2002年10月

サイン10/2上野宝塚劇場監督/M.ナイト・シャマラン脚本/M.ナイト・シャマラン
10分ぐらいしてあくびが出始めた。いつまでたっても何も起こらない。退屈で退屈で、映画館を出たいと思った。・・・ひょっとして、テレビニュースも何もかも、一家を驚かすためのでっちあげじゃないか? なんて思ったもんだ。「トゥルーマン・ショー」みたいにね。ところがどっこい。そんなおバカなひねりもなかった。ラスト。地下室から出たところで"あれ"が登場して、ちょっと目が覚めた。けれど、いくらなんでもそりゃあないだろうという終わり方で、がっくりした。金返せ! といわれてもしょうがない映画。真っ向勝負のストレートといえば聞こえがいいけれど、なーんもひねりがないバカ一本槍のからっぽ映画といった方が適切。これじゃ詐欺だ。だいたい、得体の知れないものへの恐怖、その恐怖が迫ってくる緊迫感というものが、全然表現されていない。演出がど下手。さらに、ドラマがほとんどない。対立項のないところにドラマがないように、映画の中で対立する人々もいない。せいぜい、メル・ギブソンが牧師を止める原因となった交通事故があるぐらい。それも、とってつけたようにね。んでもって、全編、どこに金を使っているんだ、といいたくなるような安手の安直内容。冗談じゃない。映画をなめるんじゃない。それに、"あれ"は水に弱いってことになっているんだけど、地球はしょっちゅう雨が降るし、人間を食糧にするにしても、人間は水でできているような生物だ。そのぐらい調べてから襲ってこいよ、宇宙人。
それと、気になったのが字幕の文章。なんか、へん。自然な会話に読めなかったり、家族に言う言葉にしては妙な言い回しだったり。理屈が延々と話される部分が分かりにくかったり。下手だな、と思っていたら、何と戸田奈津子ではないか。うーむ。どうしたんだろう。
完全犯罪クラブ10/2上野松竹セントラル2監督/バーベット・シュローダー脚本/トニー・ゲイトン
テレ朝の2時間ドラマを見ているような気分だった。映画的レトリックは皆無。サンドラ・ブロックと同僚の、意味のないセックスシーンはなんなんだ? 緊張感も山場もないだらんとしたストーリー展開。トリックなんかも、最後で解説的に披露したり。おめえ、やる気あんのか? と、監督に尋ねたいほどだ。設定は、面白い。ドメスティック・バイオレンスで殺されかけた女刑事。頭でっかちの同僚刑事。対するは、頭のいい高校生と、友だちの不良。けど、焦点がどっちつかず。たとえば、特権的意識で人殺しを正当化するサイコな高校生にターゲットを絞り、その不気味さにでも光を当てれば、また違った映画になったはず。ところが、登場する高校生はごくフツーで、気味悪さもなにもにじみ出てこない。DV過去のあるサンドラ・ブロックにしても、その過去は現在にほとんど影響を与えていない。なんだよ、だ。それに、サンドラ・ブロックがどうして高校生2人にたどり着いたかの論理的描写がない。これは、ミステリーには致命的。女の勘だけで捜査をするなよな、である。さらに、ミスを犯した同僚刑事の、後半での活躍はほとんど目立たない。もう少し活かしようがあったんじゃないか? というように、素材はいいけど料理がからっ下手な、時間つぶしにはちょうどいいようなプログラムピクチャーだったな。
ジャスティス10/4池袋東急監督/グレゴリー・ホブリット脚本/ビリー・レイ
戦争物で背徳物で捕虜収容所物かと思ったら、なんと法廷物で、差別物で、脱出物だった。ウェイトが高そうなのが法廷の部分だけれど、そこへくるまでの道のりが長かった。55分かかっている。それまで、いったいこの映画では何が起こるんだろう? 何を描くのだろうといらいら。だって、なーんもドラマらしいことが起こらないんだもん。だいいち、あの中尉が燃料庫の位置をドイツ軍に教えたという部分は、どこにどーいう風に活かされているんだ? 活かされてないよ。雪中行軍や捕虜列車爆撃も要らない。いきなり中尉殿が収容所にやってくるところからはじめていい。燃料庫の位置を教えたことも、カットバックか夢なんかで罪悪感に苛ませれば事足りる。というわけで、前半はざっくり要らない。その分、収容所の様子や人物描写にあてた方がまし。さてと。黒人パイロットへの差別というテーマは面白かったけど、結局エピソードに過ぎなかったし、その偏見を利用した大佐もいたりして、後味が悪いまま。脱出を指揮していた大佐も悪人のまま終わるかと思いきや、最後は爆弾工場の破壊に加え、堂々と告白するという持ち上げぶり。おいおい。悪人はどこにいっちまった? 要するに、お坊ちゃま中尉は、仲間はずれにされていたってことだろ。黒人兵もしかり。いくら脱出して爆弾工場を破壊したからって、人種差別を利用して罪なきものを死に至らしめるというのは、これは納得がいかないぞ。だいたいさ、脱出作戦を成功させるために口封じをするのに、あんな手の込んだことをする必要性がどこにあるんだ? うーむ。よく分からん。それと、フットボールの代わりにパンを投げていたのは、あれは何を意味しているんだろう? 最初の黒人兵を殺したのは誰なんだろう? よく分からん。興味深かったのは、収容所長。イェール大卒業でジャズが好きっていうインテリに設定しているのが、なんか可笑しかった。でも、その署長の所に、捕虜が簡単に会いに行けるっていうのはヘンだよな。見た後でホームページ見たら「極限状態で起こった殺人事件と脱出計画」ってコピーが大書してある。これを読んでから映画を見たら、ラストの意外性も拍子抜けだわな。バカな宣伝してるよね。
17歳10/4テアトル池袋監督/今関あきよし脚本/いしかわ彰
こんな映画つくってるやつらって、バカばっか、って気がする。いじめる連中、理解のない教師、意味なく近づいてきてヒロインを助ける少年、水商売の母親・・・。これほどまでにステレオタイプ化されていると、見るもおぞましい。なぜいじめるか、いじめられるか、の本質にはまったく言及しない。そして、可哀想な母娘のまわりは悪意の人ばかり。こんな程度の理解しかないなら、登場してくる教師と大差ない。ここまで内容がないと、文句のつけようもない。でもまあ、ちょっとだけ。「千葉に帰ろう」と母が言うのは、どういう意味だ? ヒロインは小学校からこの地域に住んでいるんだろ? ってことは、別れた父親の故郷と考えるのが妥当なところ。それで、母親の実家が千葉だからって、帰ろうはないだろ。この母娘はちゃぶ台でご飯を食べていたけれど、最初の頃に登場した、テーブルでの食事のシーンはいったい何だ? 誰もいない次の間で扇風機が首を振っていたけれど、あれはどこなんだ? 後半、少年が疾走したあとでヒロインの郵便受けにハガキが入っていたけれど、どういう意味をもつのだ? とまあ、つじつまが合わないというか、よく分からん部分もたくさんあって、やんなっちゃう。それに、もっとも不快だったのが画質の悪さ。ビデオ撮影なのだけど、すごいぼけぼけで、とても見られたもんじゃない。こんなので正常料金をとろっていうのは、詐欺といっていいだろう。
宣戦布告10/11渋谷東急3監督/石侍露堂脚本/小松與志子/石侍露堂
陰気な映画だね。内閣と、内閣調査室、北が侵入した北陸の3つが舞台になるんだけど、なんかみな書き割りみたいに薄っぺら。内閣にはほとんど閣僚だけしか登場しなくて、せいぜいインタビューする記者が添え物のように画面に登場するだけ。わずかに人間性を感じさせる秘書官も、朝鮮半島の生まれ?か、在日かで帰化したという設定。けど、それも活かし切れていない。その秘書官と心の通じている調査室長も、役割を演じているだけで、人間が描けていない。そう。生の人間がでてこないんだよ。こういう映画だと、権力側に対して民間人(新聞記者と、その恋人とか)が登場して、ドラマが二重に描かれたりするのがつねだけど、それがない。内閣は、憲法論議をするためのシステムとしてしか登場しない。北が潜入して警官や自衛官が殺されているのに、衝撃を受けているはずの地元の人間や一般市民がほとんどでてこないんだよ。そりゃまずいだろう。武装反対を唱えている社民党とか、自衛隊は違憲だといってる団体をだしたり、戦争反対運動を展開する市民運動家と右翼との殴り合いだとか、そういうのがでてもおかしくないのに。だから、リアリティがないんだよ。そして、中盤から自衛隊員がころころと撃たれて死んでいくんだけど、そう簡単に撃たれたりしないんじゃないか。バカバカしく見えてきた。それに、北からの侵入者が自殺用の設備を整えていて倒れたら死んでしまったり、小屋の下に穴でも掘っているのか、小屋を爆破しても生きていたりと、まるで忍者もどき。おいおい。そりゃねーだろ。ちと、後半は腰砕け状態だったな。それに、自衛隊の協力が得られなかったのか、ヘリコプターが隠し撮りのようなボケボケだったのが陳腐だった。分からなかった部分も少なくない。秘書官が辞めることになった理由がわからない。単なる潜水艦の座礁なのか、潜入行動だったのか、北の意図が分からない。ちったあ臭わせろよ、何か。自衛隊の出動で中国や韓国、アメリカが臨戦態勢に入った理由が分からない。各国は、どういうチーム分けなのだ? 中国は北を応援するのか? アメリカにつくのか? よく分からんぞ。それに、偽情報が北につたわって突然、北の侵入行動がストップするけれど、ありゃなぜだ? どういう偽情報を流したんだ? こういうのが分からないと、もやもやしてたまらんのだ。
MON-ZEN10/15新宿武蔵野館3監督/ドーリス・デリエ脚本/ドーリス・デリエ、ルート・シュタードラー
9時30分からのモーニングショーで、体調芳しからず。外人客1000円という入場料が知られているのか、4、5人は異人さんがいたような。といっても、全部で15人ぐらいしか見てなかったけどね。いや、興味深かったし、面白かった。笑えたし。最初がドイツ。次が東京で迷い、そして、門前で修行と、だいたい3場面に分けることができるのだけど、それなりに方向性もしっかりしているし、描写も適切。キャラクターが面白い。日本びいきで風水占い師の弟。しっかり者のような印象だったんだけど、だんだんポロがでてくる。それに、わざわざ日本まで来て禅の悟りを開こうという動機が分からなかったのだけれど、それはラストの地下鉄のシーンで氷解する。なるほどね。そういやあ、ちゃんと布石も打たれていたなあ。なんとなくついてきてしまう兄は、インテリア関連の販売員。こっちは、がさつさが妻に嫌われ、妻子に逃げられて絶望の淵に・・・。って、妻子に逃げられて人生おしまいって嘆くドイツ人ってのが不思議だな。ドイツの男はそんな律儀か? いい加減な男のようでいて、メジャーで測る癖が抜けない職業気質もあったりする。兄は、お調子者のような印象だったけど、なかなか器用で、打たれ強いことも分かってくる。このあたりのキャラクターの掘り下げ、描写はかなり凄いというか、なかなかだ。さて。東京でいきなり迷子になるのが、大笑い。なんだか漫才コンビかハンプティ・ダンプティみたいで、いい味を出してるぞ。うって変わって修行の場では寺と禅のシステムの描写が多くなるけれど、日本人の僕が見ても飽きない。「ファンシーダンス」のリアルな感じっていうのかな。日本の坊さんとのコミュニケーションなんかも、やわらかな優しさで描いている。そして、この2人のドイツ人が煩悶する過程、仏教=禅に救われていく様子も納得いくカタチで描写されていく。なるほど。仏教には、ドイツ人を納得させるだけの力があるのかな、と見ているこっちも納得してしまいそうになる。ネットで調べたら、大本山總持寺は実在の寺だった。曹洞宗大本山で、石川県能登にあったが明治期に焼失。現在は神奈川県の鶴見にあるそうだ。しかし、祖院は能登に残っているらしく、そこで撮影したのだろう。渋谷のシーンでは第11回東京国際映画祭の横断幕が見えた。今年は第15回だから、1998年の秋ってことか。けど、東京の昼間のシーンではケータイかけている若者ばっかりが映ってたなあ。あれは4年前じゃないだろ。何度か撮影にきているのかな。それにしても、外国人が興味をもつ日本のシーン、日本的容貌の日本人というのが、僕らが通常テレビや映画でみる日本と違うのは、面白いね。
ごめん10/15テアトル新宿監督/冨樫 森脚本/山田耕大
モチーフはいいけど、料理が下手。まず、セリフが半分も聞き取れないことが最大の欠点。子どものキンキンした声もあるけれど、録音がいい加減なんだろう。ライブな声を大事にしたかったのか? でも、聞き取れないんじゃしょうがあるまい。関西弁が、それに輪をかけた。分かりやすい関西弁ではなく、理解しづらい関西弁だった。照明にほとんど気を使ってないことにがっくり。画面が暗すぎたり明るすぎたり。露出もよれよれ。それとフレーミングが、よくない。生理的に美しいトリミングというのはあるはずなのだけど、それができてない。人物の動きにカメラが追従できていないところも多々あった。完成度が、とても低いから、見ていて心地よくないのだ。そういうのを補って余りあるヒロインの可愛さと、ヒーローの幼稚な存在感は評価すべきかも知れない。けど、もうちょっと金と時間をかけてキチンと仕上げれば、かなりの映画になっただろうに。もったいない。とはいいつつ、子どもが精通したからといって、家族や同級生が話題にするかあ? という疑問がある。僕にはそんな経験はなかった。友だち同士で毛が生えた、むけたというのはあった。けど、精通したことについては外見の問題じゃないから、なかったぞ。だから、その点ではリアリティ欠如。それと、いくら心を許したからといって、少女が同級生の男の子に「私は小学校4年で生理が・・・」なんて、言うか? 言わないと思うぞ。さらに、少年は精通と同時にさかりのついた雄猫みたいに少女の家を探して尋ねて行くけど、そんなストーカーみたいなこと、普通できないだろうなあ。映画だから、って言えばしまいだけど、なんか少年と少女がふれ合うきっかけなるものを、もっとナチュラルに描けなかったもんたね。ラスト近く。少女を追って少年が剣道着のまま京都に行って神社を探す場面で、UFOキャッチャーのシーンがインサートされたけど、あれは大阪ではなかったの? いや、地理が分からなくて言ってるんだけど、デーとしたとき最初に行ったのが水族館で、あそこは少年が父親によく連れて行かれる場所だったろ。だから、大阪でデーとかと思っていたので、神社→UFOキャッチャー→神社というつながりはヘンに見えた。それに、少女からデートに誘ったんだから、あれはもうつき合ってる状態と見ていいんじゃないのか? だから、波止場で「つきあってくれ」と少年がいうのが、妙に思えた。だらしない父親、といわれる喫茶店のマスターにして少女の実父。最初の登場からいい雰囲気だしすぎていて、ダメオヤジに見えないぞ。とかね、いろいろ注文がある。色んな意味でやっぱ、いまひとつ、物足りない。人間を、心を表現するにしては、シナリオが、ね。
エンジェル・アイズ10/17渋谷東急2監督/ルイス・マンドーキ脚本/●
J.ロペスが目当て。美人じゃないけど可愛いねえ。いろんな表情を見せて、不細工な顔まで見せてくれる。それはさておき。ミステリアスなドラマにするなら、冒頭の事故シーンは無神経。得体の知れない男がJ.ロペスを助けたけれど、その正体は・・・で、ジム・ガヴィーゼルの過去と事故を織り交ぜながらフラッシュバック、っていう方がよいと思う。なんか、ネタバラシをされたまま見せられているのは、つまらない気がした。J.ロペスは少々激情に走りがちな婦警として描かれているけど、これはドメスティック・バイオレンスの家系っていうことの暗示か? 演出にそのつもりがなくても、そう見ちゃうよな。だってロペスの父も兄も、DVで妻や子を虐待している設定なんだから。しかし、アメリカではDVに耐えて家庭を守る女房がいるとは。「うっせー、でてってやるよ!」的女房ばかりで離婚が多いと思っていたので、意外。それに、DV親父を娘が逮捕したという外聞を気にする家族、っていうのも、私の想像するアメリカ的ではなかった。もっとドラスティックに割り切ってるかと思っていた。しかも、その DV親父と被害者母親が結婚何10年めに再び誓い合う儀式をするっていうのも、不気味。なんか、夫婦も契約的で、儀式によって関係を保っているようでね。こうして理不尽にも家庭から、実の両親と兄から嫌われ、勘当状態のロペス。一方のガヴィーゼルも家庭を事故で失うという、ロスト・ファミリー2人の愛の物語なわけだ。話の構造としては、悪くない。ところで、前半は警官ドラマって感じで推移するから、いくら話の展開がロマンスに移っても、なんかあるはず、あるだろう、と思いつつ見てしまう。具体的に言えば、ロペスかガヴィーゼルが犯罪に巻き込まれて撃たれるとかね。で、それを乗りこえて愛し合うのかな、とか。いやいや、死を恐れる彼女は、結局、死んでしまうのじゃないだろうか。そうして、彼女を失った代わりに彼は現実をとりもどすのだろう、きっと、とかね。ところが、見事にこの不安はハズレ。最後まで事件らしいものは何も起こらず、山場もなくハッピーエンドを迎えてしまう。それってないじゃん。というわけで、あまりにも定石を外しているので拍子抜け。それと、ガヴィーゼルは記憶喪失じゃなかったんだな。店で突然トランペットを吹き出したときは、お、記憶が戻りかけたかな、って思ったのに。その辺りが、ヘンだったな。それと、ガヴィーゼルの隣人の母子家庭。なんかありそうに見せて、これも何もなかったな。なにか起きそうで何も起きず、互いに欠落部分を補うようにして結ばれる2人。ま、可愛いロペスが幸せになったから、よしとするか。
OUT10/24新宿ピカデリー2監督/平山秀幸脚本/鄭義信
原作を発表当時に見ている。テレビ化されたシリーズは2、3回見ている。映画の原田美枝子+倍賞美津子、テレビの田中美佐子+渡辺えり子。芯の強さは原田の勝利。庶民性では田中。個人的には、田中美佐子だな。倍賞と渡辺では、絶対渡辺えり子。まあ、そんなことを比較してもしょうがないけど。てなわけで、ストーリーはあらかた知っている。だから、どう表現されているかを見た。結果をいってしまえば、がっかりだった。映画では、設定や動機は原作のまま。ところが、エンディングかちょっと違っている。見ていて思ったのだけど、設定自体がちと古くさい。原田の夫がリストラで息子がひきこもり。これって、もう新鮮味がないよな。倍賞のところは、介護。これも、少し前にスポットを当てられた問題。室井滋のブランド症候群のカード破産も、古い。みんな古いから、切迫感をもって迫ってこない。こうした設定を変えるべきだったんじゃないか。または、なぜそうなったか、そして、いかに家庭が崩壊しているか、金に苦しんでいるかということを描写すべきだったのではないか。このあたり、登場人物の生活環境の描写が通り一遍すぎると思う。ダイアログに、笑っちゃうようなセリフが多い。死体損壊というのに、この気の抜けよう。いや、なかなか面白い。が、面白いところがある反面、セリフで説明している部分が多くて、くどさを感じた。人を殺したシーンで「私、人を殺しちゃった」なんて、いうか? いわないよ。セリフで説明せず、映像だけでも十分通じるだろうし、または、別の吐露がセリフとしてあるべきだろうと思う。その意味で、脚本がぬるい。また、犯行がばれていく過程があっさり描かれすぎているのも不満だな。後半の、東京脱出から北海道行きは、完全なる蛇足。3人でドタバタ逃避行には、開放感も絶望感も感じられない。終わり方としては、原作の西新宿都庁近くを歩く・・・だったかな、あの方がスッキリしていると思う。なんか、いじり方を間違えているような気がした。気になるのは、画質がとても悪いこと。照明がほとんど効いていなくて、平板でとても暗い。ピンも甘い。日本映画って、こういうぺろんとした感じの画質が多いけど、これはまた典型的。役者の顔に光を当てろよ。ほんと、光のない、じめっとした画質だった。こんななかで、個性的でいい演技をする役者が何人もでていて、その点では救われた。メインの4人の中では、室井滋がダントツ。原田美枝子の「師匠」と言うセリフのイントネーションがとても気になったけれど、原田がときどき少女のような表情をするのが気に入った。香川照之がよかったな。とてもよかった。間寛平がよかったよ。暴力シーンの迫力、凄かった。千石規子、いいなあ。吉田日出子、いいよ。あと、顔が笑ったままみたいな若手刑事が印象に残っている。
最初に座った席の2列前に途中からオヤジが座り、スーパー袋をかさかさいわせた。こいつ、次には鼻をかみ、缶のプルリングをプシュっとやって、かさかさうるさくてかなわん。席を後方に移動した。近くに、よく笑うオヤジがいた。笑っているだけなからよかったのだが、今度は「かーっ」と、痰を切りはじめた。ぺっ、はなかったけれど、「かーっ」がつづくので、気持ち悪くなって前方に移動した。しばらくして、しゃーすーと音がするのに気づいた。こんどは斜め後ろの席に人が熟睡していた。客層が、ヘンだ。動員のための招待券ででもきているのかな。まったく、不愉快だぞ。
容疑者10/24新宿武蔵野館2監督/マイケル・ケイトン・ジョーンズ脚本/マイケル・ケイトン・ジョーンズ
うわー。なんて暗いんだよ。そして、救われない話じゃないか。出てくる奴がみんなどーしようもない連中ばかり。誘拐犯にして幼児殺しの父親、その息子がデ・ニーロで優秀な刑事だけど家族をないがしろにした。その妻は浮気の果てにデ・ニーロに離婚された。その息子はヤク中にして殺人者。その息子の嫁は育児ができず子どもを捨てて麻薬の道へ。デ・ニーロのいまの彼女は、言うことは立派だけどデ・ニーロの家庭事情を聞くと離れようとする。でもって、みんなそうなった原因を社会や他人のせいにする。しかも、殺人者の家系なんて表現がとびだしてくる。こんなモチーフは、日本だったら考えられないぞ。こんなひどい設定(ほんと、バカばっかり登場する)を、誰が考えついたんだ。なんてやりきれないお話だ。と思っていたら、エンドクレジットに「この話は真実の話に基づいており云々・・・」と書いてある。おお。そういうわけか。それにしても、まったく救いのない映画というのは、見ていて辛い。ちったあ希望を見せてくれ。って、ラストにあるだろうって? あんな、デ・ニーロ爺さんが孫と一緒に砂浜で遊んでいる姿に、夢なんかないよ。あの子どもだって将来は家系を恨むかも知れないし、自分を捨てた母親を憎むかも知れない。そう考えれば、暗澹としてくるだけだ。
卒業10/27オーチャードホール監督/長澤雅彦脚本/三澤慶子、長澤雅彦、長谷川康夫
東京国際映画祭コンペティション参加作品。日本映画。
テンポがのろすぎるな。30分ぐらいつまむと、長さはちょうどいい。でもって、くらーい演出をやめて、ごく普通に、ちょっと明るさを加味し、もう少しユーモアを(2カ所笑えただけだからな)交えるといいだろう。そうすると、リズムがでる。見ていて楽しくなる。しかし、それだけの修正でも足りないな。そうそう。人物をもう少し掘り下げて描写して欲しい。堤真一も夏川結衣も、存在感が足りない。だいたい大学の講師なんて1コマ1、2万円で、それが月に5回あったとして5〜10万の収入しかないはず。講師を数口やっているとか、講師は肩書きだけで別の仕事をもっているとか、そういうのじゃなきゃ食っていけない。まして20年間で1000万貯めたとなると、年に50万もの貯金が必要。講師の薄給で高そうなバーだの日本料理屋へ行ってられるか? リアリティがない。夏川結衣になると、その存在はもっと希薄。こういう描き込みの欠如が、ロクでもない日本映画につながっているんだ。内山理名は、不思議のままでいいんだよな、あれはあれで。さてと、お話についてだけど、初めはとんでもなくボーッとして頼りない男に、なんで内山のような学生がすり寄っていくのか不思議でしょうがなかった。その頼りない男にどうして夏川という恋人がいるのが不思議でしょうがなかった。しかも、ずうっと大したドラマは起こらない。退屈で退屈でたまらなかった。面白くなったのは、チンピラに傘を盗まれたので追っていって、堤がぼこぼこにされたところから。ここまできてやっと話が回転し始める。遅いよ。次第に内山が、堤の昔の恋人の子ども、つまり、堤の子どもであるらしいことが分かってくる。なるほど。しかし、分かるまでも引っ張りすぎ。もう少し伏線を張るとか、なんかできるだろ。そういえば、入るときに貰ったチラシを終映後に読んだら、これに「亡き母親の愛した男として、そして自分の父親として」なんて書いてあんだよな。ここまでバラすか。映画を見る楽しみがなくなるじゃねえか。それはさておき、ええっ? そうなのという驚き。元恋人は死んじゃってるの? そうは描かれてなかったけどなあ。・・・予備校の講師を頼みに行ったら、昔の友だちで予備校関係者が「行方を教えてくれないのか」なんていってたけど、その行き先は、元恋人のことではなく、その子どものことなのか? するてえと、貯金通帳のなんとか弥生って名前は、内山の本名ってことか? だから内山は偽名を使っていたのか。混乱とともに整理されてきた(しかし、チラシを見ないと分からない映画じゃしょうがないだろ)。内山はあの通帳を封筒に入れ、堤宛に返送しようとしていた。送り主には、弥生と書いていたはず。あれは、最終講義の前だったはずだから、すると、最後に公園で別れたとき、あの通帳は堤の所に届いていたのだろうか? 届いていたとしたら、堤はギョッとしたはずだから、あれは届いていないということか。どうせなら、別れた後に投函するシーンを入れればよかったのに。それにしても、元恋人とどういう別れをしたのか一切触れてないのはもどかしい。だって、堤がふぬけになってしまったのは、その別れにあるんだろ? ちがうのか? それとも、あのふぬけ状態は、堤の生来の性格だっていうのか? うーむ。いまひとつ納得できない映画である。よかったのは、内山の小悪魔的な眼差しだけかな。彼女は上目遣いのときはいいけど、下からあおると間抜け面に見えるな。うむ。個人的には夏川結衣目当てだったのだけど、う〜む、年取ったなあ、彼女も。
完成度が低い。この程度のレベルじゃ、ダメだな。席は本当は2階がよかったのだけれど、2階席中央部分が関係者席になっていたので3階に行った。ここはがら空き。1階も7割ぐらいの入りだった。上映後、襟川クロが司会で長澤監督、堤、内山が登場したが、どーせロクでもない質問しかしないのだろうから、さっさと引き上げた。
●東京国際映画祭2日目。去年みたいに入口でカバンを開けてカメラチェックするのかと思いきや、フリーパス。なんだ。拍子抜け。そのかわり、会場でデジカメしてる客が見受けられたな。でも、係員は制止してなかったな。
恋人10/27オーチャードホール監督/蒋欽民(ジャン・チンミン)脚本/東西(トン・シー)、田瑛(ティエン・イン)、蒋欽民
東京国際映画祭コンペティション参加作品。中国映画。
なんかタルイはじまりで、だからどうした的話がだらだらつづく。たいして伏線にもなっていないのがもったいない。主人公のつんぼの青年の友だちが、若々しくなくてオヤジっぽいのが気にかかる。だんだん眠くなってくる。・・・で、ぎょっとしたのは、つんぼの青年がタレントの千秋似の娘に結婚願いの儀式を行なうちころだ。これが凄い。盲の父親が歌い、つんぼの本人が歌い、唖の少女が太鼓を叩く。それも、千秋似の娘の家の前で朗々と、切々と「想っているから嫁にこい」と懇願の歌を何日もつづけるのだ。それを村人が見ている・・・。この土着性。今村昌平が好んで描いた「楢山節考」みたいな日本の古い昔の村の土俗性っていうか、その手の映画を連想させる不気味さである。結局この願いは成就されない。どころか、千秋似の娘は別の男の子どもを孕んで・・・という話。中国のどこかの山村の、土着性どろどろの世界。あなおそろしや。全体を通して、面白さと食い足りなさが半々といった感じ。唖の娘→つんぼの青年→千秋似の村の娘→青年医師・・・という好きの流れから失恋、懐胎というドラマが起きるのだけど、これは手垢がつくほど類型的な人物関係だ。けど、人物に付帯されたハンディキャップの部分などが付加され、興味深い世界をつくろうとしていた。でも、結局それは活かされていないと思う。健常者ままであっても、別に変わりがないレベルの映画でしかない。人物の掘り下げが甘いのも欠点。唖の少女はなぜ兄を捜しにやってきたのか。そして、なぜつんぼの青年の家に寄宿することになったのか。こうしたことに合理的な説明があった方が分かりやすいのは言うまでもない。わずかずつでもいいから、人物を掘り下げる工夫があれば、映画は厚みを増すものだ。また、恋人というタイトルも変。だって、つんぼの青年は千秋似の娘にご執心で、ずっと近くにいた唖の娘には無関心だった。それが、関心をかすかに向け始めるのは、映画も終盤になってから。しかも、「きれいだ」なんて言っておきながら、千秋似の娘とキンモクセイの花摘みに行ってしまったりする。誰をもってして「恋人」と呼んでいるのか。原題の「天上的恋人」の方が、高山地帯での、少し異常な恋愛模様を示唆していると思う。だいたい、尻軽なバカ娘にご執心なバカ青年を思っている(らしい)唖の娘が哀れになってしまうぞ。もっと、このつんぼの青年と唖の娘の交流に時間を割くべきだったのではないかな。なんか、中途半端。だけど、おどろおどろしいところは見もの。ラスト。たまたま山にきた写真屋がポラロイドなどで村人を写真に収めているときに、千秋似の娘が風船に乗って飛んでいってしまう。唖然。どうなったんだ? 娘は死んでしまうの? よく分からん。でも、それで終映という剛胆さなのだ。ううむ。
終映後のティーチインでは、襟川クロと蒋欽民監督、つんぼの青年役のリィウ・イエと唖の娘役のドン・ジエが登場。この中で、ラストについての質問がでて、監督が対応。「映画はリアリズムだけではない。映画にはテーマがある。そのために、最後のシーンがある。つまり、3人が恋をして、誰かが譲らなくちゃいけない。それを表現したのだ」と応えてくれた。なるほど。千秋似の娘が引いて、譲ったということか。ふーん。なるほど。とはいうものの、ああいう譲り方は、ないんじゃないの? と思った私だった。あえていうなら、映画には異常な雰囲気が足りない。地上から切り離された別世界。そこでは地上の常識やルールも通用しない・・・てな設定にして、そこに迷い込んできてしまった少女が、村の異様さの中にからめ取られていく・・・みたいな色がもっと濃い方がいいなと思った。現状では、すべてが中途半端。ハンディキャップという設定も、活かされていない。とくに、つんぼの青年の言葉が、健常者と同じというのはリアリティがない。ティーチインで、その点についてリィウ・イエが「施設を見に行った。しかし、表面的にリアリティを追求しても、心を表現できるとは思わなかったので、あのように演技した」といっていた。だが、それは間違っていると思うぞ。それと、司会の襟川クロが「失敗談は?」なんて、相変わらずのバカ質問をしていた。
2階で見たのだけれど、3度ほど映写室の影がホールの壁に映って見苦しかった。2年前にクレームをつけたところだけれど、なーんも考えていない馬鹿スタッフのみなさまとやり合う気力もないので放っておいた。
そういえば、この映画はチケットぴあで「完売です」と昨日いわれた映画である。どうせスカスカと思っていたので、2時20分にホールの前に行った。当日券の列があったので並んで、前売りの客の入場が終わってから当日券が発売された。それで入ったワケだが、2階席でもまだ十分に余裕はあった。なにが完売だ。チケットぴあに枚数を渡さなかっただけじゃないか。めいっぱい招待券配って、少し一般売りして。残りは当日券で調整しようという小賢しさ。やだね。
荒野の絆10/31オーチャードホール監督/クリス・エア脚本/●
東京国際映画祭コンペティション参加作品。アメリカ映画。原題は「Skins」
居留地に住むインディアン兄弟の話だが、何を言いたいのか焦点ボケ。この兄弟、兄は飲んだくれのアル中。弟は保安官。だけど、インディアンとしての誇りと兄弟愛があるぞ、というようなことらしい。けど、ストレートにつたわってこない。対立項としての権力や、侵略者アメリカ人ってのが見えないからだと思う。描写されるのはだらしなく酔っぱらってるインディアンオヤジで、自助努力しているように見えない。仕事に就こうにも仕事がないという説明は冒頭にさらりとあるが、なぜなのか分からないから切実感がつたわってこないのだ。酒を飲む金があるなら、別のところに使えといいたくなるのも致し方ない。また、保安官の弟も、1人自警団ぶって闇夜に非行少年を襲ったり、はてはアル中は酒屋が悪いと放火したりする短絡さ。このあたりが、ちとだらしなく、バカじゃねーのと理解されやすい原因じゃないのかな。映画としては、キレイな姉ちゃんがでてこないのがつまらない。ライティングは割としっかりしているものの、画面がチープ。セットが使えてないのと、大道具などに金がまわらなかったからかも知れないが、映画自体が安っぽく見えてしまうのは困ったものだ。ラスト。ラシュモア山のワシントンの岩像にペンキをかけてうさを晴らすというのも、子供じみたテロ行為で感心しない。岩は精霊だといわれても、部外者には、だからどーしたとしか思えないのだ。歴史や背景を知らないからといって、必ずしもそれは罪ではないと思う。解説を聞かなければ分からない映画は、それはそれで限界があると言うことだろう。
当日券(1200円)を目当てに3時に会場に行った。列は短い。当日券の列は、ほとんどない。観客も、せいぜい200人ぐらい。なんか、拍子抜け。2階へ行くまでもないので、1階で見た。
ティーチインは、主演男優のみ。
○あなたはインディアンか
●本人は半分インディアンで半分ドイツ
○原題の「Skins」とは
●北米でインディアンを指す言葉だ
○居留地で育ったのか
●居留地出身ではないが、アル中が多い同じ様な環境の辺鄙な村で育った
○フットボールのシーンでクリーブランド・インディアンズの帽子をかぶってる人が多かったが
●居留地の人間は政治的に疎い。だから、インディアンズの帽子をかぶる人は少なくない。500年前からの歴史を背負っており、アル中になる物が多い
○ワシントン像に投げたペンキは本物か
●CGだ
○気を悪くするような質問になるかも知れない。居留地に住むインディアンと話したことがあるが、勉強が足りないのではないか。もっと勉強すべきではないか
●500年の抑圧がある。まだ工業社会で生き延びるのは難しい。政策によって子どもが親から引き離されたりした歴史がある。私も、そうやって別の家庭に預けられた。
★(とここで1人の男が立ち上がり)さっきの質問は失礼だ。500年の抑圧の歴史があると言っているのに。日本にはいろいろな情報も入っているのに・・・(と、自発的に発言。一部から拍手が起こる。それを男優に約してつたえると「サンキュー」と一言応えた)
★(とここで襟川クロ発言で)「1本の映画で色々な意見が出るのはいいこと。私も"ウインドトーカーズ"を見ていろいろ学んだ」(と、お間抜けな感想をいう。男優は「あれはハリウッドで白人の視点からのもの。私たちはインディアン自身の立場から表現すべきだと思ってつくった」と、静かなる逆襲)
○アメリカでは公開されたのか
●公開された。メキシコでは移動映画館でも公開された。評判はいい。しかし、ワシントンの顔にペンキを塗ったので、共和党関係者から非愛国者だと言われた
「失礼な質問だ」などと、進歩的知識人の受け売りみたいなことを言う人の登場には白けてしまった。インディアンの歴史まで知った上でないと理解できない映画だとしたら、そういう映画が悪いのだ。もっとも、政治的な問題、民族固有の問題に軽々しく言及した元の発言者もアホだけど。

 
 

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