下妻物語 | 6/1 | シャンテ・シネ3 | 監督/中島哲也 | 脚本/中島哲也 |
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いやあ、面白かった。たくさん笑わせてもらった。牛久大仏に筑波山、土浦ナンバー。ローカルだねえ。ミスマッチがとても楽しい。話は、ナレーションとエピソードの積み重ねでつづられていく。その意味で、とても説明的。でも、その説明がキッチュでポップでずっこけだらけ。自分の意見をTVのキャスターが代弁したり、いつの間にかTV番組に出演して発言していたり。飛び方が半端ではない。ジャージー天国大阪、下妻のジャスコ、ベルサーチにUSJなんていう固有名詞ギャグも面白いけど、外し方も巧み。で、中心のストーリーは、ロリータの竜ヶ崎桃子(深田恭子)とヤンキーの白百合イチゴ(土屋アンナ)が中心。せいぜい桃子の父親(宮迫博之がよろしい)と祖母(樹木希林がいい)、ブティックの社長(岡田義徳)ぐらいで、ほぼ深田&土屋のでずっぱりなのだ。これが不自然ではなく、案外と成功しているように思う。自分の意思が確立していて他人に左右されない桃子。ダチとつるんでいたいイチゴ。この凸凹コンビがまた楽しい。ラスト近くに、昔の自分が今の自分を見ているシーンがなにげで出てくる。これは、2人の成長を表しているのだろう。友達の助っ人をしたり、仕事をこなすようになった桃子。グループに頼り切り、仲間内で傷を嘗め合っていたイチゴの自律。ロリータとヤンキーといえど、少しずつ変わっていくのだよ、と言っているように思う。 荒い感じの色彩も、成功している。フツーに撮れば生っぽくなるところを、つくりもののように仕上げている。なんとなくアニメっぽくもあり、それはそれで原作の味が損なわれないようにする工夫なのかも知れない。いや、楽しかったぞ。深田恭子もアホっぽく映ってなかったし、土屋アンナが色っぽくも格好よくも見えた。 | ||||
レディ・キラーズ | 6/1 | 丸の内ピカデリー1 | 監督/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン | 脚本/ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン |
最近のコーエン兄弟といえば「ディボース・ショウ」もつまらなかったけど、この映画もつまらなかった。泥棒の話ではあるけれど、泥棒の結集・実行にはあまり興味がないのだろう。むしろ、決行・成功した後にどう破綻していくかを描きたかったんだと思う。ヒッチコックみたいにね。けど、その過程に意外性はないし、そうなるんだろうなと思っていると、そうなってしまうような流れで、まったくワクワクしない。トム・ハンクス演じるところの教授は天才的と謳っている割にトンマだし、新聞の募集欄で集めたというメンバーも、ひと癖もふた癖もないマヌケな連中ばかり。もともとコメディだよと言われれば、ああそうですかと返すしかないのだけれど、ドラマチックがない映画は、つまらない。黒人おばちゃんの味はまあまあでているけど、なんか表面的な感じもするのだよ。なんか荒削り。ツメが甘いっていうかさ。破綻していく様子だって、キレが鈍いぞ。 ●まさかと思ったが、この小屋も座席指定だった。「下妻物語」の後はこれを見る予定だったので仕方なく入ったけれど、分かっていれば来なかったよ。大して入っていないのに座席を選ばせるナンセンス。アホかと思う。前の席に座高の高いやつがきたり、かさかさ音を立てるやつがきたりしたら、座席を変わりたいじゃないか。それと、もうひとつ酷かったのが空調だ。じわじわと下半身(大腿部から膝あたりにかけて)が冷たくなっていく。冷風は座席の間(2階席に座った)をつたってやってきて、下肢を徐々に冷やしていく・・・。カバンを当てたりしたけれど、大して効果なし。途中で風が強くなったり弱くなったりしていたから、その範囲でコントロールしているのだろうが、実際、客がどういう状態にいるか、温度調節の数字だけでは分かるわけないよ。まして、今日は昨日の気温30度から一気に10度も下がってるんだ。考えろ、というより、予測しろ。っていっても、近頃の小屋には年寄りがいないからな。チーフらしいのが30歳そこそこで、社員は数名、あとはバイトなんてところが多くなっている。知恵が働かないはずだよ。上映中、席を立っていいにいこうかと思ったのだけど、その間、見られなくなるし、じゃあその見返りをいただく(別の日に見られるチケットをもらうとか)するために訴える苦労がある。それも、若いアンちゃんの店員にだったりする。そういうことを思ったら面倒くさくなってしまった、そのままにしてしまった。いいや、次の回の客のことなんか、こっちは知ったことか。 | ||||
キューティーハニー | 6/2 | 上野東急2 | 監督/庵野秀明 | 脚本/高橋留美、庵野秀明 |
何年か前の「BSマンガ夜話」に、サトエリがアシスタントで出たことがあった。お、可愛い娘だな、と一瞬思った。で。彼女がファクスを読み始めると、これが丁寧すぎるぐらいゆっくりで、漢字の読みも怪しい。大月だったかいしかわだったかが見かねて手助け、というより、時間がもったいないのでフォローしようとしたのだけれど、かえってムキになって自分で読み通そうとしている様子が印象的だった。トロい割には自我が強いんだな、と。それから暫くしてジョージアのCMである。矢田、米倉、佐藤。今が旬の娘が3人、ミュージカルのように動いているのだけれど、どーも動きがズレて見えるのが1人いる。これが、サトエリだった。なんか、間が悪いというか勘所がつかめていないというか、サトエリってリズム感も運動神経もないんじゃないのか? と思っていたのだけれど、この映画でも似たような印象を植え付けられてしまった。身体の柔軟性(股割ができていた。床にうつぶせになって反っくり返り、足を頭につけていた)は認めるけれど、アクションで見るべきところはなかったように思う。もっとも、10分程度寝てしまったので、そのときに何か凄いシーンがあったのかも知れないけどね。それに、この映画で印象づけられたのは、サトエリのお多福顔だ。髪を長くしていると気がつかないけれど、ほんと、まん丸顔なんだな。スタイルはよくても、あれじゃあなあ。・・・と、あら探しのようなことばかりしていたのだった。 アニメが原作だからって、まるきりマンガにしなくってもいいんじゃないのかね、とも思う。合成が多すぎだ。映画は全編ビデオ撮影のようで画像は汚い。はっきり合成と分かるシーンもあれば、合成か? と疑るようなシーンもある。そういうことに気が行ってしまうのは悪い癖だなあ、とつくづく思う。お話は、休日の朝8時頃やっている特撮ヒーロー物みたいなもので、だからどーしたということは全然ない。勝手にやってくれってところだ。の割に、キャストが豪華なんだよなあ。「スパイキッズ」とか意識しているのかな。こっちとしては「チャーリーズ・エンジェル」ぐらいの意気込みでつくって欲しいところなんだが、まあ、そこまで金をかけることもできないんだろう。そこそこのところでお茶をにごしたって感じだな。見ているうちに眠くなってきて、1時間を過ぎた辺りからうとうとしだして、10分程度気を失ってしまった。それにしても、サトエリの大きな乳がこれでもかと見えているのに、全然エロチックでも何ともないというのは、いいんだろうか? | ||||
10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス | 6/5 | ギンレイホール | 監督/ | 脚本/ |
10分程度の短編のオムニバス。どういうわけで、こういう監督が選ばれたのか、よく分からない。あとでWebでみたら、結婚・誕生・進化・孤独・死・運・郷愁モチーフがあって、それに基づいて撮られていたようだ。ふーん。 「結婚は10分で決める」監督・脚本・編集:アキ・カウリスマキ だからなんなんだ、としかいいようがない。掘り下げが甘いし、テキトーに撮っているとしか思えないようなところがある。 「ライフライン」脚本・監督:ビクトル・エリセ だからなんなんだ、としかいいようがない。 「失われた一万年」脚本・監督:ヴェルナー・ヘルツォーク なるほど面白いが、よくあるテーマ。手垢がつきすぎている。で、この、文明に最後にふれた種族というのは、ほんとうのことなんだろうか。フィクションででっちあげけたものなんだろうか、という疑問が残っている。 「女優のブレイクタイム」脚本・監督:ジム・ジャームッシュ つまんねえ。だからどうしたもないレベル。女優のトレーラーに入っていきなりケツをまくり胸に手を突っ込んだ音響技師がいたが、彼はあんな美味しい仕事を日常的にできるのか? また、女優はあんなことをされても平気なのか? と、ちょいと驚いたぐらい。なんだけど、次第に眠くなっていって・・・。 「トローナからの12マイル」脚本・監督:ヴィム・ヴェンダース これはほとんど記憶にない。クルマに乗って走っていたなってのを覚えている程度。半分以上寝ていた。つまんないんだもん。 「ゴアVSブッシュ」 監督:スパイク・リー さあ、目が覚めたぞ。うーむ。スパイク・リーらしい。テンポよくインタビューでドキュメンタリー。ブッシュの陰謀を暴くのだが。イラクがこうなってしまってからでは、なぜか空しい。 「夢幻百花」監督:チェン・カイコー ドラマがあって(といっても、これもよくあるテーマなんだけど)、いちばん楽しく、というか、興味深く見られた。上海辺りかな。開発の波にあって潰された街区。そこに住んでいた男が引っ越しを頼むと言ってきて、運送屋が行くと木が1本生えているだけ。男には、消えた過去の遺物が見えていて、運送屋にあれを運べこれを運べという。見えない物を運ぼうとする運送屋・・・。分かりやすくて、ちょっと共感できた。 もっとも、全体をみればたいした短編があったようにも思えない。いささか退屈な映画であった。 | ||||
ラブ・アクチュアリー | 6/11 | 新文芸坐 | 監督/リチャード・カーティス | 脚本/リチャード・カーティス |
いやー。素直に感動してしまったよ。恋愛感情から遠ざかっていて、心が寂しい私のツボにはまってしまった。 複数のエピソードがつづら折りに語られていくのだけれど、登場人物がそれぞれどこかでつながっているのがミソ。最初のうちは誰だ誰だか・・・と戸惑ったけれど、そのうち慣れてきた。とりわけ可愛い女の子といえば、黒人青年と結婚した娘ぐらいで、他はみな十人並みレベルっていうのも、よい設定だね。この手の形式の映画は昔からよくつくられてはいるけれど、見ていてとても気持ちがいいできあがりなのだ。恋愛がとても身近なものに思えてくる。愛といっても、失恋もあれば不倫もある、片思いや悲恋、そして、いささか危険な関係もあったりする。でも、それを悲劇に持ち込まず、うまーく処理しているから後味は決して悪くない。ラストにかけての盛り上げも巧みで、少年の恋している相手が黒人の女の子で、告白するために追いかけていくシーンに感動。いや、それだけじゃない。つづいてポルトガル娘(これがあんまり美しくないんだけど)に告白に行く作家のエピソードが畳みかけられて、感動は頂点に達する。ううむ。泣かせてくれるじゃないか。 とはいえ、話がうま過ぎってエピソードもある。アメリカに渡ったお調子者の件なんだけど、あいつ淫売宿にでも連れ込まれたかと思いきや、さにあらず。可愛い女の子を連れてイギリスに凱旋してくる。そりゃ話が出来すぎだろう。もうちょっと見たかったカップルもある。あのポルノ映画のリハーサルで知り合った2人の俳優だ。映画のなかで意外なほど清潔な印象を残す2人。それが、Hなシーンのスタンドイン同士なんだから、面白い。 「シービスケット」が終わった後、もう一度、最初の40分ほどを見直した。最初の結婚式のシーンには、やっぱり感動した。それから、なぜ作家が田舎に行ったのか、その理由(あれは、彼女が作家の弟と不倫してたのね)も分かった。最初見たときは、よく分からなかったのだ。 | ||||
シービスケット | 6/11 | 新文芸坐 | 監督/ゲイリー・ロス | 脚本/ゲイリー・ロス |
つまらなかった。大河ドラマの総編集モノを見ているような気分。時間の流れに沿ってエピソードが羅列されているだけで、人間の内面にふれるような表現が、ない(ベタな表現はたくさんあったけど)。上っ面をなでただけ。とくに、最初の頃のエピソードは不要物ばかり。後にひとつの場所に結集する人物の、それまでのエピソードなのだけれど、これが、本筋には大して関係のないものばかり。こんなもの、端折ったって問題はないだろう。まあ、もっと上手く処理されていたら、映画の厚みを増す役割を果たしたかも知れないけれど、この映画ではくだくだと時間を費やすのみだった。馬主のオヤジが昔、職人から自動車ディーラーに成り上がって、子供を事故でなくし、女房に去られ・・・なんてのの、どこに意味がある? もっと別の部分に力を注ぐべきだろう。たとえば、後妻になる女との関係なんか、ほとんど触れられぬまま。そりゃないだろ、である。騎手の方も、以下同じ。あんまりつまらないから、40分ぐらい経ってシービスケットを購入したはいいが蛇行走りしかしない・・・なんていうところへんから眠ってしまい(「ラブ・アクチャリー」が終わったのが12時30分過ぎで、インターバルにパンを食べたせいもあるのだがね)、気がついたら6連勝中だった。その後も平板な内容で、ドラマが丸でない。挙げ句に、大事な試合では騎手のトビー君が骨折してしまう。おいおい。それじゃドラマにならんだろ。競馬シーンでは、どんな風に撮ったのかな? と思わせる映像もあったが、だからといって救いになるわけではない。だからどーした的な映画だった。 | ||||
HERO? 天使に逢えば・・・ | 6/14 | テアトル池袋 | 監督/鶴見昂介 | 脚本/鶴見昂介 |
ビデオだけれど、色がとても悪い。ずうっと煤けた暗緑色に転んでいる。これが意図的だとしたら、色彩感覚を疑ってしまう。いったい、どういう意味があるのか!と。だって汚いだけなんだもん。 最初の頃のもたもたした展開と、生理的にすんなり受け入れられないカットバックがタルかった。・・・のだけど、途中から出てくるアキラというキャラの面白さと、たまに笑えるシーンがあったりするので、まあ、見てしまった。この映画は、面白くなるのを故意に演出が阻害しているような感じがある。もっとも、それが故意なのか、それとも単に演出が下手なのか、それは分からない。分からないけれど、脚本自体には妙な魅力があって、面白く撮ろうと思えばかなりユニークな映画になるんじゃないのかな、って思わせる要素が多分にあるのだ。たとえば、最初の時制の分断と再構築。後半の、試合でダウンしたはずが実はカウント9で起きあがって、同じ記憶をなぞるシーン。こういうところは、おおっ、って思うところだ。でも、映画は平板でのっぺりとしか撮られていない。もったいない、と思うのだけれど、こういう撮り方しかできないのならしょうがない。逆に、面白くて笑っちゃいそうなシーンもあったりする。中盤の小林稔侍の警官がでてくるところなんか、いや、笑えた。って、これは小林稔侍の力なのかい? というわけで、全体のトーンがいまひとつシャキッとしないダラダラ映画なのだけれど、ツイていない連鎖、実はそれを仕組んだアキラとエミリーの悪巧みと失敗という柱はしっかりしている(偶然もたっぷりあるけどね)。ううむ。惜しい、としかいいようがない。 主人公の母校が松本中央高校となっているのに、リングで紹介される出身地が神奈川県横浜(だったっけ?)ってのは、変じゃないか? アキラとエミリーが突然「悪魔と天使」を名乗るところでは、「ウェルカム!ヘヴン」を連想してしまったが、インスパイアされたところがあるんだろうか。ちょっと気にかかるところではある。 | ||||
ほたるの星 | 6/16 | 新宿武蔵野館3 | 監督/菅原浩志 | 脚本/菅原浩志 |
文部科学省選定だの文化庁支援なんて文字がでてきたので、こいつは・・・と思ったら、やっぱり内容は100年前の代物だった。熱血先生が「坊ちゃん」よろしく山口県の山間のひなびた小学校に赴任。そこで出会うのは、人のいい校長に意地悪な教頭、その腰巾着。熱血先生を応援する保健の先生・・・。クラスには引きこもりの少女がいて・・・。いやもう、できすぎというか手垢の付きすぎた人物設定だ。で、たまたま思いついてホタルの飼育を始めたら、子供たちは熱中するけれど、親は大反対。教頭グループも足を引っ張る。用務員は積極的に応援で、校長は影ながら応援・・・。話の展開も、手垢だらけ。で、艱難辛苦を乗り越えて、とりあえず飼育に成功してハッピーエンドなんだけど、実際は何も解決されていないんだよな。反対していた親たちはいつの間にか賛成派に回って、署名運動までしている。どーしてそうなったんだ? ホタルを放そうとした河に行政が護岸工事を実施しようとするが、それを署名運動で止めた・・・と思ったら、1年だけの延期措置じゃないか。ホタルが誕生して舞っている側から工事を初めて、来年はホタルの住めない河になっちゃうんだろ? 引きこもり少女だって、彼女の環境は何ら変わっていない。不気味な存在のようにしか見えないけれど、級友たちはどーいうわけか彼女に冷たくない。すべてが善意で解釈され、進んでいく。まったく都合のいい話である。しかしまあ、それはそれで演出が巧みであるということでもある。深入りしてはまずいところは上手くかわし、細かな帳尻も合わせず表面的な感動をそこそこでっち上げてしまう。文部科学省や文化庁などは、映画の底の浅さを十分に知りつつ、自分たちは環境問題に熱心なんだよ、という広報活動にちゃっかり利用してしまうのも当然だ。監督だって、そんなことは十分に承知で演出しているに違いない。その監督の菅原浩志は、公式ホームページを見たら「ぼくらの七日間戦争」の監督だとか。ああ、そうか。なるほど納得である。話の骨格が似ているのもむべなるかな。それと、初めて知ったのだが、菅原はUCLAで映画術を学んでいるのだな。画調が日本映画らしからぬメリハリのあるもので、カリッとした仕上がりなのはそのせいなのかも。 それにしても、自治体の工事に対して派反対運動する少年少女たちってのは、いいのか? 子供に政治活動をさせているとかなんとか、行政はいちゃもんつけなかったのかね。国土交通省と文部科学省は対立しているのか? 1年の延期って設定だから我慢してくれよ、なあ、環境のためじゃないか、ね。なんて説得したのかね。そけにしても、ラストのホタルの数は多すぎだろ。あんな数を飼育してなかったぞ。 | ||||
ラブドガン | 6/24 | テアトル新宿 | 監督/渡辺謙作 | 脚本/渡辺謙作 |
意欲は認めよう。しかし、思いつきのアイディアを詰め込みすぎただけでは、観客を納得させるのは難しい。本来は、銃にまつわるクロニクルなんだろうが、主役の銃にまつわる伝説が語られなさすぎ。永瀬の手に渡る前の経緯や、どういう歴史を刻んできたかを、もう少し語るべきだろう。それでこそ銃弾の色と、発射する人間の心根の話にもつながってくるはず。その、芯となるべき部分が曖昧だから、周辺の話もなんか説得力がない。 思わせぶりなシーンが多くある。冒頭の人気がない道路に突然軽トラが登場してくるシーン。新井浩文が2人画面に登場して岸部一徳を撃つシーン。宮崎あおいのマンションに、永瀬が3人登場するシーン。頭上から永瀬の手にハサミが落ちてくるシーン。それから、カメ。これは、最初は砂浜で永瀬と。次は、クルマがひきかける。そして最後は、宮崎あおいの両親が無理心中した森の中のクルマの残骸として登場する。さらに、キーワードとしてはブドウがある。永瀬が食べたがったブドウ。死んで後になりたいというブドウの木。でもって、宮崎と新井が乗るバイクのシーンがゴッホ風の油絵になる! エンドクレジットでは、生き残った人物たちが海岸線を歩いていく・・・てな調子だ。別に悪いとはいわない。むしろ、こっちの好奇心をくすぐる。けれど、じゃあ何が読みとれるかといったら、かなり怪しい。それに、いまどき"読み取られる"映画は流行らない。 主なストーリーも分かりにくい。殺し屋永瀬が、親の仇を討って、そのお陰で追われるハメに・・・という骨格自体が分かりにくい。だから、冒頭から30分ぐらいは、いらいらした。しかも、時制を意味もなく(意味はないだろ?)混乱させる。過去のシーンが無造作に今にインサートされたりして、分かりにくい。こういう、観客を疎外するような映画をつくるのなら、どっかに救いがなけりゃいけないはずだけれど、それがないので、退屈になってしまう。やっぱ、骨格が弱いってことかなあ。お遊びは、それからでも間に合うと思うぞ。 | ||||
ザ・ボディガード | 6/24 | シネマミラノ | 監督/マーティン・バーク | 脚本/ウィル・アルディス、スティーヴ・マクオール |
制作時(2002年)の年齢スタローン56歳、マデリーン・ストウ44歳。中高年向けのプログラムピクチャーだ。派手なアクションはまるでなし。設定も、ボディカードがガードする対象に惚れてしまうという、よくあるもので新鮮味はない。けど、そこそこ楽しめてしまうのは、コメディの要素が多いからかもしれない。中年スタローンがはにかんだりするのがまた、おかしい。で、マデリーン・ストウは映画のなかでは1962年生まれの40歳という設定なのだけれど、実年齢はそりより上。でも、30歳そこそこにしか見えない色っぽさと可愛さで、それも見ていて楽しくなる要素のひとつかも。 わかりづらいのは、マデリーン・ストウが狙われるようになった因縁で、マフィア同士の争いで誰が誰を狙ってどうなったのか、あっという間の説明しかなくて、わからん! ここのところが、ラストにつながる鍵にもなっているのだから、もうちょっと分かりやすくして欲しかった。あと、マデリーン・ストウを狙うマフィアの親分や幹部が、マデリーン・ストウの顔を知らない、っていうような場面があるのも「?」だった。アンソニー・クインがマデリーン・ストウの父親として出演。遺作になった。 | ||||
ロスト・イン・トランスレーション | 6/25 | 新宿武蔵野館3 | 監督/ソフィア・コッポラ | 脚本/ソフィア・コッポラ |
期待して見たのだけれど、満足度は50%ぐらいかな。 落ちぶれた映画スターにビル・マーレイ。売れっ子カメラマンの若妻にスカーレット・ヨハンソン。喪失感に彩られた2人の気怠さが、淀んだ空気感の中に展開されていく。その、妙に甘ったるく、それでいてビターな感じがよくでていると思う。問題は、日本という場所の選ばれ方にある。もちろん、フジヤマ芸者という古臭いものではない。では目新しいかというと、そんなことは決してない。ドイツ映画の「MON-ZEN 」や、広末涼子の「WASABI」なんかと同じようなレベルでとらえられている。フジヤマ、芸者に代わる定番が、ネオン、パチンコ、ゲーセン、しゃぶしゃぶ、寿司、カラオケになっただけじゃないか。しかも、京都で和服の新郎新婦が映し出されるというJR東海のCMみたいな場面まである。結局のところ、日本はキッチュな大道具としてしか登場しないのだ。クラブやヌードバーも含めて、芸能人としてのソフィア・コッポラが、誰かに紹介されて廻った新東京図鑑みたいな気がするぞ。 食い詰めた往年のスターが日本でCMという現実は昔よくあった。きっと、元売れない女優だった奥さんに振り回されて、出費も多いんだろう。気がつけば50歳をすぎて、心にぽっかりと空虚感というのは、サラリーマンにも当てはまるような設定だ。一方のスカーレットの方は、エール大学の哲学科を出たばっかりという知性的な女性。それが、どうしてあんな軽薄なカメラマンと結婚したのか。そっちの方が理解できないのだけれど、まあ、意欲をもてあまし気味。夫婦生活は早くも倦怠期に入ってしまっている。作家への道をあきらめて、音楽分野での可能性をまさぐろうかとしている。彼女の空虚感は年齢とは関係なくて、基本的には自分の問題だ。では、2人はその空虚感を埋め合うのかというと、そういうわけでもないのだよ。結婚しているという制約からなのか、互いに求め合うようなことがない。それが、不思議ではあるけれど、とってもいい関係のように見える。まるで父親と娘のようだ。前半は、そんな2人の遭遇と接近とを描いていて、興味深い。つまらなくなるのは、業界人パーティからカラオケに行くくだりあたりから。このあたりからドラマがなくなって、単なる情景描写になってしまう。だらだらとカラオケする姿なんか見せられても面白くも何ともない。もうちょっとドラマを加味するべきなんじゃないのかな。ラスト。帰国するビルが街中にスカーレットの後ろ姿を発見して追跡、抱擁して何かささやいてキスするのだけれど、あそこで何を言っているのか? それがとっても知りたい。 ビル・マーレイは、本当につまらなそうな表情をしている。アカデミー賞の発表のときもつまらなそうな顔をしていたけれど、あれは地なのかな。スカーレット・ヨハンソンは、不思議な魅力に満ちている。清純そうで、それでいて理解しづらいような、危うさが感じられる。「ゴーストワールド」にでていたとHPに書いてあったので、ええ? と思ってしまった。あっちでは間の抜けた女の子に見えたけれど、こっちでは知的な娘に見えるのだから。いや、だから役者は分からない。エンドロールが終わった後、日本人らしき女性が一瞬映るんだけど、あれはスタッフなのか? | ||||
25時 | 6/26 | ギンレイホール | 監督/スパイク・リー | 脚本/デイヴィッド・ベニオフ |
なんの予備知識もなく見た。監督はスパイク・リーと分かって、気持ちが重たくなった。社会派のメッセージ性の強い映画かも知れない・・・。冒頭から主人公の位置づけがよく分からず。チンピラの割に小ぎれいな家に住んでる。ヤクの売人? 引退した売人? 学校に行って旧友に「今夜は・・・」なんて話しかけるから、何か悪巧みでも企んでるのか? いったいどういう話になるのか見当がつかず少しイライラ。で、あらら麻薬で入所することになってしまう・・・。と思ったら3人の旧友の物語か。と思いきや、刑務所に入るのが怖い、ってな話になる。で、主人公の父親が息子を刑務所まで連れていく・・・というくだりになって、おお、あの小説の映画化かとハタと膝を打った。いつだったか「本の雑誌」の新刊紹介のページで北上次郎が、この映画の原作を紹介していたのだ。父親が刑務所に連れていくか、自殺するか、逃げるか。その選択肢のどれが結論か? なんて話をね。そのことをハタと思い出したのだった。 で、映画だが。冒頭は訳が分からず。途中で少し社会派的なシーン(9.11と移民への蔑視)がでてきて、気が重くなった。旧友3人の話は「ミスティック・リバー」を連想させる。そのまま明け方のシーンで終わるのかなと思っていたら、父親が主人公を刑務所に連れて行きながら妄想(これは主人公の妄想かな)する展開になってハタと気がついて、最終的に「要素が多すぎてまとまりきれず、散漫」という印象を受けた。 ドラマチックな展開になりそうだったのは旧友3人の話で、とくに教え子に気がある教師のエピソードは面白かったし、あのあとどうなっちゃうのか気になってしまうところだ。ディーラーの友達は、突っ込みが浅いので物足りない。主人公の彼女も物足りないし、主人公の父親すら影が薄い。 この映画、本来は、刑務所に入る前の1日を追うのが本来の主旨で、入所するか逃げるか自殺するか、その選択を迫られるってのが主旨のはず。ところが要素が多すぎてそうなりきれていないのが、弱い。 刑務所に入ること自体がそんなに不安かよ? という疑念もある。そりゃ刑務所は大変だろうよ。だけど、7年の刑期に対して自殺するとか逃げるとか、そういう選択肢を思い浮かべるものか? オカマ彫られることに、それほど恐怖心抱くか? いまひとつ説得力に乏しい。 それに、アメリカでは犯罪人をそのまま拘置せず、監視もつけず入所まで野放しにしておくというのが理解できなかった。その間に証拠を隠滅したり、本来の黒幕のところに会いに行ったり、逃亡という選択を考えたり、いろいろしちゃうじゃないか? 説得力がないよな。たとえ事実だとしてもね。 興味深かった点が2つある。友人ディーラーの住むマンションが、9.11の現場の真横という設定になっていることだ。最初は単なる工事現場になんで「ジーザス・・・」なんて言っているのか分からなかったけれど、次第に分かってきた。分かったけれど、それで何が言いたいの? という気分になってしまった。それから、主人公が、自分の不幸を棚に上げ、さまざまな移民に悪態をつく妄想シーン。ここではプエルトリコやアフリカ系アメリカ人や韓国人やインド人なんかの欠点をあげつらって、なんでアイルランド系のオレが? と嘆く。けど、アイルランドだって移民は移民じゃないか? と思うと、移民の間でのヒエラルキーみたいのが感じられてしまった。でまあ、テイストとしては悪くないのだけれど、いまひとつ突っ込みが弱いという印象を受けてしまった。 HPを見たら、原作者が脚本家でもあるらしい。ううむ。すると、原作のあれやこれやを入れ込みたい、という気持ちが、こういう内容盛りだくさんにしてしまったのかも。もっと、主人公の、刑務所へ入ることへのいいしれぬ不安のようなものに焦点を当てても、よかったのかもね。 | ||||
ハリー・ポッターとアズカバンの囚人 | 6/28 | 上野東急 | 監督/アルフォンソ・キュアロン | 脚本/スティーヴ・クローヴス |
日本語吹き替え版を見たが、分かりにくくてつまんなかった。分かりにくいというのは、この映画の鍵ともなるアズカバンの囚人シリウス・ブラックと、実は本当の密告者にしてネズミに化けていた何とかいう男とハリーの両親の関係だな。ハリーが経緯を盗み聞きするのだけれど、あれあれあれなんのこっちゃ、と戸惑っているうちに終わってしまった。そもそも、かつてハリーの両親がなぜ殺されてしまった(?)のか、そのことも説明されていない。前作で説明されていたんだっけ? だとしても覚えちゃいねえよ。そのうえ、ブラックと新任教師の関係もいまひとつ明瞭ではない。ブラックが犬に化身し、新任教師が狼男だっていうのも、なんでだ! ってな感じで、納得できる説明というか、スジが通ってないのだ。これじゃフラストレーションがたまるだけ。 なんだか、だらだらとムダなCGを見せられているという気にもなった。それに、エピソードがみんなとってつけたみたいで、つながりが薄い。クライマックスはハリーとハーマイオニーだけになっちゃって、ロンの出番が少ないし。学校のライバル金髪少年とのいざこざも、付け足しのよう。途中で眠くなっちゃったよ。 だいぶ生長してあどけなさが消えてしまったハリー・ポッターやハーマイオニー。まあ、これが許せる限界かな。これ以上生長すると、もう青少年だよなあ。 公開3日目の月曜日の1回目。日本語吹き替え版だ。どうせ空いているだろうと思っていたら、とんでもない。上映5分ぐらい前に入ったら、ほぼ満席。半分以上が母子連れだった。明らかに小学生という子供もいたけれど、今日は学校は休みなのか? | ||||
白いカラス | 6/29 | 新宿武蔵野館1 | 監督/ロバート・ベントン | 脚本/ニコラス・メイヤー |
黒人問題という重いテーマを扱っているのだけれど、いまひとつ焦点が絞り切れていない半端な作品だ。構成がぎくしゃくしているし、主人公(ホプキンス)をめぐる周辺の人々の存在が、本筋とどう関係あるのか見えてこない。ここまで切れ味が鈍いと、本来のテーマがかすれてしまうと思うのだが・・・。 冒頭の事故→ナレーション→失言から大学を辞職→ナレーション→作家(ゲイリー・シニーズ)の家・・・(中略)・・・事故後の葬儀→主人公の妹との会話→キッドマンの亭主との会話、という流れでできている。つまり、この映画は本来は作家の目を通して描かれているはずなのだ。ところが、その作家の存在が薄いというか、立場が曖昧なのだ。もっと作家が前に出ないと、作家の視点から見ているお話、という構成がつたわってこないだろう。 で、ホプキンスが白い黒人である(タイトルもここからきているわけだが)ことが分かるのは、だいぶ時間が経ってから。で、それが分かってからは、幾分興味を惹かれたけれど、これが長つづきしない。つまり、本筋の「ホプキンスは黒人である」というテーマが掘り下げられていかないのだ。その代わり、キッドマンの辛い想い出やら、キッドマンにつきまとう夫なんてのがムダに(としか思えない)描かれる。キッドマンの不幸は、ホプキンスの不幸とどう関係しているのだ? ともに何らかの罪を背負って生きている、ぐらいのアナロジーしかないだろ。なんでキッドマンの話がここまででしゃばってくるのか、どーも理解できない。それとも、キッドマンやその亭主の人生と、もっと重大な意味づけでもあるのか? そもそも、たまたま知り合ったその日に、36歳(だっけ?)の女が老人をベッドに引きずり込んでバイアグラ飲ませちまう、って展開にムリがあるしな。そんで、その関係が延々とつづくって、そんなのはフツーないだろ。ほんとうに、この映画ではキッドマンはとってつけたような付け足しの存在だな。だからもちろん、ベトナム帰りでPTSDになってる偏執狂の夫も、要らない。話を曖昧にするだけだ。むしろ、ホプキンス自身の苦悩、これまで隠し続けてきたこと、それで母親や家族を捨てたことにたいする(贖罪の)気持ちを描くべきだろう。それと、冒頭で死んでしまったホプキンスの女房だけど、あれが白人なら女房も騙しつづけたわけで、では、2人の間に子供はいたのかとか、そういうことが気にかかってしまう。 そうそう。途中でギッドマンがペットショップ(?)のカラスに会いに行くシーンがあったが、あれはどういう意味なんだろう。カラスはギッドマンのことを慕っている、なんてセリフもあったが。「白いカラス」は邦題で、原題は"The Human Stain"で、「汚点」てな意味だわな。あのカラスは、なんか意味があったのか? ううむ。いまいちガツンと来ない映画だったなあ。あの構成の悪さは、脚本のせいか、編集のせいか、監督のせいか。いったい何だろうねえ? ●1時45分の回だったけれど、平日というのにオバサンが殺到。10分ほど前に整理券で入場を開始したのだけれど、その時点ですでに立ち見がでる始末。係の人は「座布団をどうぞ」といっていたが、両サイドで床に座ってみている客もだいぶいた。あんな低い位置から画面が欠けずに見えるものか、人ごとながら心配だ。それにしても。婦人誌か何かの推奨作品にでもなっているのかね。黒人問題を扱った意欲作、とかなんとか。オバサン度が多いせいか、上映中あちこちでカサカサ音が発生した。隣の婆さんも、途中でカバンからパンか何かとりだしてかじり始めた。おいおい。「静かにして」と何度か言ったのだけど、平気の平左でカサカサもそもそパクパクをつづけていた。しかも、クレジットがでると席を蹴るようにして、っていうか、私の足を蹴飛ばすようにして出て行ったのであった。きっと、カルチャー度の高い文化婆さんなんだろうて。やれやれだな。 |