青の稲妻 | 12/2 | 有楽町朝日ホール | 監督/賈樟柯(ジャ・ジャンクー) | 脚本/● |
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中国映画(中国・日本・韓国・フランスが出資しているようだ。オープニングには、オフィス・北野のタイトルが最も大きくでた。映画に描かれているのは中国だし、監督も中国人だけれど、いったい、どこの映画なのか分からないね。で、内容。ドラマらしきものはほとんど起こらず、淡々と話が進んでいく。中国の寂れた街。紡績工場は景気が悪くて、失業者はふえる一方。19歳の2人の青年も、仕事もなくふらふらしている・・・。では、この2人が主人公なんだけど、縦糸にはなっているけれどそんなに太いものではない。周囲にからむキャラクターがいろいろあって、彼らがまた時代の状況や背景などを語っていく。青年の父、もう1人の青年の母親。ヤクザ。その情婦である踊り子。どんづまりの境遇で明日のない生活をつづける彼らが、いたたまれなくなる。それでは軍隊にはいろうと決めた片方の青年は、肝炎だとわかってまたまた落ち込む。挙げ句の果ては、銀行強盗の真似事・・・。なんか、いつかどこかで見たことのある話の展開っていうか、そういうトーンが満載の映画でもある。2人の青年が主人公というのは「キッズ・リターン」のよう。青年の一人がヤクザの子分に頬を延々とビンタ(反復行為)されるのは「その男凶暴につき」のよう。その青年が年上のヤクザの女を追いかけるのは「アメリカン・グラフィティ」のよう。その他にも、キスしてタバコの煙を口移しするシーンや、エンストするバイク(ものごとが上手くいかない象徴だろう)、オペラを歌う男(監督本人が演じているらしい)、バスから逃れようとする女を何度も何度も押し返すヤクザ(反復行為)、しつこく繰り返される「パソコン宝くじ」など、どこかで一度は目にしたような映画的神話の集積のような気がする。全体のトーンでいうと、1960年代の日本映画の色が濃い。だから、いまひとつオリジナリティが感じられなかった。とはいうものの、そうした映画的神話はそれなりに面白い表現なので、いろいろと"読み"ができる映画であるといえる。きっと、この監督は映画が好きなんだよ。 基本的な疑問もある。この映画に描かれているのは、2001年の中国。資本化が進んで、高速道路も造られていることが描かれている。まさに高度成長の時代だ。なのに、どうして2人の青年はともに失業中なんだろう。彼らの親が働く紡績工場は不景気らしく、母親は馘首されてしまう。街は、失業者と貧困が渦巻いている。どうしてなのだ? 高度成長なら、仕事はあるんじゃないのか? 出稼ぎとか、いろんな手段があるのではないか? そう思うと、ふてくされてふらふらする青年2人に、いまひとつ共感できなかった(まあ、理由はあるんだろうけど)。しかも、はじめのうちは2人をチンピラかなんかかと思っていたけれど、次第に普通の青年たちで、しかも、気が小さく根もやさしいことが分かってくる。大学へ行くことが決まった彼女(なんでつきあう関係にあるのかなあ。青年は優秀だったけど、家庭の都合で進学できなかったってことかな)にキスを遠慮するのは肝炎を伝染したくない配慮だろう(このときの彼女の自転車は「キッズ・リターン」を連想させる)。ヤクザの女を追う青年も、たんなる一目惚れで、深い意味はないし。なんか、中途半端な隔靴掻痒という気分。心も体もぶつけるところを見いだせない2人。ラストは冗談半分に銀行強盗に入ってしまい、逮捕されてしまう1人の青年と、彼が歌う歌で終わる。スパッとしたこの終わり方は、いい。前半で「パルプフィクション」のエピソードが話されていたけれど、それが布石になっていたんだね。最後にやっとドラマらしいことが起こるんだけれど、もう少し、そうなる過程を描き込んだらよかったのになあ、とも思う。思う反面、淡々としたこのままでもいいのかな、とも思う。現在の中国大陸の現実をリアルに描いたという意味では(紡績工場に爆弾をしかける事件が発生したり、犯罪人が罪状を告白するところがテレビで放映されたり、銀行強盗は銃殺刑だということが披露されたり、海賊版DVDが売られていたり、カラオケBOXがあったり、個室マッサージがあったり)、いままでの中国映画とは違う描き方がされていて、興味深かった。そうそう。青年の1人が受験勉強中の彼女とカラオケBOXへいって歌う歌。「英雄は出自を問われない〜だけど彼女と一緒になれない〜」といったような歌詞が、もろ2人の関係の示唆していたので、哀しいというより笑ってしまった。ここはちと稚拙。で、その歌を、最後に手錠をはめたまま歌うのは、こっちは哀しかった。 TOKYO FILMeX。チケットぴあで買ったチケットは、整理券番号270。6時30分過ぎから10番ずつ呼ばれ、11階のロビーから階段を上がっていく。だいぶ遅い番号だけれど、638席あるのでまだまだゆとり。終映後に司会、監督、通訳の3人が壇上にあがりQ&Aがあった。 ●自分が役者として出演した理由は? ○冒頭で歌っているいかれた男は私。これから映画が始まるという導入として、でている。(司会が「監督はこれまでの作品にもでている」と補足) ●石炭の町山西省大同を映画の舞台に選んだ理由は? ○内蒙古に近く、辺境の町にきたような雰囲気をもっているから。おっしゃるとおり炭坑の町だが、いまは寂れて失業者がふえている。 ●(中国の記者)オフィス北野とでていたが、北野監督の映画について ○資金を援助してもらったことに感謝している。最初に見たのは「あの夏、いちばん静かな海」で、それ以来見ている。「Dolls」は、伝統的な文化を採り入れていて刺激的。 ●台湾の歌手(リッチー・レン)の歌がそのまま使われているが、サブカルチャーの影響は? ○これまでの3作すべてに台湾の歌などのサブカルチャーを採り入れている。生い立ちに理由がある。文化大革命が終わってサブカルチャーが入ってきた時期に青春期を過ごし、影響を受けた。だから、映画にも登場させるのだろう。銀行強盗をした少年の記事があって、なかで少年がリッチー・レンの歌を歌っていた(だったかな?)とあった。あの歌は、大都市ではヒットせず、田舎の方で受けた。「英雄は出身を問わない」という歌詞も、田舎の方で受けた理由だろう。いま、中国は発展が加速している。しかし、その反面で貧富の格差が拡大している。 ●映画の中で「一瞬の夏」「プラットフォーム」などのVCDが売られていたが、監督は中国ではどうとられているか? ○「いつもの店にいったら「プラットフォーム」がでてるよ、買わない? と店員に言われた。海賊版が普及しているが、自分は海賊版によって見ることの恩恵も蒙っている。しかし、非合法だ。その意味で居心地が悪いし、複雑な気分だ。 ・・・20分ぐらいのやりとりだったけど、とても興味深かった。舞台が炭坑の町で、失業者がふえていること、貧富の差が拡大していることなどが分かった。また、宝くじのPRで踊り子の舞台の背景に「蒙古」という文字があった理由も分かったような気がした。さらに、青年の一人が借金を返すためにDVDを売っているとき、客に「一瞬の夢とか天上の恋人とかプラットフォームはないのか? そんなんじゃ若者うけしないぞ」と言われたとき、周囲で笑いが起きた理由もわかった。Q&Aを聞いて、映画への理解が深まり、親しみが湧いたのは事実だ。もっとも、映画の感想を投票するカードは「普通」の部分を折ってボックスに入れておきましたが。 ★帰りの千代田線のホームで、立川談志とすれ違った。若い女性と寄り添うように歩いていた。あれは、娘か、それとも・・・ | ||||
ギリギリの二人/Nothing To Lose | 12/4 | 有楽町朝日ホール | 監督/ダニー・パン | 脚本/● |
タイの映画だけど、金はタイとシンガポールが出して、監督は香港だという。「レイン」を撮った監督らしい。で、ひとことで言ってしまえば、アメリカン・ニューシネマの軽薄な模倣。ラストは「テルマ&ルイーズ」っぽい。借金しまくりで自殺を思い立った青年が、これもまた同居人(レズらしい)を殺してしまった自殺志願の娘と出会って、1週間ほど麻薬、泥棒、ギャンブル、銀行強盗、殺人をしまくりで、結局2人でビルから投身自殺するという話。でもさあ、アメリカン・ニューシネマには社会的背景があっただろ、ベトナム戦争っていう。閉塞感が世界的に漂っていて、行き所がなかった青年たちが死に向かって突っ走っていったていう、納得できる理由があったんだよ。でもさ、この映画の2人はどちらも個人的理由での「失うものは何もない」的状況で、救いようがないんだよな。ところが、どーしようもない連中なんだけど、なんか憎めない描かれ方をされているのが面白い。その原因は、半ばコメディとして描かれていることによるんじゃないかな。気っ風がよくて、あっけらかんとした娘。決断力がなくてもじもじした青年。この促成の凸凹コンビが、笑わせてくれるんだな。2人が悪さをしても、人を殺しても、全然暗くならない。痛快感さえある。もちろんそれは錯覚なんだけどね。前半は、2人の背景もわからず、青年が娘の勢いに巻き込まれていくスタイル。SABUの映画みたいな疾走感がある。後半、背景が分かってくるとわずかに厭世観が漂うけれど、それでも爽快な感じが残る。しかし、やはりそれは表面的なものであって、何のメッセージももたらしてくれないのだけれど。Q&Aは少しだけ聞いた。どうも、タイであった有名な事件を下敷きにしているようだ。主人公の1人、娘の方はスタイルがよく、目が大きくて可愛い。けれど、険しい表情になると、とたんに崩れて水商売風な顔立ちになってしまう。それと、タイ語の発声のせいか、口元がかわゆく見えないときがあった。残念。最後近くにオッパイぽろりを見せてくれたのはうれしかった。ホモの国、タイらしく、ホテルの管理人が濃厚なオカマだったのが印象的。 今日は回数券で入った。前売り1回券には「整理番号」という文字が印字されているのだけど、回数券には単に数字が印字されているだけ。なのに、注意書きには「前売1回券・回数券・当日券の順で、整理番号順入場」と書いてある。回数券の整理券っていうのはどこかで配るのか? よくわからないまま行った。そして、係員に聞いたら、その単なる数字が整理番号だという。しかし、俺の番号は830番台だぞ。有楽町朝日ホールのキャパが600余りなのに、800を超える番号が整理番号だなんて、理解しろと言う方が不自然。で、言い訳が「データの入力の問題で、他の情報が優先となって、整理番号と書けなかった」だと。そんなの利用者の問題じゃないだろう。すると「そう解釈されたとしたら、お詫びします」だと。解釈の問題で、自分たちに非はないとでもいうような口振りじゃないか。まったく、よくいってくれるぜ。 ★11階のロビー横のティーチインなどをするスペースに、映画評論家の佐藤忠男がいた。組んだ膝の上に原稿用紙を置き、なにやら書いていた。 | ||||
蛇イチゴ | 12/4 | 有楽町朝日ホール | 監督/西川美和 | 脚本/西川美和 |
1時間近くのインターバルをはさんで、7時から上映。女性監督らしいくどい映画だ。最初の、シャツを着てボタンをとめネクタイを・・・っていう場面で、この映画はダメだとわかった。バックに使われているテンポのよい音楽と、まったくリズムがシンクロしていないからだ。だらだらと映像が添えられているだけ。勘所が悪いなあとしか思えない。で、脚本が語りすぎ、っていうか、長くてくどいセリフが満載で、説明しすぎ。映像のメリットをちっとも活かし切れていない。っていうか、映像を信用していないような映画だなあと思った。設定がありきたり。10年も家出していたやくざな息子が突然もどってきて、家族の絆がこわれていく様を描きたかったのだろうけれど、こわれていく様子が描き切れていない。どうしても「お葬式」「お日柄もよくご愁傷様」を連想してしまうのだけれど、ああいう映画が面白いのは、儀式そのものをコメディに仕立て、それに翻弄される家族を笑い飛ばせたからだ。ところが、この映画は家族をテーマにしていながら、翻弄される家族の様子がまともに描かれていない。儀式に完全に負けてしまっているのだ。なぜ家族がちゃんと描かれていないかというと、祖父のボケ、その死、父親のリストラ、娘の結婚、息子の犯罪といった要素がバラバラに放り出されているだけで、有機的に連携できていないからだ。しかも、よくある設定で先が読める展開になっているのに、さも「さあどうだ」的に描写されるから、うんざりするだけ。それも生半可ではない。女性らしいいやらしさがフル動員されている。ボケ老人のだらしない食事のしつこいほどの描写、棺桶からはみ出た老人の顔の2度のアップ・・・。あんなの、1回見せればいいってもんだ。これでもか、これでもかと、目に押しつけるようにさらす嫌らしさ。これはもう、映像への不信感に満ちた映画だといわざるを得ない。フラフープ、童謡「かっこう」など、なにを象徴しようとしているのかまったく分からないシーンも、変。画面が全体にのっぺりしていて、薄暗く、コントラストがないのも気に入らない。照明しろよと言いたいところだ。ミドルショットからロングショットが多いから、役者の表情はあまり読めない。斜め上からのアングルは、なんか意味があるのか? 画面の中に4人も5人も入ってくるごちやごちゃした画面構成。逆に、中途半端に切れてしまうフレーム。意味のない長まわし。ムダなセリフの羅列。なんか、全部が生理的に嫌だったな。で、最後に、香典泥棒の兄が蛇いちごをとってきた痕跡があって「お兄ちゃんは嘘をついていなかった」って分かったからって、何の解決があるんだろうか? いったい、監督は何が言いたかったのか。さっぱり分からない。そうそう。気になったのは、父親がいくら借金したかだ。家を売って生命保険も解約してあれやこれやで、返済がやっとのこらさ? っていったら、5000万とかでしょう。リストラされてそんなに時間がたっていないとしても、生活費にそんなに借りるか? リストラされても退職金があれば、しばらくやっていけるだろう。なんか、リアリティがないぞ。2時間の時間のムダだった。Q&Aでは、西川監督とプロデューサーの是枝裕和がでてきたが、西川監督が自作を数分話したところで、退散。どうせロクでもない話しかでないだろうから。そうそう、上映前に主演の宮迫博之とつみきみほ、西川美和監督が壇上で挨拶。バカな女どもがキャーなんて声を挙げていたけれど、雨上がり決死隊(って、よく知らない)の宮迫目当てできていたアホが相当いたようだ。デジカメで撮り放題にやっていたなあ。だれも注意していなかったぞ。 | ||||
幽霊人間 | 12/5 | 有楽町朝日ホール | 監督/許鞍華(アン・ホイ) | 脚本/● |
香港映画。女性監督。香港では映画人口が低下しつつあって、若い人を映画館に引き戻すためにホラーがつくられているんだそうだ。ホラーなら低予算で、割と質の高い映画が撮れるから、だそうだ。が、お話は無茶苦茶。ぜんぜん怖くないし。上映後のQ&Aで、「なぜ15年もたってから幽霊として祟るのか?」と質問した人がいたが、答は「それは脚本に原因がある」と、何ごともなくいうように、おそらくこの映画もほとんど脚本がなかったのだろう。「偶然市電にひかれて首なしになった男の幽霊がいる。事件の目撃者の少女が成長して・・・その彼氏に祟る。しかし、故意ではなかったことが最後に分かる」ぐらいのメモしかなかったんじゃないのかな。あとは、適当にその場で脚本を書き換えてつじつま合わせをして、結局、つじつまがあわないまま、ってところかな。そもそも、彼女は幽霊だったのか? 幽霊だったらラストで消えてもよさそうなものだが。というわけで、ストーリーのことは言いっこなしかな。場面を楽しみ、役者で楽しむ。それしかない? ヒロインは、可愛い。画面は、照明もちゃんと当てられていて、コントラストがしっかりしている。昨日の「蛇いちご」の、全編曇天薄曇りの汚い画面とは大違いだ。地下鉄の車内で遭遇する、昔風の服装で厚化粧の女がでてくるんだけど、これがなんか、印象に残っている。 | ||||
マラソン | 12/7 | 有楽町朝日ホール | 監督/アミール・ナデリ | 脚本/● |
いまどき珍しい白黒映画。ビデオで撮影されている。上映前に監督と司会が登場して、まず一言。どーもこの監督、気が急いているのか、話したくて話したくてしょうがないみたいで、気持ちが先走っている様子。で、「撮影には6カ月かかった。最初はスタッフが17人いたが、最後はカメラマンと私とアシスタントの3人になってしまった。人それぞれだから、意見が違えば離れていく。この映画を見るのは大変な努力を必要とする。マラソンのようだ。私も、撮影に入る前にトレーニングを開始したほどだ。映画を見て何を感ずるか、それはあなた次第だ」てなことをいって、初っぱなからこの映画はつまらなくて見るのが辛いことを説明して、なんとか最後まで見て欲しいとアピールする。なんて監督だ。しかし、監督だけじゃなくてカメラマンも来日していて、なんか力が入っているのがわかる。コンペ作品でもないのにね。もっとも、観客は200人ぐらいで、どーも寂しい限りであったけれど。1人の若い女が、24時間でいくつのクロスワードパズルを解けるか、その挑戦をする日。彼女は静かな場所では集中できない。だから、電車やバスや雑踏の中へ出かけてパズルを解く。彼女の母親も同じ習癖をもっているらしく、24時間に88(だったかな)の記録をもつ。けれど、彼女は前回77解いただけ。彼女は新記録を目指す。夕方。思うようにクリアできなくなっていったん家に戻るが、騒音を録音したテープがないと解けない。それでも思うように解けず、いったんはあきらめる。けれど、気を取り直してノイズを遮断して集中することにして、明け方までに77のパズルとあと1/2をクリア。新記録達成はならなかったけれど、充足感があった1日だった。・・・てな話。でも、ほとんどストーリーは意味ないというか、なにかの暗喩のようであって、その何かは見る人があてはめればいいようないいようなつくりになっている。早い話が、ドラマは起こらないし色っぽいシーンもない。会話も、車内でどこかの男にナンパされるところが1個所あるだけ。ミステリーも、なにもない。どちらかというと、つまらない映画だ。けれど、まあ、こういう曰くありげな映画というのも、あってもいいような気がするので、まったく否定はしない。もっとも、この映画は曰くありげで何もないに近い気がする。パズルを解くように、見た人それぞれが、自分なりの解答をみつければそれでいい、とでもいっているように。欠落されたお話=クロスワードの白い升目を埋めるのは、私たち自身なのだ。・・・と、かっこよく解釈できても、つまらないことには変わりないのだけど。 | ||||
右肩の天使 | 12/8 | 有楽町朝日ホール | 監督/ジャムシェド・ウスモノフ | 脚本/ジャムシェド・ウスモノフ |
イスラム教の国で元ソ連の一部で・・・といった感じの場所。あとでみたらタジキスタンだって。どーゆー国か、どこに位置するのか見当がつかん。まあ、そんな国の、なんとなくのどかな映画というべきか。やってることは殺伐としているのだけど、現象的にはほんと、のんびりしているようにしか思えない。そんな映画。主人公は、村の映写技師(ちょっぴり「ニューシネマ・パラダイス」を連想させる)にして、借金魔にして、暴力男。その彼が出所してきた。債権者は借金を返せという。しかも、母親は危篤状態(実は狂言)。棺桶を通すためにと金をかけて家を直したけれど、相も変わらず借金取りはやってくる。家は売れない・・・。すったもんだあって、結局、母親は本当に死んでしまい、男は田舎を捨ててロシアに舞い戻るという話。先進国の道理で判断すると理解不能というか、理屈にあわないところがたくさんある。主人公は借金しまくりのくせに、なぜ財布に金をたんまりもっていたか。母親は、どうして悪徳村長と企んで自分が死んだと思わせたか。看護婦は、なぜあんなに軽薄にも男と密な関係になってしまうか。男が泥棒に入った村長のところに、どうして母親は借金を申し出に行けるのか。あの子供はいったい誰の子供としてどこで育てられていたのか。描き足りないというか、故意に描いてないというべきか。この、映画の文法なんかとりあえずいいや、ってないい加減でテキトーな描き方が何となく新鮮。説明が足りなすぎて、ほんとは下手なんだけど。で、結局、だからどうしたという教訓もたいしてないところも、なんとなくいい。貧乏だからとか、産業が発展していないからとか、妙な理屈をつけているステレオタイプのプロパガンダ映画よりよっぽどいい。興味深かったのが、彼の地の価格交渉。握手したまま価格を言い合って、決めていく。風俗習慣も、それぞれだね。秩父宮へラグビーを見に行く予定があったので、Q&Aは聞かずに帰った。 ★本日も佐藤忠男さんを目撃したぞ。 | ||||
夜を賭けて | 12/11 | 新宿武蔵野館3 | 監督/金守珍 | 脚本/丸山昇一 |
久しぶりにこう、映画らしい日本映画を見たという印象。基本をちゃんと守っていながら(ということは、スタイルとしては旧いということでもあるが)、活力がある。最近見た幾本かの日本映画のように、光がなくて泥水のような画面ではない。ちゃんと照明がなされていて、光が活かされている。それだけでも被写体に立体感がでるが、この映画の凄いところはオープンセットの見事さだな。ちかごろ、こんな空間を感じさせる映画を見たことがない。金がかかっただろうなと思わせるけれど、ここまでやらないと、映画じゃないんだよなと感じさせてくれた。1958年の大阪。軍跡地の金属を盗む朝鮮人部落の人間模様。集団で飲む、食う、ののしり合う、喧嘩するの連続。その演技と演出が凄い。本気で蹴飛ばしてるんじゃないかと見まごうほどのシーンもしばしば。もっとも、最初の方は演出もぎこちなくて、タイミングが不自然というか、ワンテンポ遅れみたいなところもあるにはあるが、次第にすんなり絡んでくるようになっていく。しかも、周辺にいる端役(脇役以下のの役者)までもがちゃんと演技していて、画面全体が動いてるんだよ。なかなか緻密な演出。前半の、金属を荒稼ぎ、っていう部分は勢いも一直線で、見ていて楽しいんだけど、後半になって、ヤクザな兄ちゃんが戻ってきたりした辺りから、ちと散漫でトーンダウン。群衆の目指すところがなくなってしまって、一体これからどこへいくのか、期待を共有することができなくなってしまった。ヤクザのエピソードと、ヒロインの力だけでは足りなかったと思う。だって、主人公を中心とする朝鮮人若者たちのエネルギーの方が面白かったんだもん。仁科貴容とかさ。みんな脇役が活き活きと輝いていたんだよ。前半でていた青年たちが、後半、影が薄いのはとっても残念だ。政治的、歴史的な描写もほどほどで、そこに拘泥していないのもいい。 | ||||
ジョンQ 最後の決断 | 12/11 | 新宿武蔵野館2 | 監督/ニック・カサヴェテス | 脚本/ジェームズ・キアーンズ |
医学の発展とともに移植手術も色々と試みられている。けれど、人間の体は異物を受け入れない。たとえマッチしたドナーの臓器だといっても、免疫反応は起こる。免疫抑制剤を服用すれば、その悪影響を受けたり、風邪やその他の病気にかかりやすくなったりする。だから、決して健康人とは同じ生活ができるわけではない。だから、個人的には心臓移植を含む臓器移植について、積極的に感情移入することはできない。医療制度という側面から見れば、日本のような国民皆保険の国はそう多くない。アメリカなどは富める者だけが高額な保健に加入し、低賃金の人々は保健すら入っていない。皆保険にするには、国民が平等に近い経済状態にならなくてはならないわけで、これは社会主義的な制度に近くなる。アメリカンドリームとは反対の方向であり、日本のように相続税や贈与税は高いままに維持しなくてはならなくなる。いま、日本は、これを悪平等だといって、アメリカのような制度になろうという動きすらある。なぜなら、医療保険制度は破綻寸前だからだ。高い検査はしない、高い薬も処方しない、病院に行かせないような仕組みにする、となりつつある。もちろん、これでは医療機関や製薬会社は儲からないから反対しているけれど。こうした制度のことを考えると、じゃあどうすればよいのかが分からなくなってくる。他人の臓器を移植してまで生きること。それが果たしていいことなのか。というと、「おまえの子供が死ぬといわれたら、誰だって移植させたいと思うでしょう」と反論されそうだけれど、だからといって闇雲に臓器移植はできないわけで。だからといって臓器の安い東南アジアへ行って貧しい人の臓器を買ってでも命を長らえたいのか、とも考えてしまう。医療の発展は、それはそれで長生きという利点をもたらしたけれど、逆にいえば、人間が人工的に長く生きるようになったことで、社会保険を破綻させてしまったということだ。たまたま長生きした人がラッキーではなく、誰でもが長生きする社会。死なない社会。それが、果たして幸福な社会なのだろうか。そんなふうに思ったりもする。映画の中にもあったけれど「人間はいつか死ぬ。神の思し召しにまかせては」というのも、ひとつの選択肢でははないのだろうか。富める者が、貧しい者に与えることができる社会が、制度としてできるのならば別だけれど。自分だけはいい暮らしをしたい、と思っている人が多い世の中では、そんなことはムリなこった。それに、ここ10数年の社会主義国家の崩壊をみていれば、分かること。富める者と貧しい者の2極分離を、私たちは選択してしまったのだから。それにしても、アメリカの下層社会、といっても貧困とはいえないような家庭で、年に2万ドル足らずしか稼いでいないというのは・・・。250万程度だぜ。その日暮らしもいいとこだ。こんな映画は、アメリカの為政者は喜んじゃいないに違いない。けれども、ちゃんとつくれてしまうというか、つくってしまう心意気に、ちょいと拍手。映画としては、まあ、破綻はないけれど。どーも、せっぱ詰まった緊迫感ってのが足りないような気がした。周囲では泣いているオバサンがたくさんいたけれど、私はとくに泣けなかった。主人公は病院ジャックをしたにしては、人質をとったことにだけ有罪という寛大な処置。しかし、それさえも不服だというような表情をするってのは、訴訟社会アメリカのふつうの反応なのかな。それと、結局のところ、手術費や、退院後の費用をだれがまかなったのかということにふれないのも、ちと不満。映画だからしょうがないとは思うけれど、これってかなり重要なポイントではないのか。救いなのは、冷たい感じの、金のことばかりいう医師たちばかりでなく、命を救おうと一所懸命になる医師たちもいるところ。もっとも、乳首まで透けて見える女医がいたのでば、医者も手元が狂うし、患者もおちおち気弱になってらんないだろうなあ。 | ||||
ブラッド・ワーク | 12/19 | 渋谷東急2 | 監督/クリント・イーストウッド | 脚本/● |
テレビの2時間ドラマみたいなストーリー展開で、絵づくりも安っぽい。それでも飽きないのは、後半からの展開(殺人犯の意外な目的)の、ちょっとした驚き。おおそうか。タイトルは、これを意味していたのかと納得。そして、思わぬところにいた犯人(妙な役回りだなとは思ってたんだが・・・)ということに尽きる。映画の基本的な流れは「トゥルー・クライム」にも似ていて、ロートルの元FBI分析官が私立探偵のようにあっちこっちをうろうろしながら、真実に到達するというもの。自分が監督しているから、出演シーンが多いプロットにしたのかな。この手のプロットは、あちらの最近の探偵小説に多くて、それをそのまま映画にすると、こんな具合になるのだろうなあ、と思ってみていた。テーマのひとつに心臓移植があるけれど、これは「ジョンQ」でも取り上げられていた。ブームなのかな。わからなかったのは、第1の殺人事件の発見者にしてプログラマーがなぜ殺されたかということ。彼は、真犯人の共犯者だったのか? それと、真犯人に気づくのが小切手の名前で、それと数字の1がない暗号からくるno oneは、どう関係していたのか、よく理解できなかった。といって、もう一度見たくなるような映画でもなかったし。ヒロインも中年メキシカンで、ううむな女性だったし。それにしても、じじいのイーストウッドが冒頭でよく走っていたこと。吹き替えだろうけど。 | ||||
火山高 | 12/19 | 渋谷東急2 | 監督/キム・テギュン | 脚本/ソ・ドンホン、チョ・アンチョル、キム・テギュン、パク・ホンス、ホ・キュン |
予告編が面白かったので期待したのだけれど、満足度は30%ぐらい。日本にもこんなコミックはあったなあ。無茶苦茶に荒れている学校にスーパー教師が現れて対決する、なんてお話。しかも、ドラマっぽいつくりになっていなくて、登場人物紹介みたいなカタチになっている。これがつまらない。「スボーン」という、アメコミを題材にした映画で、あまりのつまらなさに寝てしまったけれど、なんとなく似たようなテイストで、この映画もあと一息で熟睡しそうだった。RPGみたいに、ざらついてコントラストのある、高速度撮影したような画面。香港のワイヤー技術。そして、CG・・・。こういったところが好みの人にはいいかもしれないが、私は映画には人間のドラマがなくちゃつまらないと思っている方だから、ダメだ。登場人物の誰にも感情移入できなかったし、テーマ(そんなものないって?)について考えることもできなかったし、とくに笑いどころもなかった。でも、主人公の金髪少年は、キャラクターがいいね。シリアス顔から一気にボケ面になるところなんか、コミックらしい。剣道部のヒロインは可愛いけど、シャワー室でちょっとタンクトップ姿があっただけで、制服姿ばかりだからつまらない。それと、一匹狼君は途中から監獄に入ったきりで出てこなくなっちゃったし、校長も消えちゃう。いつのまにか教頭の陰謀みたいになっちゃうのは、なぜ? 助っ人教師5人組は、もろ「マトリックス」ってのもなあ。基本的な骨格が弱いと、なにやってもダメだと思う。そうそう。韓国映画なのにどうして日本語が焼き付けてあったり、最後のテーマソングが日本語だったりするのだ? これが分からなかったなあ。 | ||||
マイノリティ・リポート | 12/27 | 新宿武蔵野館1 | 監督/スティーブン・スピルバーグ | 脚本/スコット・フランク、ジョン・コーエン |
見ている間は細かな部分の整合性について首をひねりながらだったけれど、終わってみれば破綻のない展開。といっても、理屈は合っている、ってなレベルで、面白いかどうかとは違う。正直にいうと、見る前は「つまらないだろうな」と思っていたのだけれど、見終わってもやっぱり「つまらなかった」映画。まず「スピルバーグも厭世的になったもんだ。夢のない映画だぜ」というのが最初の感想。「A.I.」からかな、悲観的な印象が強くなったのは。そういう年頃なのか。夢に満ちていた頃の映画の方が、よっぽど楽しいよ。次。「ブレードランナー」に雰囲気が似ているなあ、というもの。これは、クレジットで原作がフィリップ・K・ディックとなっていたから、なるほどなあと思った。で、映像は「フィフス・エレメント」に似ているんだけど・・・。半裸の女と逃げまどうとことか、目医者とか、未来カーとか、そっくりじゃん。なんか、域をでていないよ。どうしちゃったんだ? スピルバーグ。それと。3人の予知能力者が犯罪を・・・ってところから、リアリティない。SFだからリアリティがなくてもいい、ってことじゃなくて。奇想天外な話でも、それを納得させる説得力がなくちゃいけないぜ、ってこと。たかが、たまたま産まれた3人の予言者に頼ったシステム、ってアリか? 彼らにも自由はあるだろう。その自由を奪って犯罪の予知ってアリか? 彼らだって歳をとるだろう。そしたら、システムは終わりか? とかさ。誰だって考えるような疑問、あるだろ。そういうのをクリアしなくちゃつまらんよ。緻密なプロットがあっても、リアリティがなくちゃ、ダメ。なんか、もう、CGからしてチャチで、中途半端。自動車工場のアクションではカメラはブレブレだし。司法省の若いのが撃たれるシーンでは、弾が当たった右胸のワイシャツの下に四角い着弾部分が見え見えだし。いろいろ完成度が低くて、とてもスピルバーグの映画とは思えない。完全に、ハズレの映画だった。 | ||||
ハリー・ポッターと秘密の部屋 | 12/27 | 上野東急 | 監督/クリス・コロンバス | 脚本/スティーブ・クローブス |
第2作目。筋書きは1作目と同じで、ハリーの家庭→商店街→学校→学内の対立→怪事件→穴の中へ→対決に勝つ→不行跡はあったが誉められる、というもの。構成がここまで同じだと、原作者の頭の構造が知れてくる。まあそれでも最初の1時間ぐらいは楽しめたけれど、それ以後は退屈になってくる。なんでかっていうと、秘密の部屋を開けたらしき日記の作者と、かつての創立者の1人との関係性がよく分からなくなってくるからだ。でもって、会話の中に固有名詞の名前が登場するようになると、こちらは記憶力が衰えているから、「そいつは誰だっけ?」状態になって、もう、わけ分からなくなってくるのだ。しかも、最後の方になるとセリフというより会話形式で犯人や動機を説明しているみたいな状態になるので、うんざり。おいおい。もっとスムーズな会話にしてくれよ、といいたい。空飛ぶ自動車の存在もなんか曖昧だし、空中を飛び回るボールゲームもとってつけたような登場の仕方で、あまり意味なし。いまひとつしっくりとしない。っていうか、要素の整理ができない状態で、ぐちゃぐちゃって感じ。「白髪男の下男妖精がいた。彼は、主人がハリーを陥れようとしているのに気づいて警告にくる。しかし、誰が何をには口をつぐんでいる。危険な学校からハリーを追い出そうと、下男妖精はゲームのボールにイタズラしたりする。白髪男は、かつて秘密の部屋を開けた青年の遺品の日記を、少女の荷物に紛れ込ませる。少女は、日記に誘われて秘密の部屋を開けてしまう・・・」てな流れはだいたいつかめても、白髪男の目的が分からない。学校をつぶしてどうしようというのだ? 秘密の部屋の青年と、創立者の魔法使いとはどういう関係なのだ? 本人が乗り移っているのか? とか、疑問だらけ。すっ、と入ってこないのだ。白髪男の息子(?)との対立が、今回はあまり取り上げられなかったのもつまらない。ひょうきんな先生も、裏があるのかと思ったらなんでもないし。同級生で、前作では一緒に冒険した太り気味の少年の活躍もないし。全体的には話が小さくなった感じすらする。とくに、脇役や小物の登場が少なくなって、主要登場人物だけにターゲットが絞られ過ぎ。これじゃつまらないよ。興味深かったのは、純血魔法使いと、混血魔法使いとの軋轢という背景。これは、白人と、白人と黒人の混血種との階級差別のようなものを前提にしているのだろうか。どうせなら、もう少しそのあたりを描いてもらいたいものだと思った。 | ||||
アイリス | 12/31 | シネスイッチ銀座1 | 監督/リチャード・エア | 脚本/リチャード・エア |
英国版「恍惚の人」。痴呆症(アルツハイマーかも知れないが)になった妻を何年も介護するのは、自分にはできそうもない。きっとすぐ音を上げてしまうだろう。映画に描かれていない面倒の方が現実としては大きいはず。それを巧みにかわすようにして、きれい事で仕上げている。これで泣いてしまったり同情したりする人もいるかも知れないが、現実はそんなに甘いものじゃない。汚物まみれだし(老妻のウンコを毎日ぬぐってやるということだ)、徘徊するし、うるさいし、手に負えないしで、自分の時間なんてとれっこない。介護する方がストレスで参ってしまう。そんなことは、自分にはできそうもない。映画だから、ふっと数10年前の輝かしい想い出もインサートできるし、豊満な肉体も取り戻せる。でも、現実には老醜の肉体があるばかり。現実には、過去の甘美な想い出なんか浮かびっこないはず。きれいごとだな。・・・って、サイトを見たら現実の夫婦を題材にしているらしいが、まあ、奇特な旦那だったという他はない。それと、結婚前に他の男とやり放題の女ってのも、どーもね。作家だから取材だって? そんな女は願い下げでござんす。結婚後、奥さんは旦那一筋だったのかも知れないが、だからといって男として愛を尽くせるかといったら、私は願い下げでござんす。きれいごと(過去の想い出とか、現実のなかの汚くない部分)だらけで、ことの本質を見せないのは映画の手段かも知れない。グロを見せるわけには行かないのかも知れない。けど、こんな中途半端で感動させようという、こすからい態度が気に入らない。大変な問題だからこそ、現実に近づくべきだと思うのだよね。「恍惚の人」の方が、まだマシかも知れない。ジュディ・デンチは、あのお歳で水中撮影ご苦労さん。ケイト・ウィンスレットの水中のおっぱいはよかったけれど、体型はかなり下半身ぶとりで、どーも・・・。旦那役は若いときと老人の顔が似ていたけれど、同じ人? そうじゃないとは思うけどねえ。それにしても、いまどき90分の映画っていうのは、めずらしく短い。 |