2005年1月

ゴーストシャウト1/7テアトル新宿監督/塚本連平脚本/EN(榎本憲男)、佐々木充郭
ここまで外しまくるってのも、ある意味で才能かも知れない。しかし、外している面白さも何もつたわってこない。ということは、単なる下手という他はない。というわけで、前半途中で20分ほど熟睡してしまった。しかし、ストーリーにはまったく影響なかった。
話が単純なわりに、やたらダイアログが多くて長い。それも、本筋に関係ないようなムダなダイアログが多い。きっと元の脚本に誰も文句をつけず、そのまま行ってしまったに違いない。複数の目で検閲すれば、もう少しまともになったやも知れぬが、傑作になる可能性のないストーリーだな。本家のゴーストバスターのようにオバケ退治が主物語でないところが、大幅につまらない。やっぱり、いろんなオバケが、それも怖いヤツとかひょうきん者とか、バラエティに富んだオバケが登場して人々に迷惑をかける、っていうのが主物語にならんと、面白くならないだろ。妙な恋愛コメディを混ぜたりするから、話がタルくなるのだ。
演出もベタすぎ。カット割りにも新鮮味がなく、だらーっとしてる。つまらない脚本をさらにつまらなく演出している感じがして、気怠ささえともなってくる映像だ。でている役者はそれなりに有名所がいたりするのに、ぜんぜんそのメリットが活かされていない。撮影に入る前に、もうちょっと真剣に、撮るべき映画なのかどうか検討するべきだったろう。それにしても、南野陽子のでずっぱり歌いつぱなしには辟易した。
「ゴースト・コーディネーター」から「ゴーストシャウト」にタイトルが変わったらしい。何でも公開直前に細木数子の助言で変えたのだという。デキレースなのかも知れないけど、それにしてもつまらない話題づくりだ。
カンフーハッスル1/12上野東急2監督/チャウ・シンチー脚本/チャウ・シンチー、ツァン・カンチョン、チャン・マンキョン、ローラ・フオ
香港映画にしては脚本が練られていて、ちゃんと伏線もあったりする。アクションにギャグ、ロマンスまで交えてストーリーは切れ目なくノンストップ。転がるようにして展開していく。登場人物のキャラが、みんな濃い。主人公と相棒。大家夫妻。オカマの仕立屋。唇の厚い女(彼女が一番目立ったなあ)、殺し屋たちや斧頭会のボスとメガネの補佐。唖の娘も可愛い。人物に関してはもう、いうことなしの濃さだ。
マンガやアニメの表現を実写で行なっている部分と、ちゃんと真面目に演技している部分がほどよく調和して、バランスが取れている。漫画的表現のためにCGもワイヤー使いまくりだけれど、それはしょうがないことかも知れない。といっても、ちゃんと生身で戦っている最初の頃のアクションは迫力があるけれど、だんだんCGが多くなってきて俄然つまらなくなる。現に、2度寝てしまった。琴の殺し屋あたりから少し眠くなりはじめて、殺し屋と大家夫妻のバトルの途中から寝た。で、殺し屋が謝りながら逆襲にでるところで目覚めた。さらに、ラスト近くのアクションで、主人公と殺し屋のバトルの途中で寝た。どーせCGだろ、と思ってしまうのだろうなあ。そうすると気が緩んで、疲れがあったりすると寝てしまうのだ。前半はよかったんだけどねえ、である。
黒服がうじゃうじゃでてくるところは「マトリックス」、骸骨戦士がでてくるところは「パイレーツ・オブ・カリビアン」を連想させる。他にも、らしきところは合ったような気がするが、それほどでもなかった。
事象を象徴するようなイメージが何カ所があったのも印象的。たとえば、主人公が殺し屋を助け出すシーンでは、廊下に血の川。主人公がぼこぼこにされて包帯巻きになり、再生するところではアゲハチョウの孵化。ここぞというところで、こういう初歩的なモンタージュが使われているのは初々しい感じがするね。
ところで、唖娘との再開のとき背後に「オペラ・ハット」の大きな看板があったけれど、映画は1936年の製作。すると、時代設定もそのぐらいということなのかな?
カンフーハッスル1/12上野東急2監督/チャウ・シンチー脚本/チャウ・シンチー、ツァン・カンチョン、チャン・マンキョン、ローラ・フオ
実をいうと、頭の5分ぐらいを見ていなかった。映画館に着くのが遅れたのだ。それで冒頭のエピソードを見て、なるほどと思うことか少しあった。で、豚小屋砦のバトルが終わったらでようかな、と思っていたのだけれど、時間もあるし、寝てしまったところをちゃんと見ようかと途中で考えが変わった。2度目の方がすらすらと見られたなあ。映画にリズムがあるのが分かる。ムダなシーンはほとんどなく、緻密な構成で物語が運んでいくことも。もっとも、最初の豚小屋砦で、斧頭会のリーダーがやられた理由は分からなかった。あの半ケツ青年がやっつけたとは思えないよなあ。豚小屋砦のカンフー上手3人も、砦内を紹介しつつうまく描かれていた。なるほどである。それに、唖娘が路面電車に乗って逃げる主人公を追ったのが、無銭飲食のせいではなく、かつて助けてくれた少年を追ったということも、はっきり分かった。うーむ。映画は2度見ると発見があるなあ。というか、発見があるほど、ちゃんと考えてつくられている、ということでもあるのだろうが。ラストで唖娘を迎える主人公のシーンは、1回目より感動的に見られたぞ。それにしても、主人公が突然あんなに強くなっちゃったのは、カンフー本を売っていた老人から、たくさんの本を買って勉強していたから、なのかな?
アイ, ロボット1/14ギンレイホール監督/アレックス・プロヤス脚本/ジェフ・ヴィンターandアキヴァ・ゴールズマン
アシモフの「I,Robot」が原案らしいが、原典を読んでいないのでストーリーの共通性は分からず。アシモフが考案したはずのロボット3原則がキーになっていて、それを破って人間に刃向かうロボットが登場するが、果たして黒幕は? というのが見どころのはず。しかし、結末はありがちなもので驚きはない。むしろ、その陰謀をかぎ取った科学者の行動が「?」である。科学者は黒幕の存在を知り、刑事(ウィル・スミス)に暗示させる。そのために、自分が開発した感情を持つロボットに自分を殺させるのである。なんとも不可解。そんな七面倒臭いことしないで、刑事を呼んではっきり口で言えばいいじゃないか。なにも自分が死んでまで告発する必要はない。なので、この映画は、謎解きとしては三流。ストーリー展開も二流。ヤマ場がなくて平板過ぎる。しかも、人間ドラマがどこにもないときている。おかげで前半に少し眠くなり、あとは、目は開いていたけれどボーッと眺めているだけだった。だって、所詮CGと思うと迫力も何も感じられないのだもの。せめて刑事と女科学者のロマンスとか、自身の腕がロボットであることの苦悩であるとか、そういう部分をもっと取り上げて欲しかった。または、感情のあるロボットの哀しみをもうちょっと表現するとか。というわけで、最初の頃の町の様子、たとえば、市街に貼り出されている広告とか乗物とか日用品とか、そういうものがどう描写されているかには興味をもったけれど、あとはクソである。
理由1/17新宿武蔵野館3監督/大林宣彦脚本/大林宣彦、石森史郎
宮部みゆき「理由」の映画化だ。原作は読んでいるけれど、大まかな流れしか覚えていない。だから、問題なく楽しめた。複雑で情報量の多い原作を処理するため、原作と同じ様な構成にしてしまっている。客観描写ではなく、テレビ局が事件の関係者を取材しているというスタイルにしたのは、成功だ。客観描写だとムダな時間が食われるが、このスタイルだと情報をうまく観客につたえられるからだ。もっとも、単調にならないよういろいろ工夫している。小糸信治の姉は経営する学習塾でインタビューを受けるのだけれど、背景にある洗面台の蛇口から水が流れ出したまま。途中で気づいて止めるのだけれど、水滴のしたたる音がつづいている・・・とか。小林稔侍扮する弁護士の周囲を美人秘書がうろついたり、とか。音響さんのマイクが画面に入ったり。いろいろな演出で、関係者の話に色をつけている。この辺りが、巧みだ。しかも、全編を通じて主人公がいないときている。でてくる役者は、みな素材と化している。これも、大胆だ。気になったのはセリフの言い回し。なんかくどくて、もったりしている。
全体にみると、扱っているテーマは暗く深い。なんだか「飢餓海峡」でも見ているような気分になってしまった。なにより、リアルなのだ。そのリアルは、画面に映されるほんの数年前の情景が、決して華々しく洗練されているものではないことにも伺える。木賃宿片倉ハウスなど昭和30年代の趣で、案内や注意書きは筆文字。室内のどこにも現代が感じられない。いや、それでいいのだと思う。荒川辺りの古い家は、いまだってあんな感じなのだろう。それが、ときおりしか映らないマンション生活の虚飾に満ちた内装と対比されて、よりリアリティを感じさせてくれるのだ。お見事。全体の構成といい画面の質感といい、大林宣彦にこういうスタイルがあったのかと、ちょっと驚き。
とはいえ、ラストが盛り上がらない。大きな理由のひとつは、占有屋の1人の八代が他の3人を殺害した理由が結局分からないことだ。監督も困ってしまったのか、最後に字幕で「分からない」とか「同じ様な人はどこにもいる」といったようなご託を並べていた。これは宮部の文章なのか確かめていないけれど、かなり説得力のない文章だった。もうひとつの脱力は、競売物件を買った石田の行動だ。事件当日、扇遊屋と交渉するためマンションに行き現場を目撃する。そこに八代の恋人綾子がくる。で、いろいろあって、綾子を逃がして自分が罪を着ようということになる。これが分からない。いくら死体が転がっていようとなんだろうと、自分が手を下していない犯罪の下手人になって逃げ回る必要がどこにある? だいいち、石田が出頭して、結局、話は警察に納得してもらい、無罪放免になっているわけだしね。それと、綾子の名前を聞くのはいいが、このとき電話番号も聞いてしまった、という設定にはムリがあるだろうな。まあ、とにかく。とんだところで原作の弱点が露わになってしまった。宮部の力業で小説は読めた。綿密な取材による詳細な描写は圧倒的だった。映画でも、事実を追っていく過程は鋭い。が、もともとの事件にはたいした謎もなくて、そうなってしまった経緯にも不可思議なことがあまりないことが分かっちゃうのだ。
この映画のラストは、取材をつづけるテレビクルーの存在を明らかにし、さらに映画かが進んでいる、ということで大林を含むこの映画のクルーまでが映ってしまうのだけれど、こういうからくりをもってきたのは、やはり、登場人物たちの動機に説得力がないことが分かったからではないか、と思う。
冒頭の荒川区の説明はともかくとして、ラストの文字による解説は、蛇足だろう。むしろ、八代の生活や思いを、もう少し映画的に描写すべきだったと思う。さらに、八代が降下していって街の光に溶け込むCGは、さらに要らない。なんか、ここだけが従来の大林タッチなのではあるけれどね。それと、片倉ハウスの少女が、交番に行ったときに宿のサンダルを履いてきた理由が、説明不足。っていうか、よけいな関心を惹くだけで、意味がない演出になっていたな。それと、冒頭近く、久本が土砂降りの中タクシーでマンションに戻り、タクシーが地下へと回り込んだときの車体が濡れていないのはとてもヘンだ。なぜ撮り直さなかったのだろう?
銀のエンゼル1/17シネマミラノ監督/鈴井貴之脚本/木田紀生
いまひとつ生理的に合わなかった。その理由は、ひとつには確固とした芯がないこと。そして、映画的な流れを感じさせなかったからだ。つまりまあ、誰が何をして、どうなる、または、どうしたいのか? といった、"意志"が皆目感じられなかったってことだ。物語っていうのは、何かが起きて対立したりして、最終的にそれがなんとなくまとまったり、まとまらなかったりするものだろ。なのに、この映画には、娘の大学受験という1つのエピソードに関しては対立と和解というドラマがあるけれど、他にはなにもないのだ。たんに、北海道の原野の中にあるコンビニで起きるいろいろ、の羅列でしかない。しかも、コンビニもドラマが起きる場所としての印象が弱い。それじゃ、つまらないよ。
ほのめかしは、ある。店長の小日向と離婚して帰省している山口もえ。なんか、ワケありのようだけれど、結局なんの説明もされない。山口と、一緒にいた男性客。あれは何だったんだ? 流れ者のバイト店員。山を切って道を造っていたのか? で、なにをやって指名手配なんだよ? といった具合で、1場面ものの人物交錯ドラマ(グランドホテル形式に近いかな)としては、弱い。人物はだらだらとしゃべるけれど、結局のところ底が浅いし、まあ、脚本と演出のせいだと思うけれど、で、何がいいたいの? と突っ込みたくなるね。
しかし、北海道では東京の大学に進学することがそんなに大事件なのかい? そんなことで親子が仲違いするって、30年ぐらい前のテーマじゃないか? 小日向と浅田の両親だけれど、この2人の描写もいい加減。仕事に一所懸命でなさそうな小日向が娘のことに関心がないだの、浅田は母親なのに娘の家出に関しては出番なしで反応が分からない。これって片手落ちじゃないか? そのくせ、小日向とガスステーション店長とのシーンは妙に凝っている。わざわざ屋根に上がって珈琲を飲み、カップを飲む動作までシンクロしているのは、なんだ? 銀のエンゼル、チョコボールが活かされていないだろ! しかも、妻の浅田はコンビニは辞めるといい、戦力だった青年は失踪、娘は結局東京へ、山口とはなにもなし・・・というのに、小日向店長はせいせいした表情で登場する。何も解決していないのに、伸びをしている場合か? というわけで、全体のトーンも滅茶苦茶。正直にいうと、ひたすら眠かった。同様に主人公のいない「理由」の緊張感を味わった後にこの映画は、かなり辛いものがありすぎたぞ。
ソウ1/18新宿武蔵野館2監督/ジェームズ・ワン脚本/リー・ワネル
いやー、うまくハメられちゃったよ。心を逆なでされるような描写もあったりして、いささかエグイのであるが、話は巧妙。最初の設定は一発芸に近いのだけれど、そのあとの展開がすばらしい。途中でちょいユルくなるところもあるのだけれど、それも計算ずくかも知れない。密室の閉じ込められた2人。互いに部屋の端に鎖でつながれ、自由が制限されている。中央には頭を打ち砕かれた死体・・・。いったい何が起こったのか? てなオープニングから、次第にそれまでの経緯や2人の男の経歴などが紹介されていく。同時に、犯人を追う黒人と東洋人の刑事も動いている。犯人に迫るが、逃げられてしまった刑事。そして、いま真犯人に迫れるか? 密室の2人の駆け引きがあったり、犯人らしき人物に迫っていく過程が描写されるのだけれど、案外簡単に犯人が分かっちゃうのだなあ、と思ったのが大どんでん返し。おおおおお!!!!! やってくれるじゃないか。ユルくしたのは、計画的だったのだ。
ということで、グロな描写などに目くらましされて、一杯食ってしまったわけだが。やっぱりアラもある。たとえばカミソリ網、火だるま、顎砕き、頭にドリル・・・とつづく連続監禁事件の被害者は、あれはみな病院関係だったのか? であれば、警察はもっと早く犯人の目星をつけてもいいんじゃないか? 見ている分には、どーも関係者に見えなかったのだが、するってーとどういう人々だったのだ? 関係者でないとしたら、なぜ被害者になったのだ? という疑問が浮かんでくる。こいつが犯人、と思わせて実は違った雑役婦であるが、どうやって真犯人は彼をコントロールできたのだろう? 彼は自由にそこいらへんを移動できたんだから、監禁されていたわけではないだろうに。とういう秘密を握られていたのだろう? 黒人刑事が現場に居合わせたのは、あれは単なる偶然だよなあ。彼は医師を犯人だと思い込み、張り込んでいたんだろ? で、カメラマンも雇っていた、と。それで巻き込まれてしまったわけであるが、真犯人の怒りの矛先としては、無関係に近いんじゃないのかね。それになにより、末期の患者の強いこと強いこと。どーなってんだ? と、そのあたりが、ちょいと突っ込み所だったりするのである。原題は"SAW"。
バレエ・カンパニー1/20ギンレイホール監督/ロバート・アルトマン脚本/バーバラ・ターナー
アルトマンといえばアメリカン・ニュー・シネマだ。まーだ撮ってたのか、であり、どんなのを撮ってんだ? である。最近のアルトマン作品は見てなかったしね。で。バレエである。なんだよ、軟弱路線かよ。でも、「フェーム」みたいな群像劇だったりしたらいいんだが、と思って見はじめたらタッチは「フェーム」みたいなんだけど、中味は全く違った。で、少しがっかり。群像劇ではなかったし、学んだり失敗したりしながら成長していくドラマでもない。はっきりいっちゃって、すべてに食い足らなさが残る映画だった。その原因のひとつは、対象をはっきり描き出そうとしていないこと。主人公のダンサー、ライにしてもどういう境遇で何を求め何を考えているか、などが全く描かれない。他のミスターAも、その他、でてくる人々のほとんどに対して説明しようとしていない。これじゃ、誰にも感情移入はできない。個々の人物に対する描き込みが丁寧なら、面白い物語になっただろうに。面白くなりそうなエピソードの断片はあるんだよ。劇団のメインダンサーが降ろされそうになっているとか、アキレス腱を切るダンサーがいたり、公園週間前に降ろされるダンサーがいたり。でも、それがどういう役回りででていたかが分からないから、単なるそれだけのエピソードに終わってしまっている。もったいないと思う。
「スクリーム」のネーヴ・キャンベルが主演。あまり美人じゃないので、ぐぐっと引っ張る力は弱い。HPを見たら彼女の体験がもとになっていて、バレエも吹き替えなしの彼女がやっているんだとか。ふーん。でも、ふーん、で片づけられちゃうような舞台裏だよな。
堕天使のパスポート1/20ギンレイホール監督/スティーヴン・フリアーズ脚本/スティーヴン・ナイト
イギリスにおける不法外国人労働者の実体を描写しつつ、彼らを食い物にする臓器売買がからんでくる社会派映画。であるが、娯楽的要素もちゃんと含まれているし、ロマンスもある。バランスよく要素がまとめられていて、とても興味深く見てしまった。「アメリ」のオドレイ・トトゥがでているせいで彼女を前面に出して宣伝していたようだけれど、むしろセルジ・ロペスが主演だろ、これって。
人物の描き込みが素晴らしい。トルコ娘のシェナイ、ナイジェリア人のオクウェが中心だけれど、中国人の剖検医(?)、黒人娼婦、ホテルのドアマン、ホテルのやくざな支配人(?)、タクシー会社のボス・・・。みなワケありの連中ばかり。それぞれ個性的に描かれていて、インパクトが強い。話もかっちりできあがっていて、スキがない。あらを探しているような暇もなく、見せられてしまう。
移民が巣くうロンドン。ニューヨークなみに暗部があり、はい出ようと言う人々がうごめいている、ECに加盟しようというトルコを二流国といったら失礼かも知れないけど、でも、やっぱり先進国とはいえないやな。アフリカの国々や難民を排出するようなアジアの国々。そういう後進国から逃げ出してくる人々を単に救済するだけじゃ問題は解決しないよなあ。どこも民主主義が発達してないんだろ? と、観客に思わせる効果はかなりあると思う。ここいらへんが評価の分かれ目か。
こういう後進国に金を注ぎ込んで西欧的な価値観を植え付け非科学的な文化や怪しい宗教から解放して欧米先進諸国に貢献する国家をつくるべきだ、と考えるか。それとも、たとえ呪いであろうと各国の自主性を尊重して非科学的なまま放置し、部族間対立にも関与せず、勝手に崩壊していくのを見つめるか。どっちかしなないだろ。先進国が金を出してあとは各国の自主性にまかせる、なんてことは不可能だし。難しいところである。
そんなことまで考えさせてくれる映画だけれど、シェナイとオクウェの心のふれあいや、サスペンスドラマとしても見せてくれる。最後にはあっと驚く意外なドンデンもあったりして、お見事。
いま、会いにゆきます1/20上野東急監督/土井裕泰脚本/岡田惠和
いろいろと不自然な映画である。死んだ人が甦る話(というより、タイムスリップものと呼んだ方がいいかも知れないが)なのに、甦ってきた人と出会っても周囲の人は大して驚いていないというのがヘンだ。中村獅童の亭主と息子など、喜んでいる。ちょっとは不気味がれといいたい。他人で会っている獅童の同僚の市川実日子は多少たじろいでいたけれど、叫びだしたりしていない。なんでだ? 一歩間違えば「呪怨」の世界だろ、これって。獅童と息子の会話も気持ち悪い。子供に敬語を使う父親。父親を愛称と君づけで呼ぶ子供。おかしいだろ。甦ってきた女房は記憶がないとはいえ、はいはい、と言われるがまま獅童のいえにやってきて住み着いてしまうというのも、ヘンだ。住み着いた女房が横に寝ているのに、迫っていかない亭主も不思議だ。というわけで、いろいろとムリのある設定を強引にまとめてしまっているわけで、見ていてずっと疎外感を感じないわけにはいかなかった。どうせつくなら、もっと上手いウソをついてくれよ、と。最後で、実は中村獅童→竹内結子の片思いでなく、竹内→中村の片思いでもあり、互いにそれを知らないで過ごしていたことが明らかになる。それで、なぜ結婚したか、競技場の電気はなぜ消えたか、といった疑問が解消されるのであるけれど、それでも変なところが多すぎる。
息子がタイムカプセルと呼ぶ缶の中には、中村→竹内に宛てた手紙と、竹内の日記が入っていた。その日記を中村はいつ読んだのだろう? 竹内の死後とすると1年前だ。そのときすでに、1年後の梅雨に甦ってくることを知っていたことになる。だから確信していたのだろう。それはいい。大学生の竹内が何年後かに甦ったとき、自分が誰だか分からない状態で甦った、ということを竹内はどう理解したかが分からない。夢の中では自分が赤の他人となって獅童や息子と過ごし、覚醒してのちに「ああ、あれは彼氏だったわ」と思ったってことが。どーも理解できないなあ。獅童にとっては7〜8歳若返った妻が戻ってきて、2人で過ごした夜は、これがホントの初夜になるわけだよなあ。その辺りもよくわからん。それと、中村の病気というのは、なんなんだ? 広場恐怖症なのか? なのに日常的な仕事がこなせるってのも、ヘンだよなあ。あー、あと、自転車は車道を右側通行してはいけないよ。
僕の彼女を紹介します1/26テアトル池袋監督/クァク・ジェヨン脚本/クァク・ジェヨン
主人公のキャラクター造形もお話も、なんだか「猟奇的な彼女」の焼き直しだな、と思ったら、主演のチョン・ジヒョンだけじやなくて監督も「猟奇的な彼女」の人だって。ふーん。柳の下を狙ったわけか。で、我が儘で反省のない女警官を演ずるチョン・ジヒョンを見ていたら、青木さやかを連想してしまった。そこそこまとまった面立ちをしているけれど、よーく細部を見ていくと壊れているし、オバサン顔なのも共通している。もっとも、チョン・ジヒョンの方が可愛くまとまっているけどね。でも、彼女、二重アゴになっていたりして、かなり太ったんではないのか? 前からそうだっけ?
前半はもうコミカル。人のいい青年教師が正義感は強いけど一方的な女警官に利用される? っていうか、半ば惚れられててんやわんや。色気も何もない世界で、バカ話がつづいていく。で、半ばに悲劇が待ち受けていて、今度は死後の復活劇となって、ちょっと泣かせてくれるという寸法。後半にはちょっとしたアクションもあって、一粒で何度もオイシイ映画だった。ま、もっとも、彼氏の教師が死んでしまうという設定はちょっとなあ・・・と思うのだけれど、あくまでもチョン・ジヒョンが主人公だからしょうがないか。可哀想な先生! 面白かったのは、というか、すっかり引っかかってしまったのは先生の復活シーン。「なに? 実は生きていた!?」という話の進行には何てチープな、と思ったのだけれど、それは実は夢の中のシーンで、実はやっぱりという仕掛け。上手いところをついてくる脚本だ。いや、前半のコミカルな部分のエピソードもちゃんと後半に効いてきていて、なかなか伏線も張り巡らされている。かなり練られてはいる。チョン・ジヒョンの魅力だけじゃなくて、本もしっかりしているのがよろしい。
音楽が印象的。割と知られている曲を随所に埋め込んでいる。お、と思ったら日本語の曲も入っていた。もう、映画に使われても大丈夫になったのか。それと、印象的だったのはオープニングの俯瞰からの夜景。ビルの続く大都会がとてもきれいだ。いままで見た韓国映画にこういう描写がなかったと思うので、とてもかっこよかった。でもな、題名はヘンだよな。これは、天国からのメッセージかい?
ピエロの赤い鼻1/31ギンレイホール監督/ジャン・ベッケル脚本/ジャン・コスモ、ギョーム・ローラン
反抗期の少年が父の秘密を知って尊敬するようになる話。こう書くと単純な話って思われそうだが、このチープな設定は"ついで"に用意されたようなものなので別に気にはならない。知らされる秘密がそこそこ上手くできているからだ。といっても意外な事実じゃない。父はなぜピエロになったかという、だいたい見当のつく出来事だ。背景となっているのは、ナチスドイツ占領下のフランス。父はまだ若い教師だった。仲間の帽子屋とつるんで、めあての彼女に接近しようとしていた。この2人がまるでお笑い凸凹コンビ。やることなすことマヌケで、教師にはとても見えないところがおかしい。で、彼女にいいところを見せようとドイツ軍の鉄道を爆破してしまう。ドイツ軍は犯人を確定するため村人を4人隔離し、明朝までに真犯人が名乗り出なかったら4人は射殺するという。これがシリアスドラマなら緊張感たっぷりなんだろうけど、この映画のテーマは"笑いで人々を救おう"だから、そう簡単に問屋は卸さない。隔離された4人の中に凸凹コンビが含まれてしまっているのだよ。で、今度は4人が隔離された穴の中で、今度は凸凹カルテットを演じ始めるのだ。悲壮感よりコミカル色が強く、笑いっぱなし。で、そこに彼らと心を通わせようという1人のドイツ兵が現れてピエロを演じるのだが・・・。予想できるからこそもの悲しい展開となっていく。といっても、「ライフ・イズ・ビューティフル」みたいにあざとくないのが、かえって清々しい。哀しみの押しつけになっていないのだ。"そんなことあるわけない"と思わせて、でも、メッセージの普遍性だけは失っていないというか。"つくりもの感(ファンタジーともいえるかな)"が効果を発揮しているのかも。もっとも、全体に古めかしい感じがしなくもない。20年ぐらい前の映画だよ、っていっても信じ込んじゃうような出来でもある。
第二次大戦が終了して60年が経とうというのに、相変わらず反ナチ映画は作り続けられている。ま、それでいいんだけどね。まだ体験者が生きているのだから。聞くところによるとヨーロッパでは反ユダヤ主義が盛んになりつつあるんだという。のど元過ぎればなんとやら。これは、日本だけの話ではないようだ。こういう流れを少しでもとどめるために、反ナチ映画は相変わらず撮られているのだろう。この傾向がなくなったときが、危ないのかもしれない。
ピエロになった先生、そして帽子屋は贖罪の意識で生活していく他ないのだろう。思いがけなく人を不幸にしてしまった罪。それを一生背負っていく人生。まさに、ピエロである。
現在(1960年代初期?)から過去(ナチ占領下)を回顧する構成になっているのはいいが、登場人物がおなじなのだよな。だから、過去の、本来は若い教師と帽子屋が、すごくジジイのままでてくる。役者の持ち味に頼っている映画だからこうしたのかも知れないけれど、60近く見える連中が恋だ何だと話している様子は、なんかちょっと不気味だったな。

 
 

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