ミラーを拭く男 | 9/3 | テアトル池袋 | 監督/梶田征則 | 脚本/梶田征則 |
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老境にさしかかった男(緒方拳)が、子供を轢きかけた。カーブミラーが、よく見えなかったせいだ。しかし、そのカーブミラーに追突したおかげで子供を轢かずに済んだ。そんなことから、突如、日本中のカーブミラーを磨こうと決意した。この設定が、ユニーク。だけど、それだけでドラマが2時間ももつはずがなく、一体どんなエピソードが挿入されているのだろうと興味深く見た。ところが、大して横道にそれていかないのだ、これが。ひとつは、轢きかけた子供の親が示談金をつりあげようと脅しをかけてくる話。でもこれは、来訪者をまったく画面に出さず、緒方が相手と対峙しないという手法で押し通す。そうしながら、妻や子供たちの家庭内の反応を表現してしまう手法は素晴らしい。次に挿入されるのは、東北の某村での出来事。鏡がご神体という村で、カーブミラーに供え物がしてある。ここである家にやっかいになった緒方が役場にミラーをふやせと進言し、事故が起きないとムリとつっぱねられる。その結果、緒方が当たり屋をしようということになるのだけれど、この挿話は全体の流れからするとひどく不自然。そもそも緒方にミラーふやそうという意志はなかったはずだと思うしね。もうちょっと別の切り口で描けなかったかなあ。3つめは、テレビ取材と出たがりや(津川)の話だ。ミラーを拭きはじめた直後から取材がつくようになったのだけれど、放映を見た津川が協力を申し入れてくる。が、結局は自分が仕切ってミラーを拭くボランティア団体の長に収まっていくというもので、いるよなあこういう代理店みたいなやつ、と思わせる話だ。これは皮肉が効いていてよろしい。もっとも、緒方がテレビ取材に応じたという設定自体が、いささか「?」なのだけどね。最後、テレビ取材もいなくなって妻と二人でミラー拭く緒方には、開放感すら漂っていた。だから、テレビ取材も自分から応じたのではなく、無理強いされたというような設定があるとよかったかなあ。 というわけで、ドラマチックなエピソードがあるわけじゃない。むしろ、中盤には20分ぐらいミラーを拭くだけのシーンが延々とつづく。ところが、それが飽きないのだ。背の高いミラー、低いミラー、大きいもの、2つついているものと形も様々。設置場所もいろいろで、見ているだけで楽しくなってくる。 さらに、自分が子供を轢きかけた緒方が、ミラーを拭いているとき同じような状況でクルマに当てられるという枠組みも用意されている。だれしも加害者になったり被害者になりうるということが上手く処理されている。 驚くべきは、緒方のセリフがほとんどないことだ。「あ・・・」「うん」「実は・・・」「あ、いや・・・」ぐらいしか言わない。それでも緒方の意志は伝わり、映画としてちゃんと成立してしまっているのが、これまた素晴らしい。というわけで、鏡がご神体の村のエピソードを除けば完成度の高い脚本で、控えめな演出も功を奏していると思う。とくに、ボランティアでコトを行なえば足れりと思っている人々への痛切な皮肉がいい。つまりは、本人の納得なのだよ。で、ひとつ注文なのであるが、自転車で車道を走るときに右側通行の場面があったりするのは、これはよしてくれ。カーブミラーを語りながら、それでは間抜けすぎる。 | ||||
グッバイ、レーニン! | 9/6 | ギンレイホール | 監督/ウォルフガンク・ベッカー | 脚本/ウォルフガンク・ベッカー |
ベルリンの壁崩壊を東側から振り返った映画。こういう視点の映画は初めてだったので興味深かった。背景はそうなのだが、描かれているのは青年の「母親に対する愛情」だ。崩壊前に心臓病で意識不明となり、崩壊後に正気を取り戻す。その7ヵ月ぐらいの間の出来事を、母親は知らない。急に知ったらまた心臓発作が起きるからと、部屋や環境を崩壊前の東ドイツのままに保つ、というものだ。とくに、党幹部に近かった母親にとって、体制崩壊はとんでもない事実だからね。 もう生産されなくなった東ドイツ時代の食料を探す息子の姿が、微笑ましい。とくに。母親が好きだったピクルスの瓶がなかなか見つけられず、思わぬところで発見したときの喜びとか、もう母親のためというより人を騙す喜びに浸っているようだ。息子の仕事仲間が東ドイツ体制の放送をでっち上げてビデオに撮るのだけれど、これも騙すことを楽しんでいる。息子が本気で母親を騙そうとすること自体が、観客にはコメディに映ってくるのだ。しかし、考えてみればこういう騙し方は、より巨大な規模で人民を騙しつづけてきた旧体制のやりかたそのものといえる。社会主義は情報を遮断することで、人民を騙しつづけてきたのだ。 それにしても、体制が変わった途端、消費と欲望の方へ傾斜することの早いこと早いこと。というか、人間本来の欲望を遮断することの方が、無理なことだったんだよなと思えてくる。 母親がよろよろと町に出て行ってしまうシーンで、巨大なレーニン像がヘリに下げられてくるところがある。なんとなく「甘い生活」を連想してしまったが、関係ないのかな。よく分からん。 | ||||
ぼくは怖くない | 9/6 | ギンレイホール | 監督/ガブリエーレ・サルバトーレス | 脚本/ニコロ・アンマニーティ |
いやー、単なる少年たちのミニ冒険ドラマかなと思っていたら大間違い。穴の中で意外なものを発見し、さらにそれはとんでもない方向に転がっていく。この意外性を知らずに見た私は幸せだ。ストーリーを知ってしまっていたら、楽しみの大半は失われていたことだろう。というわけで、この映画はなんと村人が数人で子供を誘拐し、穴の中に子供を隠しておくというとんでもない話なのだった。これじゃ家族の愛情もへったくれもありはしない。要するに、犯罪者家族に生まれた、うぶな少年少女ってわけた。で、そういう設定は、かなり危なくていいと思う。 設定はいいのだけれど、突っ込みが弱い。少年たちは、世間や社会を知らないという設定になっているのだけれど、10歳にもなってそれはないだろうと思う。親の悪巧みぐらい気がつくだろう。それで内心葛藤が起こるならいざしらず、たんに誘拐された子供と心が通じ合って・・・というだけでは、汚れない子供を描くには弱すぎる。無垢な子供を描くならもう少し幼い設定にしなくては説得力がない。さらに、誘拐された子供と誘拐犯の子供との友情というにしては、聖なる感じがでていないと思う。「禁じられた遊び」なんかだと、こいつら知らないでまあ、と同情できるけど、この映画じゃちょっとムリだ。さらに、それを補うエピソードが足りない。もうちょいと子供同士の秘密とか、男児同士の同性愛的な世界に足を突っ込むとか、妖しさがないとなあ。 広大な麦畑はとても美しい。そこを駆ける少年も、そこそこ絵になっている。けれど、その絵に酔ってしまっているようなところが感じられた。それだけじゃつたわってこねえんだよ、おい。それにしても、アホな村のとんまな誘拐犯たちは一網打尽にされてしまったはずだけど、残された子供はどうなったんだろう、とそれだけが心配である。 驚いたのは、日本の蚊取り線香がどアップで映し出されたこと。おお、あれはイタリアにも輸出されている国際品なんだ。・・・だよな。それと、子供が、だるまさんが転んだ、をやっていたこと。おお、日本と同じ遊びがイタリアにあるのか。 | ||||
天国の青い蝶 | 9/7 | 新宿武蔵野館3 | 監督/レア・プール | 脚本/ピート・マコーマック |
NHKがジュニアを対象に制作したようなお話。内容は単純そのもの。脳腫瘍のできた少年が南米(?)かどっかへ青い蝶を採取に行き、もどってきたら腫瘍が消えていた、というもので、「がんばれば、君に不可能なんかない」というメッセージがベタで描かれている。あまりのシンプルさに眠くなり、現地に入ってしばらくしたあたりで暫くうとうとしてしまった。娯楽作品にすることはできただろう。悪い白人を紛れ込ませて対立を演出したり、ハラハラどきどきのアクションを入れたり、可愛い現地の娘とのロマンスを描き込んだり、手はある。でも、きっとあえてそういうことはしなかったんだろうと思う。まるで絵本のように悪意のない、教育映画のような映像だ。なんとなく結果が読めて、予定調和的に話が進むのだけれど、その分、爽快感や驚きといったものもそぎ落とされてしまっている。むしろ、泣けるかもと期待したのにまったく泣けなかったことが残念だ。 「青い鳥」からもらってきたような教訓が、わざとらしい。どういうことかというと、密林まで入り込み、必死で追い求めた青い蝶が、村にいた少女のそばにふらりとやってきて捕まってしまうからだ。幸せは追い求めるものじゃない。身近にあって、気がつかないものだ、とでもいうように。もうひとつ、命の大切さへの言及がある。せっかく捕獲した青い蝶を逃がしてしまうのだ。昆虫も殺さないというのは筋が通っていて理屈は分かりやすいけど、それでよかったのかな。それって、昆虫採集愛好者すべてを敵に回すってことじゃないか。いや、オレも見ていて「結局、捕獲のあと殺してピンで止めるんだろ?」と思っていたのだけれど、それにしてもきれいごとで終わってやしないかな。 少年が理想としていた世界的昆虫採集家。彼は昔、家族を捨てたことを告白するのだけれど、それにしたってありがちな設定で、とくにドラマチックじゃない。まあ、観客が子供という前提だからこんな単純な話になるのかも知れないけどね。というわけで、大人が見るにはちょいと辛かった。母親に、口が曲がったオバサン顔の俳優なんか使わず、昆虫採集家とロマンスに陥るぐらい色っぽい人にして欲しかった。いや、現地の娘の設定年齢をあと3歳ぐらい高くして、15、6歳の美少女をもってきてもよいのだが。 | ||||
華氏911 | 9/9 | 新宿武蔵野館1 | 監督/マイケル・ムーア | 脚本/マイケル・ムーア |
ブッシュ一族のオイル疑惑追求の辺りで眠くなり、はっ、と気づいたらイラク戦争の手前だった。5〜10分ぐらい寝たのかも。以後もそれほど引き込まれない。「ボウリング・フォー・コロンバイン」とえらい違いだ。大きな理由は、内容が知っていることばかりで新たな事実がないからかも。テレビや新聞、雑誌で報道済みの情報ばかりではないか(詳述はされているけど)。それに、「ボウリング・フォー・コロンバイン」に多用された、アポなし取材があまりなかった。もっと、取材相手をコケにしてくれなきゃなあ楽しめん。せいぜい兵隊勧誘の場面と、議員に「子供をイラクへ」と迫るところぐらいしか、本来のドキュメンタリーの面白さが発揮されていない。 大半が有りものビデオなどのつぎはぎだったことも面白さ半減の大きな理由だ。このつぎはぎが単調すぎる。すべて報道済みのもので情報の二次使用。それを編集しているだけじゃないか。それでブッシュをおちょくってるつもりかも知れないけど、新たな発見がないからつまらない。にもかかわらずしつこくやるってことは、ムーアの本気度が入りすぎってことだ。観客を説得しようと一所懸命なのが見えてくるから、ちょっとうっとうしい。しかも、平板で単調。これじゃ、楽しめない。対象からちょっと距離をおく(遊びの要素が入っていたり)ことで事実を際立たせていた「ボウリング・フォー・コロンバイン」と比べ、ムーアはのめり込みすぎているような気がする。メッセージがナマすぎて、街頭演説みたいだ。 で、そのつぎはぎという手法に対して「事実ではない」と横やりを入れている人がいるようだけど、いいんだよ。映画ってのはモンタージュで成り立ってるんだから。そもそもドキュメンタリーなんて事実ではなくて、演出者の色眼鏡がどこかで入り込むもの。結局のところ都合のいいシーンばかりを選び出すのは当然で、何からなにまで見せてしまったら主観がなくなってしまう。ドキュメンタリーには、演出者の視点が入り込んで当たり前のことだ。過去の発言であろうが、ブッシュが言っていることには変わりがない。大統領ともあろうものが、揚げ足をとられるような発言を繰り返している方が、悪い。 それにしても、ブッシュって貧相な顔をしているねえ。頭悪そうだし。頭が悪いといえば、アメリカ人ってのはここまで分かりやすく手取り足取り説明してやらないと、理解できない連中なのか、とも思った。ここまで明瞭なのに、いまだにブッシュを支援する人々が少なくないのだからね。世の中は、分からんことばかりだ。 | ||||
スウィングガールズ | 9/16 | テアトルダイヤ | 監督/矢口史靖 | 脚本/矢口史靖 |
相変わらず矢口史靖は下手だ。話の展開もギャグの間も分かっていない。でもって、この映画は「ウォーターボーイズ」の完全なる焼き直し。男子高校生が女子高校生に変わっただけの代物である。骨格は「ひょんなことから吹奏楽(シンクロ)をやるハメになった女子高生(男子高校生)。はじめは仲間がたくさんいたが、徐々に減っていく。残された数人が、いい加減な教師(竹中直人)の教えでいつのまにか、そこそこの技術を習得し、人々の前で披露する」というもの。そこにテキトーなエピソードとベタなギャグをまぶして一丁できあがり。きわめてたわいがない。しかも、ストーリー展開は強引、というより、極めていい加減なので、見ていて呆れてくるほど。だから、この映画の大半は、つまらない。ところが、2ヵ所だけ感動してしまうところがある。ひとつは、スーパーで演奏していたら、かつての仲間が集まってきて演奏に参加するシーンだ。ずっと演奏してなかった連中が参加して、できるわけないだろう、というような矛盾もなんのその。なんか、熱くなるのもがある。そして、ラストの演奏会。いつのまに、こんなに上手くなったんだ? どうやって練習したんだ? という疑問はさておいて、演奏を聴いているだけでワクワクする。この映画は、この2つのシーンのみ評価されるもので、映画としてはかなり程度の低いデキだ。だけと、わずかな演奏シーンが、その程度の低い部分を補ってしまうほどパワーがあるのだから、不思議なものだ。トロンボーンを担当する真面目そうな女の子と、ドラムのブスな女の子がよかった。けれど、もっといいのはギターの2人組だ。そんなに目立っていないけれど、最初からずっとでてくるので印章が強い。こういう役者の持ち味をだすような映画を撮って欲しいけれど、まあ、この監督にはムリだろう。 | ||||
CODE46 | 9/16 | シネセゾン渋谷 | 監督/マイケル・ウィンターボトム | 脚本/フランク・コットレル・ボイス |
内容が深いのかと思ったら、あまりにも浅いので肩すかし。ティム・ロビンスとサマンサ・モートンが最初に乳くり合う辺りで眠りに入り、気がついたら、ティム・ロビンスが外に逃げたサマンサ・モートンを追い求めて病院にきたところだった。 近未来ものに入るのかな。世界設定は不明確。地理的状況や人種配置などに変動がある世界だけれど、戦争後というような感じはしない。優秀な選民と、下等な人間が分けられてでもいるのだろうか。場所は、上海。なんと、トヨタのクルマが走っているよ。IDカードで人間が管理されていて、地理的な移動は制限されている様子。ティムは、そのIDカードをつくっている企業に呼ばれ、誰が変造IDカードを横流ししているか、調査に来たみたい。なんとティムは読心術の持ち主で、相手が自分のことをしゃべると、知りたいことが分かってしまうらしい。ティムは、変造カードをつくっているのがサマンサだと分かっているのに捕まえもせず、個人的に接触する。そうして、自分とサマンサがCODE46に抵触することを知る・・・。CODE46とは、自分の母親なら100%の適合、姉妹で50%だったかな。要するに、近親相姦だ。で、サマンサは、ティムの母親からつくられたクローンらしいことが分かるのだ。 書いていると、ドラマらしいものがあるにはあるが、見ていると単にダラダラしているだけでなーんも面白くない。なぜそうなるのか、動機も理由も明らかにされないから、ティムとサマンサのセックスにも共感できない。結局、ティムはサマンサの記憶を消され、女房と子供のところに戻るのだが(なんだよ、単なる不倫かよ、って話になる)、サマンサは記憶を消されないまま、外の世界に追い出される。って、だから何なんだ、つてな話だよなあ。思わせぶりなだけで、本当は中身がない映画だ。 ちょっと面白かったのは、画面が監視カメラの映像になったりすること。ティムとのセックスシーンでは。ティムの目線がカメラになった。つねに誰かに見られている、ということを臭わせているのかもね。 | ||||
テイキングライブス | 9/21 | 上野東急2 | 監督/D.J.カルーソー | 脚本/ジョン・ポーケンカンプ |
これは、犯人がミスキャストだろう。バレバレじゃん。途中から映画の楽しみはまったくなくなって、眠くなってしまった。ラストも、オソマツ。 冷静で優秀な(はずの)FBI捜査官にアンジェリーナ・ジョリー。疑わしい目撃者にイーサン・ホーク。この時点で、犯人は分かったも同然。これを裏切る意外な展開があるかと思いきや、なにもなかった。途中でキーファー・サザーランドが怪し(そうな)役柄ででてくるけれど、見るからに怪しくない登場の仕方をする。観客をバカにしてるのか。ラスト。犯人に逃げられたジョリー。犯人の子を妊娠して1人暮らししているところに、やつがやってくる・・・。で、犯人がジョリーの腹を刺した瞬間に、「あ、これは罠だ」と分かってしまう。まあ、深読みの人はもっと早く分かったかも知れないけどね。 オープニングから20〜30分ぐらいまではそこそこよかったんだよ。天井裏から死体がでてくる辺りまでは。でも、すでにもう犯人はヤツだろ、とこちらは半ば思っている。さあ、どんな展開になるんだ、と思っていると、もうスリルもサスペンスもなにもなくなってしまう。あ、最後のスリルは、実家の隠し部屋のベッドがあったか。しかし、なんであんなところに潜んでいたんだよ。あれは、ヤツがジョリーの動きを監視していて、それで先回りしたってことかい? なめられたもんだ、FBI捜査官殿も。で、中盤はだら〜ん。ミエミエの展開をだらだらつづける。とてみつまらない。ジョリーとホークの濡れ場もあって、ジョリーは乳首まで見せる奮闘をしているのだけれど、この映画にはムダな努力だったね。やっぱり、原因は犯人のミスキャスト、および、話の単純さに起因するのではなかろうか。 犯行の動機など、掘り下げ方がいまいち。他人の人生をヤドカリのようにのっとっていく、って、そんなことムリだろうが。友人知己がたくさんいる人物になりきるなんて、どうやってやるんだよ。むしろ、弟を殺害したかも知れない可能性への追及だとか、他の犯行のもっと執拗な描写とか、犯人の倒錯した異常性だとか、そういうのを描写すればよかったのにね。または、ラスト一瞬思ったのだけれど、犯人の子供を宿してしまった女の苦悩にスポットを当てるとか・・・なんて思っていたら、それは単なる罠だったんだけどね。 画面は、ノワールで、しっとりしていてよかった。ところどころに赤や青の照明がケバく入る。まるで工藤栄一みたいだった。ジョリーの愁いを帯びた表情がたっぷり映されているので、彼女のファンはいいかも知れない。 | ||||
ビッグ・フィッシュ | 9/24 | 飯田橋ギンレイ | 監督/ティム・バートン | 脚本/ジョン・オーガスト |
ほら吹きオヤジにうんざりしていた息子が、オヤジの今わの際に、その生涯を見直すことになるという話。ところが、色んなところで違和感を感じすぎてしまって、作者が狙ったであろうお伽噺的世界に入り込めない。その大きな理由のひとつは、オヤジのほら話があまりにもついこの間のことだっていうことだ。仮にオヤジが60歳で息子が30歳だとして、息子はそのほら話のいくつかに実際接しているはずじゃないか。だったら、まったくのほらか、真実が混じっていたかぐらい感じ取れたはずだ。なのに息子は「オヤジの話は全部ほら」と全否定してしまう。オヤジを責めるより、息子を非難するより、設定にムリがある、といわざるを得ない。息子以外にもオヤジの生活を見聞きしていた人はたくさんいるはず。母もそうだし、親戚知人有象無象結婚式にはいたじゃないか。彼らは、オヤジの話がまったくのほらか、事実が混じっていたか、知っているだろう。てな風に思うと、オヤジはあまりエキセントリックに見えなくなっちゃうんだよな。実際、登場するオヤジはごくフツーで、とんでもない人生を生きたようにはさらさら見えない。その辺りの仕掛けに、もうちょっと神経を使って欲しかった。 回想シーン自体がエキセントリックに見えないってのも困ったもの。多少映像をいじってはいるけれど、ファンタジーさが感じられないのだ。この辺りは、ごくフツーに撮っていてもファンタジーになってしまうフェリーニとかクストリッツァとかと決定的に違うところ。たとえばラスト、オヤジの葬儀に、ほら話に登場してきたあの人この人がいささかスケールダウンして登場するけれど、あそこなんか本来なら痺れるぐらいの感動が訪れてもいいはずなんだけど、感動はそこそこだった。きっと、ティム・バートンは、体質的にこういうファンタジーは合っていないんじゃないかと思うぞ。 それにしても、ジェシカ・ラングは、もう婆さんの役を演ずるほどの年齢になってしまったのかと感慨深い。疲労のせいか、回想シーンで森の中の村に迷い込んだ辺りから眠くなって、気がついたら村を出るところだった。 | ||||
インファナル・アフェア 無限序曲 | 9/30 | 新宿東急 | 監督/アンドリュー・ラウ、アラン・マック | 脚本/アラン・マック、フェリックス・チョン |
なにが何だかさっぱり分からん、っていうのが正直な感想だ。冒頭から、いろんな人物のいろんなシーンが積み重ねられていくが、どんな環境にいるどういう立場の人間が、何をしているのかが分からない。たとえば、冒頭で殺されるジジイが香港マフィアの大ボスだなんて、見ていただけでは分かるわけがない。←これは、Webサイトで知ったんだけどね。後釜を狙う2人のボスも、日本の常識からすると、チンピラか若衆にしか見えない。さらに、若いやつらになると顔が似ているから輪をかけて分からない。分からないものを見せつけられるのは辛い。というわけで、15分ぐらい経った頃から眠くなり、気がついたら映画がはじまって1時間ぐらい経っていた。40分ぐらい寝ていた勘定になる。 前作は見ている。もっとも細かな部分は忘れている。マフィアと警察とに、それぞれスパイが潜入しているという話だった。で、引きつづき見ていくうちに、若い2人がそれに当たるのであろうことは分かった。あとは、丸顔のサムと、ビジネスマンみたいなハウというのが対立するマフィアで。あとはウォン警部は見覚えがある。大まかにいうと、2人のマフィアと警察との三つどもえで話が進む。で、その付帯物がごちゃごちゃ出てくるのだけれど、何がどうなっているのか、前作の内容や登場人物を忘れているのと40分ほど寝ていたせいで、分からない。げげ。しかも、死んだ、殺されたと思った人物が平気で登場してきたり。なんか、演出がいい加減。撃たれて回復したなら、それなりの説明シーンが要るだろ。殺戮シーンも、ちゃんと映す場合もあるけれど、ほのめかしだけで終わることも多かった。こういうほのめかしには裏があって、実は死んでいなかったりするのだ。「仁義なき戦い」みたいな群衆シーンもあるけれど、ほのめかしばっかりじゃ迫力はない。まあ、大胆な省略でリズムをだす、だしたつもりなのかも知れないが、効果がでているとは思えない。このシリーズの特別なファン、おたくでもない限り、分かりゃしないと思うがね。 |