2005年11月

ドミノ11/1渋東シネタワー1監督/トニー・スコット脚本/リチャード・ケリー
クールな映画だ。最高! 事実に基づいていらしいが、とてもそんな風には見えない。きっと、事実を500%ぐらい水増ししているんだろう。でも、そんなことは関係ない。映画がよければ、それでいいのだ。
賞金稼ぎの話である。保釈金を払いながらトンズラこいた犯罪者を見つけ出す。命がけの商売だ。どうして若い娘がそういう職業についたのか? そうしたことにも、ちゃんと触れているのが素晴らしい。死んだ父の想い出、母親の様子、教会でくすねた賽銭、表とでるか裏とでるかの賭に出た人生…。あっさりとだけれど、バックグラウンドが描けていることで、物語に厚みがでたのは間違いない。相棒で最後は恋人にもなるチョコについても、過去が描かれていたりして、総じてこの映画は丁寧だ。登場人物がみな、存在感があるのも、そうした映画作法の性だと思う。
話は、現在からちょっと過去の銃撃戦の場面に遡り、さらに、過去へと遡る。冒頭ではわけが分からず混乱するけれど、そういう混乱の元になっている事柄は、ちゃあんとあとからピタッピタッと解明されていく。こういうことろにも、単にスピーディな展開とカッコよさだけを追求した映画との違いがはっきり現れていると思う。まあ、もっとも、よく分からないところもあった。大学生はなぜ運転免許証が欲しかったんだ? 腕をもがれた運転手を雇ったのは賞金稼ぎグループの黒人のボスか? なら、なんで他の4人は金を置いて逃げたんだ? 別の4人を勘違いして殺そうとしたのは、あれは誰? 情報はFBIからそのグループに行ったのか? なぜあの4人が犯人だと分かった(勘違いだけど)んだ? 現金輸送車強奪を装う計画をたてたとき、30万ドルが別のグループのところに流れるような話をプールの男がしていたけれど、あれと関係あるんだよなあ。で、あれは誰だったんだ? といったようなことで、もう1回見るか、ちゃんとした説明を聞けば分かるんだろうけど、展開が早いのでついて行けないところもあった。
キーラ・ナイトレイと2人の賞金稼ぎ以外にも、あくの強いキャラが目白押し。クリストファー・ウォーケンのテレビプロデューサー。押し入った場面で流れていたテレビの音楽に、著作権を心配するところなんか、笑える。片腕をもがれた運転手の母親も、凄い。「ビバリーヒルズ高校白書」の2人が、アホ役を引き受けてでてきているのも、素晴らしい。キーラ・ナイトレイの母親役も、しわくちゃを強調して凄みがある(っと、いまWebを見てたらなんとジャクリーン・ビセットだったのかよ! うわ)。その他の、あっちこっちにでてくる黒人たちも、素のまんまってな感じで、みんなイキがよすぎるほど。クールだね。ただし、ルーシー・リューはミスキャストにしか思えない。それと、唯一分からないのが、捕まったキーラが、捜査官にすべてをべらべらと話してしまったこと。彼女の変化は、何によっているのだろう? 恋人の死?
ストーリーとは関係なく興味深かったのは、交通局(だっけか?)の窓口で働く28歳で祖母になったというデブ女でテレビに出たシーンだ。アメリカは人種のるつぼ、混血の世界だということがよく分かるし、それぞれの混血具合で他者を見下している様子が生々しい。黒人とヒスパニック、黒人と韓国、黒人と日本、その他その他。あのシーンはもう一度ゆっくりと見てみたいと思うぞ。
ヒスパニックや黒人がでてきてクルマがでてきて砂漠で・・・って、何だか「トラフィック」に似たようなところがある。イメージがざらついていたりするところも、ね。それでも、このスタイリッシュでクールなテイストは、なかなかいい。ラストに近いところで話のテンポが少しだれるけれど、まあ、大団円に向かって収束するのだから仕方がないかも。最後に、映画に関係ない女性が出てきて、背後で大爆発。彼女は、本物のドミノ・ハーヴェイなのかな?
キーラ・ナイトレイは、かなりデブになった? もともとああだっけ? なんか、顔がでかくなったみたいにも思える。最後の方に貧乳をチラリと披露してくれるけれど、相変わらず色っぽくないね。
ウィスキー11/4ギンレイシネマ監督/フアン・パブロ・レベージャ、パブロ・ストール脚本/フアン・パブロ、パブロ・ストール、ゴンサロ・デルガド・ガリアーナ
兄(ハコボ)は舞台となる国(Webでみたらウルグアイだと。スペインかポルトガルかと思っていたよ)で。弟(エルマン)はブラジルで。2人は同じように靴下製造所を経営している。弟の工場は羽振りがいいが、兄の工場は従業員も3人。導入している機械も古く、つくっている靴下も激安店向けのものばかり。かなり差がついてしまった。もともと父親が経営していたのかな? 弟はブラジルに渡って20年と言っていたから、30歳半ば過ぎにブラジルへ行ったのか。こっちで妻を娶って新天地に向かったのか、彼の地で妻を娶ったのか、20歳ぐらいの娘も2人いる。成功者だ。兄はスペインに残った。年老いて痴呆症になった母親を介護しながら、仕事をつづけた。おかげで嫁をもらうチャンスもなく、60歳近く(のように見える。もっと若いのかも知れない)になってしまった。去年、母親が死んだ。弟は葬式に来られなかったが、墓石を建てる式典には来るという。そこでハコボは、従業員の女性マルタに自分の妻の役をやってくれ、と頼み込む。兄と弟。ハコボの妻を演じるマルタ。その3人の数日間の共同生活が描かれる。で、たんにそれだけの映画。あまりにも何もない映画である。
何も起こらない映画であるけれど、所々に意味深な示唆が散りばめられている。ハコボが「間違い電話」といっていた電話。あれは昔の女からのもの? エルマンがブラジルに帰る間際に渡したノートのメモは? 連絡先か? やっぱり2人はホテルで寝たのか。翌日、マルタは出社しない。思いがけずハコボから大金をもらったので、人生をリセットすることに決めたのだろうか。ひょっとしてエルマンから電話が来て、ブラジルに行くことにしたのか? いろいろ想像できて面白い。とくに、ラストがいきなりだったので、余計に興味が駆り立てられる。
ハコボの工場は、単調な毎日の繰り返し。出社して働いて退社して(夜8時近くまで働いているのだな)ての繰り返し。それが変わることがない。ハコボは、女に興味がないわけでもなさそう。ホテルで若い女にちょっと惹きつけられていたから。でも、マルタととなり合わせのベッドに寝ながら、ちょっとついでに・・・って手を伸ばすこともしない。もしかしたら、昔の女に懲りているのか? それにしても、話の展開からすると、いつかは2人の間に心の交流が育ってもいいような雰囲気があるじゃないか。ホテルの遊技場でエアーサッカーをやっていて、マルタの手に自分の手を添えたりしたときなんか、これは次は・・・と予想したけど、何もない。謹厳実直石部金吉みたいに描かれている。何が面白くて生きているのだ? そんな感じ。
単調な毎日が、冒頭で3回描かれる。喫茶店で朝食を採り、工場へ。シャッターの降りている入口に、従業員としては年寄株のマルタが立って待っている。カギぐらい預ければいいのに、と思うけれど、そういう信頼関係はない。マルタが着替える。ハコボが機械のスイッチを押す。2人の女性従業員がおしゃべりをする。退社する2人のカバンの中をマルタが改める。この様子を、実に3度も描いている。しかし、そのベタな繰り返しが何ともいえず説得力がある。何もない日常だな、と思う。ハコボは実務的なことも多くは語らない。マルタも、余計な質問や雑談をしない。好き嫌いの感情がしまい込まれたような間柄だ。そこに「妻役を」という頼み事が生じ、マルタは簡単に承諾する。不思議な関係だ。ハコボは自宅と工場を行ったり来たりする以外に、興味があるのはサッカーぐらい。一方のマルタは仕事帰りに映画を見たりして、質素な暮らしをしながら娯楽にも興味がある様子。けれど、2人とも家族も友達もいないようだ。どっかで惹かれ合っていいと思うけれど、互いに合わないタイプなのだろうか。何を考えているか分からない2人だ。
マルタの表情が、ハコボの弟エルマンの訪問で次第に緩んでくる。笑顔を見せ始める。化粧も少しずつ濃くなっていくし、洋服も派手になっていく。思わず水着なんかも買ってしまって、これがあの暗かった女か? と思ってしまうぐらいの変貌ぶりを見せるのだ。この様子が、なんだか氷が溶けていくようで艶めかしい。同室でくらすハコボがいつ言い寄るのか? と思っていたら、慰めてくれる相手に選んだのは弟の方だった。ま、寝たかどうかは定かではないけれどね。弟の方が社交的で遊び人みたいだから、そっちに惹かれたのかも。旅先で、エルマンは、兄に大金を渡す。母親の介護もしなくて悪かった、といいつつ、兄の工場の機械が古いのを見て同情したのかも知れない。機械が買えるぐらいの金だから、100万以下ってことはないだろう。で、ハコボは何とルーレットの1点買いで大もうけしちゃうんだよ、これが。3倍ぐらいかな。どうせもらった金だから、というわけかな。ハコボはUFOキャッチャーでカメラを取ってしまうぐらいで、ゲームやギャンブル関係は好きなのかも。で、この金の半分以上をマルタにやっちゃうのだよ。自分も少し手元に残したけどね。これは、どういう意味なのだろう。ハコボにはマルタに関心があって、彼女の心を金で動かそうとしたのか? 単に、妻役の礼金としては大きすぎるだろう。でもって、エルマンはブラジルに帰り、いつもの朝に戻る。ところが、翌朝、ハコボが工場に行くといつもシャッターの横で待っているはずのマルタがいない。修理途中のエアコンは機能していない。自分でお茶を入れて飲んでいると、従業員の1人が「ラジオをつけていいか?」と聞きに来る。「いいや」と返事して、ついでに「マルタに電話しろ」と言いつけたところで暗転。いきなり映画が終わる。おお、これからどーなるんだって思っていた矢先の突然の終焉。ちょっと慌てた。けれど、いろんなことが考えられる懐の広い映画で、なかなかに面白かった。気になったことが1点。ハコボが、妻がいることを装ったこと。なぜそうする必要があったのだろう。エルマンはマルタに「母には会ったか?」と話していたように、結婚したのはここ1、2年という設定だ。これまでは独身だった(または、離婚した)ということだ。何年も会っていない弟に「結婚した」と嘘をついた理由、結婚生活を偽装する必要がどこにあるのか。それが分からなかった。
「あしたまにあーな」って、おやすみなさい、だったのね。知らなかったよ。浜田マリの番組名の由来がやっと分かった。
カメラはフィックスで、そこに人物がフレームインしたりフレームアウトする。これがまた、いい。最近はカメラぶんまわしとかステディカムで追っかけたりして、落ち着きがない。それを逆手に取ったようなインパクトがある。
さよなら、さよならハリウッド11/4ギンレイシネマ監督/ウディ・アレン脚本/ウディ・アレン
ウディ・アレンである。「メリンダとメリンダ」は考えすぎみたいで、面白さが分かる前に混乱して、ただのしゃべくりばかりが耳について楽しめなかった。で、こっちだけれど、これもまた相変わらずしゃべくりばかりが先行して、ドラマチックが、ない。そこそこのテンションで平板なまま最初から最後までべたっとしている。ところどころに面白いところはあるけれど、ウディ・アレンのダイアログでくすくす笑いが持続できなかったのは、こちらの教養の乏しさのせいかもしれない。または、字幕を読むのに追われてたせいかも。
ストーリーには大して工夫がない。目が見えなくなった、見えるようになった、ってなシーンもドラマチックじゃない。恋のさや当てにしても、アレン自体がもう老人だから、それほど興味が湧かない。別れた女房がニコール・キッドマンに雰囲気の似た、ちょっとインテリっぽい色気があるなあ、なんていうぐらいがお楽しみ? アレンは落ちぶれた元名監督の役だけれど、相変わらずおっちょこちょいでトンマでパラノイアで神経症的な役作り。もう飽きたよ、だな。そもそも、時代はそういう種類の人間をみんなホームレスにしてしまっているんじやないのかな。日本じゃそんな感じがするぞ。アメリカだって神経を病むような人間は使い物にならなくて、下流社会になだれ込んでいるだろう。そんな時代に、知的に笑っていられるわけもない。なんだか時代とズレているような気がする。
ラスト。駄作をつくったアレンには非難囂々。元女房は結婚寸前だったのに相手のプロデューサーに誤解され、別離される。これで2人は元の鞘に収まって、しかも、駄作をフランスが傑作だと評価したからと、2人は手を取り合ってフランスへ・・・って、一時代前のコメディみたいじゃん。それも、最後に話を無理矢理まとめるみたいにバタバタと。フランス人にもちょいと失礼だろ。いまひとつ乗れなかったね。
色が、ヘン。時代がついて黄色く色褪せたみたいな色調だ。こういうのがハリウッドの色だ、とでもいうのかな。もっとしっとりした色調なら、映画の印象もちょっとは違ったかも。1920年代を思わせる音楽も、現代の映像にかぶさっていると違和感だけが感じられた。この程度の映画(アレンの旧作の焼き直し)なら、いくらでもつくれるのだろう。けれど、新しい発見がないと、つまんないよな。
キャプテン・ウルフ11/5上野東急2監督/アダム・シャンクマン脚本/トーマス・レノン、ロバート・ベン・ガラント
素晴らしい。昼間は吹き替え、夕方からの回は字幕と、観客対象を子供にしているようだ。けれど、大人が見ても存分に楽しめる。まず、脚本がいい。そつがないばかりでなく、瑕疵がない。なにげにでてくるエピソードや歌なんかが伏線になっていて、後半でちゃーんと効果を発揮するところなんか「おー、なるほど」と感心してしまうほど。伏線がわざとらしくないのが、いい。片親と複数の子供たちがいる家庭に、事情はともあれ管理者がやってくる、という構造は明らかに「サウンド・オブ・ミュージック」なのだけれど、なんと、その「サウンド・オブ・ミュージック」を映画の中に取り込んでしまっている。これが素晴らしい。似ている、とか、パクリ、といわれる前に「おお、その手できたか」とこれまた感心。でもって、5人の子供たちのキャラクターが、それぞれにいい。主役のヴィン・ディーゼルのおとぼけ役もハマっていて、敵が身近なところにいたっていうのに気がつかないという、とんだマヌケを大らかに演じている。いや、楽しくて面白かった。
蝋人形の館11/6シネマミラノ監督/ジャウム・コレット=セラ原案/チャールズ・ベルデン、脚本/チャド・ヘイズ、ケアリー・W・ヘイズ
どーもリメイクらしい。けれど、大胆に現代化してあるようで、テンポがいい。6人の男女が怪しい町に紛れ込み、「13日の金曜日」よろしく次々に殺されていく・・・って流れ。いくらなんでも、そんなんありえねーの連続だけど、堅いことをいわなければ十分に楽しめる。生き残るのも、1人は納得の選択だけれど、もう1人は意外な人選。といっても、よーく考えれば犯人も兄弟だし、生き残るのも兄弟ということにしているのだろう、と想像がつく。ホラーにしては細かなところに凝っている。「何がジェーンに起こったか?」を映画館の上映映画にしていること。犯人兄弟が最後を迎えるとき2人の体が重なって、切り離される前のシャム双生児の姿に戻ること。生き残る2人も男女ではあるけれど双子であること。こんな風に、いろいろなアナロジーを埋め込んでいる。
ヒロインの女の子は、そこそこ可愛い。もう1人の、黒人の男の子といちゃつく女の子が不細工なのが、大きな残念。しかも、この2人はあまり本筋に関係なく、出番も後半はいまひとつ。もうちょっと2人を活かす脚本にするべきだったと思うぞ。"House of Wax"のタイトルは、ラストでかなり効いてくる。単に蝋人形屋敷ではなく、蝋の家なんだよな。いや、凄い。
ホラーとしては怖くないけれど、えぐい(グロなシーン)が頻出する。まあ、何度か見ていると慣れるけれど、うぇっ! 痛てっ! ってな気分になるぞ。
ブラザーズ・グリム11/7上野東急監督/テリー・ギリアム脚本/アーレン・クルーガー
オープニングからしばらくは、なかなかいい。様式的な表現が冴えまくって、民家などもデフォルメによって、いかにもそれらしい外観を形作っている。石橋を渡るシーンなんか、人着したような色合いで、絵画的でもある。まるでイラストか絵画がそのまま動きはじめたかのような緻密さだ。で、最初の、グリム兄弟が落語の「不動坊火焔」みたいに幽霊をでっち上げるペテン師だってことを明かすシーンも、いい。その後の、なんとか村に行って10人の子供が掠われた町へ行って真相を究明しろ、とでかけるあたりから眠くなり出して、一応は見ているのだけれど、半睡のまま。ふっと数分ぐらい寝て、眼を覚ましたら黒いぶにょぶにょが井戸からでてくるところだった。そっから後は、ちゃんと見た。
が、しかし。その後もたいして面白くならない。なんていうか、話が理に落ちないというか、合理的に進んでいかないんだよなあ。意味もなく塔と村を行ったり来たりしたり。塔の周囲に棺桶が12あることに村の誰も気がつかなかった(?)ってのも、マヌケな話。いや、そもそも塔の上に魔女みたいなのが住んでいて・・・って、そんな話があるのなら、村人が独自に誰かを雇って解明するとかすればいい。将軍も、自分で塔の秘密をあばけばいい。それをペテン師と分かっていながらグリム兄弟を派遣するって、なんか腑に落ちない。そういう腑に落ちなさが、眠くさせたのではないのかな。
最初の酒場のシーンから馬に引きずられる辺り。そして、ラストの村人たちの踊り。その音楽はジプシーのものだ。村人たちをジプシーにすることによって、彼らの妖しさを出そうとしているのだろうか。村人のしたたかさでいうと、「七人の侍」にも通ずる。アンジェリカが兄弟2人にキスする別れなんか、そっくりだ。
ブラザーズ・グリム11/7上野東急監督/テリー・ギリアム脚本/アーレン・クルーガー
寝てしまったせいで、ちゃんと理解できていない部分もあるはず。ってなわけで、つづけてもう一度見た。見たけれど、見てなくても問題のないようなシーンばかりだった。唯一「豆のせいで妹が死んだ」というセリフは意味があった。なるほど、である。
2度見ても、話が理に落ちないのは同じだった。たとえば、井戸からでてきた黒いぐにゃぐにゃは、あれは誰が何の目的で送り込んだんだ? あんなのが送り込めるなら、狼男なんかつかわず、さっさと子供を12人掠ってくればいいじゃないか。掠われた女の子が池の底から浮かんでくるのはなぜなんだ? グリム兄弟の仲間の2人は、いつ塔から消えたのだ? そして、塔から戻ると将軍がやってきて2人の首をグリム兄弟に見せる。なんか、凄く端折られている気がする。将軍の部下のカヴァルディは、漁師の娘のアンジェリカがグリム兄弟と一緒に塔に行こうとするのを制止する。で、次に将軍が村に来たとき、アンジェリカに猿ぐつわを噛ませているけれど、そんなことをする必要がどこにあったのか? たかがペテン師のグリム兄弟の捕縛のために将軍が直々にやってくるなんて、ヘンじゃないの? カヴァルディが将軍に兄弟を処刑しろと言われて、急に「辞任させてくれ」という。なんで急にグリム兄弟の肩をもつようになったのだ? 弟の書いたノートを読んだから? 斧に反発力がある秘密の解明はどうした?
なんだか色々と説明が不足していて舌足らず。竜頭蛇尾な映画だな、これは。上映時間を2時間に収めるため大胆にカットしたから、とか理由があるのだろうか? DVDになるときはディレクターカット3時間30分なんてことになってたりして。
ヴェニスの商人11/8テアトルタイムズスクエア監督/マイケル・ラドフォード脚本/マイケル・ラドフォード
物語のあらすじは誰でも知っている。でも、映画で見たら「こんなんだっけ?」てなところもあって、これは「理想の女」同様に原作を読まなくちゃなあ、もう一度、と思わせたぞ。
で。いろいろと違和感とか不愉快な思いを抱きながら見ているうちに、またしても寝てしまった。うぐぐぐ。シャイロックの娘が駆け落ちする辺りで、ふっと・・・。どーもその、盛り上がりに欠ける物語というか、すでに知っているという気のゆるみであるとか、テンポがのろいであるとか、華やかさに欠けるとか、いろいろな要素がこちらの興味をぐいぐいと引っ張ってはいかなかった。もっとも、目が覚めてからはちゃんと見たけどね。でも、シャイロックの娘と駆け落ちしたやつが誰なのか分からずじまい。でも、あの2人は物語の核心からは離れていたし、あんまり問題はなかったかも。
それにしても、シャイロック=ユダヤ人に対するキリスト教者のなんと一方的で身勝手なことよ。そればかりが眼について、シャイロック可哀想、理不尽だ! としか思えないドラマだよな。俺はどうあってもシャイロックの肩をもつぞ! と思わせるような脚本になっている。思えば、この「ベニスの商人」。英語の教科書に載っていたっけ。35、6年前のことだ。あの当時は、ユダヤ迫害といえば「アンネの日記」一本槍で、まさかシェークスピアが人種差別!? なんて、文部省も思っていなかったんだろう。常識なんか、あっというまに変わる。欲張りで強突張りだったはずのユダヤ人は、こうやってシェークスピアの中にも被害者として描かれるようになってしまった。誰かが裏で操っているとしか思えない。これは単に映画界の中にユダヤ人が多い、ということだけじゃなくて。経済的にも政治的にも、アメリカの中枢にユダヤ人が座っているということの証ではないのかな。シャイロックの長広舌の演説が2度ほどあった。それは理にかなったものだった。一方のキリスト教者といえば、まるっきり理論武装ができていない。この辺りは、アメリカの政治中枢にいるWASPに向けられているのかもね。
そんなわけで、善と悪がはっきり対立していた原作に対して、善悪はどこにあるのだろうか? という経過をたどってクライマックスの裁判となるわけだが、ポーシャの「肉1ポンドはいいが、血は一滴も流してはならぬ」が、してやったりの発想に思えないから困ったものだ。単なる言葉遊び。詭弁じゃないか。肉には皮や血管もついている。血も含めて肉だ! と言い返せばいいだけの話。しかも、殺人未遂で逆に財産没収になるのもおかしい。肉は求めたけれど、命を取ろうとしていないのだから。極めつけはキリスト教者お得意の「キリスト教に改宗しろ」だ。十字軍から変わっていない傲慢。これなんか、アラブ社会に対するアメリカの態度とも通ずるよなあ。というわけで、すっきりしない大団円。さらに、結婚相手に「誰にも渡すな」といわれた指輪をやすやすと他人にくれてやってしまうアホな男どもが、まともなやつらとは思えない。いずれ2組もすぐに夫婦喧嘩だな、と思ってしまう。さらに哀しいのは、シャイロックの遺産1/2を譲られるシャイロックの娘と婚約者。婚約者は喜んでいるけれど、娘にすれば父の死と引き替えだ。こんなのとんでもない話じゃないか。
ユダヤ協会の前で哀しく佇むシャイロック。海辺で立ちつくすシャイロックの娘。これがラストシーンだけれど、どーせだったら徹底的にシャイロック正義の立場で物語を見直した方が面白いものができたと思うのだけどなあ。原作にないセリフや展開もあったんだろうけれど、基本を外さなかったせいで、もやもやばかりが残ってしまう映画になってしまった。
で。あの当時はオッパイを見せるファッションが流行っていたのか? そんなシーンがあったけど。それから、男同士、女同士が唇を重ねて親愛の情を表現するなんていうのも、フツーだったのか?
で、気になったことをひとつ。雑音である。たいがいのシーンに、街角で交わされる会話などの雑音が低い音でかぶっているのだ。街中であること、近くに人々がいることを表現して臨場感でもだそうというつもりなんだろうけど、うっとーしかった。とても気になった。
女は男の未来だ11/11新宿武蔵野館3監督/ホン・サンス脚本/ホン・サンス
だからどうした、というような映画。日本でもこんな映画が70年代につくられていたような気がする。まあ、この映画ほど淡々とではなく、もうちょっと暗く哀しいようなトーンだったと思うが。まあ、学園紛争の前後だから、そんな背景も反映されていたんだろう。つまり、テーマがあったってことだ。ところが、この映画にはとくに主張がない。ただ、起こったことを平板に描くだけ。でも、それほど飽きなかった。というのは、次にどうなるのかな? という期待を抱かせてくれたからだ。ま、どうにもならなかったんだけどね。
大学時代の友人。先輩は渡米し映画監督。後輩は韓国で大学の教師。何年ぶりかに再開して飲んで、勢いで昔の女に会いに行く。もとは先輩の彼女だったが、先輩が渡米した後、後輩が関係をもっていた、ようだ。でも、いまは後輩君も結婚して子供もいて、豪華な新居も建てている。でも、こころは虚ろ・・・。感心があるのは、女とセックス。先輩も女には興味があるようだけど、昔の女にも未練がある・・・。ってな感じ。
出番は後輩、先輩、元彼女の順だけれど、結局のところこれは、元彼女がバカな男を翻弄しつづけている映画だな。じゃあ彼女が賢いのかというと、そういうことではない。つきあっている男(先輩)との約束があるのに、高校時代の先輩に誘われると「嫌だ」いいつつ一緒にでかけていって寝てしまう(本人は犯されたといってるけどね)。でまたそれを先輩に告白してしまう。お前、バカなんじゃないの? としか思えない。で、先輩が渡米すると後輩君とも「嫌だ」といいつつ懇ろになってしまう。おいおい。で、何年か後(映画では説明されていないけれど、Webには7年とあった)に再会して、先輩が「あのときは悪かった」といいつつ酔いつぶれてしまうと、なんと、隣の部屋で後輩君と寝てしまうのだ。なんだよ。しかも、先輩に「一晩中起きていたよ」と、翌日いわれる。したたかというより、好きな女だよなあ、としか思えない。男が進化すると、こういう具合になるのかい?
そう。題名の意味がよく分からないよな。タイトルといえば、バックが布地で、まるでひところの小津の映画みたい。いろんなことが起きるけれど、ドラマがないのも小津に似ているといえば、似ている。
この映画、時制が分かりにくい。過去に飛んだことが、最初はっきりと分からなかった。高校の先輩がでてくるまでの間も長いし、ちょっと編集に難点があるな。
Dear フランキー11/12ギンレイシネマ監督/ショーナ・オーバック脚本/アンドレア・ギブ
イギリス映画。乱暴夫から逃避し、ひっそり暮らす祖母・母・息子(9歳)。息子には「父は船員」と納得させている。息子は船員の父に手紙を出し、その手紙を母が読んで息子に返事を送っている。乗っている船はたまたま名付けたもの。が、その船がイギリスに寄港することになって、アパートの管理人にヘルプ! ある男が2日間だけ父親役を務めてくれる。そこに、実の夫(フランキーの父)が危篤だと連絡が入る・・・という、お涙頂戴物。けれど、終盤に来て物語の収束がいい加減になってしまい、「?」のつく終わり方になってしまった。やっぱり、ラストはピタリと決めないとなあ。
前半はつまらない。なぜ逃げているのか? 父親はどうしているか、示唆らしきものはあるけれど、謎のまま。しかも、その謎が盛り上がらないまま転がっていく。同級生のいじめっ子らしき少年や、最初に手話で話しかけてきた少女。彼らとどういう経緯で仲良くなっていったのか。その経緯が描かれない。新しく越してきた家の大家(隣家?)の女性。彼女から「働かないか」と声をかけられるのだけれど、どういう店なのかも、なかなか紹介されない。さらに、一家の家計はどうなっているのかも、あやふや。もうちょっと具体的な描写やドラマが混在されないと、話に入り込めない。なんか、上っ面をなでたような印象だ。
レンタル亭主を借りる段になって、やっとドラマが転がってくる。しかし、久しぶり合う夫婦なのに、あんな他人行儀じゃ子供に感づかれるだろ、と心配になるほどだ。当然ながら、レンタル亭主と、彼と距離を置く母親とが心を通わせ合うことを観客は期待する。そして、話はそうなっていく。けど、ドラマは起こらない。主眼がこっちではなく、別れた死にかけ亭主の方に置かれているからだ。妻は会いたくない、息子には会わせないといい、亭主とその姉は会わせろと迫る。このあたりも、突っ込み不足。別段事件が起こらない。結局、亭主は息子に会わずに死んでいくだけだ。
この辺りからシナリオが破綻をきたしていく。元気で船に乗り込んだはずの父が「病気で死にそうだ」と母親が息子に告げる。え? そんなこと言っちゃっていいのかよ! 会いに行きたいといわれたらどうすんだよ! で、次は「死んだ」である。おいおい。簡単に殺しちまうんだな。とにかくこれで、フランキーはもう手紙を出さなくても良くなったわけだ。と思っていたら、最後に船上の父にだした手紙が登場して、それを母が読む。すると、「実の父は病気で死んだようだ。友より」という内容になっている。え? フランキーはいつあの父親がレンタルものだと知ったんだ? 考えられるのは、レンタル父親がフランキーに「俺はニセモノ」といったということ。それ以外に、考えられない。でも、実の父親が死んだという情報は、どっから得たのだ? 新聞記事か? なんか、よく分からない結末で、すとんと落ちてこない。こういう終わり方では、いまひとつ泣いてやれない。どーせなら、レンタル亭主と母親とが再会してさらに惹かれ合う可能性でも示唆して終わってくれや。
思ったのは、イギリス人って、地味なんだなあということ。このテーマなら日本でも通じる。アメリカ人だったら、過去に縛られるより未来。そして、いつまでも子供に事実を隠したりせず、さっさと新しい恋愛に走るような話になるんじゃなかろうかね。
乱歩地獄11/12テアトル新宿監督/-脚本/-
江戸川乱歩原作のオムニバス。まあ、ロクなものはできていないだろうと思ったけれど、猟奇や耽美という、フツーに思い浮かびそうな乱歩のイメージを逆手に取った「蟲」が、映画としては面白かった。乱歩をコメディにしてしまうなんて、それはないだろう、だけれどね。
「火星の運河」監督/竹内スグル、脚本/竹内スグル
実験映画のよう。男女の絡みがチカチカ画面で映るのは、それなりに興味深い。見えそうで見えてる? の股間に注目・・・?
「鏡地獄」監督/実相寺昭雄。脚本/薩川昭夫
実相寺だからな。ダメだ。途中で寝てしまった。人間が動いていない。ドラマが映画として躍動していない。
「芋虫」監督/佐藤寿保、脚本/夢野史郎
ヒロインがセリフ棒読み。松田龍平も同じく棒読み。両手両足が切断された戦場帰りの男と妻。かつては多分に猟奇的で性的好奇心も湧く対象だったろう。けど、乙武洋匡の登場で、イメージは変わってしまったはず。手足が無くても字は書けるし、スプーンも使える。結婚だってできる。さらに、最新の医学では手に残る神経を義手につないで、思い通りに動かせたりする。こういう事実を知ってしまうと、芋虫だからといって、女房にいいようにいたぶられるなんてヘンだろ、と思えてくる。吉外を座敷牢に閉じ込めておく時代じゃないんだよな、もう。とくに、時代設定を現在に近くすればするほど不自然になる。だいいち、あの亭主はどの戦争に行ったんだ? そういう瑕疵があると、映画は説得力もなくなるし、興味も半減する。それにしても、松田龍平は一体どういう役回りなのだ? 大家とかいってたかな。よく分からん存在。なのに、最後には「二十面相」と呼ばれている。わけ分からん。
「蟲」監督/カネコアツシ、脚本/カネコアツシ
アレルギー体質の青年が女優に恋をして、誘拐して殺害して腐敗する物語。こんなストーリー、乱歩にあったっけ? 緒川たまきの下ぶくれ顔が強調されすぎで、いまひとつエロが足りないのだけれど、浅野忠信のアレルギー男の変態さ異常さがコメディとして表現される。「バカだ、こいつ」と指をさして笑える。ケバケバしい自室が、実は妄想だったっていうのも、うまく効いている。で、死体とずっと一緒にいるから、「お前、そんなことしてたら、腐敗臭で分かっちゃうだろ」と突っ込みを入れていたら、ちゃんとラスト解き明かしてくれて、しかも、大笑い。それにしても、生きている人間にはアレルギーを感じて、死体には感じないという、その辺りの原因というか性質というか、を、ちょっと説明してくれたらよかつたのにね。欲をいうと、アレルギーのかゆいかゆいをカメラのブレなどで表現せず、CGで表現したらもっと効果的だったんじゃないだろうか。それと、緒川たまきの死化粧などがリアルに実写されているのはいいのだけれど、死斑や腐敗の部分でCGを使ってリアルにできなかったのかな。ウジ虫が湧いて腐敗で膨らんで、ぷすぷすとガスが抜けて肉が崩れていって・・・とか。ううむ。それって、やりすぎ? 
パープル・バタフライ11/14新宿武蔵野館2監督/ロウ・イエ脚本/ロウ・イエ
なんだかさっぱり分からないよ。描かれていることも分かりにくいし、主張もわかりにくい。人物描写は平板で、書き割りのよう。ラストにとってつけたように、日本軍の行為を残虐と印象づける実写フィルムが流れるのも浮いている。そもそも題名のパープル・バタフライはどこにいってしまったの?
1930年前後の満州と上海が舞台。チャン・ツィイーと中村トオルのカップル。そして、電話交換手とその恋人のカップル。この2組のカップルが交錯して悲劇に陥るのだけれど、説明不足と描写の稚拙さでどっちがどっちで何が何やら混乱してしまう。そもそも中村トオルの職業は何だったのだ? なぜ日本に1人で帰ってしまったのだ? 上海の駅での銃撃戦は、いったい誰と誰がなぜ撃ち合ったのだ? こういうところがキッチリ分かりやすく描かれないと、ドラマに入り込めない。チャン・ツィイーがレジスタンスに入ったのは分かる。兄が日本人に刺殺されたからだ。では、彼女は日本人に対してどういう感情を抱いていたのだろう? 彼女が日本人とつき合っていることで、兄や周囲の人々から責めは受けなかったのか? 兄が殺されて、日本人に対する憎しみはもったろうが、では中村に対しても憎しみを抱くようになったのか? そういうところが描かれない。電話交換手を誤射したのはチャン・ツィイーだよなあ。では、交換手の彼氏は暗殺者(いっだいとっちの側の暗殺者なのだ? よく分からんぞ)と間違えられて、で、義務を遂行しようとしたのか? 見ていてもよく分からなかった。ラストはダンスホールでチャン・ツィイーが中村を刺し、そこに交換手の彼氏が入ってきて中村を撃ち、チャン・ツィイーも撃つ。そして、彼自身も撃ち殺される。で、彼は誰に撃たれたのだ? で、このシーンの後に、チャン・ツィイーとレジスタンスの仲間とのセックスシーンがあるのだが、あれは時制が過去に戻ったんだよな? だってチャン・ツィイーは死んだんだろ? で、2人はセックスの後、何しに行ったんだ? 分からないことだらけだ。
セリフがほとんどない。ほとんどないから、人物に厚みを加えるエピソードもほとんどない。次第に飽きてきて、1時間ぐらいたったところで10分ぐらい寝てしまったよ。いや、食後すぐだったので寝ると困ると思ってロビーでちょっとうつらうつらしておいたんだよ。それでも寝てしまった。やっぱり映画がつまらなかったんだと思う。もっと時代背景を具体的に描くべきだろうな。もちろな解説や説明ではなく、映画として描写するべきだろう。日本の満州国成立、中国進出を歴史の中でちゃんと描き、さらに個人の愛情を一方で描く。そうすれば、時代に翻弄された恋人たちがもっと際立ったことだろう。あんなんじゃ、日本と中国の歴史を知らない人には、ちんぷんかんぷんだろう。結局、表面だけをだらだら描いて、ドラマがないから薄っぺらになる。そういう映画の典型だと思う。
カメラはちゃんとピントを合わせろよ。ピン送りもできないようなへなちょこカメラマンじゃ使い物にならんだろ。
セックスと哲学11/24有楽町朝日ホール監督/モフセン・マフマルバフ脚本/---
上映前に「カザフスタンの映画だ」といっていたような気がするのだけれど、監督の名前を検索したらイラン人じゃないか。カザフスタンに招かれて撮影したのかな? よく分からん。で、結論をいえば、ひたすら退屈で眠かった。
最初の20分ぐらいは、まだいいのだ。運転席の前にロウソクを立てて運転する様子。誕生日だからと流しの音楽家を拾って後部座席に乗せる。アコーディオンが奏で始めたのは典型的なジプシー音楽。1人目の女がスチュワーデスで、ちょっとコミカルなところもあったりして。で、バレエの練習場に呼ばれてやってくる女が、え、1人じゃなくて4人もなの? で、どうなるんだ? というところまでは、よかった。その後に何の変化も工夫も意外性もなかった。1人目のいかにもアラブ顔の女のエピソードの途中で、後の3人も同じ様なパターンなんだろうな、と思っていたらその通り。あとは耐えるだけだった。
いまどき、男と女のあれこれを言葉で語ってもしょうがあるまい。男は1人の女では満足できないだのなんだの、アホかと思った。それだけカザフスタンの社会が解放されていないということなのかな。
最初の頃の、背景で踊られるバレエが素晴らしい。とくに、腕のくねくね動きがスムーズで、驚くね。4人出てくる女性では、3人目の医者役の女性が、なかなか可愛かった。2人目は不細工で、4人目はただのオバサンだった。で、4人を手玉に取ったのは、どこに魅力があるのかというようなオヤジで、がっくり。こういう映画が特別招待作品なのだから、まったく。
◆TOKYO FILMeX 2005/今年も平日3回券というのを買った。上映50分前ぐらい(午後1時25分)に入ったのだけれど、平日3回券はは、上映10分前から受け付けると書いてある。去年も同じことがあってクレームをつけたのだけれど、なーんも改まっていない。バンフレットに、そんなことはまったく書かれていない。それじゃあ、数時間前に受付を済まそうとやってきた人に対して、失礼になるだろうに。まったくアホである。まあ、面倒だからクレームはつけなかったけど。で、チケットを提示して、座席表から席を選ぶ。これは、去年クレームをつけたら改まったやり方だ。これは、よろしい。で、係の女性が「ピンクのラインの引いてある部分の席から選べ」という。そのピンクのラインのところどころが黒く塗りつぶされているので念のため「この黒い部分は何か?」と聞いたら、この女性は「ピンクのラインの引いてある部分の席から選べ」と繰り返す。「この黒いところは何か、と聞いてるんだよ」といったら、慌てて「席が埋まっているところです」と応えた。こやつ、人の話を聞いていない。アホである。
上映後の読者投票用紙の折り方が変わった。去年までは四隅のひとつを斜めに折ったが、今年は紙をヨコに折るようになった。さらに、アンケートもお願いします、と叫んでいる。けれど、上映終了と同時に「本映画祭は入れ替え制になっている」というアナウンスがあり、ロビーにゆっくりもしていられないのにアンケートなど書けるか。それでも、下の階のロビーの1部屋がフリーゾーンになっていたなあ、と思い出したのだけれど、行ってみたら閉まっていた。これじゃアンケートなんか書いていられるわけがない。◆途中から、斜め後ろに男が2人座った。こいつらが、ときどきしゃべる(日本語ではない)のだ。気になってしょうがない、なので「うるさい」と小声でいったら、静かになった。と思ったら、その片割れに携帯が鳴った。おい。で、呼び出し音はすぐ消したのだが、暫くしたら1人が外へ出て行った。やれやれなやつらだ。3列ほど前の男性が、何度か携帯の液晶をライトにしてなにやら確認している。こういうのも気になるのだ。近くなら行って文句つけてやるところになんだがね。
フリー・ゾーン11/25有楽町朝日ホール監督/アモス・ギタイ脚本/---
30分ぐらいしたら眠くなって、はっと気がついたら家を燃やしているようなところ。その後はちゃんと見た。30分ぐらい寝ちゃったのかな。いやあ、導入部はまずまずだったんだが、テキパキ分かりやすい描写がなくてだれてきたのかも。女がなぜ同乗してきたのか、その理由を描いていたのだろうシーンでつまずいた。現在のクルマの中のシーンと、女と男が話しているシーンがだぶって写される。これがイラついた。で、なんだかわからんままヨルダンに入っていき・・・。で、眠ってしまった。で、目覚めてからの部分では、メッセージ性の強い会話(たとえば、イスラエルがやってきて畑を追い出されたとかいろいろ)が交わされて、なんかつまらない。で、ラスト近くで最初に同乗してきた女が国境でクルマを降りて走り出すんだけど、なんで? 射殺されるのかと思ったらそういうわけでもない。ううむ。で、ラスト。運転してきた女と3人目の女が「金があるはずだだせ」「ないよそんなもの」と言い争いを延々とするのだけれど、バックにかかっているのが冒頭でかかった曲。オヤジが買った羊を猫が食べて、その猫を犬が殺して、その犬を男が棍棒で殺して、その棍棒を焼いて・・・とかいう連鎖の歌詞のやつ。あれと、ラストの2人の女のキリがなく果てしない言い争いが、この映画のメッセージ=アラブ紛争の歴史と現状と未来を表しているんだろうなあ。連鎖を断ち切ること。主張するのではなく、引くこと。そういうことを誰かが率先してすれば、諍いはなくなるのではないのか、と。
本来なら監督が来るはずが中止になったとかでQ&Aはなし。その代わり、上映前に監督のメッセージビデオが7分間。「1回や2回の上映でなく、長期の公開を希望する」なんてことを言っていたけど、こんな内容では客は入らないわなあ、きっと。
あひるを背負った少年11/25有楽町朝日ホール監督/イン・リャン(應亮)脚本/ペン・シャン
とてもレベルの低い映画。大学の映研並み。必要な部分=表現されなくてはならない部分が欠如していて、要らないものがだらだらと長すぎる。
産業団地ができることになって転居を求められた家族。だが、父親は都会にでたまま6年も戻ってこない。17歳の息子は、父親を捜しに出て行く。というだけの映画で、その背景やもろもろの動機や人物の感情、生き方などが中途半端。同じく人を探しにでかける「あの子を探して」の厚みのある内容と違って、こちらは表面的になぞっただけの薄っぺら。ドラマもないし、とても退屈。
なぜ少年は父親を捜さなければならなかったのか。そして、ラストに、どうして殺さなければならなかったのか。父親殺しはあまりにも唐突すぎて意味不明だ。まさかあんなもので、大人になる通過儀礼などとはいわないだろうな。それから、背景として大雨と洪水が間近にやってくる、という設定になっているのだけれど、そんな様子がほとんど感じられないのはオソマツ。「台風クラブ」の、あの不気味な感情の高まりには、まったく及ばず。
気になったのは、翻訳の精度。あるアパートへ父親を探しに行ったとき、住人の婆さんが「家には豚はいないよ」と日本語でいうのだけれど、英語スーパーではsheepになっている。中国ではsheepを豚というのか?
Q&Aは聞かずに出た。

 
 

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