トランスポーター | 2/6 | 上野東急 | 監督/ルイ・レテリエ | 脚本/リュック・ベッソン、ロバート・マーク・ケイメン |
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リュック・ベッソンって、ロリータ、それも、東洋系女フェチか? この映画のスー・チーといい、「WASABI」の広末といい。なんか、そんな気がする。「ジャンヌ・ダルク」の主演女優も、ロリータ系じゃなかったっけ。それはさておき、洒落てて面白かった。「TAXi」「ヤマカシ」みたいなノンストップのスピード感。しかも、中身は濃い。それに今回は、おまえジャッキー・チェンかってな感じのカンフー・アクション。主演のジェイスン・ステイサムの動きが機敏で、キマってる。さらに、水中脱出、セスナからパラシュート降下でトラックに降りたりで、お前はジェームズ・ボンドか! んでもって、爆裂シーンありカーチェイスありで、お腹いっぱい。もう、一気だね。映画の面白さを堪能した感じ。まあ、複雑そうに見えて話は単純なんだけど、いろんなところに「なんで?」というつじつまの合わないところはある。相手ボスのオフィスに主人公とヒロインと警部が揃ってしまうという間抜けなシーンもある。人のよさそうな警部はバカにしか見えないし。瑕疵はたくさんある。けど、そういうのは、どーでもいいや、ってな気分になっちゃうぐらい、全編の流れるような映像が楽しかった。主演のジェイスン・ステイサムは、カッコいいんだけど映画館を出たら顔を忘れてしまうような印象のない俳優。ヒロインのスー・チーは痩せた冨田靖子みたいな感じで可愛いけどセクシーじゃない。のに、早々と主人公と寝てしまうのはいかがなものか。っても、濡れ場はないんだけど。アクションシーンはオリジナリティがないけど、これだけ連続で披露されると、もう拍手。あとは、ドラマの原因などをもうすこし感動できるように描いてくれるとよかったかな。で、ラスト。人質を解放したのはいいんだけど、その後で主人公とヒロインのキスシーンとか、数週間後カリブ海辺りでヨットに乗ってるシーンとか、そういうお決まりのキメカットがないのが許せない。それがなきゃ、映画は終わらないじゃないか。で、音楽。冒頭に「スコア スタンリー・クラーク」って出て、ええ? あのスタンリー・クラーク? って思って後でHPを見たら、その通りだった。リズム感たっぷりノリノリのリズムは、やっぱりなあ。 | ||||
ボーン・アイデンティティ | 2/16 | 新宿スカラ3 | 監督/ダグ・リーマン | 脚本/トニー・ギルロイ、ウイリアム・ブレイク・ヘロン |
いろいろあったが、まずは映画について。A地点からB地点へまっしぐらというアクション。あんまり考えることなく、追う者、追われる者(実はこちらも自分の正体を追っている)の活劇が楽しめる。いささか変だと思うところを列記すれば、主人公が、同行者となった女に「一緒に来るんだ」といったと思ったら、すぐに「一人で行け」といったりする一貫性のなさが変。その同行者の女に秘密でもあるのかと思ったら、何もなかったのが拍子抜け。プラハでは、なぜかプラハ警察に追われてしまったりするが、なぜ? 前夜の警官への暴行がすぐにバレたの? アメリカ大使館(?)らしき館内でもすぐに追われたり。フランス警察に追われたり。CIAの捜査網はそんなに迅速に、そして、オープンに広がっているの? どーも、CIAは小規模ネットワークで追っているように思えたんだけど。女の友だちの所で宿泊するのも、子供がいるのが分かっていながら泊まったり・・・。ちとツメが甘い。同伴者の女が、いかつくて可愛くない。HPで見たら「ラン・ローラ・ラン」の女優だと。どーりで。で、これもHPにあったけど、R.ラドラムの「暗殺者」が原作だって! ひぇー。昔読んだよ、ラドラム。どーして今頃・・・? でも、「暗殺者」も、映像化されるとこんなになっちゃうのかよ。ちと、がっかり。原作を知らなけりゃ、そこそこ満足できたんだけどね。エンドクレジットの後に、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンの広告スライドが1枚ついていたね。そうそう、帰ってきたらTVで「ロング・キス・グッドナイト」をやっていた。記憶喪失になった女CIAが記憶を取り戻して活躍する映画。なんの連鎖だ? 映画館には4時35分に入った。始まって5分ぐらい経っていたはず。というのも、劇場が新宿文化シネマからスカラ3に変わったことが原因で、文化シネマの若い男とちょっともめたから遅くなってしまったのだ。で、後の方の席がほとんど空いていなかったので、立ち見した。右端の、最後列の一列前の席が2つ空いていたのだけど、コートがかかっていたのだ。でも、そこに人は来そうもなかった。コートは横の人のではなさそう。最後列のバカ中年カップルが、前の席の背もたれにかけていたのだ。傘も・・・。290ぐらいの席の250ぐらいは埋まっているのに、こういうことをするバカ者がいるのは腹立たしいが、その筋の人だったりしたら怖いので立っていた。ムリにどかさせても、その連中がすぐ後ろに座っているのかと思うと、落ち着かないしね。 実は、新宿文化シネマ1or2で見られる招待券で入ったのだ。新聞で確認して、新宿二丁目駅から新宿文化シネマ2に行った。ところが、窓口に「ボーン・アイデンティティ」の文字がない。あれ? 打ち切りになった? 昨日で終わった? それとも、新聞を読み違えたか? あれ? どーしよう。別の映画を見ようか。と、うろたえながら新宿二丁目駅の方へ戻る。が、気になって、もう一度確認に行く。シネマ2では「黄泉がえり」を上映している。なんでだろう。再び駅に戻り地下道を歩いて・・・伊勢丹地下入口で、ふと考えた。4時30分の本編上映まで7分ある。もう一度行ってみよう。そして、係に訊いてみよう。家に帰ってから新聞を見て、電話で文句いうのはバカらしい。よし。で、地下から1階に上がって明治通にでて、横断歩道に立ってびっくりした。文化シネマ入口の上のファサードに「ボーン・アイデンティティ」の大きな看板がでているじゃないか。でているのに、映画館の前にいくと、その痕跡もなくなる。どういうことだ。チケット売場前にいた若い男に訊いた。すると混雑緩和のためスカラ座と劇場を交換しているという。なに。そんな告知はないじゃないかというと「ここにある」とチケット売場横の立て看板を指さす。けど、それって明治通りに平行に置かれていて、伊勢丹側から横断歩道を渡ってきた人には見えるだろうけど、新宿2丁目から来た人には、看板の厚みしか見えない。伊勢丹側からきたとしても、ファサードの広告絵に目を奪われていれば、目に入らないぞ。チケットを買う人、新宿2丁目からくる人に見えないようにしているのには、わけがあるという。看板に、上映が入れ替わったスカラ座の位置を示す地図が描いてあるからだという。その地図が明治通と垂直になっていると見た人が迷うから、明治通りと平行になるように置いているのだという。新宿2丁目からくる客の方が多いのは分かっているけど、そうしているんだと。で、しかも、文化シネマで使える劇場招待券がスカラでも使えるとは書かないんだという。招待券の客にだけ伝えるようなメッセージは、書かないのだという。やれやれだ。実は、以上の文化シネマの言い分は、2人の若い男に聞いたことをわかりやすくまとめたもの。実際は、聞いてすぐ分かるように説明などしてくれなかった。こいつ、わざと分かりにくく喋っているのか、それとも説明が下手なのか、と思うぐらいだ。どこの劇場でも働いている人はみな若い。せいぜい30歳ぐらいだ。まともな仕事をしろといっても、ムリなんだろうなあ。なんてことを考えてしまった。向こうは、うるさいオヤジになんだかんだいわれて、糞バカ野郎と思っているのだろうけれどね。でも、こっちだってムダな努力をするのは疲れるんだぞ。なに、だったら文句をつけるなって? まあ、それも一理ある意見だとは思うがね。 | ||||
1票のラブレター | 2/18 | 新宿武蔵野館3 | 監督/ババク・パヤミ | 脚本/ババク・パヤミ |
イランの現状を描いた映画のようだ。国境に近い島。選挙当日に都会から選挙管理委員会の女性がやってきて、島民を説き伏せて投票してもらう。けど、男尊女卑、イスラム教、無関心、無知などによって投票は遅々として進まない。同行する若い兵士も冷ややかに見ている・・・。てな内容。ま、あらすじをまとめても何の意味もないが。が。「赤い金魚と運動靴」が、貧乏で靴が買えない家庭環境で映画を1本仕上げてしまったのと同じ様に、投票行為そのものだけで1本映画ができてしまうことに、素朴に驚いてしまう。素材そのものは、日本やアメリカでいえば50年以上前のテーマだ。民主主義、民意、個人の権利意識がない社会。女性の地位が蔑まれている制度、宗教。では、それを否定しているのかというと、どうもそうは考えられない。なぜなら、イランという国家では民主主義的制度があり、選挙管理委員会が公平な投票を促進しており、しかも、委員会では女性を代表として送り込むほど意識が進んでいる、という背景がちゃんと描かれているからだ。イランという国家に対して批判的なところはないように思える。じゃ、宗教とか意識の低い民衆への批判? とーも、それも感じられない。素朴な人々に対して、ともすれば敬意さえ払われているように見える。プロパガンダ的要素は、あまり見えないのだよ。するってえと、選挙管理委員会から派遣されてきた女性と、島の兵との交流ってことになるのか・・・。ううむ。そういう視点から見ると、ちと食い足らないような気もする。なぜかっていうと、映画は女性の出自を問うこともなく、これまでの経験や現在の地位についてほとんど何も語らせていないからだ。兵士についても、同じ。単に、兵士であること以外に、描き込みがない。日本映画だったら、どっかで食事したりして、そのとき「生まれは?」「東京」「ふーん。おらも行ったことあるけんど、もう二度とご免だな」「そうお」「ああ。みんな冷てえ」・・・なんて、人となりを描きつつ対立させたり、和解したりするもんだ。そうして、女性には都会に恋人がいるけれど、彼は外国に留学して行ってしまって、現在はひとりぼっち。兵士には、愛する女がいたけれど都会に行ってしまって、いまは行方知れず(実は娼婦になっている)。なーんて話の二重構造をつくって、話に厚みを出そうとするはずだ。ところが、この映画ではさういうのはまるっきりない。必要な要素だけで構成すれば、20分ぐらいの短編に仕上げても不思議ではない内容だ。ハリウッド映画を見慣れた目には、ひどく単調でたるい流れに思えてくる。でも、この流れが体に入ってくれば、それはそれでなかなか快適な気もする。急いていたのがアホらしくなってくるみたいな心地よさがある。ちょっと物足らない。でも、その物足らなさが、ほんとうは良かったりするのかも知れない。あまりにも素朴で、ストレートだ。でもね。この監督は意識して素朴さを前に出しているな。映像に対する緻密な配慮が、いろいろ見えるのだ。静かなカメラの動き。長いワンカット。時刻を表す影の長さ、夕陽の赤い光など、なんとも神経が細かい。女性と兵士の対立も、表だって激しいものはないけれど、細やかな表現は多くされている。なかでもあからさまなのが、この映画のテーマともいえる赤信号のシーン。教条的な女性を困らせるために、故障していることを知りながら故意に赤信号で長く停止する。兵士は、「世の中には理屈や法律だけでは解決がつかないことがあるんだぞ」と教えたかったんだろう。これに対する彼女の返答が聞きたかったところだけれど、そこは省かれていたな。ラストの飛行機の着陸は、びっくりした。そーか。この島には飛行場があって、兵士たちは密輸だけじゃなくて、軍事的にも要衝にいたんだなあ、と思ったのだった。それにしても、この映画はクレジットがフランス語とアラビア語の併記だったけれど、資本はフランスからでているのかな。ドルビーデジタルだし、イラン国内に向けた映画じゃないのは確かだな、きっと。そういう点でも、この監督はなかなか計算していると思うぞ。しかし、兵士の女性に対する行為を「ラブレター」とするのは、どーかと思う。兵士は女性のやっている行為の内容に共感してはいないのだから。共感しているのは、だれに何といわれようと主義を曲げずに押し通しているところなのだから。ま、ラブレターと解するんだったら、やっぱりこの映画は人物の掘り下げ方が足りないかも知れない。 | ||||
ホワイト・オランダー | 2/20 | 新宿武蔵野館1 | 監督/ピーター・コズミンスキー | 脚本/メリー・アグネス・ドナヒュー |
捨てられる女の話である。ミシェル・ファイファーは男に捨てられ(何度も?)、子供(アリソン・ローマン)にも捨てられる。その、アリソン・ローマンの最初の里親の家でも、女が男に捨てられる恐怖を感じ取る。2番目の里親の家では、レニー・ゼルウィガーが亭主のノア・ワイリーに捨てられる。その底に流れるのは、嫉妬、欺瞞、高慢、優越感、独占欲、自己正当化など、一般的には非難されるべき態度だ。これが、男と女、親と子の間でバチバチやられる。どちらかというと、心理戦。静かなる戦いだ。とくに、ミシェル・ファイファーの母親は、芸術家を自負していて他者を明らかに見下している。そして、おそらく潜在的に(半ば意図的に)火種をまき散らし、やっかいを背負い込むタイプ。愛の押し売りだ。昔の恋人にも、そうやって去って行かれたんだろう。そして、原因は相手にあると論理づける。こんな愛の押し売りをされたら、娘はたまったもんじゃない。監獄からも娘の一挙手一投足を束縛し、コントロールしようとするんだから。まいったね。最初の里親は老いを恐れる軽薄女で、2番目は孤独を恐れる人のいいバカ女。そして、3番目の里親は自立した女として描かれる。しかも、里子にゴミあさりをさせてせしめた服をバザーで売らせるというタフな女。男の世話になっていない、男を追わない男として設定されている。このあたりは分かりすぎて物足らないけど、構図としては娘の自立を象徴していて面白い。しかも、里子をみなパンクに染めてしまうところも、興味深い。結局、里子に対して妙に気を使いすぎたりせず、一人前の人間として扱うのが一番、といってるみたい。娘を演ずるアリソン・ローマンが、いい。最初は影の薄い女の子、って感じなのに、里親をまわっていくうちに精悍な顔つきになっていく。成長の様子がよく描かれている。冷酷で嫌な女を演じるミシェル・ファイファーは、化粧を落とした、ほぼ実年齢に近い(45ぐらい?)肌を見せつける。強気一本槍の裏に、老いに忍び寄られる孤独感とあることがつたわってくる。レニー・ゼルウィガーが浜辺を走るシーンを見たら、なんだ、でぶじゃないじゃん。顔がでぶなのか、役づくりででぶになっていただけか。養護院で知り合うアメコミ好きの少年は、娘のことをパンクっぽく描くけれど、実際の娘もパンクっぽく成長するのも興味深い。いや、なかなか深い映画だった。手持ちカメラで画面がふらふらしているんだけど、違和感なく見られた。内容があったからだろうか。 中盤、すぐ後の席のやつが着信音を鳴らしやがった。いったん切れたと思ったら、またすぐ鳴った。バカヤローだよな。映画が終わる10分ぐらい前に、数メートル横にオヤジが入ってきて座った。かさかさかさかさと、コンビニ袋をまさぐって、ぷーんと弁当の臭いをまき散らす。かさかさかさ・・・。うるせー! と、いってやりたかった。映画の終わりから入ってきて、気分をこわすなよ。そゃ、時間はもうすぐ2時。飯も食いたいだろうけど、場所をわきまえやがれ。くそ。 | ||||
アレックス | 2/20 | シネマミラノ | 監督/ギャスパー・ノエ | 脚本/ギャスパー・ノエ |
悪趣味以外に何ものでもない。糞だ。のっけからカメラぶんまわし。意味ない。ずっと船酔い気分で不愉快。ドラマもなくノイズだけ。と、いきなり男の顔を消化器で殴る。げっ。顔が変形してくぜ。3度ぐらい殴ったところで、目を背けた。ってか、手で被写体の部分を覆って見えないようにした。執拗に殴る。ぐしゃって音が気持ち悪い。殴られた顔が執拗に映されている様子。意味ない。時間を遡って、被害女性の顔。執拗に映す。意味ない。このあたりからカメラぶんまわしなくなった。長まわしのレイプシーン。この執拗さ、意味ない。電車の中のセックス談義。少しおかしい。・・・てな具合で、時間を遡っていく手法は「メメント」や「ペパーミント・キャンディー」がある。珍しくない。だから何なんだ。ぬめっとした不快感だけが残って、不愉快。見なきゃよかった。実際、消化器のシーン(リアルすぎる。どうやって撮ったんだろう?)で出たいと思った。でも、他の客や映画館の人に「逃げた」と思われるのもやだなと思った。結局、最後まで見たけど、やっぱ見なきゃよかった。レイプシーンでは勃起ペニスが見えた。恋人同士がいちゃいちゃするシーンでも、一度はペニスが見えた。なのに、いちゃいちゃの途中からぼかしが入った。どういう基準でぼかしを入れているのか、さっぱり分からん。この類の映画なら、ひっそり単館ロードショーが相応しいんじゃないのかな。東急がかけるような映画か? 前の列にカップルがいた。本編上映の直前、彼女にケータイがかかってきた(音はしなかった)。あわてて外に出る彼女・・・。その彼女がもどってきたのは、映画がはじまって40分近くたってからのこと。わざわざ映画を見にきて、映画を見ずにケータイで話さなきゃならないことがあるのか!? 困ったのは、戻ってきた彼女が、電話の内容らしきことを延々と彼氏に小声でつたえはじめたこと。やれやれ。おまえら、絵画館へくるなよ、DVDで見ろ、といいたい。 | ||||
SEMI/鳴かない蝉 | 2/24 | テアトル池袋 | 監督/横井健司 | 脚本/立石俊二 |
たいくつな2時間だった。最初から「面白くないだろう」と思って見に行ったので、がっくりとはこなかったけどね。結局、あら探しになってしまうけど、しょうがない。まず、ムダに長い。単純に40分ぐらいは切れるだろう。最初の部分はバッサリ要らない。編集のことに関係してくるけど、タクシーの運転手は現在で、話を過去に遡ってるのかと思ってたけど、そうじゃなかった。主人公が元タクシーの運転手で、たまたまヤクザと知り合ってという流れだった。その辺り、流れが自然じゃない。それに何より、そんな経緯は要らないよ。主人公の昔の家族のことも、要らない。未練がましく残しているのは、脚本家が原作者だからだろう。ついでに言っておけば、セリフで語りすぎている。脚本をもっと練るべきだ。さらに、不自然なところが随所にある。主人公を狙うヤクザが、2人の堅気の若い女を傷つける、ってドジな話。主人公が刑務所から出てきて仕事がない。「手に職を」っていってるけど、8年もいりゃあ襖張やミシン、木工、旋盤ぐらいは覚えてくるんじゃないのか? 女が大阪を離れよう、っていってるのに男が大阪に執着する理由が分からない。女が男を「おにいちゃん」と呼ぶ不気味さ。出会ったとき女18として、男がムショから出てきたときは26。それで「おにいちゃん」はないだろ。それに、この2人、セックスしてないように見えたりするが、それも不自然。不自然といえば、拳銃撃っても街に人が出てこない不思議。検問が見えるすぐ前でクルマを降りる不自然さ。とにかく、自然にさらっと流せない。もっとちゃんとせーよ。と言いたい。それから、画面が暗い。この眠いボーッとした画面はなんだ。照明を当てなさい。意図してこんな画面を撮ってるの? そんなの、誰も歓迎しないよ。さらに、カメラぶん回しをコマ落としでしたり、他でもコマ落としを多用しているけど、ハリウッドの下手な模倣? 意味ない。犬を連れた女が文脈に関係なく象徴的に登場する。しかも、最後は頭の弱そうな元運転手の同僚(?)の死と連鎖する。2人の存在は意味ありげだけれど、こういう心象風景的人物を登場させて違和感なく収まりきれるほど、残念ながら映画はデキがよくない。と、文句をつけた上で、興味深かったのは構図。フレームと、その切り取りに関しては執着している様子がうかがえた。もっとも、あんまり生きているとは思えないけどね。ところで、原作者が脚本家で、製作のフューズというのは原作者と関係深そうなクレジットだったけれど。ひょっとして、自分の本を映画にしたくてお金出してつくっちゃったとか、そういうのなのかな? よく分んないけど。 | ||||
ウェルカム! ヘヴン | 2/25 | シネセゾン渋谷 | 監督/アグスティン・ディアス・ヤネス | 脚本/アグスティン・ディアス・ヤネス |
落語に「お血脈」って噺がある。善光寺のお血脈の御印を額にいただくと誰もが極楽に行かれるようになり、極楽は大にぎわい。逆に地獄は寂れる一方。困った閻魔大王と地獄の亡者達は石川五右衛門を善光寺へつかわし、お血脈の御印を盗み出し、地獄に繁栄を取り戻そうとする、って噺。映画では天国からも工作員が派遣されて、ボクサーの魂(の行き先)を争うわけだが、設定は似てるぞ。ってなわけで、映画のストーリーそのものには意外性は感じられなかった。洋画で連想したのは、堕天使を主人公にした「ドグマ」。もっとも、キリスト教に不案内なので、テーマもパロディの部分も理解できない映画だったけれど、きっと面白いんだろうな、という雰囲気は感じられたのだった。それと比べると、この映画の構造は単純で分かりやすい。分かりやすい代わりに、ちょっと突っ込み不足かなと思った。最も説得力がないのは、ボクサーの魂が天国へ行くか地獄へ行くかで大きく変わるという、その"理由"が、結局、具体的に描かれていなかったこと。それが示されないんじゃ、「なるほど」と納得はできねえぞ。それと、天国と地獄の2人の工作員が強盗を働くのは、ボクサーの借金を返すため、なんだろ? だったら、借金取りに渡せばいいのに、どうして渡さなかったの? ってのが、理解できない2つめの出来事だ。その他のもろもろは些末な齟齬としていい加減でもいいんだけど、上記2点に関しては、合点がゆかぬ。さらに、冒頭の強盗のシーンから過去へ戻る展開はタランティーノの「パルプフィクション」の影響を感じさせる。ラストで、ボクサーが天国に行った後、パルプフィクションを読んでいる、とあったけれど、それは故意にタランティーノを示しているのかも知れない。まあ、それはそれとして、全体的がユーモアそのもので、皮肉に満ちていて楽しいことは確か(地獄が大混雑ってのは、アメリカの悪が世界にはびこっていることの象徴? 天国ががらがらなのは、旧きよき時代のフランス文化の退潮? とか)。天国がフランス語で現実がスペイン語、地獄が英語で、天国と地獄を裁く場所はラテン語、ってのも意味深長。天国や地獄の使者が不死身でも万能でもないのも面白い。面白いんだけど、やっぱ「お血脈」を知っている日本人にとっては、オリジナリティが感じられないのだよね、惜しいことに。そうそう。ペネロペ・クルスって、すげーがに股なんだね。 上映前の15分間の予告編だが、フツーは そもを何本か流して予告編に行って本編でしょ。ところが、この映画館では予告編から入って、本編の前にCMを流していたよ。CMを強制的に見せようという工夫なのだろうが、うざい。上映開始30分過ぎかな、天国の工作員が「自分には荷が重すぎる」と天国の上司に訴えるところから、ピンが合わなくなった。画面の左側は合っているのだが、右側半分は前ピンといった感じ。オートチェンジャでかけていて、後は上映室からチェックしないのかな。文句いいに行けば、その間の映像は見られなくなるし。困った問題だ。 | ||||
ロード・オブ・ザ・リング/二つの搭 | 2/27 | 上野東急2 | 監督/ピーター・ジャクソン | 脚本/ピーター・ジャクソン、フラン・ウォルシュ、フィリッパ・ボウエン、スティーブン・シンクレア |
朝から水分をあまり採らず。でがけに食べ残りのフランスパンを切って、マーガリンだけをつけたものを4枚ほどもっていった。初回上映は11時30分で、本編は35分から。本編の尺が3時間もあるせいか、予告編は5分。それでも、3時間5分。小水に行かず耐えられるか、が心配だった。しかしまあ、なんとかなるもので、時間はさほど長く感じなかった。といっても、すごく面白かったってわけじゃない。まあ、そこそこ、ってところかな。見る側の責任として挙げられるのは、前作の話をほとんど覚えていないことかな。ほぼ1年前に見たんだけれど、アバウトにしか覚えていない。主人公フロドと従者が、指輪を溶かしに行く、ってなところで終わっていたような気がする。あとは、ほんと、覚えてない。この手の連作物だと、前回までのあらすじがついてもよさそうなんだけど、それはない。あらあらという間に、話のつづきに入っていく。ややや。 旅の仲間は、3グループに分かれて動いている。(A)フロドと従者、(B)捕虜になった小人2人、(C)2人を追う騎士3人。この3者のエピソードが、最初から最後まで交わることなくつづく。2人がなぜ捕まったか、捕縛しているのは誰か? それが分からなくても何となく意味はつかめる。けど、(C)グループが、途中から何とか国の王様を救ったのはなぜか? なんて話になるとワケがわからん。しかも、映画のクライマックスは(C)グループと、敵のボスが送り込んだサルみたいな兵士たち1万人との戦いになるんだが、何で(C)グループはここで命を賭けて戦うのか分からないから、共感することができなかった。ちょっとだけ出てくるエルフたちも、どこにいて何を考えているのかよく分からん。(B)グループは森に迷い込むのだけど、木の人に送られてのんびりしてる。こちらの動向は意味不明。で。映画全体の主人公的ロールを与えられているのは、フロドじゃなくて(C)グループのアラゴルンっていう人間の騎士のようだ。彼に関してだけ造型描写が突出していて、心の動きや葛藤まで描かれている。あとの登場人物は、出番は多くても、ただ動いてセリフを言っているだけで、厚みが全然ない。まあ、せいぜいフロドの従者ぐらいかな、わずかに掘り下げ方が深いのは。というなかで、最も心理描写に時間をかけているのが、(A)グループの捕虜になるスメアゴルっていう生物だな。僕は、このスメアゴルに一番シンパシーを感じたし、最も人間味を感じた。スメアゴルはすべてCGのようだけど、他の登場人物よりこっちの方が活き活きしているのは、なんとも皮肉だ。行動に、ちゃんと動機付けがあるもんなあ。他の人物の行動には、あまり動機付けがされていない。だから、なんでこいつは、こういう行動をとるんだ? という疑問符がつねについてしまう。それじゃ、やっぱり面白くない。全体にそんな具合だから、盛り上がりにも欠けるし、当然だけど、感情移入もできない。 まあね。映画を何度も見たり、パンレットを読み込んだり、ホームページで物語の背景をしっかり頭に入れて見る、または、見た後でおさらいする人は違う見解かも知れないけど、わたしゃそういうことはしないから。先入観なしに見て面白くないものは、面白くない。最後の、1時間近くもある戦闘シーンも、なんかいまひとつ。どーせCGじゃん、って思うと、迫力が感じられない。しかも、短いカットでのつなぎが多かったしね。木の人のCGは、ちゃちい。そう。見た目がモロCGっていう映像とか動きの映像が多かったように思うな。 こういってはなんだが、私は映画の中に登場するフツー、またはフツー以下の人々に興味があった。城の中に住んでいるただの民衆。戦を前に剣をとらされる子供や老人。そして、スメアゴルなんてのも、そういう関心領域の人々だ。だって、王様とか貴族とか騎士だとか、そういう上流階級の人々より、大衆の方が翻弄されるわけだから当然だよ。メル・ギブソンの「ブレイブ・ハート」なんか、王族や騎士を描きながら、周囲の民衆への配慮も忘れてないじゃん。それと比べたら、この物語は上流階級だけの身勝手な物語とも読めてしまう。まあね。しょせんファンタジーはそういうもの、と言われたら身も蓋もないけど。でもやっぱり、欲望に突き動かされるスメアゴルの方が、私には魅力的だった。スメアゴルが2人のために兎を仕留めてきたときのシーンが、とくに印象的だった。兎を生で食べるスメアゴルに従者が嫌悪感を示し、「兎はジャガイモと煮込むもんだ。生だなんて」と、野蛮人を見るような目で見た。ううむ。生の魚を食べる日本人に、西洋人が投げかける侮蔑の視線が、これなのかと思ったよ。とにかく、ファンタジーは肌に合わないのを再確認したのであった。 |