2003年7月

チャーリーズ・エンジェル フルスロットル7/1上野松竹セントラル2監督/McG脚本/マリアンヌ・ウィバーリー&コーマック・ウィバーリー
オープニングの活きのよさで最後まで突っ走っちゃうねえ。お尻ふりふり、ギリギリのヌードも見せてくれるし。なーんも考えないでぼーっと見ていたいんだけど、いったい話はどーなっているのやら? と気づくと、どういう展開だったかよく分かんなかったりするんだよなあ。バイクの少年はなぜ襲われたんだ? 救った髪の毛切りの男って、修道院のなんだったんだ? ドリュー・バリモアの元彼って? なんか、話の前後をつなぐシーンが急激に速くて、しかもひとこと二言だから理解するのが大変、っていうか、ほとんどちゃんと理解していないぞ。髪の毛ふさふさのブルース・ウィリスを襲ったのは誰なんだ? そもそもデミ・ムーアは、もっと簡単に2つのリングを手に入れられたんじゃないのか? あんな複雑なストーリーを考えなくても・・・。とかね、いろいろ「?」はあるけど、画面見てお尻ふりふり見ていればそれでいいのかも知れないけどね。いろいろな映画がでてるみたいだけど、分からない映画ばっかりだ。
人生は、時々晴れ7/4シャンテシネ2監督/マイク・リー脚本/マイク・リー
「清く、貧しく、美しく」ではなく「やる気なく、貧しく、だらしなく」だな、こりゃ。イギリスの下層階級の使う英語のようだった。原題は"All or Nothingだが、その意味するところがよく分からん。愛のバケツに関係するのか? さてと。いったい何を言おうとしているのかが、さっぱり分からなかった。共感できるキャラクターは1人もでてこないし、美人も皆無。バカばかりしか登場しない。イギリスの下層階級でまともな仕事もなく大した教養もなく夢も希望もやる気も覇気もなく、ただ堕落し放題の連中の日常生活を見てどーしろというのだ。ああ、こういう連中がいるんだ、オレはまだ幸せな部類だなって安心すればいいのか? それとも、社会の仕組みがおかしいと憤ればいいのか? 貧しい人たちに救いの手をさしのべればいいのか? だから、どーしろっんだ! と言いたくなってしまう。事件らしいことはまったく起きない。人と人との対立も、少ない。それぞれが勝手に自分を痛めつけているだけのように思えてくる。ドラマのない単調な映像を2時間も見せつけられるのだ。息苦しいったらない。だって、どこにも救いはないのだから。せいぜい、息子の心臓病で家族がわずかに深く話し合ったぐらいが関の山。未来は、依然として暗いままだ。
意図的にか、暗い音楽が流れるんだよ。なんでそうするんだろうな、と考えてしまった。だって、バカな連中が自分で墓穴を掘っているみたいなんだもん。これ、真面目な気持ちでつくっているのかな? 正直いって、僕はいろんなところで笑ってしまった。あまりにもバカみたいなことをする様子は、笑わずにはいられなかった。だから、これはコメディと紙一重なんだと思う。もし、暗い音楽をやめてコミカルな音楽にし、いくつかギャグを散りばめてマヌケな様子を強調したら、立派なコメディになるに違いない。それぐらい、潜在的に大笑いできる場面はたくさんあった。
貧しい一家とはいえども、彼らの住んでいる集合住宅はそこそこ立派なもんじゃないか。2階もある構造で、部屋数も少なくない。低所得者層が住むには贅沢すぎると思えてしまう。救済用の住宅なのか? 明日の生活もままならない様子なのに、住むところは立派だなと思ってしまった。まあ、イギリス人の平均からするとチンケなのかも知れないけど。それに、怠け者とはいえ父親はタクシー運転手、母親はスーパーのレジ係、娘は老人ホームの清掃員。合わせれば、日本なら50万ぐらいの収入になるのと違うか? 決して貧乏家族じゃないだろ。と、そういう感覚で見てしまうと、この映画にはどこにも悲壮感は漂わなくなってしまうのだ。みんな我が儘で勝手で努力しないバカに見えてしまう。だから、何もつたわってこない。もしこの映画を第三世界の人々が見たら、どう思うだろうか? なんで悩んでいるか理解できないんじゃないかな。要するに、生活レベルが違いすぎて、満足のレベルが全然違うんだろうと思う。
もちろん、主人公の家族の構成員は、イギリスにおいてはダメ人間でオチこぼれなんだろう。けど、ここまで暗くなるか? 暗くなる理由がないだろう。日本にも、亭主は働かず女房が水商売やレジ係で働き、息子や娘がふらふらしている家庭があるけれど、みんなノー天気にその日暮らしをテキトーにしているじゃないか。クルマに乗ってパチンコしてフーゾク行ってカラオケ行って浮気して。みんなラッキーでハッピーてなもんだろ。この映画ほど暗くねーだろ。だから、とても共感はできない。
オヤジのタクシー運転手が、なんか哲学的なんだよな。そういう言葉をぼろりと吐く。顔は類人猿みたいなんだけど。未入籍のままの妻は、人生間違ったみたいな顔しているけど、自分じゃなんの努力もしていない。それに、子供に対する教育ができてないだろ。オタクなデブ息子は働かない。娘は小説ぐらいは読むようだけど、これもデブで暗い。ほんと。ご近所の仲間も含めて、どーしてここまでバカかというようなキャラクターにしている。暴力をふるう男が、そんなに魅力的か? 理解できないぞ。でてくる連中がみな汚らしく、気味が悪いのも減点。というわけで、いろいろあるけれど、こんな家族どこにもないだろ、あったとしてもオマエらが悪いんじゃねーかと思わせてしまうところが、辛い。ほんと。いっそのことギャグにしてしまった方がよっぽどよかったような気がするな。期待値に対して、30%ってところかな。
マトリックス リローデッド7/11上野東急監督/ラリー&アンディ・ウォシャウスキー脚本/ラリー&アンディ・ウォシャウスキー
あまり前作を覚えてないから、最初の頃はさっぱり分からず。っていうか、現実のシーンとバーチャルな世界の区別がつかなくて、あれれれ・・・。でも、ラスト近くでやっと分かったんだけど、冒頭の数シーンは、じつは映画のクライマックスに近い部分を先に見せちゃってたんだねえ。それって、分かりづらいと思うぞ。前作では、現実の部分にもう少しリアリティっていうか、フツーの現実空間が描写されていたと思うんだけど、こんどの映画の現実空間は地底みたいな殺伐とした空間と、シップと、イカみたいな敵だけ。わけ分からん。でその地底みたいなところで評議員(だっけ?)と延々とつまんないことを話したりする部分がやたら長くて眠くなってしまった。エージェントってのも、よく分からん。あいつらは何だっけ? どーも、前作のことが頭からすっぽり抜け落ちているので、うまく話がつながらんよ。
アクションもつまんない。どーせワイヤーだと分かっているから迫力がない。クラッシュシーンにもCGを豊富に使っているようで、リアリティがないし。だからどーした、って感じ。人間を映している部分も、下手くそ。唯一、メインフレームの中に入ってマトリックスというソフトをつくったジジイと話すシーンのみ興味深かった。そーか。人間ありきでソフトがそこから生まれたのじゃなくて、最初にソフトありきで人間社会がつくられていた。だから、人間社会が破壊されていく。ふむ。しかし、あのイカはいったいどこからやってくるのだ? 映画は、次回作に「つづく」で終わり、エンドクレジットの後に予告編がついていた。昔の「三銃士」を思い出すね。
◆んで。他人様の感想文や自分が前に書いた「マトリックス」の感想文を読んで、ああそうかと納得した部分が多かった。エージェントは、デバッグ・プログラムなんだ。そーかそーか。ははは。って、情けねーオレの記憶力。
デッドコースター7/11上野東急2監督/デヴィッド・エリス脚本/エリック・ブレス&J.マッキー・グラバー
原題は"Final Destination 2"。タイトルを変えて、集客を見込もうというのか。まあ、「ファイナル・デスティネーション」よりは内容が分かっていいと思うが、前作のつづきだという印象が弱まってしまったね。でもま、前作を知らなくても分かるからいいけど。で、面白かった。本来死ぬべき人が助かったおかげで死のバランスが崩れてしまう、というのは落語の「死神」と同じだ。ま、この理屈はとくにあーだこーだいうようなものじゃない。ふーん、そういう理屈か、ってなぐらいなもの。そういう理屈より、風が吹けば桶屋が儲かる式の偶然の連鎖、これで人が死んでいくっていうのが、見ていて怖い。だって、いかにもありそうなんだもの。いやー、気をつけなくちゃと思ってしまうね。しかし、主人公の娘と警官の2人、この2人が他の連中を助けようと奔走するんだけど、おまえらが騒がなきゃ死ななかったんじゃないか? と思えるシチュエーションが多すぎ。おまえら仲間の死を手伝っているじゃねーか、と突っ込みを入れたくなってしまうぞ。いろいろな死に方もなかなかシュールで、思わず声を出しそうになっちまった。でも、思わず笑ってしまうような死に方もあったりするのが、なんともどーも。それも含めて、楽しかった。
さよならクロ7/15シネマミラノ監督/松岡錠司脚本/松岡錠司、平松恵美子、石川勝己
誰が主人公なんだかよく分からん。妻夫木なんだろうけれど、出番はそれほど多くない。むしろ、他のキャストの出番が妙に多くて、群像のようにも見えてくる。とくに、10年後輩の在校生で、ラーメン屋の息子の物語が入れ子のように挿入されていて、それが同時進行したりする。悪い工夫じゃないような気もするけど、なんかすんなり収まってない。っていうか、妻夫木と彼女の話がブツ切れ。っていうか、この2人のエピソードがなさすぎ。
出番だけ多いキャストは、映っている時間は長いけど、掘り下げが甘い。まあ、余貴美子とか柄本明、塩見三省なんかの存在感は目だつけど、他はうすっぺら。もっとも、1シーンだけのでんでんは、いい役者になってきたなと思った。殿山泰司みたい。
で、クロが一番目だってない。こいつ、ただいるだけ。もうちょっと犬の身になって考えたら、エピソードだって生まれそうなのに。っていうか、これって実際の話をベースにしているんだから、面白いエピソードがあるだろうに。男女間の色恋沙汰と少年の事故死のような陳腐な話にしちまったことがつまらない。よくある話じゃないか、そんなの。なんかどーも、山田洋次「学校」犬付きバージョンを見ているよう。やっぱり、的を絞るべきだったと思うぞ。だいいち、人間と人間がぶつかるドラマが、希薄。いいことばかり描いても、感動にはほど遠いぞ。
っていう話はおいて、と。文部科学省推薦だか特選だかになっていた。じゃあ文部省は、学校で犬を放し飼いにすることを奨励するというのだろうか? しないだろうな。じゃあなんで文部科学賞が推すんだ? 心温まるドラマだから? いま、全国のどこかの学校で同じ様なシチュエーションになったら、さっそく自主規制して「犬なんか飼ったら教育委員会に睨まれる」って思う教職員が大半なはず。いや、30年ぐらい前だって同じだと思う。それを、独自の考えで犬を飼いつづけた学校と教師が、エライと思う。もし、この犬が学校に入ってきた幼児の1人にでも噛みついていたら、即刻ガス室送りになっていただろう。学校は、そのリスクをあえて選択したわけだ。英断だったのか、それとも想像力に欠けていたのか、そのへんは分からない。けれど、結果オーライでいえば、この学校では上手くいったということだ。美談というのは、危険と裏腹なところに成立する。それを文部科学賞は、推すというのだから、わく分からない世の中だ。いっそのこと、全国の学校で少なくとも犬一匹を飼うよう学校教育法で決めてしまったらどうだろう。なかなかユニークな教育ができると思うぞ。うさぎとニワトリだけを飼うのが教育でもなかろう。もちろん、噛まれることは覚悟でやってもらいたいものだ。
カメラが変な動きをしていたなあ。ここは手持ちで追っているのかな、と思うようなシーンで、手持ちのように小刻みに揺れないのだ。じゃあステディカムのようなスムーズな動きかというと、違う。ほんのわずか、振り子のように左右に揺れているのだ。いったいあれは、何だ? 揺れを抑えるために上から吊っているのか、それとも、そういう機材があるのか? よく分からんですが。
猟奇的な彼女7/18ギンレイホール監督/クァク・ジョヨン脚本/クァク・ジェヨン
可愛い顔してすぐ「ぶっ殺してやる」と言い放ち、問答無用で殴りかかる娘。その彼女とひょんなことから知り合いになり、殴られながらもやさしく見守ってしまう青年。その、不思議な数カ月のお話だ。彼女の"猟奇的"というか奇矯な行動。これには、ちゃんとした理由があることが最後に分かる。分かってみれば、なるほどねとも思えたりする。ネタバラシをしてしまえば、彼女は恋人に死なれて、彼のことが忘れられず飲んだくれていた。そんなとき、彼に似た面立ちの青年を電車で見かける。彼を忘れるために青年とつきあい、無理難題をいって・・・ある意味で憂さ晴らしをしていた。けれど、結局、彼の面影を忘れることはできなかった。が、数年後、彼の従兄弟と遭遇する。その従兄弟こそ、件の青年だった・・・という、できすぎた恋物語。映画は「前半戦」「後半戦」「延長戦」に別れていて、それぞれに展開が面白い。でも、やっぱり「延長戦」が一番わくわくしたし、彼女と青年の遭遇もあって、楽しめた。
楽しめた最大の理由は、猟奇的な彼女チョン・ジヒョンがかわいいからだな。横顔はいまいちだけど、正面からの素朴な顔がとてもチャーミング。スタイルもいいし、いわゆる韓国顔じゃない。韓国映画って、瓜実顔のちょいと陰気なオバサン美形がスターさんだったりするので、いまひとつのれないのだけれど、この映画は違った。振り回される青年チャ・テヒョンは好青年。けどアホ面がいまひとつかな。それと、映画から韓国の風俗習慣というのがにじみ出ないのがよかった。少しだけ、彼女の両親の場面で韓国文化がでたりするけれど、気になるほどではなかった。こういうアクの抜けた様子が、韓国映画の中でもこの映画が受け入れやすくなっている理由じゃないかと思う。
ラスト・プレゼント7/18ギンレイホール監督/オ・ギファン脚本/オ・ギファン
問題は奥さんの病気である。もうすぐ死ぬという難病というのが、具体的にでてこないのが納得できない。難病といいつつフラフラ外出したり、友だちと食事に行ったりしているというのが、解せない。夫は妻の難病を知らされていながら、妻をフラフラ外出させているのが、ヘン。心停止で電気ショックを与えるほどの症状がありながら、本人も周囲も医師も難病扱いしないのがヘン。というわけで、この映画の重要なカギとなる女房の病気に関して納得できないことが多すぎるので、まずその時点で感情移入することができなかった。次に、暗くしよう、泣かせようという演出があざとすぎて、とても共感できなかった。音楽も画面も役者の表情も、暗い。しかし、そうすれば客が泣くと思ったら大間違いだ。さらに、夫の顔が住田隆のようで、妻はクローズアップ現代の国谷裕子キャスターのようだってことからして、同情とは無縁だろう。これは、お笑い映画か? いや、漫才師の映画だからお笑いではあるのだろうけれど、表面的にそうであっても映画の意図は、泣かせるなんだろう。しかし、住田隆じゃ、笑っちゃうよな。とくに、ラスト。コンテストでお笑いをやっている夫を見ながら、妻は座席で死んでいくのだけれど、このシーンの引っ張り具合のながいことしつこいこと。オレは、怒ってしまったぞ。さっさと女房は死んでしまってくれ! というわけで、売れない漫才師の夫婦の様子を扱ったこの映画は、わざとすぎてかえって笑ってしまいそうになった。ばかばかしいにも程がある。この夫婦ほどバカなやつらはいないぞ。
夫婦の家が立派すぎるのがとても気になった。売れない漫才師だろ。そんな広いマンションに住んでいるなよ。テレビや冷蔵庫が立派すぎるだろ。壁には洒落た額が飾ってあったり。そりゃあんた、漫才師になろうてえ連中の好みと違うだろ。女房も病院で薬をもらってきているなら、もっと金に苦労しているはず。家財一式売り払ったって足りないだろう。というところで、リアリティがないんだよ。
面白いのはサブストーリーの方。女房の初恋の男を調べようとするのだけれど、調査するのが亭主にサギを働きかけそうになった黒づくめの2人組。こいつらが一番よかった。舘ひろしにアゴ勇をかけ合わせたような奴と、その相棒の丸いの。この凸凹コンビは最高だね。もっとも、初恋の相手というのは昔の写真から探し出すという手はずになっているのに、ヨロヨロ調査する。そんなの、さっさと調べられるだろうと思うのだけれど。で、エピソードとしては面白いんだけど、表現が稚拙で分かりにくい。まあ、最後には何となく想像がつくのだけれど、女房がもっていた写真の丸で囲まれていた少年は、女房の好きな彼氏じゃなくて、女房の親友の少女が好きだった男の子だったということだ。それで勘違いして調査が手間取ったわけだ。で、その彼とは、現実の漫才師の夫であって、小学校の時の同級生というオチがついている。そんなの、亭主だって女房が昔の同級生だってわかってたはずだろ? たまたまケンタッキーで再開したとしても。だったら、わざわざ詐欺師コンビに調査させなくても、手元の資料で調査できるだろう? と、思ってしまうと、面白いはずのエピソードも俄然つまらなくなる。というわけで、この映画はとてもレベルが低いといえる。
気がついたとここいえば、まず画面が曲がっていることだ。わずかに左下がり。平衡感覚がないのか? それと、ヒロインのイ・ヨンエは「春の日は過ぎゆく」にでてた人なんだってね・・・。へー。東京国際では彼女目当てで野郎どもがたくさんきていたけど、この映画を見る限りではオバサン顔だよなと思うのだが。って、2年ぐらい前のことを、こちらが忘れているってだけの話なんだが。
トーク・トゥ・ハー7/22シネセゾン渋谷監督/ペドロ・アルモドバル脚本/ペドロ・アルモドバル
変態ストーカー青年が植物人間となったターゲットと準強姦して子をなし、その子が死産だったという理由で自殺を遂げるという危ない話。愛というより倒錯したフェティシズムだと思うし、慈しみというより汚らわしい。看護士の青年が、実は眠ったままの患者とまぐわっておらず、処女懐妊だったというストーリーにでもしたほうが映画としては面白くなったろうに。いくら植物人間になった女性に話しかけていたからといって、そのせいで目覚めたというわけではないだろう。んでもって、それが愛か? あほか。ホームページの惹句には「深い眠りの底でも女は女でありつづける」「孤独を知る全ての人々にアルモドバルが贈る、21世紀の愛の賛歌」なんてのがあり、監督の言葉として「"トーク・トゥ・ハー"は私からみなさんに贈る抱擁です。皆さんひとりひとりの胸で抱きとめてほしい抱擁なのです。そして抱擁というものは、あたたかくなくてはいけません」と書かれていた。じゃ、なにかい。植物人間が看護士に色目を使って準強姦させたというのかい。そして、それは愛だというのかい。植物人間を裸になって抱きしめることを推奨しているのかい。一見誠実そうで、実はすごく変態看護士だっていうのを、なんか美化していないか?
闘牛士の女もケガをして、2人そろって枕をそろえて植物人間ってシチュエーションは面白いと思う。けど、闘牛士のほうはさっさと死んでしまって、夢見るバレリーナの方が目が覚める。じゃ、闘牛士の彼女が登場してきた理由は、どこにあるんだ? どんな意味があるんだ? わからんぞ。たまたま引き合いに出すだけだったら、あんなに登場シーンが長くなくてもいいんじゃないかね。旅行ジャーナリストと闘牛女との関係が何を表現しようとしていたのか、意味不明。・・・孤独? 孤独と呼ぶにはありきたりの人物たちでしかないぞ。で、闘牛女は33歳という設定らしいが、どーみても50ぐらいいってるオバサンなんだよなあ。途中で消えてしまうヒロインだとしても、もうちょっとましな顔の役者にして欲しかったぞ。
アフリカで宣教師が強姦だとか看護士仲間の会話だとか、精神分析医だとか、バレエの舞台とかサイレント映画だとか、テーマを示唆するようなそぶりをみせる要素はある。あるけど、具体的にぴたっと当てはまらないような気がする。たいした暗喩にもなってないんじゃないかね。結局のところ、中味があまりない映画ではないかと思う。つまんないとは言わないけど、なんでそうなるの? だからどーした! の部分がしっかりしていない。深いテーマを扱っているように見せて、実は思わせぶりだけに終始している軽薄な映画だと思う。
一番面白かったのは、劇中サイレント映画だ。身体が縮む薬を飲んだ科学者と、恋人の話。小さくなった科学者が眠ったままの恋人の身体の上をはいずり回り、下着をはぎ取り、女陰のなかに素っ裸で入り込む。まあ、ここが看護士の準強姦の暗示なんだろうけど、どこかの秘法館にある生命の神秘・女性の身体みたいで、笑ってしまった。陰毛が生え、女陰はスリット。そこに男が頭から入っていくんだけど、昔見た日活ロマンポルノにもこんなシーンがあったっけなあ、と懐かしく思ったぞ。
踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!7/25新宿武蔵野館1監督/本広克行脚本/君塚良一
気がつくのは、監視カメラが重要な小道具として使われているということだ。監視カメラといえば、先だっても長崎での事件を連想する。12歳が4歳を殺害した事件だ。ここで監視カメラが重要な役割を果たしたかのような報道がされて、これから全国の盛り場や商店街、共同住宅のエレベーターでは導入が進むんだろう。けど、報道のされ方がヘンだったよなあ、と思っている。カメラに映った映像を見ればすぐ分かりそうなことを、数日にわたって小出しにして報道されていたからだ。なんだか監視カメラという言葉が頻繁に新聞に掲載されるようにしていたんじゃないか、と僕は疑っている。カメラ設置となれば、利権が絡むからね。パチンコカードの利権と同じように、独立法人をつくってカメラ設置許可申請や設置業務、ビデオテープの供給・管理を行えば、ものすごいお金がコンスタントに入るわけだからね。当然そこには警察OBが勤め、莫大な給与と退職金が・・・。
映画でも、監視カメラを走査に導入するのは本庁のエライさんたち。それに対して、所轄は足で稼ぐということになっている。この本庁と所轄の対立は殺人犯逮捕への過程でも同様で、所轄の扱う事件なんかどーでもいいと言い放つ本庁のエリート女警視正に、所轄のレギュラーメンバーがいじめられるという構図だ。。ところが、監視カメラへの否定的な態度が、、映画全体として及び腰になっているようにうかがえる。監視カメラも、所轄のメンバーにとって役立っていたりするのだ。やっぱり、公開直前にあんな事件があったせいで明白な否定はできないのかな。急遽、どっか修正しているのかな?
内容は、正直にいって不満だらけ。だって、前作から比べるとデキが悪すぎるんだもん。本庁対所轄という話の骨格は、同じ。複数のストーリーが絡むのも同じ。最後にメインの登場人物が撃たれるのも同じ。しかし、複数のストーリーに深みがない。こう、見事にぴたっと収まる快感がないんだよ。前作ではサブストーリーがメインストーリーに上手く絡んでなるほどの着地感があった。けど、今回のはみなバラバラ。主事件である殺人事件が、つまらない。動機も、犯人たちもチープ。さらに、スリ一家はどーなったのか? 岡村吸血鬼の目的は? 所長の不倫がちょっと面白かったぐらいで、あとはもう付け足しのようなサブストーリー。つまりまあ、これは脚本の練りが足りないということに他ならない。この程度で喜ぶ客がいるから悪いんだろうが、ちょっとなめてないか? それにやっぱり、いつまでたっても本庁と所轄の似たような対立っていうのもつまらんぞ。テーマは同じでも、視点を変えるなりして別の物語にするような工夫が必要だろう。つまりまあ、根底に横たわるのは本庁と所轄の対立だけれど、それが露わになるのが大事件と捜査本部の設置っていうワンパターンは飽きる、ってことだ。芝居の後ろでカップラーメン食ってるオヤジとか思わせぶりな通行人とかお台場土産とか、そういう楽屋ウケに凝りまくるヒマがあったら、しっかりした脚本をつくってくれい。
セリフがとても聞き取りにくかった。とくに、前半はこもっていて聞き取りにくかった。それと、最初のころの画質が、スモークがかかったようにモヤっていたのが気にかかったぞ。
少女の髪どめ7/27ギンレイホール監督/マジッド・マジディ脚本/マジッド・マジディ
「運動靴と赤い金魚」の監督なんだだそうだ。「運動靴」には、せっぱ詰まったドラマがあった。貧しい国の、幼い子供の心を揺さぶるような事件だった。現在の日本では考えられないような、バカバカしい出来事だったけれど、それでも心につたわってきた。ところが、この映画にはそういうものはない。スケベな青年のストーカーまがいの恋心では、感動は難しいだろうな。純真さというより、バカな男にしか見えないんだもん。工事現場。青年の仕事は肉体労働じゃなくて賄い。まだ子供扱いされているんだろうな。そこに、年下の少年が雇われることになって、賄いから肉体労働に移されてしまう。すると、この青年は少年にしつこいぐらい嫌がらせをするんだよなあ。これが、理解できない。男ならさっさと一人前の男の仕事をして、独り立ちしたいだろうに。うじうじしたところが全然共感できない。で。少年が実は少女だと分かると、青年は掌を返したように少女に執着して、庇護までしようとする。バカかこいつは。色気づきやがって。しかも、アフガンから来ている出稼ぎの娘だぜ。イラン人にとって、アフガンの女は憧れなのか? それにしては、さほど可愛い女の子ではなかったぞ。踏んづけられた薬師丸ひろ子みたいでさ。てなわけで、娘のために1年分の給料をフイにするし、挙げ句は大事な身分証明書を売り払って娘の父親に差し出したりする。これって、下心があるからだろ。もちろん、アフガンに帰るという娘一家に差し出すわけだから、見返りは求めていないのかもしれない。じゃ、同情か? そんな風にはとても見えない。やっぱり、娘の関心を惹きたいというのが最大の理由だな。だからこそ、この青年はますますバカであることが見えてくる。娘に金をやるため、親方には平気でウソもつくし。どーもやっぱり、イラン人は信用がおけないなあ。なんて思ってしまうぞ。もっとも、この映画にでてくるイラン人たちは、イランの中でも生活レベルの低い部類かも知れない。彼らが平均的イラン人ではないとは思うけれどね。
この映画でもっとも興味深いのは、IDカードとアフガンの存在だな。「一票のラブレター」にもIDカードはでてたけど、イラン人は身分証明は必携で、ないとホテルにも泊まれないらしい。買い物にも必要だ。すごい国だなと思う。こういう国から海外にでたら、そりゃあタガが外れるだろう。日本なんて物質も有り余っているし・・・って、そういう話ではなかったか。さてと。アフガン人がイランに出稼ぎという構図。「アフガン人逃げろ」なんて号令は、日本で働く不法滞在イラン人に「イラン人隠れろ」というのと同じなのかも。でもだからって、日本人がイラン人惚れるってことはあまりないだろう。とーもこの辺りのニュアンスが、つたわってこない。まあ、国境なんてあってもなにくても同じ、国が違っても民族・習慣は同じ部族なのかもしれないけどね。
というわけで、大したドラマもなくストーカー行為は呆気ない幕切れを迎えてしまう。アホな青年を見ているうちにこちらはだんだん退屈してきて、最後の方になると瞼はゆるゆるになってきていたのだった。
イラン人もアフガン人も賃金や労働環境にあまり差別なく働いているように見えた。アフガン人の労働力は必要とされていて、現場仕事には不可欠なんだね。現場監督のおやじが、こういう映画では冷酷無比っていうのが定番なのに、なかなか人情味があっていい奴だったのが印象に残った。
セクレタリー7/28シネマスクエアとうきゅう監督/スティーブン・シャインバーグ脚本/エリン・クレシダ・ウィルソン
疲れか寝不足か、ちょっと眠気を抱きかかえたままでかけた。ひょっとしたら眠くなってしまうかなと不安だったけれど、やっぱり眠くなった。中盤にさしかかったあたり。お仕置きをされははじめる辺りから眠気がやってきて、解雇される前後で不覚にも数秒気を失った。その後は持ち直して、後半は興味深く見た。
なんだか思わせぶりな展開で、人物やその設定、小道具なんかに意味ありげなものやことがつづく。けれども、バラバラに提示されたものがうまくつながらない。つながらないから、興味が薄れてきて眠くなったに違いない。ハッと正気を取り戻してからの展開で、この映画の仕掛けがやっと分かった。そーか。自傷行為による精神病院入院経験っていうのは、彼女の心の弱さだとか社会に対する批判精神だとか思っていたら、単なるマゾヒズムだったってことじゃん。なんだよ、である。それに気がついて彼女は大切なナイフ類を捨てたのだ。でもって、これからもずっと秘書でやっていけると思った。だけど、すぐに飽きられて捨てられた、と。そこで、決まっていた結婚もやめて、自分がSMのマゾであることをカミングアウトしたってわけだよな。サドの弁護士はどーゆーわけか彼女の熱心さ(糞小便垂れ流しのハンスト)に負けて結婚しちゃうというのが、ちょっと納得いかないなあ。
分からないシーンはいくつかある。弁護士のカミサンが最初の頃でていたようだけど、慰謝料は払いきってなかったの? ミミズはなに? あの、会食のよう場面はなに? 会食に参加しているのは誰? 弁護士は儲かっているの? 他の秘書はマゾに耐えられなくて辞めたの? 秘書募集の看板は板に描いてあってつねに募集状態だったなあ・・・。布団の上に投げたゴキブリは? でも、合理的な説明はないかも知れないなあ。それに、SMだってことを前提に見ると、また違う印象もでてくるかも知れない。これはあとで、もう1回ぐらい見ないとわかんねえかな。ってか、見てみたいと思わせる映画だぞ。だって、セックスシーンがないのに、やたらエロチックなんだもん。・・・もっとも、主人公の女性はとても美形ではなく豚面だったけど。でも、その不細工さがまたエロだったりするんだよなあ、これが。って、なにいってんだかねえ。
チャンピオン7/30新宿武蔵野館2監督/クァク・キョンテク脚本/クァク・キョンテク
とてもつまらない映画だった。だって主人公は別に誰とも対立することなく着々と勝ち上がって韓国チャンピオンから東洋チャンピオンになっていき、妻も娶ってあとは世界を目指すだけ・・・って流れでラスト近くまでくるんだもん。だからどうした、だよなあ。ドラマがないじゃないか。で、考えたのは、これはそうせざるを得なかったのかな? ひょっとして、史実を元にしているから、ドラマチックにできなかったのかな? ということ。で、帰ってからWebで調べたら、その通り。世界チャンピオン戦で死亡した伝説のボクサーの話だった。多分、韓国内ではその事実は一般的によく知られているのだろう。ラストは死ぬと分かっている映画の作り方をしたんだろう。けど、そういうことを知らない僕には、ハナっからやたら暗くて、陰気で、華のない映画でしかなかった。しかも、最初に言ったようにドラマがない。たとえば、ジムに入ってすぐにスパーリングの相手をさせられるのだけれど、「相手は会長の秘蔵っ子だから手向かわなかった」てなことを言っていた。例えばこの秘蔵っ子がライバルになって、相手がいじめてきて、それを克服するとかさあ。もうちょっとなんとかウソでもいいから、ならなかったの? ヒロインがでてくるまでだって、かなり時間を要した。飽きちゃうよ。ずっと女なしじゃ。それと、この映画の変なところは、主人公の出自を最初にちゃんと語らず、後半も時間がたってから母親や義父がでてきたり、小学校のときにいじめられた想い出がぽつんぽつんとでてきたりすることだ。そういうのって、最初に描くべきだろ。冒頭も変だったぞ。夜明けの海に始まって、寝床から這い出るシーンがあり、バスに乗る・・・。車掌が「どこまで」というと少年の主人公は「終点まで」「金はあるのか?」「・・・」「いいから乗れ」となるのだけど、あのときの少年はどこへ何しに行こうとしていたんだ? それから10年後ぐらいに20歳前ぐらいの主人公がまたバスに乗ろうとして、車掌に断られる。これは何を表しているのだ? てな、わけの分からないシーンも多々あったりして、どーもピタリと収まらない。脇役の描き方も下手。同じボクサー仲間にもっと焦点を当ててみるとか、会長やコーチなんかを人間らしく描いてみるとか、なんとかできなかったのか? んでもって、13年後、成長したボクサーの子供が会長(?)につれられてボクシングジムへ連れてこられるわけだど、あれは子供をボクサーに仕込もうということなのか? よく分からんぞ。というわけで、映画としては悲劇のヒーローに焦点が絞られ過ぎて、結局、何がいいたいのかボケてしまっていて、とてもつまらなかった。ついでに。冒頭タイトルの新聞記事やシーンの中で登場する横断幕だとか、そういうところに書いてあるハングルの訳がでないのは不親切だろう。そういうのは、映画を理解する上で、大切な情報なのだから。手抜きとしたか思えないね。

 
 

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