2004年10月

ヴィレッジ10/1渋東シネタワー3監督/M・ナイト・シャマラン脚本/M・ナイト・シャマラン
シャマランの映画だ。「シックス・センス」で驚き、「アンブレイカブル」でなるほど。「サイン」で、なんだよ! という経過をたどったのだけれど、今度はどんなどんでんがえし=仕掛けがあるのかなと、そればかり考えてみてしまう。まず最初に思ったのは、森の向こうには現在の大都会があるんじゃないの? で、これが素直に当たってしまった。他には、ラスト近くになってGAME OVERという文字がでてきて、このストーリーがすべてゲームの中の物語だった、というオチ。ま、これは顰蹙ものだな。それから、「アイデンティティ」のように、誰かの頭の中で起こっている出来事かも、なんて考えた。結果的に、わりと素直なオチで、心の中では「やっぱりな」という感想。もっとも、こうなった原因については思い至らなかったけどね。
要するに、現代社会で何らかの事故・犯罪に遭遇した人々がまとまり、いずこかの自然公園の中に住み着いた、と。その場所はどこだか分からない。米国内のどっかなのか。ひょっとしたらアフリカかも知れない。どーも、あの土地は、彼らが保証金なんかを出し合って購入し、外部の誰かに委託管理しているのだろう。上空を飛行機も飛ばないようにしているようだ。そうやって30年ぐらい暮らしてきたんだね。
あの、アーミッシュのような服装と生活スタイル。あれが、現代社会から隔離されているという印象を与えてくれたな。もっと中世ぽかったら、予想は外れたかも知れない。まあいい。それにしても、犯罪を逃れた彼らが、その遺伝子の中に知恵遅れを孕み、さらに、彼の犯罪まで引き起こしてしまったというメッセージは、これは、社会的に容認されるものなのだろうか。日本でつくられたら、どっかの団体が非難を浴びせてきそうな気がするぞ。
引っかかるのは、主人公の盲目の娘の姉のこと。彼女は、シャツを気にする青年と結婚したはずなのに、結婚式の後も妹とともに住んでいたりするのだが、あれはなんなのだ? それと、村の青年たちや長老たち。彼らの個人が引き立つような描き方を、もう少ししてもらえたら、物語に厚みがでたに違いないと思う。もったいない。
オーバードライヴ10/5テアトル新宿監督/筒井武文脚本/EN
タイトルに反して、ドライブしていない映画だった。端的にいってムダが多すぎる。そしてメリハリがない。キャラも弱い。モチーフはいいと思うが、料理の仕方に難がある、ってとこかな。脚本は「ワイルド・フラワーズ」と同じEN。東京テアトルの管理職の人だとか読んだことがあるけれど、忘れた。「ワイルド・フラワーズ」も饒舌だったけれど、処理がそこそこだったせいで、うまくまとまっていたが、こっちはウームだな。
アニメが登場したり、とつぜん字幕付きのサイレント映画風になったり、狂言まわしの歌姫が登場したりと、遊びが多い。効果的ならいいんだけど、どーもそうは思えない。思いつきでやっているみたいで、一貫しているわけでもない。師匠ミッキー・カーチスの息子、小倉一郎の存在など、「TRICK」の真似じゃないか。なんか、じゃまくさい。こんなものやめて、三味線にもっと焦点を当てた方がよかった。なぜなら、三味線の音、そのパワーが、よく表現されていないからだ。もっとも迫力が出かけていたのが、主人公・弦と、異形の白塗り・宗之助が森の中で遭遇したシーンぐらい。ああいうテンション、表現を、もっと追及して欲しかった。それに、弦が三味線に習熟していく過程がほとんど描かれていないのもつまらない。「ベストキッズ」でも「ウォーターボーイズ」でも、素人(とは呼べないかも知れないけどね、この映画の場合)が技術を習得していく過程、上手くなっていく様子を見るのは、観客の心を捉えるものだ。なのに、いつどうやって習ったのか分からず、コンテストで並み居る強豪を打ち破ってしまう。ちょっと納得がいかないよな。
それと、ヒロイン(師匠の孫)が、あんまり可愛くない。他に出てくる鈴木蘭々や歌姫も、いまひとつ。これも、魅力を半減させていると思う。要らないところを捨て去って、密度を濃くすればよかったのにね。2時間を超えるような内容でもないと思うぞ。
珈琲時光10/5テアトルタイムズスクエア監督/侯孝賢(ホウ・シャオシェン)脚本/侯孝賢、朱天文
ある夏の2週間ほどをスケッチしただけ、の映画。ストーリーはとくになし。ドラマもほとんどなし。だからといって環境映画やプロモーションビデオみたいなのもかというと、さにあらず。ちゃんと人間が掘り下げられている。しかも、東京の乗物や街がわんさとでてくる。もちろん、よれみよがしにではなく、ごく自然に、映画の流れに沿って登場する。それがまた絵になっていて、嬉しい。
高崎の実家を離れ、1人暮らしをしているライターの陽子(一青窈)。20代前半で台湾人の血を引いているらしく、現在はかつて活躍した台湾出身の作詞家、作曲家(?)の日本での足跡を追い求めている。資料を提供してくれるのは、神田の古書店主(浅野忠信)。陽子が墓参に戻ったり、実家の両親が上京してきたりしつつ、彼女の体内では妊娠3ヵ月目の子供が成長しつつある。ただ、それだけの映画。どこにも対立がなく、いがみ合いもない。だれもたいして悩んでいたりしない。悩む要素はあるかも知れないが、悩んでいるそぶりは誰も見せない。本来なら、こんなんじゃ映画は成立しないはずなんだが、ちっともつまらなくない。別に刺激的な映像があるわけでもないのに、こちらの関心はずっと画面に吸い付けられたまま。市川準の映画が肌に合わない私にとって、同じ様な要素で成り立っているにもかかわらず、反応が違ってくることに不思議な気がしてしまう。
ただし、映画がくれる情報はかなり舌足らず。たとえば設定に関していうと、 冒頭、彼女は台湾に「帰っていた」といっていた。しかし、両親は高崎にいる。しだいに母親が育ての親で、実母は宗教に凝っていたということが分かる。だから、彼女が台湾人の両親から生まれた台湾人で、何かの理由で日本人のところに暮らすようになったのかと思った。つまり、養子として。ところが、HPのストーリーを読むと、父親は実父。実母は台湾人。両親は離婚して、実父は後妻をもらったとある。ふーん。そんなこと、映画だけでは分からんぞ。それにしても、彼女は台湾で日本語を教えていたことがあって、そのときの教え子が彼氏になって子を身ごもったというのだから、離婚したとはいえ彼女は実母のもとに頻繁に訪れていたということだな。台湾にも実家があるってことだ。
萩原聖人がでてくるのだけれど、出演シーンは2つ。陽子が喫茶店で電話に出ているときに入ってくる客として。それから、神田の天ぷらや"いもや"の横で会う場面。実際、この2シーンからでは陽子とどういう関係にあるか、さっぱりわからない。いきなり女関係の話をしたり「傘ありがとね」などと話すだけで、不自然この上ない(Webでみたら、出演シーンを大幅にカットされている様子)。不自然といえば、萩原の登場シーンだけが、他の場面のトーンと合っていなかった。っていのは、この映画の大半が、あらかじめ決められたセリフではなく、なんとなく"その場の設定と、流れ"だけを指示されていて、あとはアドリブでやっている気配が濃厚なのに、萩原だけがセリフをしゃべっているのが明白だからだ。きっと萩原は、アドリブというか、ごく自然なフツーの会話ができないのだろうと思う。
彼女の住まいは鬼子母神前らしい。都電の車窓やJRの駅から王子の手前、滝野川辺りかと思ったのだけれど、違った。陽子は鬼子母神前から都電で大塚にで、JRに乗り換え、秋葉原から総武線でお茶の水にでていたようだ。目白からJR、護国寺から有楽町線、の方が速くて安上がりだと思うが、まあ、これは仕方がないだろう。半分は東京の乗物の映画なのだから。都電、山手、京浜東北、総武、中央(高円寺のみ)と、東京の東にある線路が多く登場する。駅も、鬼子母神前、大塚、日暮里、お茶の水、有楽町と、裏東京都でもいうべき場所ばかり。これが、この映画の基調なのかも知れない。なにも新宿や渋谷、六本木ばかりが東京ではない。遊んでばかりいる派手な娘だけが、東京の女性像ではない。ごくフツーの、安アパートに住む、質素な娘だっているんだぞ、と。そんなことを物語っているような気がした。さて。JRはすべて無許可で撮影されているようだ。画像はフィルムみたいに思えたのだけれど、そんなに大きなカメラじゃ目立ってしょうがないだろうに。どんなカメラで、どうやって撮影したのか、興味あるところ。そのJRの社内のシーンでは、こちらの山手に陽子が乗っていて、併走する向かい側の京浜東北(逆だったかな?)のドアのところに、集音マイクをもった浅野が見えるシーンが、素晴らしい。それと、ラストシーン。聖橋からのお茶の水で、丸の内、総武、中央が何本か同時に画面内に入ってきて消えていき、これで終わりかと思ったときトンネルから丸ノ内線がにゅっと顔を出す瞬間が、感動的であった。
これは、小津安二郎へのオマージュだという。それにしては、スタイルが小津じゃない。ローアングルでもないしカメラはフィックスじゃないし、セリフもアドリブだし、だいいち小津の映画にはドラマがあるけれど、この映画にはドラマはない。もし小津の映画は、何もドラマが起こらないものだ、と思っていたならそれは大間違いだ。話の設定でいえば、お酒を借りに行くところ、両親が上京するところは「東京物語」か。そんなに引用されているわけではない。物まねでも何でもないということだろう。それはそれでいい。というか、それでなくては困るよね。
登場人物に蓮実重彦の名前があったけれど、どこにいた? 衣装の山田洋次は、別人? 途中2、3箇所、音が途切れる部分があったけれど、あれはオリジナルの仕様なんだろうか?
★で、1日おいて気がついたのだけど、この映画には少なからず決定的瞬間が埋め込まれているのだな。先日亡くなった、アンリ=カルチェ・ブレッソンの決定的瞬間、だ。併走する向かいの電車のドア窓に浅野がいる瞬間。多くの電車がいちどきにお茶の水という一点に集結する瞬間。電車の音を録音していた浅野が、偶然、陽子と巡り会う瞬間。陽子が高崎に帰ってどたりと寝転がったところを、飼い猫がうろうろする瞬間。街の中の、撮られていると気がつかない一般の人々が見せる何気ない視線・・・。そんな、偶然の瞬間や、想定される瞬間や、創られた瞬間が、この映画には埋め込まれている。何気ないように見えて、かなり計算されているのだな、と思う。
沈黙の聖戦10/8シネマミラノ監督/チン・シウトン脚本/ジェームズ・タウンゼント
スティーブン・セガールの沈黙もの。ったって元々「沈黙」はシリーズではないと思うが。セガールがでてくれば「沈黙」になっちゃうんだろ?
タイ。議員の娘がイスラム過激派に誘拐される。元CIAのセガールの娘も一緒にさらわれた。そこでセガールは単身タイに乗り込む。オヤジの時間つぶしに丁度いいような尺と内容で、あってもなくてもいいような映画だ。なのに、いまだにセガール主演で映画がつくられている理由がよく分からない。こういう映画でも、ちゃんと一定の観客動員が見込めて、ペイするからつくられているんだろうな。別にセガールが自費でつくっているわけじゃなかろう。セガールは、ほとんどアクションをしていない。せいぜい上半身の組み手ぐらい。飛んだり跳ねたりはスタントだ。顔なんか下膨れが激しくなってきていて、あんまり動いてないんだろう。
役者だのなんだのすべてが安手で、低コスト映画。たぶん内容もこれまでの焼き直しで、とくに新しいところはないんだろうと思う。プログラム・ピクチャなんだから当たり前だけど。というわりに、脚本は意外としっかりしていて、ひどい破綻がない。役者を変えて予算を組めば、大作になりそうな趣もある。もっとも、「?」のシーンもいくつかある。冒頭、セガールがどこかの屋敷に盗みにはいるのだが、元CIAはいま盗人なのか? どういう設定なのか、ちと不明。それと、タイの将軍を含む陰謀にしては、ちょっとオソマツな印象をぬぐえない所もある。それにしても、やっぱ、映画っていうのは役者と銭だなあ、と思わせてくれた。セガールを助ける元ヤクザで現坊主のスンティを演じたバイロン・マンが、いい。
ツイステッド10/12上野東急2監督/フィリップ・カウフマン脚本/サラ・ソープ
アシュレイ・ジャドは美形にもかかわらず、そういう役柄は少ないねえ。安手のクライム・ムービーとか、多くない? てなわけで、これもその類。アンディ・ガルシア、サミュエル・L・ジャクソンも登場しているけど、あんまり活かされていない。これはまあ、つまり、人間に迫ってないからなのだろうけれど。
過去の忌まわしい、けれど詳しくは知らず、トラウマになっているような事件を背負っている刑事が事件に巻き込まれ、事件を解決する過程で過去の事件の真相も解明するという、よくあるパターンのストーリー。けれど、主人公の女刑事ジャドが清潔感のない汚れ役となっているのが異色。彼女は、なんと夜な夜な怪しげなバーに出入りして、テキトーな男を引っかけて一夜の慰み者にしているのだ。思わず「東電OL殺人事件」を連想してしまうような設定だ。では、ここまで下半身にふしだらな理由はというと、たいして説明はされていない。彼女が知らされている過去の事件、父親が母親を殺して自殺した、というだけでは説得力はない。でもって彼女は警察医のカウンセリングを受けているのだけれど、自分が些細なことにカッとして暴力的になる=二面性をもっていることは自覚している。そういう背景をもちながら、警らから殺人課への出世を求めているってんだから、いったいこの女刑事は何を考えているのか、よくわからんのである。主人公にするには、どーしたって共感を得られないような設定だよなあ。
ジャドがこれまで寝た男たちが殺されていく。で、犯人はというと、これがだいたい見当がついてしまう。ジャドの過去を知っていて、しかも、らしくない人物といえば、彼しかいない。というわけで、犯人当てとしてはあまり面白みがない。同僚のガルシアもあんまり魅力的に描かれていないし、上司のサミュエルもフツー。だから、なんとなく全体に食い足りないところがある。どうせならセクシーさを売り物にして欲しかったけれど、濡れ場もたいしたことはないし、だいいちスケスケシャツのジャドの乳房が小さくて垂れ下がっているのを見ては、萎えてしまわざるを得ない。ジャドもかなり老けてきた感が免れない。まあ、だから、ほどほどのところで納得するしかないって映画だな、こりゃ。人物が類型的すぎて、突っ込みが足りないんだよ。ジャドの向かいのアパートの老婆。思わせぶりにでてきて何も関係ありません、じゃもったいないだろ。
で、犯人の殺害動機なんだけど、これがどーやっても納得できるようなもんじゃないのだ。ジャドの母親に惚れた犯人は、その事実をジャドの父親に告げた。「隠し事がないのが、仕事上のパートナーの役割」という理由で。そうしたら、父親が母親を殺した、って言っているのだけれど、実際は、そう見せかけて2人とも殺したってのが真相ではないのかな。ここのところ、よく分からなかった。で、犯人の立場に立って考えてみると、ジャドの母親に惚れたが、犯人にとってジャドの父親もジャドの浮気相手も、彼女に相応しい男性ではなかった。だから殺した。そして、2人の子供を引き取って育てたが、ジャドの淫蕩ぶりに逆上。ジャドがつきあう男はジャドに相応しくないと決めつけて、殺しまくった、ということになる。最後、ジャドの同僚であるガルシアを殺すときはジャドを引き連れていって、真相を暴露しながら殺そうとしているところなんか完全にイッちゃってる感じで、自分のやっていることは理解できるだろう的な押しつけがましささえ見せていた。こうも豹変できる犯人像、ってのが、それまでの過程の中で描かれていないので、ラストでいろいろバラされても「なるほど」とは肯けない。ちょいとその、異常性への傾倒ぶりを何らかの手段で描いておくべきだったろうなあ。
それにしても、事件が解決してもジャドの異常者ぶりは変わらないだろうし、以後、ガルシアと上手くいくようにも見えなかった。なんか、この暗い終わり方はハリウッド的ではないよな。ほっ、とできない、わだかまりが残る終わり方だと思う。それにしても、男狂いは母親譲りってな、すべて遺伝だよ的な描写が多いよなあ、ハリウッド映画には。日本だったら許されないだろうなあ、きっと。
父、帰る10/14新宿武蔵野館3監督/アンドレイ・ズビャギンツェフ脚本/ウラジミール・モイセエンコ、アレクサンドル・ノヴォトツキー
いまを去ること12年前、男は仲間と強盗を働いた。奪った宝石は、男が某島の一軒家の地下に埋めた。ところが結局、警察に逮捕されて強盗団は一網打尽。刑務所行きとなった。そして、彼は釈放され、家族のもとに戻ってきた・・・。という話を、家族の、とくに2人の子供の視点から描いた、ような物語。いや、実は解はないのだ。男の職業が何で(母親はパイロットだと子供に話していたようだが)、12年の空白はなぜで、子供2人を連れて出かけた理由も、島に行ったわけも、土中から掘り出した箱の中に何が入っていたかも、まったく明らかにされていない。要するに、何も明らかにしないことで物語をずっと引っ張っていく。そういう話の展開は、とても上手いと思う。のであるが、この物語の主人公である2人の少年の行動、とくに弟の言動・行動を見ていると、とても不愉快になってくる。オレは、こんなガキは生理的にダメだ。
久しぶりに戻ってきた、父親。日本人なら、違和感はあっても受け入れようとするのが常だろうと思う。疑り深く、嫌悪感を露わにする弟の態度は一体何なんだ? 兄の方は、とりあえず従順に父のいうことを聞いているし、反抗もしていない。ところが、この弟は兄をアゴで使ったりする態度もとるのだ。それに従う兄も兄。いったい、どういう兄弟なんだ。一般的に親に反抗的態度をとるのは物心ついた年長の子供で、年少の子供は素直に受け入れるんじゃないか、という思いもあったせいか、よけい変な感じがした。
弟の心情を示しているのが、冒頭のシーンだ。年長の子供たちに混ざって水中に飛び込もうとするのだが、弟はとうとう飛び込めない。けれど、すごすごと引き下がることはなく、ずっと塔の上に夕方まで残る。探しに来た母親に「飛び込まないことには降りられない」と母に言うのだけれど、ここで強情な子供だとの描かれ方はされているけれど、これが父親に対する猜疑心につながるかというと、そうとも思えない。
兄はだんだん弟に感化されるようになっていき、父親に反抗的な態度をとるようになる。それにしても、この兄貴はバカだな。レストランを探せといわれて3時間も街をふらついて戻ってこなかったり、3時までに戻ってこいとボートの利用を許可されて戻ってきたのは夜7時。しかも、叱られたらなんだかんだと弁解して自己正当化を図ろうとする。日本人には到底受け入れられないのではないか。腹が空いていないと、レストランで食べようともしない弟。釣りがしたかったのに、とぐずる弟。オレだったらどちらも頭をはり倒してしまうのに。こういう子供の態度に共感と哀れみというのは、外国人には湧くものなのだろうか。父親も父親だ。子供の頭ぐらい、気安くはり倒せ。
それにしても、島に渡って、ボロい灯台で父を転落死させてしまう展開には驚いた。最後は男の出奔の理由や、戻ってきたわけなんかを説明してくれると思ったから。なのに、殺してしまう。これじゃ、そうしむけた弟の方は、ぐれちゃうしかないだろ、これから。こんな終わり方で、いいのか? このトラウマを背負いつづける2人の兄弟は、どういう人生を送るのだろうか。そっちの方が気にかかる。というわけで、まともに子供を教育しておかないと、子供に殺されるかも知れないぞ、という教訓を込めたような映画だった。もっとも、製作した人々はそんなこと考えてもいないだろうけど。
父を確かめるために兄弟が昔の写真を見る。そこには、両親と幼い兄弟が写っている。で、父親が車中にもっていた写真には、父親本人が写っていなかった。あれは、なんなんだ?
ガーフィールド10/15新宿武蔵野館2監督/ピーター・ヒューィット脚本/ジョエル・コーヘン、アレック・ソコロウ
いやあ。久しぶりに画面に身を委ねて楽しんでしまった。猫好きにとって、あの生意気な態度やいろんな仕草がたまらなくよろしい。そうなんだよ、犬はバカなんだよ。飼い主に媚びを売ったりして、ほんとしょうがないやつらなんだよ。それと比べると、猫は超越している。デブはデブで可愛いところがあるし、飼い主にへつらわないところもよろしい。その、いろんな猫の魅力がCGでもちゃんと発揮されていて、とてもいい。下手にひねくれたストーリーにしないで、バカバカしいぐらいシンプルにしているのも効果的。ガーフィールドに比べて他の猫が単なる実写に近くてつまらないだとか、登場人物がフラットな印象だとか、そういうことはどうでもいい。ガーフィールドが目立てばいいんだから。ちょっとドジだけど、いかにも猫らしいガーフィールド。いいね。
エクソシスト ビギニング10/18上野東急監督/レニー・ハーリン脚本/ウィリアム・ウィッシャー、アレクシ・ホーリー
「エクソシスト」は多分見ているはずだけど、あまり記憶がない。というか、ベッドが浮かんだり首が回ったり背面四つんばいで階段を駆けたりと、そんな特徴的なところしか印象に残っていない。どういう因果関係であーなってこーなって、ということなど忘れている。・・・という人間でも、十分に楽しめるホラーだった。「エクソシスト」のことをまったく知らなくても大丈夫。別物として鑑賞できる。
アフリカで教会が発見される。その場所はかつて堕天使ルシファーが舞い落ちた場所。その場所では、悪魔の影響で1500年前におぞましい同士討ちが行われたことがあった。その事実を19世紀にバチカンが知って、その地に教会を建設した。その教会が、第二次大戦直後に発見されて発掘がはじまった・・・。という話なのだけれど、数千人を狂わせて同士討ちさせることができる悪魔が、この映画で行なうのはちょっとセコイ。黒人労働者を脅かしたり病気にしたり、発掘者を狂気に陥れたり。さらにまた、主人公であるメリン神父には襲いかからず、女医のサラにいいよる酔っぱらいの発掘者を殺してみたり。どーも、やることが一貫していない。まあ、いきなり主人公が殺されては話にならないと分かるのだけれど、悪魔の行動と殺害される人間の順番は、この手の他の映画と同様に、非常に恣意的、ご都合主義的。まあ、そういうことには目くじらを立ててはいけないんだろうが、ちょっと気を取り直して真面目に考えはじめると、気になってきたりする。それに、地下のあの宮殿みたいのは誰がつくったんだ、とか。黒人少年の兄が殺される理由はどこにあったんだ、とか。サラが消えた室内に、なぜか求めていた像の首があるとか。細かいことをいえばキリがなくなってくる。とはいいながら、全体的には概ねよくできた脚本だと思う。大きな破綻もなく、ホラーの定番通りに話が進んでいく。奇をてらった脅かし方はほとんどない。最初の方で井戸の中からコヨーテが突然出てくるところ以外は、怖いぞ怖いぞ、ほら! といった具合に驚かしてくれるので安心して見ていられた。随分とオーソドックスなホラーのつくりれだ。いささかグロの部分もあるけれど、それほど強調されていないので大丈夫。ぬめぬめぐちゃぐちゃが嫌いな私でも、それほど嫌悪感は覚えなかった。
話がシンプルで不可解な部分はほとんどない。しかも、悪魔の存在(堕天使ルシファー)が明瞭に明らかにされる。なので、ちょっともの足りないところもある。やっぱ、ホラーは曖昧さ、あやふやさが信条なのではないのかな、とも思ったりする。
興味深いのは、メリン神父の罪がバックグラウンドに描かれていることだ。なんと、ナチである。ドイツ兵が殺害された仕返しに、ユダヤ人(だと思う)を殺すというナチ将校。誰を殺すか、お前が決めろといわれて指名した過去があったのだ。その罪悪感に苛まされ、メリンは神父をやめていたのだ。「神などいない」と言い放つナチ将校。彼と悪魔がアナロジーのようにし描かれる構造は、しっかりと分かりやすさにつながっている。とはいうものの、いまだにナチかよ、という気持ちもつきまとってくる。しかも、悪魔になぞらえられるのだからね。そうされても当然という見方があるのは理解できるけれど・・・。アナロジーは、映画の中でもうひとつ用意されている。1500年前の同士討ちが、またもや繰り返されるのだ。悪魔の登場は、白人がこの地にやってきたせいだとする原住民。彼らが、イギリス軍に襲いかかって戦闘になる。それだけではなく、原住民もイギリス軍も狂気に翻弄され、同士討ちを始めるのだ。こういう話の二重構造が、ストーリーに厚みを加えているのは確かだろうな。いい脚本なんだよ、基本的には。でも、細かなことをいいだすと・・・。そうそう。メリン神父に「この像を探してくれ」と冒頭にいう紳士は、いったい誰なんだ?
女医のサラ ステラン・スカルスゲールドが、なかなか理知的な顔立ちでよかったなあ。それにしても、知らない役者ばかりでてくる映画であるよ。
スイミング・プール10/19ギンレイホール監督/フランソワ・オゾン脚本/フランソワ・オゾン、エマニュエル・ベルンエイム
面白かった。最後に話をひっくり返される驚き。これが何とも快感だった。なるほど、すべては創り事だったのか、と。
もっとも、最初は戸惑った。ラスト近くで、サラ(作家)はジョン(出版社社長)の本当の娘とすれ違う。では、フランスの別荘に舞い込んできた娘は誰だったのだ? しかも、ラストシーンでは、フランスの別荘で仲良くしているサラと、本物のジュリーが描かれる。ん? どーなってんだ? とても戸惑った。けれど、よく考えたら、ラストシーン以外はすべてフィクションである、と考えれば収まりがつく。すべては、サラが書き上げた小説の中の話なのだ、と。一発ネタではあるけれど、引っ張りもあって、面白く見られたのだった。
引っ張りは、さほど強いものではない。一人になって小説を書き上げようとしている作家がいて、そこに出版社社長の娘が転がり込んでくる。娘は奔放で、日替わりで男を引きずり込んで性交に及ぶ。反発し合う作家と娘。罵りあいはするけれど冷静で、喧嘩にもならない。というか、作家は娘の大らかな態度に惹かれていって、忘れていた下半身がうずきはじめる・・・てな案配。この様子が、日常の中のちょっとしたスリリングとして描かれていく。作家の心の動き、動揺が、面白い。
まあ、こうした2人の軋轢や殺人事件、作家と使用人の情交なんてのはすべてフィクションであった、というオチは、ちょっと脱力感を覚える人もいるだろうなあ。「なんだったんだ、あれは!」と。でも、こういう落とし方は落語なんかではよくあることだし、落とされる快感が十分に堪能できた、というわけだ。
ところで、ラスト近く、サラが出版社で社長のジョンに、他社で出版された自作を見せた後、社長の秘書らしき女と交わした内容が、よくわからなかった。それと、フィクション部分でサラがしきりに十字架を気にしていたのが印象に残った。昨日見た「エクソシスト ビギニング」では、十字架がふっと画面から外れ、もとに戻ると上下逆さまになっているシーンがあった。だから、そうなったら面白いのに、と期待したけれど、そんなことになるはずもなかった。いったい、何を暗示していたのだろう。それと、シャーロット・ランプリングの陰毛付きヌードにはたまげた。それから、使用人の娘が異形の侏儒なのだが、彼女がひょっとしたらジュリーの母親なのかも? なんて思ったりしたのだけれど、考えすぎたようだ。
真珠の耳飾りの少女10/19ギンレイホール監督/ピーター・ウェーバー脚本/オリヴィア・ヘトリード
フェルメールの有名な絵画にインスパイアされて制作された模様。ほとんどすべてが創作らしい。とはいいながら、17世紀のオランダの、フツーの画家の生活が見られたのは興味深かった。フェルメールってば市井の人々を描いた作品が知られているけれど、やっぱり金のためにはパトロンの肖像画を描いたのだろう、とか、おべっかも使ったに違いないだとか、画家の暮らしぶりが面白い。ベラスケスのような宮廷画家とは違う、ある意味で質素で貧乏、ってな生活状況も、ふーん、と思わせるものがあった。
この映画、絵画的なシーンが多いといわれているけれど、それは本当。ただし、光と影を意識した絵画的シーンをインサートしたり動かしたりすることに心が動いてしまって、物語のダイナミズムが削がれているのが、ちょっとね。もうちょっと登場人物たちの心の奥、何を考えているのかまで描いて欲しかった。よーく考えるとストーリーは単純すぎるし、だからどうした、と突っ込みたい部分も数多い。たとえば、人々の苦悩なんか、さらりとしか描かれていないではないか。ドラマチックではないのだよね。まあ、絵画的にきれいな映画をほわ〜んと楽しみたいという向きには、これでいいのかも知れないけど。ちょっともの足りない。
その代わりといっては何だけど、スカーレット・ヨハンソン(グリート)が、ちょいと官能的でよろしい。「ロスト・イン・トランスレーション」でも、漠然とした表情で、物憂げなというかもの足りない渇望の表情を浮かべていたが、この半開きの唇が、そそる。ひとつ間違えると「私バカですから〜」というバカ面に成り下がってしまう手前あたりで踏みとどまっていて、一見とろそうに見えるけれど、どっちかっていうと思索的な方で「反応は鈍いけれど、ちゃんと考えてますう」ってな雰囲気のある女の子だ。なんか、いい。
印象的なのは、フェルメールが女中グリートの耳にピアスの穴を開けるシーン。「下賤な女なのに、絵画を見る目があるな」てな調子で、少しずつ少女に惹かれてくフェルメール。かといって手を出すまでには至らない。その代わりなのか、出産したばかりの女房とまぐわって6人目の子供をつくっちまうほどセックスの強い男として設定されているのがおかしい。でまあ、フェルメールのグリートへの思いを象徴するのが、ピアスの穴なんだろう。処女破りのメタファね。フェルメールとは結ばれなかったけれど、かなり欲情していたことは間違いない。グリートは、その後すぐ肉屋の少年のところへ走って、抑えきれないように抱きつき、ちゃーんと処女喪失しているものなあ。
最後のシーン。古参女中が少女(妊娠していたのかな? 腹が大きいように見えたが)を訪ねるシーンがあって、そのセリフが「訪ねたよ」だったと思うのだけれど、そういう言い回しはないだろうと思った。「久しぶり」「元気だったかい?」「やあ、どうしてた」「元気そうだね」とか意訳すべきだろう。で思ったのだけれど、この映画は字幕が下手くそだということだ。あまりにも直訳過ぎて、どういう意図でしゃべっているのか理解しがたいところが散見された。それは必ずしもオリジナルのセリフが悪いのではなく、心理や状況までをも表すような表現になっていない下手くそな字幕のせいなのではないかと、思う。もともとセリフが少ない映画であるが、含蓄のあるセリフで人物の心の動きまで表現されていたのかも知れない。それが表面的な言い回しになってしまっているのではないか、という疑いがぬぐいきれない。訳者が変わると、それなりに見られる映画になるのかもね。
204610/26109シネマズ木場シアター2監督/ウォン・カーウァイ脚本/ウォン・カーウァイ
糞である。監督は、なーんも考えていない。登場する人物も背景も要素も、みーんな思いつきのいい加減の代物。なにかを読み取ろうとしても、そもそも何も埋め込まれていないからムダである。SFっぽさを売りにしているようだけれど、そんなのは耳クソ程度。大半は屋内でごにょごにょと人物が話しているだけ。面白くもなんともない。30分過ぎにはかなり飽きてきて、時計を見たけれどまだ1時間以上あることにめまいがして、それからは5分、10分おきに時計を見て、針が早く進まないか祈っていた。しかし、寄せる睡魔には勝てず、ラストの前の数分、意識をわずかに失った。救いはフェイ・ウォンがきれいに撮られていたこと。個人的に好きなのだ。いまだに衰えぬ少女のような表情が、よかった。あとはどーでもいい。
ダンデライオン10/28VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズScreen7監督/マーク・ミルガード脚本/●
ちょっと理由があって、冒頭の数分を見逃した。渋谷でやっていたときは、上映時間ちょうどにははじまらず、最初にも挨拶があったと記憶していたので、油断したのだ。くそ。
淡い青春映画だけれど、いくぶんギクシャクしていてストレートに納得するのは難しかった。テーマは「前向きに生きる」ことの発見、だろうか。
ストーリー採録/少年メイソンは、すでに生きることに疲れている。自殺することばかり考えている。かといって、自殺するほど行動力もない。アメリカの田舎で、淡々と生活している。父親は郡の議員に立候補中。母親は派手さもなく、地味に暮らしている。近所に少女ダニーが越してくる。メイソンは、引っ越し荷物の中からネックレスをこっそり盗み出す。選挙ポスター貼りを手伝わされたりしているメイソン。父親は選挙でいらいらが高じ、ある夜、歩行者を跳ねてしまう。脱輪したクルマを引き上げるのを手伝ったメイソンは、父がクルマで去った後、草むらに死体が隠されているのを発見。そこに警察がやってきて逮捕され、2年間施設に入れられてしまう。言い出せない、父親・・・。2年後、友人たちと再会するメイソン。友人たちの中にダニーもいた。ダニーは「愛は自分のためじゃない。どれだけ相手を愛せるかだ」という。メイソンとダニーのつきあいがはじまる。ダニーの母親は、気まぐれで引っ越し魔。ダニーがメイソンとつきあいはじめ、ある日、外泊したからといって、また引っ越しを決める。「もうどこにも行きたくない」というダニー。メイソンとダニー、メイソンの友人の3人は、草原へでかける。そこで、友人とダニーはマリファナを吸う。でどころは、友人の兄だ。明け方、ダニーは近くの池に入水する。警察に聞かれ、友人は、マリファナはダニーがもってきたという。警察に連行されるメイソン。しかし、友人は結局、真実を警察に告げる。メイソンは、走り抜ける列車の後を追っていく。
というわけで、なんとなく話が流れていって、なんとなく話が終わる。メッセージはそんなに強くない。問題は、メイソンがいったい何に絶望して生きる目的を失っているか、だ。それが、よく描かれていない(しかしたら冒頭にあったのかも知れないけど)。そして、いくら引っ越しが多いからといって、愛は惜しみなく与えるものだといっていたダニーが、なぜ死ぬ必要性があるのか、それが分からない。監督は上映後のティーチイン(監督とメイソンを演じた少年、司会はデブの自称映画評論家、それに通訳が登場)で、「不自然なことがないよう、人物の行動もごく自然な感じに描いた」といっていたけれど、はたしてそれで良かったのかな。もうちょっとメリハリをつけた方がよかったのではないかねえ。象徴的な存在として、数年前に妻を列車事故でなくした老人が、妻が轢かれた午後4時に、毎日、踏切までやってきて踊りを踊るようにする、というのがでてくる。これは、変わらない愛の姿を現しているのだろうか。ごく自然な描写という割には、なにか異様な感じがしないでもなかった。施設からでてきたメイソンを、父親が釣りに誘うシーンがある。父親の謝罪である。並んで釣り糸をたれるシーンは、まるきり小津だった。
ティーチインで、ある人が「途中でダンデライオンが出てくるところがあって、そこから流れが変わるように見えた」と発言した。ダンデライオンってなんだ? あとで調べたら、野に咲くタンポポだそうだ。ふ〜ん。そんなの知らないよ。解説つけてくれなきゃ分からんぞ。それから、撮影についての質問では、監督はマジックアワーを活用した、といっていた。ふ〜ん。それほど美しく幻想的な画面でもなかったように思うけどなあ。いや、それは、この映画がほとんどロケが多く、あんまりライティングにこだわっているように見えなかったからだ。つくりもチープで、金がかかってなさそうな映画だった。監督は「インディーズ映画だから」といっていたが、安っぽさはそのせいなのだろう。でも、話が面白ければ、そんなことは気にならないんだけどね。ダニーを演じた女の子が、あんまり可愛くないのもマイナス。全身ソバカスだらけで、痩せて、いまいち魅力に欠ける。あ、それから「メイソンはあまり優しすぎて、こんな人いるのかな、と思った」という質問もあった。それに対して、メイソン役の青年が監督の膝を叩いて「ここにいる」というような返事をした後、監督が「たくさんの人間の中には、メイソンのような人間もいると思う」というような回答をした。ううむ。人の罪を被って文句もいわず、すべてを許す人間ねえ。でも、そんな高潔な人間か? メイソンは。むしろ若くして人生に絶望し、夢をもてなくなっているから、なるようになれ、と思っているだけじゃないのかな。それに、冒頭でメイソンは女の子のネックレスを盗んでいるのだけれど、優しい人はこんなことしないんじゃないのかね。
ミラージュ10/28VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズScreen7監督/ズベトザル・リストフスキ脚本/ズベトザル・リストフスキ
マケドニア映画である。マケドニアって、どこだっけ? てな記憶で見はじめたのであるが、いやはや、この監督の技術的な高さは素晴らしい。物語の豊穣さ、饒舌すぎない展開、意外な方向への強引だけれど説得力のあるもって行き方。付け加えれば、音声も立体感あふれていて、虫が飛んでいるシーンなんかでは、場内に虫が紛れ込んだのではないかと錯覚するほどのリアルさだった。完成度が高い。マケドニアって、こんなに優れた映画がつくれるほど技術やノウハウが発達しているの? という驚きも感じてしまった。
ストーリーを詳しく書いてしまおう。映画は酔っぱらいオヤジと楽団からはじまる。この様子が、クストリッツァの「アンダーグラウンド」を思わせる。ああ、あっちの方の映画か。主人公は10歳ぐらいの少年マルコ。父は工場のストに参加中で、夜な夜な酔ってビンゴにうつつを抜かす。ちょっとトロイ母親は家族からバカにされている。ものすごく我が儘な姉は不良の一歩手前。家族は崩壊一歩手前でかろうじて一緒に住んでいる。住んでいる家が踏切のすぐそばで、電車が通過すると埃が舞い上がる。マルコは成績がいい。けれど、クラスは不良生徒の巣で、マケドニア語の教師は生徒をコントロールすることができない。不良のボスは巨体で、街の警察署長の息子である。マルコは不良たちの格好のターゲットで、いつも殴られてばかり。出口のない閉塞感に鬱屈し、途方に暮れている。マルコの作文能力に目を付けた教師は、コンテストへの応募を勧める。入賞すればバリに行けるぞ、と。バリ。そこに行けば、この町とも不良どもとも決別できる。マルコは懸命に詩を書くが、教師のお気に召さない。落ち込むマルコはひとり廃車両に私物を持ち込み、自由への旅立ちを夢見る。と、ある日その廃車両で旅人と遭遇する。武器を携帯する彼は、パリを知っていた。「きれいな花も、泥につかれば汚くなる」と旅人がいう。旅人は廃車両に住み始める。ある日、教師は不良のボスを教室から退去させる。怒ったボスは子分をつれて教師の家へ。マルコはたまたま教師の家を訪ねていた。不在を確認してもどろうとして不良たちに暴行されるマルコ。そこに教師が戻ってくるが、様子をみて逃げてしまう。「ボスニアのオカマ野郎」と不良たちは教師に言葉を投げつける。旅人はマルコに「逃げているからいじめられる。向かっていけ、そうすれば相手はお前を恐れるようになる」という。「パリに行くにも金がない」というと、「盗め」と教える。万引きや盗みをはたらき始めるマルコ。しかし、警察に捕まって、盗人の烙印を押されてしまう。いじめはエスカレート。不良のボスは銃でマルコを威嚇し「夜、教科書を焼くからこい」という。不良たちと学校に忍び込み、成績表を見る不良たち。そこでマルコが豹変。自ら家具を壊し、火をつける。マルコを部屋に閉じ込め、逃げてしまう不良たち。翌朝、マルコは捕まって校長から説教される。マケドニア語の教師も臨席したが、助けてはくれない。マルコは旅人に銃を貸してくれと頼む。旅人は最初ためらっていた旅人もマルコに銃を与え、銃の撃ち方を教える。そして、痕跡も残さず消えていった。謹慎期間が解け学校へ行くマルコ。気遣うマケドニア語の教師。その胸にマルコは銃弾を撃ち込む。
旅人が登場するまでは、いろんな要素が渾然としてとても面白い。庭で食事しようとして列車が通り料理が埃だらけになるシーン。恋人と喧嘩する姉を見て、カウントを数えるマルコ。カウント通り、姉は八つ当たりしてマルコを殴る。米軍がやってきて黒人に色目を使う姉。家の前を列車で運ばれる戦車・・・。様々なエピソードやシーンが、映画の厚みに貢献している。しかし、「きれいな花も汚くなる」というセリフを聞いて、ちょっと白けたのは確か。なんか、自分がこうなったのは環境のせいだ、って言ってやしないか? と、見ていて思ったのだ。後半は、前半のように色んな要素が絡み合うこともなくなる。家族も出てこない。マルコと旅人と教師と不良が中心になっていく。緊張感はあったけれど、テイストが変わったことで、ちょっと期待が外れたかなと思った。そして、教師の殺害へ。え? どうして、どうなってんだ? という印象を、見たときには思ったのであった。
上映後のティーチイン(監督とマルコを演じた少年、司会はデブの自称映画評論家、それに通訳が登場)で、中年の質問者が鋭いことをいった。「冒頭にニーチェの句が引用されていた。日本語には訳されていないが、映画はこのことと密接に関係があるのでは?」というようなことだ。ニーチェの句の意味は紹介されなかったけれど、監督は「誰でも夢を見る、その夢が叶えられないときもある」というような、細かなことは忘れたが、そんなようなことを言っていた。なるほど。それから、監督はまだマケドニアの映画学校に在籍中で、卒業制作としてこの映画をつくった、といっていた。それはすごい。
で。1日おいて色々考えがまとまってきた。つまりこの映画は、ごくフツーの人間でも、様々な外的環境の軋轢によって逃げ場を失うと、いとも簡単に暴力をふるいはじめてしまうのだ、ということをいっているのだ、と。別に環境に責任を押しつけているわけではなくて、そういうものだ、といっているのだ。映画の冒頭で、第二次大戦後ロシアとアメリカの間にあってマケドニアは揺れてきた、と語るオヤジがいた。元ユーゴスラビアは、いまはいくつかの国家に分割され、それでもなお内戦が激しく行なわれている地域だ。マケドニアをマルコに、周辺国家や政治状況などをマルコの生活環境や人間環境になぞらえてみれば、理解は簡単に進む。まだ幼く生活力もないマルコ。いじめられているのに誰も援助の手をさしのべない。逃げ場を失ったマルコが選ぶ道は、武器を入手して、手近な人間に復習してしまうこと。これは、ボスニアなどで行なわれた内戦の構造と似ている。原因は実は些細なこと。でも、ボタンの掛け違いで憎しみも増大し、被害が増えていく。素手で殴っている間はいい。けれど、そこに武器商人がやってきて戦争のノウハウを教え込めば、喧嘩は戦争になっていく。復習の繰り返し、そして、テロリズムなどは、ちょっとしたことが原因で発生し、それが次第にエスカレートしていくことにある、と言っているのだと思う。少年に夢を語り、自由への道筋を教え込む旅人は、実はかなり怪しい存在なのだ。
というわけで、メッセージはいくらか単純すぎるきらいはあるけれど、映画としての表現力は確かなものがあった。後半の単調さが気にはかかるけれど、この映画は、映画祭でもかなりいい線いくのではないか、と思う。「ダンデライオン」が「前向きに生きることの発見、そして、夢を持つこと」であったけれど、こちらの映画は「夢を持つことのできない閉塞感から、暴力への発散」であった。なんか、因果関係がありそうな組み合わせだった。
監督/●脚本/●
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