2003年9月

デス・フロント9/1銀座シネパトス1監督/マイケル・J・バセット脚本/マイケル・J・バセット
原題は"DeathWatch"戦場で死を前にした真面目映画と思って見たんだけど、大違い。ホラーだった。けど、化け物がでてくるってわけじゃない。心理ホラーって感じかな。塹壕が巨大なアリ地獄化していて、兵士たちが飲み込まれていくってところか。ただしそれは、最前線での死の恐怖と疲労からくる幻聴および幻覚がベースとなっている。だから、悪霊がでてくるとかいうことはない。結局のところ、仲間同士の錯乱による殺し合いだ。まあ、それを企んでいるアリ地獄の主は、ドイツ兵・・・ってなオチはあるんだけど、あまり衝撃的でもないし説得力もない。ま、あとはテキトーにご想像ください的な終わり方になっている。というわけで、正直いって盛り上がりに欠けるところがある。とくに後半。同じ様なシチュエーションがつづくし、殺され方がエスカレートするわけでもない。要素としての幻聴・幻覚だけっていうのが足りなかったのか、それとも演出がいまひとつだったのか? 演出次第でもっと不気味で怖くもできたと思うんだけどねえ。ラスト近く、主人公の少年兵士が自分の死を見るシーンなどはありきたりで、戦慄も何もない。むしろ、冒頭の夜の戦場シーンの方が真の怖さを感じさせてくれたと思う。弾が飛んでくるところにでていって突撃しなくちゃならない状況・・・。あんな戦争の仕方では、生き残るのは偶然に頼るしかないよなあ。手垢のついたシチュエーションではあるけれど、突撃にびびる気持ちはよくつたわってきた。
その代わりリアルだったのが死体や死に方かな。泥にまみれてどろどろの死体。頭を撃たれて飛び散る脳漿。こういうのは気味悪いけど、ちゃんと描かれていた。監督はそういう趣味なのかな。
第一次大戦の西部戦線が舞台になっている。毒ガスによる錯乱だとか、ヘリによる救出なんてものがなかった時代の、戦場に取り残される不安を描くには、現代の戦争ではムリなんだろうな。とはいうものの、時代性というのが画面からはあまりつたわってこなかったような気もする。
パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち9/1上野セントラル1監督/ゴア・ヴァービンスキー脚本/テッド・エリオット、テリー・ロッシオ
久しぶりに面白い映画を見た。海賊スパロウ役のジョニー・デップが、なりきっていて最高にいい。腕がたつんだかトンマなんだかわからないキャラクター。目はちょっとうつろで、ヒクヒクと痙攣しながらしゃべる姿が、いかにもいい加減なチンピラ海賊って感じ。人を統率する力がなさそうだ。全体を通じてユーモア感覚にあふれているのも、いい。「掟? あれはガイドライン」なんてね。笑っちゃう。帆船、オウム、猿、悪い海賊、いい海賊、まぬけな軍隊、可愛い娘に謎の過去をもつ青年、宝物・・・。必要な素材がずらりとそろって、胸躍る冒険譚が始まる! でも、残念なのは大型帆船が実写ででてこないことだな。小型帆船はでてくるんだけどね。
でまあ、気になったところを挙げるとすると・・・。ウィルがとっつかまって、その血が金貨に注がれるか・・・ってなときにスパロウの演説で呪いをとくのを取りやめちゃう海賊バルボッサっていうのは、ちと説得力に欠けるかも(このあたりは、いささか中だるみしていたように思う)。軍の船を奪って海賊艦隊を・・・なんてスパロウにおだてられ、その気になっちゃうバルボッサ。彼はそこまでトンマなキャラに描かれてないから、違和感を感じてしまう。無敵の海賊をつづけるには呪われたままがよくて、人間に戻って五感を味わうなら呪いをとかなくてはならないっていう二律背反的な命題が分かりやすく説明されていないから、とくにそう思ってしまう。いや、だいたい呪いをとくのにターナー父の血(または、その子ウィル)の血が必要なのかよく分からなかった。ちゃんと説明されていたっけ? それから、アステカの金貨を1枚でもくすねると呪いがかかるのはよいとして、その1枚をもっていたエリザベスにずっと呪いがかからなかったのは、なぜ? くすねる意識がなかったから? うーむ。合理的な解釈じゃないけどなあ。てな瑕疵(だと思う)があるんだけど、全体を通してみると、上出来。そうそう。エリザベスが「ベッカムに恋して」のお姉ちゃんだとは気がつかなかった。化粧でこんなきれいで可愛くなっちゃうんだね。
ボーリング・フォー・コロンバイン9/2新文芸坐監督/マイケル・ムーア脚本/マイケル・ムーア
無茶苦茶面白い。怖いのは、ほんのちょっとだけ。アメリカ人がいかに外敵を怖がり、すぐ発砲したがるかが、よく分かる。アメリカの歴史もアニメで簡潔に説明してくれるからタメになる。ユーモア感覚にあふれているから、よく笑える。ホント。アメリカには笑いの対象にしかならないような真面目なバカがたくさんいるのだなあと再認識できる。これはもう理屈じゃないよなあ。悪いとか間違っているとか思ってなんかいやしない。侵略行為や銃の所持の正当さを大まじめで語っているんだから。そこに、後ろめたさや自分を正当化しようというような姑息さが、ない。正しいと思いこんでいる人々が大半なのだよ。自由の国アメリカは、実は、アブナイ国なのだ。イスラムの排他性も問題だけれど、周囲に攻撃をしつづけていなくちゃ安心できないアメリカは、もっと問題だ。
全米ライフル協会の親玉チャールトン・ヘストンとの対話は、ラストにあった。巷間いわれているほどヘストンをやりこめていないし、ヘストンガ言葉に詰まっているようにも見えなかった。話は平行線で食い違ったまま、ってな感じだった。むしろ、マスコミの報道姿勢こそがアブナイと思わせるものがある。テレビ製作者との対話では視聴者は犯罪を見たがり、犯人は黒人であると思いこみ、だからそういう報道になるという告白があったけれど、これは日本でも同じだよ。偏見はこうやって助長されていくのだな。それと、富者にやさしく貧者に冷たいアメリカの社会政策も見逃せない。日本も、グローバリゼーションの名のもとに、アメリカ的な政策がこれから採られようとしているのだからね。
預金口座をつくると銃がもらえる国、スーパーマーケットで銃と弾丸が買える国。子供ですら銃がもてる国。けれど、銃の所持が同じ様に自由なカナダで銃による犯罪が少ないという報告は、興味深かった。なるほど。たんに銃の所持を禁止すればいいと言っているわけではないのだな。最初にも書いたけれど、アメリカ人が病的なまでに外敵を恐れ、発砲したり侵略したがるかの方が、根元的な問題なのだ。撮影した映像に加え、テレビや映画からの映像などを短いカットでテンポよくつなぐ手法は、刺激的。しかも、アメリカの歴史がアニメで学べたり。真面目なだけがドキュメンタリーじゃないのを知らされたぞ。
フリーダ9/5新宿武蔵野館3監督/ジュリー・テイモア脚本/クランシー・シーガル、ダイアン・レイク、グレゴリー・ナヴァ、アンナ・トーマス
情熱的なメキシコの女流画家の一生を2時間、堪能させてくれる。テンポがいい。しかも、表面をなぞるだけでなく、十分に深みがある。これは、パワフルな映画だ。悲劇的な事故からの再起、夫となる画家との遭遇、新婚生活と、前半の輝かしい時代は色鮮やかな原色で表現される。ところが夫のニューヨーク個展以降、心が離れていく課程、さらにトロッキーとの出会いあたりは色褪せた画調となっていく。でもって、夫と仲直りしてからはまた原色と、色彩の使い方が巧み。それと面白いのが、適宜インサートされるPOPなイメージ。最初は事故後、死に直面している様子をCGで。夫のNY個展はロシア表現主義のコラージュ風。古典的名画「キングコング」に夫との関係をなぞらえたり。モノクロームに人着風のイメージになったり。後半のパリの場面でもそうだったけれど、豊穣なイメージでフリーダの心をうまく表現している。そうそう。絵が動き出すのも面白い。キャストも豪華。え? こんな人がでてんの? って思うような役者がでてきたりする。これは、驚き。
実は、メキシコの歴史には暗い。だから1920年代にこれほどマルクス主義が大衆運動化しているとは知らなかった。そういえば革命映画もあったっけなあ、と思い出すのが関の山だった。トロッキーが暗殺されたのは南米かと思っていたのだけど、メキシコなのね。
ファム・ファタール9/5新宿武蔵野館1監督/ブライアン・デ・パルマ脚本/ブライアン・デ・パルマ
一炊の夢だな、こりゃ。で。カンヌ映画祭→宝石泥棒の女→逃亡→自分そっくりの女(夫と子供を事故で失って、自殺)と遭遇してパスポート獲得→渡米中の機内で将来の大使と遭遇して結婚→7年後…帰仏中に泥棒仲間に発覚し自殺志願→写真家に止められて→逃亡、写真家は逮捕→?(少し睡眠)→写真家と邂逅→飲み屋へ→チンピラを誘う→写真家がチンピラを殴る→写真家とSEX→写真家は彼女の言質を録音→夫を脅して金をまきあげると写真家にもちかけて→夫と写真家を殺害→そこにカンヌの時の泥棒仲間が現れて川に放り込まれる→ここで風呂で目が覚める(水槽から水はこぼれていない)→自分そっくりの女の自殺を止める→彼女に飛行機に乗れ、隣にいい男が座る、とアドバイス→彼女は飛行場へヒッチハイク、運転手にネックレスを与える→7年後…女は宝石を換金、相手は盗んだ相手の女→相手の女が泥棒仲間に追われる→トラック(7年前のネックレスに光が当たり、運転を誤る)が泥棒仲間を轢く→女が写真家と遭遇。という、流れ。見ていると、おいおい、この話はどうなってしまうんだよというような意外な展開。で、後半で話がすべてひっくり返される。おお。なんということ。いくぶんタラタラしたところもあるけれど、ちゃんとつじつまは合っているし、面白かった。小道具もちゃんと効いていたし。ひょんなことから見てしまった一炊の夢。その教訓から運命を修正して、不幸を逃れた女の物語だ。なかなか淫靡なところもあって、楽しかったぞ。でも、音楽は坂本龍一なのに、ボレロそのもの。演奏の仕方もそっくり。これって、なんで? 後半の山場でちょいと寝てしまったが、「フリーダ」の後半から少し眠くなっていたのに中食をとったせいで、腹の皮つっぱって目の皮がたるんでしまったせいだ。くそ。
天使の牙B.T.A.9/10上野東急2監督/西村了脚本/寺田敏雄、落合正幸
退屈だった。要素が整理されずにぶちまけられている感じ。焦点が定まっていない。で、何をいいたいんだ? 男の刑事の物語なのか、脳を入れ替えられた女刑事の話なのか、スケベな麻薬王の話なのか、みんな中途半端。食い足りない。疑問もたくさん。女刑事の指輪がなくなったのは、なぜ? だれが盗った? 女刑事が仕事に行き詰まりを感じていたようになってるけど、そういう演技はなかったけどな・・・。たかが麻薬であんなに金が儲かるわけないだろ。麻薬工場なんか、すぐ摘発されちゃうよ。麻薬王キミクニの部屋の調度やコンピュータのプログラムは誰がつくった? 核爆弾は何のため? だの、ばかばかしい設定も噴飯もの。
脇役に渋い役者を配しているものの、主役級に魅力がない。はつみ役の佐田真由美は鼻がでかいのにノッペリ顔。いかにも頭悪そう。黒谷友香ってのは、よく新聞広告にでてる人だなあ。貧相だけど、まだ彼女の方が人間味あると思うぞ。大沢たかおは、どこがいいのか分からない。萩原健一はミスキャストだな。セリフ棒読み。だいたい、スケベな麻薬王ってイメージじゃないよ。ぜんぜん似合わない。というわけで、最初の頃はライティングもがんばっているなと思っていたのだけれど、次第にしょぼくなっていったのだった。やれやれ。
マナに抱かれて9/12ギンレイホール監督/井坂聡脚本/鈴木律子、井坂聡
なんなんだ、この出来損ないの教育映画みたいな内容は。うーむ。得体の知れない宗教映画のようで、怪しいとしか思えないぞ。井坂聡。「Focus」のあの才気はどこにいってしまったのだ?
ぷりてぃ?ウーマン9/12ギンレイホール監督/渡邊孝好脚本/高橋美幸、真崎慎
たいして期待していなかっただけに、ちょっと驚き。まず、脚本がいい。たかが芝居を上演するまでの過程なのに、飽きさせない。オーソドックスで手堅いともいえるんだけど、くくっ、と笑える小芝居がいろいろはめ込まれていて、しかも、その笑いが上質。これは脚本家の功績だろうなあ。まあ、その場で誰かが思いついたようなギャグもあるんだろうけど、なかなかよろしい。でもって、そういう小さな芝居がキャラクターを見事に描写していたりするのだ。とくにいいのは、役所の2人だな。益岡徹と市川実日子の凸凹コンビは最高だ。その他にも、ちょっとしか登場しない役者も、それぞれに味をだしている。お見事。婆さんたちのなかでは草村礼子が得な役だったね。まあ、ああいうキャラなんだろうけど。笑わせてほろりとさせて、しっとり。ま、最後の芝居を上演しているところが、ちょいともったりし過ぎているけど、それは大きな瑕疵ではない。
座頭市9/16上野セントラル1監督/北野武脚本/北野武
つまらなかった。その理由はいくつかある。まず、テレビなどで予告編などを見せられすぎていたこと。芸者の1人が男だとか、市は目が見えるという情報も入っていた。これが、興味をかなり削いだ。次に、あの編集が生理的に合わないから。なんていうか、ブツ切れ。これは、従来からの北野作品もそうなんだけど、それは時制を不思議に入れ替えることで不快感や、のちに疑問を氷解したりできていたと思う。ところが、この映画ではそういう仕掛けはあまりない。ただ、不快な編集があるだけだった。妙な遊びが多すぎる。百姓が音楽に合わせて畑を耕していたり、次にはこの百姓たちが雨の中で小突きあっていたり。意味ないと思う。バレバレのベタなギャグも辛い。瞼に目を描いたりガダルカナル・タカが女装したり。同じくタカが若衆に剣術の稽古をつけてやるといいつつ逆にへこまされるとこ(これは「七人の侍」のパロディか)。最後に市が石につまずいたり。笑えないって。それと、人と人との距離が短いと思った。まるでテレビのフレームに収めるべく撮ったような気がする。もっと、映画らしく空間を広く使って欲しかったね。さらに、脚本でいうと、設定を最初からつたえるべきだと思う。どのぐらいの街で、そこで隆盛を誇る○○一家と、落ちぶれつつふる△△一家の対立(これは「用心棒」が下敷きか)、みたいなのをキチンとつたえるべきだろう。ラスト近く、とってつけたようにヤクザ同士の小さな出入りがあるんじゃ、分かりにくい。あとは、セリフか。現代語的な言い回しで、ムダな言葉も多く、浮いた感じがしてしまった。まあ、外国人が翻訳で聞いたら問題は感じないかも知れないけど、とても妙な言い回しもあったと思う。市のことを、ずっと「按摩さん」と呼んでいるのも、変。で、肝心の座頭市がほとんど活躍しない。お、すごい立ち回り、なんて思ったら単なる回想シーンだったり。曲独楽や幇間もでてくるけど、話をスムーズに進めるためというよりも、芸そのものの披露になってしまっている。あの、男芸者の踊りなんかもそうだ。そんなに長く映さなくてもいいよ、と思ってしまった。というわけで、生理に引っかかる映画で、いらいらしてしまった。
平日の2時近くからの回。高齢者が多く、席は半分以上埋まっていた。ベネチア効果か。となりに座った婆さんは独り言をいいつつカシャカシャ食い物の音をたてていた。この婆さんか、別の側のジジイか知らないが、口臭が漂ってくるのも、かなり堪えてしまった。うげ。
閉ざされた森9/19上野東急2監督/ジョン・マクティアナン脚本/ジェームス・ヴァンダービルト
なんなんだ、この映画は? わけ分からん。森の中で何が起こったのか? 生還したのは2人。その証言がころころ変わる。これは「羅生門」のようで、藪の中。で、森の中のシーンがやたら多い、といっても、これすべて事実の映像ではなく、証言に基づく再現ビデオなわけだ。でも、みんな同じように見えるし、人物の名前で、誰がどーしたこーとた、と話が進むから、人物の名前と役割を頭に入れないとわけが分からなくなる。ってなところに、こちらは寝不足でうとうとしたら、もう、さっぱり分からなくなった。ラストだけは、「おお。なにこれ!?」ってな驚きがあったけど、「で、いったい何だったの?」っていう疑念は消えない。そもそも、証言を引き出す役にトラボルタが選ばれる必然性はどこにあったのか? とかね。そういうところでつまずいてしまう。ううむ。もう1度見ないと分からないのかなあ? むむむ。森の中で何が起こったんだ? 何も起こらなかったのか? 分かんない。
10億分の1の男9/25シネセゾン渋谷監督/ファン・カルロス・フレスナディージョ脚本/フアン・カルロス・フレスナディージョ、アンドレス・M・コッペル
運と賭けで2時間近くもたせるのだから、大したものだ。それに、意外と奥が深い。登場人物は、男女ともにみな渋い系だな。珍しくもスペイン映画らしい。ふーん。
運の強いカジノのオヤジ・サム(ナチスの収容所で生き残った)vs彼に育てられ、彼に運を吸い取られたフェデリコ(地震で生き残った)の物語だ。フェデリコは運を吸い取られたので、保険会社に頼んで悪運の強い人間を捜してもらっていた。で、飛行機事故で生き残った銀行強盗トマスをリクルートする。各地で開かれる運試し大会を勝ち抜いて、カジノに乗り込もうという寸法だ。で、女刑事が銀行強盗を追う。彼女は自動車事故で生き残った女だ。運試し大会には、闘牛士のアレハンドロも参加する。そこに、乗るはずの飛行機に乗らなかった銀行強盗の元彼女がからんで、命を賭けた運試しが始まる・・・。てな話。それぞれの背景と、現在の立場が面白い。自分の意図とは無関係に運試しに参加するハメになる女刑事も、参加する必然性が感じられる。話にムリがない。もっとも、よく分からないこともある。人間を撮った写真を賭けるのだ。あれはどういう意味だ? 人間そのものの命=自由を奪えるってことか? それとも、写っている人間の運が奪えるのか? 人間そのものを奪うことは、できないよなあ。運を奪うっていうのは、最初のカジノのシーンで、フェデリコがお客の運を奪っていたから、この映画のキーになっているような気がするけど。トマスの元彼女が銃の暴発でケガをするのは、運がなくなったってことかも知れないけど・・・。それにしたって、触れないと奪えないんじゃないか? それにサムぐらいの強運の持ち主じゃなけりゃ、運は奪えないだろ。というわけで、このあたりがよく分からないのだった。それから、女刑事が保険会社が臭いとにらんで訪問した後、フェデリコとトマスが飛行機に乗ったという情報が警察に筒抜けになるけれど、保険会社の人間が2人の動向までいちいち把握しているか? という疑問もある。「もう愛していない」という言葉を元彼女に発したトマスが事故に生き残り、また、元彼女はこのせいで飛行機に乗らなかった。女刑事は「もう愛してない」と亭主に言ったせいで、クルマは事故にあって亭主と子供を失った。その女刑事が、最後にトマスに「もう愛してない」という。うーむ。意味深長。だけど、意味はよく分からず。というわけで、運や賭け、サバイバル、運を奪う奪われる・・・なんて、いろいろに解釈できるような内容で、しかも話の展開が読めない。ラストの対決はアッと驚くことに。ってなわけで、なかなか面白かったぞ。それにしても題名がよくない。もうちょっと深いタイトルにするべきだろう。いまの邦題は、ちょっと軽薄な感じがする。
12時15分からの回を見たのだけれどCM、予告編なしで始まった。モーニング・ショーでもないのに、珍しい。
閉ざされた森9/19上野東急2監督/ジョン・マクティアナン脚本/ジェームス・ヴァンダービルト
いうわけで、2度目。なのに同じところ(ダンパーが語る森のところから、ケンドルが語る森の辺りまで)で、眠くなった。要するに、森のシーンは単調で刺激がなくつまらないということだ。まあいい。それにしても、会話の中にでてくる名前だけで因果関係を想起しなくてはならないのは、やっぱり辛かった。誰が誰らや、ちょいと分からなくなったこともあった。やれやれ。
でもとにかく、ラストがやっぱり最重要だな。第8部隊はハーディ(トラボルタ)、ウエスト軍曹(サミュエル・L・ジャクソン)、ダンパー、ニューネズ(女性兵士)、パイクまたはダンパー(黒人)らだな。カストロっていうのは、どっちだか分からない。まず、ウエストが隊内の麻薬組織を察知し、部隊長のスタイルズ大佐に進言した。ところがスタイルズは麻薬組織の親分。スタイルズは、兵のミューラーとケンドルにウェスト軍曹の暗殺指令をだす。それを知った第8部隊は、ミューラーとケンドルを罠にかけるべく、平常の訓練の後に追加特訓を行なう。参加したのは、ウエスト、ダンパー、ニューネズ、ダンパー、カストロ、ミューラー、ケンドル、パイク。暗殺者を第8部隊で包囲してしまったわけだ。森の中の真実は分からない。おそらくウエストが殺されたような芝居をしたのだろう。それで、表面的には仲間割れのようなカタチになりながら、ミューラーとケンドルが負傷したのだろう。もちろん、ミューラーとケンドルは、相手が第8部隊だと気づいていた。だってケンドルはオズボーンの手のひらに「8」と書いているからね。で、最後にミューラーはダンパー(白人)に殺される。生き残りの兵である白人ダンパーと負傷ケンドル。ダンパーはハーディ(実は第8部隊の上司)に尋問される。まあ、これは半分芝居だけれど、この尋問の過程で、森で何があったのかが報告されたと推察する。尋問の答とは別にね。なことしていると、ハーデイの古い親友である医者が、実はスタイルズ大佐とグルだということが分かる。実は第8部隊もここまではつかんでいなかった。さて、そんなこんなで、ケンドルはスタイルズにとってヤバイ存在になってきた。だから、スタイルズが病室で暗殺することになった。それから、ハーディがダンパーをプロペラに押しつけそうになるところは、ああしながら情報のやりとりをしていたと考えられる。てなわけで、最終的にスタイルズを追いつめたので、任務は終了ということだろう。森から誰が生還することになっていたか? 予定通りかどうかは分からない。スタイルズが取調官としてハーディを呼ぶことを計算に入れていたか? オズボーンがスタイルズを射殺することを計算に入れていたか? それも、分からない。かなり危うい可能性の上に成り立っているストーリーだと思う。論理的かといえば、それは違う。かなり偶然が左右する余地が残っている。たとえば最初のダンパーによる森の証言は、ケンドルに対する牽制のような気がする。ケンドルがどう反応するか? その反応によって、また話を変えたり、忙しい。だから、話される(映像としてでてくる)森の中のシーンは、どれもあてにはならないと思う。要するに、ラストでハーディが語ることと、実は生存していた連中だけが真実なのだ。そう思う。
というわけで、映画としてはとても不親切。話にスキも多すぎる。しかも、森のシーンはつまらなく退屈だった。
呪怨29/29テアトル新宿監督/清水崇脚本/清水崇
とんでもなく怖くはなく、そこそこ怖いってところ。ホラーが好きではない私でも、大丈夫だった。画面の中は、とんでもなく古めかしいのがおかしい。いまどきあるかこんなの? ってな古ぼけて暗い台所。木の桶に竹のザル。柱にかかる古ぼけた温度計。壁の上の方には先祖代々の写真・・・。この時代錯誤は、なんなんだ? 別に、おどろおどろしさとは関係なかったけどねえ。話は時系列に進まない。個々の登場人物にスポットを当て、ちょっとした短編形式で話が運ぶ。だから、時制が崩れていて、あとから、なるほどね、と分かることもあったりする。最も面白かったのはエキストラの千春の章かな。時制の崩れが甚だしく、実際にあったことなのか幻想なのかわからないつくりがスリリングだった。全体に、前半部分はもたもたしていて演出も下手。つまらない。後半になると、訳の分からなさが突出してきて、面白くなる。まあ、でも、問題は憑き物の意図だな。殺人があった家でロケしただけで、どーして霊に祟られるのか。そこがいまひとつしっくりこない。別に恨まれるようなことはしていないのに、次々に死んでいくっていうことの理由が分からないから、そこは「なんでえ?」のままだ。別にこれは日本流の得体の知れない怖さ、とは違うと思う。だいたい、殺された霊が成仏できなかった場合、その思いを誰かに伝えたいとは思うだろうけれど、誰彼かまわず祟り殺すってことにはならないだろうと思う。恨みのある対象に祟るべきで、その無念を晴らしたら成仏するのがあるべき姿だと思う。というわけで、その辺りは納得しがたいつくりになっている。
サハラに舞う羽根9/29新宿武蔵野館1監督/シェカール・カプール脚本/マイケル・シェファー
大げさな割には中味が食い足りない。主人公(ジェフ・ブリッジスに似てるけど、こういう顔立ちが好かれるのかな)は戦争になんか行きたくなかったんだろ。たかが友だちから臆病者とののしられたからと、軍隊を辞めてからわざわざスーダンの戦場まで行くか? って、ここですでに話が破綻している。戦争反対でもなく、単に死ぬのは嫌、ってんだからなあ。だったら、その意志を全うしろよといいたい。むしろ、無駄死にの戦争には反対で、あえて郡を離れて友を助けに行く、っていう話にした方がよかったんでは? で、スーダンに行けば砂漠で死にかける。ここで登場するのが、白人に好意的な黒人という、ご都合主義的な人物だ。従者にはならないけど、肝心なところでは御主人的な主人公を助ける。いくら神の啓示だからといって、英語も使えてそこそこ従順な黒人がスーダンに、いるか? いないと思うぞ。でもって、暴動相手の黒人兵に混じって、英国軍に突撃するんだよ、この主人公。なんの役にもたってないじゃないか。それどころじゃない、反英国軍の先鋒を勤めてしまう。やれやれ。しかも、激戦の中で友人の英国将校を助けてしまう。どうやったんだ? さらに、捕虜になっている友人の将校を助けるために自らも捕虜になり、またまた黒人の友から毒薬(ロミオとジュリエットみたいな薬だ)を手に入れて逃げだす。って、全然ヒーローっぽくない。なんか、たまたま偶然にそうなったって感じで、勇ましくないのだよ。周囲の動きに流されているだけみたいで。感動とはほど遠いなあ。で、元婚約者で、軍を辞めると知ったら別の将校にすり寄った女とよりまで戻してしまう。この女、すり寄った男が盲目になったから振ってしまうのだ。なんて身勝手なやつ。
この元婚約者にケイト・ハドソン。彼女ぐらいしか知っている役者がでてこないっていう、あまりの配役。ケイト・ハドソンは美人じゃないから、こういうヒロインは似合わないね。あの扁平な顔は、でかい口をあけてガハガハ笑うラブコメあたりがピッタリだと思うが。若い将校連中の、個々の描き込みがもう少し丁寧だと、感情移入できたかなという思いもあるのだけれど。
砂漠は美しいけれど、美しく描きすぎてホコリの匂いがつたわってこない。なんか、つくられた物語だなあという気がしてしまう。友情と愛情? そこに感動はなかったなあ。

 
 

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