2004年2月

気まぐれな唇2/5テアトル新宿監督/ホン・サンス脚本/ホン・サンス
不思議な味わいをもった映画だ。はじめは「だらだらしててストーリーもドラマもなくてつまんないな。退屈だ」と思って見ていた。前半の、先輩とダンス女とのつきあいの部分はつまらなかった。あきらかにダンス女はバカ女として描かれている。自己顕示欲が強くてエキセントリックな風を装いながら「愛している」といってくれと迫ってくるところなんか俗物中の俗物だ。ところが、帰りの電車で会った教授婦人との怪しい関係が、気恥ずかしいほどスリリングになってくる。教授夫人は存在そのものがエキセントリック。貧乏役者はストーカーまがいに教授夫人にまとわりつき、自分の方から「愛している」と言ってしまう。今度は貧乏役者がバカになっちまうのだ。どうしたのだ? 2人の描き分け、この対比は何なのだろう? 
路上で貧乏役者が教授夫人と向き合う場面がある。中央の電柱には、迷子犬探しのビラのようなものが貼られている。いまどきの若い世代は、何かを探し求めつつ得られない、ということを示唆しているのかな。何かを求めつつ、とりあえず手近なところの異性を相手にセックスしてしまうことに終始しているのは、若い世代への皮肉か? そんなに簡単に行きずりでセックスできるはずがないだろ!という突っ込みを入れたくなってしまう。とはいいながら、男が女に翻弄されているって感じはするよな。ダンス女にしてみても、とりあえずほてりを冷ますために貧乏役者を選んだだけかも知れないし。教授夫人も、下半身は飢えてたのかも。興味深いのは、画面に現れる旧世代と新世代の外見の差。歳を取った伝統的な韓国女性は、外見も控えめでフツーのオバサンにしか描かれていない。なのに若い女性はみなフェロモンを振りまいているような印象だ。
2人の女がともに似たような置き手紙(私の中のあなた、あなたのなかの私、みたいなの)をしているのはどういう意味だ? 女はみな思考がワンパターンだってことかな。貧乏役者が先輩に言われた「生きるのは難しいが怪物になってはダメだ」って、どういう意味? ・・・だのいろいろ意味深なところが多い。そう。エピソードやなんやかや要素は多いんだけど、かといってどこにも収斂されていかなくて、まとまりに欠けるところが伺える。きっと撮りながら、どうまとめていいのか分からなくなってたんじやないのかな。ラストは放り投げるようにして終わっているし。でもま、結局のところ、夢を追っているのはバカな男で、女はちょいと遊んでも現実的であるのだよ、てなところかな。セックスシーンはよかった。可愛い教授夫人のぷよぷよオッパイもちゃんと見られたし・・・。
マグダレンの祈り2/6ギンレイホール監督/ピーター・ミュラン脚本/ピーター・ミュラン
つまらないし共感もできなかった。本来は深刻な話なのだろうけれど、随所で笑えるのにも戸惑った。アイルランドの修道院の物語だ。修道院では、みだらな婦女子を家族から預かって就労させている。それが人間性に欠けているという主張らしい。けれど、そんなにひどい環境に見えないのだな、これが。管理者は修道女ばかりだから折檻もたいしたことはない。自由がなく、働いても給金がもらえず、向学心が閉ざされ、外部との接触が断たれるといった具合だ。1960年代だったら、あっても不思議でもないような環境だ。もちろん現代の尺度で見れば、ちょっとひどいと思えるところもあるけれどね。3人の少女のケースが冒頭で紹介される。従兄弟に犯された娘、少年に色目を使う娘(彼女は孤児院に住んでいる)、私生児を産んだ娘。犯された娘は気の毒に思えるけど、あとの2人は1960年代の尺度でいったら、ちょいとお仕置きを、と親が思っても不思議ではないかも知れない。と、私は彼女たちに冷たい視線しか送れなかった。修道女たちも、なかには娘たちを裸にしてからかうバカもいるけれど、その他はとくにひどいという印象ももてない。娘たちが働いた金を私物に使っているわけじゃない。しかも、彼女たちは警察に捕まって隔離されているわけではないのだ。そう、保護者が望んで修道院に入れているのだ。じゃあ、問題は親だろう。そして、そういう親が多くいる社会環境だろう、問題にすべきは。悪役vs可哀想な娘、という対立項がはっきりしていないし、こういう制度を維持させてきたほんとうの原因への切り込みが弱い。アイルランドの厳格なカトリック信仰が原因なのかな、などと思いながら見ていた。でもって、映画としての快感の部分でいうと、最後に脱出劇がある。けれど、相手は婆さんやデブの修道女ばかりなんだから、みんなで殴りかかって縛り上げでもすれば逃げられるだろうに! と、いらいらしていたのも事実なのだった。
クジラの島の少女2/6ギンレイホール監督/ニキ・カーロ脚本/●
消えゆくマオリの伝統と文化を、幼い少女が守ろうとする。いやあ、感動的な設定だ。けど、こっちに感動がつたわってこない。きれいごとにしか見えないのだ。いろんな物質的・文化的な誘惑が満ちあふれている現在、ニュージーランドの原住民という狭い世界に住み、昔の習俗をまもることは難しい。しかも、守っていこうとすれば人生の多くのものを犠牲にしなくちゃならない。だれだって便利が欲しいし楽しいことがしたいのだ。それを他人が「素晴らしいことだ」などと軽々しくいってよいものか、私は疑問だ。自分事ではなく、他人事だからいえるのだ。族長の息子は民族的木彫りより世界的アーチストを選択した。だれがそれを非難できる? 「お土産の木彫りを彫っていろ」なんて、誰も強制できないだろう。そういう現実が見えてしまうから、簡単に感動することができなかった。もちろん少女の健気な気持ちは尊重するとしても、そんなことを考える子供がどこにいる? てなもんだ。というなかで、族長が息子のアーチストにいった「特権をもつ人間には、義務がある」という一言が記憶に残った。そうだよなあ。ラストで息子が船を彫り上げたのも、この一言を受けてのことだと思う。特権をもつ人々が、名声や富を自分に集中することだけを考えているから、伝統文化も維持できなくなってくるんじゃないかい?
この世の外へ クラブ進駐軍2/12上野東急2監督/阪本順治脚本/阪本順治
退屈だった。映画としてのテンポも悪くて、生理的になじめない流れ、展開、つなぎも多かった。しかも、人物もエピソードもてんでんばらばらでまとまりがない。布石があって、あとから「なるほど」って思えることもない。とりあえず素材をぶちまけました、ってな感じ。
主人公にとってのドラマがない。主人公は何をもとめていたんだ? 何に向かっていたのだ? そして、脇役たちは何に向かって生きていたのだ? てなところがまったく描かれていない。ただ、だらだらとテキトーなエピソードをつづっているだけ。脈絡がなさすぎだ。問題は、人物の描き方が扁平なことだな。なんとなく全員登場していて、なんとなくバンドをはじめちゃっている。もうちょいと個々の出会いや、個々人のエピソードを丁寧に描いて、人物に厚みをもたせるべきだったろう。だいたい、描かれているエピソードがありきたりのものが多く、類型的なんだよなあ。だから、なに? と言いたい。戦後の記憶がない人ばかりでつくっているからだろうかね。
役者の顔がみな同じに見えて辛かった。萩原聖人はわかるけれど、あとのバンドのメンバーが知らない顔ばかり。オダギリジョーって聞いたことはあるけれど、初めて見るし。脇役のちょい役では知ってる顔がでていても、演技で冴えを見せる人はいない。バラックの飲み屋と徳井優の復員兵のシーンは、笑わせようとしていながら笑えない。なんか、ずれている。
で。進駐軍バンドの話は読んだり聞いたりしているけれど、この映画で描かれているバンドはリアリティが足りないような気がするなあ。はじめはダメなドラムがいかに上達したか、とかね。そういう成長の過程の描写もいまひとつ。せいぜい萩原がラジオを聞きながらサックスを吹いている程度というのは、物足りない。テキトーな演奏でボロ設けでヒロポンで女で酒・・・。いや、素材はでてきているけど、その組み合わせと描き込みがね、リアリティに欠けているような気がする。儲かっているのに、いつまで安い居酒屋でわいわいやっていたりね。萩原聖人のカタカナ英語も、聞いていて恥ずかしくなってしまいそう。
背景には、CG合成? って思えるものが多かったような気がする。人着みたいな色彩もあったな。真相はどうなんだろ。そうそう。唯一素直に笑えたのは、冒頭の、歩行者が爆弾の穴にけっつまずいて倒れ込んだところだけだった。
アドルフの画集2/13テアトルタイムズスクエア監督/メノ・メイエス脚本/メノ・メイエス
原題は"MAX"で日本のタイトルは「アドルフの画集」。マックス・ロスマンという画商が主人公で、彼が若き日の(といっても30歳の)ヒトラーと出会って交流した話だ。趣旨としては原題の方が合っているような気がする。でもまあ、日本ではヒトラーの名をとったというところか。劇場には、ヒトラーの描いた絵を展示する予定だったけれど、内外の批判もあってとりやめたという謝罪の一文があった。別にヒトラーの絵を展示することがヒトラー賛美になるわけではないと思うので、そんなことで当初の企画を中止するというのは情けないような気がした。それに、ヒトラー自身の描いた絵を見たいという気持ちもあったしね。もっとも、そういう企画があったというのは、劇場で知ったのだけれど。
お話はなかなか見応えがあった。びりびりするほどの鋭さは感じられなかったけれど、それなりに突いているところがあるので、面白かった。ヒトラーが美術学校に落ちたということは知っていた。けれど、軍隊時代も絵を描いていて、しかも、画家として売り出したいという思いでいたとは知らなかった(どこまで真実に依っているのか分からないけど)。だいたい、マックス・ロスマンなる画商は存在したのか? Webで見たら架空の人物で、ヒトラー自身の絵画に対する関わりも、想像の部分が大きいという。なるほど、そういうことか。すべては創作ということか。
ヒトラーは貧乏で自意識過剰で小心者でコンプレックスの固まりに描かれている。かたやマックスはユダヤの富豪の息子。この対比が、面白い。ヒトラーの、マックスにすがろうという気持ちと、ユダヤ人に対する蔑視が二律背反で葛藤する。けれど、所詮は画家としては二流。絵が描けない。ところが、プロパガンダの才能が開花してしまう。でもって、ナチスをイメージするデザインは閃いて、それにマックスが着目するあたりの皮肉。うーむ。ナチスは前衛芸術か。
ヒトラーという存在が、どうみても画才のない人物に描かれているので、マックスがなぜヒトラーと関わりを保っていこうとしたのか、そこが納得いかないつくりになってしまっている。マックスほどの画商なら、ヒトラーの絵を一蹴するはず、としか思えないのだけどね。それでも関心をもちつづけたからには、妙な魅力があったからというふうにしないと。けど、映画のヒトラーからは怪しい魅力も感じられない。まあ、魅力があったらヒトラー賛美になってしまって、危ない映画になってしまうかも知れないが。
それにしても、ヒトラーの誕生というのはユダヤ人とアーリア人(ドイツ人)という民族の対立なのだなと再認識した。昨今の民族紛争と変わりがないのだね、根本は。そして、利害の対立、か。被害者意識が強いのはヒトラーだけじゃなくて、ドイツ国民全体がそうだったみたいだね。でも、第一次大戦に負けて国土を割譲されたり賠償金で大変だっていっても、そもそも自分たちが悪いんだろ? と思ってしまうと、ドイツ人に同情ができない。たまたま周囲を見回したら裕福なユダヤ人がいて、矛先をそっちに向けたのだろうけれど。まあ、この間の歴史的認識に関しては詳しくないので、のちのち本でも読んでみることにしようか。
ジョゼと虎と魚たち2/19シネマミラノ監督/犬童一心脚本/渡辺あや
この監督は、力をつけてきたなあ。「金髪の草原」の頃は、狙いとイメージがうまく融合していないようなところがあったけれど、この映画では意思が映像としてつたわってくる。技量が素晴らしい。主人公2人の掘り下げ方も巧みだし、周辺の役者まで存在感を示している。なかなかに、いいのだ。
北野武を思わせるカットつなぎが使われている。たとえば乳母車がクルマにぶつかる場面で、その瞬間を映さず、事後を見せてしまっているようなところなんか。また、演技を感じさせない自然なセリフが多い。カメラを振り回さず、カットを積み重ねていく。こうしたテクニックは、この映画には適しているような気がする。
池脇千鶴が、ひねた障害者をうまく演じていた。祖母(なのかな? それにしても存在感のある役者だった)に「こわれもの」といわれ、外界と遮断され、素直になれない閉鎖性。でも、ほんとうは社会と関わりたいと願っていて、誰かに頼りたくてたまらない心持ち。そういうのが、よくつたわってきた。気になったのは、最初の妻夫木の彼女の動向。妻夫木に言い寄ってくる女学生を冷静に分析するなど、なかなか鋭い印象を受けたからだ。彼女のせいで、妻夫木は目先に左右される、軽いヤツに見えてくるしね。それから、池脇に包丁で切られたのが誰か、ということ。これは、心残りだ。
以上は、表の感想。では、裏の感想を。といっても表現が難しいのだけど、部落および在日を感じてしまうのだ。被差別者で障害者というハンデを背負って生活することの大変さ。それが、「こわれもの」という言葉にも表れているのかも。妻夫木が最終的に彼女のもとを離れていくのも、そのせいでなのかなあ、と。そういう壁を、本当は表現しているんじゃないのかな。でも、外界のいろんなものと接しつつ、最後は、ひとりで社会に向かいつつある描写の池脇の映像で終わっていて、ちょっとホッとした。彼女は妻夫木にふられたわけじゃない。彼女が妻夫木を捨てて、自立していったのだと思う。
ハッピーエンド2/24新宿武蔵野館3監督/チョン・ジウ脚本/チョン・ジウ
バカな妻とトンマな夫の物語?ってとこか。儒教の国・韓国でこういう映画がつくられるようになるとは、世の中も変わったものだ。
昔の彼氏に出会って不倫をつづける妻。失業して主夫をしながら幼子を育てる夫。そして妻の不倫相手。この3人のだらだらした日常が1時間以上もつつくのにはまいった。だって、どこにもドラマがないし、何も起こりそうにないんだもん。で、1時間をかなりすぎてから、やっと夫が行動を起こしてくれた。なるほど。そうなっちゃうのね。でも、驚けないよ。夫の、妻や不倫相手に対する怒りや屈折した感情が滲み出てないんだもん。もうちょっと、みんな「墜ちていく」っていう凄まじさ、だして欲しかったね。それにしても、夫が犯罪を犯してアリバイを工作するところがチャチ。誰かに見られないわけがないだろ。それと、不倫相手からの連絡が、携帯ではなく家庭の本電話にしかかかってこない、ってのがヘン。妻は、不倫相手の部屋の合い鍵ぐらいちゃんと管理しろ、といいたい。夫は、不倫相手の住所をどうして知ったのだ? 一過性の関係でいたいなどと不倫相手に言うくせに、その不倫相手が別の男とできているのではと嫉妬に狂ったりするのはなぜ? だって、不倫相手の子を産んでいるんだろ? とか、突っ込みどころは多い。
古本屋のシーンと店主がよかった。最初は、恋愛小説を読みたがる夫。そうか。愛が失われているのか、って説明してくれている。で、途中から突然、推理小説を読みはじめる。ちゃんと説明してくれているんだよねえ。それと、妙な効果が使われていた。フェイドアウトのように画面が暗くなり・・・かけるんだけど、また明るくなる。何を意図しているのかは、分からなかったけど、とても気になった。
クレジットに1999年の制作とでていた。これって、輸入できる映画がなくなってきているってこと?
困った女性客がいた。妻と不倫相手が廊下でいちゃついているところへ夫がやってくる・・・てなシーンで、「あら、いるじゃん、やだ」とか、つぶやくのだ。どーも連れに話している様子。そりゃそうだ。一人できてしゃべっていたら、アブナイ。それにしても、迷惑な客だ。
アップタウン・ガールズ2/24新宿武蔵野館1監督/ボアズ・イェーキン脚本/ジュリア・ダール、モー・オグドロニック、リサ・デヴィットウィッツ、 ストーリー:アリソン・ジェイコブス
アップタウンってのは、ダウンタウンの反対かな。すると、山の手お嬢さん物語ってことか。かたや、事故死したロックスターの忘れ形見モリー22歳。対するは音楽プロデューサー(?)の娘レイ8歳。モリーは苦労知らず派手好き計画性なし男好き。レイは論理的で潔癖性で実は親の愛に飢えている・・・。さて、管財人の持ち逃げで一文無しになったモリーがレイの子守になる。そこで2人が諍い合う。って、22歳と8歳がケンカする必然性はないのだけど、そこは脚本の都合上いたしかたない。表面的に似ていないようで、この2人、実は似ている。モリーが両親を失ったのは8歳のとき。現在8歳のレイも、後半で父を失う。上流階級の娘なのに、幸せでなく、何かを失っている。その、失うことで歪んでしまった自分を、取り戻す。それが、ひとつのテーマになっている。・・・っていう構造は理解できるんだけど、なんか、まとまりに欠ける。ひとつは、モリー役のブリタニー・マーフィーが可愛くないからだ。この姉ちゃん、かなりケバイ。それに、役の上で、かなりバカという設定なので感情移入が難しい。だって、イケメンの歌い手を色仕掛けで家に引っ張り込んで、やりまくっちゃうんだもん。で、レイのダコタ・ファニングでけど、こまっしゃくれ具合は十分なのだけど、こちらも可愛らしさがいまひとつ。可愛い子役も、成長しはじめると、いろいろねえ・・・。それに、エピソードも「だから、なに。で、何がいいたいの?」っていいたくなってしまう。うーむ。
ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還2/25上野東急監督/ピーター・ジャクソン脚本/ピーター・ジャクソン、フラン・ウォルシュ、フィリッパ・ボウエン
3時間23分トイレに行かずに見通せたぞ! それにしても、フロドが、っていうより従者のサムがリングを火口に投げ入れて、戴冠式で大団円。ってなところで約3時間。これから20分以上何を物語るんだ? なになに、ホビット村に戻ってあれやこれやと、長いよなあ。パパッと終わってもよかったんじゃないのかねえ。
1部、2部を思い出しつつ・・・っていっても、1部をよく理解していないで2部を見ているので、正直にいってなんだか分からないところも多い。でも、1部、2部よりも話の構造がシンプルになっていたせいか善悪の対立もはっきりしていて、まあ、なんとかついていけた。実をいうと、指輪をどうして火口に投げなくてはならないのかとか、ガンダルフの出自は? 共に戦っている騎士たちはどういう因果関係だっけ? 妖精たちはどうして人間の味方なのだ? いや、そもそも戦う相手はどういう存在で何が望みなんだっけ? なんてのを忘れているから、困っちまう。
戦闘シーンが多い。笑ったのは、圧倒的に不利な戦いを勝利に導いた軍団だ。なんとこれが、幽霊の兵士たち。「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」そのまんまななのだ。戦闘以外のエピソードも、なんかのろのろしている。敵の様子が描写されるでもなし、仲間同士の対立があるわけでもない。せいぜいフロドとゴラムの諍いがある程度。ぜんぜんドラマチックじゃない。その点では、いささか物足らない。指輪を火口に投げたあと、ガンダルフがワシに乗ってフロドとサムを救いに来るのだけれど、そうやって飛んでこられるなら初めから飛んでこいよ、と突っ込みを入れたくなった。それにしても、サウロンの炎って、どうみたって女性器だよなあ。
1時間を超えたあたりから小水に行く人の数が増えた。1/3ぐらいの人が行っていたのではないのかな。長いんだから、休憩時間ぐらい設定しろよな、といいたい。
エデンより彼方に2/26ギンレイホール監督/トッド・ヘインズ脚本/トッド・ヘインズ
なかなかスリリングで、ちょっとドキドキしながら見てしまった。亭主はどうなっちまうんだ? 奥さんは黒人と深い仲になっちゃうの・・・? 噂が広がって、町に住めなくなっちゃうんじゃないの? とかね、心配で心配で仕方がなかった。いやあ、すっかり話に引きずり込まれちゃったよ。いまじゃあんまり問題にならない(っていうか、問題にしないようにしている)古典的なテーマを現代にもってきて、改めて問うている。
1957年、アメリカの田舎町。黒人への差別感は色濃く残っている。黒人は、大学に行ってもまともに就職できず、白人家庭のメイドか庭師。どうやったってブルーカラーだ。家庭内でトラブルのあった奥さんが、出入りの黒人庭師と心の交流を深めていくのを、町の人は偏見の目で見つめていく・・・。いやその、家庭内トラブルっていうのが、亭主の浮気・・・っていっても、相手は男で、ホモ・セクシャルだったって、凄い設定を思いついたもんだ。これ以上、強烈なのかあるかつてな具合だね。まあ、ストーリーは予想しうるの範囲内で、さして大きな事件にもならずに展開し、砂の城のように崩壊していく。つい昨日までは町の社交界の著名人だったのにね。黒人は差別され、同性愛がタブー視されていた時代の話だ。
設定も展開も面白い。けれど、いま、過去への反省を込めて黒人や同性愛への無理解を改めて問う意味がどこにあるのか、それが分からなかった。
映画は、そのまんま、1950年代なのだ。これがまた、凝りに凝っている。オープニングでは主要登場人物が大きくタイトル表示される。エンドクレジットも、昔風に1枚1枚変わっていく。最近のように下から上に上がっていくのではない。しかも、斜めに階段状に表示される。すべて昔風。色彩の鮮やかさが素晴らしい。最初の頃の燃えるような紅葉、黄金色の枯れ葉が、人物の高揚した生き方をありありと表現している。しかし、冬を迎え、葉は枯れていく。しかし、ラストでは春の桜(?)が咲き始めている。これは、人物の心の再スタートを表現しているのかな。それから、ライティングも見事。凝っている。映画全体に一分の隙もない緻密さが、話をぴしっとしめている。・・・んだけど、やっぱり、昔のことをいまさらいう意味が理解できないのだった。
永遠のマリア・カラス2/26ギンレイホール監督/フランコ・ゼフィレッリ 脚本/フランコ・ゼフィレッリ、マーティン・シャーマン
マリア・カラスについては、よく知らなかった。まあ、オペラ歌手ってぐらいか。で。その半生記が半ばドキュメンタリータッチで描かれているようなものかな、と思っていた。ところがどっこい。1977年、カラス53歳。死の1年ほど前の数ヵ月に焦点を絞った物語だった。この当時カラスはもう声がまともにでず、ほぼ隠遁生活。公からも遠ざかっていた。信じられないのは、カラスの行動。全盛期の自分のレコードを聴いては、夜な夜な泣いているのだ(歌手とか役者って、そんなものなの?)。プロデューサーはそこに目を付け、引っ張り出す。ま、金のためだ。53歳のカラスにカルメンを演じさせ、それを映画に撮り、声は全盛期のものをあてる。口パクってわけだ。それをカラスは嬉々として了承するんだから、気が知れない。本音では人前に出たい、ちやほやされたいって気持ちがあるわけだ。その、悪魔のささやきに勝てなかったってことだろう。哀れだね。まあ、カルメンの撮影が上手くいった(公開前だけど)ので「じゃあ次はトスカを」とプロデューサーがいうと、「あのカルメンはニセモノ。今度は自分の声で」というカラス。凄いね。声が出ないのは分かり切っているのに、すでに失敗を経験しているのに再起を願う。すさまじいね。でも、会社側は「そんなの売れないよ」と一蹴してしまう。だよなあ。結局、カルメンもトスカも世に出ずじまいに終わる。
最後のクレジットで、監督がカラスと親交があり、想像を交えて制作したと書かれていた。どこが想像なのかは分からない。
で。正直にいって、眠かった。とくに、中盤以降はとくに眠かった。カルメンを撮影している様子と、撮影されたものを交互に映していくのだけれど、たんにそれだけなんだもん。カラスの心の葛藤や対立などが表現されていくわけじゃない。ドラマがなくて、ただ、だらだらと映像が流れていくだけ。これでは飽きてしまうよなあ。だから何だっていうの? だよ。

 
 

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