2003年6月

トゥー・ウィークス・ノーティス6/6渋谷東急2監督/マーク・ローレンス脚本/マーク・ローレンス
設定やお話は面白いと思うんだけど、見ていて面白かったかというと、さにあらず。どーも、あっさりし過ぎている気がした。ひとつに、ヒューとサンドラの2人の思惑が違うところにあって、対立しているのだということがドラマとしてあまり描かれていないからではないか。サンドラがヒューの顧問弁護士になった理由にも説得力はないし、約1年後に辞める気になった理由もハッキリしない。辞めるというサンドラをヒューが執拗に阻止する理由も分からない。だいいち、2人が惹かれ合っているということは映画を見る前から分かっているのに、惹かれ合っている様子がぜんぜん描かれないのも腑に落ちない。まあ、端的にいえばドラマとしては素っ気ないし、つまらない部分が多すぎる。とは思うのだけど、ひょっとしたらこの映画は、英語の会話がちゃんと理解できないと面白くないし理解が浅くなるのじゃないかとも思ったのだ。たとえば、サンドラが日本語で「とんでもない!」というのは、どういう意味があるのだろう? とか、NYMの試合で新庄がヒットを飛ばすシーンが大写しになるのは興味深いけど、2人が「ヤンキースの試合を見に行け」とヤジを飛ばされる理由が分からない。サンドラが辞めるときに部下が韻を踏んだ詩を読むのに、サンドラも即興で韻を踏んで返したりする。これは、ネイティブが見たらどの程度おかしいのだろう? とか、理解不能なシーンや会話がたくさんあったのだ。日本人でも分かる下品な笑いもあったけれど、洒落た笑いについていけないのかも知れないな、と思いながら見ていた。さらに、字幕がこなれていないせいか、読むのに時間がかかった。パッと見て分からない日本語=つまり、ちゃんと読まないと意味が通じない日本語だったんだよな。これじゃ画面を見る時間が少なくなっちまうぞ。というわけで、素材としては面白そうだけれど、面白さがつたわってこなかった。しかし、2人とも40凸凹って歳で、こういうロマンチック・コメディも限界かなと思わせるものを感じてしまったぞ。
グラミー賞総なめのノラ・ジョーンズが見られたのは、なかなか。それにしても、あのコニー・アイランドは本当に再開発されたの?
8人の女たち6/8ギンレイホール監督/フランソワ・オゾン脚本/フランソワ・オゾン
日曜日の4時。空いていると思ったら、さにあらず。客席はほぼ一杯。なんで? ま、どうでもいいが。こちらは早朝寄席→日本代表vsオーストラリアAの試合を見た後で疲れていたので、どーかなー、と思っていたのだけど、やっぱり。はじまって10分ぐらいしたら眠くなって、んでもって10分少し寝てしまった。でも、あんまりストーリーには関係なかったかも。
アガサ・クリスティみたいな感じのミステリー、なのかな。テイストは舞台劇。って、元は舞台なのか? よく分かんないけど。「ああら。孫の○○」なんてセリフがあったりして、ひどくわざとらしい。意図的なのか、フランス語では当たり前なのか。ちと不自然だな。で、はっきりいって、いわれているほど面白くなかった。ある状況の下で暴かれていく真実・・・っていうドラマの設定はありがちなもので珍しくない。女優の彩りでいうと、エマニュエル・ベアールを楽しむぐらいしかない。2人の娘役は色っぽくないし、あとはドヌープも含めて妖怪だ。話しの進展もドラマチックじゃないし、ときどき挟まる奇妙な歌には笑っていいのか、困ってしまう。正直いって、唐突に踊ったり歌ったりは気味が悪い。というわけで、半分以上退屈な映画だった。舞台で見る方がいいかもな、こういう1場面ものって。
KILLERS6/14テアトル池袋監督/☆脚本/☆
4人の監督によるオムニバス。内容は、タイトル通りで、殺し屋を扱ったもの。すべてビデオ撮影だけれど、「CANDY」「PERFECT PARTNER」「KILLER IDOL」はシャープな画像。「.50 WOMAN」は斜線(走査線の影響?)が目だつ。「PAY OFF」は露出が足りないせい(?)なのか、画像がにじんで流れる。出演者のほとんどは名前も顔も知らない。映画顔の人がいないんだよなあ。Vシネマとかピンクの人なのかな? いずれにしても、安手な感じは否めない。 「PAY OFF」監督・脚本・撮影:きうちかずひろ/つまんない。お話に内容がない。出てくる女優が美しくない。
「CANDY」監督・脚本・撮影:大川俊道/上出来なコメディになっている。最後にでてくる殺し屋が誰であるか、バカでも分かってしまうところが辛い。その後の銃撃戦はなかなかだけど、カンフーは下手。まあ、理屈抜きで笑える。金と時間をかけたら、もう少しオシャレでカッコイイものになるかもね。
「PERFECT PARTNER」監督・脚本・撮影:辻本貴則/冒頭の、アパートでも銃撃戦はカッコイイ。その後のクルマでのやりとりがタルイ。が、追っ手に追われて以後の展開は、なかなか。でも、ラストは、そうなるんじゃないのか? という具合になってしまった。死んだはずのやつが生きていた、って展開は単純すぎてつまらないぞ。
「KILLER IDOL」監督・脚本:河田秀二、撮影:辻本貴則/最初の頃はつまらなかった。カリカチュアライズしているのか何なのかよく分からなかったからだ。しかも、ヒーローのはずの殺し屋がチビでずんぐりでカッコよくない。なんでだろう? なんて思っていたら、意外な展開になっていく。おお。ま、所詮は底が浅いテレビ批判なのだけれどね。で、その意図が分かってから、ヒーローがカッコ悪い理由が納得できた。ま、これが名の知れた俳優か、または、無名でも存在感のある役者ならもつのかも知れない。
「.50 WOMAN」監督・脚本:押井守/一発ネタだった。女スナイパーが標的を狙い撃ちするだけの話。標的がスタジオジブリの鈴木敏夫だってのが、ミソかな。なかなかひょうきんだな、鈴木敏夫という人も。で、何で尺をもたせたかというと、女スナイパーが食べるパンとおにぎりと飲料水のメーカーと価格である。よく食う。よく飲む。これじゃすぐウンコしたくなるだろうし、トイレに行かなくちゃならないだろ。標的がでてくるタイミングを逃してしまうぞ、なんて思っていた。始めのうちは面白がって見ていたけれど、しばらくしたら飽きてきてしまった。だからどーした、の話だった。映像感覚はもっともシャープだった。ってか、他の4人が学生レベルっていったほうがいいかも知れない。
恋愛寫眞6/18上野東急2監督/堤幸彦脚本/緒川薫
松田龍平は生理的にダメなのだ。目と唇がとくにダメだ。気持ち悪い。それはそれとして。この映画も生理的にダメだった。骨格はしっかりしている話なのに、悪ふざけが目だちすぎる。「TRICK」じゃないんだから。そんなところで遊んでどーする、ってなセリフおよびシーンが多すぎ。公式HPを見たらいろいろ裏話や小道具のネタが披露されていたけれど、意味ないじゃん。どうせやるなら、意味のある小細工にして欲しい。それに、松田龍平のベタな英語しゃべりが気持ち悪い。なんとかならんのか。ナレーションが入るたびにゾクゾクしてしまった。広末が汚く撮られているのも気に入らない。松田・広末2人のセリフの言い回しも下品。それから、引用されるスナップ・ショットがくだらん。写真学科の学生がプロの真似をして撮った三流写真のようなのばっかり。写真に魂が入ってない! 広末の天才的な写真の才能が全然感じられんぞ。話の展開は、ちょっと短兵急で分かりにくかったけど(拾った手紙から広末が複数の男を騙して金を振り込ませていたらしい・・・という場面は、説明不足かな)、ラストには意外な犯人が。これは分からなかった。というわけで、ちゃらちゃら悪ふざけしないでストレートにロマンスそしてミステリーを描けば、もっとましな映画になったはず。もったいない。小池栄子の狂気の目玉は怖かったぞ。
略奪者6/19シネマミラノ監督/ルイ=パスカル・クーヴレール脚本/ルイ=パスカル・クーヴレール、マイケル・クーパー、ブノワ・フィリッポン
いやー、しびれるね。ほとんど一気呵成。転げ落ちるようにアクションが連続して、気がついたら終わっていた状態。ムダを削ぎ落とし、省略し、過剰に説明しないんだけど、それでも十分につたわってくる。しかも、その省略が見事に決まってる。前半30分ぐらいまでの惜しげもなく短く切ってつないだリズムのよさ。クローズアップでパッパとショットが積み重なって行くけど、ちゃんと分かる。これが日本の映画だと、カット尻がだらんと長くてもたもたするんだよなあ。ああ、見ていて気持ちよかった。んで。画面がフォトジェニックなのだ。構図がいい。色彩がいい。映される要素がいい。煙草の正面の大クローズアップ、砂漠に転がる便器、砂塵から現れるトラック・・・。いずれもスキがない。完成度がとても高くて、しまっているのだ。美しい。「恐怖の報酬」「コンボイ」「マッドマックス」なんかを連想したけれど、この手の話を扱った映画はもっとありそうだ。どんな映画にインスパイアされたか知らないが、美学が感じられるぞ。
"ほとんど"って保留したのは、中盤がちょっとタルイから。といっても、フツーの感覚でいったら、とくに緩くなっているわけじゃない。最初からの疾走感があまりにも密度が濃すぎて、緩く見えてしまうんだろうな。この辺り、あえて緩くしているのだろうけど、さて、どうだったか。尺が長いのも、ちょっと気になる。90分ぐらいに縮めると、いいかも。
最初、アメリカ映画かと思っていた。フランス語じゃなかったし。南部とかね、ただっぴろいところ。ところが砂漠がでてきたので「あれ?」っと思って、ベドウィンみたいな女がでてくるに及んで、あ、これはアルジェリアかリビアか? と思い至った。そういやあ、トラックに飾ってあった女優はフランス人? 誰だっけ。それに、パリダカの運転手コンビが歌っていたのも、ヨーロッパの歌だったなあ。とかね、いろいろ見えてきて、これについてはエンド・クレジットにモロッコで撮影したとでていた。なるほど。エンドクレジットといえば、"Electric XXXXX"という項目のスタッフ(?)の名前が抹消線みたいので消されていたのが気になったなあ。
省略といえば、彼らが如何にして砂金を盗んだか、が大胆に略されていた。オープニングタイトルのブルーの画像、あれ、漫然と見ていたのだよ。人がでてきているけど、これからの映画のハイライトシーンかなにかか? なんて気持ちで。ところが、飛行機や、飛行場の荷物なんてのがでてくるに及んで、おお、これが盗みの部分か、とタイトルが終わりかけて気がついた。あちゃー。もっとしっかり見ておけばよかったよー。くそ。
設定や小道具にも凝ってたね。砂漠では地雷、海辺では機雷。砂漠に砂金。歌劇(?)vsハードロック。犬。怪しく魅惑的な女。パリダカのヒーローが運び屋。砂漠に便器。安物のカップとゴルフ。レバーのにぎりに数字の「8」・・・。読み解いくと、なんか面白そう。ただのアクションに終わっていないところが、アメリカ映画とも違うのかもね。ラストも後を引かず、キッパリと終わる。なかなかスリリングで、わくわくさせてくれる、汗くさく、泥臭く、汚物臭く、男臭い映画だった。でも、その"臭さ"は、見終わった後で印象に残らない。ビジュアルが端正だったせいかもね。
ダブル・ビジョン6/20シネマスクエアとうきゅう監督/チェン・クォフー(陳國富/Chen Kuo-Fu)脚本/チェン・クォフー(陳國富/Chen Kuo-Fu)
ストーリーにとくに破綻はないんだけどね、つまんない。そのつまらない理由は、"怪しい何か"がほとんど登場しないからだ。グロテスクであったり不気味だったり、またはそれを予感させる"何か"が、最初の胎児からこのかたラスト近くまで現れない。これでは背筋が寒くなるどころではない。眠くなってしまう。"邪なもの"というからには、それらしきモノが見えないと、怖くないよね。道教の理屈はわかった。でも、なぜ双瞳の胎児の双子である彼女が"そうした"のかが分からない。まずもってその出自が明かでない。生まれてどう育ち、いかに病気になり、さらに、彼女を誰がどう祭りあげたのか。それが分からないと、理屈が通じない。こういう、大切なバックボーンを描かず、どっちかというとサブストーリーに凝っているのが理解不能だ。主人公が正義感から汚職を告発し、それがもとで妻の従兄弟が主人公の娘を人質にとったこと。とか、そのせいで娘が声を失った、だとか。そういうのは、さらっと描けばいいじゃないか、と思う。むしろ、たびたび繰り返される人質のシーンで、理解できないことがあった。主人公の娘に発砲しようとした従兄弟の拳銃から発射された銃弾が、ひん曲がって従兄弟の頭に当たったように見えたのだ。あれは何だ? その解決は、されてなかったが、ってーことは、主人公の娘にパワーがあるのかな? と思いつつ見ていた私はアホだったのか? デビッド・モースは、ちゃちな台湾映画のわりにはちゃんと演じていた。もうちょっと体力の見せ場があったらよかったのになとも思ったけどね。主人公の奥さん役の人は、可憐な感じだったな。気になったのは、女性検死医だったけど、途中から出番がなくなっちまった。それから主人公の上司や同僚の描き方は、ちょっと浅すぎる。人物を描くことでドラマが厚みをますことを、この監督は分かってないのかも知れない。まあ、だからどうした、の映画だったぞ。
それにしても、台湾の映画というのも珍しい(?)。時代が30年ぐらいバックした感じで、古くさいのがおかしいね。それにしても、フィリピンだとか台湾の映画だと、着衣がみんなラフすぎて、警官もチンピラも区別つかないよなあ。
パイラン6/25新宿武蔵野館3監督/ソン・ヘソン脚本/ソン・ヘソン、アン・サンフン、キム・ヘゴン
こういう物語を見ても私はまったく泣けない。同情もしない。そういう性格の人間なんだろなあと思いだけだ。浅田次郎の「ラブ・レター」が原作なんだそうな。読んでないから話は知らなかったが、そっちの男も救いようがないトンマで間抜けなんだろうか。まあ、どうでもいいが。主人公のヤクザ(って、日本とまるで同じなんだな)カンジュみたいなのは、たくさんいるんだろう。要領が悪くて意気地がなくて、だらしない。会社にだってたくさんいる。まあ、人間の大半は、こういううだつの上がらない連中だ。それでも堅気衆は身の丈を知り、つましく地道に生活している。これが渡世人だと、情けない存在になっちまうのだね。真っ当な生活に戻りたくても戻れない・・・。その、戻るチャンスを与えてくれたのが、中国からの娘だったわけだ。知人がカナダに行っちまったからって、なにも韓国であてのない生活をすることはないだろう。さっさと中国に帰ればいい。と、思ってしまう。だから、この娘にもそれほど同情できなかった。頭を切れ変えれば、韓国内でももっと派手に楽しく暮らせただろうに、とも。見栄や虚勢をはったりしないで、並に生活すればいいじゃん。中国娘なんか、派手に染まらずうぶなままってのが、どーもしっくりこない。ってなわけで、私にとっては設定にムリがある映画だった。
重苦しい主役の2人に比べ、カンジュの兄貴ヨンシクと、同居している弟分のキャラクターがよかった。とくに、弟分。ダメ兄貴を支える、いい弟分って感じがよくでてた。アマレスごっこやスケートのスタートなど、なかなか小味の効いた演出もいいぞ。もっとも、他の部分ではこういう味がでてないのが残念だが。
分からないところというと、パイランが借金していた男の位置づけかな。突然でてくるので、因果関係がよくわからんぞ。それと、ヨンシクの最後の行動だ。カンジュが最後に死ぬのは予測できるけど、でも、カンジュを殺してもヨンシクは殺人罪から逃れられない。あれは単に裏切りへの制裁なのか? ヨンシクは最終的に殺しの身代わりに誰かをたてたのだろうか? という疑問が湧いてきてしまうのだ。
NOVO/ノボ6/25シネセゾン渋谷監督/ジャン=ピエール・リモザン脚本/ジャン=ピエール・リモザン、クリストフ・オノレ
予告を見ていたので、すぐ記憶がなくなる男の話だと分かっていた。これが分かっていなければ、もっと面白かっただろうに。くそ。オープニングから20分ぐらいは、男の奇妙な行動がちらちらと描写されているので、なおさらだ。こちらは「あれは記憶が消えたせいだな」と分かってしまうので、つまらないことこの上ない。それにしても、終わってみればなかなかスタイリッシュな映画だ。とくに、前半が素晴らしい。世俗とは関係なく、色事に夢中になっていく男女。その、生活感のなさがとてもオシャレだね。単純にいってしまえば、記憶喪失者が記憶を回復するまでの話なんだが、周囲の人々がみな変なところが面白い。面白いのだけれど、どうして主人公はあんな生活を送っているのか、または送っていたのかが分からない。これが分かると、もう少し整理がついたように思う。というのも、主人公と、彼がコピー複写担当として働いている会社の女社長の関係がよく分からないからだ。主人公の妻と主人公の合気道の友は、女社長を知っている様子。では、あの女社長は誰なんだ? っていうのも、女社長は主人公のペニスを気まぐれに利用していたりするからなんだよね。妻と友だちの関係は何となく想像がついたけれど、女社長をめぐる関係は、分からなかった。主人公は派遣の娘とすぐsexしてしまうのだけど、これももう少し合理的な流れがあった方が納得しやすいね。とくに後半からは説明がずぼずぼと抜ける感じがあって、話が飛んだりして人物が行動する根拠が理解できなかったりする。故意にそうしているのだとは思うけど、意図がよく分からない。
それにしても、もともとはフツーの家庭を築いていて、10歳ぐらいの息子がいる主人公が、記憶を失ったら種馬のようにsexしまくれるっていうのは、うらやましい・・・。それも、簡単に記憶を失えるからなんだろう。つねに新鮮な女として相手を見られるからね。飽きなくて、初々しくて、がんばれるってことなんだろう。この映画でいいたいのは「男女の関係に飽きがくるのは、記憶の積み重ねがあるから」ってことなのかな。では、記憶をとりもどした主人公のこれからのsexライフは、哀しいものになるかも。でも、奥さんはどうして主人公に1人暮らしをさせ、自由に働かせ、色々な女とのsexを許してきたのだろう。だって、相手は記憶喪失者。夫だ妻だという記憶もなくしているのだから、新鮮なsexができるだろうに、どうして? 自分を忘れてしまう夫に耐えられないから? うーむ。ボケ老人のような夫は、sexが立派でも困るってことか? それとも、友だちとできていたからか? そういえば、記憶を取り戻しかけた主人公は、妻に「僕を忘れてくれ」というのだった。彼には、忘れたい苦い環境があったのかも知れないぞ。記憶を失ったのも、友だちがかけた必殺技だったしね。友だちには殺意もあったかも知れない、と穿ってしまう。それにしても可哀想なのは。あどけない息子だな。すべてを知りながら、父親のそばを離れなかった少年。主人公が妻を見捨てたいま、少年は母親(と主人公の友だちのカップル)を選ぶのか、父親(と派遣の娘のカップル)を選ぶのか。その間で悩むに違いない。いやまて、記憶を取り戻した主人公を病院に拘束しようとしたのは、誰だったのかな? 女社長か、妻か? うーむ。謎だ。
派遣娘がよかったなあ。決して美人じゃない。馬面で、無骨な肢体。ちいさな胸。でも、腰の辺りは肉感的で、なかなか・・・。って、かなりHなsexシーンがたくさんあるからそういう印象なのかも知れないけど。むしろ、奥さんの方が可愛い印象の女優だったねえ。もっとも、いささか肉がだぶついてきている様子だったけど。ははは。どこを見ているんだ、ってか。そうそう。抜けた歯は、何を意味しているのかな。生まれ変わり? 通りすがりの女の膣にその歯を押し込んで、sexもせずに眠り込んでしまう。sexだけの生活は、終わりってことかな。その後に主人公が裸のまま海にはいるのも、新たな誕生を連想させるね。
アマチュア6/27新宿武蔵野館4監督/クシシュトフ・キェシロフスキ脚本/クシシュトフ・キェシロフスキ、 イエジ・スツール
先入観なしに見た。もなにも、キェシロフスキがどこの誰かも知らなかった。言葉とウォッカがぶ飲みの様子からロシア映画かと思っていたら、主人公が見ている本に「灰とダイヤモンド」のシーンが見えた。ポーランド、か? 新作ではないので時代背景が分からなかったのも悩んだところ。すべてが党の管理下にあるようで、自由はあまりないみたい。ってことはベルリンの壁崩壊以前の出来事か・・・。では、映画をつくったのはいつだろう? とかね。映画史を知らないのだよ、私は。ははは。
まあ、自由があまりない時代のポーランド。映画サークル(なんてのが会社にあったんだね。さすがプロパガンダの国だねえ)に入っている主人公が8mmカメラ(なつかしい響きだ)を買った、子供の成長を撮るためだ。工場長がめをつけて、工場の祝典を撮れという。撮ったフィルムがアマチュア映画コンクールで3位に。突如、映画づくりにめざめた主人公。意欲的に撮影しはじめて、中央のテレビ局にもめをつけられるが、工場長や党の思惑と対立。家族を顧みないと妻にも逃げられて、彼はカメラを自分自身に向ける。って、あらすじを書いてしまった。あらすじが書きやすい映画だ。だからって、つまらないことはなかった。風邪薬を飲んでいて、昼食後。これは寝てしまう可能性大だなと思いながら見たのに、目は冴えてしまったぐらいだ。気の弱そうな主人公が、カメラを手にすると人が変わったように被写体に迫っていく様子が面白い。そうなんだよ。カメラをもつと人格が変わるヤツっているんだよ。しかも、視線が妙に冷静になっちまう。実家に帰る妻との別れ際、激情に駆られているにもかかわらず、去りゆく妻の後ろ姿に向かって、指でフレームをつくって覗いてしまう。笑っちまったぜ。地方のアマチュアが、ちょっといい気になって作家気取りになっていく様が、面白く描かれていく。こういうとき、被写体に選びやすいモノもよく描かれている。工場で働く侏儒だ。いかにも、のモチーフだよね。こういう一般ウケする題材や、荒れ放題の建物など、一見して興味をそそりやすいモノをモチーフに撮影していく主人公。中央のテレビ局は、そういうウケそうな題材を撮れといい、工場長はそれを危惧する。だけど、問題を暴くような撮影は上司の失政の突き上げにつながってしまう。世の中は、そうそう理想的には回転していっていない。さまざまな矛盾があり、失敗もある。けれど、それを最小限におしとどめ、挽回するためにあえて荒れ放題にしているケースだってあったりする。そういうことを工場長から説明される主人公は、自分の思い上がりに気づく。そして、気づいた自分自信に向けてカメラを廻し始める。うーむ。なかなか深い。これは、監督自身の体験なのかもしれないな。
工場の文化担当の上司が首になったり、いろいろ問題が起こる。けど、主人公自身に粛清が及ばないのが興味深かった。監督不行届ってことなのだろう。また、あれこれ注文を付けて主人公の暴走を危惧していた工場長が、最後にやさしかったのに驚いた。主人公に世の中(といってもポーランドのだけど)の仕組みを教え説くのだ。ソ連だったら、即牢獄ってところじゃないのかな。で、後からHPなどで見たら、1979年の作品でモスクワ映画祭グランプリ作品だって。あらら。この当時って、このあたりまで党を批判する映画ならオーケーだったのね。ううむ。
ムーンライト マイル6/29新宿武蔵野館1監督/ブラッド・シルバーリング脚本/ブラッド・シルバーリング
不思議なテイストをもった映画だ。ひとくちに、こういう話、っていえない。色んな要素が緻密に折り重なっている。で、こんがらがることなく、それぞれが深く掘り下げられている。なかなか面白かったぞ。結婚式直前に花嫁が死んでしまった花婿ジョーが主人公。彼は、同居するはずだった花嫁の両親ベンとジョー。のところに葬儀後も住み続ける。本意ではない。ワケあり風。ベトナムで行方不明になった彼を思い続けている娘、というには歳が行きすぎているバーディと相思相愛になる。で、娘の亡霊にとらわれつづけている両親と、行方不明の彼にとらわれているバーディを、ジョーが解きほぐすっていうのが大きな枠組み。だけど、登場人物はいろいろに絡み合ってくるんだよ、これが。ベンはジョーをパートナーに不動産屋をつづけようてする。寂れた街に複合施設を誘致するために地上げしようとすると、バーディの店だけが残っちゃったりする。ジョーが店を地上げしようとしていることを知って、バーディが逆上する展開か? と思っていたら、全然違っていた。うーむ。接待好きで社交的に見えるベンは、実は娘と話もできない男だったことも分かるし。とにかく、みんな自分に正直になれないどんづまりにいるわけだ。その、自縄自縛状態の人々を、ストレンジャーであるジョーがするっと癒していくって流れなんだよなあ。しかもこれが、あざといところが微塵もない。ストレート。ちょっとはひねりがあってもよさそうなんだけど、ない。とくに、バーディがジョーのところに非難に来るところが、ストレートすぎて驚いた。「あたしは一夜だけの女だったの」って。男にすれば恐ろしすぎる言葉を吐きにやってくるのだ。ここまで素直に表現されると、引いてしまうより、珍しすぎて感動してしまう。なんて純粋なんだ! ってね。
話の構造はわかりやすい。テーマもわかりやすい。そこそこ感動的でもある。だけど、心底共感できないのは、やっぱり人種の違いなんだろうなあ。娘が殺されて数日だってのに、さほど疲弊していないように見える両親。これが日本映画なら、どろどろべたべたな表現になるはずだ。でも、この映画では彼らの痛みや落ち込みが、あまり見えないんだよ。とても一人娘を失ったようには。感情の表現の違いなんだろうけど、いまひとつ納得できないところかな。ま、それでも、そこそこつたわってくるものはあった。あったけど、映画で訴えられているような行動を日本でとったら、こりゃもう顰蹙ものだろうなと思ったりする。うーむ。よくまとまらん。
印象的なシーンは、いくつかあった。バーティがジョーと一夜をともにした数日後か、カウンターの中でいつになくご機嫌で音楽に合わせて腰を動かしている姿、それを「ああ、やっと男ができたんだな」と微笑ましく見ているカウンターの常連客、っていうシーンがよかったな。それと、ベンがジョーに「娘に言えなかった言葉を言う。"行け(Go)"」っていうシーンも印象的。これは、ダスティン・ホフマンが「卒業」のときと同じ"ベン"という名前であるのは決して偶然ではないだろうな。
バーディ役のジェイク・ギレンホールが質素な田舎娘をうまく演じている。美人じゃないけど、一途な感じ。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」にでていたってHPにあったけど、どこにいた? 女弁護士が美しい造型の人だと思ったけど、ホリー・ハンターなのね。でもクローズ・アップになるとお肌の痛みが隠しきれずに痛々しかったなあ。主人公ジョーの、たどたどしい花婿、決断力のなさそうな弱々しさが印象的。妙な感じの役者だなと思ったら「ドニー・ダーコ」にでてた人か。ああ。すっかり忘れている。
◆で、数時間ほど考えていたら、この映画の暗喩がすっかり分かってしまった。ははは。なんだ、簡単じゃねーか。って、いや、見ているときに分からなかった私がアホだ。で。すべては9.11以後のアメリカを思わせることばかりで構成されているんだよなあ。大切なものを失ったったアメリカ。アメリカはアルカイダに復讐することになったけれど、これは両親が殺人犯に対して死刑をのぞんでいることに符合する。両親のところには同情の電話がかかってくるけれど、みな形式だけっていうのも、アメリカへの他国の同情の態度にあてはまる。あてにならない同盟国よ、ってなところか。そういう両親に、仇討ちをしたって始まりませんよ、とこの映画は言っているような気がする。いつまで被害者意識丸出しで世間に向かって騒いでみても、ものごとは始まらない。素直になれ。正直になれ。そういう態度で9.11を見つめれば、素晴らしきよきアメリカが再びよみがえるんだよ。いつまで拘泥していてもしょうがないんだ。で。ここでベトナム戦争だ。バーディりの彼氏は、ベトナムで行方不明。そう。アメリカもベトナム戦争ではひどく傷ついた。けれど、それを乗りこえることができたじゃないか。過去に縛られるのじゃなくて、前向きに生きていこう。かつてベトナム後を乗り切ったときのように・・・。とね、いっているんだと思うぞ。不思議な闖入者ジョーは、アメリカの理想のようなものなのかも知れない。それが、傷ついているアメリカを救いにきたんだ。で、ベンは娘を世間に送り出すことができなかった代わりに、仮の息子ジョーに「行け」と解き放つ。これは「卒業」のベンが成長して親になった姿にダブるね。「卒業」の親世代は、子供たちを解き放つことができなかった。だから子供たちに逃げられた。で、「卒業」のベンが成長して大人になり子供をもった。そうしたら、親の心子知らずだったことが分かったんだよな、きっと。で、子供を世間に送り出すことができなかった。子供を理解することは、難しかったってことだろうな。だけど、娘の死に遭遇して、ベンは仮の息子ジョーに、やっと「行け」と言うことができるようになった、っていうことじゃないのかな。
◆まとめると・・・だ。こんなことかな「未来ある家庭に悲劇が起こった。娘の死(9.11)だ。両親(米国の平均的な民意)は殺人犯(アルカイダ)への極刑(アフガン戦争)を勝ち取るため家族全員で工作を開始する。しかし、未来の夫のはずだった青年(良識派)は戸惑う。父親は不動産業(他国の領土侵犯=米帝)を営んでいる。父親の同業者(西側同盟諸国)は、表面的には慰めてくれる。娘の友だち(事件を食い物にする連中)は、形見分け漁り(商売)。青年は過去の痛手から立ち直れない女(ベトナム体験者たち)と出会う。父親(米国の民意)は、店(ベトナムの後遺症)を地上げ(忘れ去る)しようとする。しかし、青年にはできない。アメリカの理想。それは正義と正直。娘(アメリカン・スピリッツ)はつねにそれを語っていた。結婚せず(民族主義者にならず)、友人関係を選んだ2人。復讐に執着せず、事実を直視し、戦争の悲惨さを癒すために。正直になろう。本来のアメリカを、とりもどそう。犬猫の間柄だった良識派と、ベトナム後遺症の人々はいまこそ理解し合うべきだ。未来のために」。こういう図式を前提にドラマをつくっているとしか、思えないんだけどねえ。

 
 

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