2002年7月

鬼が来た!7/1新宿武蔵野館3監督/チアン・ウェン(姜文)脚本/チアン・ウェン(姜文)、シー・チエンチュアン(史建全)、シュー・ピン(述平)
表面的にはかつて日本軍が行った大陸での残虐物語だけれど、基本的な題材となっているのは昔からどの国にもつたわっているような不条理物語がベースになってるとみていい。設定が大東亜戦争下の日本軍になっているのは、賞取りとか国内向けの戦略だろうと思う。善悪二元論で分かりやすいし、観客や審査員のウケもいいだろうしね。で。話は、やっかいな"もの"を押しつけられた集団が、その処理に困ってあたふたするという物語。だけど、あたふたの様子の演出にキレがない。というか冗漫で、長すぎる。2時間近くもあるすったもんだは1時間余りに縮めれば、もっとテンポよく、滑稽な感じに仕上げられたはず。第一、村の住民の関係が、すっと分かるように描かれていないのが難点。最初の男女が後家とやもめだということが分かるのも、彼女が子持ちだというのが分かるのも、だいぶたってからだ。たっぷり時間をとっている割りに退屈なのは、まあ、演出力の問題だろう。さらに、時間の経過も分からないのも困る。5日後といいつつ、あれあれ・・・? その5日目はいつ越したんだ? あの雪のシーンが一冬を越したという意味か? わっかりにくいぞ。人物もさほど魅力的に描かれてない。もちろん主人公と後家は目立っていたけれど、登場シーンが多いだけで、いまひとつ。むしろ、ときどき絶叫するいざりのジジイと長老が目立っていた。あと、太った母親ぐらい。滑稽譚としてかろうじて成功しているのは、拳銃使いに殺しを依頼に行って、首切りの名人を連れてくるところかな。あんな調子で前半通して演出できていれば、もっと教訓譚として成功しただろうに、残念。その前半部分は「七人の侍」「羅生門」なんかを何となく連想させる描き方だね。もつとも、ユーモアは不発気味だけど。それに、あの日本軍の楽隊はないだろう、あれは。あの時代にのんきに楽隊が毎日のように村を行列してるか? のんきに泳いでるか? それと、日本軍人の花屋(香川照之)の態度が「死にたい」から急に変わってしまうのも、説得力がない。もう少し、変節を描き込むべきだろう。といっても、すべてが闇の中のような話の中で具体性をだせというのはムリな注文かも知れないけど。でも、最初の「殺せ」からの変化の原因がよく分からないのは、隔靴掻痒。さて。花島とともに村人が小隊に穀物をとりにいくところから、やっと話が動きだす。実をいうと、見てる私はいささか退屈しはじめていたところだった。でもね。日本軍を描きながら、ハッピーエンドなんてあり得ない(と、見透かされてしまうところが、日本をモチーフにした場合のワンパターン現象)。タダで穀物をくれようなんて、そんな虫のいい話はないわけで、次にどんな残酷物語が用意されているのか、そればかり気にしてみていた。で、ここからは日本人の非道さ(というか、わけの分からなさ)と中国人の悲哀が強調されていくのだけれど、これはまあ日本軍を描く映画の定番なんでしょう。これがないと、観客もおさまらないはず。しかし、酒宴の最中の殺戮は、何が原因でああなっていくか、よく分からんところ。中国人の1人が小隊長になれなれしい態度をとったのに花屋が怒ってつい白刃を・・・てな流れになってますが、なるほどと納得できるようなものじゃなかった。きっと、多くは日本人の残虐さとか戦争の狂気だとかいうのだろうけど、別にあの状況はテンションが高くなっていたってわけじゃないぞ。誰も敵対している状況ではない。もちろん、日本人が中国人を蔑視していたというベースはあるにしても、あの状況はとくに狂乱に突入するような環境ではないと思う。だってさあ、小隊長は「日本人は約束を守る」といって、証文をみて穀物をわざわざとどけさせているんだぜ。唯一考えられるのは、あの小隊長は終戦の事実を知っていたと考えられることぐらいだ。しかし、他の兵隊は知らなかったんだぞ。花島だって、あの場で初めて知らされたんだ。あの村にいた曹長(准尉か?)だって知らなかった。第一、小隊長には終戦の驚愕の様子なんて、まったく見えていない。だから、最期のあがきに虐殺を仕立てって考えるにしても、違和感が残ってしまう。小隊長が、「誰か花屋を殺せ」と、無理難題をいったのが、せいぜいひっかかる程度。なんだかよく分からない流れだ。それでも曹長は少年を殺してしまうなど、あれよあれよと、悪役日本人の面目躍如だ。で、ラスト。因果はめぐるというお話の定石通り、中国人の主人公もあえない最期を遂げる。本来の昔話なら、わけの分からない者、に振り回される悲哀で終わるところに、わけの分かりやすい日本軍をもってきた。そこは、話がカチリとはまっていく。すったもんだの挙げ句が、これ。というわけで、テーマをより明瞭に描くためにもってきた日本軍というモチーフはかろうじて成功しているけれど、その物語運びがいまひとつ、ってな印象だった。それにしても、花島さん。そして、小隊長殿。彼らはB級戦犯として裁かれたのでしょうね? 日本軍の描写は「独立愚連隊」なんかを連想させる感じで、とても中国の監督が演出したものとは思えない。監督は、日本映画もよく見ているのだろうな。
武蔵野館3は90人足らずの小さな小屋。20人ぐらいの客しか入ってないのに、冷風が天井から吹いてきて、寒かった。
ハイ・クライムズ7/1新宿武蔵野館1監督/カール・フランクリン脚本/ユーリ・ゼルツァー&ケイリー・ビックレー
まあ、アシュレー・ジャドの顔だけ見ていれば、それはそれでいい映画なんだろうけど。いや。始めはスリリングな出足で、やり手女弁護士の旦那が逮捕されて、おお、これは法廷物、それも軍事法廷物か。どんな知的対決が繰り広げられるのか? と期待すらもたせた。ところが、30分も過ぎたらB級レベルに内容がた落ち。そもそも、12年も前の逃亡・殺人って、軍隊からどうやって逃げていたのか? しかも、告発されたのも冤罪? しかし、弁護人(モーガン・フリーマン)が、「公開で」といったたげで死刑から禁固5年に減軽の取引に応じる軍隊って・・・。以下ネタバレ軍事機密を守るための冤罪を軍隊がでっち上げ、証人にも偽証を強いてたってなことも分かってくる。さらに、エル・サルパドルでの事件も軍のでっちあげ・・・。と軍隊に悪いことばかりが分かってくる。じゃあなぜ、あの亭主がどんでん返しで真犯人にならなきゃなんないんだ? あの亭主が真犯人なら、軍隊はさっさと懲役刑でもなんでもすればいいじゃないの。取引に応じることもないし、偽証を強いることもなかったはず。しかも、最期は機密がバレルからと告訴を取り下げてしまう。さんざん威しや事故に見せかける工作などをしたうえで、だ。その上でどんでん返し(って、このままじゃ終わらない雰囲気は濃厚だったぞ)って、どーなってんだ?・・・というわけで、中盤から話が穴だらけ。これまで見た映画の要素を寄せ集めてとりあえず1本つくってみました、というような案配。しかし、最初のレイプ事件の解決といい、本編の事件の解決の仕方といい、この女弁護士の手にかかったら真実は・・・。そうそう。電話のモジュラーに仕掛けられた盗聴器を発見するの、遅すぎだな、ありゃ。わからないのは、目の診断書を出してくれた初老の男。あれは誰だったんだ? それに、突然接近するエル・サルパドルの男も、突然すぎ。
いくら平日の1時45分の回だからといって、観客が少なすぎだ。15人ぐらいいたかな。「鬼が来た!」より少ないよ。
ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ7/4新宿武蔵野館4監督/ジョン・キャメロン・ミッチェル脚本/ジョン・キャメロン・ミッチェル
オカマのロッカーの話らしいとは知っていた。話題になっているので、見に行った。それだけ。ストーリーにはとくに感動も共感もしなかった。音楽は、いくつか心に残るメロディがあった。詞を大事にしているせいか、字幕で丁寧にでるのを読んでいくのは面倒くさかった。引き裂かれた都市ベルリンの、東ベルリンで育ったという生い立ちと、引き裂かれた自己=性同一性障害が重ねられているのだろうが、だからどうしたという感じ。それより、少年時に占領軍であるアメリカ兵の実父にオカマを掘られ、長じては黒人のアメリカ兵と結婚して渡米するという生き方の方が興味深い。ドイツも、日本のようにアメリカによってオカマを掘られたような国であるからなあ。オカマっていうより、男妾か? 少年時代にロックを聴いてベッドの上で飛び跳ねる姿がとてもおかしかった。いや、あの子役はかなりイッていたように思うが。話のもう一つの軸の、ロックスターになってしまった元の教え子? とは、最期に和解しかけたのに事故って、また仲違い? のあとの展開がよく分からなかった。主人公も、オカマスタイルをやめてしまったの? なんで? で、バンドの元亭主がオカマになっちゃったの? というあたりが、よく分からなかった。インサートされるアニメは、あまり面白くなかった。
と、ここまでを書いてから映画のHPで解説を読んだ。ふーん。あそ。というわけで、幻のブロードウェイ・ミュージカルの映画化であること。そして、映画のタイトルの意味もようやく分かった。「ヘドウィグと、怒りの1インチ」ね。なるほど。しかし、HPにあったように、彼は「自分の魂である歌をとりもどし、捜し求めていた愛にであうこと」ができたの? おらにはよく分からんです。
ニューヨークの恋人7/4新宿文化シネマ2監督/ジェームズ・マンゴールド脚本/ジェームズ・マンゴールド(共同脚本)
メグ・ライアンは可愛いねえ。かなりな年のはずだし、それなりに外観も崩れてきつつあるけれど、魅力的。やり手のキャリアを演じても、とげとげしさがないところがいいね。というわけで、私好みの彼女がでているから、彼女だけをみていればいいわけだけどね。お話としては古典的なタイムトラベルとラブコメを融合しただけで目新しさはない。けど、こういうハッピーエンドが予想される楽しい話を見ていると、心が和むです。政治や社会や歴史のことを考えなくていいから。話としても、よくできている。というか、飽きずに見られる。唯一の欠点は、あの、過去の写真。写真がとられたはずの時間には、元恋人は現代に戻っているはずなので、ちょっと時制がおかしい。難癖をつけるとすれば、それぐらい。興味深かったこと。メグの会社の会議室にリキテンシュタインのリトがあったこと。枝豆=えだまめ、が英語になっていること。メグがいった「Mac G5」ってのは、まだでてないぞ。G4が最新だろう。
この小屋は初めて入った。ビルの6階で、客席に比べてスクリーンが大きい。音響もよかった。ところが、プロジェクターの音ががらがら響くんだよ。これにはまいった。それから。クライマックスでメグが過去に行こうかというあたりで、近くで携帯がなった。バカな青年がでて「もしもし」といったのだ。すぐ切れたけれど、映画の最中に電話にでるバカが、ここにいた。
メン・イン・ブラック2/MIB II7/16新宿ミラノ座監督/バリー・ソネンフェルド脚本/ロバート・ゴードン&バリー・ファナロ
前作は予告編でいいところを見せてしまって、本編を見ても驚きもしなかったが、今回は予告編も少し控えめだったせいか、そこそこ見られた。といっても、それはCGのこと。お話の方は、わけわからん。最初にピーター・グレイブスが司会の怪しげなテレビ番組があって、そこで、発端となった出来事がチャチな映像で見せられるのだけれど、その内容がよく分からんの。その出来事を下敷きにして、美女エイリアンが25年ぶりぐらいに「光」を求めて地球にやってくんだけど。なんで四半世紀ぶりか、なぜ「光」が重要な意味をもつか、破滅しそうな星の女王はどうなったか、といったことが全然描かれていない。だから、ずっとストーリーを追っていてもわけが分からない。イライラする。んで、記憶を消されたトミー・リー・ジョーンズだけが情報を知っている、と呼び戻されるのだけど。実は彼が星の女王から預かった「光」とは女の子(ウィル・スミスが惚れる黒人女性)で、ひょっとしたら彼の子供かも知れない・・・ということが分かるのだけど。けど、彼が女王に惚れたということもちゃんと描かれていない。だから、なんだかよく分からんまま終わってしまう。もうちょっと理屈が通じるような映画にしてくれよな。と、いいたい。それと、ロッカーに住んでる小人宇宙人だけど、駅のコインロッカーに5年も荷物を入れっぱなしにしたら、遅延料金は莫大ながくになるんじゃないか? いや、その前に荷物が撤収されちゃうだろ。それと、ラスト。MIBの自分のロッカーに移された小人宇宙人のシーンから、MIBのドアを開けると・・・とんでもないシーンがあるのかと思ったら、別になんてことないシーン。意外性もなにもない。うーむ。映画も悪いが、オレは、翻訳もひどいのではないかと思っているのだが。それにしても、よく分からん映画だ。イライラ。そうそう。あの黒人美少女の鼻の穴のカタチが左右違うのがとても気になってしまったぞ。
ガウディ アフタヌーン7/16テアトルタイムズスクエア監督/スーザン・シーデルマン脚本/ジェームス・マイヤー
面白かった。といっても、"できそこない"な部分がたくさんある。そういう瑕疵を除いても、興味深く楽しい。家族というものを、ほとんど家族をださずに表現するのが、ユニーク。だって、でてくるのは仕事に行き詰まった更年期間近のオールドミスの翻訳家とか、女装愛好高じて美女オカマになった男、男装の不美人、レズビアンのドラッグ娘、オカマのマジシャン。そして、幼女1人。こんなやつらがバカバカしい騒動を通じて、通わなくなった心を通じ合わせようとしたり、亀裂を深めたりしながら、家族の大切さと親子の情愛を発見するんだぞ。変な映画といわずして、なんといったらいいんだ? これ、アメリカとスペインの合作らしい。原作もあって、日本でも出版されている。「オール・アバウト・マイ・マザー」も、スペインじゃなかったっけ? スペインは、オカマを通じて家族を語るのが趣味なのか? それはいいとして。出てくる連中がみな美男美女じゃないってのが、面白い。翻訳家は女版ウディ・アレンみたいで、髪型もメガネも自意識過剰のおせっかいぶりもそっくり。部屋代にも困った彼女が、金のために慣れない探偵業に首を突っ込むところから話は始まる。で、バーのトイレで、依頼者の美女のとんでもない姿を見てびっくり! ってところから、話もスピード感が増して、あとは怒濤の勢い。みんなが愛に飢えていることが分かってくる。というか、勝手な愛の押し売りだったり。まあ、結局はささいなことで大騒ぎしているだけなのだけれど、そのすったもんだに手が混んでいる。だって、誰が男で誰が女で誰が父親で母親か。それを理解するのに字幕を読みながら、私はあたふたしてしまったくらいだから。しかし、いまひとつ突っ込み不足というか、中途半端なところがあるね。マジシャンの正体というか、彼とオカマやレズたちの関係がいまいち分からないとか。ま、想像で補えないことはないけれど。つまり、思わせぶりかつ映画的に表現しようとしているところが、いまひとつ。バナナの隠喩もそのひとつだな。マジシャンのバーで繰り広げられるオカマ・マジックショー。その舞台の両袖に巨大なバナナ。っていやあ、これは何の象徴かすぐ分かる。ところが、そのバナナが次に出てくるシーンは、翻訳家がマジシャンから幼女を取り戻し、その帰り道。幼女がバナナを食べている。それを翻訳家に「食べて」とさしだすところ。これは何だ? 幼女が男=父親を求め、翻訳家が男=亭主を求めていることの暗喩か? じゃなきゃ、なんだ? と思ってしまった。てな、分からなさがときどきあるのだ。翻訳家にしても、男と女の仲介者ともとれるけれど、それも定かではない。男と女が逆転した世界でもとめられる家族。では、その求められるべき姿は? という問いにも、はっきり応えているわけではない。モチーフは、もう饒舌すぎるほどある。けれど、テーマの表現にまで行き着いていないという気がするね。主人公たる翻訳家が悩む訳語やフレーズなどを要所に挟み込み、てんやわんやのなかで名訳を発見していくとか、一本筋を通すようにしたらよかったんじゃないのかな。なんか、とりあえずドタバタしてみました、という、要素のおもちゃ箱をみただけ(というわけでもないのだけど)という気もしないではない。しかしまあ、そういう中途半端な状態で放り投げることで、見ている側に考えてもらおうとしているのかも。と、好意的にとらえることもできるかな。しみじみとする場面もある。子供は迷惑、と感じている翻訳家に、大家の妻(唯一出てくる普通のスペイン人家族)がいう。「でも、生まれてきたときは天使なのよ」と。そして、幼女との対話で、昔、離婚した両親のことを思いだす翻訳家。彼女はアメリカの片田舎に住む母親に会いに行く決心をする・・・。ここいらは、テーマに沿った描写なんだろうな、きっと。設定に負けてしまって目立たないけど。それと、ステンドグラスを使ったオープニングタイトルが、見物。
テアトルタイムズスクエアは、初めて。シネコンみたいに左前方から入って、右袖からでるという一方通行。ロビーはなし。喫煙所あり。トイレは一端出て、外部のトイレを使う。座席は急斜面。中段でも画面がでかく、近く見える。迫力ある映画には向いているかも。でも、めまいしそう。上映間近に右手から入り込んできた外人男性がいたが、あれは、出口から入ってきたんではないのかな。うまくやれば、人気のない出口から入れるってことか?
タイムマシン7/25渋谷東急2監督/サイモン・ウェルズ脚本/ジョン・ローガン
始めはつまらなかったけれど、80万年後の世界に行った途端、俄然面白くなった。19世紀末のニューヨーク。これは、時代考証もしっかりしていそうで、映像はとてもきれい。馬車のシーンなんか、スティーグリッツの写真みたいだし、スケート場の場面なんかも当時の風俗をよく表している。フォトジェニックなシーンがいっぱい。でも、楽しくない。ドラマ性が希薄で、動きのある演出がされてないからだ。やっぱり、「過去はなぜ変えられないか」という命題を探しに出かけてからの方が、ドラマがある。演出も、スピーディ。みていて楽しい。80万年後の世界そのものは「猿の惑星」を連想させるもので、あれは「タイムマシン」に範をとっているのか? よく知らないが。ヒロインが猿顔で可愛くないのが残念。「タイムマシン」といえば、40年ぐらい前の作品もあるけれど、あれにも80万年後がでてきていたな。ということは、原作に忠実に再現しているのかな。見どころは、時の移り行く様子の超早送り映像かな。あと、印象に残ったのは、博物館のガラスの中の案内人だな。
SPY_N7/25渋谷東急3監督/スタンリー・トン脚本/スタンリー・トン、スティーブン・ホイットニー
無茶苦茶な映画。見どころは、紀香のテンションが高く一本調子の英語と、下着ショーのシーンと、驚きのスタント。なかでもスタントは、あれで事故を起こさないのが不思議。2、3人死んでいてもおかしくないようなノリでやっている。たまげたもんだ。むしろ、スタントと下着ショーだけで1本つくってくれた方がよかった。なんたって、ストーリーは無茶苦茶なんだから。藤原紀香はかっこよくも可愛くもない。できたら、もう少しアクションやってくれたらよかったのにと思うぐらい。香港警察の若手2人コンビは、なかなかハンサム。しかし、無茶苦茶なお話だ。もう少し、ストーリーに気を配ってもらいたいもんだ。
天使にさよなら7/25シネスイッチ銀座2監督/ウダヤン・プラサッド脚本/リー・ホール
見ている途中で「この少年はなぜ天使になりたくなったんだっけ?」と、そもそもの始まりが分からなくなってしまった。そこで、終わってからもう一度冒頭部分のナレーションを聞いた。それで、少年は5歳の時に父親の腕が痛くなるぐらい宙に投げられて気持ちよかったこと。その様子を見て、母親が「天使みたい」といったことが分かった。たったこれだけのことだけど、重要な前提条件だよな。それを簡単なナレーションで済ましているところが、弱いと思った。しかも、ナレーションの冒頭には「今日、父が死んだ」とある。ってことは、映画は過去へ遡るわけだ。なのに、天使になりたがった理由も一度に述べているから、話がややこしい。見終わってから聞くから「ああ、なるほど」と思ったけれど、あれじゃあ少年の気持ちや想いは、見ている人につたわらないだろう。この映画は、とても分かりづらい。何をいっているのか、言おうとしているのかが曖昧だからだ。冒頭部分が頭に入っていれば、想像はつくけれど、その父と子の輝いている時代が映像で語られるわけでもないので、インパクトが少ない。この映画は、児童から少年へなりかけでチンポに毛が生えかけてきた少年の、反抗期の物語というべきか。大人への、というより、少年への脱皮の物語というべきか。だから、「天使にさよなら」なんだろうけど。しかし、こういう時期に強い父ちゃんがいない家族っていうのは、ボロボロだなあ。リストラされて5年。仕事もなくふらふらして売れない絵を描いているオヤジ。そのくせタバコと酒は欠かさない。でもって末期の肺癌で死ぬ間際。苦労はお袋の肩にどっしり。(・・・こんな設定の映画って、なんか、昔の小津の映画になかったっけ?) 記憶にある逞しいオヤジは、もうずっと前のもの。空中高く放り投げられたときの、空を飛んだ想い出。このギャップを埋めるべく、少年は大天使ガブリエルに「天使にして欲しい」と願うのだけど。どーも、やっぱり話がスッキリしない。天使にしてもらってオヤジの命を救う、っていうなら分かるけど。そういうワケじゃなし。オヤジのことは「嫌いだ」と、最期まで言い続ける。「エデンの東」のキャルのように、親父に愛されたくて愛されたくて仕方ないって様子でもない。サッカー吉害のおかげで、音楽好き(らしい)少年は、迷惑ばかり蒙っている。って、いろいろな要素を振り返ってみても、一貫した主張っていうのが、読めない。なんか、中途半端だ。ってなわけで、私はこの映画はできそこないだと断定する。ユーモアもあるんだけど、不発気味だし。しかしさあ、友だちのオヤジを生き返らせるため、深夜の4時に植木鉢に個人の靴下(靴の代わり)を埋めて、お祈りする子供って・・・。しかも、それを母親に見つかって叱られてぶたれると「ぶったぶった」と騒ぎ立てる子供って・・・。理解できない。

 
 

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