2003年5月

ミー・ウィズアウト・ユー5/1シャンテシネ3監督/サンドラ・ゴールドバッカー脚本/サンドラ・ゴールドバッカー、ローレンス・コリアト
これは、よく分からん。女の友情が串となって、男をめぐるあれやこれやがあって・・・というクロニクル。うーむ。分かんない。だいたい、幼友達がえんえんと仲良し2人組でべったり。大学時代はルームメイトで、SEXの相手も(知らないうちに)共有する。30ぐらいになってもまだつき合っているんだからなあ。
ホリー(知性と謙虚)とマリーナ(美貌と行動)って、双子の姉妹みたい。他人以上に親密で、毎日話をしている。家が別なら電話でね。互いに補完する部分があるから惹かれ合うのかも知れない。でも、傷つけるのはマリーナで、傷つけられるのはホリーの役割。この時点で、「なんで別れないの?」って思うんだけど、ホリーが「別れよう」と言い出すのは30歳ぐらいのときだ。遅すぎるよ。まあ、いろんなエピソードがあって、あれやこれやで、結局ホリーはバージンを捧げた相手(マリーナの兄ナット)と結婚する。・・・うーむ。なんかまどるっこしい。この、ホリーとナットがマリーナから逃げるシーンは、まるで「卒業」みたいだな。ここで終わるんだろう、と思っていたらつづきがあった。それから数年。ホリーとナットの子供が遊んでいて、庭にはマリーナがいるじゃないか。しかも、「弟をいじめるな」といってる。ってことは、マリーナはあのユダヤ人と結婚して子供を2人もうけたのか? それにしちゃ、旦那はいなかったな。ってことは、マリーナの父親と同じようにどっかに行っちゃったのかな?
というわけで、2人の少女の無軌道な行動や反発やあれやこれやに共感することはなく、ハラハラしたり、イライラしたりしながら見終わった。見終わって、だからどーした、という感想しか残らない。うーむ。よく分からん映画だ。でも、家族をステレオタイプに描く映画が多いなかで、刺激的で不思議で、見ていて楽しかったけどね。
星に願いを。5/1シャンテシネ1監督/富樫森脚本/森らいみ、冬月カヲル
これで泣かせようってのは、ムリだな。どーもテンポがのろいというか、テンション低め。盛り上がりにも欠ける。とくに、前半はだらだらしすぎ。必要なことをさっさと見せる方がいい。実際、後半になって外見が元の自分じゃなくなってからのドタバタ劇の方が話は面白いのだから。ムダなシーンが多いのもうっとうしい。回想シーンと現実との交流部分では過剰に説明しすぎ。念押ししなくたって、観客はちゃんと覚えてるよ。で、2人の愛情についてだが、本当に2人は愛し合っていたのか? ラストで主人公とヒロインが抱き合ってキスするわけだだが、これを見て「おまえら、生きている間は、そんなに相手を意識していなかったんじゃないか? そんなに互いに求め合っていたか?」という疑問が湧いてしまった。だいたい、主人公がヒロインが好きだった、って証拠はない。橋でほのめかされても気づかなかったし、日記だって実は書いてなかった(あの日記が白紙だったってのは、読んでいるときにバラしちゃつまんないよ。あとでヒロインが見たときに白紙だった、っと分かるべきだろう)。何となく意識してたけど、失ってみてその存在の大きさが分かった・・・てな関係なら、それらしく描かないと「なるほど」と思えない。これを解消するには、前半で2人がキスまたはSEXぐらいしてる必要があるんじゃないか? 後半では、主人公は顔が変わっているという設定なのだ。それでいて、ああまで抱き合うにはそれなりの根拠が欲しいぞ。
最も気になったのは、主人公の背景だ。こういうドラマだと天涯孤独の孤児っていのうは都合がいいだろう。でもさ、そんな人ってなかなかいないぜ。もし孤児だとして。その主人公が受取人を決めずに生命保険に入るってのは、おかしくないか? やっぱり、彼がどんな出自で仕事はなんで生きているときの夢は何だった・・・となことを描くべきだろう。そうすることで、彼が失明し唖となった絶望感も大きく胸に迫ってくるはずだ。だいたい、事故に遭ってからの生活費は誰が出していたんだ? なんて考えるだけで、話はがぜんリアリティを失ってつまらないものになっていく。そういうツメが甘いと思う。
トマトジュースのイッキ飲みって面白い動作があるにもかかわらず、上手く活かされていない。喫茶店のオヤジは、殴る前になにか気づくべきだろう。市電というのは、なんとなく面白い。けど、それだけのことで、中途半端。ヒロインの竹内結子については、僕はテレビドラマをあまり見ないので、名前は知っていても顔はよく知らなかった。ふーん。ふつーのオバサン顔しているんだね。鼻翼がつり上がっていて、鼻の穴が三角に見えているのはあまり好きじゃないな・・・。
NOEL5/7テアトル池袋監督/梨木友徳脚本/梨木友徳
巻頭に「NOEL エピソードVII」とでるのは何なんだ? まあ、それはさておき。コメディとしてつくるなら、ちゃんと一貫してコメディにしろ、といいたい。ぜんたいが中途半端。ラスト・クライマックスの銃撃戦なんか、出来の悪いコントでしかないと思う。なんでこんなっちゃうのか。なんで、(ちゃんとしたコメディではなく)こんなに薄っぺらで上辺だけのコントになっちゃうのか。それは、おそらく人間に対する興味が希薄だからだと思う。だって人が描けていないんだもの。しかも、最初の頃のわけ分からんあれやこれやに戸惑った。そうしたわけの分からん部分については最後の方でネタ説明(これが、ナレーションやらセリフで説明するんだよ、まったく)があるので、なるほどあれはそうだったのか、と思えるんだけど。でも、ピースがぴたりとハマって納得、ってわけにはいかない。布石としてバラまかれているのは断片だけで、そんな断片の根拠を最後にまとめて解説されたってハッという驚きも何もありゃしないのだから。さてさて。実は本日はちょっと眠くなる薬を飲んで、しかも昼食の後だったので40分過ぎぐらいから半睡になり、10分近く寝てしまった。というわけで、つづけてもう一度見たのであります。だって、時間があったし、だいいちもったいないからね。けっして面白かったからではないぞ。
NOEL5/7テアトル池袋監督/梨木友徳脚本/梨木友徳
というわけで2度目。結末が分かっているから最初の中川家のシーンも理解できた。長曾我部蓉子やベッキーの翻意も理解できたし、楽園という組織もわかっていたから辻褄は合う。なるほどねと思う。思うけど、初めて見ても、なるほどって思えなきゃつまんないよな。それと。1回目の大半のシーンで、主人公の"みかさ"と復讐者の男を同一人物だと思っていたので、1回目は戸惑いの連続だった。2回目で注意してみると、まあ描き分けはされているけど、髪が長くて染めていて銃をもっているのは同じだから、混同されてもしょうがないと結論づけた。お話の最も重要な構成である復讐者の存在と行動がわからないと、この映画はつまらなくなる。だから、この両者の見分けがつきにくいという時点で、ダメだなこりゃ、である。ベッキーが平良とみにまくし立てるシーンは、おかしい。長曾我部蓉子のふわふわした感じは魅力的。それから、「レオン」の少女みたいな印象を受ける、児童虐待の被害者である少女・村上東奈の話し方がなかなかいい。出番が多いのに活かされないのが、平良とみだな。せんべいの話にしても、友だちが食べちゃったのではなく、上官にあげた、ってのはどういうことだ。それが彼氏のためになる、って何のこと? ちと考えて、それは、入隊する初年兵である彼がいじれられないようにするためか? と思ったけど確証はない。なんか、ここのところは話の中のキーポイントのようだが、分かりにくいぞ。コントとして見たとき、面白いかな、というギャグがいくつかないわけではない。けど、不発が圧倒的に多い。ギャグ自体がつまんないし、映画自体にシリアスな部分が埋め込まれていたりするから、なんでこんなところでそういうギャグをかますんだよ、って違和感を覚えたりしてしまったのだ。もちっと、映画に対する、または、ストーリーに対するスタンスをはっきりすべきだろうな。表面的に面白そうにできていても、深みがなければ笑うことも楽しむこともできないのだから。それと。エンドクレジットの後に、その後のエピソードを何度も付け加えるやり方っていうのは、なんかくどくないかなあ。
シカゴ5/8渋谷東急3監督/ロブ・マーシャル脚本/ビル・コンドン
おお。本格的でオーソドックスなミュージカルなのだな。現実の舞台シーンばっかし・・・って先入観があったのだけど、気持ちよく裏切られた。それと、予告編ではキャサリン・ゼタ=ジョーンズの舞台姿が印象的だったので彼女が主人公かと思ったら、話はレニー・ゼルウィガー中心に進んだのも意外だった。で、お話はシンプル。どこかで見たことのあるような骨格でもある。テーマは割とはっきりしていて、「犯罪も囚人も死刑も見せ物になる。それがシカゴ」「演出次第で犯罪者も無罪になり素人もスターになれる。それがシカゴ」というアイロニー。まあ、ベースが芝居だから分かりやすいのだろう。現代にも通じる内容なので、誰でも受け入れやすい内容だ。魅力的なのは、キャラクターの造型(そろいもそろって、みんな身勝手!)。これがしっかりしていて、ストーリーも練り上げられていて瑕疵がない。しかも、そこに圧倒的なミュージカルシーン。これは、ミュージカルが好きになっちゃうなあ。って、どっちかというとミュージカルは好きな方じゃない。「ウエストサイド」も「シェルブール」も見てないぐらいだから。にもかかわらず、いかにもミュージカルなこの映画は、かなり魅力的だ。ミュージカルシーンも、ただ歌と踊りがあるだけじゃないのが、いい。とくに、腹話術と操り人形のシーンに、感動した。皮肉が効いていて、しかも、人形らしさもちゃんとでてるのが素晴らしい。地のドラマ部分も密度が濃いなあ。ムダなシーンは全くといっていいほどなくて、テンポよくスピーディ。必要最低限の描写で、これがまた的確に見せてくれる。この場面転換の見事さは、舞台が先に会ってのことなんだろうな。映画にすることで無駄に饒舌にならず、切れ味がよくなってるんじゃないかと推測する。
ミュージカル部分の、舞台の部分のほとんどがレニーやキャサリンの妄想からなっていたのだね。リチャード・ギアがでてくる部分は本心や裏の解説だ。フツーのミュージカルなら、ただ単に歩いているところとか、セリフで言う部分や、気持ちを歌にしてオシマイだけど、そうじゃない。しかも、歌が暗喩的な使い方をされていて、しかも、それがすべて舞台を借りて演技されているという設定だから、地のドラマの部分から浮いてしまうということがない。極めて自然に歌と踊りへ移行できているのだな。この演出はなかなかだと思うぞ。
で、キャスティングだけどね。レニーは頭が軽くて軽薄なデブってイメージがあるので、どーも彼女がステージで歌っているのがしっくりこなかった。素肌をさらした肉体を見るとかなり筋肉質で、「ベティ・サイズモア」や「ブリジット・ジョーンズの日記」なんかのときは故意にぶよぶよにしてたのは分かる。けど、顔がぶよぶよゆるゆるなんだよなあ。スリムなボディなのに顔がでかい。軽薄女ならうってつけなんだけど、こういうフラッパーな雌猫は似合わないと思うぞ。一方のキャサリンの方は悪魔的でゲルマン人的な骨格だから、なかなか色っぽい。あの、口が不適に曲がるところがいいなあ。なんだけど、素肌をさらしたときの肩幅と胸の厚みが逞しすぎるぞ。あれは、女か? と疑ってしまう。なんとかならなかったのかな。
シカゴの1920年代というのにギャングはでてこない。音楽はジャージーじゃない。チャールストンもない。いかにもなフラッパーやイット・ガールなファッションもあまりでてこない。これって20年代? って思ってしまうくらいだ。きっと考証にこだわるより、らしさ、を目指したのかも知れない。でも、それは成功しているように思う。20年代にとらわれることでリズムや大胆な踊り、生々しさ(犯罪だってミュージカルだって、演出次第でどーとでもなるシカゴの時代のリアリティみたいなの)が削られることを避けたんじゃないのかな。それにしても、何度も見たくなるような映画だなあ。
24アワー・パーティ・ピープル5/9シネセゾン渋谷監督/マイケル・ウィンターボトム脚本/フランク・コットレル・ボイス
前知識なくてよく分からん。ま、あっても分かんないだろうけど。本業はテレビのアナウンサーだけど趣味が高じてインディーズ・レーベル会社をつくった男と、そこからデビューしていったグループの物語なのかな。本当のことなのかフィクションなのか分からなかったけど、最後の方に本物がディレクター役ででている、と紹介されていたから、ノンフィクションなのだろう。しかし、グループの名前は、セックス・ピストルズしか分からない。知識がないから、主人公のトニーがどれほどのものか、デビューしたり死んだりヒットしたりしていった若者たちがどれほどのものか、まったく分からない。知っている人にはお宝映像だったり、貴重な内容だったりするのかも知れないけど、僕は何も感じなかった。感じなかったけど、2時間飽きなかったぞ。主人公のトニーが、映画の中の人物でありながら、突如、観客に向かって状況説明をしたりするのが、よくある手ではあるけれど、面白かった。そして、20分に1回ぐらいは大笑いできるネタがあったりするのが、おかしい。真面目なのかふざけているのか、よくわかんないけど。きっとふざけているんだろうな。だって、その当人や関係者まで映画の端役としてでてしまっていたりするんだから。
まあ、日本でいえばイカ天バンドみたいなのを発掘して、金儲けはそっちのけでステージにだしてやって、ギャラは山分け。金が入ったらドラッグと女に使っちゃう・・・って、そんなテレビのキャスターがいたら、日本じゃたいへんだろうよ。イギリスのロックが、生々しく上昇志向をもっていた1980年代から90年代の初頭にかけての物語だ。だーっと疾駆するように描かれているから、呼ばれている名前と、その呼ばれている当人の顔が一致しなくて混乱したり、いったいファクトリーのメンバーは誰と誰なんだ? とか、細かいことで分かりにくいところはあるけれど、そういう細かいことはどうでもいいんだと思う。へんてこりんなプロデューサーがかつていた、ってことが分かりさえすればいいんだろうと思う。じゃあ、なぜドキュメンタリーにしなかったんだ、という疑問は残るけどね。きっと、回想だけでは分からない狂乱の日々を、ドラマのように表現したかったんだろうなあ。かといって、生々しいドラマにはしたくなかった。ちょっと気恥ずかしさが入り交じった、そのせいでホラ話も混じったような話にしたかったのではないだろうか。というところで、公式HPに行って解説を読んでみるか。
メイド・イン・マンハッタン5/13新宿武蔵野館2監督/ウェイン・ワン脚本/ケビン・ウェイド
貧乏な女中が偶然にも金持ち旦那に目をかけられてハッピーエンド、ってなシンデレラ・ストーリーは、よくあるパターン。で、この映画はロマンチック・コメディに分類されるんだろうけど、コメディの部分がちょっと薄いんだよ。どっちかっていうと、リアルなんだな。だから、ジェニファー・ロペスがあれよあれよというまに客の高価な洋服を着てしまい、さらには客を騙して一緒に散歩としゃれ込む・・・っていうところからして、凄く違和感を感じてしまう。こっちは「服が汚れて後始末でもめるのかな、服を着たことが上司にバレて首か」なんて、憂鬱な思いで見ていた。しかも、高価な衣装はロッカーに放り込まれたりする。こんなこと、並の神経をしてちゃできないぞ。しかも、服がロッカーから取り出され、客の言いつけ通りに店に返されたかのかどうかも気にかかって、どーも胸の辺りがもやもやしっぱなし。支配人を目指している知性派で、社会問題にも関心の高い女はこんなことはしないぜ! いらいら。てなわけで、本当はこの映画で最も笑うべきシーンで深刻になってしまって全然楽しめなかった。やっぱこういう役は、性格がいい加減そうなレニー・ゼルウィガーとか、可愛いけど頭悪そうなリーズ・ウィザースプーンとか、こう責任の所在を気にしなくてもいいような女優がやるべきだと思う。ジェニファーでは、マジになりすぎてしまう。んでもって、恋に落ちる下院議員だけど、レイフ・ファインズって暗すぎないか? こっちも、もっと尻軽な感じのヒュー・グラントとか、存在自体がちょっとコメディってな役者がいいんじゃないかな。じゃないと、こういうお伽噺は、つらい。肝心なところをすっとばしても追求されないような、もっとお伽噺的な映画にしてくれた方がよかったと思うぞ。最後はハッピーエンド、って分かっていても、いまひとつ共感することはできなかったなあ。
サビでノラ・ジョーンズの大ヒット曲がかかる。曲はいいんだけど、映画としっくりこないなあ。たまたま、ちょっと散歩しただけなのにさあ。女好きの下院議員が「こりゃ一発やれそうな女だ」って思うのは当然としても、ジェニファーの方が恋に落ちた、って描写があるわけじゃない。こういう2人が純愛で結婚で、っていうラストはハッピーな気分になれるけど、いまひとつ「よかったよかった」って喜んでやれない。まあ、ジェニファーを見る映画だって割り切れば、パーティでの生演奏だのノラの歌だのっていう演出は、ヒット曲にあやかった歌謡路線だなあ、ってことで理解できなくないけどね。
ストーカー5/14ギンレイホール監督/マーク・ロマネク脚本/マーク・ロマネク
原題は"One Hour Photo"。1時間仕上写真の意味かな。かなり昔の夏、現像所でバイトしたことを思いだした。直径20cm以上に巻かれたネガをネガ袋へ入れてハサミでカットする仕事だった。この映画でもロビン君がコマのまん中を真っ二つにカットしてしまうシーンがあった。あるんだよなあ、何も映ってない真っ黒な写真が。上下にふってある数字とABの文字からコマとコマの間を推理して切ったりしたことを思いだした。最近じゃラボまでもっていかなくても、店頭で現像からプリントまでできちゃうからなあ。そうそう。素人ヌードらしきものもチラッと見たぞ。もっとも、カラー調整をやってるバイトはいなかったか、もしくは年季の入ったバイトじゃなかったかな。こちらは、もっぱらネガのカット専門だったっけ。なんとことを思いだしてしまった。
「ストーカー」というタイトルは、誤解を招きそうな気がする。相手をつけねらったり危害を加える、というより、やさしく見守り、しかも、崩壊の原因をつくった男に懲罰を与える、だよな。世に言う、カトーカーとは違うだろ。第一ロビン君は、他人の私生活に具体的に入り込もうとしていない。適度に距離を置いていた。ところが、歯止めが効かなくなって犯罪行為に走っちゃたんだな。その原因は、亭主の浮気だったのだ・・・。そもそもロビン君子供の頃、親に幼児ポルノ撮影を強制されたせいで他人とまともにつきあえなくなっちゃった。けど、たまたまDPEで仕事をしていて、自己投影できる理想的な家族を発見したわけだ。そして、陰ながら怪しく、しかし、温かく見守ってきたわけだ。なぜかっていうと、ロビン君には家族という大きな欠落があったからだ。その欠落を埋めるために、仕事で入手した理想的な家庭の写真を通して自己投影していた。まるで、肉親の叔父さんのように。もちろん、想像だけの世界で、適当な距離を置いて。ところが、亭主の浮気でのせいで、その理想的な家族に亀裂が入ってしまったのだ・・・。だから、叔父さんがお仕置きするってな感じで亭主と浮気相手を恫喝しに行った、ってことだろ。現実と想像の世界のバランスが崩れちっゃたんだな。ロビン君がもっていた陰と陽の世界の、陰の方が暴走しちゃったてことだよ。プリント(陽)じゃなくて、ネガ(陰)の方が巨大化しちっゃたというわけだ。ま、ビョーキってことだな。もっとも、スーパーの店長にブラフをかけたのは、ちと危ない気もする。といっても、ロビン君はロリータじゃないだろ。幼児姦も趣味じゃないと思うぞ。そういう危ない人より、よっぽど安全な男のような気がする。
だいたい、この手の勘違い野郎っていうのは、よくいるぞ。妄想ぐらいだれだって抱くしな。要するに、犯罪に走っちゃったってのがヤバかったってことだろうなあ。
子供が乗っていない木馬、目から血が噴き出す夢、清潔すぎるくらいモノがなくて白い部屋、アニメ「シンプソンズ」、竜巻のニュース映像・・・。意味深長なイメージがいくつか盛り込まれている。いかようにも読めたりして面白い。子供の頃、家族写真を撮られたことがないせいで、家族への渇望を抱くロビン君。フリーマーケットで買ったどこかの母親の写真。いや、そんな写真はつまらない。むしろ、誰もレンズを向けない被写体の方が、写真として面白い。・・・おお。芸術家になり損ねたのか、ロビン君は。いや、反動かなあ。人を取ることもなく、家具の写真を撮ってしまった少年。その少年の心と自分の心は同じだ、と思いこんだりするロビン君。ラストは、もう家族なんか追い求めない、私生活の中に家族の妄想をもちこまない、誰も関心をもたない日陰の存在のような被写体を愛するんだ・・・てな感じになってしまうロビン君。とうとう、バランスを崩して壊れちっゃたの過なあ。
というわけで、日常からのちょっとした逸脱を描きながら、なかなかスリリングな映画だった。殺しや暴力を描かずに、どきどきさせる映画っていうのが、少なくなっているからなあ。そういえば、刑事役で「ER」でピーター・ベントン役を演じているエリック・ラ・サールが出ていた。医師の役が頭にこびりついちっやてるので、なんか、ちょっと奇妙な感じだなあ。
TAXi35/23渋谷パンテオン監督/ジェラール・クラヴジック脚本/リュック・ベッソン
うーむ。評判がよくないけど、その通り。つまんなかった。オープニングでのローラーブレードがちょいスピード感あったぐらいで、クルマが快走したりアクロバットしたりするシーンがない。巨大バギー(?)がクルマを踏みつぶすのは面白くもないし、雪山をクルマが走るのも大して驚かない。で、つまらないギャグばかりがつづく。っていうか、主人公と刑事、刑事と同僚のレゲエ男、刑事と所長、刑事と女房、主人公と彼女・・・っていう漫才が、たわいなさ過ぎて面白くないのだよ。セリフで説明するより、映像で見せてくれって感じ。まあ、男女がくっついてしまってドタバタがやりにくいのかも知れないけどね。主人公の彼女、1作目のときはとても色っぽくて可愛いなと思ってたけど、こうまで登場時間が長くてじっくり見られると、なんか差ほどでもないなという印象。ちらっと色っぽく見せててたほうがいいみたい。中国人の悪役女も、色っぽくなくてつまんない。とにかく、何もなさそうで何もない映像の連続は、飽き飽きしたぞ。
エニグマ5/23渋谷東急3監督/マイケル・アプテッド脚本/トム・ストッパード
瑕疵は多いもののスリリングで楽しめた。もっとも、内容のディテールの半分も分かっていないかも知れないのだけれど。きっとこれは、字幕のせいではないかと思う。もともと情報量が多くて専門用語が多分に含まれている。それを、ぱっと見て分かるように短縮するのが難しかったのだろう。けれど、やっぱり核心的な部分の言葉「シャーク」とか「ボンブ」なんていうのが何を指しているのかとか、暗号解読組織の構造とか、説明してもらわないと分からないところがある。本当はもう一度見ようかと思ったぐらいなのだけれど、字幕が変わるわけではない。理解はある程度深まるかも知れないけど、すごく分かる、ってところまで行くとは思えなかったのでやめた。でも、時間が許せばもう一度見たかった。
時代色がいい。ラジオ、チャールストン・・・。アメリカとはちょっと毛色が変わっていて、地味なところがまたいい。Uボート撃退のための暗号解読と、不審な暗号解読の2つの話が並行して進むのだけど、そのごっちゃな進行具合に翻弄され、あれあれ? となる。話の面白さは、実は不審な暗号の方にある。これが、スターリンの虐殺事件に絡むというもので、これには「おお!」と思ってしまった。数カ月前、スターリンは国内では粛清、国外では強制収容所への連行などで、数100万人を虐殺したという資料を読んでいたので、これにはなるほどと思えたのだよ。
問題は、分かりにくさをどう整理するかなんだけど。字幕の問題はさておいて、暗号解読チームのメンバー個々を、もう少し描写すべきだったろうな。でないと、ラストでスパイが発覚したとき「おお、あいつか!」ということにはならないからね。チームリーダーのエイゼンシュテインみたいな顔をした男かな? と思っていたけど、違ってしまって残念。それと、情報局のリーダーってのの位置づけがよく分からなかった。警察にも軍部にも入り込んでいるってのは、日本でいえば特高みたいなものなのか? その辺りの輪郭をもうちょいハッキリさせると、ストーリーにメリハリがでたろうなあ。惜しい。んでもって、映像のディテールにもうちょっと凝ってもらって描き込んでくれたら、申し分ないはず。
クレア役の女優は、男を惑わすにしては色気不足。痩せすぎ。ベッドシーンも要らない。清純さの裏に潜む悪魔的な感じをだして欲しかった。ヘスター役のケイト・ウィンスレットはデブさブスさがちょうどいい。男優連がみな見かけない顔っていうのも、これはいい。ラストの、その後の彼女を見かけるシーンは、ありきたり。なんとかならんかね。ってな具合で、注文はあるけれど、なかなかいい映画だったぞ。
アバウト・シュミット5/26新宿武蔵野館1監督/アレクサンダー・ペイン 脚本/アレクサンダー・ペイン、ジム・テイラー
自分が歳をとってきたせいか、そうそう、うむうむ、と納得しながら見たシーンも多い。ただし、そういうシーンは老後や葬式や親を顧みない娘とか一般的な事柄ばかりだ。しかも、こういう事柄については映画で改めていわれなくても日常的に情報は入ってくるから、目から鱗という訳にはいかない。適当に羅列して共感を得ようという姿勢が見えるし、掘り下げ方も今ひとつ。シュミット氏の本心に肉薄したとは言えないんじゃなかろうか。まあ、所詮は他人の人生であり老後だ。自分とオーバーラップするところはそれほど多くない。自分だったら・・・料理も選択もするし、暇ができたら映画をもっと見るだろうし、あれもする、これもするとなってしまいそうだ。間違っても永年勤めた会社にふらふら寄りついてしまうようなことはないだろう。娘に未練がましいことは・・・将来的にするかも知れない。しれないが、所詮は自分の子供だ。欲目でみてもしょうがない。いみじくもシュミット氏が映画の中でいっている。自分が死んで、何年もすれば、存在したことすら忘れてしまう。そう。そうなのだ。
ほんとうは深刻なテーマを扱っていながら、完全なるコメディになっている。いくつかのところで苦笑させられた。でも、笑いは爽快感につながらない。笑いのめすにしては、シリアスすぎる危ういテーマなのだろうなあ。この、ややもすると単調で悲壮感に陥りそうな部分をかろうじて救っているのが、月に220ドル(だっけ?)でアフリカ難民の子供の養父になれるというシステムへの加入だな。自分より不幸な存在を見ることで我が身の幸せ(優越感)を感じるってやつだけど、それでシュミット氏の不幸はとりあえず帳消。なんとかバランスがとれているのかも知れない。まあ、ああいうジジイにはなるまいと思うけれど、そうならない自信はないなあ。だって、僕も孤独で寂しがり屋だからね。というわけで、とくに悪いとは思わなかったけど、とくに素晴らしいとも思わなかった。
キャシー・ベイツのタレパイを見せつけられたのは、げ、だけど。まあ、あれもメイクかCGかでタレ方を激しくしてるんだろ。アメリカでも日本みたいな披露宴があって、新郎新婦が前に座って、歌ったり踊ったりスピーチしたりするんだな、っていうのでちょっと驚いた。エンドクレジットで、ジャック・ニコルソン専門についているメイクやらなにやらが7、8人いたのにびっくりした。
小さな中国のお針子5/27テアトル新宿監督/ダイ・シージエ脚本/ダイ・シージエ
中国映画にありがちな教育的側面とか、その果てに待ちかまえていた暗い現実だとかいうのがまるっきりない。で、よーく見るとこれがフランス映画だった。監督は実際に下放された経験がある中国人で、のちにフランスに留学。彼の地でこの原作本を書いたらベストセラー。もともと監督だったので映画化も自分でしたらしい。でこれ、本当の中国で撮影していて、修正を迫られたのはわずかだったらしい。中国政府も甘くなったもんだ。映画をみれば文革が失敗政策であり、中国の山岳地帯の人々が文盲で無知ってことがありありと描かれているのに、よくオーケーしたなと思う。
話は文化大革命の中国。下放された青年2人が、バルザックの小説を利用して無垢な村の娘をかどわかす。娘は無知を自覚して自律。都会へと旅立つのであった・・・ってなストーリー。けど、文革期の緊迫感はまるでない。昼日中から3人は肌を寄せ合って本を読んだり寝転がったり水浴びしたり。そんなことをしていたら目だちすぎだろ。誰かに見つかって村長さんに告げ口されて、反革命分子の烙印を押されてお仕置きされちゃうぞ! という心配をよそに、ちちくりあう男女3人・・・。という話が、ちょっと辛かったけどいい想い出、ってな感じで描かれているのだ。いつか現実の落とし穴が・・・という心配はまったくの杞憂だった。
以上の感想が悪口かというと、さにあらず。実にゆるやかで大らかで、気持ちの良い映画だった。プロパガンダやメッセージ性が薄れることで、非現実な物語として上手く成立しているのだ。まあ、中国の映画っていうのは、抑圧された人民をを描くもの、っていう先入観がこっちにありすぎるのかも。単なる男女3人の恋物語で、またまた時代が文革と下放だったって考えればいいのかも。悪い人間が出てこないというのも好印象の原因かも知れない。口うるさい村長も、見方を変えれば人のいいオヤジだ。難敵と見えたお針子のおじいちゃんは、じつはハイカラじじいだったし。外国の書物だって、ちょっと隠れて読むこともできた・・・。あの時代への恨みがましさや非難めいたことが描かれていない。まるで、ほのぼのとした夢のひとときのように描かれている。たとえ中国の検閲による影響があるにしても、若い世代も丸くなったなというか、文革も遠い昔の歴史の1ページになっちゃったんだなという印象だ。こうやって中国も、これからつくられるだろう中国映画も変わって行くんだろうなあ。だって、山の中にパラボラアンテナだもんなあ。
多少不満をいわせてもらうと、ヒロインのお針子があんまり魅力的ではなかったこと。もうちょっと小悪魔的な感じが欲しかった。青年2人が似たような顔立ちで、ほとんど区別がつかなかった。もうちょっと違う顔にした方がいいだろうなあ。
帰りの電車の中で読んでいた「バカの壁」(養老孟司)に「知るということは、自分がガラッと変わることです。したがって、世界がまったく変わってしまう。それが昨日までと殆ど同じ世界でも」という一節があったのだけれど、この言葉はこの映画のテーマを的確に語っているように思えた。そうなんだよなあ。そして、ニンフのようだった娘は、娘から女になって旅立っていったんだよなあ。それにしても、見ていて気持ちがゆるやかに解きほぐされてくる映画なんて、1年にそう多くはない。これはそういうリラクゼーション効果のある1本だった。
Kissingジェシカ4/29ギンレイホール監督/チャールズ・ハーマン=ワームフェルド脚本/ヘザー・ジャーゲンセン、ジェニファー・ウェストフェルト
わずか2カ月半前にロードショー館で見た映画を名画座で見る。妙な感じ。ま「スコルピオンの恋まじない」のついでなんだけど、冒頭に近いところでの疑問を解消するためもあった。
1.なぜヘレンは急に女性の相手を求めるようになったか?
2.なぜジェシカはヘレンの求めに応じる気になったか?
確か、それに関するようなシーンはあったはず。けど、テアトル タイムズスクエアは各回入れ替えなので確かめられなかったのだ。というわけで、見逃すまいと思いながら見ていたのに、肝心のシーンと字幕はまたもやさらりと過ぎ去ってしまった。「リルケの詩」ってキーワードが頭に残ったぐらい。うーむ。仕方がない。というわけで、「スコルピオン」が終わった後にもう一度、冒頭だけ10分ぐらいを見た。今度は、なんとか分かった。っていうか、別に聞き逃しても見逃してもいなかった。1.も2.も、どちらも理由ははっきりと語られていなかった。そう。あまりにもあっさり過ぎて、頭に引っかからなかったんだよ。ヘレンが友だち募集の新聞広告を出したのは、単なる気まぐれ。ジェシカが応じたのも気まぐれ。ただそれだけだった。けど、別に見えてきた部分があった。ユダヤ教徒だ。これって、たまたまユダヤ教徒じゃなくて、かなり重要なファクターなんだな。オープニングの教会でユダヤ教徒ってのが分かってないといけないのだな。んで、ユダヤ教が同性愛に走るのは、もしかしたら禁忌なのかも・・・。でないと、ジェシカがヘレンを兄の結婚式に呼ばなかった理由が見つからない。それから、最初の方でジェシカが読んでいた本はリルケなのだな。そのフレーズが広告に引用されていたから、ジェシカはヘレンに会ってみようと思ったんだな。しかし、リルケならストレートな女が引っかかる、とヘレンのホモの友だちに見透かされていたけど、ジェシカはものの見事に引っかかっているわけで、この時点でジェシカは大して高尚な女ではないことが分かっちゃうのだな。なるほど。それから、最初のギャラリーのシーンではヘレンの男たちや、色っぽい女たちがうようよ出てくるけど、まあ、こういう男女関係に終止符を打ちたかったっていう気持ちもあったんだろう。でも、いろんなキャラクターがうようよ出てくるけど、ここのシーンだけって役者がずいぶんいたね。それから。冒頭のジェシカの部屋のシーンでは、ジェシカはちゃんと絵を描いていた。どんな絵なのか、そのタッチも見えていた。なるほど。いろいろ布石は打ってあったのだな。けど、さらさらと流れるような描き方で、セリフも説明を省いたようなものが多かった。だから、漫然と眺めているだけでは分かりにくかったのかも知れない。・・・なんてことが分かったのだった。といいつつ、最初に見たときは20分過ぎぐらいから、ちょっと寝てしまった。ははは。
スコルピオンの恋まじない4/29ギンレイホール監督/ウディ・アレン脚本/ウディ・アレン
いや、いいね。ウディ・アレンだね。催眠術という重要なネタがバレバレのままストーリーが展開していくのだけれど、それが最終的にあまり苦にならない。ま、途中でちょっとイライラさせられたけどね。具体的には、フィッツジェラルドにはいつキーワードの電話がかかってくるのだろか。C.W.はいつどうやって気がつくのだろうか。その2点にからんでどう展開するのだろうか・・・。それが気になって仕方がなかった。まあ、最終的には予想は裏切られて(といっても、予想の範囲内でだけど)いく。ラストも、そうなるのかなと思わせて、やっぱりそうなった。もっとも、催眠術とキーワードがあんな風に使われるとは思わなかったけど。というわけで、観客の方もすっかりウディ・アレンの術中にはまってしまって、楽しませてもらった。
寓話的なお伽噺である。1940年とクレジットがでるが、時代的な雰囲気は建物や衣服に現れているだけで、当時の事実や事件、時代の空気は描かれていない。魔術師や保険屋、探偵などという設定に都合のいい枠組みを借りているだけのこと。この世のどこかにあるだろう、閉じられた世界で起こった男と女の不思議な物語、以上のものはなにもない。お話は舞台劇の翻刻のような感じで、登場人物たちはみなステレオタイプ。与えられた役割を演じているという印象が強い。もちろんそれは演出の狙いであって、人間らしさや愛憎をリアルに描くわけではないから、これでいいのだ。なんたって寓話的世界の人物たちなのだから。時代色は、ちょっと色あせたオレンジ色の画面によって、その多くがかもしだされている。この色が、あるところで突然、グリーンの色調に変わる。後半、ウディ・アレンが乞食の情報屋から魔術師の名前を聞き出すシーンだ。この、なにげない画質によるレトリックがも洒落ている。
ヒロインのヘレン・ハントにはあまり感情移入できなかった。ちょっと顔がきつすぎるなあ。ジャーリーズ・セロンは可愛い。もっとも、彼女がウディ・アレンにメロメロになるって設定には、かなりムリがあるんじゃないか。ジジイになっちまったウディ・アレンには、痛々しさが感じられたしね。もう少し若さがあれば、楽しさも増したろう。気になったのは、秘書役(?)の娘。なんとなく可愛かったなあ。保険屋の探偵仲間、外部の探偵事務所の連中、刑事・・・。みんなステレオタイプで、楽しい。昔風のほのぼのとした物語を、原題にちゃんと見せてしまうのだから、ウディ・アレンは凄いね。
で一点、おかしいなと思った部分。それは、後半、フィッツジェラルドの家に不倫相手の社長が来ているところに電話があって、フィッツが電話をとる。で、社長をだせといわれたのか受話器を変わるシーンだ。2人の不倫関係は公表していない。なのに、彼女の家にいると誰かに伝言しているっているのは、変だと思う。

 
 

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