2005年10月

シン・シティ10/3上野東急監督/フランク・ミラー、ロバート・ロドリゲス、クエンティン・タランティーノ脚本/ロバート・ロドリゲス
どーもアメコミ原作で、それをアメコミタッチで映像化したようだ。シン・シティというのは「バットマン」のゴッサムシティと同じ様な案配で、悪が仕切る闇の街、みたいなものなのかな。そのシン・シティで起こる3つの物語を、わずかな交錯はあるけれど、実際的にオムニバスとして描いている。まあ、正確には1作目が途中で切れて、2つのエピソードを挟んで1作目の後半が始まるという構成になっている。
闇および夜というノワールを描いていて、基本はモノクローム。そこに、口紅や血や衣装など、原色1色がプラスされている映像。なかなかカリッとしたテイストで、かっこいい。けど、たんにそれだけ、でもある。ストーリーも人物もいい加減で、とても「なるほど」といって見られるようなものではない。けれど、見てしまうのは画像と雰囲気がそこそこカッコいいからに他ならない。なんか、長い予告編を見ているつもりで、ぼーっと見ているのがいいのかも。よくも悪くも、結局はマンガだってことだ。ジェシカ・アルパがちょっと可愛い。
ルパン10/4テアトルタイムズスクエア監督/ジャン=ポール・サロメ脚本/ジャン=ポール・サロメ&ローラン・ヴァショー
あらゆる点で期待はずれ。あんな優男みたいなルパンは、イメージと違う(もの凄く毛深かった)。とても女にもてそうに見えない。神秘性もない。マヌケキャラをめざしたのかな? 話がゴチャゴチャしていて、なにがなんだか分からない。とくに、カリオストロの娘?夫人?のジョセフィーヌってのの位置づけがよく分からん。さらに、王政復古を狙っているらしい一味ってのも、なんかよく分からん。で、いつのまにか十字架を集め始めて・・・って、要素が多くて、しかも、交通整理がうまくできていない。必要なのは、善と悪のはっきりした描き分けだと思う。もっとも、この映画の場合は主人公が悪人なので、立場は逆転するけれどね。
驚いたのはルパンの生い立ちが描かれていること。こんなの要るのか? 父親が「立派な泥棒になれ」なんて子供にいうシーンは、どう考えてもスッキリしない。さらに、ルパン父に人生を台無しなされた母親が可哀想ではないか。こういうのを描くなら、貴族が市民を抑圧しているとか食い物にしているという前提がちゃんと描かれていないと、すっと落ちてこないと思う。で、生い立ちを描いたのは、ルパンの父親の生死をドラマに絡めたかったから、だろうと思う。けれど、結局のところその真実は、示唆されているけれど、確証があるわけではない。ここは、ルパンが殺人者の息子になるか否かの問題もあるし、ルパンが父親を誇りに思うのかどうかにもつながってくるので、ちゃんと描いて欲しかったね。
王政復古を狙っているにしてはジジイが何人かでうろうろしているだけ。で、王様の末裔と、整形したルパンの父親(?)、ルパンの伯父なんかが取り巻きでいるだけで、なんだか要領を得ない。で、いつのまにか十字架の秘密みたいのが絡んでくるのだけれど、これもちゃんと宝物発見譚として筋を通さないと、いらいらする。で、カリオストロについては予備知識がないので、こちらのエピソードもよく分からない。だいたい1人の女を字幕でカリオストロ夫人と呼んだりジョセフィーヌと呼んだり、混乱してしまう。
もっとも気になったのは、従姉妹の娘だよ。なかなか気品のある面立ちをしているのだけれど、まるで以前からルパンを監視してきていたような口ぶり。で、家に連れてきて早速ルパンを色仕掛けにしてしまう。おいおい、従姉妹なんだろ。近親相姦に近いところでのロマンスってのは、いいのかい? しかも、1発で子供ができちゃうなんて! だよなあ。しかも、ルパンはさっさとジョセフィーヌといい関係になっちゃうんだぜ。いいのかよ。というわけで、中盤部分はごちゃごちゃしていて、全然、波瀾万丈ではない。ええい、はっきりせい、はっきり! とイライラしつつ、わけが分からないので眠くなりそうだった。
で、ラストに20年後ぐらいのエピソードがついているのだけれど、これがよく分からなかった。あれって、サラエボでのオーストリア皇太子(だっけ)の暗殺事件のことをいってるのか? 固有名詞を失念したのでよく分からないんだけど。で、それをジョセフィーヌが仕掛けて掠われたルパンの息子が実行する・・・? でも、自爆は失敗したんだよなあ。どうなったんだ、あの結末は。押しつぶされた花しか映らなかったけど。
というわけで、最初から最後までよく分からないので、悶々としてしまったのであった。
セブンソード10/6上野東急2監督/ツイ・ハーク脚本/ツイ・ハーク、チョン・チーセン、チュン・ティンナム
脚本が悪い。演出が悪い。これほど下手くそなデキだと、見ていてイライラする。途中ででたいとさえ思ったけれど、寝てしまったからいいか。
演出の下手なのは、冒頭で分かってしまう。誰と誰が剣を合わせ、どう別れ、どう斬られるか。そのつなぎの勘所がおかしいのだ。さらに、話が進んでも、どこの誰がどうしたこうした、という話の枠組みがなかなかつかめない。大まかには、そりゃ分かるよ。武術禁止令がでて、違反すると斬首。で、賞金首を狙ったやつらが咎のない村人まで・・・というのは、わかる。けど、それだけじゃ甘いだろう。その、賞金首を狙う連中ってのは、どういう存在なのだ? 単なる一般人まで賞金首に仕立てるのは誰なのだ? こういうところのツメが甘いから、その後の話がつまらなくなるわけだ。だって、何とかいう村人を、あんなにしつこく連中が狙う理由は、何なんだよ? である。
どーも話が黒澤の「七人の侍」のパクリであることが見えてきた。パクリはパクリでもいい。もっと面白いモノに仕立ててくれよ。その後も、話の展開や人物紹介が下手すぎ。なんだかわけの分からないまま百姓が山の方へ上っていき、人と会っているようなところで眠ってしまった。はっ、と目覚めたら、戦士が「お前は降りてきてよかったか?」なんて話し合っている。「田舎はどこだ。知り合いだったのか?」などと、本筋とは関係ないことを話している。そう。肝心の部分を描かず、不必要な部分を描いている、または、意味のないカットが残っているところが随分あると思うぞ。
で、7人の戦士と剣については、眠っているときに紹介されたのかどうか知らないが、ほとんど分からない。そういえば、爺さんと女が「あんたたちも7剣士の一人」と言われているところがあったけれど、暴力嫌いの爺と女がすっかり剣士になっていた(別人?)のも分からない。山から降りてきた剣士も、とくに丁寧な描写がされているわけではないから、最後まで誰が剣士なのか分からずじまいだった。
襲ってくる連中の小隊長みたいなみたいな立場の女も、謎のままさっさと殺されてしまうのは呆気。その、襲ってくる連中の親玉が、ほとんど演技をしないで「ぬははは」不気味表情をつくっているだけっていうのが、バカみたいに見える。で、この親玉はどうして高麗人の奴隷を自室に引っ張り込んで高貴な服装をさせていたのだ? よく分からない。で、この高麗女と、ハングルを話す男の関係は何だったのだ? とか、わからないことは相変わらず説明なくだらだらとつづく。だんだん飽きてきて、またもや、最後近く。親玉との剣劇シーンの前に寝てしまった。おかけで内通者が誰なのか、見逃してしまった。でも、内通者内通者と騒いでいた割に、見つかっても大した問題にはならなかったようで。この辺りも、話のもって行き方に「?」だなあ。音楽だけはしつこく耳に付いてしまったけれど、ワイヤー・アクションは下手くそ。アクションもBクラスでストーリーもよく分からんクソみたいなデキの映画では観客は離れていく一方だろうよ。
理想の女10/10新宿武蔵野館2監督/マイク・バーカー脚本/ハワード・ハイメルスタイン
初めのうち、単純な話を1930年代の趣だけで見せようっていうのか? それは、辛いぜ、なんて思ってみていた。ところがどっこい。ヘレン・ハントがスカーレット・ヨハンソンの母親だ、と分かった途端、それまでの話がひっくり返ってしまう。なに、なになに。えー。それからの話の成り行きが興味津々。ヨハンソンがアホ男とヨットで駆け落ちして遭難でもするのか? 実の母親の存在を知ってナイフで刺しちゃうのか? どろどろの結末が待っているのかな? と、想像したりしながら見ていた。結果的に八方丸く収まってしまうので、ホッとしたり物足りなかったり。でもま、シンプルな話なのだけれど、意外と深くて面白かった。エンドクレジットを見ていたら、オスカー・ワイルドの原作なのだね。ちょっと読んでみようかな、と思わせる。
ヨハンソンは、美人とは言い難い。半開きの口はアホ面にも見えかねない。鳩胸出っ尻で、裸も大してきれいそうに思えない。っていうか、まだ童顔を引きずっている。こんなのが主人公じゃ、話にならないんじゃないか? と、最初は思った。一方、ヘレン・ハントは老いが露骨で、こんなオババの誘惑なんか受けたくないね、って思わせるような登場の仕方だ。これじゃ、話は面白くならないだろう、と思った。だから、せいぜい1930年代の香りを楽しもうか、ってな具合だった。でも、ヨハンソンとヘレン・ハントは、正解だよ。ベッドで足をばたばたさせながらプレゼントを開ける子供っぽいお嫁さん。これに、ヨハンソンはぴったりじゃないか。ヘレンの方も、もう、若い男は誘惑できない。ターゲットをジジイにしなくてはならない年齢だ、っていうのが次第に分かってくる。親子でありながら恋敵、のように見せるのがこの映画の仕掛けなのだから、2人とも適役だ。見事にはまっている。まあ、こっちはその仕掛けにはまったわけだけれど、きっと、ロクに予告編も見ていなかったから良かったんだろうな。
不満は、えー。冒頭からでている犬を抱いているバアサマ外2、3人の老婆と、望遠鏡で見ていたブスの娘。さらに、酒場でくだを巻いている老人数人。かれらがどういう関係なのかが、よーく分からなかった。途中で「兄嫁と娘、兄貴は先日死んだ」とかいうような科白が会ったような気がするのだけれど、瞬間的に理解するのは難しかった。っていうか、字幕が意味深長だり婉曲的だっり、とても分かりにくい。もう一度冒頭から見れば「なるほど、説明してあったのか」って分かるのかも知れない。けれど、この映画館は入れ替え制なので、それができないのが残念。だって、こっちは異人の顔の見分け方が下手だから、亭主とその友達が、どっちがどっちか見分けがつくまで暫くかかったぐらいなのだ。
2つほど、大きな疑問点。ヘレンがヨハンソンの亭主に「私はあなたの妻の母親だ」って、いつどういう腹づもりでいったのか? それが分からない。まあ、それを分からせようとすると、前半部でヘレンとヨハンソンの亭主は不倫中、と観客に思わせにくいのかも知れないけれどね。でも、ヘレンは金をせびるために娘の亭主を脅したのかどうかは、はっきりさせてもらいたい。でないと、演出では「本当はいい母親」というイメージにしようとしているのに、辻褄が合わないと思う。それから、ヘレンが飛行機に乗ったらタピィ(ヘレンに求婚した金持ちジジイ)がすでに乗っていて「話は聞いた」といってよりを戻すののは、あまりにも早業すぎるだろう。ヘレンがヨハンソンに「飛行機に間に合わない」っていってるだろ。なのに、ヨハンソンからヨットでの経緯を聞いて、しかも、扇子まで受け取っている。どうやったんだよ。魔法でも使ったのかよ!
1930年代を扱っているにしては、あまり色がでていなかった。パーティの音楽も、いまひとつ。それと、飛行機で帰る、なんていっていたので、1930年に大西洋横断航空路が開かれていたのか? と疑問を持ったのだけれど、最後に、飛行機がでてきたので驚いた。リンドバーグの大西洋横断は1927年。
メゾン・ド・ヒミコ10/13新宿武蔵野館1監督/犬童一心脚本/渡辺あや
前半はまずまず。ところが後半になって迷走。通っているかに見えた一本の筋が見えなくなり、テーマもぼやけて曖昧なまま収束。欲求不満がつのるだけだった。
オカマの老人ホームの物語である。銀座のオカマバーのママ卑弥呼が、突然引退して老人ホームを設立。自身が館長になったのはいいが、5年後に自身がガンに。そこで、卑弥呼の現在の彼氏が、卑弥呼の娘を捜し出してホームに連れてきて働かせる・・・。と、設定はいい。オカマに対する周囲の目なんかか対立項になって、娘も次第にオカマへの偏見をなくしていく。とくに、母と自分を捨ててオカマになった父に対する恨みが薄らいでいく様子も、描かれていく。ところが、ホームのオカマを連れてディスコ(?)へ遊びに行った後あたりから、話が展開しなくなっていく。ってか、よく分からないことばかり描かれる。オダギリが柴咲を抱こうとポーズをとってみたり、死に際の父が母と会っていたことを告白したり、ルビイを家族に渡したことでオダギリと柴咲が喧嘩して柴咲が勤務先の専務にセックスを迫ったり。いったいこれらは、物語の根幹とどういう関連があるのだろう? 父母が会っていたことを会話で説明されたって、なーんも説得力がない。そのときの両親の心がどうだったか、ひとつも伝わってこない。柴咲は、どーして専務とやりたがったんだ? オダギリがいっていた、やりたい衝動か? こうしたエピソードが本筋の説明にもならず、なんとなく思いつきのように配置されているだけ。なので、盛り上がりもなく、後半は退屈してしまった。ラストだって、ただ柴咲に戻って欲しいからの行為? だって、何も解決していないじゃないか。ルビイが玉なしだってことを家族が知って、それでどうなったのだろう? 柴咲は専務の情婦になったままなのか? 父親へのこだわりはなくなったのか? そして、オカマへの偏見は? そういうことに触れることなく、なんとなく終わらせてしまっている。とてもずるいというか、いい加減でしたない。
卑弥呼の田中泯が、死にそうという設定なのに筋骨隆々で血色もよすぎるよな。それに、老人ホームという割には、みんな食欲も旺盛。それと、老人ホーム? という年齢に見えない入居者もいたりするのが、いまひとつ説得力がない。えーと、それから、ルビイがもっていた、おまじないの文字が書かれながら出されなかったハガキの意味するものはなんだ? あれは、孫がもってきたものか? そんなことがあるはずがない。じゃあ、自分で書いたものか? 分からんぞ。それと、首をひねったのがお盆の行事。なぜお盆にこだわるのだろう? 個人の写真を飾ったり、盆提灯を大量に設置したり、フツーしねえだろ、あんなこと。オカマはお盆と関係があるのか? なんとなく、日本の古い常識から解放された人々だから、どっちかっていったらキリスト教かな? と思ったんだが。意味あるのかな。
柴咲コウは、美人じゃない。この映画では笑顔も見せず、眉間に縦皺をたててばかり。でも、ちょっと魅力的に見えた。もっとも、存在感だけはあるけれど、考えていることがさっぱり分からないのであるけれど。オダギリジョーは、いい男に見えた。とても色っぽい。エンドロールに柳沢慎一と高橋昌也をみつけて、げっ、どこにでていた? と思った。Webでみたら、なるほど、なんた゜けど。柳沢慎一は気づかなかったなあ。
ビューティフル・ボーイ10/17シネマスクエアとうきゅう監督/エカチャイ・ウアクロンアム脚本/エカチャイ・ウアクロンタム、デスモンド・シム・キム・ジン
何年か前に日本にもやってきたオカマのキックボクサー。その半生記だ。記事としてみただけで試合は見ていないし、とくに本人に興味もなかった。単なる新聞ネタ、お笑いのネタとしか思っていなかった。その、彼?の半生記。日本での彼は単なる際物扱いだったけれど、映画は大まじめ。ストレートでな表現で、淡々と描ききっている。途中、主人公は夢の中で女になった自分とよりそうシーンなどがある。このあたり、映画的表現を追求しているそぶりが見えたりして、なかなか。もっとも、個人的にはこういうレトリックはタルイので要らないと思ったけれど、こういうのを評価する御仁もいるからなあ。で、映像もキレイだし編集もしっかりしている。なんか、タイっぽくないのだ。って、それほどタイ映画は見てないんだけどね。
映画は別に、彼を素晴らしい人と美化しているわけではない。性同一障害に苦しみながら生き、しかも、ムエタイボクサーとして生きていく上で発生する様々な障害、偏見などを乗り越え、最終的に外科的手術をして女になるまでの事実に基づいて描いている。リング上での戦いもリアルで、ドキュメンタリーに近いような印象を受けた。とくに、東京ドームでの日本の女子プロレスラー(と戦ったのだね。初めて知ったよ)との激闘は、実写を使っているのか? と思えるぐらいだった。本当のところはどうなんだろう?
日本のシーンはタイの映像と比べると、やっぱり先進国だなあと思えるからおかしい。それにしても、ファンがホテルのドアの前で徹夜して、主人公の部屋に入って体を捧げようとする・・・ってのは、おいおい、だったなあ。そんなことをしたファンが本当にいたのか?
チャーリーとチョコレート工場10/28上野東急2監督/ティム・バートン脚本/ジョン・オーガスト、パメラ・ペトラー
[吹替版]導入部から工場に入る流れは面白かったのだけれど、工場内のできごとがいまひとつグッと惹きつけてこない。そんなわけで、デブ少年がチョコレートの池に落ち、生意気少女がブルーベリーの風船になり・・・あたりから半睡状態。気がついたら4人が脱落して、主人公の少年が残り、エレベーターで空を飛んでいるところだった。
チャーリーとチョコレート工場10/28上野東急2監督/ティム・バートン脚本/ジョン・オーガスト、パメラ・ペトラー
[字幕版]そんなわけで、つづけて今度は字幕版を見た。今度も導入はまずまずなんだけど、気が緩んだか4人の少年少女の紹介あたりで半睡状態になり(すでに見てるからいいや、ってな気持ちもあったのかもね)、でも、生意気少女がブルーベリー風船になるところで気がついた。というわけで、前の回で眠ってみられなかったところは、ちゃんと見た。つまり、ひととおり見たと言うことだ。めでたしめでたし。
普段なら眠るほどでもなかったかも知れない。全体を通してみれば、なかなか面白い要素が揃っている。けど、やっぱり頭を使わない映画は退屈だ。映画の構造は単純だし、結果はなんとなくわかるし、ジョニー・デップの両親への反感なんかも類型的で、お子様向けのメッセージになっている。こっちは、なーんも考える必要がない。するとやっぱり、眠くなってくるのだ。
「シザーハンズ」「水着の女王」「サタデーナイト・フィーバー」「2001年宇宙の旅」「サイコ」その他(分からない)その他(忘れた)のパロディもたっぷり。とくにあの、工場内で働く小人が秀逸。でも、みんな顔が同じというのは、あれは小林亜星のサイデリアのCMそのものだよなあ。それともサイデリアが外国映画を真似てしているのかな? 4人の、選ばれる子供たちの類型さも、あそこまで徹底するとキャラクターになるから面白い。それにしても、この世にはデブと生意気とワガママと自信過剰な子供しかおらんのか。その、自信過剰なコンピュータ少年の父親がバーコード頭だったのだけれど、バーコードにアクセントをつけてオシャレしているのが笑えた。
こういうおとぎ話に突っ込みはいらないのだろうけど。でもね。世界各地にチョコレートを出荷しているのに、町の人が働いている人を見たことがない、だとか、工場にだれも出入りしていない、だとかいうのはムリがある。そもそも最初のシーンでトラックが配送のために出て行っている。工場内に畑や牧場もあって、自炊しているのか?
実写ともアニメともつかない質感が不思議だった。人物は実写のはずなのに、見かけが立体アニメ風なのだ。故意にそうしているのだろうけれど、意図はなんなのだろう? 逆に、工場内でガレー船が流されていくシーンなんかは、いまどき珍しいミニチュア撮影だ。このアンバランスが、微妙に不思議なテイストになっている。
気になったのは、主人公の少年が拾った金でチョコレートを買ったこと。そして、両親も祖父母も、その金はどうしたのだ? と問いかけなかったことだな。いいのかね。ああいうのは。ちょっと感動的だったのは、ラストに近いところで、ジョニー・デップがクリストファー・リーの父親のところに行って。リーが息子であることを知ると抱き寄せようとするところ。リーの及び腰のような態度と、さしのべる手のぎこちなさが、実にいい。
字幕の方が過激な言葉を避け、吹き替えの方がずけずけものを言っていたような気がする。なんだか、両者の間で統一は取られていないようだなあ。

 
 

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