰陽師10/18上野宝塚劇場監督/滝田洋二郎脚本/福田靖、夢枕獏、江良至
眠かった。ドラマらしきものがほとんどなく、だらだらだらーと2時間、辛い。物語に説得力がないのも、困る。私の理解では「皇位継承にからむ物語」で、右大臣(だっけか? 柄本明)の娘・望月の君(夏川結衣)の子供が継嗣にほぼ決まっていたが、より家柄のいい女に男子が誕生してしまい、右大臣の目論見が狂う。そこで、かねがね天皇を心よく思っていない陰陽師のボス(真田広之)に、子供を呪い殺すよう依頼する。陰陽師のボスは、150年前に皇位継承問題で兄に殺された無念の早良親王の恨みを利用して、子供に呪いをかける。異変を察知した宮廷の官吏(伊藤英明)が、陰陽師内の異端児・阿部晴明に相談する。で、陰陽師2人の呪い調伏合戦が始まる・・・。とまあ、こんな感じかな。人物の名前なんか忘れた。まあ、これから以後は、「陰陽師」のポームページを見て、ちゃんとすることにしようかな。
見たぞ、ホームページ。で。まず、安倍晴明(野村萬斎)と右近衛府中将・源博雅(伊藤英明)が仲良くなる理由がよくわからん。陰陽頭・道尊(真田広之)がなんで○○親王(萩原聖人)の事件と関係あるのか。早良親王の呪いの布を利用しているのか、が分からない。道尊にはどんな野望があったんだ? なぜ天皇が嫌いなんだ? そういうところがキチッとしていないから、な〜るほど、って思えない部分がでてくんだよ。しかも、陰陽師同士の対決がなんとも陰気。道尊はただ火に囲まれて祈るだけ。晴明もとくに派手なことはしない。血がドバもないし、唸らせるようなCGもさほどない。SFXのほとんどはチャチで失笑もの。ラストの対決にしても、香港のワイヤーをばんぱん使って空中歩行とかアクロバティックてんこもりにすれば、もっと迫力が出たはず。陰陽師の呪い調伏にしては、スケールがせこいんだよ。というわけで、非常につまらなかった。脚本が悪いんだな。「ひろまさ様・・・」などという、名前しか呼び合わないシーンがあったりして、おい、ちったあ言葉にデリカシーを持て、と思ったぞ。それと、編集もいまいち。生理的に「変」と思うようなつなぎが見られた。野村萬斎は一見上手そうに見えるけれど、能・狂言で培った表現力は、どうしても映画の演技というより、個人のキャラクターに収斂していて、魅力的で存在感はあるんだけど、殺気もなければ感動もない。トリックスター的な役割の伊藤英明はとんでもない大根。薄っぺら。しかし、その下手くそさ加減がとんまな役柄にぴったり、ってな気がしないでもない。小泉今日子には、老けたなあ、という思いだけ。望月の君の夏川結衣は、声で分かった。顔はまるで違うぞ。メイクのせいか? でぶになったのか? 宝生舞は可哀想な使われ方だ。もっと大事にしてやればいいのに。な、中で、光り輝いていたのが、晴明の下女・式神の蜜虫役の今井絵理子だな。なかなかかわいい。で、思うのは、この物語は皇室の兄弟の殺し合いや皇位継承問題などを前面に出しているのだけれど、こういうテーマをはっきり打ち出した映画って、あったっけ? どっかでタブーだったんだはないの? もっとストレートに切り込んでくれればいいのになあ、と思いながら見ていたのでありました。
トレーニング デイ10/23上野東急2監督/アントニー・フュークワー 脚本/デイビス・グッケンハイム、ブルース・バーマン
ベテラン麻薬担当刑事のアロンゾ(デンゼル・ワシントン)と新米麻薬担当のジェイク(イーサン・ホーク)の物語。これといって大きな事件を予感させるでもなく、小さなエピソードを重ねながら人物を描写していく前半がなかなかスリリング。で、途中から、いったいこの映画にはドラマは発生するのだろうか? 事件はいつ起こるのだろうか? と心配になってくる辺りから、実は・・・という映画全体のからくりが見えてくる。といっても説明不足で「ロシア人を殺した」とか、判事や熟練刑事などの怪しい偉いさん方がチラリとかいま見えるだけで、分けわからずいらいらした。けれど、これも次第に(といっても半分ぐらい)が分かるだけで、実をいえば“分かっている人、誰かに説明して欲しい”気分なのである。まあ、そういう辻褄がピタッと収まらないピースはいくつか残っているけれど、全体としてはなかなか緊張感のある、そして、不気味で後味の悪い映画になっている。以下、ネタバレしつつの感想・・・
悪徳警官者の定型にあまりはまらず、意外な展開。デンゼル・ワシントンが品のない役をやっているのも驚いたけど、悪徳警官そのものだってのにも驚いた。ほんとは、裏があるんじゃないか? と思いつつ見ていた後半だが、ただのヤクザな悪徳警官だった。だったら、発作的にロシア人を殺した慰謝料で100万ドル払わないといけないってときに、それを阻止しようとするジェイクになんでトドメを射さないんだ。屋根の上でのしちゃったときに1発お見舞いしておけば、最後に死ななくてよかったのに。次。アロンゾはどうしてジェイクを裏の大物たちと引き合わせたか? あんな連中と引き合わせたら、自分が裏の家業をやってるんだよ、と公言するようなものじゃないか。たとえ大物が裏の連中だとジェイクが気づかなくても、あえて仕掛けを企んでいる当日に引き合わせる必要はない。次。あの裏の連中はなんだったのだ? まさかの時には助けてくれる連中だから、と紹介しただけの、裏の仲間ってだけのことか? 吉害を装って女性判事をだまくらかした奴を殺せ、と正式な依頼があったわけじゃなし。必然性という意味では「?」だね。次。1週間も前から新米ジェイクを犯人射殺の当人に仕立て上げるつもりでシナリオを書いていたのなら、アロンゾの部下たちもそのことを知っていてしかるべきじゃないの? なのに、部下は「こいつは誰だ?」って、ちょっと不自然。次。で、大物たちに「ロシア人の件は?」といわれてアロンゾが「情報屋を・・・」というのだけど、あれは「引退するよ」といっていた最初の情報屋が金を隠していると狙ってることを告白した? で、実際に部下と襲ったってことかい? 他に情報屋を襲う理由なんかないものな。ヤクの売人のボス(本人はムショに入ってる)の家に入ったのも、あれも金を盗むのが目的だったのかあ? という気が見終わってからしてきた。そんなにだらしなく金に汚いアロンゾを見抜けなかったジェイクも、どーかしてるんじゃないか? という気もしてくる。なかなかに刺激的で面白かったのだけれど、細部のツメというか、説得力のところでこうやって難癖を付けらるなのは残念だと思うけれどなあ。しかし、密度は濃かったね。含蓄に満ちてはいなかったけれど。
ワンダー・ボーイ(原題"Malunde")10/27オーチャードホール監督/ステファニー・サイフォット(?)脚本/●
[コンペティション]なーんの先入観もなく見たわけであるが、初監督らしい荒削りな部分があって、どーもすんなり心に入ってこなかった。これは技術的にということで、元兵士と少年が出会うまでにかなり時間がかかり、それがちっとも面白くない。ドラマがない。人物描写に時間をかけているとも思えない。ここは手短にしたほうがよかったかな。それに、ギャングに襲われたときに手に入れた麻薬も、あとでなにか面白く使われるかと思ったら、それほどでもない。布石があとから効いてくるという脚本じゃないんだよね。そのあたりが、手慣れていない感じがした。やたらSEが入るのも気になった。街の音、風の音などが、ほとんど鳴りっぱなし。ざわざわとうるさい感じがした。音楽は、なかなかよい。コーラスの迫力、いかにもアフリカっぽくて気に入ってしまった。ロードムービーの部分は、「ペーパームーン」(少年がワックスを上手く売ったりする部分)や「セントラルステーション」(憎しみ合いつつ道中をつづけ、やがて理解し合うところ)に似ていたりして、オリジナリティがあまり感じられない。それが最大のネックだね。でね。アパルトヘイト後の南アフリカの状況は、なんとなく分かってくる。白人は過去の栄光にすがりつきたい、と思っている。その象徴として元兵士は勲章を持ち歩いて、ことあるごとに「意味がない」といいつつ見せびらかす。黒人少年に「誘拐されたって警察に言うぞ」と脅されたり、黒人とぶつかってののしられたりする。仕事をくれるのが黒人で、がんがんいいわれたりする。びくびくしているのは、白人の方なのだ。そういうところが、あー、白人も大変ねえ、と思わせる。仕事がないんだねえ。で、奥様方はSEXに夢中というか、大人のオモチャの販売をしていたりする。こういう産業は隆盛しているんだろう。元兵士が道中の途中で知り合いになった黒人女性といい仲になるのかな? ラストはそこに向かうのかな? と思ったら、そういう映像がでてこなかったので、ちと残念だった。
■第14回東京国際映画祭である。毎年のことで、客席は満席にはならないだろうと開場10分前(6時20分)に東急本店近くへ行く。おお。去年のどの映画のときより列が短い。本店前の道まで届いてないんだよ。これじゃあ上映直前にきても十分に座れるがら空き状態? 1階は7割ぐらい? 私は2階に行ったが、こちらは30人ぐらいしか客がいない。
それにしても、入場時のカメラチェックはものものしかった。警備員が10人ぐらいいて、カバンの中も見る。そこまでするか? なにを恐れているのだろう。舞台挨拶の撮影なんて、そんなに著作権が問題か? 画面を撮影しようなんていう酔狂なやつは、それほどいないと思うけどねえ。大スターがきているわけじゃなし。
といいつつ、私は実はデジカメをカバンに入れていた。でも、全然気づかれもしなかった。言っておくが、これはいつも持ち歩いているもので、映画祭を撮ろうなんてこれっぽっちも思っていない。なのに、見つかって預けなくちゃならないハメに陥るのはまっぴらだ。冗談じゃない。だいたい、カメラチェックで見つかるような一眼レフをもちこむようなアホはいないだろう。デジカメなら暗いところでもかなり撮れるし、しかもサイズも小さい。あんなチェックなんて、本当に盗撮しようという連中を網にかけるにはお粗末すぎるね。
そういえば、場内だけでなく、ロビーでも食事は禁止。ビッュフェだけで食べるように、というアナウンスもあった。椅子を汚されたくないのかも知れないが、7時に始まり9時終映の映画なんて、腹へっちゃってしょうがねーだろ。そういう配慮なんかなしで、とにかくあれもダメこれもダメの規制だらけ。ほんと、やな映画祭だ。
上映前に襟川クロ司会で監督(女性)挨拶。「南アフリカについてはアパルトヘイトとネルソン・マンデラぐらいしか知られていないが、現在の南アフリカを知って欲しい。原題の"Malunde"というのは、ホームレスのことだ」とのこと。これで初めてこの映画が南アフリカ映画であることを知った。だって、巷で配られているパンフレットには書かれていないんだぜ、制作国のこと。さて、上映終了後、舞台でティーチインの準備がされている。ドア係のスタッフ女がするすると近づいてくる。客に何か言っている。客は席を立ちでていく。なんだ? と思っていたら、私の所にもやってきて・・・
「あのお、1階に降りていただきたいんですが」という。なんで降りなきゃならないの?
「なんで? どこで見ようと聞こうとこちらの勝手でしょ」
「ええ、でも1階に降りていただいて・・・」
「ここにいちゃいけないの?」私は、少ない客を2階から追い出して場内整理にかかっている、と判断した。「上映が終わったら1階に降りろって上映前に知らせたわけじゃないでしょ。だったら、どこにいたっていいじゃないですか」
「そうなんですけど、上司に言われたものですから」
「上司に言われたって、そんなこと知らないよ。それに、それはそっちの都合でしょ。私には関係ないじゃない」
「でも、言われたものですから」
そうこうしているうちに監督、プロデューサー、音楽担当等が舞台にそろいだす。くだくだ言われて苛立ち始める。いったんは女が去った。と思ったら、今度は若い男のスタッフをひきつれてまた現れた。男は離れたままで、女が近づいてきて「下に降りていただいて・・・」と同じことを言う。こいつばかじゃねーか、と思いつつ、男がきて説得されるのかと、いやーな感じがした。ところが男は離れたままで、女が困ったような顔で「下へ・・・上司が・・・」というのみ。さらに「では、上司の方にこちらでご覧なるということをつたえますので・・・」というので、
「なんでそんなことをいちいち上司につたえなくちゃならないの? 客がどこで見ようとよけいなお世話だろ。まして、それを上司につたえる必要がどこにある。あなたは上司に言われたからそれを伝えているだけで、何も考えていないんでしょ」
「え、ええ・・・」
「だったら邪魔だからあっちいってくれ。だいたい何言ってるんだかよく分かんないよ。ちゃんと日本語をしゃべってくれ。どこで何を見ようがこっちの勝手だ」と冷たく言ってやる。さらに、「あやまってけ」ともいってやる。
こんどはあきらめたように引き下がり、男と一緒に消えていった。いったいこいつらは何なんだ? ひとの時間を邪魔しやがって。もうティーチインは始まってるんだ。頭の所を聞き逃してしまったではないか。
と、しばらくすると年輩の女性が近づいてきた。そして、
「申し訳ありませんでした。言葉が足らなくて・・・。2階では質問ができないので、1階に降りていただいて、ティーチインに参加していただこうと思ったんですが、言葉が足りませんで・・・」という。
なーんだ、そういう訳か。ちゃんと話さないのが悪いんだ。で、見回すと、他にも2階に残っている客が2人ほどいた。でも、逆に言うとほとんどは退居させられた、といってよい。でね、35分ぐらいつづいたティーチインが終わった9時35分。席を立って2階のトイレに入ろうとしたら灯りが消えている。おー、そういうことか。なんであの女がしつこく食い下がり、2度もやってきたのか? しかも、上司らしき若い男までひきつれて? その理由が分かったような気がした。結局、場内整理が目的だったに違いない(と思う)。あまりに少ない2階の客を下に降ろそうと上司が判断して、なーんも考えていない女性スタッフに「客を早めに下に降ろせ」と命令したのだろう。で、先に場内清掃・整理でもしようとしたのだろう。まったくどーしよーもない連中だ。毎年、この映画祭では頭の悪いスタッフと必ず激突するのだけれど、1日目からこれだ。先が思いやられるね。
それにしても、東京国際映画祭って、横柄。だいたい、苦情窓口がない。客へのアンケートもなく、利用者の意見や苦情を聞こうという姿勢がまるでない。ホームページにも、メールアドレスが載っていない。とにかく、わしらはこうやるから、そのルールに従え。さもなくば出て行け、てな態度がありありなんだ。ほんと、やだね。
★で、ティーチインの内容ですが・・・
・主人公の少年は映画初出演。でも、本人はストリートチルドレンではない。
・実話に基づく部分が多い。取材を3カ月して、シェルターにいる子供たちに話を聞いた。そのうちの2人の話をもとにストーリーをつくった。
・ラストのクレジットには、この映画がドイツと南アフリカで公開された場合は入場料の一部がネルソン・マンデラ基金に寄付される、と書かれている。
・監督は、ドイツのミュンヘンの映画学校に学んで、現在もドイツに住んでいる。いまもときどき南アフリカを訪れるが、国の変化を見ていて、希望ある国であることをつたえたいと思ってこの映画をつくった。白人と黒人の和解は可能であると思う。
・音楽(女)は、いくつかのヒット曲が劇中で使われている他は、オリジナル。南アフリカの写真やビデオなどを監督から見せられて、それで作曲した。スタッフはドイツが中心だが、コーラスなどは南アフリカのものを使っている。仕上げはドイツで行なった。南アフリカではテクノやラップが流行っていて、そういう音も混じっている。
・プロデューサー(男)は、監督と映画学校で同級生。監督がドキュメンタリーを撮っている頃からのつきあい。これは、監督の初めての劇映画である。
・南アフリカでは まだ一般公開していない。映画祭では公開され、各賞を受賞した。ミュンヘン、トロントの映画祭のコンペ武門に出品している。海外では知られていなかったが、これでマーケットにのる可能性がでてきた。南アフリカでは、今年のクリスマスにTV放映されることが決まっている。
・ヨハネスバーグからケープタウンまでは、迷わなければ1600キロで、2日の距離。映画のように迷ってしまうと3000キロは走ることになる。
・ヴィム・ベンダースに賛辞を捧げているのは、彼が私のヒーローだから。彼に学びたくてドイツの映画学校に行った。脚本も読んでもらい、ずっと支援してもらった。カメラマンも、ベンダースと仕事をしている人である。
・主人公が戦った戦争というのは、いくつかある。南アフリカは1994年までアパルトヘイトをしていた。それまで、政府軍はゲリラや黒人たちとの戦いをつづけていた。実は、南アフリカの男性はすべて政府軍に入る義務がある。私の兄はそれが嫌で、徒歩で南アフリカからエチオピアまで歩いて徴兵を拒否した。
春の日は過ぎゆく10/18オーチャードホール監督/ホ・ジノ脚本/リュウ・チャンハ、シン・ジュノ、ホ・ジノ
[コンペティション]韓国映画。放送局のプロデューサー兼DJの女ウンスと、フリーの音屋サンウのひと夏の恋の物語。前半は出会いと引かれ合うまで。後半は理由なき別れ。岩井俊二の「Love Story」や市川準を思わせるような、説明というか接続詞を極力排した映像が、前半はとても心地よい。場面が切り替わっても、前のシーンとつながっていないのだけど、でも、それはそれでよかったりするし、それで十分すぎるぐらい分かるのである。しかも、気の効いたひとことや仕種、間などがなかなか饒舌。行間を読みながら見ていく快感を実感させてくれる。問題は、後半。ウンスがいとも簡単にサンウをふってしまうのだ。何が原因なのだろう?サンウが両親に彼女を会わせたがったから? クルマの中でウンスが「この仕事終わっちゃうね。そしたらどうする?」と話しかけたのをサンウが聞いていなくて、生返事しかしなかったから? 「オレのことを見るとラーメンラーメンっていうなよ」と、突然サンウが怒りだしたから? サンウがウンスの部屋で見つけた1枚の写真で? 話はどんどん重たくなって、暗くなっていく。それでも一度はレコーディングスタジオにウンスはやってきて、サンウの唇を本能的に求めるじゃないか。それなのに、すぐ「別れよう」といいだし、あっという間にウンスは局のディレクターらしき男とつきあい始める。それを見て酔いつぶれるサンウ。ウンスを忘れられずにストーカーまがいのことまでし始めると、もう、見ていられなくなった。うんざり。男のみっともない姿は情けない。1年が過ぎ、ディレクターと別れた(らしい)ウンスは、ふとサンウを思い出して誘う・・・。でも、サンウは誘惑に負けず、サヨナラをいう。で、エンド。なんかなあ、後味悪いよなあ。遊び人の女が、うぶな男をもてあそんで捨てた、としか思えないよ。うーむ。
■第14回東京国際映画祭2日目である。雨の渋谷。大して混んでいないだろうと思って、開場時間の3時ちょうどぐらいに入口に行った。先頭は入場している。そのうち入れるだろうと思いきや、列が東急の正面の道路から折り返しているという。ええ? あわてて松濤方面へ列の最後尾を探して行くが、なかなかない。結局、半周。文化村の正面入口近くまで歩いてしまった。列はどんどん伸びる。でも動かない。時間は過ぎていく。上映開始予定は3時20分。おいおい。もう3時15分だぜ。やっと動いて、昨日と同様カメラチェックをして(こんなのやってるから、入場がのろいんだ)、2階へ行くと半分ぐらい埋まっている。初めて3階へ行った。ここはまだまだ空きがある。舞台では、襟川クロが時間を引っ張っている。なにせ、まだぞろぞろ入場しているのだ。3時30分前、監督と主演の2人が登場して舞台挨拶。この映画は来年日本で公開だそうだ。客はまだそろぞろ。3時40分ぐらいに上映開始。でも、3階にはぞろぞろ。歩く音、ものの音、人影で集中できない。このびろびろ入場は、映画がスタートしてから20分以上もつづいたのだった。まったく、こういう環境下で映画を見せるというスタッフ連中というのは、どういうものだろう。でも、文句を言いたくても、そのもっていきどころがないというのが、困るね。だから、東京国際映画は嫌いだ。
★ティーチインでは、くだらない質問(俳優に、ああなたは振られたら痛手をどうやって治すか、とか)がほとんどだったのだけど、ウンス役のイ・ヨンエがなかなか深いことをいっていた。
・監督/説明の少ない映画だけど、制作者側との対立はあったか? と問われて、「日本、香港、韓国のプロデューサーがいたが、別に何も言われなかった」と応えた。また、「人が同じ人とずっと暮らして果たして幸せなのだろうか? 記憶に注目した。叶わなかった恋などの想い出、記憶というものに注目した」と語っていた。この解説はなかなか意味深長で、映画の内容を振り返ってみると、別の印象で映画が現れてくるような気がした。
・イ・ヨンエ/「ホームページでは、ウンスという女性に共感できるという意見と、共感できないという意見が両方あった。ラストで、ウンスが“覚えてる?”と聞くと、サンウは“何?”と応える。そんな風に応えるんだ・・・って思って意外で、衝撃的だった。ネチズン(ネットワーカーのこと)の間では、ウンスを通したウンスの恋愛観が語られている。ウンスは複雑な女性なのだ。彼女は彼を本当に愛していたのか、考えてみて欲しい。ラストの別れのシーンでも、ウンスは横を向いているが、正面の顔はどうなっているのか、去っていく後ろ姿の向こうの顔はどうなっているのか、想像してみて欲しい。ウンスの過去の姿なのかも知れない」
と、なかなか含蓄のある言葉が女優の口からでたのには驚いた。アイドルスター扱いのバカな質問はまっぴらよ、というような勢いが、なかなか好感がもてたる。
で。
ティーチインの後でつらつら考えると、映画の構図がいろいろと見えてきたのです。
「記憶」・・・これは重要なキーワードだ。サンウの仕事は録音技師。自然の音=記憶をナグラ(プロユースの携帯用オープンリールだよ。まだ使われてるんだねえ)に記録するのが仕事だ。サンウの祖母は、痴呆だ。昔の“いい想い出”は記憶しているけれど、夫が2号をつくって浮気をしてからの記憶は見事に消し去ってしまっている。そして、いまでもいい記憶だけを頼りに駅へ行き、いい関係だったときの夫の帰りを待ち続けている。その、いい時代の夫は写真というメディアに記憶されている。そうして、川辺で録音したウンスの鼻歌に彼女の面影を見いだしている。サンウは、記憶の定着という行為に囲まれて暮らしている。一方のウンスは、DJ。しゃべった声は音となって消えていく。記録には残さない。想い出として心の中に残しておくだけだ。だから、彼女にとって写真なんて意味がない。自分の生まれた家も放送局もなにもかも、写真パネルの中にあるといいつつ、そんなことはどうでもいいと思っている。そうやって見ると、ウンスという女は“いい想い出”だけを心の中に蓄積しようとする女性に見えてくる。だから、愛し合っている絶頂期でいつも男と別れていく。なぜなら、嫌な想い出をつくりたくないからだ。そうして、次々に新しい男とつきあい、いい想い出だけを身体にしみこませていく。そういう女性なのだ。そう考えると、ウンスという女性はとてもエキセントリックな存在に見えてくる。ただし、彼女にもウィークポイントがある。1枚の写真だ。サンウが偶然見つけてしまったあの写真。はっきりは見えなかったのだけれど、結婚式のときのもののような気がする。ウンスは1度結婚して失敗している。もしかしたら、その経験が尾を引いて、嫌な想い出をつくらないようになったのかも知れない。
とはいうものの、その絵解きはティーチインを聞くまでは分からなかった。もちっと、この意図を分かりやすく表現してもよかったのではないだろうか。
ティアーズ10/31渋東シネタワー3監督/イム・サンス脚本/●
[シネマプリズム]原題は"Tears"。韓国映画。17歳の少年少女の性と薬と暴力と。目的なく駆ける姿は、1970年代の日本映画のテーマみたい? でも、見かけは現在の日本とまるっきり同じ。町並みもファッションも行動も、まんま日本。かつての韓国・韓国映画っていうと昭和30年代っぽい時代のズレが感じられたけれど、この映画にはタイムラグがない。ヒモをやってる少年は金髪・ケータイ・ピアス。その友達の少年はいいとこの坊ちゃん風。ヒモ少年が乱交で知り合った淫乱彼女はキャパクラ勤務。坊ちゃんが知り合ったバイク少女はフツーの家の子のようだけど、過去に屈折でセックスできず。映画の中には儒教的な年上謙遜だとか徴兵制度、受験地獄といった、よく語られる韓国はない。いやー、ほんとまるで渋谷のガキンチョだよ。だからどうしたというストーリーもなく、セックスしたりシンナー吸ったり、キャパクラの店長に迫られてすったもんだがある程度。後半のバイク旅行も乱痴気思いつき行き当たりばったり。なことしていて、淫乱少女の父親が娘を連れに怒鳴り込んでくるのが、クライマックス。これで少年2人は刑務所(?)行きで、出所してくるとバイク少女はシンナー漬けでキャパクラ店長とずっぽりの仲になってる、っていうのがストーリー展開としては納得いかないな。いかにも付け足しというかね唐突。そうなるような少女じゃないだろ! と、ちと憤りたい。ちょっとは純な存在としてずっと描かれてきていながら、突然、でぶのキャパクラ店長(痩せた江夏似)の女房に納まってしまうってのは、ね。どーかねえ。これ以外は、韓国少年少女状況(っていっても映画だからね)がかいま見えて面白かった。そうそう。キャパクラのチーフらしきオバサンの子供がクラブで働いているんだけど、ちゃんと予備校に行ってるらしいのが興味深い。息子だけは高学歴社会を目指しているのだ。それと、坊ちゃん少年の父親っていうのが、ものわかりのよい存在として描かれている(母親はぷりぷりだけど)のも面白かった。子供に理解を示そう、という部分で、なんとか解決を模索したいと願う作者の意図が感じられる。また、田舎の食堂で、幼い子供を殴る女主人に、ヒモ少年が食ってかかって「子供を殴るな」というのは、ちと直接的すぎるけれど、一応のメッセージになっている。俺たちも、そうやって親に矯正され殴られつづけたのだ、って。バイク少女も、家で殴られてたなあ、そういや。あとは・・・やたら食べるシーンが出てくるのと、吐くシーンが目立っていた。旺盛に吸収するけれど、社会に対して拒否するという少年たちの思いかな。バイク少女は、セックスは悪いこと、といって坊ちゃん少年との交接を拒みつづけているのも、過去になにかあるのかなと思わせる。近親相姦? と想像したけれど、はっきり出てこなかった。ホントは、セックスは好き。これは、クスリ漬けでセックスをしまくったことへの拒否の態度だったのだろうか。最後に、ビデオから伸ばしたのかな。画質がとても荒かった。カメラぶんまわしもよく見られたし、レンズにゴミが付いていても何のその。低予算の映画だろうし、気にならなかった。
■第14回東京国際映画祭5日目である。この映画はコンペティションでなく、シネマプリズム。10時40分開場、11時上映というので、10時20分ぐらいに行った。こないだの韓国映画がすごい混みようだったので、これも混むかな、と思ったのだ。ところが、20人ぐらいしか並んでいない。500人近く入る劇場にも、150人ぐらいしか入らなかった。こないだは、主演女優めあてのオタクがいっぱいいたからだな。

 
 

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