2003年1月

アイ・アム・サム1/7新文芸座監督/ジェシー・ネルソン脚本/ジェシー・ネルソン
泣いちゃったよ。とくに、オープニングから娘が小学校に入るまでのスケッチ部分がいい。子供をもった人なら、その成長過程のいろいろなことが思い出されてくるはず。靴屋に行ってお金が足らず、知恵遅れの仲間がめいめい小銭を出してくれて、風船をもらって「アビーロード」みたいに歩くところ。感動しちゃったよ。ここまでで客の気持ちを「知恵遅れの父親と普通の子供」という設定に共感させて、映画の世界に引きずり込んでしまう。あとはもう、観客はされるがまま。泣かせてください、思いっきり、ってな感じ。娘役の少女が、いい。ちょっと大人びた顔つきも混じっているけれど、意志がはっきりしている表情。そして、父親に抱きつく様子も、泣かせる。周辺に配する人々も、普通の人々以上の才能を持ちながら、実は・・・てな設定にしているのが小憎らしい。知恵遅れの母親をもつ精神科医。父親の暴力(?)で自閉症になったピアニストの隣人。ワーカホリックで子供を顧みない弁護士。ほら、みんな完全じゃないんだよ。だれだってハンディキャップはあるんだ。だから、知恵遅れの父親だとしても、親子はうまくやっていけるさ、というメッセージがはっきりと見えてくる。っていうか、見え過ぎなんだけど。弁護士役のミシェル・ファイファーには、私は個人的に愛着がないのでどーでもいい。彼女は最後にサムに「あなたに会って私も変わった」とセリフで言うのだけれど、この「変わった」部分がいまひとつ表現されていなかったな。彼女と息子とサムの関係。彼女がハッと何かに気づいて自分の生き方を変えるようなシーンが欲しかった。それと、娘をとられたサムが家に閉じこもってしまって、そこに弁護士の彼女がやってきて、ドアを蹴飛ばして中に入って・・・。で、あのあと2人はセックスしたことを匂わせている。ま、あり得ない行動だけれど、そう思わせることで共感は得やすくなっていることも確かかも。ビートルズの音楽や、彼らの生き方が語られるのも効果的。で、現実にもどって。果たして知恵遅れの父親とフツーの少女が共同生活していくことって、安心できる? と問われると、難しいだろうなあ。だれか別に保護者の立場になる人が必要だよな、きっと。でも、そういう現実論がむくむくと頭をもたげてこないぐらい、主人公たちに共感できてしまう。これは、まいったの1本でした。
月のひつじ1/7新文芸座監督/ロブ・シッチ脚本/サント・シラウロ、トム・グレイスナー、ジェーン・ケネディ、ロブ・シッチ
どーもこれは、オーストラリア映画のようだ。佳作。題名からは想像もつかないアポロ11号月面着陸で活躍した大型パラボラアンテナ(原題はTHE DISH)と、そのスタッフのお話ではないか。あの衛星中継がオーストラリア経由だったことを初めて知ったぞ。しかも、その裏話が映画にもなっちゃった。見終わって振り返ってみれば、とくにドラマチックなところはない。せいぜい停電して衛星が追えなくなってしまったこと(しかも、その解決法たるやシンプル極まりない)と、アンテナの安全基準値を超える強風(こちらも、アクションシーンはまるでなし)だけ。あとは、素朴すぎるくらい素朴なオーストラリアの田舎の人々の話。なんだけど、その登場人物がもう、みーんな魅力的に描かれているんだよなあ。妻を亡くしたばかりの所長。おっちょこちょいの所員。内気な所員。ちょっと間抜けな警備員。人情味のあるNASA派遣員。・・・しかし、この5人だけしかスタッフがいなかった、っていうのもオドロキ。当時の古典的コンピュータやアナログな機材で、よく月からの電波を自動追尾したりできたもんだ。それから、内気な所員が恋する彼女。お調子者の町長、その妻、科学少年の息子、反体制的な娘、その娘に一途な若き軍人。ノー天気なアメリカ大使に、ずるそうな豪首相・・・。こういうクセのある人物を配することで、お話にすごく厚みが加わっている。もちろん、人物同士の対立や和解、共感、反省なんていうのがさりげなく描かれているのはもちろんだ。ほのぼのと、そして、ちょっと感動できるお話。実話をもとにしているとは書いてあったけれど、ま、所員の数とか停電とか強風なんてことぐらいじゃないのかな。実際と合致しているのは。しかし「月のひつじ」っていうタイトルはどーにかならなかったのか。含蓄のない題名だなあ。
途中から、通路をはさんで3メートルぐらい離れた席からしゃべり声。女2人のよう。その周囲には他の客がいるんだぜ。なのに、その人たちが注意しない。なんとか言ってくれよ、うるさいやつには。
ゴーストシップ1/14上野東急監督/スティーブ・ベック脚本/マーク・ハンロン、ジョン・ポーグ
冒頭のWBマークが古色蒼然としていて、タイトル文字もクラシカルな雰囲気の、典型的なB級プログラムピクチャー。でも、日本で同内容の映画をつくったら、大作になるんだろうな。ハナから深みのある表現はそっちのけ。ホラーらしい見せ場に精魂を傾けてる。どぎつくはないけど、そこそこ怖い。生々しい死体もあったりしてね。この手の映画の常套句のように、仲間が1人1人と消えていく。少女の幽霊がジュリアナ・マグリースを過去に連れて行って、なぜこの船がゴーストシップになったかって謎が解明されるところは面白かった。だがしかし。諸悪の根元がまたしてもアレだった。アレだよ、アレ。悪魔。サタンの手先みたいなやつ。キリスト教的西洋映画の落とし前の付け方には、どーも納得できないものがあるなあ。それに。霊たちは成仏できなくて困っている、っていうことだったのに。美人歌手の幽霊は黒人船員を色仕掛けで殺してしまう。他の死んだ船員たちは、いったい誰に殺されたんだ。サタンの手下か? 2週間前ぐらいに死んだらしい船員の死体は、誰が殺したんだ? 少女幽霊はなぜジュリアナ・マグリースに過去を見せることができたんだ? 手のひらの文字たあなんだ? 曳航船が爆発したのに、潜水具だの溶接機だの、どうして残ってるんだ? そもそも40年前にに死んだ人々の死体=骨ぐらい残ってるだろ? とか、もろもろ分からないことや矛盾だらけ。ラストの、あいつが黄金をもっていくシーンは、あれは、船から降りるんじゃなくて、これから乗るんだよなあ、きっと。新しい霊を集めてサタンに捧げるために、多分。そう考えなくちゃ、つじつまが合わないもん。そう思い至るまでに、10分ぐらいかかってしまった。アレは、別に黄金が欲しかったわけじゃないんだよな。たぶん。うーむ。すっきり分からない終わり方だ。
ウォーク・トゥ・リメンバー1/15新宿武蔵野館1監督/アダム・シャンクマン脚本/●
いまどき珍しい青春純愛物語。文部科学省、警視庁、キリスト協会、子供を非行から守る会、風紀委員会指定みたいな内容。あのアメリカで、こんな映画をつくっていて、しかも、見に来る客がいるんだね。公開先は、ど田舎ばっかりじゃないのかな。登場するのは、本当は頭がよくて素直なんだけど、両親の離婚で反抗的になってる少年。そして、不幸な運命にある、イモ娘。笑っちゃうぐらい定番。少女役のマンディ・ムーアは十人並み+α。素朴な可愛さってのかな。声がいいのか、本人が歌っているらしい。少年役のシェーン・ウェストはティム・ロビンスを逞しくした感じのアンちゃん。病気で死ぬことが予告編で分かってしまっていたので、映画の面白さ、意外性は半減以下。むしろ、どこで病気が告白されるのかが気にかかってしまっていた。告白は、後半をだいぶ過ぎてからで、以後、映画は2人の純愛スケッチを映し出していく。あまりにジュブナイルしているので笑いながら見ていたが、とうとう結婚式まで挙げちゃうというところで、不覚ながら目頭が熱くなってしまった。
SWEET SIXTEEN1/16新宿武蔵野館4監督/ケン・ローチ脚本/ポール・ラヴァティ
発音がとても英語とは思えない。まるで、ドイツ語みたいに聞こえる。これって、イギリス低所得者層の言葉なのかな。それはさておき。ケン・ローチって去年の「ブレッド&ローズ」を見ただけなんだけど、がちがちの社会派で、映画もプロパガンダ的という印象があった。で、現実を反映した社会派映画という観点からみると、この映画は面白くも何ともない。若者がぐれるのは社会のせい? そんなことはないだろ。それは個人の資質にもよる。どんどん転落していく様子を見て、「ああ、社会が悪い」なんて、誰も思わないだろ。また、斜に構える若者に、共感も感じない。ばっかじゃなかろうか、としか思えない。ここで問題は、イギリスのドラッグ社会の描写だ。これほどまでにドラッグ汚染しているの? 普通の人が気軽に麻薬を打つ環境にあるの? まるで無法国家じゃん。さてと。これを社会的メッセージの薄い人間ドラマという観点から見てみる。すると、おお、なかなか上手く描けているじゃないか、ということになる。ドラッグ社会は誇張したもので、主人公にモデルもなく、愛情に薄い家庭環境に生まれた少年の抵抗、ということをドラマチックに描いたものだととらえればいい。つまり、ほとんど虚構と考えれば、映画はなかなか面白い。ところが、映画は一見して社会派になっているからやっかいなのだ。あたかも現実にこういう環境があって、子供たちが悪の道に走っているという印象を受けてしまう。そりゃあ多少はあるだろう。けど、こんな無法環境じゃないと思うぞ。それにしても、主人公の少年にはとんでもない家庭環境を設定したものだ。これなら悪の道に走っても当然という感じ。でも、そうならない子供だっているんだから。この主人公を当然の帰結としてとらえるのは問題だと思う。というわけで、英国のドラッグ社会を背景にしているものの、この映画のテーマは「両親の愛情を存分に受けて育たなかった子供の不幸」ととりたい。そして、満足な教育がないと「悪の道に陥りやすい」とも。まあ、教育を受けたからといって、悪いことをしないなんていえないんだけどね。最終的には社会や政治のせいにしてしまうというのは、安易だと私は思っているからね。それにしても、昨日見た「ウォーク・トゥ・リメンバー」の楽天性と比べて悲観的な映画。文芸坐あたりで、この2本立てをやったら面白いだろうと思う。
バティニョールおじさん1/16テアトル タイムズスクエア監督/ジェラール・ジュニョ脚本/ジェラール・ジュニョ
美男美女がでないってのが、興味深い。1人ぐらい、美しい女性がでてもいいのに・・・。なんて注文は、最後まで見ると不要になる。主人公の肉屋のデブオヤジが、とっても格好良く見えてくるからだ。これは、政治に無関心で自分のことしか考えない中産階級の商店主が、次第に社会的正義に目覚め、命をかける物語だ。いやあ。デブでも格好いい。屋根の上に子供がいる写真のポスターを見ただけなので、ほのぼのした映画かと思っていた。ところが、のっけから1942年とでる。おお。これは過去の話で、そのうち現代になるのかなと思っていたら、話はどんどん進んでいく。おお。これは、ナチ占領下のパリの物語か。いや、それにしても、ナチに媚びをうってユダヤ人を排撃している我が身大事のフランス人が、どうして「おじさん」なんて親しみをこめて呼ばれ、タイトルになっているか不思議でしょうがない。どういう展開になるんだろうと興味津々で見ていた。我知らず密告幇助をしてしまった自分。そこに、逃げ出してきた少年が舞い戻ってきて、やっかいもの扱いするけれど、次第に迷惑から同情へ、同情から共感へ。そして、最後には使命感に燃えていく過程が鮮やかに表現されていた。見事。とくに、国境近くの警察署でフランス人所長に向かい、ユダヤ人の立場で発言するシーンは圧倒的。脇を固める役者もすばらしい。人を見下す女房。娘の婚約者で、ドイツ協力者になる劇作家は、コメディアンの前田隣そっくりで憎まれ役がピッタリ。その間で揺れる娘もいい。少年の従姉妹、ドイツ人大佐、その秘書官のばあさん、国境の村のおかみさん、その息子、神父・・・。みーんな、印象深いキャラクターに仕上がっている。最後、オジサンはフランスに残るがユダヤ人と間違えられて射殺されて・・・。なんて結末を予想したのだけれど、見事に外れてしまった。
GO1/21飯田橋ギンレイホール監督/行定勲脚本/宮藤官九郎
この映画、1カ月ぐらい前にテレビ放映したので見ているのだ。だから見なくてもよかったんだけど、せっかく併映されているから見た。だって、ギンレイの入場料は1500円だからね。新文芸坐のように2本立て1300円なら、1本だけみてもいいか、ってな気分になるけど。1500円じゃなあ。ついでにいうとギンレイには初めて入った。こぢんまりしているけれど、映写機の音が気になる。場内には程良い傾斜があるけれど、スクリーンの位置が下すぎるので前の客の頭が影になる。それと、スクリーンに空気の影のようなもやもやが蠢いているのがとても気になる。さらに。入場すると暖簾によって右側通路に誘導される仕組みになっているのだけれど、そのおかげで通路の右側に座っていると後から入場した客が視界をさえぎるのでとても不愉快。本日など、通路途中で止まったまま5分ぐらい突っ立ってるオヤジまたはオババがいたので、もう怒りに震えてしまった。
で。なかなかよくできていることは分かっていたから、安心して見ていられる。この次はこうなって、ああなって・・・と、見ていた。歯切れよいセリフ、意外性に満ちたセリフ、思わぬ展開などあって、期待を裏切るところがいいね。これ、もう1年たつはずだけど、大使館逃げ込み事件や拉致問題やら、帰国者問題などもろもろ出来事があったから、なおさら生々しい。っていうか、原作と映画が時代を先んじていたことが証明されたような印象。しょうがないね、北朝鮮はどうやっても分が悪いよ。原作は出たときに読んだ。こちらも疾走する小説だったが、映画の方もしっかりした骨格とディテールによって、骨太の映画になっている。主張がある。メッセージが伝わってくる。主人公が落語好きっていうのも、ユニークな視点。円生の「紺屋高尾」や「黄金餅」が聞けるし「疝気の虫」なんて演題も登場する。昭和のいるこいるのギャグもでる。相当寄席にコアな感じだなあ。でも、あの高座に上がっていた桂きん朝ってのは誰だ? それにしても、ぴりっとして上出来の映画だ。
ピンポン1/21飯田橋ギンレイホール監督/曽利文彦脚本/宮藤官九郎
ちゃんとした映画を見た後でこういうリズムもへったくれもない映画を見ると、ほんと、気分が滅入るし腹も立つ。脚本が悪い。人物の設定がちゃんと書き込まれていないから、それぞれが何学校の誰かが分かりづらい。3人が幼友達で上達具合が違うという確執がある、ってことも中盤になってやっと分かる程。だから、キャラが全然立ってこない。幼なじみの同級生3人のイメージが脹らまないのだ。対して、中国人のいる学校と、ハゲの海王高校のアウトラインが不明瞭。いや、主人公2人が通っている学校すらもやっとしている。だから、脇役もないがしろ。竹中直人(がんばりすぎて空振りの演技)と夏木マリ(外観の思わせぶりだけで中身なし)の登場シーンが多いってぐらいで、それにしても掘り下げが甘い。原作がマンガだから周知のこととして省いているのだろうか。そう考えているのなら、間違いだ。お話もいい加減。どういう大会のどういう対戦でどう勝ち上がっていくか、どういうスコアかもいまいち分かりづらい。かっちり押さえるところを押さえていないから、見ていて生理的に辛くなる。じゃあアクションが派手かというとそんなこともない。特殊撮影に凝っているわけでもくて、単にピンポン玉の軌道をラケットに合わせている程度。どうせなら、サッポロビールのCMみたいなノリで見せればよかったのにと思う。で、意外なことに人間ドラマとしての要素がいちばん多い。幼児期の上手い下手が長ずるに連れ逆転していく悲劇。勝つことだけに青春を捧げる残酷さなどが底流にある。だけど、幼児期の想い出がするっと入ってくるような構成の本になっていないから、いまひとつ共感できないままずるずると後半まできてしまう。しかも、ユーモアもなんか中途半端。みーんな中途半端なんだよ、この映画。話が整理されないままテンポ悪く進んでいくんだよ。意味のない省略は、スピード感やテンポのよさとは違うんだぞ。作り手は説明しているつもりでも、つたわってこなけりゃ意味がないんだぞ。悪いことに、セリフが聞き取りにくいんだよ、これがまた。もう脚本と演出の悪さとしか言いようがない。映画の生理が分かってない。・・・と見ると、脚本は「GO」と同じ人なんだよな。なんで? うーむ。なんでこんなクソみたいな映画が去年大ヒットしたんだろう。わけ分からん。窪塚洋介も「GO」のときのよう印象深くないし、格好よくもない。あえていえば、主人公はハンサムだな。それと、ヒロインがでてこないっていうのも、マイナスだ。
アウトライブ - 飛天舞 -1/24渋谷東急3監督/キム・ヨンジュン脚本/キム・ヨンジュン
中国映画かと思っていたら、韓国映画なのね。どーもコミックが原作のような感じ(後で公式サイトをみたら、そうだった)。で、最初の部分の乱闘シーンで盛り上がったと思ったら、そのあと一気にトーンダウン。しばらくは事実関係の説明というか、経過説明。これが、とんでもなくつまらない。人間を描くのではなく、関係性を描こうとしすぎているために、かえって分かりづらい。図やスーパーなどでチャート的に説明してもよかったんじゃないの? なんか、大河ドラマのダイジェスト版を見ているようで分かりにくかった。人物はそれ以後も死んだり加わったりして行くけれど、それがまた分かりづらい。権力者らしき人物(あとでヒロインと結婚する男ね)が、貧乏な旅人である主人公と2人で酒場に入ったり、しばらく同道の旅をしたりする。なんか、首をひねってしまう。偉い人が伴もつけず、そこらの素浪人とふらふらするか? 中国ではこういうの普通だったの? 主人公が悲運の下に生まれてきたことや、高麗の「飛天神記」を守るよう運命づけられていることも何となくわかる。けど、そういうことが映画の中で有機的に活かされてなくて、なんでこいつは「飛天神記」を守らなくちゃならないんだ? 何で戦いつづけるんだ? とか、突っ込めるところがたくさんある。それも、いつかどっかで見たり聞いたりしたことのある設定でね。というわけで、いろんなドラマの集大成のようなというか、ゴッタ煮みたいなところがあって、でも、すべてが薄っぺらい。もうちょっとつくり込みが丁寧なら重厚な味も出たろうに。たとえば、剣や鎧などの武具がちゃちいのも欠点。もうちょいと本物らしいのつくってくれよ。さらに、妖剣の効果が、相手のカラダを爆発させるのみ、っていうのがチャチい。砂袋でも爆発させているのか、煙がでるだけなんだもん。ラスト近くの攻防では手足がちぎれたリノシーンも出てきたけれど、砂袋の手足を引きちぎってるレベル。ううむ。もっとも、安易にCGに頼らずアナログでやっているのには好感を持った。持ったんだけど、もうちょっと上手くやってくれよ、だ。香港のワイヤー効果も、いまひとつ。やりようによっては大スペクタクルにもなったろうが、いろんな要素によってテレビ的なドラマになってしまったね。
ギャング・オブ・ニューヨーク1/31上野東急2監督/マーティン・スコセッシ脚本/ジェイ・コックス、スティーブン・ザイリアン、ケネス・ロナガン
2時間48分の長丁場。小水が心配だったけどなんとか乗り切ったぞ。てなわけで、中盤のロマンスのだらだらした部分を除けば、密度の濃い映像で十分に楽しめた。骨格はシンプルなんだけど、やっぱ映像のつくり込みが並じゃない。見終わって、もう一度見たいと思ったほど(見なかったけどね)。画面の端はしにまで行き届いた神経。雑踏の一人ひとりの動き。様式的な画像表現(血のついたカミソリとか、出征する兵士のそばに棺桶とか、赤組と青組のケンカとか、いろいろ)。金をかけた映画を見たぞ、っていう充足感は味わえる。現在の登場人物のところで、過去のシーンがモノクロでインサートされて、あの人がこうなった、っていうのを説明しているのは分かりやすくてよかったなあ。それと、南北戦争中のニューヨーク裏面史が面白い。ギャングの視点からの表現に、アメリカ国内では反発があったと聞くけれど、描かれていることに意図的なウソがまじっていなけれは、それはそれで新たな切り取り方なわけで、文句をつけられる筋合いじゃないだろうな。まあ、でも、映画だから。誇張はたっぷりあるだろうけどね。それを自覚しつつ見ていても、なかなか興味深かった。ニューヨークの下層階級の生活や、先住民と移民のいさかいは、教科書ではわからない部分だから。ニューヨークの暴動事件なんて、まったく知らなかったもんなあ。ほんと、150年前のアメリカって、野蛮だったんだなあ。でね、先住民ったって、もともとの先住民はインディアンなわけで、ブッチャー(屠殺人)率いる連中だって移民には違いない。なんだか、2代前に遡れる江戸っ子と、昨日、田舎からやってきた連中とのいさかい、ってな感じだな。バカみたいに思えるけど、生活がかかってるから本人たちは大変なんだろう。両者の対立を描くスコセッシは、移民社会アメリカはみな平等という立場なんだろうな。そして、一散年のテロ問題も含めて(ラストで貿易センタービルのある映像を使っていたことに意味があると思う)、第三社会の人々を差別したり排除するのはいかん、と思っているんだろう。ところが、映画から受けた印象は違っていた。移民の立場より、ネイティブの立場の方が理解できるよなあ、って気分になってしまう。だって、ネイティブは先にきて街づくりやなんやかやインフラづくりのために苦労しているのに、貧困から逃れてどんどんやってきて、ネイティブの既得権益を奪っていくんだぜ。たとえ平等とはいえ、後からきたんだから、ちったあ謙虚になれ、って思う方がフツーじゃないかな。だから、移民がんばれというふうには見られなかったよ。それに、ネイティブのブッチャーは、移民の神父に対して敬意を払っていたじゃん。ブッチャーの方が、ずいぶん紳士的だと思うぞ。そして、デカプリオよりずっと魅力的だった。まあ、ブッチャーのやってることは酷いことだけど、混沌と混乱の現場では、力の強いものが状況を支配するのはごく当たり前のことだしな。動物的本能に従って生きるしかない時代だってあるってことだと思うぞ。個人的にデカプリオがいい男だとは思っていなかったり、キャメロン・ディアスは可愛いけどこの役は合わねえな、ってな見方をしていたのはあるんだけど。暴動が勃発した中でネイティブと移民の大喧嘩が始まるか、ってなところに暴動鎮圧のための砲撃があって、ギャングたちが慌てるシーンはコミカル。笑っちゃったよ。で、両者対決は盛り上がるのかと思ったら、予定調和的な終わり方だった。ちょっと肩すかし。CGは爆裂とか炎とか遠景とかたいしたところに使われていなかったけど、露骨に分かる下手さだった。エンドクレジットの途中でテーマソングが終わって、クレジットがつづいているのに風の音だけががさごそいう音だけ、っていうのは哀しいぞ。

 
 

|back|

|ホームページへ戻る|