ハウルの動く城 | 2/1 | 新宿グランドオデオン座 | 監督/宮崎駿 | 脚本/宮崎駿 |
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つまんねえ。ぜんぜんワクワクしない。もう端っから不愉快な気分になってしまった。だって、話に必然性がねえんだもん。 魔法使いが日常的にいる国や世界は、いい。得体の知れない乗物もいい。超時代性も構わない。だけど、そもそもなぜソフィーが荒れ地の魔女に呪いをかけられたのか、わからない。荒れ地の魔女はまたハウルを狙っているらしいのだけれど、その理由が分からない。さらに、あの城がなんだかわからない。分からないままどんどん話が進み、ソフィーは呪いで老婆にさせられて嘆き悲しむわけでもなく、いつのまにかハウルの城の住人となってしまう。ぜーんぜん必然性がない。あとから解き明かしもない。・・・まあ、ソフィーが過去のハウルに会い、なぜハウルが心臓=火の精であるカルシファーと一心同体となった過程は目撃しているけれど、それでも、そうなった理由までは描かれていない。要するに、肝心なところはまったく描かれていなくて、勝手に想像しろといっているようなものだ。これでは、すとん、と納得できるわけがない。さらに、ソフィーに呪いをかけた荒れ地の魔女も、王室の魔女サリマンに簡単に腑抜けにされてしまう。これじゃ、ソフィーの追い求める悪者がいなくなっちゃうではないか。というわけで、対立関係がまともに描かれない。これでは、もやもや状態がつづいてしまうではないか。反戦主義もとってつけたようで、浮いている。さらに、最初の方では、何でもかんでもセリフでいろいろと説明しすぎだと思うぞ。 ソフィーの声が倍賞千恵子なのだな。あれ? こんな若い声だっけ? と訝しく思ったのだけれど、クレジットがそうだった。透明な声は、衰えていないね。見終わってから、たしか木村拓哉が・・・と思ったら、ハウルだったのかい。気づかなかった。ってか、ドラマを演じているときはいつもぎこちないのに、ここではとても自然だったのに驚き。 絵がヘンだ。ハウルは少女マンガにでてくる男みたいだし。ソフィーも顔立ちがこれまでの宮崎アニメのタッチと違う。なんか、気持ちの悪い顔立ちだ。全般的に絵は最初の30分ぐらいがゴージャスに描き込まれている。けれど、目を見張るほどかというとさにあらず。デッサンが狂い加減だったり色が邪魔していたり。むしろ、後半になるにつれて、従来までの宮崎アニメのもつ二次元的セル画になってきて、しっくり落ち着いてきたと思う。それから。ソフィーの顔のタッチがしょっちゅう変わるところで、ちょっと納得いかない部分がある。歳をとってしまったのに若く描かれるのが、それが、ソフィーの内面を表していたり、または、ハウルの心に映るソフィーであれば、それは構わない。そうではないときに変わるのだ。ひとつは寝ているとき。ソフィーにかけられた呪いは、寝ているときにはとけるのか? そうしたら、少年マルクルにもわかっちまうじゃないか。他には、適宜、18〜50歳ぐらいまでの間の顔に変わる。これには一体どういう意味があるのだろう? | ||||
アウト・オブ・タイム | 2/1 | 新宿ピカデリー4 | 監督/デヴィッド・カーソン | 脚本/トム・ヴォーン |
"Nine Lives"が原題。アクションだけに特化したB級プログラムピクチャ。・・・にしては話が込み入りすぎてよく分からない。冒頭で起こるごちゃごちゃしたことは、実は3つの場面が交錯していることが後から分かるのだが、それにしても分かりづらい。俺なんかしばらく(1)女刑事と元軍人カップルの話と(2)麻薬取引ギャングの話の2つかと思っていたぐらいだ。ところが、ギャングの話だと思っていたのは(2)FBIまたはCIAのどっちか(3)サリバンという男が首謀者の売人、らしい。らしい、というのは、見終わった後でも分からないからで、かといってもう1回見ようか、という気にもさせてくれなかったので、そのままにしている。何がどうなっているのか分からないけれど、もー、どうでもいい。できれば、誰が「暗示効果のある麻薬」を開発し、誰がどこに横流しし、誰が買おうとしているのか、ってなところをキチンと描いて欲しかった。別に、人間を深く掘り下げて描いてくれなどという要求はしない。こういう映画は、これで構わない。 女刑事役の女優が、年を食ってはいるがなかなか格好良かった。主人公のボスニアで残酷な体験をした元軍人の黒人俳優は、いまひとつ魅力に乏しいかな。 | ||||
オーシャンズ12 | 2/3 | 上野東急 | 監督/スティーブン・ソダーバーグ | 脚本/ジョージ・ノルフィ |
うーん。なんか展開が早すぎて何のことやらよく分からないところ、ありすぎ。説明も足らなすぎ。 で。ラストで大芝居が明かされるのだけれど、これも「?」だ。わざわざ逮捕されたのも芝居なのかい? 芝居だとすると、マット・デイモンのお母ちゃんがやってきて出してくれたのは、どーゆーことだ? いや、そもそも、お母ちゃんがゼタ=ジョーンズの偽サインをどうやって知った? んで、ゼタ=ジョーンズの父親の何とかいう伝説の泥棒が助け船をだしてくれたから、あの玉子の宝石を奪えたんだろ? それってなんかずるくない? しかも、電車の中で喧嘩ごっこをしている最中にすり替えるって、チープだろ。いや、そもそも前の犯行が簡単にばれて、メンバーの居所も分かってしまってる、ってのが拍子抜け。それに、アムステルダムだのあっちこっち、団体でぞろぞろ行動しているのって、目立ちすぎじゃないか? マツイってなんだったの? とか、不明個所がぞろぞろ。自分の頭が悪くなった気がする。なんか、スマートじゃないね。印象にも残らないし。そういえば「オーシャンズ11」もすっかり忘れている。 ゼタ=ジョーンズはなかなか色っぽいけど、下半身はデブの様子。ジュリア・ロバーツは妊娠中らしく腕なんかむくんでいるし、顔もやつれている。マット・デイモンは出番が少なくて可哀想。っていうか、それぞれのメンバーが描き足らなすぎ。もちょっと丁寧に撮ればいいのに。どーも、リズムやテンポといった上っ面の部分を重視しているせいか、物語や人物に面白みがない。「ふふっ」と笑えたのは、会話まで伏せ字になってしまう最初の頃の場面と、ジョージ・クルーニーが「俺は50歳に見えるか?」とこだわるところぐらい。 | ||||
トニー滝谷 | 2/9 | テアトル新宿 | 監督/市川準 | 脚本/市川準 |
市川準のテンポは、あまり好きではない。まず、じれったい。さっさとドラマを見せろ、といいたくなったりする。「BU-SU」をテレビで見たときは、途中でやめてしまったぐらいだ。だって延々だらだら撮りがつづいて話が転がっていかないので飽きてしまったのだ。でもまあ、映画館なのでそう簡単に逃げようという気にもならず、少々退屈だったけれど最後まで見た。 原作は村上春樹で、同名の小説をナレーターが朗読して、ときたま登場人物が短いセンテンスを朗読する、というスタイルの映画。時間の経過は、カメラの横移動で表現される。まるで、フィルムの1コマが映像として動いているよう気持ちになってくる。最初の頃は、このスタイルでトニー滝谷の簡単な略歴が紹介され、その後に、ドラマが始まるのかと思っていた。ところが、延々と冒頭からのスタイルが最後までつづいて、トイレットペーパーを引きちぎるかのように突然、映画は終わってしまうのであった。終映時間が12時30分となっていたので、上映時間が短いことは感づいていた。1時開映で予告が15分。だから、本編は80分足らず。だから、途中からもう、ドラマが展開されることはないだろうとあきらめてしまった。いやもう、淡々とした朗読に解説の絵が付いているような映画だった。原作を映画として見られるものに変えるという作業をやめてしまったのだろう。「理由」でも、原作をそのまま朗読するような流れだったけれど、そういう風潮なのだろうか。まあ、でも、悪くはない。映像を挿絵として朗読を楽しむ(といっても原作の全文ではないのだろうけど)映画というのも、また、それなりに楽しめるものだと思った。こういう映像があってもいいと思う。映画としての主体性はどこにいった、という思いもあるけれど、この映画に関しては映像は挿絵だと思って見ればよい。せいぜい、よく登場する煙突はなんの象徴だろうか? と考えをめぐらす程度だ。 だがしかし、イッセー尾形に長髪のカツラをかぶせて美大生の役をさせるというのには、ムリがあるよな。それと、少年時代の子役、太りすぎてないかい? | ||||
Ray/レイ | 2/9 | 新宿武蔵野館1 | 監督/テイラー・ハックフォード | 脚本/テイラー・ハックフォード |
レイ・チャールズについてはほとんど知らなかった。その音楽を同時代的に聴きなじんだ記憶もない。「ブルース・ブラザース」にでているのを、アメリカでは有名な歌手として知識として知ったぐらい。あとは「いとしのエリー」のカバー程度。映画で歌われる歌もいくつか聴いたことがあるけれど、すんごい名曲として刻まれているわけじゃない。だいたい、レイ・チャールズの曲って、同時代的にラジオから流れてきてたか? 俺の耳に入ってこなかっただけかも知れないけどね。というわけで、そういう私にはレイ・チャールズの生涯という教科書となってくれた。といっても、シアトルにでてきた1946年ぐらいから20年ぐらいの間の物語が主で、それに幼い日のトラウマとなった記憶が描写される程度。音楽家として成功と挫折を味わった日々の話だな。しかし、書き込みが浅くて表面をなぞっているような案配で、大河ドラマのダイジェストのように見えてしまう。その点では「アリ」と似ているかも、 しかし、多くのミュージシャンの例に漏れず、女と金と権力欲は十分にあったみたい。ギャラのことで喧嘩になったり、ちょっと有名になると女に手を出し、結婚してからも妾をつくって子もつくり、あれこれ11人も子供がいたって、そりゃ大名並みですな。妾が死んだという知らせに動揺もせず亭主を送り出すカミサンは、いや、凄い。バンドのリーダーとなって売れっ子になると、さらに上昇志向が強まってくる。育ててくれたレコード会社を袖にしてメジャーに移籍し、有名司会者を雇って昔の仲間を切り捨てる。本当はもっと情け容赦のない人だったのかも、と思わせる。ジョージア州のコンサートで黒人を隔離席に追いやることに反対したのは素晴らしかったけれど、一方ではずぶずぶの薬中。映画ではそれを、盲目の孤独のせいのようにレイに語らせたりしているけど、説得力ないよな。それと、幼いときに弟を死なせてしまった、というトラウマに絶えず襲われていたという設定にしている。事実なのかも知れないけど、ま、映画的に描かれすぎている気もした。 子供の頃の映像が、人着のような色合いで描かれているのが特徴的。フツーなら白黒画像にするとかなんだろうけれど、むしろ、色を強調している。鮮やかすぎる過去のトラウマ、ということを表現しようとしているのだろうか。それぞれのヒット曲が発表される過程は、面白い。思いつきでできた曲。主催者から「時間が余ってる」といわれて、温めていた曲を咄嗟に歌ったり。それに、コーラスの女性との別れ話を歌詞に込めて歌ったり、って、別れる相手の女性がその曲を憎しみを込めて歌う掛け合いが凄まじい。 | ||||
エメラルド・カウボーイ | 2/10 | シネセゾン渋谷 | 監督/早田英志、アンドリュー・モリーナ | 脚本/早田英志 |
予告編を見たときから、ある種のいかがわしさを感じていた。いくらなんでも、こんな日本人を主人公にした映画がつくられるわけがない。こりゃあ自分で金を出してつくったに違いない、と。疑問だったのは、そういういかがわしい映画を東京テアトルが渋谷で上映するってことだった。どういう目算があったんだろう? 映画を見終わってロビーの一角に貼られていた、この映画に関する雑誌記事にざっと目を通した。資金をだしたのは早田英志本人。しかも、制作・監督・脚本も本人だという。うへ。しかも、この人、教育大卒業で渡米し、コスタリカの医大に留学の経歴もある。うへ。でもって30代でコロンビアに入った、らしい。単なる成り上がりでもなさそうだ。そういう背景や履歴を知らずに、単に、いかがわしさだけの先入観で見たのだけれど、これが、とんでもなく面白い代物だった。 画像は荒い。ライティングなんかほとんどしていない。画面は揺れるピントは合っていない。話はエピソードをつなげているだけ。そのエピソードとエピソードもぶっきらぼうにつながっている。映像的に凝ったところなんかひとつもない。けれど、なんか凄みがあるんだよ、これが。物語も、自分が主人公だからご都合主義だろうと思うんだけれど、それほど美化しているわけじゃない。若き日の早田を演じるのは若い役者でかっこいいんだけど、冒頭部分と後半には本人がでてきて本人を演じちゃう。筋骨逞しい若い役者と背が低くで痩せている早田本人とには、かなりのズレがある。それを堂々と見せちゃうところが凄い。で、人物描写なんて映像的にはほとんど意識されていないんだけど、エピソードの羅列の中から人となりが見えてくるんだよ。こういうところは、事実の重みなんだろうか。さらに、題名のカウボーイから連想するのは西部劇だけれど、あの時代の一攫千金の金鉱発掘にとりつかれた西部の荒くれ男たちの姿が現在に甦ってくるような話が多くて、これも凄い。 それにしても、冒頭からガードマン10数人を引き連れて出社する姿には驚いた。ゲリラが資金調達先として狙っているらしいのだけれど、それにしてもヤクザのボスみたい。仲買人がニセモノのエメラルドを持ち込んできて、それに激怒するシーンなんか様になってるし、その後の警察との対立や労働組合とのとっくみあいなんかも、役者はだし。もう、なりきっちゃってる。って、本人なんだから当たり前なんだけど。でも、素人が芝居しているっていうより、ドキュメンタリーを見せられているような錯覚に陥ってしまう。 それにしても思うのは、貧困国の凄まじさ。いとも簡単に銃で人を殺してしまう。ささいな諍いで銃をぶっ放す。欲望のために強盗もすれば、私利私欲のためにダーティな取り引きにも応じてしまう。こういうところに、南北問題の限界があるのかも、と感じされる。それは個人としての意識だけでなく、国家や社会の意識も同じだ。「外国人がエメラルド輸出を牛耳っている。日本人出て行け」と労働組合が叫ぶ。では、コロンビア人だけで国際的な取り引きができるかというと、これは疑問だよなあ。でも、そういうことを考えない。考えられない。目先の、搾取されている、いい所を外国人がもっていってしまっている、という意識だけが優先する。浅はかだけれど、後進国では、こんなふうに短絡するんだろう。アラブ人が石油資源を自分たちで管理したいと思うのも、同じ様な発想なんだろう。でも、資源をもっているからといって、それを商売にできるとは限らないのにね。もっと、自国の国民の意識を高めなくちゃいけないのに、目先のことに左右されてしまう。こういうのは、単に貧困だけが原因なんだろうか。国民性も大きく影響しているのだろうか。でまあ、こういうコロンビアにおける外国人の立場まで、この映画は描いているのだ。ここらへんは、単に自分を美化しているわけでもなさそう、と思えるところだったりする。ま、娘がハーバードに合格したなんていう自慢話を入れ込んでしまうのは、ご愛敬か。ラストで「2002年の銃撃戦で意識不明のまま」とタイトルがでるのだけれど、これは早田本人じゃなかったの? だって、この映画の上映と連携して本人が帰国。いろんなイベントに出席しているようなのだけど。ううむ。いろいろ、いかがわしいところが、映画より面白い。東京テアトルが買い付けた理由が分かったような気がする。 | ||||
THE JUON / 呪怨 | 2/14 | 上野東急2 | 監督/清水崇 | 脚本/スティーヴン・サスコ |
ビデオ版も劇場版も「呪怨」は見ていない。「呪怨2」は、見た。けど、たいして怖くなかった記憶がある。で、ハリウッド版「呪怨」だったけれど、十分に怖かった。日本版を見てたらば、どうだったのかな。よくあるホラーのように、何でもないと見せかけておいて意表をついて怖がらせる、ってやり方じゃない。怖いぞ、怖くなるぞ、と思わせて、ホントに怖くなる。ドキドキ。もっとも、中盤になると、ちょっと怖くなくなってきた。これは慣れかなと思ったけれど、終盤はまた怖かった。中盤の手法が、ぬるいのかも知れない。 呪いの原因にちゃんと筋が通っているのにビックリした。ラストで、すべての疑問が氷解して、その原因が説明される。ずいぶん論理的じゃないか、と思った。っていうか、日本の他のホラーは、つじつまが合わな過ぎるのかも知れない。もっとも、たかが妻の浮気心(っていっても偏執狂的だけど)に亭主が逆上して、妻子を・・・。ってのには、いささか首をひねるけどね。首をひねるのは、主人の妹の会社にまで怨霊が出張したりしていること。で、その妹の死骸はどうなったんじゃ? 消えたまま? それに、一方的に好かれただけの大学教授も死ななくちゃならないのは可哀想。ま、そういう考えで行くと、大したことじゃないのにみなさん死んでいったのだねと、ご愁傷様をいうしかない。この程度の事件であんな怨念がはびこったら、日本は怨念で死ぬ人ばかりになっちゃうんじゃないのか? とかね、要らぬ突っ込みを少し入れたくなった。 日本家屋の狭さが、どうも窮屈。箱庭的な映画になってしまって、せせこましく感じた。たぶん、その狭さが清水監督の狙いなのかも知れないけど、引きも少なく、空間のない画面はちゃちく感じられる。重苦しさや圧迫感より、チープさを感じてしまう。「ロスト・イン・トランスレーション」のように録ってくれとというわけてばないけれど、もうちょっとカメラが動いたり奥行きが感じられたりする場面があってもよかったんじゃないのかな。狭苦しいのはあの家だけにして、警察や病院、サラの住んでいる部屋なんかには開放感が欲しいと思った。それと、石橋凌の演技なんかに代表されるのだけれど、日本の役者に動きがないのがつまらない。もっと表情も豊かに、手足をつかって動いて欲しいな。なんか、縮こまった演出が、これもチープな感じがした。まあ、それを狙っているといわれりゃ、それまでなんだけどね。でもま、ちゃんと怖かったのだから、正統派の日本発ホラーとしては成功だと思う。 | ||||
砂と霧の家 | 2/15 | ギンレイホール | 監督/ヴァディム・パールマン | 脚本/ヴァディム・パールマン、ショーン・ローレンス・オットー |
ひたすら暗いぞ。最初の頃はそんなでもなかったのが、徐々に内容が重たくなっていく。最後は、これでもかこれでもか、という畳みかけ。ちょっとしつこいと思ったぐらいだ。 設定はとてもオモシロイ。亭主に出て行かれ気力を失っている女が、所得税未納で自宅を差し押さえられ、競売にかけられる。その家を、亡命イラン人が4万ドル程度で手に入れる。ところが、所得税未納と競売は手違い。イラン人は、郡役所に相場の17万ドル払えといい、折り合いが付かなくなる・・・。コメディでもオモシロイ内容になりそうだな、と思っていると、ずるずると陰気になっていくのだ。悪い方向へと話を運ぶ役割を演じるのは、地元の警官。こいつがアホだから悲惨な結末まで行くんだけど、こういうバカは割といそうな感じがする。登場人物それぞれが、人生の転機を迎えているっていう設定だ。家をとられた女は、亭主に逃げられた。同情する警官は妻に愛想が尽きている。イラン人は、マンション転がしならぬ家転がしで収入を得ようとしている。それぞれに事情があって、その事情にせっつかされて邁進してしまうってわけだ。女と警官には、離婚率50%というアメリカの事情が反映している。イラン人には、自国の反米政策が影を落としている。まあ、それにしても、みんな自分の欲望だけを優先していて、他人のことはお構いなし、ってやつらばっかり、ってな気がしないでもない。この3者では、警官が悪者になっているのは分かるけれど、家をとられた女も、もとはといえば自堕落のせいで亭主に逃げられたんじゃないのかな。本人は「私は子供が欲しかったのに、亭主がうんといわなかった」といっているけど、大酒のみでヘビースモーカーのようだし。自分から働こうという気持ちもなさそうな女だ。こんな女だったら、だれだって願い下げだろう。むしろ、イラン人がもっとも同情すべき対象のように描かれていた。まあ、背景にはアメリカの反イラン政策があって、悪の帝国のひとつイランから逃げてきたイラン人は立派、としたい気持ちもあるんだろうなと思った。でも、いくらイランで大佐だったとしても、アメリカじゃただの人なんだから、見栄を張ったりすることないのにねえ。その見栄のおかげで、迷惑や面倒をまき散らすことになっているのだから。 というわけで、みんな本当はそんなに悪い人たちではないのに、ちょっとしたボタンの掛け違いで悲惨な状況に陥ってしまうという、なんだかてとも救いようのない哀しい話である。国を捨てて流転するイラン人、亭主に捨てられて流転する女、家族を捨てて流転する警官。哀れな末路である。見終わっても、気分が重くなるばかりである。 | ||||
やさしい嘘 | 2/15 | ギンレイホール | 監督/ジュリー・ベルトゥチェリ | 脚本/ジュリー・ベルトゥチェリ、ベルナール・レヌッチ |
フランス・ベルギー合作映画だと。ふうん。いや、途中までずっとフランスが舞台のフランス映画だとばっかり思っていたのだ。ところが、「けっ、こんな国」といっているのは、実はグルジアであるということが途中で分かったのでびっくり。じゃあ、なんで登場人物たちはフランス語を話しているのだ?(グルジア語だのロシア語には気がつかなかったこちらも悪いのだが) どーも、死んだ爺さんが知識人で、フランスから書物を取り寄せ、家ではフランス語ばかりしゃべっていたという設定らしい。ううむ。こんな家があるのかよ。それにしても、グルジアってどこだっけ。旧ソ連はわかるけど、トルコに近いとこなのかな。まあ、そういう、貧しい国のお話だった。婆さんは、医大をでているのにフランスまで行って建設工事に携わる息子のことが気にかかっている。ときどきかかってくる電話がなにより楽しみ。婆さんには、娘もいる。骨董屋をしているが、亭主はアフガンで戦死。年頃の娘(婆さんから見たら孫娘)がひとりいる。パリの息子が事故死してしまった。さあたいへん。娘と孫娘は婆さんに死んだことを伝えず、パリからの手紙を偽装することにした。 のどかといえば、のどかな映画だね。だけど、背景には貧困がある。貧困国で知識人でも、先進国に行ったら肉体労働者。去年見た「トスカーナの休日」にも、イタリアに出稼ぎに来ているどっかの国の元教授がいたけど、そういう関係はもう当たり前なのだろう。こうなると、自分の国をよくする、発展させるより、開けた国へ行った方がてっとり早い。孫娘がパリにあこがれるのも当然だわな。こういう図式は、日本でも昔あった。田舎と東京の関係だ。高度成長で田舎も東京並みを目指したけど、結局、日本は財政破綻。いまじゃ、田舎の経済は最底辺にまで落ち込んでる。グルジアが将来どうなるのか。グルジアの優秀な人々はみなヨーロッパの先進国に行って、快適な生活を勝ち取ることができるんだろうか。そうやって故国を見捨てて、残ったグルジア人は貧困のどん底に沈むのだろうかね。もてる国ともたざる国の格差が広がる一方なんだから、結果は分かってるようなもんだわな。 婆さんはホームページによると85歳で映画デビューだという。この映画のときは89歳の計算だ。なんという自然な演技なんだろう。背の曲がり具合なんか、最高に絵になる婆さんだった。息子を思う優しい気持ち、そして、孫娘の心持ちまで察することのできる、素晴らしい演技を見せてくれた。孫娘役の女優は、少女っぽい感じもあるし、そうではない感じもする。で、ホームページで見たら1976年生まれ。この映画のときに27歳ってことになる。決して美人じゃないけど、なんか、存在感があったぞ。淡々とした様子が、ちょいと気になった。 で、監督はフランス女性なのだな。へー。このゆるやかなテンポ。背景に社会的政治的問題があるけれど、それを決して前面には押し出さず、静かに噛みしめるように映し出す手法は、落ち着きがあってよろしい。ま、ちょっと緩やかすぎる嫌いはあるけれどね。気になるのは、フランス人がグルジア人の立場で映画を撮るっていうことだな。そういうことをして、グルジア人から反発は受けないのだろうか。それと、婆さんが「スターリンはいい人だ」って信じ込んでるのが、かなりヤバイと思ったんだけど、こういうキャラづくりはいいんだろうか。 | ||||
火火 | 2/21 | 新宿武蔵野館2 | 監督/高橋伴明 | 脚本/高橋伴明 |
90人ぐらいの小屋が爺さん婆さんでいっぱい。ううむ。陶芸愛好家のスジなのか、それとも、骨髄バンク関連なのか。それにしても、途中から「早く終わらないかな」とばかり思っていた。面白くないんだもん。泣かせどころでも泣けないし、いろいろ押しつけがましいし、それに、グロなところもたくさんある。いったい何をいいたかったのか? よー分からん映画だった。 どーも、実話のような物語。にしては、主人公の神山清子を捨てた元亭主が登場したりする。これを石黒賢が演じているのだけど、これだけの役者がでてるんだからのちのち登場して話に絡むのかなと思いきや、冒頭でちょっとでただけ。骨髄提供キャンペーンの応援を信楽町(?)の町長に頼みに行くところがあるけれど、選挙関連の話なんかしてもいいの? 清子の息子・賢一の元彼女もでてくる。これがまた、自分から賢一をホテルに誘ったりする女なのだけれど、賢一の白血病を知って去っていく。さらに、信楽の窯元グループによる清子へのいじめもある。自分勝手な姉も登場する。いま、現実に生きている人たちが脚色を加えて描かれていることに、どーも、納得がいかない。 もっと信楽焼を突っ込んで描くのかと思ったら、そうでもない。そこが食い足らない。信楽の復活とは何か。その意味や困難さがつたわってこない。だから、前半で清子が自然釉薬で昔の色の再現に成功しても、まったく感動的ではない。清子を演じる田中裕子は熱演なんだけど、キラキラ輝いてないんだよなあ。再現に成功して、信楽の町はどう反応したのか? 他の窯元は? 陶芸業界はどう評価したか? はては、どんな作品でどの程度の収入につながったのか? なんてところが分からない。ある程度有名になったら作品は売れるだろうし、いつまでも貧乏ってのはおかしいだろ。 で、後半は一転して息子・賢一の慢性骨髄白血病の話。これが、ひたすら暗い。しかも悲惨でグロテスク。白血病は不治の病であり、ドナー検査のための検査に莫大な費用がかかり、ドナーとのマッチングは困難で、マッチングが不完全だと成功しないことが描かれる。ドナーの負担も大きく、術後の後遺症は死ぬほどつらいことが、しつこく描かれていく。もうちょっと明るい未来を映像化できなかったものかね。いくら骨髄バンクの存在をアピールしても、これじゃ逆効果だろ。 それに、陶芸に関する描写もほとんどなくなってしまう。清子の「賢一の壺を焼く」という言葉に、そうか、骨壺を焼くのか、と思ったのら大違い。再入院前に賢一がつくった壺を焼くということだった。あらら・・・。まあ、ラストの葬式より窯の火の方が大事という清子の態度は、彼女の陶芸への情熱というか狂気の一端を感じさせてはくれたけれど。清子の奔放で狂的な部分をもっとクローズアップした方が面白くなったんじゃないのかね。いくつかエピソードはあるものの、いささか類型的。骨髄バンクに時間を割かなくてはならないという制約ががあったのだろうと思うけど、そのせいで焦点がボケてしまったと思う。 清子は、息子の死を覚悟した後、妙な焼き物をつくる。まるで背骨のようなカタチの2つの焼き物。弟子の女性が「なんですか?」と問うても応えなかった。ラストシーンは、この焼き物が窯の中で焼かれるというものだった。結局、何だか明かさないってのは、不親切だ。背骨と背骨、骨髄移植のイメージではないかと推察するのだが、ちゃんと説明してもよかったんじゃないのかな。 | ||||
ボーン・スプレマシー | 2/28 | 109シネマズ木場・シアター2 | 監督/ポール・グリーングラス | 脚本/トニー・ギルロイ、ブライアン・ヘルゲランド |
「ボーン・アイデンティティ」の続編だ。中味は軽くて見終わっても何も残らないけれど、疾走する快感があってノンストップ・アクションが存分に楽しめた。手持ちカメラの揺れ、そして、短いカット割り。格闘シーンやカーチェイスでの、ちょっとオーバーラップ気味のつなぎも、スピード感を後押ししている。つなぎばっかりで誤魔化しているところもあるけれど、カーチェイスではカットせずちゃんと見せるところもあって、アクションの醍醐味もたっぷり。ローラーコースターに乗っているような気分になった。 最初のうちは、何のことやら分かりにくいところも、あった。けれど、その「?」の大半は、物語が進むにつれて氷解してくる。あまり丁寧に解説せず、ちょっと説明が不足気味のところもバランスが取れている。ただし、なぜロシアの政治家が殺されなくてはならなかったのかが、よく分からなかった。説明されていたような気もするのだけれど、理解できなかったのかも知れない。情感の部分でいうと、主人公ボーンが次第に記憶を取り戻していく過程での苦悩が、もうちょいと表現されてもいいのかな、と思った。記憶の断片がフラッシュバックでごちゃごちゃでてくるだけでは、怪物としての自分と対峙することの恐ろしさが表現され切れていないと思う。べたべたした描写を極力抑えることで流れるようなストーリー展開を優先したのだろうけれど、もうちょっと情感を表現した部分があってもよかったんじゃなかろうか。まあ、恋人が殺されても、自分の過去が殺し屋だと分かってもうろたえない、非常なスパイの物語ってことなのかも知れないけどね。 |