2005年8月

ライディング・ザ・ブレット8/1新宿オスカー劇場監督/ミック・ギャリス脚本/ミック・ギャリス
キングの原作なので期待したのだけれど、クソだった。キングはキューブリックの「シャイニング」が置きに召さなかったようで、後にテレビ化するときは「原作に忠実に」と厳命したという。そのテレビ版「シャイニング」は前後編だったか、NHKで放映したのを見たけれど、だらだら長いだけで緊張感がなく、退屈だった。他にも何作品かキング原作テレビ版を放映していたけれど、スリリングなのはほとんどなし。小説のままを映像にしたところで面白くないのがよく分かる。そういうことがあるので、ひょっとしたら、このシナリオもキングがチェック済みで、それでつまらないのかも知れない、と思ったのだが、本当のところはどうなんだろう。
キングのストーリーは主人公の妄想ってのが大半。子供のときの妄想もあれば、被害妄想だっり分裂病的もある。だから、物語のウラがすぐ読めてしまう。この映画もそう。母親が脳出血で入院したので190km離れた自宅へヒッチハイクする過程で、いくつかの怪奇現象、または、事故に見舞われるのだけれど、結局のところすべて妄想なんだろ? 襲われて危機一髪・・・ってとこでハッと気がつくと、元のままだった、ってな案配。ずっとそのパターンがつづくだけなので、とてもつまらない。飽きてくる。話がエスカレートするとか、妄想ではない現実の恐怖世界に入り込んでしまうとか、そういうオチもない。まあ、小説を読んでいるのならそういう展開もありかも知れないけど、映画ではあまりにも単調すぎる。ぜんぜん怖くないしね。それに、ディテールがなってない。父親の死や母親の生活やいろいろ、描き込めば面白いエピソードもあるだろうに、表面をなぞるだけ。だいたい、夜の夜中にわざわざ墓場をうろつき回るかい? 帰省の途中だってーのに。
で、その、乗るのがおっかなかったローラーコースターとこの話はどういう関係があるんだい? 上がったり下がったり、ストーリーが急変化する、ってな程度の意味合い? なんかなあ。ずっこけたなあ。
◆で、この映画のHPを見たら、「キングの死生観が込められた原作を、映画『スリープウォーカーズ』(92)やTV映画『シャイニング』(97)などで、何度もキングの映像化作品を手がけてきた盟友ミック・ギャリス監督の手によって、キング小説から、真のキング映画として生まれ変わった」って書いてあったよ。やっぱりな。
フライ,ダディ,フライ8/1新宿文化シネマ3監督/成島出脚本/金城一紀
金城一紀の原作は読んでいる。だからストーリーはだいたい分かっている。映画で面白くなりそうなのはオヤジの特訓と、最後の決闘シーンだろ、と思っていた。ところがどっこい。この2つともが全くつまらない。特訓では神社の石段上りが記憶に濃いのだけれど、映画では神社でなく段差のないフツーの階段。あれじゃ話になんねえよ。段差が3〜40cmあるような階段じゃないと、つま先立ちで上がる苦労はつたわってこない。それに、堤真一が大仰なフリをするのだけれど、あれも余計。他にも特訓らしきものをすればいいのに、描写が下手くそだ。
ラストの決闘は、呆気なさ過ぎ。もうちょっとやりようはなかったのか。いま流行のCG使ってもいいよ。一瞬を伸ばして見せ場にするぐらいのことは考えろよ。フツーのオヤジが2ヵ月足らずの特訓で、勝てるわけねえだろ、ってな気分にしかなれないよ。あれじゃ。ここは、前半のもやもやした気持ちをスカッとさせてくれるはずの場面だろ。だのにこれじゃあなあ。
で、オープニングからの白黒部分、つまり娘が乱暴されて怒りのやり場がないもやもや感が濃いところ、ここは成功していると思う。とても不愉快になったからね。だからこそ、この不愉快さをスコーンと解消してくれなきゃしょうがねえだろ。
小説なら誤魔化せるところが、映画ではうまくいってないところもある。あの救いの神たち、彼らがどうしてオヤジの味方になってあげたのか、その納得ゆく説明がない。たとえばオープニングで誰かイタズラされている娘がいて、それを通りかかった一同がぱぱっと行って助ける、とかいうシーンを入れたらよかったのではないのかな。でないと、彼らの親切心がとても不自然に見える。オヤジ=堤真一は毎日いつトレーニングしたんだ? 出社前か? それとも会社は長期休暇を取ったのか? 9月1日が決闘の日になって。悪ガキ石原の学校は始業式なのに、救いの神たちの学校ではなにもしないのかい? とかね、突っ込むところがいくつかある。そういう不自然さを解消してくれないと、映画は素直に見られないのだよ。
アイランド8/2上野東急監督/マイケル・ベイ脚本/カスピアン・トレッドウィル=オーウェン、脚色/カスピアン・トレッドウィル=オーウェン、アレックス・カーツマン=カウンター、ロベルト・オーチー
いろいろ歩いて疲れて見はじめたら、10分ぐらいでうつらうつら。20分ぐらい寝てしまった。はっ、と気がついたら黒人が走り出していて、ユアン・マクレガーが監視カメラで発見されたところ。逃げるユアン・・・。で、そこからの逃亡劇はスピーディでリズムがあって楽しめた。とくにカーチェイスがらみのアクションは迫力たっぷり。車軸が観客席まで飛んでくるみたいだった。で、見終わって、最初から見直した。すると、オープニングの水のイメージはクローンが誕生するときに味わった記憶で、悪夢は成長の記憶を刷り込まれたときの記憶だとわかった。なるほど。伏線になっていたのだね。
クローンをドナーに利用するという考えは、当然でてくる発想だよな。皮膚や角膜レベルは、現実世界でも簡単にできるようになるだろう。ま、許されるのか、という議論は永遠につづくのだろうけどね。人間とうりふたつ、が簡単にできるかどうかは分からないけれど、なんとなくありそう、に思えてくるモチーフだ。で、困ったことに、このクローン2人にあまり感情移入できなかった。つまりまあ、がんばれとか可哀想という気持ちがたいして起こらなかった、ってことだ。所詮クローンだろ? と思ってしまう。で、間違って殺されてしまう人間の方に「気の毒」という気持ちが湧いてしまいそうだった。
実際、あのクローン2人は、どういう存在として生きていくのだ? 死んだ本人の代わりとして生きていくのか? いやいや、ラストで助け出された数多くのクローンたちは、本人がまだ健康なのに、どうやって生きていくのだろう? と、ラストの先のことを考えてしまった。
姑獲鳥の夏8/3上野東急2監督/実相寺昭雄脚本/猪爪慎一
いやー。つまらなかった。予想通りだ。
監督は様式美を狙ったのかも知れないけど、たいした美はない。やたらと入る効果音、斜めの構図、スポットライト、イメージのフラッシュバック・・・。みんなコケおどしで中味はさっぱり。ストーリーも、で、いったい何があったの? 誰がどう困っているの? で、どう捜査したの? てなことが、ほとんど描かれない。たしか京極堂シリーズは、関口君が現場の状況を京極堂につたえ、京極堂はロッキングチェアー・ディテクティブで真実を見通してしまう、ってなパターンだったはず。その、いかに京極堂が真実を見通したか、が描かれない。後半になって突然、京極堂が現場に乗り込んでいってべらべらと事件の経過を説明して、終わり。どこもスリリングでないし、なるほどと膝を打つところもない。だから何だといいたいぐらいだ。やたら饒舌な小説と映画は違う。換骨奪胎して別物に仕立てなければ、映画の意味はないのではないのかな。てゆーかー、動く映像にしちゃうと京極夏彦の小説は、その物語の単純さが露呈しちゃうってことなのかも。
ロケ地不足なのか、と思わせるのはやたらと出てくる狭い練り塀の小路。あれ、セットか? いつも同じ角度から何度も何度もでてくるけれど、セットならもう少し広がりのある空間はつくれなかったのか? 手前から奥へ抜けていくとか、できないの? それともセットじゃないのか? それと、どっかの学校か役所だったのか分からないけれど、洋風の建物。炎上するのはミニチュアだろうけれど、全景は本物? セット? それにしても、この建物も同じ画像が繰り返し使われる。寄るとか引くとかできないの?もうちょっと風景が拡がらないと、映画らしさが出ないのではないかな。ま、予算がないのかも知れないけどね。
堤真一は猫背のせいか着物が合っていない。しゃべり方も、滑舌が悪いことが露骨に分かってしまう。関口役の永瀬正敏は、まるで自閉症のように何もしない。松尾スズキが「イン・ザ・プール」と同じ格好で登場したのには笑ってしまった。実相寺監督が分かってやったとは、とても思えないのだが・・・。その他の俳優も、たいした見せ場もなくどたどた空回りをするだけで、それはまあ監督の指示なのかかも知れないけど、盛り上がりのまったくない映画だったなあ。最後は眠りそうだったぞ。
大統領の理髪師8/8ギンレイホール監督/イム・チャンサン脚本/イム・チャンサン、脚色/チャン・ミンソク
大統領というのは朴正煕のことだ。その前の、不正選挙は李承晩。朴正煕の次は全斗煥だな。それぐらいは分かる。けれど、その時代がどんなものだったか、それを韓国の内側からの描写で見るのは初めてだ。李承晩時代のイメージは、李ラインしか分からない。朴正煕は軍事政権で自由がなかった。全斗煥の時代は、少し自由になった? てな印象しかない。というか、ほとんど知識がない。「世界」の「韓国からの通信」はいつごろの出来事だったんだろう? とても曖昧にしか韓国のことを知らない自分がいる。
よく分からなかったのが、情報部、警護室、調査部(?)なんかのトップの力関係。どいつがどいつだか分からないうちに話が進んでしまい、背後関係というか時代背景がよく分からないままだった。しかも朴正煕暗殺部分は描写されていないので、よけいに分かりづらい。まあ、そういう政治のドタバタを描くのが主眼ではないのだから仕方ないのかも知れないけど、ただでさえ知らない韓国の政治事情に詳しくないと面白がれないのは、ちと辛い。
ユーモアのような部分もあるけれど。笑っていいのやら悪いのやら、よく分からないところもあった。マルクス病にかかると下痢になり、住民が逮捕されていくってのが、それだ。ほんとに真面目にそんなことをやっていたのか? しかも、理髪師の息子も10歳なのに警察から情報部に送られ、拷問まで受ける。これって、どこまでがリアルなのか、戸惑ってしまう。誇張したユーモアだとしても、でも、笑えない。そういった部分が少なくないので、とても「なるほど」とうなずくこともできない。たんに「へーっ」と驚くばかりである。大統領官邸の近くにあった床屋だからと、大統領専用の理髪師になってしまう、っていうシンプルさにも、驚いてしまった。歴史を知らないと分からない映画なのかも知れないな。なんだか不気味なところもあったりするし。
ハービー 機械じかけのキューピッド8/9新宿武蔵野館2監督/アンジェラ・ロビンソン脚本/トーマス・レノン、ロバート・ベン・グラント、アルフレッド・ゴー、マイルズ・ミラー
ディズニー映画。クルマに人格があるという設定で、かなりムリがあると思うのだけど、しばらくしたら自然に受け入れられていた。で、お話はありきたり。とくにどーってことはない。クレームをつけるとしたらサブタイトルだな。恋物語に聞こえるけど、ほとんどそんなことはない。ロマンス性は5%程度だ。主人公の女の子と同級生の整備士の恋が終盤でかいま見えるだけ。独身のオヤジとその支援者のオバサンの恋も絡めた方がよかったんじゃないのかね。で、気になったのはラスト。旧式のワーゲンが新ワーゲンとデートに行く、っていうのだけど。では、主人公の女の子はNYへ行ってマスコミに就職したのか? しなかったのか? そこがぼかされている。で、オヤジとオバサンの関係は、あるのか? と匂わせている感じ。なんか、いずれも中途半端な感じがしたぞ。
それにしても驚くのは、ストックカーレースだの何だのかんだのって、カーレースの裾野が広いんだね、アメリカは。トップレーサーの質も高くなるだろうね、あれじゃ。それと、レーシングチームをもっているオヤジが「家の家系で始まって以来の大卒だ」と喜んでいるのが興味深かった。田舎じゃ、大学なんて行かないものなのかな。それとも、クルマをいじるようなやつに学歴は要らないという通念があるんだろうか。
リンダ リンダ リンダ8/11シネセゾン渋谷監督/山本敦弘脚本/向井康介、宮下和雅子、山下敦弘
「スウィングガールズ」や「ウォーターボーイズ」のノリを期待していったら、肩すかし。くくっと笑える場面は2つか3つで、あとはもう何だかわからん描写ばかり。とてもとても退屈だった。
映画ってのはフツー縦軸と横軸で構成される。縦軸は主たるストーリーの流れ。横軸はエピソードや人物描写などだ。ところが、この映画では縦軸がまず不明瞭。さらに横軸も曖昧模糊。4W1Hがはっきりしていないので、見ていてわけが分からない。いや、なんとなくは分かる。学園祭で女の子が急ごしらえのバンドを結成して「リンダ リンダ リンダ」を歌うのだ。それはぼんやり分かる。しかし、なぜ彼女たちが学園祭でバンドをすることになったのか、という話の前提となる枠組みが明瞭ではないのだ。ひょっとしたら説明されていたのかも知れない。何しろ冒頭からつまらなくて、話に入れなかったからだ。男子生徒が女子生徒をビデオに撮っている。でも、これはあまり本筋に関係ない。次に、女子生徒が教師に何か話していた。この辺りで枠組みがメッセージとして語られていたのかも知れない。こちらもボーッとしていたので聞き逃したのかも知れない。それにしても、カチッカチッと説明してくれていれば、もっと分かりやすかっただろうに。というわけで、まず女の子3人が何年生でどういう仲間かというのが分からない。分かるのは途中から入った韓国人の女子留学生だけだ。他にも女生徒や男子生徒がいろいろでてくるけれど、まともに描写されている人物はいない。なぜ演奏するのか? なぜ「リンダ リンダ リンダ」なのかも、よく分からない。またまたテープを聴いただけ? そんなんでいいのかよ。軽音楽部といいつつ男子生徒と女子生徒が別行動というのも、理解不能。分からないままだらだらと話が進んでいく。進んでいっても、周辺の人物関係も何も分からない。エピソードも、縦軸の厚みを増すような働きをしていない。つまりまあ、人物の掘り下げ方や描写が浅いので、何も語っていないことに等しいのだ。
「スウィングガールズ」のようにしたくなかったんだろう。気持ちは分かる。けれど、寄せ集めギャルが特訓してステージで歌う! という話なら、やっぱスカッとカタルシスが欲しいよ。東宝青春映画のような、お決まりのラストの大団円に向かう、恥ずかしながらの情熱も欲しいよ。なのに、リードの娘はただ陰気にずるずるしているだけ。元彼と何があったのかも分からない。まともな監督ならもっと彼女をもっと魅力的に描写するだろう。ドラムの娘は少し描かれていたけれど、ベースの娘はいまひとつ目だたなかった。いちばん目立っていたのは韓国娘で、設定以外にも表情や仕草で群を抜いていた。・・・ってことは、これは役者の素にまかせてダラダラと撮って、テキトーに編集しただけ、なのかい? 少女たちの心の動きを表現したかったのなら「桜の園」という事例もあるだろ? なのに、なんか、はじめから面白くしようとしていない、斜に構えた映画である。
こういう映画を評価する人もいるだろうな。意味のないところに意味を見いだして「青春の最後の一ページをなんたらかんたら・・・」いったりして。でも、映画のオフィシャルサイトに書いてあるような設定や状況は、映画を見ただけではまるっきり分かりませんからね。そんな、言葉で説明しなくちゃ分からないような映画は、まともな映画ではないと断言する。
そんな中で、ひとつだけ気になったシーンがある。ラスト近く。リード娘が洗面台にいるところに韓国娘が横にやってきて、「バンドに誘ってくれてありがとう」と韓国語いうのだ。で、リード娘は「え? なに?」とは聞き返さない。日本語で返事をするのだけれど、ちゃんと会話が噛み合っているのだ。どう考えても、リード娘はハングルを理解しているとしか思えない。ってことは、リード娘は在日韓国or朝鮮人であるってことじゃないのか? その辺り、もうちょい突っ込んで描写すればいいのに、と思ったりしたのだった。
さて、Webサイトを見たら監督の山本敦弘は「ばかのハコ船」「リアリズムの宿」の人なんだね。2本とも最近ケーブルTVでやってて、とても面白かった。とくに「リアリズムの宿」の方は出色のデキだと思う。なのに、この映画は無茶苦茶ひどい。ってか、人に見せよう、分からせよう、喜んでもらおうという気構えがまったくなさ過ぎ。ま、「ばか」も「リア」も分からせようという姿勢は見えなかったけれど、素材や設定が面白かったから、それはそれでもった。ところが、本来は東宝青春映画や「ウォーターボーイズ」「青春デンデケデケデケ」のノリが必要な映画にも、同じスタイルを持ち込んでしまつたというわけだ。きっと、こういう類の映画は任じゃないのかも知れないな。
故郷の香り8/12ギンレイホール監督/フォ・ジェンチイ脚本/チウ・シー
田舎で両思いの2人がいて、男は大学に入学して都会へ。残された女は忘れられ、田舎で結婚。10年後に邂逅するというストーリー。話はどっかで見たか読んだことのあるような、ありきたりのもの。とくに言うべきことはない。このような物語が日本で成立したのは1950年代までではないか。都会と田舎の文化や貧富の差がはっきりしていないと、話としてもたない。やはり中国はまだ遅れている国なのだと思う。単純なストーリーをなんとか持たせているのは、美しい画面かも知れない。自然物や建物がフォトジェニックに切り取られ、積み重ねられていく。でも、途中でちょっと飽きてしまったけどね。なんたってドラマが少なくて分かりやすすぎるので、意外性もない。いまの旦那である唖の男(香川照之)がラストで、女房を連れて行け、という身振りをするのも、予告編で見てしまっているので、別に驚きもない。いっちゃあなんだが。あの予告編は核心の部分をすべて見せてしまっているので、見終わった後で思うのは「予告編だけで十分だった」ということだ。まあ、詩情豊かな映像を環境ビデオのように見ていれば、それでいいような映画かも知れない。ヒロインがそれほど可愛くなく、いっちゃあなんだが貧乏くさい顔立ちだったのが、残念。
それにしても思うのは、田舎で若い男女が一緒にいたら、なんだかんだと言われるだろうに、そういうところを無視しているところだ。「小さな中国のお針子」でもそうだったけれど、なんか不自然だよな。
マダガスカル8/16上野東急2監督/エリック・ダーネル、トム・マクグラス脚本/マーク・バートン、ビリー・フロリック
正直にいってつまらなかった。30分ぐらいして眠くなって、30分ほど眠ってしまった。中抜きの状態での鑑賞だ。では、もういちど中の部分を見に行きたいかといわれると、別段どうでもいい。たぶん、どうでもいいような内容だと思うからだ。
設定は、まあいい。けれど、これっていうヤマがないんだよなあ(寝ている間にあったのかも知れないけど・・・)。最初の30分に、メッセージは見えなかった。たんなるあちゃらか。といっても、ドタバタではなくかなり上品。動物キャラの表情やしぐさで笑いを取ろうというもの。だからなのか、寝てしまった。後半で見えた主張は「動物園育ちの動物にとって野生とは憧れの対象であるけれど、住むべきところではない」というようなもの。でも、そんな人間に都合のいい解釈をされたって、なあ。ライオンは肉食なんだから肉を食うのは当たり前で、たまたま野生に行ったら本能が戻って友達のシマウマを食べそうになったからって、それは悪いことじゃないはず。それなのに、それを否定するような文脈というのは、ヘンだ。だいたい、じゃあ、都会の動物園で与えられていた肉は、何の肉だったんだ? と、突っ込みを入れたくなってしまう。肉食獣と草食獣を友達関係にしているのだから、そのいさかいに発展するようなストーリーはおかしいのだ。
はたと目覚めたら、キツネザルの王様がひょうきんに踊っていた。キツネザルの視点からの話は「七人の侍」みたい。というわけで、メインとなる明瞭なストーリーが見えないまま、なんとなく終わってしまう。で、何がいいたかったの? と、いいたい。
キャラとして楽しめたのは、シニカルでアナーキーなペンギンたち。それから、キツネザルの王様。あとは、どーでもいいや。
微笑みに出逢う街角8/17ギンレイホール監督/エドアルド・ポンティ脚本/エドアルド・ポンティ
3人の女性が、自分が本当にしたいこと、すべきことを発見していく過程を描いた群像劇。といっても、3人が接触するのはラストの一瞬で、しかも、利害関係は一切なし。たまたま空港ラウンジのテーブルで、知らない他人として同席するのみ。つまりまあ、3つの物語がオムニバス的に語られるのではなく、並行して語られるのだ。よくある手法で目新しさはない。そして、3人それぞれの負っている過去と現実と未来への展望も、ありきたり。とくに刺激的・衝撃的なものはない。だから、そこそこ引っ張っていくのだけれど、見終わって「なるほど」とも「そうそう」とも思えない。
話が分かりやすすぎ、だと思う。3つの話が混同されて分かりにくくなることもない。3人それぞれの気持ちも、単純すぎるほど分かりやすい。その解決策も、明瞭。しかも、チェロ奏者の家の壁に「秋」という文字があったり、カメラマンのTシャツに「愛」と書かれていたり、ばかばかしいほど分かりやすい。まあ、これはアメリカ人にはすっと分からないかも知れないけれど、監督がそれぞれの気持ちや状態を漢字で示唆しようとしていることは明らかだ。あまりにも具象に頼りすぎてないか? もうちょっと別の方法で心や心情を表してくれよ、といいたい。
分かりやすい中で、ひとつ分かりにくかったのが、チェロ奏者の立場。彼女は離婚寸前と言っているけれど、なにが原因なのか、よく分からずじまい。それがラストではコンサートは中止して幼い愛娘のところに帰ろうというのだ。これが分かりにくい。実父が実母を殺害したという過去との関連性も、いまひとつ。すべてが分かりやすい中で分かりにくいので、とても気になってしまった。
Shall we Dance?8/17ギンレイホール監督/ピーター・チェルソム脚本/オードリー・ウェルズ
周防正行の「Shall we ダンス?」のリメイク。日本版が、丁寧に物語を置いていくようにつくられているのに対して、こちらは急ぎ足でストーリーを追いかけているだけ。短い時間の中に日本版とほぼ同じエピソードを詰め込んでいるので、ちょっとせせこましく情緒がない。まあ、小津の影響を受けているような周防の「Shall we ダンス?」の「間」が、現代のアメリカ人に通ずるとも思えないので、ま、仕方がないような気もするけれどね。
それにしても、日本版のエピソードのほとんどがそのまま使われているのが、不思議。日本人の生活スタイル、感情なんかが、そのまま通じてしまうっていうことなのだろうか? リチャード・ギアの弁護士が電車通勤している、ってことからして、こちらは違和感を感じながら見ていたのだけれどね。
ジェニファー・ロペスは、二の腕の筋肉も凄くて、気品も感ない。でもまあ、やるせないサラリーマンがふと恋心を抱いてしまうのは、こういうラテン系の情熱的な女なのかもね、と納得してしまおう。
リサ・アン・ウォルターの声が渡辺えり子そっくりなのには驚いた。使われている音楽も、日本版に似ているのも驚いた。換骨奪胎どころではなく、オリジナル通りのリメイクで、どうしてもアメリカ人に合わない部分を変えているだけだ。とくに大きいのが、ラストのパーティに行く前に、妻が働いているデパートへ正装で出向いて、パートナーとして迎えるところ。やれやれ。結婚したらベッドは一緒、と同じように、何年たっても妻には愛を、を強制される米国男性には同情してしまう。
というわけで、もう一度見るのなら、やっぱり日本版の方だな。アメリカ版には「間」が足りないし、脇役への配慮も、ちょっと足りないような気がした。
ヒトラー 〜最後の12日間〜8/19新宿武蔵野館1監督/オリヴァー・ヒルシュビーゲル脚本/ベルント・アイヒンガー
ずいぶん混んででいて、上映30分ぐらい前ではいい席がとれない。なので、ついでがあったので11時前に行って3時30分の回の整理券を確保してみた。いずれギンレイにかかる類の映画なのだけれど、気になってたしね。
映画としては、それほど出来はよくない。かなり説明不足だし、表現も散漫。人物の造形もいわれているほどではなく、いまひとつだった。まあ、いくつかの理由が挙げられるだろう。この映画がドイツ国内でつくられたもので、ドイツ人には当たり前のことは説明していない、とかね。それにしても、登場している人物の名前や肩書きが分かりにくい、というか、説明されていないところもあったりした。ラストで主要人物のその後が人物写真とともに語られるのだけど、そんなら最初からちゃんと説明すればいい。日本映画が得意な、人物が登場すると名前と階級などをクレジットでだす、という手法でもいい。まあ、映画の流れを邪魔するかも知れないけど、見る方にとっては大いにラクチンだ。
表現が散漫というのは、これは、映画の視点が定まっていないことに由来する。本来なら秘書ユンゲの視点で通すべきなのに、それが徹底されていない。たとえば、市内の少年兵とその父親のエピソード。あってもいいけれど、どこかでユンゲの話と一体にならないので、なんだか素っ気ない。そういう、本来、核となる視点と違う次元での描写がぱらぱらとインサートされるので、散漫に見えてしまう。これがすべて客観描写、ってんなら、いろんなエピソードがあっていいんだけど、ヒトラーが自殺してからの視点は明白にユンゲの視点になるし、映画が終わったああとにユンゲ本人がでてくるのだから、これではギクシャクしてしまう。やっぱり、全編を通じてユンゲの視点に徹底すべきだったろうと思う。
でてくる人物の名前や階級、人物の関係性が見えにくい。だから、長々と描写されていても、別段、人物造形が厚みを増すということもない。たとえばエヴァ・ブラウンの弟などずっとその関係がわからなかったりした。ヘルマン・フェーゲラインの存在も、よくわからなかった。その他、ヒトラーの取り巻きも、始めから当たり前のように動いていて、でも、どういう重みをもつのかがわからない。これは、映画として損だと思う。ヒトラーにしても、ぎゃあぎゃあとわめくばかりで、とくに人間性が描かれているとも思えなかった。カリスマ性も感じられないチビのオヤジなのに、周囲はひれ伏している。ううむ。
なぜ周囲はヒトラーを止められなかったのだろう、と思った途端、ヒトラーと麻原彰晃がだぶった。傍から見たら変なオヤジでも、信者からみたら偉大なる人物なのだ。ヒトラーは信仰なのだ。で、そういう信仰は市民の何割かにも行き渡っていて、ベルリンは陥落するっていうのに市民兵が立ち上がったり、少年少女の義勇兵が戦ったりしたわけだ。そして、反対する市民を虐殺する。こういうのは、日本でもどこでも同じだな。少数の思い込み吉害が徒党を組んで、興奮状態で正義(と称するバカげた行為)を行なっていく。まったく迷惑な話である。考え方が違う人々を抹殺するのではなく、さっさと殉死してくれ、といいたい。少数のバカが、多くの犠牲者をつくりだすのだ。
さてと。この映画のもっとも困ったところは、あらかじめ知識がないと分からないというところだ。ヒトラーやその取り巻きがした罪悪を知らなければ、戦争に負けた人々の哀しい末路、とも見えなくもない。事実、そういう話としてつくられている。ヒトラーの行為は、観客もみな知っている、という前提で見ないと、ゲッペルス婦人が子供たちを毒殺してから自殺する様子など、同情してしまいかねない。彼らも同じ人間なんだ、ってな即断を避けるための仕掛けは必要だったんじゃなかろうか。同じ人間が異常な狂気の世界に陥ってしまっていた、という状態を表現できていないと、なんか足りないような気がしてしまう。
映画が終わった後にでてくる秘書ユンゲの告白に「自分は何も知らなかった。知らないことも罪」とあるけれど、ええっ? と思ってしまった。ヒトラーやその取り巻きの中にいて、ホロコーストの存在やユダヤ人への敵意が見えなかった、っての? にわかに信じられないなあ。
で、よく分からなかったこと。ヒトラーが自室で眺めていた肖像画の人物は、あれは誰なんだ? 最後にユンゲと一緒に逃げた金髪の少年。あの少年はどこにでていた?
ハッカビーズ8/23新宿武蔵野館2監督/デヴィッド・O・ラッセル脚本/デヴィッド・O・ラッセル、ジェフ・バエナ
疲労状態の昼食後なので寝ると思ったのだけれど、20分ぐらいして寝た、20分ぐらい寝ていったん起きたのだけれど、話が全然頭に入ってこない。なので、2度目の居眠りに突入してしまった。で、最後の方を少し見た。いったい何が何だかさっぱり分からなかった。寝てたんだから当たり前だろうって? いやその、最初の方も途中も最後も、何が何だか分からなかったよ。
コーチ・カーター8/25テアトルタイムズスクエア監督/トーマス・カーター脚本/マーク・シュワン、ジョン・ゲイティンス
弱小チームが強くなる、という曲面は二の次。不良たちがスポーツと勉学に励み、大学にまで進学したという事実に重点が置かれている。だから、4勝20敗のチームは、選手が腕立て伏せと走り込みをしただけで、あっという間に無敵のチームに成り上がってしまう。つまり、もともと地力があったってことなのだろう。弱いチームが成り上がっていく過程を楽しみたい向きには、裏切られてしまう。
それにしても、近ごろこれほど律儀で一本気で、メッセージをつたえよう意気込みにあふれた映画も珍しい。しかも、衒いや恥ずかしげもなく行なっている。社会派とかそういう枠を超えて「つたえよう」としている姿勢が満ちあふれている。でも、それほどうっとーしくない。内容はわりと押しつけがましいのに、それほど気にならないというのが不思議。思うにこれは「事実に即している物語だ」ということに起因しているのかも。演出も、どちらかというと控えめ。カメラぶん回しやフラットな画調はドキュメンタリー風。でも、ドキュメンタリーらしくない。描かれる側と描く側に距離感があって、不思議なテイストだ。むしろ、かなり素っ気ない。この、ちょっと突き放したような描写が、うっとーしさを和らげているような気がした。ただし、まともなライティングもせず、フラットで、ボケボケの画調は個人的に好きではない。ちゃんと光を使って、カリッとしたメリハリのある画調にして欲しかった。
コーチになるカーターは合理主義で頑固一徹。キチンとした格好をしろ。勉強もしろ。相手をバカにするな。プライドをもて。努力をしろ。極めて一般的でフツーのことだけれど、まあ、なかなか実現しないわな。それも、オチコボレ学校じゃあね。それを、オチコボレ学校で押し通してしまうのが、凄い。っていうか、ちゃんとついてきた生徒がいたってことの方が驚き。みんな根はマジメなんだね。むしろ、スポイルしているのは教師や親、街の住民たちだっていうのが恐ろしい。勉強なんかできなくたって、バスケさえ強ければいい、と思っている人が多いのだね、あちらの国では。日本にも同じ様なところはあるだろうけど、高校のバスケの試合で街中が大騒ぎ、ってなことはないよなあ。
生徒は、3人ぐらいは見分けがつくんだけど、あとの連中が、顔も似ていたりするのでごっちゃになってしまった。まあ、でも、あんまり気にならなかった。一度ならず二度も退部して戻る少年が、印象的。彼がいちばん目立ってたな。もうちょい、生徒たちの描き分けがされていると、もっとよかったかも。バスケのゲームでは、得点板にHOME GUESTと表示されて、どっちの学校なのか咄嗟に分からず。
スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐8/27新宿プラザ監督/ジョージ・ルーカス脚本/ジョージ・ルーカス
エピソード1、2はとても退屈だった。だから3も退屈だろうと思って見たのだけれど、やっぱり退屈だった。でも、1と2よりは話が分かりやすく、眠りそうにならなかった。でも、途中はかなり退屈でしょうがなかったけどね。
1、2,3という新しいSWには、アドベンチャーやスリルといったドラマチックな要素がまったくない。なんだか決まり切った物語を予定調和的に、ごく当たり前のように提示するだけだ。すべて様式的で、意外性や感動といったものとはほど遠い。SWファンにはそれでいいのかも知れない。けれど、フツーの客にとっては面白くもなんともない。たとえば、このエピソード3でも、冒頭で誘拐された議長をアナキンとオビ・ワンが救出に行く。でも、ぜんぜんドラマがない。書き割りのような敵を簡単に倒し、さっさと議長を見つけ出し、容易に連れ帰ってくる。面白ろくねー。万事がこの調子。こんなの見て、どこが面白いんだ? なんて思いながら見ていた。
アナキンが悪の道に落ちた理由も、結局は女。なんだよ! つまんねー。そんなんで魂を売り渡してしまうのか! ラストで、生まれることもが双子で、1人がルークでもうひとりがレイアっていわれてもな。だからなんなんだ。
冒頭の、助け出しに行くまでの空中戦の部分はなかなか面白かった。ここだけだな、この映画は。
ベルリン, 僕らの革命8/30ギンレイホール監督/ハンス・ワインガルトナー脚本/カタリーナ・ヘルト、ハンス・ワインダルトナー
もの凄いアナクロな内容で、前半早々にうとうとしてしまった。気がついたら友達が外国から戻ってきたところで、残りの2人が「忍び込んだ家に携帯を忘れた」と取りに行くところ。肝心の、家に侵入して遊び尽くすところを見逃してしまった。けどま、この映画の主旨は後半にあったので、さほど影響ないかも。
前半の、男2人と女1人の3人組の、それは何年前の論理だ? と言いたくなるような、すでに否定し尽くされているような理屈があれこれ主張されているのは、正直いってうっとーしー。自分の非を棚に上げて資本家がどーのって、古いんだよ。いまどきドイツではこういう論理が復活してきているのかい? まあ、それで寝てしまったというわけだ、こっちは。で、携帯を取りに戻って住人に発見され、狼狽して誘拐するところで、この3人はバカだ、と思った。論理的に破綻している。誘拐して、先を考えずに、行き当たりばったり。それじゃしょうがないだろ。で、次第に誘拐した中年男と交流が始まって…って、これはミニ浅間山荘事件じゃないかと思えてきた。やれやれ。で、中年男がかつての闘士ってことがわかってきて、やっと話が転がりはじめる。なんか、核心に入るのが遅すぎると思う。で、男女間のもつれがあって、って、連合赤軍か? と思っちゃうよな。
世界的に共産主義思想は破綻しているのが証明されている時代に、こんな映画がどうしてつくられたのか、とても疑問。ドイツの青年は、成長していないのか? それとも、日本のように成熟しすぎて頽廃していない、元気だ、ってことなのかな。
ラストは、ありがちでつまらない。中年男が、結局は告発してしまうのも、つまらない。3人組が、まんまと逃げおおせているのもつまらない。やっぱり、なんか、すべてアナクロな気がする。
◆9/3に、前半の1時間を見直してきた。眠っていて見なかった部分は20分ぐらいあった。あちゃー。あの家に入ろう、といったのは女だったのね。たんに携帯を忘れただけでなく、すべて女のワガママで入って結果的に見つかったわけだ。俺なら責任を追及しちまうなあ。まあいい。見直してもやっぱり、あの3人は年齢の割に子供の発想しかできていないとしか思えない。そして彼らが40歳ぐらいになったら「昔は若かった」なんてことをいうのだろう。そういう風にしか見えない映画だ。

 
 

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