2004年1月

シェフと素顔と、おいしい時間1/5ギンレイホール監督/ダニエル・トンプソン脚本/クリストファー・トンプソン
洒落た映画だけど、あちこちツメが甘い。搭乗客以外の客がホテルに泊まれるの? ホテルが客に調理場を使わせるか? ホテルのプールでたまたま2人が再開する偶然って? とか、突っ込みどころは多い。まあ、それは映画だからということで目をつぶってやることにしよう。次に気にかかるのは、2人のバックグラウンドの説明の不十分さ。彼はなぜ昔の彼女(妻?)の母親の葬儀にでるのか? 彼女はなぜ男から逃げようとするのか? そのあたりがアバウトすぎる。中途半端に描くなら、匂わす程度にしたって問題はないはず。さらに、ラストに至っては、男は少年期に飛び出したままの実家に戻って仲違いしたままの父親に会いに行くのだけれど、あまりにも突然すぎて呆気。なんで? そうなるような会話は2人の間でかわされていたっけ? というわけで、なんか恋をするような環境にない2人が最後に無理矢理一緒にさせられているようで、とても不自然。はじめっから、ちょっとワケありの2人が恋をするっていう、ハリウッドによくあるラブロマンスにしてしまえばよかったんじやないだろか。フランス映画らしい漫然とした饒舌な会話はだらだらあったりするけれど、あまり気が利いてないようにも思えるぞ。そういう重箱の隅をつつかなければ、なかなか笑える物語。放題にもなってる、彼女の"素顔"がなかなかよいのだけれど、これも、なぜ"素顔"がいいのか? その理由がはっきりと明示されていないのが残念だね。
シモーヌ1/5ギンレイホール監督/アンドリュー・ニコル脚本/アンドリュー・ニコル
とてもチャチい映画にしか思えなかった。いまどきコンピュータでつくられたバーチャルな美女がスターになる映画なんかつくって、どこが面白いんだ? つまんないよ。たいしたアイロニーも込められていない。込めていたとしたら時代感覚はズレているし、的を外しているとしか思えないね。それと、CG美女のシモーヌが受賞スピーチで意志をもったかのようにしゃべったりしたので、これはコンピュータの反乱になるのかと思ったら、それも尻すぼみ。とにかく、いろいろ中途半端なのだ。
こういう話を物語にするなら、もっとカリカチュアライズする必要があると思う。だって、人間と見まごうCG美女なんてまだ現実にできていないし、もし実行しようとしても人手はごまんと必要だ。それをコンピュータ音痴の監督が1人で自由に動かせるわけがない。だいいち、監督が渡されたのはハードディスク1つだろ。あのなかにあらゆる動きのデータが入っているとは、どうしたって思えない。設定を10年後ぐらいにするとか、これはSFだとはっきり分かるようにするとか、漫画チックにするとか、そういう手続きが必要だろう。なのに、この映画はあまりにも生々しい現実の上に成立させようとしている。だから、とても嘘っぽいのだよ。やっぱ、近未来SFの戯画化にでもしなけりゃ、観客はついていけないぞ。それに、だれもが熱狂する美女なんて、いくらCGだってできっこない、っていうのは、みんな分かっているのだよ。そんな美女を見せてしまうこと自体が、失敗だ。こういう面でも説得力がないと思うぞ。
なんか、彩度を抑えた白黒画像のようなシーンが前半には多かったねえ。シモーヌ登場を引き立たせたかったのかな。アル・パチーノは何だかよれよれのジジイになっちゃって、生彩なし。そうそう。大半の客がエンドクレジットロールの終わる前に出て行ってしまったけれど、最後にちょっとしてシーンがあった。あったはいいんだけど、あの映画雑誌のふとっちょ編集長。もっと活躍するのかと思いきや、なーんもしなかったねえ。あ、そうそう。CGだから0と1というのがやたら強調されていたけど、クレジットの文字まで「I」が「1」で「O」が「0」で表示されていた。こんなの、誰も気づかないし、何の効果も発揮してないぞ。
コール1/9上野松竹セントラル4監督/ルイス・マンドーキ脚本/グレッグ・アイルズ
なんか軟弱な映画だった。っていうのは、話に筋が通っていないからだ。子供を誘拐して、しかも、誘拐犯がその母親とともに一夜を過ごす。母親を管理下に置いて警察に連絡させず、しかも、カラダの方もいただこうという寸法だ。これですでに4回も誘拐に成功しているというふれこみ。そーかそーか。その苦境からいかに脱出するか、ってのが見どころか。と思っていたら、途中から話がおかしくなる。誘拐の目的はなんと復讐だったのだよ。主犯とその妻との間に生まれた子供が病院で死んだのだが、その原因が誘拐された子供の父親にあった、というのだ。ええっ? じゃあ、これまでに成功させた4件の誘拐は、何のために行なってたんだ? しかも、子供の母親と寝るのを、主犯の妻が了解している? なんだあ? そりゃ筋道が通らないだろう。
シャーリーズ・セロンが主犯の男に「逆らったってムダ」と思い知らされていたはずなのに、ベッドを共にさせられそうになって急に反撃するのも、変。同様に、主犯の妻の管轄下に置かれた旦那が反逆を始めるのも、変。だってそれは子供の命を失うことにつながっちゃうはずだもの。さらに言えば、いろいろ誘拐する家庭のことを調べているはずなのに、子供の喘息が分からなかったっていう設定も変。さらにさらに。誘拐犯が被害者の両親に顔をさらすっていう誘拐手法も、変。だって誘拐後に警察に駆け込まれていろいろ分かっちゃうじゃないか。この誘拐犯たちはバカか? である。主犯の妻と旦那が飛行機で飛んでいくのも、なんで? だよね。空からクルマを追ったって、クルマを止めようがないだろ。というわけで、最後は飛行機がハイウェイに降りて、巻き沿いを食らったトラックは燃えるは他のクルマもぶつかるは、子供が乗っていた車も事故を起こすはの無茶苦茶である。子供が助かったのは、偶然としかいいようがない。巻き沿いを食ったクルマの人々にケガはなかったのか、それだけが心配だった。
シャーリーズ・セロンが目的で行ったのだけれど、肌がとても汚く映っていたなあ。そばかすやほくろだらけで、うわっ、ってな感じ。故意にそうしているのか? 自然のままでやっているのか? 意図が分からない。主演女優なんだから、キレイに映して欲しいものだ。
ミスティック・リバー1/14丸の内プラゼール監督/クリント・イーストウッド脚本/ブライアン・ヘルゲランド
評判がいい。ということで行ったら、客が多い。そーか。水曜日レディース・デイか。満員で、立ち見もいた。凄いな。
予告編を見てしまっていた。だから、幼友達3人が、刑事、被害者、犯人になるらしいのを知ってしまっていた。これは、映画を見る前提条件としては最悪だ。意外性がまったくなかった。知らないで見たら、もっと面白かったろう。内容は、とってもシンプル。いくつかの布石や次第に分かってくる事実も、ほとんどが引っかけではない。素直に結末に関係してくる。その意味でもストーリーに意外性はない。じわり、じっくりと事実をあばき、積み重ねていく。真犯人も、あっと驚くこともない。というわけで、どこにもヤマ場はないし、悪くいえば単調な物語だ。だけど、妙にしつこい演出がお話に厚みを与えている。登場する役者さんはみなさん演技賞もの。いささか力が入りすぎじゃないのかと思えるほど。とくに、ショーン・ペンがクサイ。見終わったご婦人の声で「アル・パチーノを意識しちゃってんじゃない?」と聞こえてきたけれど、私もそんな気がしたのだった。むしろ、いかにもうすのろな大男ってな感じのティム・ロビンスの方が、上手いなと思った。「コール」で悪党面だったケビン・ベーコンが、なかなか格好良く見えてしまうのもオカシイなあ。
それにしても、CGやカメラぶん回し、けれん味の感じられるエフェクトを排除して、映像を丁寧に積み重ねていくイーストウッドの手腕はなかなかのもの。画面からはムダが省かれるから、人物がいやが上にも強調される。だから、役者の演技も目立つ。自身が主演した「トゥルー・クライム」「ブラッド・ワーク」で感じられた淡泊さがなくなっているのと対照的だ。もちろん演技だけに頼っているわけではない。細かなカットを必要に応じてインサートしたりつないでいくことで、流れがとても自然に見えるようになっている。もっとも、ティム・ロビンスが夜中に血だらけで帰ってくる場面は唐突すぎると思ったけどね。それと、ピンが甘いのが気になった。人物が2人フレームに入るとき、セリフに合わせてピン送りをしすぎるのもうるさい。フォーカスを絞ればいいだろうにと思った。
この手の、刑事や探偵がいろいろ歩き回って事実を見つけていく話は、海外ミステリにあるよなあ、と思っていたら、エンド・クレジットにデニス・レヘインの名前がでてきた。おやおや、原作はレヘインだったのか。といっても2、3冊しか読んでないんだけどね。まともに読んでいれば、映画のタイトルを見て原作者ぐらい分からないとおかしい。不真面目な読者なのだ。
で。この映画の最大のへたれ部分。それは、刑事2人が発見者の通報電話を聞き直して、真犯人に気がつくという部分。そんなこと気がつかない方がオカシイだろ。ここも、意外性に欠けるところだったぞ。
秘密の花園1/22テアトル池袋監督/服部光則脚本/小谷暢亮
1週間限定公開だそうだ。もともとはビデオの企画なのだろう。スクリーンに投影されると画質の悪さが際立つ。生まれたときから母親と隔離され、別荘の一室に監禁されて育った娘の物語だ。現在は大学教授をしている母親が、若い助手の恋人を別荘に送り込む。助手は、娘を監禁している父親・作家と懇意になり、だが、娘と同じ一室<秘密の花園>に収監される。助手は娘と関係を持ち、外の世界のことを教える。目覚めた娘は、初めて外にでる。そして、母親と父親を殺害し、助手の子供を育てはじめる・・・。って、昔からよく耽美小説かなんかにありがちなストーリー。まあ、それはいい。問題は、全然官能的でも耽美的でもないことだ。江戸川乱歩のように、他の耽美小説家の描く世界のように、おどろおどろしく美しく蠱惑の色に、全然満ちていない。そこらへんの別荘の一室にカーテンをかけただけの部屋じゃしょうがねえだろ。セット、衣装がまるっきりしょぼい。それに、主題に近いような内容をセリフで観念的にしゃべるんだけど、それじゃ映画じゃないだろ。しゃべりはいらんから、見せろよ。作家役の寺田農も面倒臭そうに演じているし、もう、どーしようもない。性描写も、足りない。丸太のような身体をした女子大生と助手のセックスシーンがあるだけで、見るからに萎んでしまった。やれやれ。
解夏(げげ)1/22テアトルダイヤ監督/磯村一路脚本/磯村一路
難病のひとつ、ベーチェット病患者を扱った映画だ。では教育映画のようにクサイかというと、そんなことはなかった。一方で軽妙洒脱なセリフや演出がなされ、なかなかよろしい。同情ではなく、感動につながる部分で涙が出そうになったのも事実。たとえば、大沢たかおが田辺誠一と釣りに行った帰り、あまりのつきあいの良さに訝って「知ってるのか?」と訊く。田辺は、うなずく。こういうところで、友だちを思う気持ちの深さが表現される。ラスト近く、昔の教え子から手紙が届く。なかに、同級生がいじめに遭っているから助けにきて、と訴える手紙が混じっている。「行きたいよね」と石田ゆり子が言う。こういうところが、上手いし泣かせる。別に大沢が慟哭しても泣けるわけではないのだ。その点で、脚本がよくできているなと思った。で、エンド・クレジットを見たら原作さだまさしとある。ふーん。どうせエッセイ見たいのを作家が物語に仕立てたんだろ、と思ったのだがこれが大違い。終映後に書店に寄って原作をぱらぱらやってみたら、なんと立派な小説形式。しかも、子供たちからの手紙のエピソードもちゃんとある。ふーむ。原作は短編だから、かなり忠実に映画化しているのかも。と、さだまさしの力量をちょっと見直してしまったのだった。脇がいい。大沢の母の富司純子。彼女の芯の強さが、輪郭の強い線で描かれている。和菓子を買う数でその時の気分を表現していたり、もいい。誠意の感じられる友人、田辺誠一。控えめだけど、存在感がある。友人の眼科医に古田新太。これも、いい(彼のシーンだけ子供の頃のシーンがインサートされるんだけど、なぜだ?)。大沢と古田が会いに行く患者に柄本明。重くならないところがうまい(うなぎの匂いをかいだあと、鰻を焼くシーンをだすのが不思議)。石田ゆり子は、一途な、でも強い女をよく演じている。でもって、御年90歳の松村達雄。芸達者がしっかり固めて、これ以上ない陣容だ。って、実を言うと主人公の大沢たかおにはいささか物足りなさを感じているのだけどね。
最初の方、発病、彼女がモンゴルにいること、病院、患者との対面、長崎への帰郷という部分の時制がうまく表現されていないのが難点。もっとうまく整理するべきだろう。視界が狭まる映像。イメージ的なものでなく、実際のシーンに白いもやがかかる状態の方。こっちが、なんか不自然な感じだった。カメラが動かないんだもの。
すべては愛のために1/23日比谷スカラ座1監督/マーティン・キャンベル脚本/キャスピアン・トレッドウェルーオーウェン、サイラス・ナウレステ、ジェレミー・ブロック
原題は"Beyond Borders"。なんか、変な映画。恋愛ドラマに難民問題がくっついてきてるんじゃなくて、難民問題をとりあげた映画に恋愛ドラマが添え物でくっついてきちゃったみたい。それぐらい人間ドラマは弱いし底が浅い。いつまでたっても人間をめぐるドラマは始まらないのだ。フツーなら、難民は二の次で、彼に会いたいから僻地へ行くってなるはずなのにね。現地で出会ったら、難民さておいて乳くりあうのが映画だろ。どーも、アンジェリーナ・ジョリーは彼のことが本当に好きなのかどうか、よく分からなかったりする映画だった。男に走ったことで亭主が荒れるとか邪魔をするとか、そういうのもない。ドラマとしてみると、もの凄く物足りないと思う。だって、アンジェリーナ・ジョリーが愛に渇望しているように見えないんだもん。その代わり、第三世界の現状だとか国内紛争だとかはやたら丁寧に描かれる。こっちを言いたいんじゃないのかな、と思えるほどだ。
ドラマがない代わり、破綻もない。雄大なスケールというか、極めて淡々と映像はつづられていく。でも、それはそれで快感だったりした。こんな映画もあっていいんだろうなあ、ということだ。何も、どの映画もドラマチックになってなきゃいけないことはないのだ。絵空事のようなお話より、こっちの方がずっとリアリティがある。
しかしまあ、他人の国の紛争と、それに伴う難民を救う行為はほんとうにご苦労さん。っていうか、焼け石に水じゃねえかと思うと、同情するよりあきれ果ててしまう。狭い国土の中で利害関係や思想や宗教でいがみあう民族。バカじゃん。っていう風に思えてきてしまうのだった。なんでこうも後進国は戦い、欲望に左右され、自滅していくんだろ。なんでだろ。
スカラ座は初めてはいる。確か数年前に新築したんだよな。前売りを持っていたのでそのまま階段を降りたら、前売りも何もすべて窓口で指定券に変えなきゃならんという。全席指定なんだと。で、本日は映画の最終日。どう考えたって満席のはずがない。にも関わらず、席を選べという。初めて入る小屋でスクリーンの大きさも座席の様子も分からないのに、好きな席をっていわれたってねえ。「選べないよ、見てみないと」と言うと、窓口では「中で係の者に言えば席を変えて指定券を再発行する」という。で、適当な席を発券してもらって、場内に入ってから気に入った席を決め、ロビーにいる係の男性に告げに行った。すると、「本編が始まったら自由に場所を移動して結構」とあっけなく言うのだよ。なんだよ。「だったら窓口でそういえばいいじゃないか」というと、「窓口で「席を移っていい」と言うと、混乱の元となるから」だと。けっ。おまえらの営業姿勢が混乱してるんだろ。こんな意味のない全席指定は御免こうむる。ってな経過はさておき、スクリーンと座席の関係はこの上なくよかった。傾斜があるから前席の人が邪魔にならない。ちょっと覗き込むカタチになる低めのスクリーンは巨大で、自然に画面が正面に見える。とても気持ちがいい。もっとも、字幕を読むのが難儀だ。視界にスクリーンの中央が自然と入ってくるのに、字幕を読もうとすると視線を下にずらさなくちゃいけないからだ。視線を上に移動するのはラクだけど、下に移動するのは結構つらい。字幕の関係ない映画なら最高だけれど、洋画のように字幕を読むことを前提にした場合、この映画館の設計はいいとはいえないね。
デブラ・ウィンガーを探して1/24ギンレイホール監督/ロザンナ・アークェット脚本/-
この日のギンレイは女性客ばっかりだった。きっと「デブラ・ウィンガー」が目当てで、これを見て「そーよねー、分かるわ」なんて頷いていたんだろうか。まあ、どーでもいいが。私にとってこの映画は単なる女の雑談で、ぐっと引き寄せられる発言もなければ、驚くような発見もなかった。女優たちの本音は、どこにもなかったような気がする。通り一遍の「女は大変」「男は若い女に商品価値を見いだす」「映画会社の偉いさんは女優とヤリたがる」ばかりで、だからどーしたの類だ。「オーディションは大変」というけれど、じゃあそのオーディションに通るためにしている裏工作をしたり、他の女優を出し抜くようなことをはしてないのかい? きれいごとばっか。でもって、女は大変、男は・・・だもんな。
風邪が治りきっていないせいか、カンヌのシーン辺りで寝てしまった。
アダプテーション1/24ギンレイホール監督/スパイク・ジョーンズ脚本/チャーリー・カウフマン&ドナルド・カウフマン
この映画はいったい何なのだ? わけが分からない。脚本家が次回作に悩んでいる。原作本は、ある女性がフロリダで出会った植物泥棒(?)の話だ。書けない脚本家は実生活でも奥手。ダサイ彼女にキスもできない。で、もんもんとしているうち、原作者に会いにでかけ、彼女と植物泥棒との密会を目撃し、あげくの果てに双子の兄弟を殺されて這々の体で逃げ出す・・・。というようなストーリー。だけど、脚本家と一緒に住んでいる、これまた脚本家の双子の兄弟というのは、いったい本当の存在なのか? ひょっとして多重人格の片割れなんじゃないか? 脚本家はほんとうに原作者に会いに行ったのか? あれは想像の世界のお話で、本当は会いに行ってないんじゃないのか? いつの間にか脚本家は、時分の書いているシナリオの中で動き始めているように見えるぞ。しかし、それはどこからだ? どこまでが事実で、どれがイマージュなのだ? わけが分からない。分からないから、あまり世界に入り込めなかった。だから、映画を、エピソードも含めて面白がれなかった。
風邪が治りきっていないせいか、途中で寝てしまった。
ラブストーリー1/26シネマミラノ監督/クァク・ジェヨン脚本/クァク・ジェヨン
いやあ、なかなかというか、かなりよい。純愛だけで2時間10分ももたせてしまう手腕は並ではない。見る前は、いくらなんでも2時間は長いだろう、と思っていた。見はじめて最初の10分ぐらいも、だらだらして何だこれはと思っていた。ところが、このリズムが次第にカラダに滲みてくると、もう時間のことなど関係ない。物語性にすべてを委ねてしまった。
話自体は、どっかで見たことがあるようなもの。さして目新しくない。何かの翻案ではないかと思ったりもするぐらいだ。ところが、つくりがとても丁寧なのだ。それは、主人公の2人だけでなく、周囲のこまごまとしたものから小道具に至るまで、実に細心の注意が払われている。そうして散りばめられたディテールが、次第にひとつにまとまり、意外な(よくありがちな話なのだから意外というのは変だけれど、見ているうちに話に絡め取られてしまって、いつのまにか物語にふりまわされてしまい、しかも、その振り回され方に快感を覚えるといった感じなのだ。見ている途中で先を勘ぐる必要もなかった。ただ、見ていれば良かったってな感じ)展開に、おお、と感涙して胸にじんとくるのをそのまま受け止めていればよろしい、ってな感じ。こんな大時代的なお話になんで? って時分でも思うのだけれど、いやあ、完全にハマってしまったぞ。
現代の恋人たちと、両親たちが交わしたラブレターおよび日記を元にした回想シーンが、実に上手く自然に織りなされていく。ヒロインが、可愛い。でもって両親の世代の、彼が実にいい。あえていえば、韓国映画らしくないあっさり感がいいし、役者の顔に色があるのがいい。ノッポの友だちのキャラもなかなかいい。そんなことあり得ないだろ、というバカバカしい話なんだけど、心のツボを心地よくくすぐってくれるのだった。ひとつ難点を挙げるとすれば、窓辺にきた鳩を毛嫌いして追い出す彼女の神経がわからない、というところかな。これは、韓国流か?
ハリウッド的殺人事件1/27上野東急2監督/ロン・シェルトン脚本/ロバート・スーザ、ロン・シェルトン
だからどうした的映画だな。なんとなくチープな印象で、ハリソン・フォードもこういう、どーでもいい映画に出るようになっちまったんだなあ、という感慨もある。あるんだけど、他の役者の顔ぶれをみると、そうバカにしたもんでもないのだよなあ。だけど、映画の中身は、そこそこ面白いけど、チャチなところもあったりして、その位置づけがよく分からんです。
面白いのは、ロス市警の刑事や警官がことごとくバイトしているってとこだよな。副業って、許されているのか? 笑っちゃうぞ。犯人を追っかけながら不動産価格の交渉したりしてるハリソン・フォードは、なんともユーモラス。で、そういう設定は、面白い。けど、本題の殺人事件となると、これがまったくオソマツ。犯人は最初からバラしてるようなもので、犯人探しの楽しみはまったくない。それでいいのか? ちったあミステリアスにしたらどーだ? と思うのだけどなあ。コメディなんだから、これでいいってことかなあ。納得いかん。本題がこれだから、それ以外の人物や行動やもろもろも、みんな浅い。ハリソン君を調査している内部調査チームの連中とそのボスも、単にむかし恥をかかされただけであんなにしつこく追うのか? 最後にボスが逮捕されちゃうけど、あれはなんでだ? とかね。いろいろいい加減なところが、チープ度を高めている。かわいいヒロインが出てこないのも、ちょっと物足りないなあ。
着信アリ1/28自由が丘武蔵野館監督/三池崇史脚本/大良美波子
早撮りの三池崇史なのでルーズなところがあるのかと思いきや、丁寧に撮られている映画だった。もっともあまり怖くない。興味深いのは、霊だけでなく"実体"すなわちモンスターが登場することだ。これは、欧米市場を意識したものだろうな。なにしろキリスト教圏は、悪魔が登場しないと納得してくれないところだから。というわけで、あの実体は日本映画にとって良かったのかどうか、分からない。モンスターのリアリティはほどほどで、そんなにチャチくない。合格点。でも、やっぱ、ああいうのが出てきても、怖くならないんだよなあ。日本と海外とのホラーの質の違いだろう。
幼児虐待がテーマになっている。こっちの方が、よほど怖いような気もする。いじめていたのは親ではなく、実は・・・。てなラストのどんでん返しは、ちょっと効いた。もっとも、幼児虐待がストーリーの中で納得いく原因となっていないのも、ちょっと中途半端か。さらに分からないのは、子供の怨念がどうして堤真一の妹や、通りがかりの女子高生たちの知り合いに携帯メールを送ってきたか。で、メールは女学生→男子学生→女学生(吹石一恵)→柴咲コウと連鎖するのだが、どいうい因果関係があるんだ? 少女がかかっていた病院つながりじゃなかったよなあ・・・。このあたりのつじつま合わせが、できていない。それと、ラストシーン。少女に憑依された柴咲コウが堤を刺す。次に、青空。誰でも時分だけの青空をもっているという、というようなセリフに関連するのだけれど、意味不明。で、ベッドで寝ている堤。それを見守る柴咲。手にはナイフ。柴咲は堤にキスし、あめ玉を口移しする。で、エンド。通常に考えれば少女は未だに柴咲に憑依していて、堤に引導(あめ玉)を渡す。そして、ナイフで・・・。となるのが筋だろう。けど、あの場面ではもう携帯は登場しないし、ナイフもリンゴでもむくためのもの、と考えられないこともない。ちょっと意味深にしすぎたんじゃないのか? 素直に終わって欲しかったぞ。
ポーリーヌ1/29新宿武蔵野館2監督/リーフェン・デブローワー脚本/リーフェン・デブローワー、ジャック・プーン
原題は"Pauline & Paulette"。マルタ、ポーリーヌ、ポーレット、セシールの4姉妹の物語。長姉が70歳ぐらいで、末妹が60歳ぐらい。ポーリーヌは66歳で知恵遅れで、ひとりでは何もできない。それまでポーリーヌの面倒を見てきたマルタが死に、面倒が2人の妹に降りかかってくる。
知恵遅れのまま老年期を迎える人々。さらに高齢者問題もからんで、深刻なテーマだ。ポーリーヌを邪魔者扱いする妹たちを、誰も非難することはできないはず。かといって、施設に入れるのはあまりにも・・・。という二律背反に、見ている我々は突き当たる。でもま、最終的に施設に入ることになるのは、仕方ないのだろうな。社会全体が、どこかで支え合って行かなくちゃならないのだろう。たとえば長姉のマルタは、ひょっとしたら結婚もせずポーリーヌの世話を見ることに一生を捧げてきたかも知れない。そういう、悲惨な部分が描かれていないのが、救い。ポーレットとセシールの2人の妹たちも、ポーリーヌを疎ましく思いつつも、細やかな愛情を注いでいるように描かれている。こうやって、きれいごとにしてしまっているのは、ずるいと思う。そのずるさが、映画なのだけれどね。
分からないのは、ポーレットが店をたたみ、オペラの歌手も辞めて海岸のアパートに越してしまったこと。そうする必要が、どこにあったのだ? ポーリーヌを施設に入れたことで遺産は入らなくなったのだから、店もオペラもつづけられるだろうに。なぜ? なんか、無理矢理哀しげなラストをつくるために、そうしてしまったようにも思えるのだが。そこがちょっと不満だ。
アダプテーション1/29ギンレイホール監督/スパイク・ジョーンズ脚本/チャーリー・カウフマン&ドナルド・カウフマン
2度目。前回、寝てしまったところは、今度は寝なかった。ところが、しばらくしてシナリオ教室のシーン辺りから眠くなって、ちょいと寝てしまった。やっぱり、俺にはこの映画は面白くないと見える。
さてと。チャーリーとドナルドの双子の兄弟は、二重人格ではなくちゃんと存在するように描かれていたな。とはいうものの、性格は表裏一体ってな風で、チャーリーに欠けている部分を持っているもう一人の自分という、分身であることには代わりがないようだ。最後、ドナルドが死んで、チャーリーが本来の自分らしさを取り戻すことでも、それは明らか。また、ドナルドへの追悼文が書かれているのも、創り出してしまった人格を映画の中で殺してしまったことへの"お断り"みたいなものだろう。まあ、チャーリーはしょっちゅう妄想を見てばかりだから、どこからが現実でどれがイリュージョンが分かりにくいのだけどね。あえていえば、全部が創り出された物語ということもできるわけで。まあ、でも、どうてでもいいや。俺にはやっぱり大して面白くなかったのだから。

 
 

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