2005年7月

バットマン ビギンズ7/1新宿ジョイシネマ1監督/クリストファー・ノーラン脚本/クリストファー・ノーラン、デヴィッド・S・ゴイヤー
コミックらしさを削いで、できるだけリアルに見せようとしている。これまでの「バットマン」シリーズは全編ノワールにすることでゴッサム・シティを悪の町として創出してきた。コミック的な表現としては間違っていないと思う。その逆をいくこの映画では、ノワールにはこだわっていない。日の光はあるし、空も見える。世界の他の国とも交流のあるかのような街が描かれる。こういうところがリアリティなんだろう。そして、多分かなりのところそれは成功している。でも、その代わり荒唐無稽な面白さがなくなってしまっている。ま、当たり前の話だけど。要するに、ヒーローがヒーローらしくない。かなり弱くてカッコ悪いのだ。これじゃ、スカッとストレス解消には向いていない。
で、小さい頃、暗い井戸に落ちてコウモリ恐怖症になった設定。そのトラウマを克服せんがためにバットマンと名付けてたようだけど、本当に克服できているかは疑問。ラストの方でコウモリを引き寄せる術を使っているけれど、いつそんな技を学び取ったのだ? よくわからんのが冒頭部分。お坊ちゃま育ちを嫌い、ぐれて放浪…? で、窃盗で逮捕されて刑務所に入って…は、いいけれど、なんでそこにリーアム・ニーソンが訪ねてくるのだ? しかも、彼を引き取って訓練までしてやる(ついでにいえば、リーアム・ニーソンとの特訓は「スターウォーズ」を連想してしまった)。何のために? ラストに関係することだし、よけいに分からない。で、リーアム・ニーソンが仕えるチベット人みたいな日本人みたいなのが渡辺謙で、出番は少ないし呆気なく死んでしまう。なんなんだよ、この設定は? しかも、渡辺謙は忍者の親玉で、率いているのが「影の軍団」って、おい、ソニー千葉はでて来ないのか? 萎えちゃうよなあ。
さてと、放浪を終えて現実復帰した大金持ちのバットマン君。揃えるバットマングッズのほとんどは、自分の会社で開発したものを採用する…って、お手軽すぎるんではないの? 応援するのは執事のマイケル。ケイン、会社をリストラされたモーガン・フリーマン、それから刑事のなんとかかんとか。そんなことじゃバットマンの正体は、すぐにバレバレになっちゃうじゃん。いいのかよ。まあ、それはそれとして、バット・モビールが装甲車っていうのは、なかなかイケている。これはカッコいい。けど、やっぱり、バットマンは嘘の世界のヒーローだよなあ、と思うと、リアリティなんか要らないような気もしてくるのだった。
マラソン7/4新宿ミラノ座監督/チョン・ユンチョル脚本/ユン・ジノ、ソン・イェジン、チョン・ユンチョル
映画では「自閉症」となっていたけれど、知恵遅れ=発達障害だろうな。その息子が走ることに興味があると知り、応援する母親…。これはもう、涙と感動を狙った映画に違いない。けど、涙にも感動にもほど遠かった。ま、要するに「こういう子供をもったら、親はたいへんだろうな」という印象が先に立ってしまうからだ。そこを超えて感動に迫ったのは、主人公の青年がコーチに水の入ったペットボトルを差し出すシーン、だけだったと思う。
前半の、元マラソン金メダリストがいやいやながら青年にマラソンを教え込む部分。これは、一本筋が通っているので、まともに見られる。現在は堕落して飲酒運転。強制的なボランティアで施設に教育係に来ているという設定だ。だらけたコーチ、一所懸命すぎる母親、何も分かっていない青年。この対比が、ありがちな設定だけど見えていた。ところが、母親とコーチが対立し、母親がストレスに倒れた辺りからがぜんつまらなくなっていく。作り手が「ほら、こんなに大変なんだ。可哀想なんだよ」と押しつけがましくなってくるのだ。だから、その後のマラソンで青年が完走しても、とくに感動につながらない。仕事が忙しいと家にもどらない父親、母親から愛情を注がれなかった弟との関係も、中途半端なまま。コーチとも決別したままで、その関係修復がなされたわけでもない。なんか、強引にラストに盛り上げようとしている印象だけど、つたわってこないのだよね。
そのラスト近く、いったんは走れなくなった青年に、昔の想い出がよぎり、復活する。復活すると、なんとプールやスーパーの中、プラットフォームの上を走ったりするのだ。それは映画の中でゴタゴタが起こった想い出の場所ではあるけれど、いきなりこの映像はないでしょ。
知恵遅れの青年を演じたチョ・スンウは、演技賞もの。コーチもまずまず味をだしていた。けど、母親はヒステリックに怒鳴るだけだし、父親と弟は存在感なし。施設の女の先生がいたけれど、出番はそこそこあっても印象に残らない。脚本のツメが甘い。それから、字幕ででてくる主人公の名前と、声で呼ばれる主人公の名前が違うように聞こえたんだどねえ。
で、以下、思うところを。かつて、動物園で母親は子供を「捨てよう」とした。けれど、我が子に対する愛情が優って「走ることでは他の子供と同じ」と思いこもうとする。しかし、「違う」ことを思い知ることになる。しかし、青年は自分の力でマラソン大会にでかけ、母親の手を振り切って(つまり、子供に捨てられる)走り始める。この、捨てた子に捨てられる、という構造をもうちょっと前面に出したらよかったんではないのかな。同じ構造は、弟や夫にもあてはめられる。自堕落になったコーチにもあてはめられる。でも、映画の中ではあまりメタファとして利用されていない。これは、もったいないと思う。
50回目のファースト・キス7/4シネマミラノ監督/ピーター・シーガル脚本/ジョージ・ウィング
つづいても、家族が悩まされる話だった。でも、こちらは小品ながら楽しめた。事故で24時間しか記憶が保たれなくなった女性に、ナンパ男が恋をして…という展開。翌日になったらすっかり忘れているのだから、毎日が仕切り直し。それでもあきらめずチャレンジ…。本当に好きになってしまう。
設定が面白い。もっとも、ムリなところもある。記憶を失ってしまう娘に、毎日が事故前日と思わせるため、当日の新聞をたくさん用意している。着るものも同じ。毎日「シックスセンス」のビデオを見る。毎日が誕生日で、毎日、壁に書かれた絵を消す…。こうした行為は笑いにつながる部分だけれど、そうまでして娘に事故前日を演出してやるか? という疑問が湧いてしまう。でもまあ、コメディの部分だから、いいか、と許してしまえるのだけれどね。
登場人物のキャラがそれぞれ立っていて、ドラマに厚味がでてきている。ナンパ男は水族館で働いているのだけれど、部下にはオカマみたいな男がいて笑わせる。ナンパ男の友達の原住民は、恐妻家の子だくさん。こいつのセリフがいい。「結婚して20年もたってみろ。古女房を抱くのは恐ろしいぞ」とかね。記憶喪失のドリュー・バリモアのオヤジと弟がユニーク。それから、いつもいくレストランの店員や、脳外科医まで、脇役がみないい。脚本がいいからだろう。周囲のみんなが、恋する2人をやさしく見守っているのも、いい。もっとも、朝になるとバリモアは昨日のことを忘れて、恋人を他人と思いこむのだけどね。それでも、困難を克服して一緒になる。ラストシーンでは、じわっと泣かせてくれたし。満足。
迷宮の女7/7新宿武蔵野館3監督/ルネ・マンゾール脚本/ルネ・マンゾール
多重人格の犯罪者の物語。20分もしたら眠くなってきた。ドラマチックじゃねえんだもん、話が。まあ、ちょっと風邪をひいていて体調もいまいちだったんだけど、面白ければ引っ張っていってくれる。それがなかった。いったん目覚めてからも、またうつらうつら。半分寝ながら見ていて、ラストの15分ぐらいにやっと起きられた。だから、この話の結末は分かっている。なんだよ、それってサギじゃねえか。女のように見せていて、実は・・・。って「サイコ」かよ、っていうか「"アイデンティティー"」みたいなドンデンっていうか、げげっ、だよなあ。で、そういえば最初の方で古参の精神科医と若い精神科医がサイコロをふって、どっちが患者を診る? ってやってたけど、あそこからハメられていたというわけだ。でも、途中の大半を寝ていて言うのもなんだけど、ちゃんと辻褄があってるのかな? どーも怪しい気がしないでもない。
この映画、時制が分かりにくいなあ、と思いながら見ていたのだった。逮捕後の精神分析の時間、逮捕前1週間の様子、さらにもっと前の時制は、刑事が中心になって進んでいく。どーもこの流れがスムーズではなく、妙な具合に感じられた。その妙なところが、この映画の核だったんだろう。でも、単に妙な感じだけで、ミステリアスな感じも、次がどうなるかの興味も抱かせてくれなかった。だから寝ちまったんだと思う。もう一回見たいかっていうと、別にいいや、だな。
ミリオンダラー・ベイビー7/12上野東急監督/クリント・イーストウッド脚本/ポール・ハギス
イーストウッドとモーガン・フリーマンのコンビとくれば「許されざる者」だけど、この映画はその「許されざる者」の流れを継承する構成と内容になっている。登場するのは人生の敗残者と貧乏人。そして、底辺の下層階級と、知恵遅れ。とても繁栄の国アメリカの映画とは思えない。アメリカはすでに繁栄の国ではなく、貧乏人と敗残者によって構成されている、と訴えているのだろう。この映画がボクシングを題材に取っているのも、かつてのアメリカンドリームを表現した「ロッキー」へのアンチテーゼに他ならない。いまやもうアメリカンドリームは、ないのだよ。貧乏人は、いくら頑張ったところで、富者にはなれないのだよ、と。
「許されざる者」で、老ガンマンは金に目がくらんで娼婦を切り裂いた男にかけられた賞金をめあてにでかけた。結果、友人のモーガン・フリーマンを失ったけれど、金は手にしたし家族を失うこともなかった。貧乏人にも、そこそこの報酬があったというわけだ。ところが、この映画の主人公フランキー(クリント・イーストウッド)は、すでに娘に去られている状態だ。古い友達エディ(モーガン・フリーマン)は達者だけれど、10年もかけて育て上げた若者はさっさと割のいいマネージャーの方に去っていく。たまたま出会った30女のマギー(ヒラリー・スワンク)も、成功の手前で失ってしまう。それどころか、自分も逃亡生活を余儀なくされる結果になっている。世の中、うまくいかない、という話だ。「ロッキー」の夢と希望は、もうどこにもない。いまや宗教も役に立たず、合理的な説明もしてくれない。無力なまま自分たちの保身に精一杯。
実をいうと、老トレーナーが女性ボクサーを育てる映画だと勘違いしていた。だから、前半の、快調にライバルをなぎ倒している映像のあまりにマンガチックなところに、なんだいこりゃ、と思っていた。まあ、貧乏人が出世していく話は楽しいしワクワクするので、そういう気持ちは味わったのだけれど、映像的に関心はしなかった。で、どーなるのかなと思ったら、世界タイトルマッチでとんでもないことが起こる。で、それから延々とその話がつづく。この映画が、尊厳死の映画だなんてまったく知らなかったので、後半は気が重くなるだけだった。イーストウッドはマギーに託して、アメリカの低所得者層の多くは明日に夢も希望も見いだせず、まるで人工呼吸器をつけてもらってやっと生きている状態だということをいいたいのだろう。真面目なヤツは自殺を選ぶし、不埒なやつらは国の生活保護を目当てに生き続けるのだ、と。生活保護を主張するマギーの母親一家の存在は、なかなかリアルだった。こういう層が、少なからずいるってことだ。
富者(世界チャンピオン)は、のし上がってくる者に冷たい。反則もなんのそので容赦なく打ち砕く。貧乏人を迎える余裕など、富者にもないのかも知れない。フランキーが娘に出す手紙は、毎度、戻ってくる。娘は、なぜフランキーを捨てたのか? いや、彼女はある事件で帰らぬ人になったのかも知れない。たとえば、あの9.11の被害者として。まあ、真相は分からない。そんな痛手を負ったままのフランキーは、さらなる痛手を抱えてそっと消えていくだけだ。
で、思うにフランキーはマギーに恋をした、または、娘に注ぐような愛情を感じはじめたのだよな。フランキーとマギーがテーブルについて、そのテーブルに深紅の薔薇が置かれているシーンがあったけれど、あの辺りがフランキーの心の変化かも知れない。愛するが故に、人工呼吸器を停めるしかなかった。あまりにも哀しいフランキーの老後である。
サマリア7/14ギンレイホール監督/キム・ギドク脚本/キム・ギドク
こんなのがベルリンの監督賞かよ。レベルの低い映画祭だ。
観念的かつ叙情的を装っているけれど、思わせぶりだけで中味はからっぽ。なんだかよく分からず、面白くない。塩田明彦の「害虫」を単純に連想したけど、つじつまや深みは「害虫」の方がありそう。こっちは首をひねるような展開で、あまりにバカバカしいので笑ってしまったところもあったほど(トイレでの殺人シーンには笑った)。たとえば、援交娘が窓から飛び降りたのは下着姿。なのに病院の死体は制服姿。なんでだよ。主人公娘が、援交娘の家も知らない? 友達なのに? 警察は援交娘の行方を捜さないのか? 買春したオヤジの家の中へ、どーして父親がカンタンに入り込めてしまうのだ? ラブホテルの一室に、どーして主人公娘が入れてしまうのだ? といった、常識的に考えておかしいところがてんこもりだ。
主人公娘が援交娘の寝た男たちと寝る・・・。金も返す。「舞踏会の手帖」かよ。まあ、この意味ぐらいは考えてやってもいいけど、あまり意味ないだろうなあ。たんに思わせぶりに物語をつくっているだけで、たいしたことはなさそう。主人公娘の父親も、さっさと娘にビンタでも飛ばせばいいのに、うじうじと買春オヤジをつけまわすなんて、アホか。
女の子2人が、かわいい。援交娘の方は将来、従来型のうりざね美人になっていく可能性もあるけれど、主人公娘の方は個性顔だ。彼女の方が、味わいのある女優になっていきそうな予感。
電車男7/14テアトルダイヤ監督/村上正典脚本/金子ありさ
「電車男」は、ネットで話題になっている最中は知らなかった。話が収束した頃、やっと知った。というわけで、掲示板も覗いていない。本も、読んでいない。いったいどんな映画になっているのか? 楽しめるかどうか少し心配だったけど、思いがけなく面白かった。とくに前半分。みんなに後押しされて初デートから自宅訪問あたりまで、どうなるのだ? と思わせて引っ張る。まあ、もっとも、話の展開は噂でだいたい知っているから、恋が成就するのは分かっていたけどね。PCを買う→エルメスの出張帰り→雨の中を待つ、という辺りで、ちとうんざり。電話しても「いまは出られない」っていってんなら、ちったあ配慮しろ。雨の中ずぶぬれで待つな。エルメスの仕事の邪魔をしちゃったじゃないか! と、あの辺りの展開は見ていて不愉快になる。もうちょっと、あっさり描けなかったもんかね。ちと、くどい。
なんにしてもこの恋は、エルメスの交際範囲の狭さ、お嬢様育ち、ちょっとお姉さん、ってな要素に救われて成立しているわけだ。一般的には、秋葉系オタクに興味を示す女なんて、いるのか? まあ、オタクに夢と希望を、という意味ではいいのかも知れないけどね。
個人的には、エルメスってアホじゃねえか、としか思えないところもある。つまりまあ、リアリティがない。とても平板な描き方で、生身の人間とは思えないところがある。ある意味で"ネット上の人"という意味づけがされているのかも知れない。でもま、それはさておき、ネットから応援する連中の表現も適切で、なかなか映画的にはまとまっていたと思う。
観客席には、学校帰りの女子高生がうじゃうじゃいた。終わって「泣けた」なんて声も聞こえたけど、どういう気持ちで見ているのか、感想を聞いたみたいものだ。
亀は意外と速く泳ぐ7/15テアトル新宿監督/三木聡脚本/三木聡
ううむ。面白いんだけど、ちょっと寝てしまった。寝たのは、見る直前にとんかつ定食を食べたせいだと思う。食べなかったら、寝なかったかも知れないと思う。でも、映画にパワーがあれば、食後でも寝なかったと思う。そういう差があるような気がする。寝たといっても5分ぐらいで、それに、この映画にはストーリーがないので何ら問題はない。でも、目が覚めてからも映画のテンションはずっと同じ。この辺りが、この映画の限界なのではないのかな。
この映画にはストーリーがない。小ネタなエピソードの羅列である。いうならば、そこそこレベルの4コママンガが延々とつづく感じ。どこにも盛り上がりはない。次にどうなるのかな、というドキドキもない。この辺りの引っ張りの弱さが、満腹時の居眠りにつながったんじゃなかろうか。どっから見てもいいし、途中でトイレに行ってもいい。だらだらとエンドレスに流していてもいい。そんな映画。だからどうしたと突っ込みようもない。だからまあ、小ネタの羅列にも、工夫があってもよかったのかも知れない。1本筋が通っていた方がいいのかな。必ずしもそうともいえないな。これはこれで、いいのかも知れない。まあ、どうでもいい映画ってことかな。ちょっとは癒されるし。ほのぼの。
ビデオ撮りで、とても画面が汚い。大画面で見る映画ではないと思う。まあ、内容も、大画面の必要性はないけどね。
宇宙戦争7/19109シネマズ木場シアター5監督/スティーブン・スピルバーグ脚本/デヴィッド・コープ
期待していったのだけれど、つまらなかった。とてもがっかり。登場人物の態度、行動、セリフなんかにイライラさせられる。呆気ないラストも、知ってはいたけれど、拍子抜け。見せ場は、ほとんどない。
やっぱなあ、話が単純すぎてスピルバーグもお手上げなのかいね。タコロボット登場まではなんとか引っ張ってくれたけれど、以後の逃亡シーンはまったくつまらない。その大きな理由は、世界や社会の反応がまったく見えないからだ。政府や軍隊はどう反応したのか。テレビではどう中継されたのか。他国ではどうか。どんなアナウンスがされたのか。それが分からないから、リアリティがない。人々はだらだらと歩いているけれど、どこに向かっているか、なぜそこに向かっているかも分からない。はたして向かっている先は安全なのか? 違うんじゃないか? と疑問を持った瞬間に、映画が嘘くさく見えてしまった。もたもたした展開もいらつく。トムが子供たちに「逃げる」という。息子が「なぜ?」と問うているのに答えない。「タコが来るんだよ、タコが」と言えばいいのに、ずっとたってから説明する。説明を後に伸ばす理由がわからない。たんに親子で諍いを起こさせたいからなのか? その息子は、突然「タコと戦う」と異常に燃えてしまう。なんなんだ、あれは。でもって、兵士と行動をともにするという息子を、そのまま行かせてしまう。殴ってでも行かせるな、と思ったぞ、こっちは。なんか中途半端な性格を息子に与えているような気がする。ダコタ娘は「ひぃー」とわめくだけ。これもキャラが詰められていない。トムも、クレーン操作が上手いという特技が、どこにも生かされていない。
嫌な感じは、ティム・ロビンスを殴り殺すところで最高潮に達する。せっかく助けてくれた恩人を、音を立ててうるさいから邪魔だ、と呆気なく殺ってしまう。おいおい。いくら極限状態だとしても、描写していいのか、そんなの。それに、触手に鉈を振るおうとしたティムを制止したりしているのに、ティムを殺ったあとに触手に発見されてトムは触手に鉈を振り下ろしている。なんだい、それならティムを制止しなくてもよかったじゃないか。では、トムはティムを殺ったことを悔いていたか? いなかったよなあ。
市民の混乱の描き方にしても、不統一。クルマを持っているトム一行が群衆にクルマを奪われるのだけれど、もっと前のシーンでクルマをびゅんびゅん飛ばしているのに、誰も制止したりしていない。この反応と競べると、クルマを奪われたシーンが唐突に見えてくる。かと思うと、フェリーのシーンでは他を押しのけで自分たちだけがまんまとフェリーに乗ってしまう。無秩序だから、これでいいのかね。なんかトムたちに同情的になれないぞ。それと、トムが拳銃をだしたら人々が一同にひるんだけれど、ああいう状況なら拳銃所持率はもっともっと多いと思うのだが、どうだろう。
クルマが動くのか動かないのか。この区別はどこでするのだ? コイルを変えればすべてのクルマは動くのか? それにしては、動いているのはトムのクルマばかり。かと思ったら、テレビクルーのクルマや軍隊のクルマは別段異常なく動いている。この違いは何なのだ?
家族状況もよく分からなかった。トムの離婚した妻は別の男と再婚し、トムとの間にできた2人の子供は、週替わりか月替わりかでもちまわりしているってことなのか? それにしちゃ、元妻が、子供2人が一緒の部屋なのを見て驚いていたのがヘンだと思った。
とにかく、シナリオがかっちりできていない。だから、登場人物の行動も不統一。一貫していなくて、説得力に欠ける。部屋に隠れているところを触手の目玉に探査される場面があるけれど、「ジュラシックパーク」の、恐竜に怯えている同様のシーンと競べると動きもなく、見ていてまったくドキドキしない。いや。映画を通して、どこにもドキドキするシーンがなかったといってよい。後半は、正直いって飽きてきた。セットが凄いなとかね、そんなことばかり思ってた。たとえば教会が裂けるところとかジェット機の墜落現場とか。ああ、そうだ、それからトムがダコタ娘の目を覆って悲惨な場面を見せない配慮をするのだけれど、最初の頃はともかく、もう死骸が周辺にごろごろという状況でも配慮しているのが、むしろヘンに見えた。大人でさえ、死骸に反応しなくなるような時間帯なのではないだろうか、と。
アマロ神父の罪7/27ギンレイホール監督/カルロス・カレラ脚本/ビセンテ・レニェロ
うーむ。メシの後に行ったのだが、恐れていたとおり寝てしまった。麻薬がらみで銃で撃たれて・・・なんてのがあったなあ、と思いつつ眠りの中へ。アマロ神父が殴られてケガをする辺りから頭がはっきりしてきたのだけど、2、30分寝たかな。ゴタゴタは収まっていて、経過が分からない。けど、それはサブ的な話? 要するに、若い神父が肉欲に負けてしまう話。しかも教会での地位は確保するという、都合のいい話。なんか、50年代の日活の映画にも似たようなのがあったなあ。いやいや、この映画の原作は1875年ぐらいだと最初に出ていた。普遍のテーマなんだね。でも、いまどきこんな話を見たいとも思わないけどね。
で、カソリックって現在でも妻帯は禁止なのかい? 時代設定は2002年ぐらいのメキシコだから、そうなんだろうなあ。って、凄いなあ。いまでも、ああなのかい、キリスト教は? ってなことの方が驚きだったなあ。
●翌28日、ギンレイに行って前半の1時間余りを見てきた。おお。映画の中でいちばん面白いところを寝ていたようだ。麻薬王→市長→ベニト神父(マネーロンダリング役で、上がりの一部を寄付させて診療所を建設中)という悪のグループに、新聞社が屈してしまったのね。農民を麻薬王から救っているナタリオ神父の関係も、分かった。少女アメリアの元彼のオヤジってのが、どーも分からない存在だったが。このドラマチックが後半にもつづけばよかったのに、ほとんど前半で終わっちゃうんだよなあ。後半は、アマロ神父とアメリアの乳繰り合いが中心で、軟弱になってしまうしねえ。しかも、よーく見ると、アメリアに誘われてつい手を出しちゃった、ってなのが真実だしなあ。
それにしても、アマロ神父が単なるでくの坊にしか描かれていないと思う。誠実なのか野心家なのか、よー分からん描き方をされている。上昇志向で貧乏人なんかクソ食らえ、ってな感じでもない。でも、ベニト神父の弱みを握るとそれをネタに自分の不正を見逃すよう威圧する。このあたり、心の変化があってのことなのか、それとも、元々嘘つき野郎なのか分からない。感情が読めない演技が惜しい。もうちょいアマロ神父の性格づけをしっかりすべきだったね。そうすれば、ハンサム面の裏側に悪魔が潜んでいることがはっきりできたのに。それにしても、アメリアを妊娠させたのを元彼のせいにするのはムリなんじゃないかい?
で、思うに。2002年のメキシコって、凄い昔に見えるのだよね。時代設定は1960年ぐらい、っていわれても納得しちゃうようなところがある。それぐらい古臭い。もっと現代的な演出はできなかったのかねえ。

 
 

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