男たちの大和/YAMATO | 1/5 | 上野東急2 | 監督/佐藤純彌 | 脚本/佐藤純彌 |
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話題の巨大セットは、ベニヤにしか見えない。金属と油の重厚感が全然出ていない。そのセットをなめ回すように何度も何度も惜しげもなく見せつくしてしまうところに、日本映画の貧乏性が見える。あんなもの、もったいないぐらいにチラっと見せるだけでいいんだよ。そのセットがまあまあ見られるようになるのは、後半の沈没前、激闘シーン。水をかぶったら質感がでてきた。これで壊す、というところになって本領を発揮したのかも。銃座で死んでいく戦闘シーンはなかなかだったけれど、ほんとうにあんな戦闘があったかどうかは疑問。大半は水雷と爆撃で、機銃掃射による犠牲者はそんなにいないんじゃないのかな。大和の犠牲者のほとんどは水死だというし。戦闘シーンが寄りばかりだったのも、いまいち。引きのショットがないのは、CG合成に金をかけることができなかったから? または、実物大の爆撃機を飛ばせなかった、からかな。大和全体の航行シーンも少なかったし、戦艦全体のつくりを見ようという向きには、肩すかし。え? ストーリー? うーむ。艦長だの司令官だの、誰が何だかよく分からないので、戦記物として中途半端。人情ドラマとしても、人物がロクに描けていない。「出撃は無謀だった」というテーマを鮮明にして物語を展開していった方がいいんじゃないのかな。なんか、あれこれ散漫な印象をぬぐえない。蒼井優の笑顔はいいのだけれど、ちょっとニキビ面だったのが残念。 それはそうと、原作の辺見じゅんって、製作・角川春樹の姉さんなわけで、一家で儲けを分け合おうということなのかいな。 | ||||
風の前奏曲 | 1/6 | 銀座テアトルシネマ | 監督/イッティスーントーン・ウィチャイラック | 脚本/イッティスーントーン・ウィチャイラック |
タイの伝統的な木琴・ラナート奏者の自伝をベースにした物語。平板な音楽映画じゃなかろうかと思っていたら、大違い。何度かあるラナート合戦は、劇画調でなかなかの迫力だ。田舎では敵なしの主人公ソーンが生涯のライバルとなる相手に鼻をへし折られるシーンでは、突然、風が荒れ狂ったりする。クライマックスで、このライバルを破るシーンも、なかなか壮絶。全体にゆっくりした流れの中で、効果的な見せ場となっている。 監督は、アメリカ映画の手法でも習ったんだろうか。静かにカメラを移動させながらの撮影など、ハリウッド映画がよく利用する手法を巧みに取り入れている。映像の丁寧な積み重ねと、定番の編集つなぎも堂に入ったもの。奇抜なことはせず、もちろんCGもなく(たぶん)、実に本格的に映画になっていた。いろんなエピソードがバランスよく配置されているのも、飽きさせない。おいおい、この映画にゃあ若い女は出てこないのか、と思い始めた頃に、すっ、とヒロインが登場する。しかも、彼女を見せるだけで、ほとんどストーリーには絡ませない。このストイックなところが、これまた効果的。 問題は、時制がちょい複雑なところ。現在(臨終シーン)、ちょっと前の現在に近い時代・壮年期(1930年代)、青年期(19世紀の終わり)、少年期とあって、少年期を除く3つの時代が交互に進行する。まあ、だいたいは分かるんだけど、時世が変わった、というサインぐらい入れてもよかったんじゃないだろうか。興味深いのは1930年代で、日本軍がビルマに進駐する、などという会話もあったりする。また、この映画のテーマのひとつである、当時の「古い文化を統制・排除する」という国家の姿勢への批判が鮮明に描かれていく。この辺りの描写は中途半端に情に流されたりせず(日本映画は、たいていがそうだ)、一貫して「古い文化を守るソーン」の姿が描かれていく。しかも、ソーンは新しい文化に対して柔軟で、西洋のピアノと接しても拒んだりせず、協調していこうとする。大幅な脚色はあるだろうけれど、テーマを明確に追求するためなら、創作は結構じゃないか、という気がする。 で。ラナートという楽器の奏でる音楽であるけれど、実をいうとその素晴らしさはオレには分からなかった。はっきりとしたメロディラインのある楽曲ではなく、メロディはどれも似通っていて、リズムが主体のようにも聞こえる。かといってリズムセクションだけというわけでもない。心に響いたかというと、そういうこともなかった。楽曲にもよるのかも知れないけどね。 ひとつ分からなかったところ。それは、1930年代のパートで、手首をケガして首をつる男が、誰なのか分からなかったこと。あの人は、青年期の誰かのなれの果て、なのか? | ||||
ALWAYS 三丁目の夕日 | 1/12 | 新宿武蔵野館1 | 監督/山崎貴 | 脚本/山崎貴 |
CGは立派、という話を聞いたか読んだかしていたので、まあ、その程度のことだろうと思っていたら、話もまずまず。落涙はないけれど、じわり、はあった。でも、最初の20分はゴテゴテしていて見せ物小屋のごとし。実を言うと、冒頭を見て「ダメだな、こりゃ」と思ったのだけれど、次第にゴテゴテ感がなくなって、自然になってきて、それからがよくなっていった。 ゴテゴテというのは主にCGで、街角にはこれでもかというほどの当時の広告や看板、幟などがどっさり。当時の衣装を着た人々も、かきあつめたように凝集している。この、わざとらしさが押しつけがましくて圧迫感を感じてしまった。集団就職で上京する中卒の生徒たちなど、はじゃぎすぎ。もっと不安で寡黙であるべきだろう。車窓の映像など「どうだ、自然に見えるだろう」という奢りが感じられる。上野駅や麻布あたりの街頭風景も、いかにもという作り込みで、明治時代のパノラマ館にでもいる見たいに思えた。こういう過剰なゴテゴテは、不要だと思う。当時の派手な広告看板などは1/3ぐらいに減らして、むしろ時代のついた空気感を出して欲しいと思った。で、そうした空気感が、映画が進むに連れて次第に感じられ始めてくる。それはつまり、セットやCGのお披露目が済んで、ドラマがやっと始まってからのことだ。これで観客は、落ち着いて画面に吸い付けられ始める。 存在しない指輪をはめるシーンは、よろしかった。医者が空襲で死んだ妻子を思うところは哀しかった。まだ戦争の影が色濃く残っていたのだよな。サンタクロースを信じる子供の期待に応えようとする親心も、そうそう、と思える。テレビに集まってくる近所の人々も、そうだったねえ、と思う。氷の冷蔵庫も、あったなあ、あんなの、と思う。嫌われ者の医者も、その通り。塀の隙間の狭いところをわざわざ通りたがる子供たちにも、そうそう、と思う。そういう「ああ、あったなあ」という事象が自然に描かれていく。この辺りは、なかなか鋭い。気の利いたセリフもいくつかあって、時代を偲ばせる。原作から、いいところを選り抜いたのだろう。 もっとも、つくりものすぎるところもあるけれどね。たとえば小雪が病気の父親のためにストリッパーになったり、どこかの社長が突然「父親だ」と名乗ってきたり。エピソードとして許容範囲なのかも知れないけれど、もう少しどうにかならなかったのかね。土管のある空き地はマンガそのものだけれどね。 地理的にどの辺りだろう? 広尾? 東麻布は近すぎ? 東京タワーはあんな平面には立っていないし、近くにあんな大通りもないよなあ。架空の街なのだろうか。上野駅をでた電車と併走できる場所もないし・・・。当時を再現しながら、そういういい加減さがあるというのも、ま、ご愛敬? | ||||
綴り字のシーズン | 1/13 | 新宿武蔵野館3 | 監督/スコット・マギー、デヴィッド・シーゲル | 脚本/スコット・マギー、デヴィッド・シーゲル |
西洋人ならではの宗教観、信仰、理想の家族といったところがモチーフになっているようだけれど、ビンとくるところがない。薄気味の悪い内容で、いったい何を言いたいのかもよく分からない。全体に断片的で、説明やメッセージも足りない。 父親(リチャード・ギア)はユダヤ教徒で大学教授で教えているのは宗教学で神秘主義(カバラ)が専門。母親は元カソリックでユダヤ教に改宗の生物学者。子供が2人で兄は高校生で、音楽に才能あり? 妹はスペリング・コンテストに没頭。理想的に見えるこの家庭が崩壊していく過程と、その再生が描かれる。しかし、なぜ崩壊するのか? に、説得力がない。再生にも説得力がない。 初めのうちは妹のスペリング・コンテストでの連戦連勝で行くのかと思っていた。が、どーも、そういう有頂天なドラマではないと分かってくるのだけれど、分かってくるにつれて、何が言いたいのか分からなくなっていく。 母親の崩壊は、軽い分裂病から来る窃盗。夫が日頃から言っている「バラパラなものを再生する」といった主張を地でいっているわけだ。けど、やっていることは他人の家に忍び込んでキラキラひかるものをいただいてきて隠れ家に飾り付けているだけ。巨大な万華鏡をつくっているわけだ。原因は彼女の両親の交通事故死、としているけれど、そんなものが直接の原因だったら、世の中は分裂症患者でいっぱいになってしまうに違いない。息子は可愛い娘に勧誘されて新興宗教に入り浸り。こちらも、原因は教育熱心な父親からの逃避、のように描いているけれど、そんなものが直接の原因だったら世の中は新興宗教でいっぱいになってしまう。 父親はいろいろ教えてくれるし食事もつくるし家族にはやさしいし、で、立派すぎる。けれど、それは別に悪いことではないだろう。それを息苦しいと思うのだったら、反発すればいいだけの話で、反発しないで内にこもるから窃盗や新興宗教に走るんじゃないのかい? といいたくなってしまう。しかも、妹がスペコンで全国大会に出場すると、兄の方も宗教は忘れたように知親と一緒に行動する。彼は、信仰の対象を求める心の旅を吹っ切ったのか? どーもそんな風には見えなかったがな。一方の妹は、スペコンの優勝が目前というところで“origami”という単語(こんなのが全国大会の問題なのかい?)のスペルを故意に間違える。おいおい。一体それはなぜなんだ。そうして、家庭が再生したように描かれるのはなぜなんだ!? うーむ、まったく分からない。いらいら。 それにしても、スペコンのドキュメンタリー映画が2年ぐらい前に話題になったけど、こんなのが流行ってるんだねえ。漢字書き取りの方がよっぽど難しいと思うけどなあ。新興宗教の勧誘も、あんな可愛い娘なら寄り切られちまうよなあ。っていうか、おまえら、そんな知的で豊かな暮らしをしていて、何の不満があるんだ。もっとたくましく生きろ、といいたい。話の枠組みは一貫しているんだけどね。バラバラな物を再生するというものだ。娘のスペリング・コンテストや妻の窃盗壁、ばらばらになっていく家族など、同じ様なフレームの組み合わせで話がつづられていく。それは分かる、けれど、それが表現につながってないんだよなあ。 | ||||
8月のクリスマス | 1/14 | ギンレイホール | 監督/長崎俊一 | 脚本/長崎俊一 |
ううむ。全体がだらりとして、たるい。内容がシンプルすぎ。何かひとつぐらい事件らしいことが起きるのかな、と思っていたら、何も起こらない。まあ、そういう、ゆっくりした時間を描きたかったのかも知れないけど。全体的に、説明が過少。まあ、説明しなくても通じるし、説明してくれる必要もないとはいえ、もう少し情報があると、話がカチリとはまって、胸に刺さったかも知れない。すべてが表面的なので、じわり、ともこなかった。まあ、お涙頂戴にしない、という方針なのかも知れないけど。主人公はなぜ街を出なかったのか? 病気を自覚したのはいつ頃からなのか? 臨時教師や妹や父親や、その他の人々の日常ももう少し描くと、話に厚みが出ただろう。あまりにも、さらりと流しすぎのような気がした。 ヘンだと思うところ。たまたま入った写真屋に、妙齢の娘が入り浸る、という設定自体がヘン。ご都合主義の極致だ。山崎まさよしが30未満という設定で、自分を“おじさん”といわれて平気なこと。臨時教師の関めぐみが、山崎を平気で“おじさん”と呼ぶところ。山崎の父親がDVDのリモコンが使えないという設定であること。仮にも写真屋だ。70過ぎていてもメカには興味あるだろう。戸田菜穂は何のために登場したんだ? 約束をすっぽかす臨時教師はロクでもない女だ! 山崎の葛藤を、さりげなくでいいから、もう少し描いてくれよ。井川比佐志の父親も、もう少し息子をいたわれよ。別に、露骨に描いてお涙頂戴にすればいい、といっているのではない。そういう気配を、もう少し滲ませろよ、ということだ。 それから。冒頭のシーンが「現在」で、臨時教師がやってくるところは「過去」かと思ってしまった。(つまり、死ぬのは女の方、と思ってしまった) 冒頭からのカットのつなぎは、いまいちなのではないのかな。さらに、どこが「8月」のクリスマス、なのだ? 意味わかんねえよ。ついでに、西田尚美と深津絵里の区別が未だにつかない私であった。 | ||||
スタンドアップ | 1/16 | 上野東急 | 監督/ニキ・カーロ | 脚本/マイケル・サイツマン |
実話に基づいているらしい。であれば、実際のジョージーがどの程度の美人なのか見てみたいものだと思った。最近は汚れ役に挑んでいるシャーリーズ・セロンだけれど、どうやったって美形だし可愛いし、そんな彼女を殴ったりするやつはいないだろう、とか、鉱山で働かなくても他に仕事が見つかるだろう、という先入観がまずできてしまう。それができなったということは、実際のジャージーはちょっと見かけがよくても頭がパーだったのかな? とか、性格が悪かったんだろう、とか、ほんとうにあばずれだったんじゃないのか? なんて疑ってしまう。だから、こういう映画に、美人はでないほうがいいと思った。 シャーリーズ・セロンに比べると、「エリン・ブロコビッチ」のジュリア・ロバーツはいかにも下品で頭が悪そうな、でも目のつけどころのいい(ずる賢い)田舎の女を演じていた。だからジュリア・ロバーツには共感できるところが多々あった。けれど、この映画のシャーリーズ・セロンには、あまり応援したくなるようなところがない。おまえだって落ち度はあるだろう、という見方ができてしまうのだ。なるほど、セクハラはあったのだろう。女性が鉱山に進出することに反対する動きもあったろう。けれど、一方的に女の立場で映画をつくれば、こういうことになるよなあ。じゃあ、男たちの視点で描いていったら、どうなるだろう、である。 実際のジョージーに近い女性を登場させて、男の視点も取り入れたら、きっと違った感じの映画になるに違いない。描かれるジョージーは立派な女性で、鉱山で働いている男たちはみなセックスと保身しか考えていないバカにしか描かれていない。あまりにも類型的だ。でもまあ映画だからな。仕方ないんだろう。 ジョージーが現在の亭主にもっとがんがん殴られるのかと思いきや、亭主は簡単に諦めてさっさと画面から消えてしまった。なんだよ。ちょっと物足りないぜ、である。ジョージーをいじめるのは、職場を奪われる男ども。彼女たちが働き始めたおかげで辞めざるを得なかった男の労働者はいたのだろうか? いたなら、そうした連中を搭乗させた方が、リアルになったんじゃないのかな。男の職場を奪うことになったことの葛藤などもあった方が、ドラマが濃くなるように思うんだけど。 前半の、ジョージーが、こういじめられました、こんなイジメがありましたの列挙は、正直いってつまらない、というか、しつこすぎ。むしろ、後半の方が人間ドラマが深まってきて、引き込まれる。とくに、クライマックスの法廷シーンは、弁護方法は嘘くさいのだけれど、ジョージーに賛同する人たちが立ち上がるところがとても感動的。でもまあ、そこまで引っ張るのが長すぎるきらいはあるんだけど。 で、思うに。男たちだって会社に安く使われていたんじゃないのかな。そういう搾取の構造が長くつづいて、たまたまそのはけ口が女性労働者だった、ってことはないのかな。もしそうなら、女は正義で男は悪、という図式ではなく、男たちは会社によってコントロールされていた可哀想な連中という扱いにして、最後は組合意識に目覚め、男女がともに会社と戦う、という流れにでもして欲しいくらいだ。 でもまあ、アメリカ映画らしい単純な二元論で、田舎の男は酒とセックスしか頭にないという分かりやすい構造を採用している。こういうところが、アメリカ映画の限界なのかも知れないがね。 脇役が充実していて、みんなそれぞれ印象的。辛い役回りとなるジョージーの父親やその妻、ジョージーの同級生の夫婦、弁護士、女性の鉱山労働者たちなど、ちゃんと描けていることは高く評価したい。もんだいは、それぞれが勝手な方向を向いて目立っていて、映画の向かう方向とは関係が薄いことだ。 | ||||
プルーフ・オブ・マイ・ライフ | 1/25 | テアトルダイヤ | 監督/ジョン・マッデン | 脚本/デヴィッド・オーバーン、レベッカ・ミラー |
アメリカという国は、天才が好きだね。しかも、吉外と紙一重というか、あちらの世界に入り込んだ人たちへの敬意を忘れない。日本なら「薄気味悪い」と座敷牢に放り込んでしまうような一件も、ちゃんと掘り起こして誇らしげにアピールする。何年か前の「ビューティフル・マインド」も、そうだった。しかも、精神病は遺伝する、といった見解も臆せず主張する。この辺りは、日本人の感覚では計り知れない。 精神を病んだ天才数学者と、その娘。娘には父親の才能が乗り移っていたけれど、彼女はあえてその才能を開花させない。それはきっと、自分があちらの世界に行ってしまうことを恐れたからに違いない。才能を隠していれば、こちら側で一生を終えることができる、と。しかし、娘は、父の介護をしている中で、天啓を得てしまう。しかし、それをも隠し通す。そうした狭間にいる若い女性の、では私は何のために生きているのだろう? という疑問と、その答えを見いだすための苦闘を描いた物語だ。 天才の話は、面白い。たとえば、「グッド・ウィル・ハンティング」の、隠れた天才が目覚め、巣立っていく姿は「ロッキー」の頭脳版のようで清々しい。けれど、彼らは「天才的」ではあっても、天才ではないのだよな。フツーの人間なんだよ。社会生活ができるのだから。社会生活もロクにできず、現実の縁から足を踏み外しかけている人々・・・。もちろん、吉外がすべて天才ではないけれど、常軌を逸した行為をしでかすのは、吉外をおいて他にない。そして、そういう彼らが科学や文明に貢献したと、一目置かれる社会がアメリカなのだと思う。 主人公の姉は、ビジネスウーマン。合理的でムダがない。主人公の知り合いは、数学者といっても才能はない。だから、現実的で、彼女の論文を発表することなどに意義があることを訴える。けれど、彼女(グィネス・パルトロウ)にとって、そんなことはどうでもいいことなのだ。そこに証明を必要とする仮設があるとしたら、それをなんとかして論理的に解を求める。それだけなのだよなあ、きっと。それが、自分の生きている証=プルーフなんだろう。その生き方に共感できるかというと、ちょっと難しい。でも、正気と狂気の狭間で自分を失うまいと苦闘している姿は、なぜか美しく見えてくるのだった。グィネスも、単にかわいい女とか高慢ちきなキャラではなく、荒んだ感じをよく出せていて、お見事。 | ||||
博士の愛した数式 | 1/25 | 上野東急2 | 監督/小泉堯史 | 脚本/小泉堯史 |
本日の数学者2弾目であるが、途中で寝てしまった。気がついたら寺尾聡がベッドに横たわっていた。30分ぐらい寝たのかなあ、こっちは。 記憶障害をモチーフにした話は、多い。「メメント」「NOVO/ノボ」「50回目のファーストキス」てなところが記憶にあって、だから、この映画で「僕の記憶は80分しかもたない」といわれても「あ、そ」としか思えない。しかも、圧倒的な広告展開で、テレビCMもうっとうしいぐらいオンエアされている。どこがどう既成の記憶障害映画と違うのか、少しは興味があった。もっとも、監督が旧体制の方なので、多くは期待していなかった。 原作は読んでいないのだが、その原作の骨格だけを表面的につなぎ合わせて、どこにもドラマのない映画を1本つくりあげた、という感じだな。たとえば、博士の記憶が80分しかもたない、という設定。この設定からは、ほとんど何も描かれていない。せいぜい「靴のサイズは?」と3度ほど聞くぐらい。たった1時間20分なのだから、1日に何度も忘れられ、記憶され、忘れられているはず。なのに、そういうトラブルの部分はあっさりと捨て去ってしまっている。たとえば寺尾博士が記憶障害を発症したのは、まだ現役の教授の頃。その記憶でストップしているとしたら、寺尾教授は昨夜(実は10年前?)の薪能の想い出を胸に、学校へと出かけなくては、と思うのではないのかな。それを家族や家政婦が引き留める・・・とかね。具体的な障害の影響というものが、描かれていない。それからまた、深津家政婦が数学雑誌へ投稿し、その結果がハガキで送られてきて、それを寺尾教授に見せる。寺尾教授に記憶が残っているはずはないのだから、「何だね、それは?」と反応すべきなのじゃないだろうか。家政婦が居着かないのは、そういったトラブルの連続のせいなんだと思うのだけれど、深津絵里はいつもにこやかで明るくて、トラブルなどないかのようにしか振る舞わない。しかも、寺尾教授は、ひょっとしたら昨日のことも2時間前のことも覚えているんじゃないのかな? というぐらい、いつも落ち着いていたりする。そういうすべてが違和感につながっていく。これは例えば、「50回目のファーストキス」ではドリュー・バリモアが周囲に迷惑をまき散らし、それでもなお周囲が温かく見守っていこうとしている状況とははるかにかけ離れている。この辺りが、圧倒的に弱い。というか、この映画のように現実をまともに受け止めず、上っ面だけの部分で、ほら、いいでしょ、哀しいでしょ、とやっているのが伝統的な日本映画なんだろう。そういう伝統を引きずったような監督ならではの、古臭くてつまらない映画だと思う。 それにしても、寺尾博士は記憶障害を発症してから、ずっと浅丘義姉と住んでいるというのが、妙な設定だよなあ。この2人は道ならぬ恋をしていたんだろ? だったら、浅丘ルリ子は義弟と一緒に住んで面倒を見ろよ、といいたい。いまどき義弟と関係をもったからって、長く反省している方が妙な感じがしてしまう。別棟に住んでいるからって、同じ敷地内に住んでいれば、他人がら見たら同居と同じだよなあ。 で、現在の吉岡秀隆数学教師が生徒に、いかにして自分は数学教師となりしか、を話すのだけれど。自分が私生児であることを生徒の前で言う教師がいるか? ヘンだよなあ。それから、いまの授業では、あんなふうに黒板に磁石でぺたぺた貼れるような、固有名詞などが書かれたパネルが用意されているのか? なんか、用意がよすぎて、妙な感じしかしなかった。という中で、あの授業のシーンが一番、この映画の中では面白かった。それは、数学の公式が美しいからかも知れない。もっとも、タイトルにもなっているオイラーの公式は、まったく理解できなかったけど。これは、原作を読まないと理解できないのかもね。 | ||||
イン・ハー・シューズ | 1/31 | ギンレイホール | 監督/カーティス・ハンソン | 脚本/スザンナ・グラント |
前半の不愉快さは生理的に受け付けられない。あんな妹(キャメロン・ディアス)がいたら、縁を切るね。絶対。後半、老人ホームに行ったキャメロンは心を入れ替えたような態度をとるけれど、なぜそうなったかの説明がないので、説得力がない。ただの勉強嫌いの男好きの嘘つきの泥棒娘に変わりはないはず。でも、まずいことにキャメロンはアホ面ではないので、大人しくなると「こいつ、悪い女じゃないかも」と思えてしまうから困ったもんだ。だれでもそうだろうけれど、まだ姉の方に共感できる。いや、姉だって相当のアホだけどね。 この映画のわけの分からないところは、とりあえず色んな要素を盛り込んでみました、ってなところがあるところだ。例えば姉妹の絆、という視点で見ても、かなり弱い。分裂症を患った母親が自殺した過去をもつ家庭の分裂物語、という視点で見ても、これも弱い。つまりまあ、1本のしっかりした芯が通っていないのだよな。とりあえずの盛り合わせ。姉妹、そして、祖母も交えて同じ靴を履き回すという、靴を視点にしても、だから何? としか言いようがない。登場する人物の典型的な変人ばかりで、どーも、なるほどという共感がもてなかった。 それにしても、またしても狂人(母親)のいる家庭が背景にある。祖母は薬で分裂病を抑えようとした。夫は精神病院に入れようとした。で、そのせいで母親は自殺したと、姉妹は悲しむ。そして、祖母や夫も自分のしたことを悔いる。ううむ。悔いる必要があるのだろうか? なんだか昨今のアメリカは、狂人を尊重する、または、社会から疎外しないことをよしとする風潮にあるみたい。その背景には、何があるんだろう? 姉妹が“ファッジ”を食べたとか何とかいう字幕があった。食べ物らしいけれど、“ファッジ”じゃ分からんだろ。そんな言葉は一般用になっていねえぞ。それから、学校へ弁当を持って行ったら、中味は“ティアラ”が入っていた、というセリフもあった。母親がサンドイッチの代わりに入れたという。この“ティアラ”も、ジジイには分かりにくいぞ。まあ、かろうじて俺は分かったけど、分からんオヤジは一杯いるはずだぞ。 ★2chを読んでいたら、キャメロンは障害者として描かれている、というようなことが書いてあった。文字を読むことが困難な疾患で、それは母親の狂気の遺伝ではないか、と。では、虚言癖や盗癖、男遊びも遺伝的な精神疾患? ううむ。そういう見方もできないことはないけれど、積極的に採用すべきかどうかは迷う。だいいち、難読症なんて初めて聞く。近頃は、性癖や知能程度、社会適応の可否にも、○○症などと名前をつけるような傾向がある。昔なら、ただの“バカあほマヌケ”で済んだのに、そうしない。そうしたい、という気持ちも分からないではない。本人が悪いのではない、そういう障害なのだから、温かく見守ってやらなくては・・・というのが、社会のトレンドであるのも分かるが、ほんとうに、そんなに細かく分けられるほど○○症というのが存在するのかどうか、それもはっきりしていないように思うのだけれどね。 | ||||
ふたりの5つの分かれ路 | 1/31 | ギンレイホール | 監督/フランソワ・オゾン | 脚本/フランソワ・オゾン、エマニュエル・ベルンエイム |
フランソワ・オゾンって「8人の女たち」の監督だろ。それが、こんなクソみたいな映画を撮るのかよ。で、調べたら「スイミング・プール」もそうらしい。それに比べたら、へなちょこ映画だよなあ。離婚シーンから始まって、結婚、出会いへと遡っていく。手法は「アレックス」なんかと同じだから珍しくもない。で、遡っていって、何か分かるわけでもない。結果には原因がある? だから何なんだ。おい、責任者をだせ! といいたくなる。 唯一興味深かったのは、主演女優のスタイル。最初に離婚調停のシーンがあって、調停が済んだ後に2人で安宿に行って最後の1発をするんだけれど、いまさらなぜ1発するのか理解不能。フランス人は、記念の1発が好きなんだろうか。いや、それはさておき、ここでのヌードは腹の肉がたれている醜いものだった。なのに、時間を遡って結婚時や出会いのセミヌードでは、腹もぴしっと締まっているんだよ。これが、なんとも、マジックみたいに見えた。 それと、やたらと流れる超有名曲。っても、題名も知らないけれど、世界的にヒットしたような曲が必ず流れるのだけれど、意味があるのかな? なんか、日本の歌謡曲みたいな扱いなのかな? 違うのかな? よく分からん。 3つめの、出産のエピソードの終わり頃に眠くなって、少しうとうと。気がついたら結婚式だった。5分ぐらい寝たのかも。ヒロインがもの凄い馬面で、美しい女を見ることなく終わったのも、もの凄く物足りない。 |