2005年5月

レモニー・スニケットの世にも不幸せな物語5/6上野東急監督/ブラッド・シルバーリング脚本/ロバート・ゴードン
うーむ。いまひとつだな。眠かったし。ってーのは、あんまりドラマがないからだ。ドラマはあるだろ? って? うーん、そうかな。畳みかけるような恐怖または不幸があるわけじゃないよなあ。たとえはある出来事がきっかけでどんどん不幸のどん底にはまっていくような、そんな転げ落ちるような不幸はないだろ? そこそこの不幸と、ちょっと振り回される様子が描かれている程度で、目を覆うようなって不幸じゃない。しかも、次第に分かってくるのはある特定の相手が仕組んでいるに違いない不幸であって、偶然の不幸ではない。こうなると、意図的な悪事であって不幸ではない。しかも、物語の主人公である子供3人は不幸をなんとか切り抜けていってしまう。しかも、あまり頭も使わずなんとなく切り抜けてしまう。なんか、つまんねえよ。
描かれる世界は嫌いではない。ちょっと時代がかった1930年代の外観とクルマの電子ロックという20世紀のテクノロジーが渾然としたまか不思議な時代感覚は、好ましい雰囲気をかもし出している。けど、単にそれだけ。そのアトモスフェアが映画自体の面白さに何の貢献もしていない。寓話としても、かなり弱い。ってか、つまらない。フェイ・ダナウェイやダスティン・ホフマンなんていうゲストを迎えていながら、ほとんど活かされていないし。なんか、力が入っているけど肩すかし、ってな出来の映画だなあ。
靴に恋して 〜PIEDRAS〜5/8ギンレイホール監督/ラモン・サラサール脚本/ラモン・サラサール
調べてみたら"PIEDRAS"は「石」「岩」という意味らしい。なるほど。見終わって「靴に恋して」というタイトルがとてもそぐわないと思ったのだけれど、「石」ならちょっと分かるような気がする。靴は小道具として活かされてはいるけれど、それほど重要な位置づけではない。それに、靴を愛しているってな女性もとくに出てこないしね。
「ラブ・アクチュアリー」のような群像劇で、当初は関係のない同士と見えた人々が、実はさまざまな線で結ばれていることが次第に分かっていく。緻密な構成が見事で、複数の物語が並行して進んでいても、次第に明らかになってくる関係の糸の絡み具合でしっかりと惹きつける。伏線もしっかりしているのだけれど、正直にいって最初の辺りをよく覚えていなかった。主な主人公の名前と靴の嗜好がタイトルで表示されるのだけれど、すべては覚えられない。だから、「イブラヒム・・・」のあとで、この映画の冒頭30分を再度見た。すると、最初の15分ぐらいで主な登場人物は顔を見せていて、しっかりと伏線が張られていることも分かった。けど、じっくり丁寧な描き方ではなく入り交じったりしているので、2回目で「なーるほど」とやっと納得できるような有様。まあ、こちらの記憶力の問題かも知れないけどね。
小道具や脇の役者の存在、さらに細かい描写がいい。娼館の女主人を慕う老従業員。サッカー靴が欲しいと言えず「サッカー好きだよ。ぼく」とタクシー運転手の母に言う少年。これらが話に厚みを増している。それにしても、でてくる女性がみんな濃い。とくに娼館の女主人なんか印象が「オール・アバウト・マイ・マザー」のオカマみたいな女だなと思っていたら、実際、あの映画に出ていた女優らしい。具体的には記憶に残っていないのだけれど、印象がそう思わせたのだ。それにしても、あの顔に惚れる男って・・・。靴屋の女店員も、話の上では20代らしいけど、よーく見るとどーしても30歳を超えている。小さな靴を履きたがる女がまた凄いシワだらけで、どーみても60歳以上? タクシー運転手もかなりのお年のよう。若くてぴちぴちした女優はおらんのか! という気持ちにもなるのだけれど、でも、この全ての女優が老け顔ってのもこの映画のテーマに合っているように思えてくる。若さという魅力を失ったとき、人はどう対処するのか? ってな感じでね。
映画に幸せな人はでてこない。別れ、失望、貧乏、嫉妬、見栄・・・。そんな哀しい人生模様がつづられていく。たとえば、靴屋の女店員が振られるのは彼氏が男色に目覚めたからかららしいけど、その事実を彼女は知らないのだよなあ。もし、その事実を知ったら、彼女はどういう反応を示すのだろう。そんな捻れた関係も見ていて面白い。
で、気になったところ。娼館の女主人に惚れた男が、妻(小さな靴を履く女)に「離婚しよう」という。その彼が、いざ妻に去られる段になって「行かないでくれ」は情けなさ過ぎないか? 靴屋の女店員を振った男が、タクシーの運転手(女店員の義母)に「前に会ったことがある」といってたけど、どこで会っていた?
イブラヒムおじさんとコーランの花たち5/8ギンレイホール監督/フランソワ・デュペイロン脚本/フランソワ・デュペイロン、エリック=エマニエル・シュミット
思春期の少年を描いたという点ではとても面白いのだけれど、後半になって目立つフランス映画らしいいい加減な話の展開と尻すぼみの結末が不満だ。いい加減な話の展開というのは、父親の出奔と自殺のことだ。少年モモをトルコ人イブラヒムの養子にするため、無理矢理そうしたようにしか見えないよなあ。唐突すぎるのだ。前半の描写で、父親にそんなそぶりや性格を付しておけばまだしも、まったくそんな感じが見えなかった。いささか神経質なところがあるようにも思えたけれど、本好きで思慮深く、定時に帰ってくるいい父親にしか見えなかったぞ。だいいち、会社を首になったぐらいで自殺してしまうか? なんか裏があるんじゃないのか? と思わせて何もないのは、つまらない。尻すぼみの結末というのは、結局、主人公の少年があの通りから出られないという終わらせ方だ。イブラヒムが故郷に帰ったら、またしても事故死させてしまう。なんていい加減なんだ。登場人物を殺すことで話を展開させるって、ご都合主義もいいところだよな。でもって、コーランの教えに従って勉強なかった少年モモはイブラヒムの店を譲ってもらって、その店主になりましたとさ。つまんない終わり方だ。
前半は、とてもいい。色気づいた少年がなけなしの金で娼婦を買って筆おろし。近所の娘に手を出して振られる・・・。そんな、大人になりかけの少年の好奇心を活き活きと描いている。そんな少年モモを、他人ながらしっかり見つめているのが、イスラム教徒で雑貨屋の主人イブラヒム爺さんだ。まるで自分の孫のように可愛がっている。でまあ、ご都合主義的にも、モモの父親の馘首、出奔、自殺によって、イブラヒムはまんまと少年を養子にしてしまう。実の母親が迎えに来たのに、どーして母親の元に行かなかったのか、それは謎だ。謎と言えば、父親はモモに「兄貴はよく勉強した」といいつづけて来たはずだけれど、母親曰く「息子はひとり」って、どーゆーこったい? 父親は何のためにいもしない兄貴の幻影をモモに植え付けたのだろう? あまりにも勉強しないから、架空の兄をでっちあげて比較させたのか? わからん。
いかにも頭悪そーな、というか、将来はチンピラにでもなるしかない、ってな容貌の少年モモがなんとも小生意気でよい。娼婦を買うのもご近所で済ませてしまうってのも、ものすごいけどね。時代設定は1960年代か。ロカビリーが流行っている頃で、女の子のファッションなんかも、いかにもの感じがする。題名にある「コーランの花たち」ってのが意味不明だが、とくに誰かを指しているとも思えない。それにしても、この時期(2003年)にコーランの賛美、イスラム教を正当化するような映画というのは、意図的なのだろうか。世の中の反イスラム的な風潮へのアンチテーゼなんだろうか。
海を飛ぶ夢5/10新宿武蔵野館2監督/アレハンドロ・アメナーバル脚本/アレハンドロ・アメナーバル、マテオ・ヒル
いきなり日本語のタイトルが縦書き教科書体でデザインされて現れたのに驚いた。なにが始まるってんだ? じつをいうと、ポスターから老いらくの恋のような内容かな、とだけ思っていて、どんな話かは知らなかった。で、尊厳死の話だったのだけれど、これが通り一遍のよくある視点からしか語られていなくて、底が浅い。首から下が不随の主人公に対しても「可哀想」という感情がわき起こらないし、第一、本人が死にたがっている切実な思いがつたわってこない。あえてお涙頂戴にしていないのかも知れないけれど、どーも映画の中に入り込めなかった。
ちょっと毛色が変わっているのは、命の尊さを訴えるような通俗的な立場からつくられていないことだ。一般的には非難されそうな、尊厳死を認めて欲しい、という視点から映画は描かれていく。昔の映画なら単純に「命は尊い」で済んだのだろうが、現在は生命維持装置なんかが登場して簡単に人間は死ななくなった。この映画の主人公も首から下が不随で30年近く生き、耐え難くなっての決意と示されている(の割には本人は楽天的に見えるし、家族も親切で死ななければならないように見えないところが難点)。一般的に生命の尊さを訴える人の多くは、口先だけってことが多い。当該患者の世話をするかといえば、そういうわけでもない。経済的な支援をするかといえば、するわけでもない。単に自分の主義主張を行ない、それに反する人を説得するか糾弾するかだ。典型的な例が、この映画の中にも宗教者として登場していて(たとえあの宗教者も車椅子生活者だとしてもね)、幾分コミカルで面白いシーンになってはいるけれど、議論の中味は想定内の内容でステレオタイプだ。かつての映画は、この宗教者のような視点ばかりだった。どんなに苦しくても生きていくことは素晴らしい、意味がある、とかね。でも、当該患者の苦痛が分かるわけでもないし、患者の周囲の人々の心を共有できるわけでもない。たんに、言いっぱなしの生命賛美だった。こういう流れに反論する表現者が出てきたことは、意見の多様性という意味で悪いことではないだろう。それに、単に「尊厳死を認める人もいる」「認めない人もいる」と問題を拡げるだけ拡げ、なんの判断も解釈も下さないようなNHK的視点でないことも評価する。けれど、見終わって「考えさせる映画だ」などといっていては始まらないのだよな、こういう問題は。考えているだけではダメで、決断しなくてはいけないのだから。けれど、この映画では世の中で議論されているレベルの、生の素材がそのまま提示されているようなところがある。ドラマになりきれていないのだ。だったらドキュメンタリーでもいいじゃないか、ってな気もしないでもない。
主人公を応援していた弁護士が痴呆になるというのは、フィクションなんだろうか。話がうまくできすぎていて、いかにもとってつけたようなエピソードだ。話を膨らませるには、この程度の色づけしかできなかったのかな。主人公が「死ぬ」と決断するまでに至った心の痛み、哀しさ、過去との決別の重さなどにもっと重点をおいてもよかったのではないか、と思ったりした。それと、死を扱う映画にしてはできの悪いコメディのような描写もあったりするのだけれど、逆効果ではないのかな。別に全編感動的な映画にしてくれというわけではないけれどね。それに、尊厳死派のメッセージ映画じゃないんだろうから、人間ドラマの側面に切り込んでいってもらいたいものだと思ったのだった。で、実をいうと前半で少し寝てしまったのだった。これはやっぱりつまらなかったからだと思う。
隣に座った初老の男性がへんなやつで、画面のスペイン語をみながら小声でぶつぶつつぶやいたりする。「ああ」「おー」などといちいちうなずく。しょっちゅう前屈みになったり元に戻ったり落ち着きがないこと夥しい。そのせいで冒頭の10分ぐらい集中力が欠けてしまった。あんまり気になったので「動くな。落ち着きのない奴だな」といったら「そう。僕は落ち着きがないんだ」といいやがった。なんてジジイだ。その後は少し大人しくなったけれど、このジジイ、画面を見ている時間よりうつむいているような時間の方が長そうだった。いったい何をしに来ているのだ、こいつは。それにしても、武蔵野館は入れ替え制だから、冒頭をもう一度見たいと思ってもできないのが困るね。
メールで届いた物語5/13テアトル池袋監督/脚本/
手紙および電子メールと恋愛をモチーフにしたオムニバス映画。ある一編で使われたメールネタが他の一編に使われたりして、遊び心もあったりする。いささか暗い「やさしくなれたら・・・」を除く3編は上出来で、「mail」は泣けるし「CHANGE THE WORLD!」は元気になるし「アボカド納豆。」は笑える。
「mail」監督/清水浩、脚本/清水浩
郵便局員がそんなことを・・・。とか、唖の娘に家族はいないのか? 2人の写真は誰が撮ったのだ? 手袋はいつ誰が投函したんだ? とか、そういう突っ込みはさておいて。つぎはどうなるんだ? と引っ張っていく具合もよいし、淡々としながらもムダなカットがなくてズバッと必要なカットばかりのつなぎが、とても心地よい。つなぎのテンポが「あの夏、いちばん静かな海」に似ている、と思ったら、北野映画の助監督をしていたそうな。日本映画にありがちなくどさがなく、さあ泣け、という浪花節もない。なのに、映画の途中から(話の展開がどう転がるかわかる前から)心に迫ってきて、涙目になってしまいそうだった。完成度がとても高い。もちろん、突っ込むべきところはあるけれど、そういうところは突っ込んではいけないのだ、と思う。
「CHANGE THE WORLD!」監督/伊藤裕彰、脚本/井上淳一
こちらもテンポがいい。恋人に振られボクシングに夢中になって網膜剥離でタクシーの運転手に・・・という娘の日々が、軽快に描かれていく。物語のメッセージが希薄でテーマもよく分からないのだけれど、それはそれでいいじゃないか、ってな気もしてくるし。そういうところも含めて、主人公の彼女の、うっぷんの矛先が定まらないってところとシンクロしているような気もする。小学生を殴り倒して、野良猫の世話をしていた美少年にアタックしちゃうところなんか、「この女、凝りねえな」って思わせて楽しい。
「アボカド納豆。」監督/鈴木元、脚本/大森寿美男
ある会社の先輩と後輩と、中年上司をめぐる女の取り合いみたいになっちゃってるのだが。でも、そこに至る過程が面白い。とくに、酔っぱらって偉そうに後輩にからむ上司が「こういうやつ、いるよな」って思わせるやつで、ほんとうにうっとーしー奴を見事に演じていた。
「やさしくなれたら・・・」監督/鳥井邦男、脚本/鳥井邦男、加藤正人
振り込め詐欺をモチーフにした純愛物語。でも、なんか見ていて気持ちよくならない。共感もできなかった。
バタフライ・エフェクト5/17シネマミラノ監督/エリック・ブレス&J・マッキー・グラバー脚本/エリック・ブレス&J・マッキー・グラバー
面白かった。いわゆるタイムスリップもの。ふつうなら過去の事実を変えてはいけない、となるのだけれど、この映画では積極的に変えていくことになる。変えるたびに自分や周囲の状況が悪化し、とんでもない事実が出現。さらに過去にもどって変えていく。そのエピソードの中で、これは単なるキチガイの妄想、ってな状況も登場したけれど、最終的にそうではないので救われた。最近多いからねえ、妄想に帰結するのが。
「リプレイ」のようでもあるけれど、単に自分の環境を変えるのではなくて、人物関係や経済状態、性格や生きる姿勢までが変わってしまうのがオソロシイ。しかも、人生のなかのひとつの出来事を変えるだけで、大きな違いがでてしまう。ううむ。誰しも「あのとき、ああだったら」「ああしていれば」とは思うこと。でも、良かれと思ってしたことが、周囲に悪影響を及ぼし、ひいては自分の不幸として降りかかってくるかも知れない、ってストーリーは、なかなか深いところもある。彼女を愛するが故に、他人でいることを最終的に選択するという、ちょっと哀しいラスト。まったく人生万事塞翁が馬だな。
いったん過去の出来事を変えてしまうと、主人公が書いている日記も変わってくるんじゃないかと思うんだけど、そのあたりの辻褄は合ってたのかな?
花と蛇25/20上野東急2監督/石井隆脚本/石井隆
団鬼六原作の緊縛物だ。エロい部分はかなりあるので勃起度も高いのだけど、それ以外のところが、ちょっとなあ。話に奥行きがなくてつまらんのだ。
高齢で心臓病の夫に、若い妻。夫は画家のパトロンで、パリにいる画家に資金を提供している。妻がパリに行かされると、画家はモデルにしたいといいだして・・・。という、単純極まりない話。高齢夫が裏で糸を操っているのはミエミエの展開で、ミステリアスなところがどこにもない。もうちょっと何とかならなかったのかね。下半身は勃起していても、頭は眠くて退屈していたぞ。
その画家が「絵を描く。だからデジカメとプリンターを買ってくれ」と女に注文をつけるのがおかしかった。画家って、写真がないと絵が描けないのかよ。デジカメを買ってといわれて、ニコンの高級一眼レフデジカメを買ってしまうところも笑える。オークションの場面も「アイズ・ワイド・シャット」の安手の物まねで笑える。本来は耽美的であるべきところが、単にいやらしいか、さもなくんば笑えてしまうところが、この映画の欠点だな。
で、分からないのが冒頭の郵便局員が緊縛女を襲うところ。あれは、いつで、傍観しているゴム面の男は誰なのだろう。分からなかった。
それにしても、女優も男優もたいへんだねえ。男優は、女優のあそこをパンツの上からホントに舐めているみたいに見える。女優は本当に縛られている。難行苦行だと思うぞ。そういやあ、緊縛師も本当にあそこをびちょびちょしていたように見えた。それから、冒頭近くで昔の女性の磔のシーンで、雑兵のひとりのチンポコが勃起しているのが映っているように見えたのだけれど、錯覚かな?
コーヒー&シガレッツ5/23銀座テアトルシネマ監督/ジム・ジャームッシュ脚本/ジム・ジャームッシュ
11の短編で構成される、いまどき珍しい白黒映画。つまらなそうな映画かも、という先入観があったのだけれど、半分は当たっていた。白黒映画のせいか、画面がフレッシュな感じがしない。みな古臭く辛気くさい感じ。画面からゴミやホコリの臭いがつたわってくるよう。とてもコーヒーの香りは漂ってこなかった。もちろん、どの一編もコーヒーは美味そうにはみえなかった。ちょっとした小咄のように人物の対立とオチがあるものは、楽しめる。けれど、何となくのストーリーは、ちょっと辛かった。とくに、疲れていたりすると眠ってしまいそう。いや、実際に眠くなった物語もあったし。
1話「変な出会い」
なんだか意味が分からない。
2話「双子」
ウェイターの質問に応える双子のリズムが面白い。たんにそれだけなんだけど。まあ、まずまず。
3話「カリフォルニアのどこかで」
売れないミュージシャン2人。「お前の音楽はジュークボックスに入ってない」と言われた方が、相手がいなくなった後に「お前のだってないじゃないか」と言うだけの話。大したオチになっていない。
4話「それは命取り」
「コーヒーは体に悪い」「いいや」と言い合うオヤジ2人に、子供が絡む。オチがないのが残念。子供が食べていた日本の豆って、いったいどんな豆なんだろう? それが知りたい。
5話「ルネ」
で、何がいいたかったんだろう?
6話「問題なし」
ほとんど記憶に残らない。眠くなっていたのかも知れない。
7話「いとこ同士」
ケイト・ブランシェットが売れている女優(彼女自身)と、従姉妹の売れないミュージシャンの二役を演じる。オチが読めてしまうので意外性は全くないのだけれど、話がちゃんと起承転結しているので結構楽しめる。気取ったケイトと杜撰なケイトが見られるのも楽しい。
8話「ジャック、メグにテスラコイルを見せる」
だからどうした。
9話「いとこ同士?」
一番面白かった。売れっこ俳優と売れない俳優。売れない俳優が系図を取り出して「僕らは従兄弟」というが、売れっ子は煙たがる。最後のオチはよくある展開でけれど、これも起承転結しているので飽きさせない。スパイク・ジョーンズと聞いてピンとこなかったのは恥ずかしいけれど、しょうがない。映画は見ていても監督の名前までなかなか覚えきれないんだから。最近は。で、これってコーヒーがでてこなくて、紅茶じゃなかったか?
10話「幻覚」
黒人2人のテーブルにビル・マーレイ本人が給仕でやってくる。それだけの話。よく意味が分からない。
11話「シャンパン」
中味はあんまりないんだけど、じわっとくる。とくに、スターバックス系のコーヒーを不味そうに飲んでいるのが印象的。
サイドウェイ5/26ギンレイホール監督/アレクサンダー・ペイン脚本/アレクサンダー・ペイン&ジム・テイラー
いろいろ身につまされるシチュエーションがたくさん。「いったい俺の人生は何なんだ?」「何も残せていないじゃないか」なんて思っている人には、共感というか慰められるところがたくさんある。そう。世の中、映画や小説みたいにそううまく行くとは限らないのだ。
小説家を目指しながら小学校の国語の教師をしているマイルス。その友達で落ち目のテレビ俳優ジャック。ともに40歳前半ってところかな。遊び人のジャックが結婚するというので、直前に2人で旅をすることにした、って設定が日本ではあり得ないよな。マイルスはワイナリー回りとゴルフ三昧のつもり。ジャックは独身最後のハメまくり旅行にするつもりって、コメディだよなあこの設定は。しかも、クルマの中でワインを飲んだり、旅先でも毎晩酒酔い運転。こんなの、日本だったら即抗議運動が起こるに違いない。不謹慎だ、ってね。それだけでも、アメリカは大らかで寛容だなと思ったりする。
凸凹珍道中も、2人の女性と知り合って話が転がってくる。子持ちの東洋系女性とヤリまくりのジャック。相手が誘ってくるのに手が出せないマイケル。マイケルが女に手が出せないわけが、また、未練たらしいもの。別れた女房が結婚したことを聞いて、嫉妬してしまったってんだけど。こういうのって、あることなのかい? 女に棄てられたってことかい? ううむ。で、マイケルの相手の女も、離婚したて。いや、もう登場する男女のほとんどが離婚経験者で、ジャックだけが遊び人だった、ってなぐらい。この辺りもアメリカを象徴しているなと思ったりする。
80年代前半に青春を送った世代(なかでもインテリ青年)は、みんなマイケルのように「誰だって可能性がある。やればできる」って思うような世代だったのかな。それとも、一般的に、青春の夢淡く消えゆく時代が40歳前後ということを言いたいのかな。よく分からないけれど、とにかく、自分の人生と折り合いをつけなければならない年齢機に達した、つてなことなのだろうか。おそらくマイルスは、このままなら作家になれず田舎の国語教師で一生を終えることだろう。しかし、マイルスはラストで新しい彼女の家を訪れている。だから、国語教師を辞めて彼女と一緒に農園かワイナリーを始めるのかも知れない。作家への夢をあきらめるということは、青年期の終わりということでもある。夢だけでは食っていけない。年老いてまで夢にすがっていては、哀しい末路を迎えるしかない。そうならないためにも、自分の可能性や才能をしっかり見据え(マイケルなら、ワインへの情熱と知識)、実現可能な新しい夢を追わなくてはいけないということだ。ジャックについても、映画スターを夢見るのはムリ。しかも、いつまでも遊んでいられる年齢ではない、ということなのかも知れない。確かにジャックはブドウ農園にも興味を示したけれど、とうてい自分でできるなどとは思っていない。だから、年貢を納めたということだろう。いうならばこの映画は、不良中年のための「スタンド・バイ・ミー」みたいなものだ。あの映画が少年期との決別だとしたら、この映画は長すぎた青年期との決別の映画だ。大人になっても子供の心をもって夢を追うのもいいけれど、いつかはけじめをつけなくちゃいけなくなるときがくる。そんな年齢の中年たちを、熟成度や香りが勝負のワインで象徴しているのだろう。1961年産のなんとかいうワインが登場して、そのワインに「飲み頃」があるというようなことが言われた。そのワインをマイルスは旅から帰った後、ファーストフード店の店内で飲むのだけれど、これも軽薄だった自分との決別の場として相応しい。要するに、40歳前後は人生のいちばん充実している年齢でもあって、この年を過ぎるとだんだん衰えてくるのだから、後半の人生を充実させていくためにも決断するときが必要だ、というようなことの象徴でもあるわけだ。ま、大人の映画だ、ってなことになるわけだなあ。
エピソードは、いろいろ面白い。ワインのうんちくも楽しい。マイルスが彼女を口説こうとしないところもおかしい。ジャックが素っ裸で逃げ出してくるとは大笑い。ジャックの結婚相手とマイケルを棄てた元女房なんかは名前だけで実物がでないのかと思ったら、登場してきた。なんか、想像していたのと違うのが、ヘン。出さなくても良かったんじゃないのかね。ラストは、マイルスが彼女の家のドアを叩こうとするところでFO。昨今の映画はなんでも具体的に説明してしまうのがつねだけど、ここでは含みをもたせた終わり方だ。こういう洒落た終わり方、いいねえ。いろいろ考えられるし。ね。
ネバーランド5/26ギンレイホール監督/マーク・フォースター脚本/デイヴィッド・マギー
インターバルにベーグルを2個囓ったら、映画の途中で眠くなってしまった。キャスティングをしているあたり? もっと前かな。気がついたら子供の一人がロープから落ちるところ。10分ぐらい寝たのか? 目覚めてからの展開は面白かった。ピーターパンの上演は感動的だったし、ケイト・ウィンスレットの家での上演と庭につくられたネバーランドには涙うるうるとなってしまった。こういうのって、もう、あまりストーリー関係なく感動は引き出せるものなのかもね。泣かせ技ってやつかな。
でも、冷静に考えるととんでもない連中ばかりだよなあ、でてくる人物は。美しい妻がありながら4人の子持ちの未亡人にご執心な劇作家ジョニー・デップ。劇作家に妻があるのを知りながら迎え入れる未亡人。奇矯な劇作家になつく子供たち。不貞に走る劇作家の妻。ヘンだぜ。もうちょっと人物関係を掘り下げて描くべきではないのかな。劇作家夫妻の不仲の理由、劇場の座長との関係、ケイトとその母親の軋轢・・・。そういう接続詞をもう少し緻密につなげていったら、ドラマ部分も面白くなったような気がする。前半はとくにドラマがなく、劇作家がケイトの子供たちとふれあう過程で、子供の行動にインスパイアされて物語の世界を編み出す様子が描かれるだけ。対立といえばケイトの母親(ジュリー・クリスティ老けた)ががみがみ言うだけで、スリリングさもない。これからどうなるのか、そんな引っ張りが足りないと思う。その分、芝居の上演以降は感動的なんだけどね。で、孤児院の子供が招待客として突然現れたけれど、寝ている間に交流があったのか? なんか、唐突な印象を受けた。
まあ、世間では「子供のときの夢をもちつづけた劇作家」とか「ピーター・パンのモデルとなった少年」だとか、未亡人との切ない恋物語」だとかいうのかも知れないけど、なんだかなあ。劇作家自身のキャラクターも中途半端なものだったし。そういうのって、あんまり売り物にならんと思うぞ。それにしても、劇作家ジェームズ・バリって「ピーター・パン」以外に何を書いたの? バリは、4人の子供を立派に成長させたの? みんなまともに大人になったのかね。なんか、気になってしまう。
イン・ザ・プール5/27テアトル新宿監督/三木聡脚本/三木聡
神経科のアホ医者と、3人の患者の物語だ。オダギリジョーが継続性勃起、田辺誠一がプール依存症、市川実和子が強迫神経症。ガス止めたかなの強迫神経症的症状は多少あるので、人ごとではない。それにしても、神経症の患者3人でなんとか映画が1本できてしまうのだから、オソロシイ。恐ろしいけれど、それぞれのエピソードはそれなりに面白いから困ったものだ。
ただし、うっとーしーのが病院の院長役の松尾スズキ。なんか、ひとり芝居でもしているつもりか、小芝居というか、大芝居をしてしまっている。これが映画であることを忘れた、まるで舞台劇のような大時代的なセリフや動作仕草がみていて臭すぎ。素直に映画的に利用すればいいのに、どーして松尾だけ特別扱いの演出をしたのだろう。これがなければ、もっとスマートに面白かったはずだ。
疑問点。田辺の性病というのは、妻が浮気をしたということなのか? そして、田辺が背広でプールに飛び込んだ後、松尾スズキ演じる病院長のところに受診にくるのは、いったいなぜなんだ? わからんぞ。それにしても、世の中にはこんなことで悩んでいるやつもいるのか、と思えるあなたは、神経科は必要ないだろうね。
わが家の犬は世界一5/31新宿武蔵野館3監督/ルー・シュエチャン脚本/ルー・シュエチャン
中国人は犬を見たらよだれを垂らすのかと思いきや、その逆の人も多いようだ。この映画は、1994年に発令された犬の登録制度を背景にした、不思議な雰囲気を持った映画だ。内容はコメディのはずなんだけど、コメディになることを拒否したまま終映を迎えてしまうような、そんなひねくれたところがある。とぼけた味わいのようにも思えるのだけれど、どっか暗いのだ。エンドクレジットで流れる音楽も、どーにも辛気くさい。カラッと明るいところが、ないのだ。かすかに、じわっと湿っている。妙な味わいだ。もしかしたら、笑えない事実が隠されているのかも知れない。
亭主の麻雀狂いをとるめため、女房が犬を買ってきた。ところが北京市内は狂犬病などのせいで、犬を飼うには登録証がいる。しかも、5000元ととても高い。だから、たいていの住人は無許可で犬を飼っている。・・・というのが背景にある。で、夜の散歩中に一斉摘発を受け、犬は警察の手に。明日の4時までに登録料を払えば返してやると言われて困惑の夫婦。なにしろ登録料が惜しい。で、似た犬を登録している他人の登録証を借りて失敗。人づてを頼って失敗。仕方ない、貯金をおろして、と右往左往の半日間を描く。
中国のフツーの人々の生活感覚が分かるのが面白い。この夫婦、まったく金がないわけではない。女房は子供の学費にといって定期預金をしているし、亭主は亭主でへそくりをしている。なんだ、あるんじゃないか、金。つてを頼っていったり母親を訪ねたりするとき、必ず手土産をもっていく亭主。金、あるじゃないか。思いあまって似た犬を買ってしまう亭主。詐欺にひっかかって300元もムダにする。なんだ、金、あるじゃないか。そう。ちょこちょこ金を使えるほどの環境なのだ。しかも、賭け麻雀までやっていた時期もあるわけで・・・。中国人の平均的な姿は、こんなものなのか? ちょっと前までの貧乏丸出し映画と、随分、違ってきたね。中国人が、ペット犬の心配だよ。ううむ。中国人の悩みも大らかになったものだ。
犬の失踪と関連して進むのが、亭主と元麻雀仲間であるバツイチ女(髪を長くしていて、これまでの中国人女性のイメージとちょっと違うのだ。とくに、女房の生々しい生活感と競べると、色っぽく見える)との怪しい関係。女房も嗅ぎつけているのだけれど、亭主は関係ないといいつつ、やっぱり怪しい。この2人にはなんかあった、としか思えない描き方だ。犬とは無関係に、息子のエピソードも描かれる。反抗期でファッションにも気を遣っているけれど、喧嘩は弱い。なのに、友達をかばってチンピラ生徒に傷を負わせてしまう。それで、亭主はこっちの示談話もまとめなくてはならなくなる。犬は登録料、息子は示談金。踏んだり蹴ったりだ。けれど、ラストでタイトルに「つてを頼りに犬を取り戻し、翌日に登録料を払いに行った」とでる。なんだよ。だったら悩まずに最初から登録料を払えばよかったじゃないか。金があるんだから。どーもスッキリしない。けれど、そのちょっとしたお金を払うか払わないか、それが悩みの種、という程度まで人民の経済レベルは発展してきている、ということなんだろう。なんだか、現代中国の悩める一面を見せられたような気がする。
シーンが終わるとき、静かにフェード・アウトする。このリズムが、なかなかいい。このあたりも、単なるコメディにしないぞ、という姿勢がつたわってくるような気がする。
ネバーランド5/31ギンレイホール監督/マーク・フォースター脚本/デイヴィッド・マギー
この間は途中で寝てしまったので、その部分を確認するため。新宿で昼を食べてたらたら1時間余歩いて飯田橋まで行ったせいか、疲れてしまった。またしても冒頭から寝てしまう。でも、ここは前に見ているからいいや。ゆっくりと寝た。気がついたら、祖母の手が鈎になっていて子供たちを脅かしている場面。2〜30分ぐらい寝たのかな。前回寝てしまったのは、劇作家の日記を読んでしまった妻と劇作家の会話のシーン。誰かを待ち受けている妻のシーン。衣装合わせと舞台稽古のシーンだ。25席を確保しろ、と舞台稽古のところで言っていたのだね。
それにしても、この映画でよかったのはピーター・パン初演の場面で、孤児院の子供たちが笑うのにつられて大人たちも笑いはじめるところ。それから、ケイト・ウィンスレットの自宅で劇を上演したとき、真っ先に祖母のジュリー・クリスティが拍手するところだな。ある対象に対して反感の心をもっていた人が、その心を解きほぐす場面というわけだ。こういうところに感動があるんじゃないかな。
少年ピーターは、よくわからん。なついていたかと思ったら「お前なんか家族になったつもりか、僕たちにはパパがいたんだ」といい、次には「ひどいことを言ってゴメン」といったり。いまひとつ一貫性も説得力もない子供である。

 
 

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