2005年9月

ノロイ9/1新宿グランドオデオン座監督/白石晃士脚本/---
超常現象をビデオ作品として扱ってきた小林雅文。彼が残したビデオと資料をもとにつくられた、と称するホラー。全編に小林雅文が登場し、突撃取材であちこち歩き回り、いろんな人と巡り会い、あやしい関係が暴かれてくる。本当のドキュメントのように見えるけれど、かなり眉唾。どこかのテレビ局で放映されたビデオなどがリアリティをもって引用されるけれど、小林の家族そのものや取材対象、被害者、死体、子供への暴力シーンなどがふんだんで、こんなのが真実だったら公開対象になるわけない、と分かる。そのためか、中盤からだるくなってきて、ときどき笑いながら見ていた。
しかし、あたかも取材ビデオを編集したかのように見せつつ、ホラーに仕立て上げているレベルはかなり高く、巧妙。たいていの人は、そのまま信じてしまうのではないか。ひっかけとしては面白い。ただ、大衆をひっかけたままでいいのかどうかが気にかかる。
奥さまは魔女9/5上野東急監督/ノーラ・エフロン脚本/ノーラ・エフロン
うーむ。途中から眠くなってきて、最後まで見たけど、ラストやクレジットは半睡状態だった。分かりにくいのと、つまんないのと、両方が原因だ。
あの「奥さまは魔女」はアメリカでもビッグヒットのテレビドラマだったんだね。その周辺のあれこれ、ネイティブじゃないと分からない要素があるんじゃなかろうか。これは思いっきりギャグなんだろうな、っていのうが分かっても、こちらは声を出して笑えない。かなりつまらない、というか、置いてきぼりさせられている気分だ。とくに分からなかったのは、ラスト近くにダーリン役のウィル・フェレルのところにやってくる男。あれは誰なんだ? 意味不明で首をひねってしまった。
単なるリメイクではなく、劇中劇という設定にしている。それはいいんだけど、それ以上に話がふくらまない。だいたい、映画がこけてソープオペラに転落した二流映画スターが、どーしてキッドマンに愛されてしまうのだ? しかも、自分だけが売れればいい、って考えているような役者と恋をし、最終的に結ばれることの、どこに夢があるのだ? 元女房もロクでもないかも知れないけど、ウィル・フェレルも相当のダメ人間じゃないか。そういう男が、美しい魔女に惚れられてはいかんと思うぞ。というわけで、ラブロマンスとしては失格だと思う。
いくつかのエピソードも、つまらない。アクターズ・スタジオ・インタビューは趣向としては面白いけど、パイロット版がつくられているだけの状態で、しかもテレビ番組なのに、ウィル・フェレルが呼ばれるか? だって、前の2本は大コケの設定だろ? キッドマンが失敗を悔やむシーンがいくつかある。でも、彼女は映画の中で時間を逆戻りさせているじゃないか。悔やむなら、さっさとその魔法を使えばいいだろ、と思ってしまう。いや、そもそも、キッドマンはなぜに人間界で人間のように暮らしたかったのか? それを見せた方がよかったのではないだろうか。それに、脇役の扱いが粗雑すぎる。
それから、キッドマンは鼻を上手に動かせていない。口の方がたくさん動いているぞ。こういうところに、CGは使わないのだね。ま、キッドマンが寄り目まで披露するほど、この映画が気に入っているのかもしれないけどね。キッドマンは、コメディのセンスもあることが分かった。いっぽうのウィル・フェレルだけど、あまりよく知らない。こういう役には合っているのかも知れないけど、どーみても知的ではないしやさしそうにも見えない。単なるおバカな中年オヤジだと思うけどな。だからこそやっぱり、キッドマンとハッピーエンド、っていうのは、そりゃないだろう、と思ってしまう。
ランド・オブ・ザ・デッド9/6新宿武蔵野館2監督/ジョージ・A・ロメロ脚本/ジョージ・A・ロメロ
ゾンビ映画は見たことがないので過去のことは知らない。ジョージ・A・ロメロが誰だかも、実をいうとよく知らない。だから大したことは言えない。
バカ映画かと思ったら、かなりちゃんとしている。ゾンビもそんなにチャチでないし、単なるゾンビ映画ではなく、どんな環境にあっても欲望だけはなくならない人間社会をテーマになっているところもご立派(すぎる?)にドラマになっている。
ゾンビが世界各地に広まって、人間たちは一部に隔離されるようにして住んでいるという設定だ。で、その社会を仕切っているのがボスのカウフマン(デニス・ホッパー)。一部の富裕階級は贅沢をしているが、大多数はスラム街のようなところに住んでいるという寸法だ。こういう設定は昔からよくあって、「バットマン」シリーズなんかは典型的。カウフマンの部下のチョロが上流階級に入れてくれといって断られ、カウフマンを狙う。これは分かるのだけれど、主人公のライリーがどういう考えで行動しているのか、いまひとつ不明確。北のカナダへ行きたいといいつつ、チョロと戦うつもりがあるのか、カウフマンに刃向かうのか、そのあたりがよく分からないまま映画は進む。でもまあ、悪=カウフマン、正義=ライリーの図式で見ていればいいのかな? で、反カウフマン=チョロ? てなとこかな。でまあ思ったんだけど、この図式をいまのアメリカにあてはめるとカウフマン=ブッシュ政権だよな。自分たちの利益を獲得するためにアラブで戦争をしてるんだから。で、ライリーは善良な市民。チョロは、排外的なブッシュ政権に反抗する人々かね。ゾンビたちは、ブッシュ政権で犠牲になった兵士たちが、立ち上がって復讐をし始めたと見ることもできる。なんだか、丁度、今の時期にピッタリの設定だ。そんなことを考えているかいないか知らないけれど、そんな見方をするのも面白い。脇役が面白い連中ばかり。上流階級にあこがれをもつチョロあたりが核になっているが目立っているけれど、人種的にはヒスパニックとか黒人とか、虐げられている人種の象徴かもね。
でもなあ、基本的な設定がすかすかだよなあ。世界中がゾンビに占領されているのに電気はつくし豪華レストランは平常通り。クルマのバッテリーはどこでつくっているんだ? こんな経済が成立していないような世界で兌換紙幣にこだわる必要なんか、どこにもないじゃないか! とかね。そういうことを、やっぱり思ってしまったりする。
サマータイムマシンブルース9/6新宿武蔵野館3監督/本広克行脚本/上田誠
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が大がかりなタイムマシンものなら、こっちはバック・トゥ・ザ・昨日というアットホームなタイムトラベル。しかも、いろんなつじつま合わせもとりあえず楽しめて、元気はつらつな新人若手のおとぼけひょうきんエネルギッシュな演技も見られて、もう満足。これはなんといってもシナリオがいい。シナリオがちゃんとしているから、料理のしがいもでてくるんだろうな。こういう映画がもっとヒットして欲しいぞ。
SF研究会の男子5人と写真部の女の子2人が主たる登場人物なんだけど、それぞれがちゃんと個性豊かに描き分けられている。見事。しかも、演技と言うよりはしゃいでるだけ、とか瞬間芸の連続に見える中味も、結構、決まってる。脇に出てくる未来人や先輩たちも個性豊か。昨日と今日の細々としたつじつま合わせに加え、河童の物語や未来人の正体、リモコンの歴史的流れだの、大きな時間軸でのつじつまもピタリと決まって、おおなるほど、と膝を打ってしまう。
大上段に構えず、とりあえず目先の必要性であるリモコンをとりに「昨日へ」というチープな発想がいい。たったのこれだけで、2時間近くもたせてしまうストーリーができるのだ。シナリオも、ちゃんと練ればいいものができるという証拠だな。それにしても、上野樹里の他はほとんど知らない登場人物たち(実際にはどっかの映画で見ているかも知れないけど)。これがもう、みんないい!!
昨日と今日、マルチプルに画面が仕切られてパラレルに表現されたりするのも、面白い。っていうか、映画の冒頭ではいろいろな齟齬の部分が連続して描かれていたりするので、実をいうと「もう一度見たい」と思ったほどだ。ううむ。これは、ビデオがでたら売れるかも。
疑問もある。たとえば、主人公の一人瑛太が一晩中ロッカーに閉じこもっていて、昨日から今日に連続して登場したとき、「そしたら瑛太が2人になっちゃうじゃねえか」と突っ込みを入れようとしたら、映画の方でも同じ突っ込みが入れられていて、「お、ちゃんと考えてるんだ」と思ったのだけれど、その説明は「?」だった。まあ、これはご愛敬か。
七人の弔9/8テアトル新宿監督/ダンカン脚本/ダンカン
あまりにも退屈でつまらないので、見ているうちに肩が凝ってきて、でもって寝てしまった。勘所を知らないで映画をつくると、こうなる、という無様な見本だ。もともとショートショート的なオチしかない話だ。きっと監督はこのオチに入れ込み過ぎてしまったのだろう。だけど、ラストの最後の晩餐で結果どうなる? と問われたら、いくつかでてくる答えの中に当然入っているようなオチで、とんでもなく驚くようなものではない。だから、まあ、ショートショートのオチとしてもキレはよくない。では、エピソードはどうかというと、これもつまらないものばかり。というか、この映画は不要な要素ばかりを集めてできているように思えてくる。こんな絵は要らないだろう、って省いていったら、きっと残らないようなエピソードばかり。つまり、脚本がなっていないということだ。
ストーリーを進めるような部分は、役者がべらべらとセリフでしゃべってしまう。映画なんだから、絵で見せろよ、とイライラする。編集も、いまひとつ流れがよくない。きっとロクでもない絵しかないので、こういう風にしかつなげなかったのかも知れないけど、それにしても、もう少し何とかならないか。役者はそこそこの顔ぶれなのに、脚本と監督がこれでは可哀想だ。
ダンカンは主演もしているけれど、おのれを知らないと言うほかない。だって、セリフがよく聞き取れないのだから。もともと滑舌がよくないのに長科白を延々と話したりする。これが、明瞭ではないというのは致命的。つまりまあ、キャスティングも失敗ということだね。
お話についていうと、子供の臓器を売って金を得よう、という人たちがこんなキャンプに参加する必要性があるか? という疑問が根底にある。それをクリアする説得力を話の中に埋め込まなくてはならないのに、そういう作業がされていない。単なる思いつきから始まった映画なのだろう、きっと。で、ラストは子供たちが生き残って親の臓器が売られる、というもの。子供たちにとって、それは真っ当な選択肢なのか? そんなことをして罪悪感を感じない子供がいるか? この先、どうやって生きていくのだ? たとえ親に虐待されているとしても、親を犠牲にするのは思慮深い選択とはいえないのでは・・・と考えると、このオチも素直に納得できない。こういう、あらゆる意味で底が浅い映画だ。
亡国のイージス9/21上野東急監督/阪本順治脚本/長谷川康夫、飯田健三郎
クソである。だいたい話にムリがある。愛国心にあふれすぎた自衛官と、北朝鮮工作員グループとが、どうして同調できるのだ? でもって、東京に何とかいう爆弾を落とす、なんて恐喝できるのだ? この設定が、そもそもの悪因だと思う。
敵だと思った青年が実は味方で、味方だと思っていた一群が敵だった・・・。という展開は悪くないのだけれど、もって行き方が下手。冒頭の、短いショットの積み重ねが分からなさすぎ。もうちょっと理解しやすいようにつくれよ。それでなきゃ、徐々に分かってくる真相への「なるほど」感がでないよ。それと、先任伍長仙石(真田広之)vs政府の工作員如月(勝地涼)vs宮津副艦長(寺尾聡)vs北朝鮮工作員グループ(中井貴一)の思惑が、中途半端すぎ。もっと善悪を明瞭にした方がいい。とくに、宮津副官の以下の行動は、理解不能だ。
テンポがのろくて盛り上がりがない。冒頭からの流れもだらーんとしているし、真相が分かる仙石と勝地との最初の対決の場面も、緊張感なし。だらけている。で、後半のアクションもスピード感がなく、臭いお涙頂戴日本的浪花節で引っ張りすぎで、くどい。なんでこんな演出するのかな。シナリオもよくないし編集もいい加減。演出はもっとダメ。誰なんだ、監督は? と思ったら、阪本順治が。彼はこんなに下手だっけ?
愚僧(爆弾の名前)だのダイス(サイコロか!)だの、頭文字短縮言葉を使うから、何のことやら分からなすぎ。スーパーでも入れればいいのに。ねえ。
メリンダとメリンダ9/22ギンレイホール監督/ウディ・アレン脚本/ウディ・アレン
オープニング・タイトルで監督ウディ・アレンと出た。あ、そうだっけ。ふーん。じゃ、面白いかな、と思ったらさらあらず。退屈だった。
喜劇作家と悲劇作家が、同じシチュエーションで台本を書いたらどうなるか、それを映画で、同時並行的に見せてしまおうという仕掛け。で、その喜劇と悲劇が、ここまでは喜劇、ここからは悲劇と、明確に分かるようになっていない。まあ、見ていれば分かると言えば分かるんだけれど、もうちょっと工夫してもよかったんじゃないかな。フレームの色を変えるとか、右半分と左半分で分離してみるとか、なんか観客に対する親切心が足りないような気がした。分かるっていえば分かるんだけど、わかろうと気をつかわなくてはいけない部分がいささか負担になる。それに、ごくフツーのつなぎで喜劇と悲劇の別の話が交互に進行するので、戸惑ってしまうこともときどきあった。
しかも、前半は大したドラマも起きないので、つまらない。つまらないので、ちょっと寝てしまったぐらいだ。そう。話の起伏に乏しいのだ。はらはらドキドキすることもないし、登場人物のだれかに感情移入することもなかった。主人公メリンダ役のラダ・ミッチェルが、いささか貧相な顔立ちだけどそれなりに可愛いな、と思ったこと。「奥さまは魔女」のウィル・フェレルが、こっちではちゃんと芝居をしているな、と思ったことぐらい。仕掛けだけに溺れてしまい、内容が追いつかなかったような気がする。
ライフ・アクアティック9/22ギンレイホール監督/ウェス・アンダーソン脚本/ウェス・アンダーソン&ノア・ボーンバッハ
映画が始まっても何が何だかさっぱり面白くならないし、わけが分からない。10分ぐらいで沈没。よく寝た。後半の1時間ぐらいは見たけれど、別に笑えるところもなかった。何かを下敷きにパロディしてるようにも思えないし、つまらない。「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」を連想させたけれど、やっぱり、その監督の作品だった。なあるほど、つまらないわけだ。これのどこがどう面白いのか、日本人でちゃんと理解している人はいるのかね。
コーラス9/25ギンレイホール監督/クリストフ・バラティエ脚本/クリストフ・バラティエ、フィリップ・ロペス・キュルヴァル
有名指揮者に母親の訃報がとどいて田舎に帰る、ってのが冒頭なんだけど、この指揮者がジャック・ペランなんだよ。これで「ニュー・シネマ・パラダイス」を連想しないヤツがいるのかね? 映画のデキとは別にして、この導入ってのは、感心できないね。
で、映画の内容だけれど、不良ばかりが集まる学校に赴任した教師が、合唱を通して生徒たちの心を捉える、というもの。設定自体は手垢が付いたもので、どこにも目新しさはない。ところが、こうした設定(この映画では、教師と生徒を媒介するものが合唱)の場合、上達とともにコンテストに出るといったような展開になるのが常なのだけれど、そういう流れにならないのだ。そのうち地区大会を通過して全国大会に出場して、でも、優勝はできなくて、そうして教師と生徒の心が結ばれる・・・ということになるのかな、と思っていたのにそうはならなかった。これが意外だった。観客の期待を大きく外すのだ。なんと現実的なことか。教師は何の栄誉にも輝くこともなく学校を追い出される。少年たちのその後として登場するのは美声をもつモランジュ(有名指揮者の少年時代)と、教師にもらわれていったペピノの2人だけ。それ以外の少年たちの"その後"は出てこない。モランジュ以外、下層階級から脱したようなやつはいないに違いない。設定自体は、性善説なのだ。たいがいの悪ガキも合唱ひとつで心が通じ合う、という安直なもの。その安直さを恥じるかのように、大半の少年たちは立派になっていない。でも、それでいいんだ、と思う。有名になったり金持ちになることが素晴らしいことではない。フツーに成長してフツーの市民として生きていく。それができれば、幸せなのだ、とでもいいたいかのようだ。映画には、合唱にも参加しない悪党も登場する。途中から学校に編入されてきて、ついには学校に放火してしまうくらい悪いヤツ(いかにもの悪党面が凄い)だ。でも、彼にしても盗みのぬれぎぬを着せられていた、という落ちが付いている。映画的に美化しすぎてしまうことなく、自然のバランスを保っているところが面白い。
映画は教師の日記をもとに映像化されていくのだけれど、教師のその後を成長したペピノが語る、というところで、ペピノが教師とともに学校を抜け出したという事実が分かってエンドとなる。この、ちょっとした仕掛けが、なかなか効いている。
とまあ、一般的にはそういう感想なのだけれど、結局、素質がないとダメなんだよなあ、とも思わされた。モランジュが底辺の学校から抜け出せたのも、天性の美声があったからこそ。そういう、備わった才能がないと、フツーの人のまま、なんだよね、きっと。映画だから、こういう主人公を設定せざるを得ないのだろうけれど、個人的には、ごくフツーの人生でも幸せなんだよ、と思わせてくれるような終わり方をしてくれた方が、ホッとするような気がする。まあ、それじゃあ夢がない、と言われそうだけれどね。
音楽家崩れの教師、校長、同僚の教師、小遣い、幾人かの子供たちなど、存在感のある描き方がなされている。惜しむらくは、可愛い少女が登場しないこと。校長の娘がチラっとでてくるのだけれど、ひとつぐらいエピソードを与えてあげてもよかったんじゃなかろうか。
頭文字D9/26新宿東急監督/アンドリュー・ラウ脚本/フェリックス・チョン
シネマミラノのはずが、新宿東映とスイッチしていた。こっちの方が、見る環境としてはよいはず。
日本のコミックを原作として、香港が映画化している。たから、舞台も中国のどこかかと思ったら、いきなり群馬県が登場する。なんと、中国人が日本人として登場するわけだ。もちろん、しゃべるのは中国語だ。なんか、違和感が凄い。しかも「インファナル・アフェア」にでていた役者が何人かいるので、いの印象からなかなか抜けられず。香港の刑事がいきなり豆腐屋のオヤジになっていたりするから、戸惑っちゃうなあ。みんな、やっぱり日本人より濃い演技をしているようにも見えるしなあ。
ストーリーはほとんどなし。坂道を降りる競争が何度かあって、それが見どころになっているのだろう。けど、このカーレースがワンパターンで、全然おもしろくない。二度目三度目と難しくなるとか派手になるとか、そういう工夫があるかと思えば、そういうことも余りない。ドライバーの技術やマシンの機能アップが、どう走りに影響しているか、ってなことも画面に現れてこない。だもんで、だんだんつまらなくなってきて、途中で寝てしまった。
人間のドラマでは、主人公の少年と、日本人鈴木杏のロマンスらしきものがある程度。でも、ほとんどストーリーになっていなくて、面白くも何ともない。それに、結局、鈴木杏はふしだらな女だったのね、で終わるのも後味がよくないし。あとは、藤原豆腐店のオヤジやガソリンスタンドの親子なんかのコミカルな芝居ぐらい、か。笑うに笑えないつまらないものだった。で、全体になんだけど、汗くさくも油臭くもなく、オシャレにカッコよく表現されちゃってんだよなあ。テンポも、「ドリブン」っていう、スタローンがでた映画に似ていたりして。あれも中味なくて雰囲気だけの映画だったけど。あっちは雰囲気だけでも見どころが色々あって飽きなかったけど、こっちは見どころがなくて単純だからなあ。クルマに乗る人には、これでも面白い映画なのかねえ。
殴者9/26テアトル新宿監督/須永秀明脚本/伴一彦
設定や人物、意匠などがかなり様式的で、内容は時代考証無視。西部劇風なところもあれば、江戸のかぶき者的なところもある。無国籍とまではいいがたいけれど、その臭いもある。ちょっと不思議な時代劇だ。
時代は明治初頭。かぶき者スタイルのヤクザ一家と、西洋スタイルを取り入れたヤクザ一家が対立。出入りの代わりに、それぞれ3人の力自慢を土俵にあげて戦わせ、勝負を決めようと言う趣向となった。・・・というのが基本的な枠組みだ。見せ場となるのが、殴者同士の対決。ここに桜庭や高山なんていうプロを引っ張り出してきていて、迫力が満点。外人選手も登場するのだけれど、オレのテリトリーではないのでよく分からず。さらに、親分子分のねじれた因縁が絡む。というのも、陣内孝則親分を支える一の子分が、実は、子供の頃に親を目の前で殺されているという青年なのだ。また、陣内が経営する女郎宿の花魁も、同じように親を殺して幼女の頃から育て上げた娘で、陣内が女にしたという曰くあり。この青年と娘が実は相思相愛で・・・。という、こちらの物語も情に流されない物語展開で、冷徹な感じがよろしい。途中にたるみもあまりなく、一気に見られる。毛色の変わった時代劇として、ダイナミックな話運びで飽きさせない。
もっとも、ラストは疑問あり。青年と娘が手に手を取って逃げるのを見て、陣内親分が自刃してしまうのだ。「お前に殺されたかったのに」と、ねじれた関係を楽しんでいたかのような陣内親分が、なぜ自刃する必要があるのだ? さらに、2人で別の世界へ行くのかと思いきや、娘は青年を殺し、自分も自害する。何で道行きにならなくちゃならないのか、これね理解不能だ。因縁から逃れた二人が手に手を取って橋を渡っていく・・・で、終わり、でもいいんじゃないの? と、思ったのだった。
NOTHING [ナッシング]9/29シネセゾン渋谷監督/ビンチェンゾ・ナタリ脚本/ザ・ドリューズ
本編上映前に「RYAN[ライアン]」(監督:クリス・ランドレス)という短編(14分)アニメが上映された。どういう経緯で上映されているのか、説明もないので不親切。Webで見たら77回アカデミー賞短編アニメーション賞を受賞した、とある。ふーん。人体の各部分が消滅していながら立体として形態を保っているような人物(アニメーターだった)がでていたりする。
で、本編だけれど、気がついたら家だけになっていて、片割れが探検に出かけようとしているとこいらへんから眠った。暫くして起きたけれど、また寝た。また起きて、また寝た。きっと、最初の15分ぐらいと最後の15分ぐらいしか見ていないと思う。だから、ストーリーはよく分からない。相手に怒ったりすると、相手の存在が消えていく? のかな。1人は横領の罪で警官に追われ、もう1人は変態で警官に追われ、家は取り壊し・・・。しかも、そのすべての要因が言いがかりのようなもので・・・。と、周囲の騒がしさがなくなったな、と思ってドアを開けると、自宅を残して世界が消えていた、と。で、最後は2人もいさかいして。互いの肉体が少しずつ消えていき、首だけになってしまった・・・。というだけの話。1アイディアだけなので、こんなもの20分ぐらいの短編にすれば十分だと思うけどな。ま、寝ている間に重要なことが起きていたかも知れないのだけど。

 
 

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