2005年3月

セルラー3/1新宿オデオン座監督/デヴィッド・R・エリス脚本/●
とんでもなく面白い。昨日見た「ボーン・スプレマシー」も面白かったけれど、こっちの方が2倍は面白い。それこそ、こっちの方がローラー・コースターに乗って「次はどうなるんだ?」とわくわくドキドキ。画面に釘付け状態だった。脚本が練られている。同じ様な展開の話は、これまでもあったかも知れない。けれど、畳みかけるような話の展開とスピード感、奥行きのある人物描写などが、通俗映画との一線を画することに成功していると思う。通り一遍の誤魔化しがないせいだろう。
身近な携帯電話を上手く使っていることも成功の原因のひとつだ。誘拐・軟禁された女がかけた電話の相手が、女たらしで自分勝手な軟弱青年の携帯。以後、青年は携帯を切らないようにしながら移動し、犯人の行く手を遮ろうとしていく。切れてしまうんじゃないかという不安。誘拐された女がどうなるのかという心配。犯人たちの目的は何かという興味。最初に話しかけた警官が、いつ真相に気づくかというじれったさ。これらが絡み合ってアクションが連続していく。伏線もしっかりしているし、脇役で登場する連中も、みな個性的。青年の友達たち。携帯屋の店員。なかでも携帯とクルマをとられる弁護士は、こうした映画で登場するマヌケ役を見事に演じている。弁護士とやりとるするレッカー移動駐車場の黒人女性もおかしい。警官のかみさんも笑える。こうしたところで手を抜かず、丁寧に芝居させているから、話が豊かになっている。初めに応対した警官が頼りなさげなんだけど、次第に真価を発揮していく過程もよろしい。しかも、横っ飛び射撃を2度も披露するなど、ラストに向けて大活躍だ。
わずかだけれど気になるところもある。ひとつは、犯人たちの行く手に青年がちょろちょろしているのに気がつかない、犯人たちのトンマさだ。あまりにも白昼堂々悪事を働きつづける犯人たちにも、そりゃあないだろという気持ちが湧いてくる。肝心のビデオが青年の手に渡った時点で女子供、そして亭主は用なしになるのだから殺しちゃってもいいんじゃないの? という疑問。まあでも、こんなことは些細な問題かも知れない。他の部分はほぼ完璧にできているので、そうした不満は「まあ、いいか」という気分になってくる。ラスト。女が「お礼をしなくちゃ。何が望み?」というと青年が「もう二度と電話しないでくれ」というのも、ありきたりのレベルで上手くハマってる。エンドクレジットも洒落ている。映画のシーンに携帯画面をインサートして、その画面にスタッフ名をクレジットしていく。これも洒落ているね。
パッチギ!3/1新宿ジョイシネマ3監督/井筒和幸脚本/羽原大介、井筒和幸
評判がよさそうなので期待したのだけれど、従来の井筒映画の域を脱していない。テーマも設定も面白いけど、作り込みが甘くて完成度が低い。脚本を練り上げることをせず話が散漫。演出も「まあええやろ」的な勢いのアバウトさ。さらに、つなぎがよくない。それぞれのエピソードが絡み合うことなく、ブツ切れ状態で広げられているだけ。いいシーンもいくつかあるんだけど、そこだけ、になっちまっている。メッセージも生(なま)すぎるし、セリフも聞きづらい。これでは映画を楽しむことができない。
群像劇として整理されていない。誰と誰がなぜ対立しているか、ということがはっきりしないまま話がどんどん進んでいく。それは「朝鮮高校と日本の高校の生徒たちだ」ということは分かるけれど、これが表面的にしか描かれない。もちろん、昔から仲が悪いのは分かる。けれど、もうちょっと描きようがあるだろ。さらに、それぞれに属するメンバーたちが雑にしか描かれない。体系立ってないから、どういうグループがいるのか、それが曖昧。そして、そこにノンポリの日本の生徒が絡む。ここも、最初は3人いたのに次第に1人だけが主人公として独立していってしまう。それぞれの人物が立たない描写で、なんかもったいない。このあたり、ほんと思いつきで撮られているとしか思えない展開だ。後半で重要人物として登場する看護婦。彼女は、どこからでてきたんだ? あのも駅のホームからか? よく分かんねーなー。こんな案配で、いらいらしてしまう。
感動的なのは、公園で「イムジン河」を歌うところ。葬儀の後、橋の上でギターを壊すところ。ラジオ出演して「イムジン河」を歌っていることを、少女が家族に聞かせるところ。このあたりは、感動がつたわってくる。けれど、これはとくに演出がいいとかいう手柄ではない。細切れのエピソードがいい、というだけの話だ。巧妙に計算されているわけではない。これが映画全体の評価につながるわけではない。
葬儀のところで長老が日帝36年の歴史と強制連行の話をするけれど、これが生すぎてベタすぎ。こういうのを滲ませ、感じさせるのが映画のはず。こう露骨にいわれても、ううむ。まあ、最近の人は歴史を知らないからこうせざるを得ない、とでもいうのだろうか。それは観客をなめすぎだろう。むしろ、橋の下の家、棺桶が入らないバラックのような住まい。こうした状況や環境を静かにつたえたほうが、ゆるくボディブローに効いてくると思う。
フォークルの「イムジン河」「学生運動」「平凡パンチ」「フリーセックス」「ラジオ放送」なんていう1970年前後のモチーフが挿入されているけれど、それが有機的に活かされていないのが残念。ただ、とってつけたように投げ込まれているだけなのだ。ラストで、それぞれのその後が描かれる。なんか、わざとらしいなあ。ヒロインの女の子はそこそこ可愛いけれど、なんか昔風の可愛い顔立ちだな。ちょっと下ぶくれだし。えー。冒頭で観光バスが転倒させられるけれど、どーして京都市内の高校生が京都へ観光バスでやってくるのだ? 事故で死ぬ朝鮮高校の生徒の死に方も、へん。トラックが止まって、その荷台のパイプが慣性の法則で前に突き出てくる・・・って、それじゃコメディだろ。少年が道路にでて、ハッと振り返るとトラックのライト。キーッというブレーキの音がして暗転。それで済むじゃないか。あ、それから。パッチギの意味が説明されていなくて分からなかったぞ。
プリティ・プリンセス2 ロイヤル・ウェディング3/4新宿武蔵野館1監督/ゲイリー・マーシャル脚本/ションダ・ライムズ
前作を見ていない。だから、なぜ主人公が王女になったのか、その理由は分からない。でもまあいい。この映画だけでも、とりふえず完結しているし。でも、ちょっと欠伸がでるぐらい退屈だった。だって、たいしたドラマがないんだもん。
なんでも、この架空の国家ジェノヴィアでは王女は王女のまま国王になれないらしい。国王になるためには結婚していないといけないのだという。それで、曾曾曾祖父(?)かなんかの血を引く子爵が自分の甥(ニコラス卿)を国王の位置につけようとする。でも、陰険なことはあまりなくて、稚拙な手段で邪魔に入るといった程度。で、困った女王(ジュリー・アンドリュース)は、ミア王女の結婚相手にアンドリュー公爵を連れてきて結婚させようとする話。話が単純すぎるところに大したギャグがない。ハラハラドキドキもない。ベタな感じでだらだらと進行するので、飽きてくる。この程度の話ならもっと短くするべきだ。さもなくば、国王の地位を狙う子爵一派をもっと狡猾な悪党に仕立て上げるとかしないと、もたない。しかも、王女はライバルのニコラス卿に早々と惚れちゃうのだから、話が面白くなっていかない。それじゃ可哀想じゃないか、と思っていた当て馬のアンドリュー公爵はマザコンで、本人も実は結婚したくなかったという、なんか強引な結末にしてしまう。ちょっと底が浅い。
そんなストーリーより、皇位継承の話の方が興味深かった。たとえばニコラス卿はかつての国王の血を引いているのだから、正式に皇位継承権があると考えられる。だから、王位を狙う連中、という見方は相応しくないんじゃないのかな? とかね。で、ミア王女が第一継承権をもっているとして、ニコラスは何番目なのだろうか? とかね。ちゃんと継承権があるのであれば、下手な小細工する必要もないのに、とかね、小細工してまで国王の地位が欲しいのか? とかね。それと、現国王(ジュリー・アンドリュース)は女王だ。このあたりはイギリスを思わせる。で、王女のままでは継承できないけれど、亭主がいれば継承できるといったキマリの理由なんかも、もっと知りたかった。さらに、亭主がいないと継承できないというのは時代に相応しくない、といった意見をいう議員もいたりして、そういう王政改革論者の存在が増えつつあるような印象を与えてくれるのも面白かった。だって、日本も現皇太子に男子がなく、秋篠宮も女児だけ。だから、女性天皇復活論が検討されようとしているところだ。でも、依然として天皇は万世一系で男児が継ぐと言い張っている人もいるようだ。日本の天皇も枝分かれした系統からでているケースもあったりして万世一系にではないのにね。そういうことが日本のケースと重なって、しかも、どう解決していったらいいかを示唆してくれているようなところもあるように思えて、面白かったのだ。
ジュリー・アンドリュースが貫禄つけていてなかなか。20歳を超える孫のいる役なんだねえ。
シャーク・テイル3/15上野東急監督/ヴィッキー・ジェンソン、ビボ・バージェロン、ロブ・レターマン脚本/マイケル・J・ウィルソン、ロブ・レターマン
見たのは吹替版。主人公の小魚の声が香取慎吾なんだけど、まんま、なので耳についたなあ。で、「ファインディング・ニモ」の続編か亜流みたいなアニメなのに、いやに宣伝が地味でパッとしない。で、オープニングにはディズニーでもピクサーでもないドリームワークスのロゴがでた。おやま。ディズニーじゃないのか。それにしちゃ「ニモ」にそっくりじゃないか? ストーリーはたわいない。でも、たわいない割に、ちょっと幼児・児童には無理なんじゃないのかな、っていうような設定が多くて、これじゃ子供たちが可哀想な気がした。マフィアだのなんだのって、わからんでしょ、子供には。主人公の小魚オスカーは、まるで人面魚の風体で気味が悪い。
サメは恐ろしいものという前提でつくられているんだろう。で、そんな中にベジタリアンのサメがいて、フツーの魚たちと交流したがっている、っていう設定が人間のご都合主義だよなあ。子供たちはそれでだませるけれど、こっちは「じゃあ、サメは何を食べて生きていくんだ?」という疑問が湧いてきてしまう。なにも現実をそのまま反映しろと言ってるんじゃない。きれいごとだけじゃ、子供はだませない、と思うのだ。外的に兄弟のほとんどを食べられてしまうところからはじまる「ファインディング・ニモ」のほうが、ニモが障害者であることも含めて物語に厚みがあり、説得力もあったということだ。いくら魚の顔を人間のように描いても、海底を人間の街のように描写しても、嘘にしか見えないアニメはつまらない。単に人間社会を魚世界に置き換えるだけではなく、魚の世界ならではの特殊性を表現できてこそ、魚をモチーフに取り上げた意味があろうというものだ。
アレキサンダー3/17上野東急2監督/オリバー・ストーン脚本/オリバー・ストーン
約3時間。ひたすら眠かった(でも、寝なかった)。決定的につまらない。抑揚がなく平板でだらだらと生い立ちから語られるけれど、ここぞという契機になるところを見事に外しつづけている。それじゃドラマにならんでしょ。飽きてくるのも仕方がない。
アレキサンダー大王は世界史にでてきたけれど、世界征服したことだけは覚えているけれど、あとき記憶にない。さては壮大なロマンが、と思ったら大違い。マザコンでファザコンで男色のなよなよしたアレキサンダーがでてくるだけだった。しかも、アレキサンダーの父親はなぜアレキサンダーの母親(正式な女房じゃないのかな)を憎みつづけたのか? 父親から疎まれながら、なぜアレキサンダーはなぜ国王になれたのか? アレキサンダーの初陣はいつだったのか? アレキサンダーはどんな残虐なことをしたのか? といったような、こちらが知りたいことはほとんど省略されている。アレキサンダーには偉大さも狂気も、なーんも感じなかった。あれこれ要素を詰め込みすぎて、掘り下げが足りないのだと思う。たとえばアレキサンダーの野望とか、愛情とか、臣下との交流だとか、どこかに的を絞った方がよかったんじゃないのかな。戦闘シーンもカットつなぎがされすぎで、目がちかちか。迫力もさほど感じなかった。せいぜい、インドでの象を使った現地軍との戦いが面白かった程度だ。
それにしても、アレキサンダーは神話と現実の端境にあった人なのだな。ゼウスの子、などとも言われていたけれど、こういうのは世界史やギリシア神話に暗いからわからんです。
ビヨンドtheシー 〜夢見るように歌えば〜3/18新宿武蔵野館2監督/ケヴィン・スペイシー脚本/ルイス・コリック、ケヴィン・スペイシー
ボビー・ダーリンの一代記。っても、あんまり彼のことは知らないので、なるほどねえという思いで見た。かみさんのサンドラ・ディーの方が日本じゃ有名ではないのかな。フツーの伝記かと思いきや、なんと半分ミュージカルだった。で、個人的には前半のミュージカル仕立ての部分はあまり面白くなかった。ボビーが成功の階段を昇っていき、サンドラと結婚する辺りまでの話なのだが、踊り手も下手だったし、完成度はいまいち。コメディタッチなところも、あまり好ましく思えない。ところが。後半がいいのだな、ボビーの政治への関与、実の母親が分かる衝撃、70年代という時代を反映するかのようなフォークもどきの下手な歌。大衆から見向きもされなくなっていく没落期。この辺りの描写が、なかなか鋭い。こうなると、前半の陽気すぎるミュージカル仕立ての部分が伏線となって、じわりとさせられる。自分にはナイトクラブしかないとベガスのクラブに出演し、例のフォークソングのような"Simple Songof Freedom"がじわじわと観客の心にとどいていき、場内が一体化するところは、ちっょと感動。そして、実の母親を紹介するところは、ちょっと涙。この、母親紹介でぐっとさせるために、前半でこの母親を道化のように描いているのだけれど、それが効いている。
自分が主役で自伝的映画を撮ろうとしている、というような設定が大枠にあるのが面白い。こういう映画が撮られたのかどうかは知らないが、たぶん死を迎えようとしているボビーが、人生を回顧していると、といったものなのではないかと思う。この映画には少年ボビー役の子役と、現在のボビーが登場する。2人の中心にあるのは尊敬する母親で、母親に対する思いを少年ボビーと現在のボビーが合わせ鏡のようにして対話していく。この構造がちょっと面白い。後半になって実の母親が登場し、中心軸がずれていくところなど、この構造が大いに役立っていると思う。母親への思い、という切り口を用意したことで、まともな映画に仕上がっているといえる。この辺りは、大河ドラマのダイジェスト版のような「レイ」なんかと大いに違うところだ。
義理の兄貴なんていうのがでてくるのだけれど、最初の頃は家族関係がよく把握できなかった。途中でやっと「ああ、姉の旦那か」と気づいたのだけれど、姉妹がまともに登場していなかったので戸惑った。で、義理の兄貴がすげえジジイなんだぜ。なんか、年齢がこんぐらかって分かりにくかった。でもま、これも実の母親の伏線になっていたわけで、まあ、よしとしますか。
鉄人28号3/22シネマミラノ監督/富樫森脚本/斉藤ひろし、山田耕大
冒頭から戦後の白黒フィルムが映し出され、なんだか昭和30年代の、あの怪しい雰囲気が漂ってくる。けれど、期待してもいいのかな、という思いは呆気なく崩れ去った。その昭和30年代の空気感は、映画の中にほとんど現れては来なかったからだ。結局の所、舞台は現代。あらゆる科学が発達している状況が目の前に映し出される。そのなかで、奇妙なことに主人公の庄太郎と、中村勝嘉葎雄、若い刑事の3人の服装だけが妙にレトロしているという案配。なんか中途半端。
ストーリーに納得させるものが少ない。宅見零児はなんの恨みがあってブラックオックスなどというロボットをつくって東京やニューヨークを破壊しようとしているのか? なぜ鉄人を操縦するのはただの子供である正太郎なのか? 鉄人のいた島は東京から近くなのか? そこから鉄人はどうやって東京まで運ばれたのか? なぜリモコンで操縦しなくてはならないのか?(ボディスーツを装着したままカラダの動きで操縦できるだろ)、ブラックオックスは自衛隊のレーダーになぜ引っかからないのか? そもそも自衛隊はなぜ登場しないのか? 警察官はなぜ少ないのか? 東京湾岸で巨大ロボットが戦っていて全国中継されているのに、群衆がなぜいない? 警察署長の柄本明の帽子はなぜ変なのか? 「ステンレスじゃダメだ、ジュラルミンにしよう」なんていうセリフもあったけれど、ジュラルミンだの鉄だの、って、そんなんじゃ、ちょっとぶつかれば凸凹になるだろ? とかね、理にかなっていないところが多すぎる。というと、これはマンガの実写化ですべて架空の物語と言われるかも知れないが、架空の世界にもそれなりに筋が通っていなくちゃいけないと思う。納得できる嘘、ってやつだ。たとえば007シリーズの悪者たちなんか、どうみたって理屈に合わないし投資対効果の面でも変だ。けれど、それはそれで、そういうものだ、と納得させるものがある。バットマンの世界だってそうだ。そういう世界が設定されている。しかるに鉄人が登場する日本は現在で、地名も谷中、根津、港がでてきて増上寺や東京タワーも壊される。現実とロマンの世界がごっちゃのまま。理屈に合わないところがボロとして目立ってしまっている。これは、無視できない。やっぱりここは、昭和30年代のテイストに徹してもらうか、さもなくば全て現代タッチに変える必要があったのではないかと思う。昭和30年代は、そこいら中に空き地があり、人さらいなんかも登場しそうな怪しい雰囲気があった。月光仮面やまぼろし探偵、明智小五郎なんかが社会悪と戦えたのも、そうした怪しい雰囲気があったからだ。007に登場する世界征服を企む悪人も、そういう背景抜きには語れない。けれど、現代にそんな悪者を登場させてもバカみたいに見えるだけだ。そういう整理がされず、たんにレトロの味付けをしているだけでは説得力はない。正太郎を「スパイキッズ」のようにテレビゲームに長けている少年としてブラックオックスと戦わせたほうが、よっぽど説得力がある。
正太郎という少年の、死んだ父親に対する理解の深まりと成長の物語にしようとしたムキも感じられなくはないが、それも中途半端。シナリオにムダなセリフやシーンが多すぎるのも整理がされていない証拠。それと、監督のリズム感とスピード感のない演出、編集もいらいらじれったい。もっとテンポよく、がんがんすっ飛ばして行くべきだろうなあ。じれったいといえば、ろくすっぽ操縦しないで歯ぎしりばかりしている正太郎もじれったい。115分の尺も、70分ぐらいにしてしまえばいい。これで十分だろう、もしも人間を描かないのならね。ってことは、人間を描いていないムダなカットが多すぎると言うことだな。それと、2台のロボットがつるつるし過ぎていて、プラスチックみたいなのも興ざめだなあ。殴られたら凹めよ。汚れろよ。どっか剥がれて壊れろよといいたい。
ホワイト・ライズ3/25ギンレイホール監督/ポール・マクギガン脚本/ブランドン・ボイス、ジル・ミモー二
ミステリアスなメロドラマだ。ちょっと疲れていたし、昼からの回だったので途中からベーグルを囓りながら見たので、こりゃあ寝てしまうかも、と思っていたのだけどさにあらず。どんどん世界にはまりこんでいってしまった。話は単純。A男はB子が好きだけど、B子はC男が好きで、C男はD子が好き。A男とC男は親友で、B子とD子も友達。B子はC男とD子の仲を裂いてC男に接近するが・・・。と、まさに日本の連ドラのような内容なんだけど、これがなかなか見せるし泣かせてくれるのだ。物語の展開がいい。2年前に彼女が突然失踪。その彼女とレストランで接近遭遇し、思いが募って中国出張もそっちのけで探しまくる。かつての友人との遭遇。彼女かと思って追跡したら別の女性だった・・・と、先に書いたようなシンプルな構造が、人を惹きつけるミステリアスな物語に仕立て上げられている。初めのうち「?」と戸惑っていても、薄皮を剥ぐように次第に明らかになっていく事実が「おお、なるほど」と膝を打たせる。現在から過去へのカットバックも、とてもスムーズで分かりやすい。で、それだけではなく、A男とB子の哀しさが、痛みをともなってつたわってくるのだ。とくに、B子の一途な思い、好きな男に見向きもされないことの哀しさが胸を打つ。表面的にはC男とD子の理不尽な別れと邂逅を描きながら、実はB子の痛みを描きたかったのだろうと思われる。B子を演じるローズ・バーンの、もてない頃のイモっぽいメイクと、現在の色っぽいメイクの落差が印象的。また、彼女は売れない役者で、その存在を現在上演中の芝居の中の作中人物ななぞらえていたりするところは、脚本の上手さだろう。他にも、4人の男女による物語の二重性や、小道具の鏡、手紙、カギなども上手く使われている。
C男を演じるのは、軟弱顔のジョシュ・ハーネット。彼女との別れの後に別の女と婚約寸前まで行っているってのに、突然、2年前の女の匂いをかぎ分けて追っかけたりする男を演じている。しかも、彼女を捜している途中で別の女に誘惑されて、ほいほいセックスしてしまうという男の本質をちゃんと演じている。そうなんだよ。男ってヤツは好きでもない女とでも・・・。
エイプリルの七面鳥3/25ギンレイホール監督/ピーター・ヘッジズ脚本/ピーター・ヘッジズ
何だかよく分からん映画だった。っていうのも、30分ぐらいしたら半睡状態になって、さらには10分ぐらい目をつむってしまったからだ。ベーグルを食べた影響が、こっちででたようだ。嫌いなタイプの映画ではないけれど、刺激がないからそうなってしまったんだと思う。何しろ大したドラマは用意されていないし、分かりにくい部分も少なくない。なんか、感覚で理解してくれ、みたいなところも多いみたいだ。
感謝祭。田舎の一家が都会に住むパンクな娘のところへ出かけようとしている。パンク娘の招待で、何か料理を食べさせてくれるようだ、ってだけでクルマに乗って出かけた。一方のパンク娘は料理もほとんど初めて。せっかく七面鳥に詰め物をして焼こうか、と思ったらオーブンが故障中。アパートの他の階の住人に「貸して」と頼み込んで、なんとか仕上げる。家族がアパートに着いて料理を食べる、というそれだけの話。家族は祖母、両親、弟と妹。で、母親の調子がよくなさそうなんだけど、これは単なる乗り物酔いか? それとも体調が悪いのか? よくわからん状態で話が進む。あとで映画のHPを見たら、母親は余命幾ばくもなく最後の料理を食べさせる、なんてあった。寝ている間にその説明があったのかどーか知らないが、見ていた間にそういう説明はなかったぞ。それに、家族は単に感謝祭に娘のところへ、ってな描き方だけで、パンク娘が家出した経緯やその他には触れていない。こういうところが、きっとつまらなかったんだと思う。最後。いったんアパートの前まで着いた家族が部屋に向かわずファミレスに行くシーンがある。あれは何なんだ? 娘の彼氏が黒人だから心を落ち着けるためになのか? でも、そのあとすぐニコニコ顔で娘のアパートに行くじゃないか。うーむ。よく分からん。分かんないけど、そういう映画なんだろうということで、とりあえず。でも、こういう雰囲気だけで理解しろ的な映画って、ちょっとなあ。
アビエイター3/30新宿東急監督/マーティン・スコセッシ脚本/ジョン・ローガン
退屈な3時間弱だった。ちょっと面白くなったのは、なんとか議員がハワードを聴聞会に召還して陥れようとして墓穴をほるところぐらいか。あとは、もう、退屈で退屈で。
その理由は、物語がブツ切れだからに違いない。形容詞や接続詞がなくて、名詞と動詞だけでできた物語を読んでいるみたいだった。出来事のよってきたる原因やその後の経過が語られないのが典型的。物事が突然起こってドタバタして、尻切れトンボに終わる。そして、ずいぶんしてから結果や展開が紹介される。全然流れるような展開はない。撮影していた「地獄の天使」という映画が成功したのかどうか、そんなことは無視して話が進んでいく。ハワードの恋人となるキャサリン・ヘプバーンも突然登場して、突然消えてしまう。キャサリン以後につき合う女性も、描かれ方が書き割りのよう。ハワードの周囲を固めるスタッフたちも、まったく掘り下げられていない。人間と人間のドラマになんか関心がないかのように話が進んでいくのだ。で、ハワードについては極度の潔癖性と、そこからくる神経症、そして、幻覚や分裂病が暗示されるだけで、ハワードという人物にまったく厚味がない。とても類型的だ。これじゃ話が面白くなりようがない。まあ、3時間弱あっても詰め込むべき要素が多すぎる人物なのだろう、ハワード・ヒューズという人物は。けれど、もうちょっと切り口を鮮明にして、ハワードという人物の存在が何を求めていたのか、方向づけぐらいしてもよかったと思う。単にハワードのしでかしたことを事実として羅列するだけじゃ、映画にならないと思う。もっとも、アメリカ人にとってハワード・ヒューズは説明を要しない伝説の有名人だから、そんなものは要らない、のかも知れない。エピソードの羅列で十分なのかも知れない。そのあたりのところは、分からない。
ハワード・ヒューズについては詳しくない。晩年は人にも会わずホテルの中でヒゲぼうぼうになり部下に指示をだしていた、なんてことをどこかで読んだ記憶がある程度。TWAの買収をしたというのは初めて知った。なるほど。映画狂でスピード狂で飛行機マニアだったのね。で、この映画でも会社の社長室でヒゲぼうぼうになって狂気の縁をさまよう場面があるけれど、晩年だけじゃなかったのね。潔癖性の話も、そういえば読んだことがあるかも知れない。けど、あるシーンではドアノブがつかめないほどなのに、別のシーンでは平気で握手したり食事もしたり。症状が一貫していないところが、変だね。
ディカプリオはすっかり悪党面になってきたね。もともとそういう顔だったけど。ゆくゆくはオーソン・ウェルズやジェームズ・ギャグニーのようになっていくだろうとは思っていたけど。キャサリン・ヘプバーンを演じるケイト・ブランシェットは知的な感じがして好きな役者のひとりなんだけど、この映画では頭悪そうに映ってた。ヘプバーンの知的だけど意地悪っぽい感じがいまひとつ。もっと痩せぎすで筋ばった女優がよかったんじゃないの? ヘプバーンの口調を真似ているところなんかも、ちょっとやりすぎに思えた。エンドクレジットにジュード・ロウの名前があった。どこにでてた? 気がつかなかったよ。で、アビエイターって、どーゆう意味? って、調べたら飛行家って意味だった。そんなの分かるやつ、日本に1000万人もいないと思うぞ。
ZOO3/31テアトル池袋監督/脚本/
乙一原作「ZOO」の映画化なので、ちょっと期待した。けど、ほとんどガックリだった。この短編集については「本の雑誌」の北上次郎が「なんなんだ、これは」とかいう惹句で後押ししていたので、とりあえず読んでみた。感想は「ううむ。いうほどのことはないな」だったが、映画化されて、その思いが強くなってしまった。話に奥行きがないのだ。二転三転して意外な結末に・・・てな期待がある分、あっさりしすぎで拍子抜けの感がある。原作のせいだけではないだろう。原作を超えるものがつくれなかったことにも原因があるはずだ。 「カザリとヨーコ」監督/金田龍、脚本/東多江子
双子の姉妹。一方は母親に好かれ、一方は嫌われている。そんな姉妹の、ちょっとした復讐譚なのだけれど、なぜ嫌われているかが描かれていないのでしっくりこない。犬の飼い主の老母の存在も、結局、ストーリーには関係なしだし。意外性もない。尺が長い分、退屈だった。主役の女の子は愛くるしいが、嫌われているという割には清潔そうな服装だし、反乱を起こす気配もない生活・・・というのが、いまひとつ説得力に欠けるな。どーして突如、反乱したのだ?
「SEVEN ROOMS」監督:安達正軌、脚本/奥寺佐渡子
原作の中で最も印象的だった作品だ。不条理な誘拐と監禁。その理由は? でも去年公開された「ソウ」と比べるとどんでん返しがまったくなくて意外性が感じられず。しかも、脱出劇も簡単すぎてちっともスリリングじゃない。何だかんだと不満ばかり言っていた姉が、突然、自分が犠牲になろうとする理由も不明だしね。弟を演じた少年が、いいね。口調とか、ちゃんと演技している。
「陽だまりの詩」監督:水崎淳平、脚本/古屋兎丸
アニメ作品。これも記憶に残っていたけれど、果たして面白くなるだろうかと危惧した。ところが、むしろ上出来の部類に入る仕上がり。スピルバーグの「A.I.」にインスパイアされたような話だけれど、時と場所を限定して牧歌的にしてあるのがいいのかも。人物の動きが、とてもスムーズだ。実写した映像をトレースしたのかと思ったら、どうやらカラダにセンサをつけて動作し、そのセンサの動きをCG化したようだ。アニメっぽくないところが艶めかしい。
「SO-far そ・ふぁー」監督:小宮雅哲、脚本/山田耕大
この作品が、最もよくできていた。「シックスセンス」や「アザーズ」のような、視点をひっくり返されるようなどんでん返しがあるからかも知れない。もっとも、小説の内容はまったく記憶にない。だから楽しめたのかも、やっぱり意外な結末、思わぬ展開が、こういう映画には必要だよな。
「ZOO」監督:安藤尋、脚本/及川章太郎
死体と写真というテーマは覚えていたけれど、詳細は忘れていた。で、この物語はあまりにもストレートすぎて意外性がどこにもない。もうちょっと、何なんだ? どうなっているのだ? という展開にしないとねえ。たんに、つまらないだけだったぞ。

 
 

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