2003年8月

マイ・ビッグ・ファット・ウェディング8/1上野セントラル4監督/ジョエル・ズウィック脚本/ニア・ヴァルダロス
アメリカ社会に残るギリシア移民の共同体と濃いつながり。どこまでリアルか知らないけど、あるんだろうなこういうの。アメリカは人種の坩堝とはいわれているけれど、個や民族を離れてアメリカに一体化しているわけじゃなくて、複数のこういう民族社会が接しあって集団をつくっているんだろう。やれやれ、たいへんだ。なにも群れるのは日本人や韓国人だけじゃないのだね。別にだからってホッとしてるわけじゃないぞ。個人的には、民族の誇りというか連帯感の強さに、引いてしまいそうだ。郷にいれば郷にしたがえなんて、ウソだね。見ていて楽しい映画だけど、我が身に置き換えたら御免被りたい。
いまだに女は結婚して子供を産んで亭主に仕えろ、というのが本当かどうか知らないが、ギリシアもなかなか男尊女卑。不細工な女が婚期を逃してしまうってのは、結婚対象が同国人に限られていればあるかもね。その、主人公の彼女が知識に目覚めてどんどん化粧もファッションも派手になって、美しくなっていく様子はみていて気持ちがいい。もっとも、化粧してもこの程度? っていう、どっちかっていうと鬼瓦みたいな顔と、どうしても30そこそこに見えない加齢のあとがあるのは、まあ大目に見てあげよう。そういう彼女に惚れてしまう学校の先生。あれは、どの民族なんだろう? WASPなのか? アイルランド? 大家族主義のギリシアとは正反対の、核家族の典型みたいな一家だ。結婚式の参列者の数でもはっきり分かるのがおもしろい。で、この映画の難点をひとつだけ挙げるとしたら、彼が彼女になぜ惚れたか、だね。たまたま道路から旅行代理店の中が覗けて、彼女がいたから中に入って・・・ってだけで知り合いになってデートしてしまうってところが説得力に欠ける。ここをうまく表現できていたら、いうことのない映画になっただろうね。
脇を固める役者たちがみな存在感があって楽しい。父親も母親も姉も弟も甥たちも叔母さんも従兄弟も、たとえちょっとしか登場しないキャラでもはっきりと印象に残ってる。無駄なく整理されて、上手く処理されているからだろうな。また、大家族のギリシア人たちを過剰に表現してもいない。どちらかというと、演出は抑え気味で、テンションが高くなったりエスカレートしてもいない。それでも十分に笑えるし、もちろん泣けるし、共感もできる。個人的にはギリシア移民社会とは交流したくないけれど、見ている分にはとても楽しい映画だった。
ターミネーター38/1上野宝塚劇場監督/ジョナサン・モストウ脚本/ジョン・ブランケート、マイケル・フェリス
実は「T1」をテレビでアバウトに見ているだけで「T2」は見ていない、かも知れない。とてもいい加減な状況だ。でもま、なんとなく話にはついていける。「マトリックス」のわけ分からん状態とは正反対だ。なぜロボットが人間に反抗して爆弾を投下したかの過程が、わかりやすく紹介されていた。アクションシーンも迫力が阿あった。CGも使ってるんだろうが、頼り切ってないところがいい。話が単純で、最初っからもうチェイスで、転げ落ちるようにラストまで行くっていうのも、飽きさせない。「マトリックス」のように途中で能書きを垂れたりしないし。女ターミネーターが、ちょっと東洋的な面立ちで、人形みたいな無機質な動きをするのが、なんだか能か狂言を見ているようで色っぽかった。でも、彼女、超伝導5テスラ以上で溶けかかっていたのに(磁石にくっついてしまうようなサイボーグをつくるなよ、といいたい)、平気で着衣ももとのまま現れたのにはたまげた。理屈にあってないじゃないか、と。それに、ラストでも水素爆弾で簡単に壊れてしまって、まだくるか、まだくるか、まだくるよ・・・っていうしつこさが希薄。もっと、これでもかっていう執念深さを見せて欲しかったですね。女ターミネーターに比べると、ヒロインの獣医さんがあまりにもフツーの面立ちで色気もないのでがっかり。上着をはだけてシャツ一枚になってサービスしてくれてもいいじゃないかと思いつつ見ていたのだった。
女獣医の父親のロボットの反逆の原因となったスカイネットをつくった将軍は、死に際になぜ"あそこ"へ行け、と言ったのかが不明。だって、そこにはスカイネットをとめる手段なんかなかったじゃないの。うーむ。というわけで、いささかつじつまが合わない部分があるものの、よくできた娯楽映画になっていたと思う。とはいいながら、こういう受け身だけでいい映画では脳味噌が退屈してしまう私は、途中から若干の睡魔と戦いながら見ていたのではあるけれどね。
ナイン・ソウルズ8/5テアトル新宿監督/豊田利晃脚本/豊田利晃
犯罪者の再犯率が高いことを訴えようとしたのかな? 冗談だけど。そういう風に見えてしまうところが情けない。それも含めて、いろんな意味で日本映画だなと思う。安っぽくて、情緒的で、救われなくて、中途半端で。まず、9人がムショに入ってきた原因が類型的でつまらない。ひきこもりで父親殺害。頼まれたから子供殺し。自殺幇助・・・。世相を反映させているつもりなんだろうけど、薄っぺら。よくあるシチュエーションだし、掘り下げが足りない。爆弾魔は古いだろ。あんな明るい爆弾魔がいるか? 第一、政治犯は共同房にはならんだろ。あとはみなチンピラヤクザの類。同情の余地もない。こういう彼らに共感も同情もできない。で、9人が逃走した理由は、たまたまネズミの穴を見つけたから・・・って、モチベーションが希薄すぎるだろ。もっと、積極的に「○○○がしたいから逃げる」って、意志があるべきだ。なんとなく逃げられた、なんとなく思いの地へ、なんていうのでは観客をひきつける力が足りない。偽金のため、っていうのは、旅の途中の寄り道だろうしね。で。冒頭では大胆な省略が行なわれている。松田の家庭からいきなり刑務所とか、ネズミがチョロリのあと脱獄とか。悪くはないけど、本来はその部分に描くべき何かがあったんじゃないかとも思えるぞ。
というわけで、のっけから面白くなさそうな予感。しかも、原田、松田、千原、それと小人のマメ山田、でぶの大楽は識別できるけど、あとの4人が区別できない。もうちょいと人間を描くシーンをつくるべきだろうなあ。おいおい分かってくる娑婆との関係も、布石があればもっと効果的なのだから。ま、9人が多すぎるのかも知れない。でも、演出でなんとかなるだろ。
女優が豪華なんだよね。の割にはあまり効果的に使われてないけど。鈴木杏は随分いかつい顔だったけど、成長してそうなっちゃったのか? 松たかこ、ちょい役。京野ことみはテレビと変わんない。あとの3人はよく知らないから印象に残らなかった。もったいないよね。わけの分からんシーンや、つじつまの合わないところも多い。でもやっぱり、なぜ脱獄したか、その突き上げられるような情熱が感じられないから、後半に若干説明がついても、つまんないんだよ。だから、チンピラが脱獄して再犯罪しているだけのつまんない映画にしかならない。未来への扉を開けるカギなんて、笑っちゃうぐらいの使われ方だった。
ハルク8/7新宿武蔵野館2監督/アン・リー脚本/ジェームズ・ジェイマス、ジョン・ターマン、マイケル・フランス
アメコミが原作だと、こうまで平面コミックを意識しなくちゃいけないのかね。むかし見た「スポーン」って映画も似たような感じだった。場面転換にワイプが多用されていて、コミックのフレーム感が強調されていたっけ。「ハルク」では、それに輪をかけてアメコミ感覚モロだし。ワイプも多種多様、画面が複数に分割されたり小フレームが挿入されたり動いたりと、コミックそのものだ。これを見て思ったのは、日本のマンガは、ここで多用されているコマの多様さを、すでに平面で成し遂げてしまっているな、ということだ。アメリカでは、コミックの平板なコマに映画で動きを加えてみても、日本のマンガにも及ばない・・・というのが感想だ。だって、マンガを原作にした日本の映画は「映画」になっているけど、コミックを原作にした映画は、やっぱりコミックなんだもの。尺は2時間以上あるのに、大河ドラマのダイジェストにしか見えない。しかも、前半がムダにだらだらと長い。そして、人間の感情、とくに、超人に生まれてしまった悲劇や、超人を恋人にもってしまったやるせなさが、まるで表現されていない。見かけ上の善悪の対決という枠から抜け出していない。しかも、悪がモノ足りなさすぎる。科学を営利目的にしようとするやつだけで、それも一般人だからハルクと戦わせること自体がバカバカしい。じゃあアメリカ軍か? っても、この映画での軍は、ゴジラに対する自衛隊みたいなもんで、感情的な対立があるわけじゃない。では、父親か? 父親が最も悪の素質十分なんだけど、キャラクターが中途半端だね。最後にどんな物質とも融合してしまう超人になっちゃうけれど、そんなのメリットよりデメリットの方が大きいだろ。ラストでは、ハルクのエネルギーを吸い取って生きながらえようとする(で、いいんだよな、ストーリー)けれど、吸い取りすぎて自爆してしまうという情けなさ。っていうより、父親が息子を消滅させようとすること自体が、理不尽で納得できない。だいたい、この親父の野望は何だったのだ? というわけで、長い割に中味がスカスカな映画でした。そうそう。超人になると上衣がビリビリ破けるというシーンが少なかったのが、残念。それと、ズボンはなんで破けないんだ! という、バカな突っ込みを入れたくてしょうがないのだ。ははは。
133席の武蔵野館2に、3時45分に入った。すでに開場していたのに、整理番号は何とまだ19番。後から入った人も数人だから、25、6人ってところかな。これじゃ、7階の武蔵野館1にはとてもかけられないね。この夏の大コケといってもいいのかも知れないぞ。
ベアーズ・キス8/8シネセゾン渋谷監督/セルゲイ・ボドロフ脚本/セルゲイ・ボドロフ、テレンス・マリック
動物が人間になりたがるというのは、民族的な説話のパターンのひとつ。サーカス、放浪、捨て子(貴種流離譚か?)というのも、説話の王道。けど、その域をでていない。つまり、新しさや独自の解釈は加わっていない。無難なところでまとまっているから、つまらなくはないけれど、魅入られるような面白さには欠ける。たとえば、臆病風にふかれていた義父のバイク乗りが大ジャンプを決めて酒を買いに行く途中に事故るのは、みえみえ。ラストで主人公の少女ローラが熊のミーシャを追いかけて行き、彼女も熊になるのも予定調和で、みえみえ。「スプラッシュ」で、人魚を追いかける男が泳げるようになるのと同じだ。ま、あえてみえみえにして、分かりやすさを狙っているのかも。こういうお伽噺は女子供は好きだから、その手には受けるんだろう。僕が見たときも90%が若い女性で、女同士の客が多かった。が、この映画の最大の難点は、熊が変身して人間になっても、カッコイイ青年にならないってことだな。あんなマヌケ面した抜け作じゃ、ロマンチックにはなれないだろ。監督が自分の息子を売り出すために利用しているとしか思えないぞ。
ローラは、可愛い。けど、あんな少女がいきなり熊から人間に変身したマヌケ面男とセックスしてしまうのは、理解しかねる。っていうか、痛々しい気がしてしまう。ここはもうちょっとプラトニックでひっぱるべきだったんじゃないか? 2人が愛し合い結ばれるまでの過程で、説得力が足りないと思う。これがとてつもなくハンサムだったら、それだけで説得力になるんだけど、あれじゃなあ。
サーカスという存在も、うまく生かし切れていないように思う。サーカスに所属している間のストーリーは、とても退屈だったぞ。サーカスを追い出され、放浪しはじめると、巨大でぶ女とか侏儒なんかの、いかにもフェリーニや寺山修司っぽい世界に入りかけるんだけど、それも一瞬。消化不足のまま彼らも消えていってしまう。で、スペインに入ってからだな、ちょっとずつエピソードが面白くなつてくるのは。義父が死に、ハッタリ大道芸の男とピエロとの旅。大道芸男がローラを犯そうとするのは、これはもう流れとしては定番。ピエロが自分を犠牲にしてローラを助けるのも定番。というわけで、すべて定番の域をでないのだった。やっぱ、この手の映画は異様さがにじみ出てこないと、もの足りない。それでも、まあ、なんとか後半は面白さが維持できていたと思う。
この映画で驚嘆すべきは、少女と熊の共演だよな。仔熊ならまだしも、かなりでかい熊とからんでいたりする。危なくなかったのかと、それが心配だった。
歓楽通り8/14ギンレイホール監督/パトリス・ルコント脚本/セルジュ・フリードマン
世紀末、ムーランルージュあたりの踊り子のお話かな、と思っていたら違った。第二次大戦中・後のパリの娼館のお話だった。それでも妖しい雰囲気はそこそこ漂っていたのだけれど、性と倒錯の世界というわけじゃない。なんとも哀れでチンケな話だった。娼婦が産み落とした男の子。長じて彼はチビハゲデブに育つ。仕事は娼館の雑用。ある日、若い娼婦に一目惚れ。でも、商売物には手を着けない。要するに、彼女を見守る守護神のような立場になって面倒を見るんだよ、これが。彼女に彼氏をあてがったり、歌手のオーディションに連れていったりと、せっせと尽くす。もちろん見返りは求めない。こういう男に、共感が得られるか? 私は、得られない。アホにしか見えない。女も女で彼とのデートの送り迎えをさせたり、なんだかんだと使いっ走りをさせて平気なんだ。とんでもない女だとしか思えないぞ。で、このバカ娼婦が好きになるのが、バクチ好きのチンピラ。しかも、ルーマニア人の分け前を持ち逃げしたことから付け狙われている最中なのだ。もう、3人ともバカ。ルーマニア人に追われて街を転々とする娼婦とチンピラの後をチビハゲが下男のようについて回り、面倒を見るのだからやるせない。で、この映画にもう少し"見て楽しい"部分があれば救われるのだけれど、妖しさはいまひとつ、音楽(ジャズ)も中途半端、チビハゲの哀しさにも焦点が当たっていない。娼婦とチンピラの流されていく様子も、いまひとつ・・・。というわけで、だからなに? と言いたい気分だ。どうせなら3人の行動を「明日に向かって撃て」のようなコンビに仕立てるとか、面白いドラマにならなかったのかね。一部フォトモンタージュみたいなシーンがあったけど、これも中途半端なシュールレアリスム。それと、チビハゲが過去を回想しつつ喋るという縦糸にそっと話が進むのも、賛成できない。話が途切れてしまうのだもの。破天荒な、流れるような無軌道に焦点を当てるとか、もっと娼婦の妖しい部分にこだわり抜くとか(「赤線最後の日」みたいに、娼館が閉鎖され流れていく娼婦を追っていくとか)、やり方はもっとあったろうにと思う。疑問なのは、チビハゲは、自分の性の対象をどこに向け、どう処理していたのだろうか? ということだな。別に不能なわけではないのだろ? なぜ彼は娼婦を見初め、守護者となってしまったかかを、描かないと説得力はないと思うぞ。ヒロインの娼婦は、娼婦のメイクだと目も大きいし陰りもある雰囲気がでるのに、歌手としてステージに上がるシーンでは田舎の姉ちゃんにしか見えなくなる。とくに、エラが張っているのが分かりすぎになってしまう。これが難点だ。
平日のお盆。しかも雨。館内は空いているだろうと思ったら大外れ。1時30分に着いたら館外にまで列が伸びている。げげっ。こちらは「歓楽通り」だけがめあてなんだけど、「戦場のピアニスト」目当ての客が押し寄せたと見える。なんとか後方の席を確保すると、まもなく満席。「満席なので、座れない方は払い戻しします」との呼びかけにも退場する人はほとんどなく、立ち見がふえるばかり。なんてことだ。
コンフェッション8/19新宿ピカデリー2監督/ジョージ・クルーニー脚本/チャーリー・カウフマン
なんかカッコよくというか品良く撮ろうとしてないか。凝っている割に全体に平板。なんか造作が年寄りじみていて、勢いが足りない。下敷きにしている話はブッ飛んでいて面白いのに、その面白さ、おかしさ、奇妙さがあまりつたわってこない。印象的なシーンってのもなかった。ジキル博士とハイド氏みたいにメリハリをつけちゃうとか、TVプロデューサーの顔は明るくコメディにするとか、なんか、落差があってもいいような気がした。いや、ドキュメンタリータッチでもいいんだよ。もっとハードに。いずれにしても、観客が面白がれるように造られていないと思う。現実の人々へのインタビューも入るけど、彼らを知っていない日本人にとっては「おお、あの人!」ってな驚きも感じられにくいし。まあ、さすがに「ゴング・ショー」自体は知ってるけどね。
彩度・明度が低くザラッとした画質。「スリー・キングス」でもあんな感じだったけど、意味あるの? それに、その画質だったりそうじゃない画質になったりする法則はあるのか? よく分からん。
主人公を演じたサム・ロックウェルは、印象が薄い役者だ。顔を覚えるのに随分時間がかかった。ジョージ・クルーニーは、演技してないじゃん! ジュリア・ロバーツも、キレがない。ドリュー・バリモアは元気だけど、一人浮いていてムダな元気って感じ。ま、それでも最後までそこそこ飽きずに見られたのは、いいところまでいっているからだろうな。でも、印象が薄いことは否めない。で。最後にコーヒーの毒薬を入れ替えたところが、えええ? どうなってんだ? って思った。互いに1度ずつ動かしてたような気がしたから、よく判別できなかった。それから、内通者を見つけて殺せとクルーニーが来たところ。あれは、クルーニーの亡霊だったってことか? クルーニーは水の上に浮いていて、足から血を流していたように見えたんだが・・・。
ゲロッパ!8/20新宿東急監督/井筒和幸脚本/羽原大介、
結局、平凡な日本映画だった。特筆できるところといえば、子役が生意気なぐらい上手かったということ。それから、後半の途中ぐらいまでだけれど、ライティングが日本風でなくハリウッド的というか、メリハリが効いていてキレイだったことぐらいかな。ストーリーはロジカルではなく、ムダなシーンも多すぎる。そして、セリフがよく聞き取れないのも大きな欠点。問題は、登場人物達がなぜそのように動くか、行動するかに、はっきりとした裏付けが感じられないこと。たとえばヤクザの親分は、いま、どこにいて、なにをしようとしているのか? 刑務所に収監されされようという彼が、なぜ突然、娘に会う必要があるのか? 彼にとってジェームズ・ブラウンはどういう存在なのか? もっといえば、彼は何故に収監されるのか? さらにいえば、25年前にも刑務所に入っていたというが、それは何故だったのだ? というような、ささいなことだけれど分かっていると腑に落ちるというような事柄だ。それから、社会を揺るがす事件となるような首相の卑わいな写真は、誰が撮影してどうやってジェームズ・ブラウンのそっくりさんの踵に入り、誰に渡されようとしていたのか? というストーリーのもう一つの流れにも説得力がない。こういう、骨格に当たる部分の、押さえるべきところはしっかり押さえておかなくてはダメだ。そりゃあ、見ていれば分かるようなこともあるが、分かるまでの間「なんだ?」「なぜだ?」ともやもやした状態で見ているのは不愉快この上ない。意味がないものといえば岡村隆史の存在だな。どういう意味があったんだ? なんか、「踊る大走査線 レインボー・・・」での扱いと同じ様な、わけの分からない役柄で顔を見せている。笑えるようなセリフ=ギャグもあまりない。回想シーンへのつながりも不自然。とにかく脚本のツメが甘いし、テキトーにやっつけた仕事にしか見えない。岸部一徳の演技は見事というか、がんばってた。でも、浮いていたけどね。ラスト、なにげで全員が踊りに入って、人物紹介に入って行くところは楽しかった。
10日間で男を上手にフル方法8/21新宿武蔵野館2監督/ドナルド・ペトリ脚本/バー・スティアーズ、クリステン・バックリー、ブライアン・レーガン
あまり期待していなかった。どーせ手垢のついた恋愛物と思っていたのだ。いや、実際、お話はよくあるシチュエーション。男は女をものにしなくちゃならない。女は男から嫌われなくてはならない。この2人がドタバタを繰り広げるのだ。これまでにだった、同様の話はあったに違いない。けれど、これがだんだんとハマっていってしまったのだ。第1に、ケイト・ハドソンの口元が可愛い。マシュー・マコノヒーも嫌らしさがなくて、ま、清潔なロマンチック・コメディなんだけど、単にきれいごとで収めてなくて、なんとなくエロチックだったり、セリフでは意外とどぎつかったりするしね。お互いに相手の事情を知らないから、彼女の彼に対する意地悪はエスカレートする。それに耐える彼という構図も一貫していて、分かりやすい。枯れた羊歯の鉢植えや、ブルシット(嘘つけ!)というゲームが効果的に使われていたり、綿密な構成もなかなか。ラストをどう締めくくるかと楽しみに見たけれど、互いに当初の目的が分かって決裂した後、うまく仲直りさせてくれた。いい気分にさせてくれる映画だね。で、ケイト・ハドソン。顔全体は扁平で、フツーにしているときはどうってことないんだけど、笑うと四角になる口がとても魅力的。で、「あの頃ペニー・レインと」のジャケット写真の娘と似ているなと思っていたのだけれど、おおWebで見たら同一人物。しかも、ゴールディ・ホーンの娘なんだって? うーむ。納得。で、ケイト・ハドソンが勤める雑誌社の上司は、広告会社のマシュー・マコノヒーのことをなぜ知っていたのかな? 最初の頃につながりが描写されていた? 気がつかなかった。
愛してる、愛してない・・・8/12ギンレイホール監督/レティシア・コロンバニ脚本/レティシア・コロンバニ、キャロリーヌ・ティヴェル
なんと、吉害の話だった。うわ。でも内容の陰惨さ、狂気の激しさ、いびつな人格に比べて、タッチはソフト。オープニングタイトルなんか、お菓子の世界みたいだった。で、バラを選ぶオドレイ・トトゥ。彼女は「アメリ」の印象が強すぎ。「アメリ」ではちょっとエキセントリックな娘だったけれど、今度は本当の分裂病で、殺人まで犯しちゃうんだからなあ。って、やっぱりこの手の映画をみると、偏見を助長するような気がする。狂気を犯罪と結びつけないのは、日本だけなのか? 洋画を見ていると、こんなシチュエーションはしょっちゅうでてくるけどなあ。で、実をいうと前半の途中から眠くなってしまっていた。なぜって、恋愛妄想の娘の話なんて、別に面白くないんだもん。と思ったら、彼女はガス自殺して、突然フィルムが逆回し。「ドニー・ダーコ」か? と、目が覚めた。で、それからが面白いこと。前半は、彼女の視点。後半は、被害者の心臓外科医の視点から描かれている。前半のエピソードの隙間に、実はとんでもないことが起こっていたことが暴かれていく。あなオソロシや。というわけで、「ヘブン」が終わった後で、この映画の前半部分を見直してみた。するとおお、こういう仕掛けだったのかというのが分かって、とても面白がった。しろしろ布石も打ってある。しかし、これって、漫然と前半を見ていたんじゃ気がつかないような細工だよなあ。2度以上見ないと、面白さは分からない映画かも知れないぞ。
ヘブン8/12ギンレイホール監督/トム・ティクヴァ脚本/クシシュトフ・キェシロフスキ
なーんの先入観もなく見たのだった。息づかいまでつたわってくるほど濃厚で、なかなかに印象深く強い映画だった。はじめは近衛部隊の内部腐敗を爆弾を持って糾弾する女(ケイト・ブランシェット)の物語かと思っていた。しかし、腐敗があったかどうか、なんていうことは二の次。これは鉄の女と僕(しもべ)との逃避行だ。僕となるのは、彼女の尋問調書を作成する若い刑務官。こいつが爆弾犯に、寝小便もらしちゃうほど一目惚れしちゃう。「歓楽通り」の場合と比べたって、こっちの方が納得できてしまう。厳格な父親に育てられ、何の問題意識ももたずに近衛部隊で刑務官をしている青年。そこに現れたのは、正義を貫き通すためなら殺人をも厭わない意志の強い女。これでもう、自我がビンビンに目覚めてしまったというわけだ。
途中、この女は自殺して償うのではないかと思わせるところがあったけれど、具体的にはなかった。むしろ、ラストシーン。「行くぞ」といって飛び出すところは、警官隊に撃たれに行くのかと思ったら、ヘリの強奪。そのまま天空へ・・・。ひょっとしたら、これが逃避ではなく、上昇しすぎての自殺行為なのかも知れない。オープニングは、ヘリコプターのフライトシミュレーターのシーンで、そんな風に教官に言われるところがあったし。
それにしても、外国は犯罪を犯した人物に対して、家族、友人が優しい。日本だったら匿うより「出頭しろ」というんじゃないか? とくに、元近衛本部長は息子を射殺するかと思ったが、そうはしなかった。ま、これも、親子の愛なのかも知れないが。そういえばこのシーンで、元本部長の父親が彼女に「息子を愛しているか?」と問う。彼女が「愛している」というまでには長い間があった。「いいえ」とか「分からない」と答えるのかと思っていたので、意外だった。2人が結ばれるのは、この後。ほんとうは彼女は刑務官を愛してはいなかったのではないか。だって愛する理由はないものね。でも、問われて、彼女は初めて彼の愛を感じたようにも思える。
よかれと思ってした行為がとんでもない結末を迎えてしまった彼女。それでも諦めることなく当初の目的を遂げてなお逃避する女。そして、尽くす男。示唆的ではあるけれど、具体的に何をいおうとしているのか、それはよく分からない、というのが正直な感想。
ケイト・ブランシェットのスタイルのいいこと。背筋を伸ばして歩く姿が、凛々しい。そして、Webでみたらなんと、キェシロフスキの遺稿を映画化したんだと。なーるほど。なんとなく、合点がいった。
英雄 HERO8/28上野東急監督/チャン・イーモウ脚本/リー・ファン、ワン・ビン、チャン・イーモウ
構成に凝ったのはいいけれど、物語のダイナミズムがからっきしない。それに、作り話で秦王を騙そうとしたりする意味が、理解不能。そもそも無名(ジェット・リー)や残剣(トニー・レオン)、飛雪(マギー・チャン)、長空らは秦王の暗殺者なんだろ? 同じ目的をもっているわけだ。それがどーうして殺し合いをしなくちゃならないのだ? と疑問をもった時点から、この映画は面白くも何ともなくなってしまった。無名が秦王の10歩近くに行くためには残剣や飛雪、長空らを殺し、その証拠の品をもってくる必要があったから? んなバカな。仲間内で工作すればいい話で、わざわざ殺し合いをする必要なんかないじゃないか。あほらし。というわけで、お話自体がくだらない。というわけで、無名のホラ話が赤で表現されているとか、秦王の推測が青で、それを受けて無明が語る話が白で、白の話の中で残剣が語る話が緑の世界などという色分けは、だからどうしたの世界だ。理屈も通っていないのに、色分けしたって説得力なんかありゃしない。
では、テーマはどうか? 自分の命を省みることなく為政者に進言することの英雄性が、そんなに素晴らしいか? いや、素晴らしいなら素晴らしいでいいんだよ。いいんだけど、だったらそれなりの根拠を示してくれないと説得力がないだろう。周囲を征服しまくっている秦王を暗殺せず、道を示しただけでよしとするのか? 単に後の政策に活かされている、なんて言葉で言われたって、なるほどとも思えない。どうみたって秦王は立派には見えなかったしなあ。んでもって、活劇部分はというと、最初の無名と槍の長空とのアクションは合格点。その他はもの足りない。もの足りないといえば、トニー・レオンは活劇のかけらも見せない。彼は運動音痴なのかな? 残剣と飛雪の関係もなんだかよく分かんないし、如月(チャン・ツィイー)も何を考えているのかよく分かんないぞ。というわけで、尻つぼみみたいな印象しか受けなかった。

 
 

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