2004年8月

ぼくセザール10歳半1m39cm8/3新宿武蔵野館2監督/リシャール・ベリ脚本/エリック・アスス、リシャール・ベリ
自分が背が低かった頃のこと。つまり、小学生ぐらいの頃に、低いということをそんなに意識していたかな? 多分、意識していなかったぞ。下から上を仰ぎ見るようなことを悔しいとも思わなかったし、低い視線からの世界を特別意識したこともなかったように思う。もちろん、電車のつり革に手が届くとか届かないとか、そういうことで背伸びしたことは記憶しているけれど、子供だけの視線の低い世界というのを、ことさら意識したことはなかったということだ。この映画では、その、低い視線が特別に意識されている。主人公も背が低いことでデメリットがあると感じているし、悔しいとも思っている。でも、思うに、それは背の高い大人が「子供の視点に立って」ということを大人の思考でとらえたものなのではないかなと思う。つまりまあ、子供はそんなこと、意識してやしないよ、多分、ということだ。だから、一見して子供の立場を尊重しているように思えるけれど、それは結局のところフリだけ。でもま、そういう切り口を発見して応用したところが、ちょっとユニークだなっていうことだろうと思う。陽気な「スタンド・バイ・ミー」を撮るにしても、子供の立場を強調した方が、ウケるという読みは正解だったろう。ありえない視点だけれど、映画としては成功していると思う。
成長期の少年2人と少女1人が中心の映画だ。主人公は、これといって取り柄のないフツーの小太り少年。友達がいる。アルジェリア人っぽい母親との母子家庭。その2人に、ちょっと可愛い女の子が仲間に加わって、という日常描写が前半。ハーフの少年が父親を捜しにイギリスにでかけるというのが後半の物語。前半では背が低いことに象徴される子供の不利益について、いろいろ主人公が語っていく過程だ。10歳ぐらいの少年少女が、あんなに家庭や社会について考えているか、疑問はあるけれど、まあ、映画だ。考えているということにしておこう。その方が、映画は楽しいからね。こうやってリアリティらしさを創り上げていった心理劇的な側面をもつ前半はさておき、後半の活劇部分になるとまるでマンガになってしまう。子供3人でイギリスにたどりつき、電話帳から住所を調べて1日の家に10数件も訪問し・・・って、そんなのムリだろ。挙げ句は公園でアブナイオヤジに襲われそうになって、気のいいオバサンに救われて・・・と、父親を発見する過程はご都合主義だらけ。イギリスの父親はフランスに息子がいるのを知っていたのか? とか。突っ込みどころは多い。前半の「ほら、真面目に子供の視点を考えていますよ」っていういかにもな態度と、後半の「おもしろけりゃ、辻褄なんていいじゃん」という態度が、ちょっと納得できなかったな。最期もまた彼女は主人公に恋してしまうし、イギリスの父親は混血の少年をしょっちゅう訪ねてくるようになるし、怪しいオバサンはフランスに住み着いてしまうしと、強引なるハッピーエンド。それって都合よすぎないか? まあ、所詮映画だし、いい加減なフランス映画だし。観客が心地よくなれれば、それでいいのかも知れないけどね。
音楽とか話の展開が、なんか「アメリ」に似ているんだよなあ。なんだろう、このテイストの酷似は。字幕に関して注文。最初の葬儀のシーンで、神父がさす傘がピンクで、なにやら文字が書かれていたが、あれはなんだ? 混血少年の家のあちこちに貼り紙がしてあったが、あれはなんだ? 主人公が乗ったクルマに貼り紙があったが、何が書いてあったんだ? とかね。字幕で説明しりゃいいのにしていない。あれは不親切。「分からなくてもいいんだよ」ってなことかな。
ドリーマーズ8/12新宿武蔵野館3監督/ベルナルド・ベルトリッチ脚本/ギルバート・アデア
身体は眠かったが何とか眠らずに見通した。といっても、つまらなかつたことに変わりがない。ベルトリッチって、こんなにつまらない映画しかつくらなかったっけ。で、何がいいたいの? と訊きたいぐらいのヘボ映画。
1960年代のパリ。シネマテークに通う青年たち。双子の兄妹(?)と仲良くなったアメリカ青年が、奇妙な3人暮らしをする様子を追っている。追っているだけで、なーんもドラマが起きない。映画にのめり込んでいれば政治活動にも積極的になりそうなのに、そうならない異常さ。異常な感覚は、双子の兄妹にも通じている。あの2人は両性具有の象徴なのか。兄妹相姦? 姦淫できない代わりにアメリカ青年を連れ込んで見物したのか? 処女出血だとか生理の出血だとか露悪趣味だろ。だいいち全然美しくない。下品だと思う。シネマテークの門で登場したときの彼女は魅力的だったけど、あとはずっと裸ばかりで、可愛らしさもないし、蠱惑も感じられない。だから何なんだ、って人物たちだな。せいぜい美術館を走り抜けたときぐらいかな、イキイキとしていたのは。
ハリウッド映画を下敷きに話をしたりするのは、ちょっと興味深い。フランス人たちにとっても、映画の教養はハリウッドだったということか。しかし、キートンとチャップリン、クラプトンとジミ・ヘンで対立するフランス人とアメリカ人では、アメリカの勝ちだろ。どうみたって。フランス人の感じていた価値観が、日本人にも通じているような気がしたのは、面白かったけど。
まあ、ベルトリッチの青年時代の体験なんかが含まれていると思うのだけれど、内外の政治情勢にも気を配らず、退廃的にだらだら過ごしているバカ青年たちを見ても、なーんの共感も湧かない。あほか、と思うだけだ。
陰毛を映したりぼかしたり。根拠がわからん。半立ちのペニスは、うすらぼんやり見えるようなぼかし方だった。へんなの。字幕が上から下へ落ちてきた。あの違和感は意図的なのだろうか。過去へ戻ろうとして、戻りきれない中途半端さを感じてしまった。それから、ええと、途中退場していった客が3組あったぞ。
箪笥8/13シネマミラノ監督/キム・ジウン脚本/キム・ジウン
なるほど。ラストまで見てやっと分かったよ。「シックス・センス」「アザーズ」、去年見た「アイデンティティー」なんてところを連想した。要するに、分裂症少女の妄想だ。少女が感じた現実を、実際の時間の流れに埋め込んでいく。そこに違和感をだすことで、ホラー仕立てにしている。実際は、ラストでもうひとつ裏の事実が分かるわけだけれど、「あっ」と驚くほどではなく、「なるほどね」という程度。
ホラーとしてデキはよくない。次にどこから何が現れそうか、分かっちゃうんだもん。それでも音楽でちょっと脅かしてくれる。しかし、完成度というと、どうだろう。もういちど見返して、あのシーンは妄想で、このシーンは現実で、と分けることができるだろうか? おそらくできないと思う。そこまで計算してつくられてはいない。ここのつじつまを合わせていたらさすがなのだが。それにしても、最初から3/4はつまらない。もっと面白くできなかったのか? 引っ張る力がなさすぎだ。4人の関係も、もっとさっさと伝えてくれないと、イライラする。というわけで、仕掛けはそこそこ面白いものの、かなり時間がたってからでないと面白くならないのが最大の難点。妄想=妖怪(?)の描き方も、一考を要す。
ドット・ジ・アイ8/15シネセゾン渋谷監督/マシュー・パークヒル脚本/マシュー・パークヒル
久しぶりに眠くならず「次はどうなるのだ?」って少し考えることができる映画とでくわした。とはいっても、案外と先が読めるというか、裏の仕掛けまで見えてしまったので、終わってみれば物足りない部分がある。それでもそこそこ面白く見られたのは、ヒロインであるカルメン役のキャラクターのせいかもしれない。ちょっと小悪魔的で可愛いのだよ。
設定が読めてしまったのは、誰かが撮ったであろうビデオ映像が随所にインサートされていたこと。誰かが隠し撮りしているというのは明かで、誰が撮っているのかというと対象となるのは1人しかしない。すると、こいつが何が企んでいるなって、分かっちゃうのだ。だから、すべてが分かっても意外性がない。この辺りにもうひと工夫欲しいところだ。
映画としての深みや神話性はなく、全体にあっさりしすぎかな。ラストのひねり、のようなものも、キレはいまひとつ。脚本家としては、これはイケル、と思っているのかも知れないけど予想範囲内なので驚けなかった。映画のつくりが、もっとどろっとしたテイストなら、この程度でも効果はあったかも知れないけど、いかんせん表現が軽いからなあ。
ジェニファー・ロペスを思わせるカルメン役のナタリア・ヴェルベケが、不思議な魅力。最初のパーティで、黒のスーツにストレートヘア、口ひげを付けての登場はセクシー。スペイン語訛りの英語も可愛い。相手役のガエル・ガルシア・ベルナルも、軽い兄ちゃん役をいきいきとこなしている。カルメンの同棲相手は、思わせぶりすぎてすぐバレるよなあ。
上映前に「エンドクレジットが終わっても映像がつづく」旨のアナウンスがあった。どんなどんでん返しがあるのかと思いきや、クレジットの途中に、映画の売上げが凄いとムショに入った2人が喜ぶ姿がうつるだけ。なんだよ。ちょっと拍子抜けだ。
カーサ・エスペランサ 〜赤ちゃんたちの家〜8/16テアトルタイムズスクエア監督/ジョン・セイルズ脚本/ジョン・セイルズ
経済の破綻した南米の某国(アルゼンチンか?)。最大の輸出産業は、孤児の養子縁組だぜ、と国民も自嘲気味に語っている。相変わらず、ホテルにはアメリカから養子縁組のためにやってきた女性たちが、おおぜい詰めている。役所の認可が下りたら、さっそく乳児をアメリカに連れていこう、という算段だ。まるで商品のように扱われる南米の乳児。輸出製品を生産するため、この国では少年少女が避妊もせずにやりまくっている・・・ってことはないかも知れないが、そんな気配も感じられる国家状態だ。
そんな様子を、映画はとくに批判を込めるわけでもなく、理想を語ることもなく、淡々と描いている。問題は、国家にあるんじゃない、アメリカの個々の家庭にあるんだ、ってな具合に。アメリカに家庭は存在するけれど、家族がいない。人は結婚しても家族が増えず、各々勝手なことばかりしている、とでもいうように。一方、南米のこの国では、家族=子供はむやみに増えるけれど、一緒に住むことができない。家族はいても、家庭が存在しない。そんないびつな関係を、まるで人買いに来ているみたいなアメリカ人女性たちの姿を通して描こうとしている。
登場するのは6人の女性たち。それぞれに問題を抱えながら、養子によって明るい未来を得ようと願っている女性たちだ。その期待を背負わされるのは、あどけない乳児たち。その乳児を生産した某国の女性たちは、アメリカ人たちが宿泊しているホテルでメイドをしていたりする。こうした因果も、何気なく、それていて巧妙に埋め込まれている。他に、妊娠がばれて医者に母親とやってきた15歳の娘や、30にもなってロクに仕事もできない息子にうんざりしているホテルの女主人、市街で逞しく活きる私生児たち、妻子を捨ててアメリカ移住を考える中年男などのエピソードも挿入されて、ストーリーに厚みを増している。言葉を理解し合えないアメリカ人と、某国メイドがそれぞれの事情を語り合うシーンは、見せる。
アメリカ女性たちには実力派の中堅どころをそろえていて、スキがない。個人的には、個々の女性について、もうちょっとだけ掘り下げた描き方をしてもらえると、より共感できたのではないかという気がしている。
私生児を養子縁組するシステムがあって、そこに申し込んでいる・・・という状況が分かるまで、ちょっと時間を要した。こちらは予告も見ていないので(見ない方がいいに決まっているが)、冒頭ではちょっと戸惑った。もう少し状況設定を説明する部分があってもいいのではないかと思う。しかも、前列に映画がはじまっても小声でしゃべるオバンがいたので気が散ってしまったということもある。だから、導入部分のイメージか散漫にしか記憶されていない。くそ。食堂に入ってくる女性たちの会話も、ちょっと聞き漏らしているところがあるかも知れない。冒頭部分だけもう一度見たかったが、入れ替え制だから不可能。それが悔しい。
この映画、画質が悪い。この劇場のようにでかいスクリーンで見るには、辛すぎる。光のコントラストを無視したようなフラットな画面は、嫌いだ。自然光でテキトーに撮ったような画面は、どーみても安っぽい。役者だって美しく見えない。ま、美しく魅せる必要のない映画ではあるけれど、色褪せたような映像は、好みじゃない。
誰も知らない8/24上野東急2監督/是枝裕和脚本/是枝裕和
最初の頃は出演者の演技というか演出の巧みさに、ほほう、なんて思いながら見ていた。子供たちの生活の様子は、実に自然に、わざとらしくなく撮られている。けれど、いつになっても話が転がっていかず、同じような状態がだらだらとつづいていく。といっても季節が変わったり髪が伸びたり資金が枯渇したり周囲の状況は少しずつ変わっていっているのだけど。でも、おおっ、っていうような展開がない。だもんで、1時間を少し過ぎた辺りから飽きてきてしまった。子供たちに同情もできず、母親に対して憎しみを覚えることもなく、なんとなくラストシーンまでいってしまった。自然な描写という意味では完成度が高いのかも知れないが、対象をあまりにも淡々と描きすぎていないか? という疑問が残ってしまった。
実際にあった事件をもとにしているらしい。しかし、事件自体は決して現代的なものではない。子供を捨ててしまう親というのは、いつの時代にもいる。ところが母親(YOU)が、悪い人物に見えず、子供たちからも嫌われていないような描き方がされている。この母親は本来は鬼畜じゃないか。自分の快楽のために4人の子供を捨ててしまったんだぜ。だのに、悪い印象がない。こんな描かれ方でいいのか? 他にも腑に落ちないことがある。周囲の大人たちの反応だ。大家や隣家、コンビニの店員だの、子供たちの窮状を察することができそうな連中はたくさんいる。だのに、1年近くも子供たちだけの苦境に手をさしのべられていない。気がつけや! と、思う。フツーはこんなひどい状態になる前に発見され、保護されるんだろう。だけど、いろんな偶然が重なって、発見されなかったんだろう。コンビニの店員でもいい。巡回の警官に一言でもいえば、こんなことにならなかったかも知れない。その、齟齬が描かれない。
子供たちも、同じような年代の子供とふれあわないと、壊れてしまうのだろうか。でていったきり連絡のない母親。現金封筒に書かれている携帯の番号に電話しろや。いや、そのうち記載されている川崎の住所へ行くんだろ? と思っていたら、行かない。なんでだ? 行けよ、12、3歳になってんだろ? 中学でイジメに遭ってる少女が仲間に加わる(これはフィクションなのかな?)けれど、彼女の精神も壊れているのかね。幼い妹が死んでも子供たちは焦らず、淡々と事を運ぶ。このあたり、ちょいと不気味でもある。けっして、長男を演じる柳楽優弥が逞しいなんて思えない。どっか壊れているとしか受け取れない。いびつに発達してしまったのだろうか。そういう壊れ方が描かれない。すべてが、自然にそうなってしまったかのように描かれてしまっている。単に子供たちの困窮への道を描くだけでよかったのかな。子供たちが発見され、保護される過程。母親が連行され、ふてぶてしい態度をとる様子、呆然とする大人たち、諦めの境地に入り込んだ子供たち・・・。そういうところまで描くべきだったんじゃないだろうか。事実をそのまま放り投げるだけでいいとは、とても思えんぞ。そうした演出を行なってなお、尺は1時間40分ぐらいが適当だろう。2時間20分は長すぎる。
かとはいえ、誰の世話も受けず、公園で水を調達し、コンビニで期限切れオニギリをもらうしたたかさ。こういう姿を見ると、終戦直後の東京で生き抜いていった浮浪児たちもこんなだったんだろうなと思わせる。生きることに対しては、いびつであろうと何だろうと、本能がそうさせるんだろうな。それはさておき、この事件の実際の流れに関心をもってしまった。
柳楽優弥くんのカンヌ主演男優賞は、どうなんだろう。演技をしかけているようには思えたけれど、演技をしているとはとても思えなかった。だからって、ヘタであるというのではないけどね。YOUも含めた家族の団らんは、アドリブの要素が多いのだろうが、和気藹々。シナリオなんてなくても、それなりの様子は撮れてしまう。その、撮れてしまうところに、実は落とし穴があったのではないかと思うのだけれどね。やっぱ、鬼畜は鬼畜として描いてくれなくちゃなあ。それに、長男を美化しているようなところも、ひっかかる。
モナリザ・スマイル8/26新宿武蔵野館1監督/マイク・ニューウェル脚本/ローレンス・コナー&マーク・ローゼンタール
熱血教師キャサリン(ジュリア・ロバーツ)が古い因習に縛られた学校に赴任して改革しようとして、何人かの生徒たちに支持されたものの力尽きて退散する。これまで何度となくつくられてきた定番のような映画だ。その範疇を抜けていないどころか、肩を並べるまでに到達していない。見るべきところはほとんどなく、せいぜい女優たちを眺めるのが関の山の映画だった。その大きな理由は、主人公の意志がどこにも見えず、感じられないところにある。意志が見えないのだから、生徒たちもそれに反応することができない。すべてに筋が通らない、中途半端なできあがりでしかない。主人公の女教師は、そもそもどんな因果で伝統的な女子大にやってきたのか? そこが分からないと、話に入れない。
女教師が女学生たちに薫陶を与えたとしたら、せいぜい古典絵画に対する現代アートを提示したぐらい。考え方、生き方で、女学生の目から鱗が落ちるような状況にはなっていなかったぞ。それどころか女学生と平気で寝るような男性教師といい仲になったりして、とても誉められた行ないはしていない。その背景には、やっぱり女教師が何を目指しているかが分からない、ってことがあると思う。
「カーサ・エスペランサ 〜赤ちゃんたちの家〜」で、赤ちゃんを欲しがっていた女たちの2人、マギー・ギレンホールとマーシャ・ゲイ・ハーデンが出演していた。こっちではマギーは(ちょっと老けた)女学生、マーシャはオールドミスの教師という設定。伝統的視点からキャサリンを嫌う学生に「スパイダーマン」のキルスティン・ダンストが出ていたけれど、やっぱヒロインより憎まれ役の方が似合うと思うぞ。
時代背景が面白い。1950年代。まだ女性の社会進出という概念もなく、働く女といえば行かず後家かレズビアン(?)ぐらい。夫を支え、家庭を守るのが女の役割として位置づけられていた時代の話だ。しかし、映画は、単に「こんな時代もあった」という程度にしか物語ろうとはしない。結局、何も変わらなかったという終わり方では、見ている方も消化不良になるだけだ。
1950年代の音楽がソフトな感じで挿入されるのだけれど、これがなかなかよかった。全体の画調は渋く、落ち着いていて、これもよかった。
16歳の合衆国8/26シネマスクエアとうきゅう監督/マシュー・ライアン・ホーグ脚本/マシュー・ライアン・ホーグ
人間のよいところばかりを見れば「ラブ・アクチュアリー」のような映画ができる。反対に、人間の否定的な部分だけをとりあげれば、こんな映画ができる。そんな風に感じられた映画だ。
映画はいう。いまや家庭は崩壊し、人が人を裏切るのも当たり前。みな利害を前提に人と関係を持っている。この世のすべての人は罪を負っている。偽善者ばかりだ。そして、多くの人は人の痛みを感じることができなくなっている。自分が相手を傷つけていることすら、自覚していない。そして、それが現在のアメリカの姿なのだ、と。
人の痛みが分からないまま人を傷つけている人々。そのツケは、暴力として跳ね返ってくる。暴力は暴力の連鎖となる他ない。では、この閉塞状況を打破するには、何が必要なのか? そこまで映画は教えてくれない。
LOVERS8/30上野東急監督/チャン・イーモウ脚本/チャン・イーモウ、リー・フェン、ワン・ピン
中国皇帝に反乱軍・飛刀門が蜂起した。地方官僚の金城武のアンディ・ラウが遊郭を偵察に行くと、盲目の遊女チャン・ツィイーがいた。金城とアンディは、チャンを捕縛。アンディはチャンが飛刀門頭目の娘に違いないから、泳がせてもっと首領級を挙げようともちかける。で、金城が獄を破ってチャンを連れ出し逃避行・・・。この間に金城とチャンが惚れ合うという話。お話はたわいがなく、政治情勢の背景も語られない。「グリーン・ディスティニー」ほどの壮大さはなく、「HERO」同様に小手先感が先に立つ。
話がシンプルすぎて、途中で飽きてくるんだよね。で、最期の方でアンディとチャンは飛刀門の仲間で、さらに遊郭の遣り手までが飛刀門であることが明かされる。一瞬「おお」という気にさせるけれど、「それってありかよ」という気分にもなってしまう。だって、じゃあアンディがチャンを泳がせて、しかも、金城に見張りをさせたのには、どんな意味があるのだよ? 皇帝の役人をおびき寄せるためだった、というような説明があったけれど、それで納得できるか? できないぞ。だって、金城をおびき出すために仕掛けたとしたら、大がかりすぎるだろ。皇帝の刺客たちを呼ぶため? だったら、こんな仕掛けがなくても、もっと効率的で安全な方法があるはず。わざわざチャンを危険にさらし、金城と一緒に日夜行動させ、金城を根城に連れていっても効果がないだろ。・・・と考えると、では最初の遊郭での自作自演はなんだったんだ? と首をひねってしまうのである。
室内がほとんどなく、竹やぶや紅葉の山々が背景になる。きれいではあるけれど、変化に乏しくて飽きてくる。もうちょっと話に、状況に奥行きがもたせられなかったかねえ。
竹やぶで刺客に襲われるのは、なかなか面白かった。でも、あんなにたくさんの竹槍は、誰がつくって誰が投げているんだろうと、ちょいと考えてしまった。CGはヘタ。緑の中の道を俯瞰から見る場面など、マットペイントが露骨に分かる。最期の吹雪のシーンも、流れる雪がちゃちい。うーむ。で、これは単なる三角関係の物語なのかい?

 
 

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