2004年12月

スカイキャプテン - ワールド・オブ・トゥモロー -12/1シネプレックス幕張シネマ5監督/ケリー・コンラン脚本/ケリー・コンラン
背景は、1930年代。ドイツ表現主義的なタッチと人着のような色彩、紗のかかった画面は、すこぶる耽美的。こういう様式的な世界は個人的に好きだから、たとえば数年前の「ダークシティ」なんていう映画も好きだ。好きだ、といっていながら、でも、俺はどーして寝てしまったのだろう。疲れていたんだよな、という言い訳はできる。できるのだけれど、面白い映画なら、多少疲れていようがメシを腹一杯食った後だって、寝たりはしないのだよ。それにだ、この「スカイキャプテン」だけじゃなくて、くだんの「ダークシティ」のときも寝たんだよなあ。てことは、ほんとうは好きじゃなくて、そういうフリをしたいだけなんじゃないか? と、自分を分析してみたくなったりして。まあ、それはいい。それはいいのだが、思うに、「スカイキャプテン」も「ダークシティ」も、様式美に頼りすぎて、中味がからっぽ、って側面はあるよな。と、思うのだ。要するに、思わせぶりだけってことだ。たいしたドラマがなければ、様式美だけを漫然と眺めていても、飽きてくる。そこに披露と満腹感が重なれば、寝るよな、きっと。と、自分を納得させているのだが。
おそらくアメコミが原作なんだろう。ヒーローvs悪の帝王=マッド・サイエンティストという構図。悪の帝王は地球が滅びるという妄想にとりつかれ、世界的な科学者を集め現代版ノアの方舟ロケットを建設中。同時に巨大ロボットや飛行艇をつくって、世界を荒らし回っていた。・・・のだが、あんな巨大ロボットが世界の都市に現れて、しかも新聞ネタになっているのに、ロボットが秘密のように扱われているのはなぜなんだ? 地図にない島ってなあ、なんなんだ? チベットの山奥に現れる巨大な楽園は、なんなんだ? とか、すべてが荒唐無稽の論理なし無茶苦茶。物語はちっとも耽美的ではない。スカイキャプテンは無敵のヒーローかというと、これまたごくフツーの青年だったりして、これがズッコケだ。ちょっと間抜けなヒーローと気の強い女の珍道中というのは「インディ・ジョーンズ」モノを参照するまでもなく冒険ロマンの王道だけれど、いまひとつノリ切れなかったな。
で、寝たのはスカイキャプテンの基地が攻撃されて、キャプテンが飛行機に乗って飛び立ち空中戦・・・の途中から半睡で、はっと気がついたらチベットに入ったところだった。10分ぐらい寝たのかな。グィネスは相変わらずボーッとしたマヌケ顔で、これはなかなかよかった。可愛いだけのヒロインより、こっちの方が好みなのだ。
オールド・ボーイ12/2シネマスクエアとうきゅう監督/パク・チャヌク脚本/ワン・ジョユン、イム・ジュンヒュン、パク・チャヌク
なんかエグイもの見ちゃったなって感じである。設定は奇抜だし、ストーリー展開も上手い。だけど、扱われているテーマがエグイ。潜在意識化に押し込めて葬りたいようなことをほじくり返してきて露出し、さらに、その復讐譚であることが分かるに連れ、気持ち悪くなってきた。これが西洋モノなら背徳的であるとかキリスト教的な審判が下されるのかも知れないが、東洋、とくに原作が日本のコミックということで断罪が下るという流れにはなっていない。あくまで姉弟姦は官能的な世界を保っている。さらに、父娘姦に関していうならば本人たちが意識していなかったという意味でオイディプス的な概念とは異なるだろうし。その官能と正反対の父娘姦へと誘う行為が、エグイ。タコ食いも歯抜きも手首も舌切りもエグイ。
寿司屋職人の女ミドがオ・デスの娘かも知れないという予測は、ある程度つく。主な主人公として欠落しているのは、どういう理由か知らないが殺害されたオ・デスの妻と、2人の間にできた娘だけだからた。それを当てはめていけば、他に該当者がいない。だから、本来は2人が交接したときに疑問をもてばよかったんだが、そこまでの確信がなかったせいか、その時点ではエグイと感じることはなかった。やっぱ、最後にウジンに告げられたときからだな。
人間を監禁しておくビジネスがある、っていうところをもう少し突っ込んで描いてもよかったのかも知れない。そういうビジネス自体は面白いからね。そういうビジネスを、ウジンはどうやって知ったのかにも興味がある。また、そのビジネスを運営している経営者との関係も、もうちょっと知りたい気がした。この映画、要所要所でつながりや関係性があまり明確に描写されていないのだ。まあ、それは想像力で補え、ということなのだろうから、それを非難したりはしない。けれど、描いても面白くなったのではないか、ってなところだ。たとえば、自分を監禁した人物が誰であるか、そして、何のために? という追究の過程は、かなり大雑把。もうちょっと理論的なところを加味した方がよかったかな、とも思う。だって、出前をしていた中華屋の餃子の味が分かっただけで、いっきに依頼者までわかるものか? って思うぞ。
ミド役の女優は、これまでの韓国美人とは違うタイプでとても魅力的。日本人好みの可愛い系の女優である。
誰にでも秘密がある12/3新宿武蔵野館1監督/チャン・ヒョンス脚本/キム・ヨンチャン
1人のハンサムボーイ(イ・ビョンホン)が3姉妹を手玉に取るストーリー。なんて野郎だと思っていたら、ラストがまたとんでもない。それじゃ話のまとめにならんじゃないか。破綻というより、いい加減のテキトーに終わらせてしまったという感じ。なんかスッキリしない。
長女は子持ちの主婦(チュ・サンミ)。次女はおくての大学院生(チェ・ジウ)。3女はヤリマンのジャズ歌手(キム・ヒョジン)。話は大きく1、2,3部に分かれていて、最初は男と3女の物語。2人はいい仲になって、3女は家に男を家に招く。そこで長女、次女と出会うわけだ。しかし、もっぱら男と3女のダラダラ関係だけをコメディタッチに描くだけなので、とてもつまらない。はっとしたのは、1部と同じ「男が3女に結婚してくれ」と告白するシーンが次女の視点で描かれたときだ。なんだなんだ? 時制がいじられて表現されているのか! しかし、この時制の制御は上手くいっていたとは言い難い。だって、次女の話のどのシーンから2部に入っていた(つまり、過去に遡っていた)か、はっきり分からなかったからだ。告白シーンで気づいたのだから、そのシーンからかも知れないが、もっと前から過去に遡っていたのか、それが不明確だ(ひょっとすると、アニメーションが場面転換を意味していたのかな? あまり記憶にないけれど)。いやいや。次女がなんか曰くありげなのは1部でも分かっていた。主に3女と次女が画面に登場していたからね。しかし、話が、男と長女との関係まで描き出すに至って、おいおい、この男は3人姉妹の全部を食べちゃったのかよ、と少し呆気にとられてしまったのだった。というわけで、話はだんだん面白くなってくる。このエスカレーションを、1部でもなんか匂わせて欲しかったな。
ストーリーの三重構造は、とても面白い。まあ、表現レベルがアイディアに追いついていないところがあるけれどね。で、問題はラストで、結局、3女との結婚はしなかった男が、なんと、死んだはずの姉妹の父親と話しているのだよ。ってことは、男は天使かキューピットってことかい?「3人の中で誰がよかった?」なんて父親が男に聞くのだけれど、そういうのってありか? しかも、男は「3人だけじゃない」という。おいおい。じゃあ弟ともやっちゃったのか? 亡父は「妻か?」なんて聞いているけど、いったいもー、どうなっているのやら。腑に落ちない終わり方である。
まあ、ストーリーのいい加減さはあるが、全体としては上出来のピンクっぽい映画。派手な性的描写はないけれど、露骨にしゃべったり匂わすところが盛りだくさん。ちょっと大人のコメディでもある。3人の中では長女が一番魅力的だったけれど、HPを見たら「気まぐれな唇」にでているとあった。ああ、あのちょっと野性的な女の子が・・・。次女は「冬のソナタ」で有名らしいが、ひなびたウサギみたいな顔であまり好みではない。3女は目がでかいだけで色っぽさがない。もっとも目立ったのが、弟役の男優だ。ジミー大西みたいな感じで、なかなか存在感があった。それと、長女の亭主もみどころ多し。
それにしても、秘密があるっていうから、男は実は結婚していて子供もいる、ってなオチかなと思っていたら、とんでもないオチだった。そうそう。ホームページをみたら、原作はイギリスの舞台台本だという。なーるほど、つくりが洒落ているわけだ。
みんな誰かの愛しい人12/7銀座テアトルシネマ監督/アニエス・ジャウィ脚本/アニエス・ジャウィ、ジャン=ピエール・バクリ
カンヌの脚本賞作品なんだそうな。ふーん。で、監督は映画にも登場したアニエス・ジャウィ。女性監督だ。ふーん。なるほどねえ。
なんかスッキリと割り切れない思いが残るのは、やっぱりフランス映画だから? あってもなくてもいいようなことをだらだらと描いている、っていう点ではそうかも知れない。かといって、全体がムダつてわけでもない。それなりのテーマはある。「人生」だ。人生は思うように上手くいかない。その上手くいかないことを、だらだらと描いている。同じテーマをアメリカ人が映画にしたら、もっと登場人物はステレオタイプに陥って、でも、その代わり分かりやすくなるんだろうな、って気もする。
主人公はデブの娘ロリータ。父親は有名作家。その妻は後妻で若くて美しい。5歳になる義理の妹がいる。ロリータは声楽教室に通っている。誉められるほど上手くはないが、下手でもない。教えているのは、ちょっと計算高いところがあるシルヴィア(アニエス・ジャウィ)。シルヴィアの夫は2作しか本を出したことのない作家だ。たまさかロリータが父のことを口にしたらシルヴィアの態度が一変。両家族は親密につきあいだし、シルヴィアと売れない作家は文壇に出入りするようになる・・・。てな流れで話が転がっていく。首をひねってしまうのが、ロリータの態度で、どーも彼女は父親の気を惹きたがっている様子。大人(20歳前後かな)の娘が義理の妹が可愛がられているのに嫉妬したり、声楽のテープを聴いてもらえないからと愚痴を言うの様子はファザコンそのもの。バカじゃねーの、と思ってしまう。親から独立するいいチャンスじゃないか。デブゆえに奥手? いやいや、ちゃんと彼氏もいたりする。もっとも、彼氏はロリータの父親と接触するのが目当てらしいけど。なら、さっさと別れてしまえばいいのに、未練たらたらに迫っていくロリータ。バカじゃねーの? たまたま知り合ったジャーナリスト志望の青年がロリータに好意を抱いているっていうのに、こっちを袖にして振り向かない彼氏の気を惹こうとしているのだからね。こういう様子を見ていると、どうしてもロリータに同情も感情移入もできない。あげくはデブのせいにして、太っていることの悩みを口にする。だったらボリボリとスナックなんか食うんじゃねえ! というように、主人公自体に好感がもてない。まあ、そういう彼女が自分と同じに見えて「わかるわかる」とうなずく人もいるんだろうが、どうみたって成長不足の単なる我がまま娘にしか見えないぞ。「みんな父が目当てでよってくる」ともいうが、だったら父親のことを口にしなきゃいい。働く苦労も知らず、子供のようにだだをこねるデブ。まあ、ジャーナリスト志望の青年の気持ちを理解する、っていうところで映画は終わったけれど、将来の彼の心変わりが心配になるような映画だった。昨今のフランスの青少年は、こんなに軟弱なのかい?
とくに映画にするようなことでもない、よくある出来事をさも大切なことのように描き出す脚本は、割と複雑で精緻にできてはいる。けれど、描かれている内容は、たいして面白みのない事柄ばかり。なんか、もうちょいと事件になるようなことが起きないと、ごふフツーの日常の描写、でしかないような気がする。
ロリータの父親と、シルヴィアの夫と、双方に友達のような編集者のような人物がまとわりついている。シルヴィアの夫の方には、得体の知れない老女もまとわりついていた。彼らはいったい、どういう存在なのだろう? この作家2人と、周辺の文壇関係の様子、ことの成り行きがとても分かりにくかった。
上映中、画面のフレームが気になって仕方がなかった。下部が切れていて、上部に下部が少し見えているのだ。本来、隠れているべき上部が見えてしまっているので、シルヴィアと、夫の友人が座って話しているシーンではつり下げているマイクが堂々と見えてしまっていた。上部がマスクされれば見えないはずのマイク。それが見えたままなのにはまいった。終映後、映画館の人間に糾したら、自動なのでチェックは上映開始時だけ。あとはときどきビデオでチェックしているだけだという。ちゃんとなっているか、映写室から見ろよな、おい。
●1日おいての感想/これは、ありふれた日常の中で発生する人と人との間の齟齬を描き出している映画だ。我々は、日常生活の中でつねに自分の利害を優先的に考えて行動し、人に対している。時には相手を秤にかけて、自分に都合のよい方を選び取ったりもしている。結果的に自分に有利に働けば喜び、そうでなければ悔しがる。この当たり前のことを延々と描いている映画だ。でも、それを見せられて、心地よくなるだろうか? お前の本音は、実はこれだろう? といわれて、喜ぶか? 喜ばないと思うぞ。だから、こう映画はスッキリしていないのだと思う。
ポーラ・エクスプレス12/8上野東急2監督/ロバート・ゼメキス脚本/ウィリアム・ブロイルズ・Jr.、ロバート・ゼメキス
吹替版/新鮮味のないストーリーと、いまだに洗練の域に達していない実写もどきのアニメである。原作はあるようだが、見たことはない。しかし、子供が列車に乗ってサンタクロースの国へ行くというだけのたわいのない話で、別段、冒険もロマンもない。長いイメージビデオを見ているような気がした。アニメは精度が上がったとはいえ、まだまだマネキンが動いているようにしか見えない。かえって薄気味悪く見えるぐらいだ。
思ったのは、アメリカではすでにクリスマスが宗教的儀式のひとつというより、プレゼント交換のイベントという側面の方が強くなっていることだ。資本主義社会の生産構造の中に完全に組み込まれた、商戦でしかなくなっている。その応援用PR映画といってよいだろう。そこには、アメリカ以外の国家への眼差しはない。せいぜいあるのは、国家の中のマイノリティである黒人か、はたまた町はずれに住む貧困な少年にも等しくクリスマスは来るよ、といったレベルでしかない。東洋人は登場しないしアラブ人もヒスパニックもでてこない。すべてがアメリカ中心であって、いま、このときにもアメリカが攻撃している人々への配慮はない。まあ、キリスト教のイベントなんだから当たり前といえばそうなのだけれど、キリスト教文化圏のみがギフト交換という儀式を共有できるのだよ、というおごりが感じられなくもない。ファンタジーとはいえ、そういう傲慢な構造がミエミエだ。
ストーリーは単純きわまりなく、悪人はでてこない。列車に乗る子供で強調されるのは、白人の平均的な少年(主人公)、黒人の賢い少女、貧乏な白人少年、裕福そうで少し自分勝手な少年だけ。もうちょっと色々な子供に焦点を当ててもよかったんじゃなかろうか。意地悪な子供や嘘つきや乱暴な子供もいてもいいのにね。そういう子供はポーラ・エクスプレスに乗れないというのなら、では、そういう子供たちは"いい子供たち"と区別され、お仕置きを受けていることになるわけだ。なんか見せしめみたいで、いい感じはしない。まあ、そういう子供は、もう"信じる"ことをやめてしまったから、乗る資格がないのかも知れないけれどね。
この映画が扱っているのは"信じる"ことの大切さだ。それ自体は悪いことではない。サンタの存在を信じること。いつまでも夢を持ちつづけること。しかし、よーく考えれば分かることだけれど、そういう子供は現実に対応できないということにもなる。他の映画では、自分の世界に閉じこもってしまった引きこもりとして描写されることすらある。この矛盾に、映画は応えようとしない。単に"信じる"ことこそ大切だと説く。ほんとうに、それでいいのかね。物心つきはじめた子供たちに、大人になるな、汚れるな、といっても無理なんじゃないかな。それでも、無邪気にサンタを信じられる子供たちは幸せだ。世の中には、信じる時間さえ与えられず、プレゼントすらもらうこともできない子供たちが無数にいるということを、すっぽりと置き忘れてきているような気がして、どーも素直に感情移入することができなかった。
こういう気持ちを代弁しているように思えたのは、屋根に乗り込んでいるホーボーの存在だった。資本主義の物質至上社会に入り込めず、大人になってもポーラ・エクスプレスに乗り込んでしまう男。このはぐれ者の存在こそ、物質主義を修正するための要素のような気がした。もし、主人公の少年がホーボーの男と旅をしつづけたとしたら、この物語ははるかに夢とロマンに満ちた冒険譚になったはず。でもそうしないのは、夢やロマンより現実的なプレゼントの方が子供たちにとって大切な時代になってきているからではないだろうか。ってことは、サンタの存在なんかより、オモチャ屋の動向の方が、子供たちにとってははるかに重大事だってことの証のような気もしたのだった。
Mr.インクレディブル12/8上野東急監督/ブラッド・バード 脚本/●
吹替版/とても面白かった。それに、意外と深い物語だと思う。設定が泣かせる。過去に人気を誇ったスーパーヒーローが、色々と社会の非難にあって引退。現実社会の悲哀を身にしみて感じながら、いつか復活の日を願っている・・・。なんか、切ないし、同情しちゃう人は少なくないんじゃなかろうか。インクレディブル氏の妻も、元スーパーヒーロー。子供たちもそれぞれ超能力を持っているけれど、人前で発揮することは禁じられている。こういうところも、「俺には才能があるけれど、世間(会社)は認めてくれない」と不満をもつ人たちに共通する心理で、なかなか心憎い。昔日の面影のないヒーロー、という設定は決して初めてではないと思う。けれど、これが家族という共同体を得て、ひとりオヤジだけが共感する物語にとどまっていないところが、いいのかも。
物語を構成する要素は、各種映画から選りすぐったものばかりだ。ファン転じて悪役と化すなんてのはバットマンにあったような気がするし、悪の要塞は007シリーズそのまま。音楽まで007に似ていたりする。森の中のチェイスはスター・ウォーズだし、転げ落ちる鉄球はインディ・ジョーンズ。登場する手長ロボットはスパイダーマンにでてきた。いや、他の映画にもいろいろでてきたような要素の効果的なところをてんこ盛りにして、スピード感あふれる物語にしている。見ていて飽きないし、いちいち共感できてしまう。ついさっき見た「ポーラ・エクスプレス」が善意の押しつけみたいな映画でうんざりしていたので、口直しにはもってこいだった。
スーパーヒーローたちが引退せざるを得なかった理由が、面白い。「死にたかったのに助けられた」「列車事故は防いだろうが、ケガをさせられた」と訴えられた、といった具合だ。訴訟社会アメリカへの皮肉だ。正義が通用しなたアメリカ社会に対する不満の噴出がどこか見て取れる。興味深かったのは、悪人がちゃんと死ぬところ。ディズニーは、死んだ、と確認できないような消滅の仕方をするのかとばっかり思っていたのだけれど、ちゃんとやっつけられるし、その死に方も想像できるような描き方だった。インクレディブル氏の保険会社の上司が、イッセー尾形に似ているのがおかしかった。
「ポーラ・エクスプレス」も「Mr.インクレディブル」も吹替版を見たのだけれど、アニメ部分に日本語が入っていたりするのは、これも米国で日本版を製作したのかな?
本編上映前に「バウンディン」という、毛を刈られて悲しむ羊が、元気を取り戻す短編が上映された。
あゝ! 一軒家プロレス12/11シネマミラノ監督/久保直樹脚本/橋本以蔵
原案・総合演出/テリー伊藤だそうである。脚本が杜撰な上に演出が甘い。たとえば獅子王(橋本真也)と一条(ニコラス・ペタス)の因縁、獅子王の妻が「家」にこだわっている理由(簡単にセリフでは話されているが、足りない)、妻麻美(粟田麗)や那美(ソニン)と獅子王の関係、テレビプロデューサー山路(佐野史郎)と獅子王の関係、山路と医師(水道橋博士)との関係、殺人プロレス団体DDDとは何か、など、およそ、物語のベースとなるべき背景が、まったくといっていいほど描かれていない。だから、物語が進行しても「なるほど」という説得力がからきしない。ソニンが橋本を君づけして呼ぶのは、なぜなんだ? という疑問がずっと離れなかったぞ。
プロレス映画の真骨頂であるべき破壊のカタルシスが、これっぽっちもない。橋本が城に乗り込んで戦う相手が、ブロディもどき→外人女子プロ→ゾンビ風→中国導師風・・・とつづくのだけれど、だんだん弱くなっているみたいに見える。しかも、アクションもだんだん小さくなっていく。最後のボスキャラがニコラス・ペタスなんだけど、ここの格闘はほとんど組み合うのみで、何もないに等しい。ぜんぜんプロレスをしていない。こつちは、つまらないものを見せられて、次第に眠くなってきてしまった。
で、すべてはテレビ屋が視聴率欲しさにやり放題・・・って設定は手垢が付きすぎ。まったく意外性がない。ここらへんが、テリー伊藤の底の浅さ、って気がしないでもない。人魚病を起こさせる薬はいいんだが、そういうのができるぐらいなら、治療する薬だってあってもいいだろう。だから、結局、奥さんは人魚になって海に暮らしているってオチは最低だな。ハッピーエンドなのか哀しい別れなのか、なんだか訳の分からない終わり方になってしまっている。どうせなら、最初から最後まで、本当の一軒家をプロレスラーが壊していく映画にでもしたほうが、よっぽどよかったのではないかと思ったりした。橋本は、ところどころ棒読みがあるけれど、まあいい。ソニンは、1ヵ月も訓練すれば本物のプロレスラーになれるんじゃないか? 「家を持ってローンに縛られるなんて、プロレスラーか?」というような、獅子王に対する一条のセリフがあったけれど、ここは一条の見方を全面的に支持したい。素材は面白いのに、単なるバカ映画になってしまっているのが残念。
永遠の片想い12/14ギンレイホール監督/イ・ハン脚本/イ・ハン
とてもタルイ映画だ。とくに前半は緊張感がなくてだらだらと。後半になって、わずかに謎の手紙を出しているのはどっち!? ってな興味がある程度。それと、時制の表現が下手なので、描かれているのが現在なのか過去なのか、分からない部分もあったりした。
青年ジファンがスインとギョンヒという仲良し2人組の女の子と知り合い、そして、当然のように片方の女の子を好きになって関係が崩れ、別れていくという定番ストーリー。スインとギョンヒの存在と、2人の関係性で最後の方にちょっとしたドンデンがあるけれど、たいしたことはない。むしろ、このワンアイディアのために引っ張りすぎで、前半の仲良し3人組での遊興三昧が面白くも何ともないエピソードの積み重ねになっている。3人組の仲良し状態をだらだら見せることなく、もうちょっと意味のある掘り下げ方をしたら、もうちょっとは見られたかも。
最初はスインが好きだと言って2人にアプローチしたジファンが、いつからギョンヒを好きになったのだ? ってな疑問や、元気はつらつな2人の娘は、全然病気持ちに見えなかったぞ、とか。いったい、どういう病気なのだ? とか、突っ込み所も豊富。それに、3人の物語と同時に、ジファンの妹と貸本屋の青年との恋物語が進行するのだけれど、これが本筋とまったく絡まない。意味のないエピソードだ。まあ、脚本のつくりが甘いと言わざるを得ない。
スキャンダル12/14ギンレイホール監督/イ・ジェヨン脚本/イ・ジェヨン、キム・デウ、キム・ヒョンジョン
かなりタルイ映画だ。人間関係は分かりにくいし、内容も"だからどうした"というようなもの。肝心要のSEXシーンはほとんどなくて、色っぽさもほとんどない。ひたすら眠かった。べ・ヨンジュン扮する若い領主が、ある後家(結婚前に亭主が死んで処女のまま貞節を守っている)を落とそうとする話がメインにある。で、領主の従姉妹がいるのだが、これが某官吏の妻で、なにやらこの2人はいっとき相思相愛だったけれど、官吏のところへ嫁に行かされて関係できなかった、ようである。でその従姉妹の亭主に16歳の側室を置くことになったけれど、従姉妹は夫への面当てを考えた。領主に、側室候補を孕ませてくれ、というのだ。領主は「そんなの簡単すぎて・・・それより俺は、処女のままの後家を落とす」と宣告。従姉妹は「それができたら、あたしはあんたと寝てやるよ」という。そんなこんなで領主は側室候補と無理矢理関係して孕ませることに性交、じゃなかった成功。さらに後家への執拗で巧妙な手段によって、こちらも陥落させる。ところが、領主は後家に本気状態になってしまって・・・。側室候補の彼氏は「領主があんたの姉といい関係になっちゃってるよ」と、後家の弟に告げ口し、弟は領主を刺殺。従姉妹は醜聞の的となり、身をやつして都落ち・・・。その後、領主が気まぐれに描きためた、関係した女たちとの春画が巷に流れるという話。おお、こう描いてみるとなかなかストーリーは練れているのだな。なのに、なぜつまらない? うーむ。
韓国には悪いが、登場人物の衣装なんかが、それほど貴族的に見えないってのがあるかも。とくに男性の衣装があまりかっこよくない。ペ・ヨンジュンもたれ目のすけべオヤジにしか見えなくて、ちっとも魅力がない。なんか、上流階級の優雅なラブストーリーに見えないんだよなあ。落とすべき対象の後家もそこそこ魅力的ではあるのだけれど、素朴な上にかなりのオバサン顔。従姉妹役の女優はキツネみたいだ。側室の娘はちょっとかわいいけど、単にそれだけ。どーも、すべてにインパクトが弱いんじゃないか。演出が平板すぎて、ドラマチックが足りない。
ボン・ヴォヤージュ12/22新宿武蔵野館2監督/ジャン=ポール・ラプノー脚本/ジャン=ポール・ラプノー
予告編は見たはずなんだけど、なんか貴族趣味な女の恋物語、ってな印象しかなかった。ところがどっこい、これってヒチコックばりの痛快アクションじゃないか。恋物語なんて付け足しに過ぎない。これって、宣伝方法がまちがってるんじゃないかな。たぶんイザベル・アジャーニの知名度に頼った結果だと思うんだけど。いや、俺も名前だけは知っていたけれど、どんな映画にでているか知らなかったし、実をいうと顔も知らなかった。で、見終わって思うのだけれど、とくに魅力的ではないし、感情移入できる役でもない。むしろ、ヴィルジニー・ルドワイヤンを押し出した方がよかったんじゃないか?
尻軽で自分勝手な女優ヴィヴィアンヌにイザベル・アジャーニ。その知り合いで人のいい作家オジェにグレゴリ・デランジェール。ヴィヴィアンヌに籠絡させられる大臣にジェラール・ドパルデュー。物理学者の助手カミーユにヴィルジニー・ルドワイヤン。オジェの牢獄仲間ラウルにイヴァン・アタル。ドパルドューとルドワイヤンは分かったけれど、あとはまったく初見。アジャーニはまるきりバカ女そのもので、素晴らしい。デランジェールは好青年を演じ、アタルはこういう映画につき物の、犯罪者だけど正義感が強い男を演じて、どちらもとても魅力的。ルドワイヤンはアジャーニと正反対の知的な女をかわいく見せて、よい。他にも物理学者の爺さんやその助手の男、ドイツのスパイ、ヴィヴィアンに言い寄る爺さんとその甥、オジェらが隠れるアパートにいる小説好きな爺さん、ヴィヴィアンヌの知り合いの贅沢しか知らないオバサンとか、とにかく人物設定に妙がある。
で、女優がストーカー爺さんを殺してしまって、その後かたづけに作家が呼び出され、作家が事故を起こして死体が発見されて牢獄へ・・・。っていう発端から見せるし、次第に色んな枝葉が主ストーリーに絡んでくる。それがちやんと整理されていて、なんだか大河小説を見ているような気分になってくる。ほんとうは2日間ぐらいのお話なのに。しかも、背景は第二次大戦のパリ陥落とフランス政府の都落ちがある。この、ヴィシー政府成立までの経過が、また、面白い。こういうなかで、逃げる、追う、邪魔される。助けがくる、といった冒険活劇に必要な要素が見事にカチッとはまってるんだよ。笑いも随所にあるし、もう、最高に楽しい。物理学者とオジェがイギリスに逃れて、これでおしまいかと思うと、ちゃんとその後のエピソードも用意されていて、ドイツ軍に追われた映画館で見る映画にヴィヴィアンヌが出演していて・・・。Finの入れ方も、とても洒落ている。いや、面白かった。
それにしても、映画のホームページを見たら、イザベル・アジャーニって1955年生まれってでてたぞ。するってーと、映画撮影時には48か49歳だぜ。ぜんぜん見えないよ。どーなってんだ。整形か?
恋に落ちる確率12/23シネセゾン渋谷監督/クリストファー・ボー脚本/クリストファー・ボー、モーゲンス・ルーコス
デンマーク映画。夢か現か幻か、恋人のいる青年と人妻との妖しいひとときが描かれる。冒頭に、両手の間に煙草を浮かせてもてあそぶ奇術師が登場する。足が地に着かず、浮ついた様子が象徴されているのかも。
恋人との関係に不満がある様子もない青年。ふと心に魔がさしたのか、駅で見かけた人妻に惹かれて後を追う。人妻の方は、作家である夫の仲間と食事をするのが嫌で、ふと街に出たところ。あるバーに入った人妻を追い、青年もバーへ。そして一夜を過ごす・・・。てな流れなのだけれど、物語は重層的に描かれていて、バーで声をかけるシーンも、別バージョンで違うバーでの出会いが描かれていたりする(ような気がした)。2人が一夜をともにした翌朝の描写も2通りあった。時制が乱れ、しかも、入り組んでいる。並べ直せば分かるようにもできていない。まるで解読を拒否するように操作されている。もうひとつ決定的なのは、2人が一夜をともにした翌日から、青年の部屋がなくなり、恋人や友人からも"見知らぬ人"あつかいされることだ。まるで、もうひとつのパラレルワールドに潜り込んでしまったみたいに、別の人生を生きることになってしまっている。この状態で、2人は再びレストランで食事をするのだけれど、このときすでに人妻から初対面の人扱いされるようになっている。もっとも、ここは人妻が知らないフリをした、ともとれる描写になっているけれど。でも、最後、ホテルでの遭遇ではまったく知らない人扱いだ。結局、青年は他の世界からのエトランゼ、になってしまったのかも知れない。なぜそうならざるを得なかったのか? その答えは、とくに描かれていない。ラストにも奇術師が登場して両手の間に煙草を浮かせている映像で映画は終わるのだけれど、まるで魔術にかかったように一目惚れの恋をして、そして、世界から疎外されていったわけだ。
冒頭から10分ぐらいは何だかわけが分からず、つまらない。だから会話も気を入れて聞いていなかった。もったいぶった言い方で、だからなんなんだよ、つまんねえ映画かな? と思ったのだ。ところが、2人が一夜を過ごし終わってから世界がねじれていって、面白くなっていった。どうなるんだ? でも、結局のところ、ねじれはねじれだけで、ねじれたまま放り投げられてしまった。だから、後半の2〜30分はつまらなくなっていった。つまらないというか、フツーすぎるんだよな。もっと破綻の道を突き進むとか、一気に別世界(たとえば宇宙とか)に行ってしまうとか、最初のシーンに戻ってもう一度やり直すとか、なんか世界をでんぐりがえすような展開だと面白かったんじゃないかと思う。導入部に魅力がなく、中盤は面白くなっていったけれど、最後の盛り上がりに欠けた。奇妙な世界ってのは、好きなんだけどね。ちょいと何かが足りないと思う。
●で、映画のホームページを見たら、ちょっと理解が進んだぞ。なんと、人妻と恋人役は、同じ女優が演じていたのだな。まるっきり気がつかなかった。なるほど。それから、いくつかのシーンに深い意味が込められているようだということ、ダイアログにもいろいろ手がかりがありそうなことも分かった。現実と理想。現実に飽きて理想を追って、仮にその理想を手に入れたとしても、すぐにそれは現実になっていく、とかね。恋は幻想である、とか。いろんな解が導き出せそうだ。もっとも、最初からじっくり見直さないと、仕掛けには気づかないかも知れないけどね。
ターミナル12/28渋東シネタワー2監督/スティーブン・スピルバーグ脚本/ジェフ・ナサンソン、サーシャ・ガバシ
決してつまらないわけではないのだけれど、心に迫るものがほとんどんない。ダメなシーンがあるわけではないのだけれど、盛り上がる場面もない。どっちかといったら、だらん、と伸びきったうどんでも食べているような案配で、うどんには違いないけれど、それほどうまいもんじゃない、ってな感じかな。大きな違和感は、ジャズにある。主人公がアメリカ、それもニューヨークに行きたいわけは、ジャズメンのサイン蒐集だという。それも、何十年も昔の父親のちょっとした趣味のため。そんなことのために遠国からやってくるか? だいたい、サインを何十年もかけて集めるって設定自体も、首をひねってしまう。それを匂わす何か、伏線でもあるってんならまた何とかなるかもしれないけれど、いきなりジャズだからなあ。そのサイン集めが国の存亡に関わるとか、愛しい妻の想い出だとか、もうちょっと感動的ななにかをもってきてくれないと、なるほどって納得できないよなあ。拍子抜けだよ。それに、錚々たるジャズメンのサインをへし曲げてミルク缶に詰め込んでおくなんて、許せんね、
局長になろうかという幹部職員を1人、悪玉に仕立てるという図式はよくある手。でそれ意外の人物が連中がみんないい人すぎるのも、わざとらしい。というか、設定は面白いけれど現実味がないし、ターミナルだけに居てもいいが、といわれてターミナルをうろうろしたり工事中の現場に住み着いたり、いろいろ工事までしちゃうなんてとこまでくると、そりゃあいくらなんでもやりすぎだろう? って思っちゃうね。
浮気なスチュワーデスをちょっと絡めるのも、わざとらしいだけ。全編をおとぎ話にするなら、スチュワーデスとハッピーエンドにしちゃえばよかったんだよ。でもって、教条的な局長は地獄に落としてさ。だって、ケータリングのアンちゃんの恋はちゃんと実らせてやってるじゃないか。
スピルバーグは、なんかフツーの映画しか撮れない監督になっちゃったねえ。わくわくさせてくれないねえ。心に迫ってこないよ。感動がないよ。それじゃ、よくないだろ。
舞台よりすてきな生活12/30銀座テアトルシネマ監督/マイケル・カレスニコ脚本/マイケル・カレスニコ
原題は「How to Kill Your Neighbor's Dog」。日本の題名よりも、こっちの方が面白いよなあ。意味深だし。
スランプに陥っている劇作家には、子供が欲しくてたまらない妻がいる。劇作家は子供に仕事を邪魔されたくない。たまたま隣に母子家庭が越してきた。幼い娘はびっこで、母親はあまり外に出さないような育て方をしている。劇作家の妻は、積極的に娘を預かるようになる。それをうっとおしく思う劇作家・・・。台本の中で子供が描けていない、と指摘された劇作家は、業務上の興味から娘にアプローチ。次第に子供の魅力に虜にされていく、という話。設定自体は珍しいものではない。けれど、ディテールがなかなか凝っていて、おもしろい。たとえば、セリフに「1年に4回不眠症になる。それも、1回に3ヵ月つづく」というのがあったり、「結婚したら女房は、ゴミ捨てに行くときぐらいしか"イク"と言わなくなった」(原文ではどう言ってるのかな?)とか、ちょいと洒落ているのだ。なるほど劇作家だけあってウィットに富んでいると思わせるよね。セリフによると「優れた演出家はゲイ」らしいが、その演出家の仮装パーティで、タバコが吸いたくなった劇作家がベランダに出ると、同業者が1人孤独に激白していたり。舞台の練習のとき、必ず清掃の男がいて台本に注文をつけるのも面白い。「掃除してる男が台本に注文をつけるのがおかしいか? あんたらは掃除がちやんとできてなかったら注文をつけてくるじゃないか」とやり返されて返答できなくなったり。同姓同名のストーカーが夜な夜な登場したりもする。劇作家はインポになって前立腺炎になって尻の穴に指を突っ込まれたりもする。新しい芝居のオープニングに行く途中、クルマの後部座席で妻とセックスしたりもする。こういうディテールが、人物や、生活環境に厚みを加えているし、皮肉も効いていたりする。
で、娘である。可愛いのだけれど、とくにクローズアップされていないところが、いいと思う。これがダコタ・ファニングだったりしたら顔のアップだとかお涙頂戴シーンがぞろぞろでてくるんだろうけれど、適当な距離をおいて描いているから冷静に見ることができると思う。いや、最初の数10分で、これは泣かせる物語を狙っているのかもな、と思ったのだけれど、そうならず、シリアスな部分もあるコメディになっていたので、実は安心したのだった。劇作家妻は足の悪い娘にダンスを教える。母親は、ムリに人前に出すことを嫌がる。ここで、劇作家が母親と口論する・・・。ここから、いくらでもエピソードはつくることができる。お涙頂戴にすることははたやすい。けれど、あえてそうしない。その距離の置き方は、正しいと思う。母親は劇作家夫婦の干渉を嫌って、また、元の亭主と仲直りして引っ越していく。これでは娘に救いはない。救いはないけれど、世の中は大概そういうものである。母親が自分の行動を反省したりすることは少ないし、母親が死んでしまって劇作家夫妻が引き取ると行ったご都合主義的な展開もフツーはあり得ない。ごくごく一般的なレベルで、問題を解決することなくやりすごしていく(ほかない)様子が描かれているのも、妙に納得させる。その意味では、コメディといいながら、実に現実的に対象を描いているといえる。惜しむらくは劇中劇で、始めは演出家や清掃人からも評価されていなかったのが次第によくなってくる、という展開のはずなんだけれど、どこがどうよくなっているのか見えてこない。これは、こちらの鑑賞眼に問題があるのだろうか?
隣の家の犬を殺す方法。それは、エンドクレジットの途中で証される。犬は死んだふりをしていた。つまり芝居である。隣の犬は、そう簡単に殺せない。殺したら犯罪になる。あり得ないようなことを台本にしている劇作家。その日常は、かなりありふれているのだ。隣のアルメニア人が飼っている犬の声がうるさいからといって、そう簡単に殺すことなんかできやしない。ところが、それを簡単にやってのけてしまう人がいる。それは、意外にもごくフツーの大衆の中にいたりすることも描かれている。同姓同名の男。映画の中ではドッペルゲンガー=もう1人の邪悪な自分=分身として描かれている。劇作家として、自分の潜在的な思いを台本にしている自分でも、現実は変えられない。まして、他人の生活(びっこの娘の未来)など変えようもない。なのに、現実を簡単に変えてしまう他人(ストーカー)が、すぐ隣にいるという不気味さも描いているところが面白い。

 
 

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