2003年3月

ダークネス3/4上野東急2監督/ジャウマ・パラゲロ脚本/ジャウマ・パラゲロ
英語で喋る映画だけど、スタッフは英語じゃない人が多い。舞台がスペインだけれど、製作もスペイン? スペイン映画じゃないんだろ? よく分かんないな。内容をよく知らずに見始めたら、ホラーだった。ホラーは苦手だけど、しょうがない。屋敷が舞台で、家族が引っ越してきて、何かが出没し始める・・・。よくある話で新味はない。音で脅かすのと、フラッシュバックやサブリミナルを狙ったチカチカ残酷描写ぐらいで、そんなに驚かなかった。ときどきゾクッとしたけど、結局、話に山がない。ラストも、なんとも尻切れトンボ。おいおい、これで終わっちゃうのかよ、である。舞台がスペイなのに、スペインらしさがどこにもでてこないのも、もったいない。
さてと。翻弄される家族をよそに、気丈な娘が立ち向かうんだけど、このスタイルはよくある。もっとも、娘があまり色っぽくなくてタフガイじゃないところがもの足りない。肉感的なことは認めるが、ただのデブじゃねえか。肩を露出したキャミソール姿で胸を強調(定番)してるけど、そそらない。これ、大きなマイナスね。
で、屋敷にいた奴らは、結局、なんだったの? ラストに明らかになるアイツが、悪魔に心を売り渡して秘儀をしようとした、ってことかい? で、40年前にし損なった儀式を終了させてなお、何が目的なんだ? ってな終わり方だよね。40年前の秘儀だって、アイツの仲間たちが悪魔のやり方に基づいて行なったようだけど、その報酬はなんだったんだ? 仲間がみんな死んじゃってるらしいが、悪魔は助けてくれなかったのか? なんか、日本人には、よー分からん話である。わだかまり、わだかまり・・・。ところで、お父さんの発作が、字幕で「神経系の変性病」となっていた。要するにてんかん発作だろ。しかも、分裂病的症状も伴ってる。ま、どっかからクレームが来そうだから、自主規制してるんだろうけどね。
戦場のピアニスト3/5上野宝塚劇場監督/ロマン・ポランスキー脚本/ロナルド・ハーウッド
何となく夕景とか、何となく歩いているとか。そういう意味のないショットで息抜きなんかしていない。すべて意味のあるショットで話が綴られていき、強引さも破綻もない。フレームの中に映るものすべてが語りかけてくる。ううむ。密度が、濃い。だからといって重苦しくはない。ドラマのテンポが素早いからだろうな。
いまさらナチスとユダヤ人の話である。このテーマなら共感が得られ、泣かせどころもあるから? いやいや。そんなお涙頂戴の映画じゃなかったよ。1人のピアニストの、わき目もふらず生き抜くサバイバルな映画だった。そして、すべてが主人公のピアニストが関心を抱いていること=彼をめぐる現実だけで語られる。パラレルな話題やエピソードはすべて打ち捨てられていく。たとえば、前半に重要な役割を占めていたピアニストの家族は、収容所に送られた後、再び登場しない。他にも、ピアニストの知り合いたちの、その後の消息にはほとんど触れられていない。例外的なのは、新聞を刷っていた家族が殺されていたことと、ドイツ軍の将校が捕虜の中にいたことぐらい? あと、放送局の人? あとの重要な役割を演じた人々は、ピアニストの環境が変わると、もう再び現れてこない。ピアニストが、自分の命のことで精一杯で、人のことに関心を払うことができなかったのを示すかのようだ。でも、未練がましく、あの人はどうしたこうしたを語るより、スッキリしていていいと思うぞ。だってその方が、見ている方もピアニストの心を共有しやすいからね。それに、妙に感傷的になっていないのも、効果的だったと思う。ピアニストの周囲に起こる出来事を淡々と事実として描いていくことで、緊張感を保つことができているし。家族を思うピアニストを描いたり、友人の妹(? だっけか)との心の交流だとか、そういうのをバッサリ切り捨てているのが、よかったんだろう。そういう冷徹な視点が、あの時代をよりリアルに描くのに適していたんだろうと思う。ナチの異常さも過剰に描かれてはいない。腕章をつけさせたり車道を歩かせたり踏切で踊らせたりと、ひねくれた意地悪で民族のプライドを汚していったことを告げていく。こういう静かな訴えの方が、人々の心に永遠に残って行くんだろうな。演出の過剰さを排除したことで、底知れぬ恨みが残されていることをありありと告げているように思う
2時間30分の映画だった。朝方のお茶はそんなにたくさん飲んでなかったはずなのに、途中で尿意を覚えた。時計を見たら後、1時間ある。げげ。耐えられるかな。こんな緊迫した映画で、途中の数分でも見逃すのは心残り。しかし、膀胱はふくらんでくる・・・。館内が妙に寒かったことも影響しているんだろう。他にも小水に立つ人が目だつ。ううう。あと30分か・・・。行くか、どうしよう。なんて思っているうちに、あと15分。くそ。ラスト15分ではもう抜けられないよな。もっと早く行くんだったな・・・。ああ、考えれば考えるほど尿意は激しくなってくる・・・。おお。戦争は終わったか。ああ、もう少しか・・・。と、5分を残してクレジットが流れ始めた。助かった。ああ、とりあえず見終わったぞ。ははは。と、こうなると現金なもので激しかった尿意が少し和らいでくる。不思議なものだ。心のもちようで、尿意は激しくなったりレするんだよな。ははは。それにしても、女子トイレなんか、扉の外にも並んでいる人がいたぞ。やっぱり、館内が寒すぎたんだよ。
たそがれ清兵衛3/5上野スタームービー監督/山田洋次脚本/山田洋次、朝間義隆
話題作だ。さて、どんな映画かな? と見始めて。江戸時代の、昼間でも暗い部屋の中がちゃんと表現されているのに、納得。次に、東北訛の侍に納得。そして、50石どりといえど武士が外出するときは中間を必ず連れて歩く、ということに忠実なところでえらく納得してしまった。さらにいえば、侍でも50石どりと400石では格式が違うことや、平侍が家の裏で畑をつくっていることなどにも納得(お歯黒はなかったけど)。50石でも実質30石で、妻の薬代に月1両2分といっていたから、薬代が年に18両。残る12両で一家4人暮らしで中間に給金も払うわけだから、内職も当然ってことだな。まあ、こういうことを「映画にならない、絵にならない」ということで、いままでの映画がちゃんと描いてこなかったわけだ。まあ、すべての映画で歴史に忠実に描かれたらうっとうしくてたまらないけど、たまにこういうふうに描かれると、拍手したくなる。だって、ストーリーを阻害しているようには見えなかったからね。画面が暗い中にも、外の風景が明るく見えていたり、灯火があったり、ちゃんとコントラストはつけている。室内の立ち回りでも白刃がぎらりとひかったり、照明はちゃんとなされている。だ、けれども。人物の顔にもうちょっと光を当ててもいいんじゃないかと思ったのも確か。逆光で全然見えなかったり、ミドルショットではっきり見えなかったり、ちょっといらいらした。まあ、クローズアップはしないというスタイルなんだろうけど、エンドクレジットを見ながら「桜井センリはどこにいた? 尾美としのりは?」なんて思いたくはない。
清兵衛の人となりは、たいして描かれていない。事故を主張しないから、何を考えているのか分からない。その意味で食い足らないけど、まあ、江戸時代の下級武士の一般的姿を描いた、と考えればいいのかな。家格が低くて取り立てられることになかった平侍。多少頭がよくて剣術が優れていても、身分が低ければ出世はおぼつかない、その哀しみということなんだろう。実際には取り立てられたケースもあると思うんだけど、まあ、それは作者の主張なんだからしょうがない。そのメッセージに全面的に納得もできないし、そんな平侍が哀れだなと同情もできない。出世を望まず、現状維持を重んじて、上司の命令には服する。そういう人だったんだろうな、と思うだけだ。ま、それでも宮沢りえとの下りでは、ちょっと目頭が熱くなったが・・・。いまひとつ合点がいかなかったのが、お家騒動の部分。国元の家老に呼ばれて反主流派の侍を切るよう命じられるシーンが、どーもありきたり。テレビドラマの「越後屋、おぬしも悪よのう」というステレオタイプを脱していない。演技も、メイクもね。ああ、それから、殺陣がすごかった。河原の決闘は1シーン。いまどきカットでつないで誤魔化すのが普通なのに、なかなかやるじゃん。
スタームービーは初めて。昔はピンクを上映していた小屋だ。数年前から、東急系と同じ作品を上映するようになったようだ。両翼部分の座席が、スクリーンに対して平行ではなく、ひどく曲がっているのが気になった。
憲兵とバラバラ死美人3/6東京国立近代美術館フィルムセンター・大ホール監督/並木鏡太郎脚本/杉本彰
ふと思いついてフィルムセンターのホームページを見た。「特集・逝ける映画人を偲んで1998-2001(1)」が開催されていて、今日の3時からは「憲兵とバラバラ死美人」が上映されるとなっている。データによれば「(73分・16mm・白黒)時代劇を得意とした並木監督が後期新東宝で撮った数少ない現代劇。満州事変が勃発して主力が移動した仙台の歩兵連隊で、生活用水に使う井戸が異臭を放ったことから奇怪な事件が暴かれるという怪奇映画。‘57(新東宝)(監)並木鏡太郎(出)中山昭二(憲兵小坂徳助)(原)小坂慶助(脚)杉本彰(撮)山中晋(美)宮沢計次(音)米山正夫(出)江畑絢子、天知茂、細川俊夫、松浦浪路、若杉嘉津子、鮎川浩、小高まさる、江見渉、岬洋二、久保春二」とある。猟奇的なタイトルが呼んでいる・・・! 天知茂の他は顔が浮かばないけど、なぜか誘われてしまった。ちなみに、この映画で追悼されているのは並木鏡太郎と中山昭二である。
お話はとくに猟奇的ではなかった。タイトルで惹こうというのは、テレビの2時間ドラマと同じだね。しかし、1957年当時の映画で肌を露わにできるのは、肩から胸元まで。キスは男の後頭部だけ、セックスは暗示させるようにフレームアウトして足がかすかに広がっていく程度。うーむ。昔はこれでも十分にエロチックだったんだろうな。胴切り死体は当然でることもなく、井戸から出てきたのは髪の毛のついた頭の皮らしきもの。そして、しゃれこうべ。ま、あの当時はこんなものなのだろう。しかし、敗戦後12年だけど、戦時中の感じはリアルにでていたな。憲兵付きの兵隊を使役(?)と呼んでいたけど、いまじゃ解説抜きではわからないよね。天知茂は犯人に間違えられる小悪人の役回り。拷問で殴る、むち打つ、水をかけるシーンはあったけど、わざと外しているのはすでにスターだったからかなあ。現代のリアルな演技を見慣れている目にはもの足りない。けど、まあ、昔の映画だからという目で見ればいい話。話のテンポや説明のシーンが多かったりするのは、これも2時間ドラマに似ているのかなと思った。CMや予告もなく始まって、「終」という文字がでるとすぐ場内が明るくなる。なんか、それが新鮮だった。
310席ある大ホールは、上映時間に1/3以上埋まってしまった。高齢者が多い。シルバーパスで毎日来ている向きが多いのかな。それとも、昔の活動屋さんが懐かしくて来ていたりして・・・。
裸足の1500マイル3/7シネスイッチ銀座2監督/フィリップ・ノイス脚本/クリスティン・オルセン
題名に偽り。裸足じゃねえだろ。・・・という揚げ足とりをまずして。
シンプルなストーリーのなかに色々と起伏をもたせ、観客をぐいぐい引っ張っていく。カメラもいい。広角レンズをうまく使って雄大な自然を巧みに映像化している。初めて保護局のネビルと会うシーンでのカメラの揺れなどは、主人公の少女モリーの心をよく表現していた。泣かせどころは少ない。3人の子供はあまりにもタフで、同情するより感心してしまう。ラストで母親と再会するシーンは、いまひとつ盛り上がらなかった。帰ってきても捕まるだけだろ、と思いつつ見ていたから、素直に「よかったね」とは思えなかったのだ。後日談として、そのときは捕まらなかった、とナレーションで説明があるんだけどね。ひとつ疑問。追跡者の子供が収容所にいたけど、あの子供は混血? でも、追跡者は男だよね。どういうことかなあ?
いろいろと考えさせられるところが多かった。現在のように武力による他民族の制圧が道義的に許されていない社会ならともかく、帝国主義時代までは植民地政策は当たり前。強いものが弱いものを制圧するのが、人類の歴史だった。残念なことだけれど、それは事実。文明レベルの低い民族同士でも、小規模な制圧・収奪は多かれ少なかれ行なわれてきたはずだ。そうした不幸な歴史を振り返る映画として、そのメッセージは強烈。こうした映画が豪でつくられ、国内で高く評価されたことに大きな意味があると思う。
別の思いも湧いてきた。「文明化されていない人々に、どう対応すればいいのか?」ということだ。映画では、保護局の人々は善意で混血児たちに文明と白人文化を強制しているように見えたたからだ。もっとも、混血児に教育を施しても召使いにしか使わないってのが、保護の底の浅さを露呈している。それに、少女の召使いが主の夜の慰みの道具として考えられている(これは、アメリカ南部の黒人奴隷を連想させた)ことは映画でも触れられている通り。「混血も、3代もつづけば白人の血が多くなる」って理屈(アメリカの、一滴でも黒人の血が入っていれば、黒人っていうのとずいぶん違う考えだ)は、こうして白人の血を濃くしていくのかと、納得したのだった。それはさておき、低い文明と接触した場合、我々は手をさしのべない方がいいのだろうか? 石器時代の生活をしている人々に文明の恩恵を与えるのは傲慢なのか?(本多勝一の「ニューギニア高地人」を思い起こさせた) 宗教の強制(フィリピンがアメリカ文明を受け入れて、宗教もキリスト教になったのはどうしてなのかなあ、と考えた)は行きすぎだろうけど、衣食住は? 医療は? 移動手段(クルマ)は? 通信手段やメディアは? 何も与えない方がいいの? 「医療は提供すべき」という人もいるだろうけど、医療だって文化であり文明だ。その介入でアボリジニに変化が生じるのは明白。アボリジニに一切介入しないというなら、世界各地で発生している民族間紛争は、放っておくべきなのか? レベルの違う文明が接触すると、いろんな問題が生じてくるよな。僕にも、どれが最良の方法なのかは分からない。
豪が混血児の隔離・保護をいいはじめたのは、召使い(奴隷)の必要性からでたものなんだろうか。では、混血児だけでなく、アボリジニ全体の保護ならゆるされるの? でも、それって日本が朝鮮民族に自国文化を押しつけて日本人化させようとしたのに似ていないか? そんなことを考えながら視ていた。
映画は豪とアボリジニの関係の歴史については深く触れていない。いまネットで調べたら、「入植者による土地の収奪・虐殺(18世紀後半)」→「保護・隔離政策=強制移動、文化の否定、アボリジニ社会の崩壊」→「同化政策=差別と抑圧、混血児の教育、親子強制隔離政策(1930年代)」→「総合政策=同化政策の踏襲(1960後半)」→「自主決定・自主管理政策(1973〜)=アボリジニの権利回復」という歴史があったようだ。知らなかった・・・。アメリカ人がインディアンに行なったのと同じ様な過去があったんだね。それでネビルのような善意が、どうして発生したんだろう? 1930年代に同化政策は、一般的に支持されていたのだろうか? 知らないことが多すぎる。
そういえば、朝日新聞にアボリジニと日本人の混血という話が載っていた。日本人は19世紀から真珠貝を採りに豪に渡っていて、日本人との混血も多いんだと。新聞の混血女性は1950年代生まれだから、ついこないだまで日本人が豪に出稼ぎに行って、あちらで女を買っていたか現地妻にしていたんだろうか。なんだか、いろんな問題が背後には横たわっているなあ。そういう意味で、内容が濃い。
チケット売場にオバサンがたくさん並んでいて、どどっと大量に入ってきた。席もあらかた埋まってしまった。金曜の1回目だっていうのに・・・。調べたら金曜は女性が900円だと。げ。こっちはチケット屋で買った前売り1480円。なんか悔しい。そういや、予告編の間、館内が明るかった。これはいいこと。席を探すのに、真っ暗だと大変だものね。
ビロウ3/9新宿武蔵野館1監督/デヴィッド・トゥーヒー脚本/ルーカス・サスマン、ダーレン・アロノフスキー、デヴィッド・トゥーヒー
久しぶりに見ていて眠くなった。なんなんだ、この映画は。潜水艦内で、いつ、どこで、だれが、なにを、どのように・・・が、わけ分からん。リアルなサスペンスかと思ったら中途半端なホラー。しかも、何が霊となって出ていたのかは不明ときてる。ひょっとしたら「アサーズ」と同じ設定か? と、思いながら見ていたら、映画の中で乗組員が「俺たちはすでに死んでるんじゃないか?」なんて言い出したので呆気にとられてしまった。そーか。それを意識していたのか。で、オチはあるものの、なーんだ、ってなもんで驚きもなし。知らない役者ばかりで、ヒロインは可愛くも色っぽくもないし。うーむ。監督が下手なんだろうな。
007/ダイ・アナザー・デイ3/11上野東急2監督/リー・タマホリ脚本/ニール・パーヴィス、ロバート・ウェイド
仮想的が北朝鮮。どう描かれているか興味があったんだけど、装備が立派すぎ。実際はもっとしょぼいだろ。餓死続出の国家とは思えんぞ。それにしても、映画はいまひとつはじけてなかった。ストーリーが無茶苦茶でご都合主義なのはいいとして、なんともありきたり。スケールが小さい。宇宙からの光線が最終兵器っていうのも昔からよく使われてるし、新味なし。新兵器のガラスを割る指輪と消えるクルマも、おお! っていう働きはしないし、ボンドカーもだからどうしたの類。意外性が全然ない。北の将軍様はたいしたことなくて、その息子が極悪人のように描かれているけど、野望は朝鮮統一っていいながら本当の目的がよく分からん。しかも、ダイヤモンドがらみで資金を調達していたりするんだが、なぜダイヤなのかこれまたよく分からんのだ。ハゲになった北の諜報部員との確執も、中途半端。部隊のマークが北朝鮮の旗ではなく、ダイヤマークだっていうのも変。それに、日本の鎧甲と日本刀が登場するって・・・ちったあ考証をしっかりしてくれよといいたい。編集も下手。ホバークラフトのチェイスをはじめとして、敵と味方がどういう状況でどうなったのかが、とても分かりづらい。神経がいきとどいておらず、とてもがさつだ。ボンド役のピアース・ブロスナンも薄っぺ。それに、北朝鮮が敵なんだからアジア系のボンドガールを出せよ、だね。そうそう、将軍様の息子が西欧趣味で、顔まで西洋人に整形してしまうっていうのも噴飯もの。北朝鮮じゃなくても何でもよかったって感じだね。ジュディ・デンチだけがよかった。
予告編の前にピアース・ブロスナンによるシェーバー(だっけ?)のCMが入ったりして、なんか力は入ってるみたいだったけど。うーむ。
キープ・クール3/12新宿武蔵野館2監督/チャン・イーモー脚本/シュー・ピン
前半ははとても面白くて、後半はとても退屈だった。中盤のレストランの、本屋の男とパソコンオヤジとの会話が無意味に長すぎる。ここからリズムが狂って、ガタガタのまま終わってしまった。本屋の男をふってレストランの経営者へとなびいた女。どーも尻軽で可愛くないけど、それでもちょっと色っぽい。その彼女が、くだんのレストランのシーンの前から登場しなくなってしまうのも、なんでだよー、である。前半の丁々発止のセリフのやりとり、スピード感があってダイナミックなカメラの動きも、どこへやら。本屋男がレストラン男に復讐するという筋書きも、ぜんぜん共感できない。本屋男とパソコンオヤジのつまらん理屈と揺れすぎのカメラで、頭がボーッとしてきた。なんで、パソコンオヤジをあそこまで執着して描く必要があるんだ? あいつは脇役だろう? 本屋の男と尻軽女がどーなったのか、そっちの方が知りたいよなあ。というわけで、途中から腰砕けの中途半端な映画だった。後半は、見ているのが苦痛だったぞ。
インプラント3/12渋谷東急3監督/ロバート・ハーモン脚本/ブレンダン・ウィリアム・フッド
インプラント・・・といっても、埋め込み式の入れ歯ではない。なんでこんな題名になったのか・・・。原題は"They"である。中盤で10分ぐらい寝てしまった。まあ、つまらない映画を見た後で、しかも、食事を摂ったあとだったからという理由もあるが、この映画もつまらなかったのが最大の要因。ふつうホラーっていうのは、日常を逸脱する何気ない予兆から始まって、それが次第に積み重なり、エスカレートして、ある一定のピークを迎えたら畳みかけるようにがんがんくるんだろ。なのに、この映画は最初からなんとなく不気味で、そのテンションのまま、ずーーーーーっとラストまで来てしまう。ドキドキの集積がないんだよ。しかも、相手の存在が結局なんだかよく分からないときてる。なぜ主人公が襲われるのかも分からない。だいたい、得体の知れない闇が怖いなら、闇に近づかなきゃいいだろう。ふらふらと地下鉄の駅に入り込むな! 闇に刺された針も証拠品なんだからとっておけ! といいたい。そんな不自然なところがあると、主人公に同情もできない。ただ、怖いと言ってわめいているバカにしか見えないぞ。要するに、主人公も含めた闇を恐れる連中はみな分裂病とかパラノイアで、すべては(本来は子供にしか見えない)幻覚なんだろう。その幻覚を闇というものに置き換えたホラーだろうと思う。ラストで、あちらの世界に取り込まれてしまった主人公が具体的に描かれてはいるけど、あれだって現実世界に対するあちら側の世界と解釈すればいいんだから。
この映画館は、座席に座って5分ぐらいすると左側からゆるやかな冷たい風がやってきて、腰や足を冷やす構造になっている。ほんと、いつ行っても寒いね。
Kissingジェシカ3/13テアトル タイムズスクエア監督/チャールズ・ハーマン=ワームフェルド脚本/ヘザー・ジャーゲンセン、ジェニファー・ウェストフェルト
高慢ちきで鼻持ちならない女が主人公。知性がない男を毛嫌いする。じゃあ、お前は完璧なのか? どーもそうではないらしい。記者のくせに的確な表現ができずに悩んでいたりする。自分のことは棚に上げ、無い物ねだりするタイプだ。まあ、いるわな、こういうの。男からちやほやされないのは自分のせいじゃなくて、相手が悪いって思おうとするようなやつ。うーむ。最近の女は、みんなそうみたいな気がするが? 「いい男がいないわね」なんて言ってのけるからなあ。謙虚さをどこかに置き忘れてきたんだろう。ま、他人のことは言えないけどね・・・。ま、それはさておき。そんなジェシカが新聞の恋人募集に応じてしまう。しかも、女性の恋人を、ってのに! ここが不自然なんだけど、この映画は、この不自然さがないと成立しない。それが欠点だな。もう一つの欠点は、主人公ジェシカ役のジェニファー・ウェストフェルトが魅力的な造作じゃないことかな。額のしわが多くて、設定の28にはとても思えんぞ。それを除いては、いや、面白かった。くすくす笑いっぱなし。女性の心理がとてもうまく表されていて、なかなか。会話がとても活き活きしていてオシャレ。と思ってホームページを見たら、この脚本を書いたのは主演の2人の女性なんだと。なーるほど。納得。
それにしても、男とセックスし放題の画廊の女ヘレンが、なぜに女を求などと広告を出したのか? ものは試し? でもすっかりレズビアンに目覚めてしまうんだからね。一方のジェシカはレズにはなじめなくて、結局、近くにいた男とヨリを戻す。ま、この辺はお決まりの流れ。でも、そこまでに至るやりとりが、なかなかいいんだよ。脇役も、ジェシカの同僚でおしゃべり好きなオバサン(といっても妊娠中なんだけど)なんか、最高。いやー、なかなか見事な図々しさぶりで、ハマっていた。気になるのは、ジェシカが知性がない(と彼女が判断する)男とも話せるようになったかどうかってことなんだ。やっぱり、俗っぽいのはダメなんだろうか? 肩肘張って生きているようにも思えるけど、そのことにたいする解答は出されていなかったな。ジェシカはごりごりのユダヤ教徒、ヘレンはインド系っぽい。これは何か意味があるのかな? それにしても、もう一度見てみたい、と思わせるような映画だった。
予告編が延々と23分も流れた。いくらなんでもやりすぎだろう。空調もいまいち。下手から上手へ冷たい風が椅子の間を流れてきて、下半身が寒くなってしまった。
マドモアゼル3/18飯田橋ギンレイホール監督/フィリップ・リオレ脚本/フィリップ・リオレ、クリスチャン・シニジェ、エマニュエル・クールコル
おお。これは、いい映画だ。文句の付けようがないぞ。存分に堪能した。灯台の看板(だから何?)から回想して、ドラッグストア。ここの、店の両側から男女が接近して同じ店に入り、男が生理用品を買い(男はいまの状況に満足していない)、女がひげ剃りクリームを買って(女もいまの状況に満足していない)、軽く挨拶をしてそのまま別れるという、ここですべてが語られていたんだね。さて話は、郊外のホテルでの製薬会社の発表会から即興劇へ。おいおい、どうなっちゃうんだ? と思う間もなく女(サンドリーヌ・ボネールが、いいなあ。ほんと、いいねえ)は灯台の模型が原因で仲間とはぐれて即興劇の3人と行動をともにする・・・。この、転げ回るような意外な展開。先が読めない面白さが楽しい。狂言回しとなるのが灯台。こいつ、ちっとも本来の方向へと導いてくれない。電車に乗り遅れさせ、結婚式場まで引っ張り込み即興劇までやらせてしまう。挙げ句に劇団員の一人と一夜のアバンチュールまで! とんでもなく素晴らしい出会いを演出してくれる灯台だ。ってわけで、きぬぎぬの朝、カフェで別れるとき女は"遊びはこれでお終い"というように灯台の模型をそこに置いていく。もうひとつの小道具はブローチ。ホテルとモーテルで2度落とされているけれど、これは女の心が家庭から心が離れていることの表象だろう。こういう、小道具の使い方が映画の伝統通りで、しかも洒落ている。脚本のよさと、それを理解して表現した監督の力量が想像できる。75分という短さだけど、とても上質なフランス映画だ。
メルシィ!人生3/18飯田橋ギンレイホール監督/フランシス・ヴェベール脚本/フランシス・ヴェベール
マンガ的なコメディで、軽妙洒脱。おバカ度、ドタバタ度が低く、笑いどころも多い。東映の社長シリーズみたいな味わいがあるね。それにしても自分に自身がもてない男は、日本だけじゃなくて世界中どこにでもいるんだなと、安心したりして・・・。一番の笑いどころは、主人公と女性部長がナニしてるところに日本人の工場見学者がくるところだけど、こういう場面に、よく日本人ってでてくるよね。なんか、バカにされているようだが、きっとそうなんだろう。主人公の奥さん役の女優が、なかなか色っぽくてきれい。夫を捨てた冷たい女として描かれているけど、性根がキツイ感じもでてたね。その彼女に、いじいじ男の元旦那が反逆するところは、もうちょっと迫力があってもよかったかも。それから、えー、経理課の、いつも女性部長とつるんでる女の子が、なんかヒネた色っぽさがあったねえ。・・・って、この映画は、ドラマの展開とかなんだとかっていうより、役者を見ているのが面白かったよ。ジェラール・ドパルデューも、おかまっぽくなっちゃって。それにしても、フランス映画でここまでラグビーが(しかも、企業クラブチーム)が描かれているのって、初めて見たぞ。本日のギンレイ2本立ては、小品だけど心が満腹になるラインナップだった。
棒たおし!3/25テアトル池袋監督/前田哲脚本/松本稔
城戸賞受賞の脚本なんだそうだが、かなりスキがある。もともと荒削り(すぎる)のか、それとも、監督が手を加えたのか、監督が手を加えさせたのか、それは分からない。けれど、こんなツメの甘い状態で映画をつくってしまうところに、日本映画のいまの状況があるといっていいだろう。本になっていない、とはいわない。棒たおし自体に着想はいい。けど、それ以外の人間ドラマがとってつけたよう底の浅さ。奥行きのなさ。ありきたり。で、つまらないシーンが多すぎる。だから、盛り上がりもなく、テンションも低いまま。たとえば、学内で普通かと工業科が対立しているのなら、その構造を最初に見せておくべきだろう。棒たおしは例年行われてきていたのだから、いまさら騒ぎ立てるものでもんなく、「去年までの雪辱」という地点から話が始まるべきだ。助っ人に頼むガススタンドの兄ちゃんなど、実際にチームに加入したのがいつかよく分からんぞ。家庭問題にしても、平田満の帰還は、浮気が収まったってことか? 娘の「おにいちゃん、女の気持ちが分かってないね」たあ、どういう意味だ? 女だから男が欲しい、ってことを中学生の妹が高校生の兄貴に言っているのか? 三浦友和の教師(こういう役が多いねえ、彼は。その意味でいい感じなんだけど・・・)が教え子と不倫? ってのは、てっきり裏があると思っていたが(たとえば、教え子の少女をラブホテルで働けるように就職の斡旋に行ってた、とかね)、なにもない。あまりにもストレートすぎる。で、彼女は教師とつき合いながらランボーの詩集を読んで、主人公に「人間は何のために生きるのか」なんてほざいてたのか? 思わせぶりもはなはだしい。棒たおし一本槍の勇くん(発音が悪くてセリフが聞き取れなかったぞ)が心臓病というのもありきたり。そこそこの人物が配置されているのに、みんな機能していないんだよな。奥手のメガネの少年など、練習のときにはメガネを外しているからどこにいるか分からんしさ。ひとり、太めの少年が練習のときには目だっていたけど、試合のときには埋没しちゃってるし。とにかく、すべてが中途半端で食い足りない。ラストの棒たおしの試合も、ビデオで撮影された本物らしき試合風景の迫力には完全に負けていたしねえ。あと、面白かったといえば、人形をつかって棒たおしの歴史と攻撃方法を説明するところぐらいかな。あと、人物のミドルショットが少ないのはよくないよ。誰が誰やら分かりゃしない。ちゃんと人物紹介して、顔を見せる。それがないと、こういう群衆劇はいらいらする。主人公の家庭のシーンでも、被写体を柱と鴨居でフレーミングしたり、手前にモノを置いてなめたり、小細工しすぎ。ごくフツーに、分かりやすく撮ればいいんだよ。基本ができてから細工をすればいい。これじゃ、バラックのような映画としか言えないぞ。
がらがらかと思いきや、そこそこ混んでいた。これは、LeadとかFLAMEとかいう、私の知らないグループのメンバーが登場しているからだろう。キャーなんて声も聞こえたからね。そんなことは知ったこっちゃないが、アイドル映画の要素もあるのだったら、少年たちのキメのポーズなんてのも入れてあげればいいのにね。それにしても、つまらない映画だった。やっぱ、脚本が悪いんだろうなあ。

 
 

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