2006年3月

ジャーヘッド3/1新宿プラザ監督/サム・メンデス脚本/ウィリアム・ブロイルズJr
最初の30分ぐらいは陽気な「フルメタル・ジャケット」みたいで、軽快な音楽とともに入隊、訓練、派兵とテンポがいい。うーむ。面白いかも。と思っていたら、イラクに行ってから何も事件が起こらない。キャンプでは暇をもてあまし、たまに訓練するだけ。敵の影も見ることがない(味方には誤射されるけど)。で、やっと出動、と思ったら、砂漠に置き去りにされた黒こげ死体を見ただけ。で、ついに狙撃兵としての任務を命じられるが、撃つ直前に中止命令。やれやれと引き返すと、「戦争は終わった」と言われる。半年もイラクにいて戦争は4日ぐらいしか体験せず、敵に向かって一発も撃つことがなく帰ってくる・・・。うーむ。昨今のイラクの状況なんか、こんなものかもね。戦闘で死ぬ兵士もいるだろうけれど、大半の兵士はこんなふうに戦争を体験してくるのかも。っていうことを、さほど飽きさせずに描いている。ほとんど事件もなく、ドラマもなく、中盤からは陽気さや明るさもなくなって気怠い雰囲気につつまれるのだけれど、これも戦争映画なのだなと思わせる。
映像のセンスがいいよな。入隊だ訓練だ派兵だ、ってなところでは音楽も軽い。「地獄の黙示録」で興奮する兵士なんかも、そーなんだろうな、と思ったりする。普通の社会生活から隔離されて、精神状態が極限までくると、あーなっちまうのだろう。そうやって戦地に赴く覚悟が形成されていくのだろう。で、中東に着くと画面が露出オーバー気味。任地の乾いた感じが、よーくだそうという効果だ。それから、だらだら過ごしていく時間は、音楽も気怠くなっていく。そうやって、映像や音楽で、状況を的確に描いていく。見ている方も気が重くなるけれど、それはもう、監督の思うつぼにはまっているということなのだろうな。
終わって、役名と芸名が顔とともにでてくる。けど、半分ぐらいがわからない。まあ、群像劇だとこうなっちゃうのだろうけれど、何人かの深く記憶された兵士と比べて、扱いに差があったような気がする。
県庁の星3/1新宿アカデミー監督/西谷弘脚本/佐藤信介
ネタはいいけど調理する人が下手だとつまらなくなってしまう、という見本のような映画だ。
テンポがゆるい。編集がたるくて、タイミングというかきっかけというか、そういうのが間延びしている。こういうのはセンスだと思うのだけれど、フィルムをつなぐ感性を持ち合わせていないような人がつないだような、ヘンな感じがした。素人みたい。もちろんホンもひどい。もうちょっとテーマに沿った芝居をつなぐような流れにしてくれい! と、いいたい。だってこの映画は、がちがちの官僚頭人間が民間企業に派遣されて自分の間違いまたは認識不足に気づき、県庁に帰ってから公務員本来の業務に邁進しようとする、という話だろ? 本来。でも、そうはなっていないんだよ。織田裕二がスーパーの改善に着手するのは、自分の提出したプランが県の他の職員に奪われたからであって、官僚の間違いに気づいたわけではない。しかも、織田が民間スーパーに導入するのは、織田が県庁で発揮していた官僚ノウハウ(マニュアルとか整理整頓とか)だったりする。それじゃ話が面白くならないだろう。織田が彼女(建設会社の娘)と別れることになった理由も判然としないし、織田が帰庁後、福祉に進むように決断した理由も分からない。とにかく、あらゆるところで、人物が何かに気づいたり成長していったりする場面が描かれていかない。結論だけをぶっきらぼうにつないでいくだけ。これでは、観客は誰にも感情移入できない。
最後、議会で織田が演説するけれど、あんなことが出来るはずがない。さっさと口封じされてしまうだろう。織田が口にするのは、誰もが知っている一般論で、そんなことは県庁職員や議員も先刻承知のこと。それを指摘したからって、怖じ気づく連中はいやしないよ。
採算を考えずに行動する官僚のアホさ加減に気がつかされるとか、スーパーの業務が官僚のつくった条例によって縛られている矛盾に切歯扼腕するとか、なんか、気の利いたエピソードででもはさめよ。そして、現場ではマニュアル通りに事が運ばないとか、定型文書じゃ役に立たないとか、もっと見ている側が「そうそう」というような話にしてくれよ。それでもって尺も30分ほどつまんで、90分ぐらいにするべきだろう。つまらないうえに長くては、目も当てられない。
灯台守の恋3/6ギンレイシネマ監督/フィリップ・リオレ脚本/フィリップ・リオレ、エマニュエル・クールコル、クリスチャン・シニジェ
不倫の話だ。小説の翻案みたいで、全体に何となく古風な雰囲気。でも、その、時間がゆっくり過ぎていく寛司がろしい。
とくに突っ込みどころはない。まあ、せいぜい、人物関係をもう少し分かりやすく描いてくれや、ってなところかな。最初に登場した叔母は、過去の物語ではどの人なのだ? それから、カフェの娘がイヴォンに挨拶のキスをするのは何故なんだ? 親戚か何かなのか? 昔の秘め事を小説にして出版する、っていう男の心理、これは、どうかと思うがな。その程度かな。
缶詰工場ぐらいしか産業のない島。沖合にそびえる灯台守の仕事は、島民にとっては憧れであり、かつまた既得権でもある、っていう設定がいいね。日本でもこういうの、ありそうだ。そこに、アルジェの戦いで負傷し、優先的に仕事を与えられた青年がやってきて、灯台守の助手になる。で、寄寓した家の奥さんと情を交わす・・・。とくにどうってことのない話だけれど、さらりと触れられる部分に、奥行きがある。たとえば、動かなくなった時計、壊れたアコーディオン、子供の出来ない夫婦。アルジェの負け戦。左手の負傷の理由・・・。そういう、いろいろな状況が、不倫へと追いやったようにも見えてくる。まあ、不倫は不倫で、素晴らしい不倫も清純な不倫も在りはしないのだけれどね。
元時計職人の灯台守に、人妻がどういう感情を抱いたのか、それは語られない。たんに、抑えられない欲情だったのかも知れない。灯台守も、現場を缶詰工場の社長に見られ、早々に島を立ち去ってしまう。ヤリ逃げに近い。現実はそんなものだ。けれど、それを、40年も深く秘めてきた母親、そして、実の父親がいたというドラマに仕立て上げてしまった。ううむ。なかなかではないか、と思う。
フランス映画によくある、一体何の意味があるんだこのシーンは? というようなところもなく、脚本は完成度が高い。
それにしても、ついこのあいだまで、あんな灯台が実際あったのだね。驚き。しかも、灯台の中に住んでしまうというのもスゴイ。
シリアナ3/8上野東急2監督/スティーブン・ギャガン脚本/スティーブン・ギャガン
うーむ。このストーリーが一発で分かる人は、世の中に何人いるのだろう? 俺は分からなかった。ジョージ・クルーニーはCIAで、でもって何でベイルートへ送り込まれて爪を剥がれたの? でもってCIAに犯人に仕立てられてアラブに舞い戻り、で、王子の兄に何を伝えたかったのか? たんに「狙われているぞ」だけ? マット・デイモンは投資会社? で、どーゆー関係があるのか、最後までよく分からない。アラブ富豪の資金を、自分の会社を通じて投資して欲しかっただけ? あのメガネの黒人は弁護士? 会計士? で、合併の何を調査してアドバイスしようとしていたんだ? で、最後は自分の上司を生け贄にしたのか? わけが分からない。当然のことながら、どこで驚いてよいのかも分からなかった。呆然とスクリーンを見つめるだけ。ううむ。辛い。
CIA上司、CIA工作員、投資会社社員(?)、会計士(弁護士?)、アラブ国王、その兄王子、弟王子、石油会社、テロリスト養成所・・・。複数のシチュエーションで物語が進行し、次第に絡み合ってくるらしいのだけれど、どこでどう絡んでいるのか、さっぱり見当がつかない。そもそも、石油会社の合併っていう前提で物語が進行するのだけれど、確固たる悪人が誰なのか、それがよく分からない。で、何が問題で、その問題に誰がどう絡んで、で、何が起こり、起ころうとしているのか、把握したくてもついていけない。ダニー・Dとか固有名詞が出てくるけれど、そんなもの覚えていられないし、誰がどっちの石油会社の人物で、それぞれの思惑がどこにどうあるのかも、分かりづらい。もっと、バカな日本人にも分かるようなセリフにしてくれよ。・・・って、ひょっとして、字幕が端折りすぎて、それで分からないって可能性も十分ありそう。いやでも、日本人が世界の石油事情にうとくて、争奪戦にも無関心だということも関係あるんだろうな。アラブ人とイスラム教はヤバイ、ってな印象は受けたけど、あれは意図的な描写なんだろうか?
ホテル・ルワンダ3/9新宿武蔵野館2監督/テリー・ジョージ脚本/テリー・ジョージ、ケア・ピアソン
映画のデキは、たいしたことはない。テレフィーチャーに毛の生えた程度。しかし、それを問題にしないもの凄い事実が描かれていることで、この映画は成り立っているはず。・・・なのだけれど、同情したり涙したりなんとかせねばと思ったかといえば、ならなかった。悪いが、勝手にやってくれ、としか思えないところがある。
ルワンダ国内で起きた、ツチ族によるフツ族の大量虐殺。そこで、多くの住民を助けたホテルマンの話だ。歴史は知らない。ツチ族が被害者で、フツ族が加害者のように描かれているけれど、多分そんな単純じゃないだろう。これまで互いに攻守入れ替わり、いろいろあったはず。と考えると、逃げまどうツチ族が可哀想、とも思えなくなってくる。100万人クラスの大量虐殺も、たまたまフツ族が加害者になったけれど、これが逆転していてもおかしくないと思う。そんなに相手が憎いなら、勝手にやってくれ、である。
もともとベルギー人の介入が原因のようなことを言っていた。それはそうだろう。アフリカを植民地にしたのはヨーロッパ人だ。彼らの思惑で翻弄されたことは想像に難くない。しかしだ、独立国家になったいまになっても積年の恨みで殺し合ってるって、それって民度が低すぎるだろ。アンゴラにもアミンなんていうのがいたけれど、アフリカの部族抗争は積年の恨み+私利私欲+蔑視+欲求不満が合体したような感じで、どこも同じように見えてきてしょうがない。ラストの歌にも、「なぜアメリカ合衆国のようになれないの、イギリス王国のようになれないの」と歌われてたけれど、ああいうヒートアップはアフリカ人特有なのだろうか。そういえばボスニア周辺にも、こういうアホがいっぱいいるなあ、なんて思いながら見ていた。では、子供は可哀想か? 子供たちも大人たちから刷り込まれ、10歳を過ぎた頃から暴力に励むようになるのだよ。間違いない。あんな様子を見ていると、西側先進国が管理した方がましじゃないのか、と思ってしまう。
むしろ、この映画はホテルマンのあるべき姿を描いたもの、と解釈した方がいいと思うのだが、どうだろう。伝統を守り、他者からの干渉を拒否し、お客様第一。ホテルのイメージアップのために、出来る限りのことをする。政治的にも宗教的にも偏らない。目的遂行のためにはワイロも活用する。いろんなところに保険もかけておく。それが、理想的なホテルマンの姿である、というようにね。
ルワンダの内戦って、ほとんど知らなかった。もっと新聞を丁寧に読まなくちゃいけないねえ。それにしても、国連軍というのは、なにもできないのね。
フライトプラン3/10上野東急監督/ロベルト・シュヴェンケ脚本/ピーター・A・ダウリング AND ビリー・レイ
前半のいい加減さにガックリ。後半、真相が分かってまたガックリ。見どころは、脚本家どんな意外な結末をもってくるた、だったのに。手垢のついたつまらないラストだった。やれやれ。
登場した機内で6歳の娘が消えた! 母親(老けたな、ジョディ・フォスター)は機内を探し出そうとするが、乗務員に止められる。さらに、覆面搭乗していた保安係に逮捕されてしまう。・・・で、この流れで、母親の主張は妄想なのではないか、というような描写になっている。で、嫌な気分になった。最近よくある、主人公は吉外で、すべては妄想だったという展開かい?。でも、それで収束するには時間がまだ早すぎる。それに、演出がいかにも「妄想ですよ〜」というようなもって行き方をしている。この結末はないな、とすぐ分かる。さらに、いかにも、というアラブ人を登場させた。これも、ないなと、すぐ分かる。ということは、母親が言うように乗務員がグルなのか? では一体? で、なんと保安係なのだった。おいおい。一番怪しいのは、最も信頼できそうな人、という定番中の定番ではないか。つまんねー。これで、ガックリして、あとは漫然と見るしかなくなった。
飛行機を爆破する、と脅して金を奪い取るために、わざわざジョディ亭主を殺して飛行機で 運ばせる、その理由は、棺がX線浴びないので、爆弾を機内に持ち込めるから。という単純な理由だけれど、そこまでして爆弾を持ち込むか? 納得がいかんなあ。それに、スチュワーデスが6歳の娘に気がつかなかった、つていうのも無理がありすぎる。後半になって、そういうアラが目立ってきて、俄然つまらなくなった。おまけに、ラストへとつづく犯人との攻防も、100年前のようなつまらなさ。ううう。
ポビーとディンガン3/12ギンレイホール監督/ピーター・カッタネオ脚本/ピーター・カッタネオ
女が好きそうな映画だ。「夢のある話よね〜」なんて喜んで見ているのかも知れない。しかし、考えても見ろ。9歳にもなるというのに妄想を見つづけ、学校では友達のいない娘がいたら、困るだろ。考えても見ろ。あんたの亭主が山師で、オパール発見の夢を追いつづけて毎日穴を掘っているとしたら、困るだろ。その亭主が他人の採掘場に入り込んで裁判沙汰になってしまうんだぞ。そのお陰で一家は街の鼻つまみ。スーパーのパートも首になっちゃうんだぞ。そのうえ、妄想癖の娘は奇病にかかって入院しちゃうんだぞ。おまけに息子は、妹の友達(幻想の)の捜索願いポスターを貼りまくったり、葬式をすると言いだすんだぞ。フツーに考えて、この家族はまともじゃないだろ。それでも、へらへら「夢のある話よね」なんて、いってられるか? こんなのが近所にいたら、夢どころではなく「あの家族はアブナイわよ」って噂して、警察に監視を依頼したりするんじゃないか? 自分の家庭だったら、って想像してみろよ。絶望的だぞ。
というのが、とりあえずの感想なのだけれど、「夢を見る」ということを好意的に解釈すれば、未来に向かっているってことだから、悪いことじゃない。人は誰でも、子供の頃はとてつもない夢や幻想の世界にいる。けれど、成長するに連れ現実を受け入れざるを得ず、夢はすこしずつ削り取られていく。その夢を持ちつづけている家族、それは素晴らしいことじゃないか? ということをいいたいのだろう。けれど、やっぱり、この映画じゃムリがある。オパール掘りの山師っていうのが、夢というより一発屋とか博打的人生というふうに見えてしまう。そんな父親に影響された、成長の遅れた可哀想な娘という具合にしか見えない。
採掘抗で息子が発見したオパール。まあ、あれは、映画を転がしていくためのギミックとして許してやってもいい。がしかし、父親や母親は、葬式代がどこからでたのか、疑問に思ったり息子に尋ねたりしなかったのだろうか。あとそれから、母親が昔つき合っていた男の写真を娘に見せるシーンがあるけれど、ああいうのはありなのか? 娘にそんなもの見せるか? ううむ、だなあ。
ナルニア国物語 第1章:ライオンと魔女3/15池袋東急監督/アンドリュー・アダムソン脚本/アン・ピーコック、アンドリュー・アダムソン、クリストファー・マルクス、スティーヴン・マクフィーリー
「ロード・オブ・ザ・リング」と同工異曲のようだけれど、こちらの方が波瀾万丈に富んでいなかった。あっちがエンタテインメントっぽいとしたら、こっちは純正お伽噺ってな感じ。奇を衒わず、ゆるやかなテンポで、真っ正面から勝負、ってな感じに思えた。端的にいって、こちらはあまりガチャガチャしていない。登場人物も少ない。だから、話でこんがらがることもない。では、つまらないかというと、そうでもなかった。とくに、最初の1時間ぐらいはとても面白かった。第二次大戦中、田舎の豪邸に疎開に行った4人の兄姉弟妹。あまりの退屈さに家の中でかくれんぼをし、妹が洋服ダンスの奥に潜り込んだら…。するっとナルニア国へ、って流れはとてもスリリングでファンタジー。異界への出入り口が、かくれんぼの隠れ場所であることも、民族学的に理にかなっている。で、妹が足に蹄のあるタムナスさんと出会い、一方、弟が雪の女王=白い魔女と出逢って他の兄姉妹を裏切ることになる…てな辺りまでは楽しめた。さて、このワガママな弟はどうなるんだ? 慎重すぎてブレーキ役の姉はどうなるんだ? 怖いもの知らずの妹は、背伸びしようとしている兄は? と、ね。人間ドラマもあって、しかも、4人のキャラクターがよく描かれているので、ゆったりしたテンポも気にならない。ところが。雪が解けて女王が本心を露わにし、さらにライオンのアスランが登場したあたりから、少し退屈になってきた。なんというか、CGが多用され、よくある類の戦いになって…ていうのは、つまらない。別に、仮装行列みたいだからつまらない、というのではない。また、この映画がディズニーで首が飛んだり血が出たりしないからつまらない、といっていうのでもない。見る側が頭を使う必要がなくなった途端、つまらなくなった、ということだ。だって、考えなくてもいいような映画なんて、面白くないじゃん。
おおむね話の流れは悪くはないと思うのだけれど、やっぱり登場人物が少なすぎて、全体にすき間がありすぎのような気がする。サブキャラで効果的なのは、なかったのかな、いろいろと。それと、ナルニア国はなぜ白い悪魔の支配下になってしまっていたのか、というのが分からなかった。さらに、いざ戦いということになると、ナルニア軍には人間の恰好をした連中がたくさんいて、おい、おまえら、今までどこにいたんだ! と訊きたくなってしまったぞ。冒頭の話の流れがスムースだったのに比べて、ナルニアの国の様子というのが、なんか、手抜きのような気がしてならない。ああ、それから、疎開先はどういうツテだったんだろう? というのも、書き込んで欲しかったところだ。ついでにいえば、脇役に1人ぐらい豪華スターを埋め込んで欲しかった。白い魔女をケイト・ブランシェットが演じるとか、ね。
ラスト。戦いが終わって4人が王位につくシーンは、ああ、ファンタジーだなあと再確認。「スターウォーズ」そっくりで、つまりは、「スターウォーズ」が、古典的なファンタジーに元を取ったということなのだろうけど。
力道山3/17銀座テアトルシネマ監督/ソン・ヘソン脚本/ソン・ヘソン
全体に抑えた演出。渋いとも言えるが、派手さがないので面白みに欠ける。内容も、どちらかというと隔靴掻痒。で、何がいいたいの? と、問いたい気がする。ルーツとしての朝鮮人、というわけでもなさそう。恋物語、というにはLoveがない。プロレス映画? うーむ。主演俳優は自ら体当たりでリングに上がっていたけれど、華がない。いずれにしても、中途半端だと思う。なんだか、藤竜也だけが異様に目立って、しかも、カッコイイ。さらに、中谷美紀も、はかなげで印象的。ひとり力道山の気持ちだけが、よく分からない。あ、あと、萩原聖人も、よく分からないキャラだった。
中井美紀が終生連れ添ったように描かれているけれど、これはウソだよなあ。子供もいたし、再婚もしているはず。このあたりは、美化か。まあいい。相撲時代にいじめられるシーンはあったけれど、朝鮮人でなくても多少はしごかれるだろうし。それにしても、朝鮮人差別が思いの外、あっさりとしか描かれていないことに驚いた。もしかしたら、韓国内だけでなく日本国内での公開を意識してのことだったのだろうか。
では、立身出世ストーリーかというと、これもまた違う。力士としての快進撃やプロレス快進撃の様子が、あまり描かれない。この辺りは、もっと景気よく描いてもらわないと、スカッとしないと思うのだが。いまひとつ盛り上がりに欠けるよな。ブラッシーやブラジルとの戦いも入れ込んで欲しかった。
プロレスラー力道山を描こうとすれば、きっと朝鮮人であることという背景はかすんでしまうのかも知れない。プロレスラーとしての朝鮮人・力道山を描くには、エピソードが少なすぎるのかも知れない。思いがけなく日本人扱いされ、しかもヒーローとなり、日本人以上に日本人を演じなくてはならなくなった力道山の苦悩を(もし、そういうことがあったのなら)、見せて欲しかったところだ。それに、マスコミは日本人ではないということを知っていたろうし、そういうところにもドラマが作れたのではないだろうか。
力道山個人に迫りきることもできず、かといって、時代が生み出したヒーローという切り方もできなかった。その中途半端さが、いらいらさせてくれる。せいぜい見えるのは、力士としてもプロレスラーとしても、ヤクザのバックボーンがあっての成功ということで、そういう見方をすれば、やっぱり藤竜也が粋な人物に見えてきてしまう。
カメラが静かに動きながら、対象を捉えていく。まるでこれは、ハリウッドがよく使うカメラテクニック。どっしり構えたカメラ、被写体との距離感。過剰な演技の抑制。こういうのは日本映画とはかけはなれていて、渋い。料亭での様子やヤクザの会合なんか、日本人なら描かないような距離感・空気感がでている画面だ。こういうのが、とっても不思議な感じがした。だって、ほとんど日本語で日本を舞台に撮影していながら、画面が日本ではないのだから。やっぱり外国映画なのだなあと感じされる絵だった。がしかし、思いっきりピンが甘かったりするのが首をひねってしまうところ。ちゃんとカリッとした絵に仕上げてくれよ。それから、セットが凄い。街頭はもちろん、キャバレーの内部やバンド、司会の様子。リングの上の方に見える三菱電機など゜の企業名や街頭の広告。家の造作やなにやかや、ディテールの凝りまくっている。あれだけのことは、日本映画ではできまい。
致命的なのが、力道山の日本語が下手なこと。あれでは、日本人と間違えることはあり得ない。力道山が日本人になり得たのも、日本人と区別がつかないほど日本語ができたからだ。何歳頃にどういう経緯で日本に入ってきたのか、そこが描かれていないのも隔靴掻痒。結局のところ、いろいろなところで、なるほどとストンと了解できる内容になっていない、と思う。
ブロークバック・マウンテン3/20新宿武蔵野館1監督/アン・リー脚本/ダイアナ・オサナ
本年度アカデミー「監督賞」だ。内容についてまったく知らず、ポスターのイメージから、カウボーイの住んでいる南部(現代)で繰り広げられる、男同士の友情の物語かと思っていた。ところが、何と。テントの中でジェイク・ギレンホールがヒース・レジャーの手を握る。ヒースは突如ズボンをずりさげる。ギレンホールの尻ホールに突っ込む・・・。ううむ。オカマの友情クロニクルだったのか、と思いつつクスクス笑ってしまった。数年後の再会シーンでキスしているところを、ヒースの奥さんに目撃されるところでも、笑っちまった。笑っていたら、隣の男がこっちを振り向くんだよ。あいつ、オカマではなかったのかなあ。
時代は1960年代半ば。まだ同性愛が社会的に認知されず、罪悪視されていた頃の話だ。こういう話を持ってくれば、テーマとしては賞がとりやすいよなあ、きっと。映画のデキ以前に、テーマで評価された、評価せざるを得なかった、ってなところがあったのではないかと思う。
互いに惹かれ合いながら、結局、一緒に生活することもママならず、心ならずも他の女性と結婚し、年に2回ほどの逢瀬を重ねつつ、歳をとっていく・・・。って、これが男女間の話なら辛く哀しい恋物語として共感できる、のだろう。きっと。女同士の関係でも、美しいドラマのように感じることができたかも知れない。けど、とくに可愛い顔をしているわけでもない教育水準の低い羊飼いの牧童同士の関係となると、どーでもいいや、って思ってしまう。切々たる思いのようなものは描かれているのかも知れないけれど、悪いが、つたわってこない。まあ、感じられない俺が悪いのかも知れないが、とくに感じたいとも思わないので、どーでもいい話だ。
思うに、ギレンホールの方は相手を探していたのだろう。で、いくらか話していくうち、こいつは脈があるとヒースに手を出した。ヒースはホモではないけれど、なぜか思わずギレンホールの尻に突っ込んでしまった。それが意外と快感で、忘れられなくなっちゃった・・・と。そういうことかな。
アンセル・アダムスの写真のような、雄大なアメリカの自然が美しく撮影されていた。でも、それはそれ。テーマに共感できないノン気の俺にとって、そういうシーンは主題の部分と切り離してしか見ることができない。まあ、こういう映画がいま、賞を獲るのだな、ということが分かっただけだ。
最後の方、2人が別れるシーンで、妙なつなぎがあった。ヒース・レジャーの手が黒くなっていて、まるでエイズのよう。しかも「帰る」といってクルマに乗ったはずが、馬に乗っている。と思ったら、クルマが走り去っていった。あの一連の流れ、つなぎは、何を意味しているのだろう? 心象風景? 過去の想い出? 咄嗟のことで意味がつかめなかった。現実の流れと同じ様な画調で、とくに処理されていないので分かりづらい。
ギレンホールの妻になる女の顔が、強烈にくどい。あとから、「プリティ・プリンセス」の彼女だと知った。それから、ヒースの後の恋人になるウェイトレスは、どっかで見たことがあるなあと思っていたら、「ER」に出ている子連れの看護婦だった。
最悪なのが字幕で、明朝体の活字なのだ。よみづらいったらありゃしない。やっぱ、字幕は手書きがいいなあ。
イーオン・フラックス3/23109シネマズ木場・シアター6監督/カリン・クサマ脚本/フィル・ヘイ、マット・マンフレディ
30年前のレベルのSF映画だった。どこにも新しいところがない。ううむ。見どころはシャーリーズ・セロンのみ、と覚悟していたからいいようなものの、中味は完全B級だ。なんでセロンがこんな映画に出たのか、意味不明。アカデミー女優がこの類に出るのは、ハル・ベリーの「キャットウーマン」が直近だよね、あの影響? 美貌とスタイルがいいうちに、アクションものもやってみたかった、ってことなのかな。
妙な日本趣味は、監督が日系だからってこと? それにしても、奇妙きてれつ。未来の人々がキモノみたいな服装をしている設定って、他にもあったような気がする。だからか、とても古臭く感じてしまう。
物語でわからないのは、
ウォーク・ザ・ライン 君につづく道3/24テアトル タイムズスクエア監督/ジェームズ・マンゴールド脚本/ギル・デニス、ジェームズ・マンゴールド
物語自体はバカな男の浪花節であまり面白くない。社会不適応的性格のジョニー・キャッシュ(ホアキン・フェニックス)が音楽、というより作詞の才能を見いだされ、デビュー。あとはお定まり。早く結婚した女房はうっとうしいだけ。ファンの娘たちとはやり放題。酒に麻薬で警察のご厄介。みんなに見放されるが、なんとか再起して活動をつづける・・・。手垢がつきすぎで、どのエピソードにも個性がない。ジョニー自身も時代に抵抗したとか主張があるとか、そういうのは一切ない。唯一トラウマになっているのが兄の死と、父親の態度および言動。まあ、こういう設定にでもしなけれは、話にもならないから付け足したような感じもある。けど、父親への反感はいまひとつ納得できるものではない。「できた兄が死んで、できそこないの弟が生きている」って方の言動に的を絞った方がよかったのではないか。映画では、兄が事故ったとき「どこにいた?」と聞かれたことが心に淀んでいるようだったけどね。
長年つきまとって、やっとモノにする彼女、ジューン・カーター(リース・ウィザースプーン)って女も、登場シーンは多いけど、何も描かれていない。連れ添ってからは死ぬまで一緒だったんだから波長は合ったのかも知れないけど、これではどこにジューンの魅力があったのか分からない。
同時代にどんな歌手がいたか、あまり描写されない。プレスリーは一瞬出てきたけれど、物語には絡んでこない。他の歌手で、知っている名前はなかった。ボブ・ディランは、名前だけの登場。音楽業界の中での位置関係なども知りたいと思った。まあ、アメリカ人にとっては既知のことなのかも知れないけどね。
ジョニー・キャッシュ。名前は知っていたけれど、どんな人物でどんな歌を歌っていたか知らなかった。僕のiPodを見ても、ジョニーの名前は見つけられなかった。で、映画を通して知っていた曲はといえば、歌詞のない音楽で、後半に2度ほどバックで流れていた曲だけ。あれは、ジョニーの曲かな? 違うのかな? 違うなら、ジョニーの曲は1曲も知らなかった、ってことになる。で、思ったんだけど、最初の頃のはウディ・ガスリーみたいな土着的な歌だったんだな。リズムはずうっと同じ。メロデイで聞かせる歌じゃなくて、歌詞で聞かせる歌だ。ブルース的でもある。ロックといっても、チャック・ベリーみたいにも聞こえる。って聞いていく内に、なんだこれは、カントリーじゃないか。ロックじゃなくて、C&Wっぽいなあ、なんだか。ってな具合に聞こえてきた。楽器も、当初はウッドベースにアコースティックギター2本。デビューして1本のギターがエレキに変わったけれど、ジョニーは終生アコースティックだったのかな。なんか、現代の感覚からすると、ロックじゃないよなあ。なんて思った。
ホアキン・フェニックスが老け顔で、デビュー当時からジジイに見えてしまう。中盤からはなじんでくるんだけど、最初の頃は別人を使ってもよかったんじゃないのかな。そのホアキン、唇上の傷は演出なのか?それとも、ホンモノなのか? リース・ウィザースプーンは「キューティ・ブロンド」のイメージが強くて、美人ではないし、任ではないような気がする。脱皮しようと励んでいるのは分かるけれど。でも、歌唱力はある。一方のホアキン。後半の歌唱力はなかなかだけれど、デビュー当時のシーンではかなり下手。あれは、意図して下手に歌っているのかな? それとわからんのが、ヤク中時代に銀行へ得体の知れない小切手を持って行って「換金してくれ」といって断られたにも関わらず、すぐに湖畔の豪邸を買っていたりする。この時代のジョニーの音楽活動と収入の道が、とても曖昧なのが気になった。
ヴェニスの商人3/27ギンレイシネマ監督/マイケル・ラドフォード脚本/マイケル・ラドフォード
2度目。前回、寝てしまったから。で、見逃していたシャイロックの娘の駆け落ち場面はちゃんと見た。そのせいか、2度目のせいか、人間関係に混乱はなかった。ところが。今度は法廷の部分ですっかり寝てしまった。見ながらパンを食べて、血液が胃に集まってきたせいだろう。昨日、寝たのが3時30分ぐらいだったから、そのせいもあるかも。
人間関係に混乱はなくても「?」はあった。シャイロックの娘と駆け落ちしたやつの関係。いつからなの? 男は、女がユダヤでも問題ないの? もう1組。ポーシャの侍女と男。あの2人は、以前から知り合いだったのか? なんてところが「?」だった。
冒頭から、ユダヤは隔離されて赤い帽子をかぶることを義務づけられていた、とか字幕があって、徹頭徹尾ユダヤ人迫害告発映画なのだね。では、シェークスピアはどういう立場だったんだろうか? まさかユダヤ擁護じゃないよなあ。そうなのかなあ。ううむ。
シャイロックとその娘が哀れなこと、登場する商人やポーシャと結婚する男がアホなこと。ポーシャも嫌らしい女であること。・・・というような感想は、前のときと同じ。喜劇というより、シャイロックの悲劇としか見えない。
前回は混乱したけれど、オッパイを見せる女は娼館の女たちだったのね。
ロバと王女3/27ギンレイシネマ監督/ジャック・ドゥミ脚本/ジャック・ドゥミ
なんでギンレイでこんな古い映画をかけるのかと思ったら、デジタルニューマスター版で、去年リバイバル公開されたらしい。ふーん。知らなかった。で、デジタルニューマスターだから絢爛豪華で美しいかと思いきや「どこがニューマスターなんだよ」と因縁をつけたくなるような画調で、色褪せ寸前ってな感じ。もともと豪華な映画でもないし、セットや合成に金をかけているわけでもない。っていうか、かなりしょぼい。いまから35年ぐらい前の映画だけれど、こんなレベルなのかとがっくり。子供だましもいいところだ。CGはつまらないと日頃から言っているけれど、昔のアナログ合成のちゃちなところは、見られたものではない。意図してやったのかな。
話もちゃちい。王妃に死なれ、再婚を考える王。資産より美貌を優先で選んだら、候補がいない。で、なんと娘と結婚しようと言いだす。父娘相姦。なんか、おいおい、だよな。そういう設定をもちだすだけで、気持ちが悪い。これって、価値観が変わったってことか? それとも、昔も同じように異様な感じがしたのだろうか。で、王をはぐらかすため、娘は「空色の服を」「月の色の服を」「太陽の色の服を」くれ、と次々要求するが、すべて叶えられてしまう。・・・ってところが、まったく説得力がない。で、最後に「ロバの皮をくれ」といいだす。このロバ、うんこが黄金・宝石で、王が大切にしているもの。それの皮ももらって、もう結婚する他ない・・・となって、妖精に助けられてどこかの村へ逃げていく。で、豚の世話をすることになって、村人からも疎まれる・・・って、なんでそうなるの? だよなあ。説得力がない。さらに、王女は<意図的に>菓子に指輪を入れるという、魂胆ミエミエの行為を実行する。でもって、指輪の持ち主を見つけるため、未婚の女全員に指輪をはめさせる・・・って、それって「シンデレラ」ではないの。パクリか? それとも、世界の童話はみんな同じ、とでもいうのだろうか。でもって、薄汚いロバの王女が現れて、めでたしめでたし。なのだけれど、突然ヘリコプターで王と妖精がやってきて「私たち結婚したの」って、おいおい。ご都合主義もいいとこだ。
なぜ王女はロバの皮をかぶらなければならなかったのか。それは、何を意味しているのか? 指輪をためす行為は、何の象徴か? そういうのを、もう少し示唆的に描いてもいいんじゃないの? なんだか、いろいろ理屈の合わないファンタジーってだけになってしまっている、としか思えないけどね。
ドヌーブは、美しい。可憐だ。なんだから、もっと寄りでアップで見せてくれよ、と思った。ジャック・ペランは、美少年だったんだね。
春が来れば3/30シネマスクエアとうきゅう監督/リュ・ジャンハ脚本/リュ・ジャンハ
残尿感の残る映画だ。ラストではとりあえず着地してはいるが、いろんなところでスッキリ腑に落ちない。意図的に説明を省いているのだろうけれど、もうちょっと具体的な過去と、納得できる結末を期待してしまう。
一流の楽団に入るほどの才能がなく、カルチャーセンターで音楽の講師をしている40男。現在は年老いた母と2人暮らしだ。つき合っていた彼女とも最近別れたところ。彼女も、音楽教室を主宰していたが、つぶれてしまったらしい。彼女はいま、別の男性と交際を始めているらしい。・・・ということしか分からない。音楽学校を出たのか? どんな生活を送ってきたのか? 流行歌の作曲なんかも、してたのか? クラブで吹いている友達をけなしていたけれど、男は純粋な音楽を追究していたのか? とかの、バックグラウンドがアバウト。しかたなく地方の炭坑町の学校の臨時雇いでブラスバンドを指導することになったが・・・。この展開も、いまひとつ「?」なところがあって、ブラスバンドが学校の教師たちからうとまれ、部がつぶれようかというのに、なぜ講師を募集したのだろう。わからんなあ。でその、つぶれそうなブラスバンド部だけれど、部員はかなりいるし、どーみても潰れそうには見えないのだ。「スウィングガールズ」の設定とは大違いだ。
町で知り合いになったのは、薬局の若い娘。その恋人らしき整備工。生徒数人とその家族。この、薬局の娘と整備工も、どういう関係なのかよく分からない。故意に描こうとしていないみたいに思える。一方で、父親に部活動を禁止された生徒がいて、その父親は炭坑で働いている。禁止したのは、ラッパでは食えないから、とかなり具体性がある(この父親を、男が説得するシーンが、いい。説得は言葉で成されるのではなく、音楽でなされる。炭坑から戻ってきた労働者たちを迎え入れるように、ブラスバンドが演奏するのだけれど、ちょっと感動的だ。このシーンが、この映画のテンションが最も高まったところではないのかな)。老祖母と暮らす生徒も描写されるのだけれど、なぜ両親がいなくて老祖母なのかは説明されない。もう1組、ケニー・Gみたいになりたいという生徒とその彼女のカップルは、ちゃんと描こうとしている。かように、描く描かないが恣意的に選択されて、分からないまま放り出されている素材が多い。こういうのが残尿感につながってくる。もうちょい説明してもバチは当たるまい。っていうか、説明しないスタンスでいくなら、生徒たちから具体性を消していったほうが、整合性がつくだろうに。なんか中途半端だ。
登場するのは、人生の途中で脱落してしまった人、または、はじめっから競争していないような人たちだ。競争に勝つことで見つける幸せ、は描かれない。競争とは別の次元にある、ゆるやかな時間に生きる人々の映画だ。炭坑町とコンテストは、「ブラス」。舞台が地方都市の学校なのは、「スウィングガールズ」。そんな連想をさせるこの映画。では、音楽が主軸になっているかというと、さにあらず。生徒たち個人個人の音楽に対する情熱、上達の過程はほとんど描写されない。だから、「ブラス」や「スウィングガールズ」のような高揚感はない。せっかくコンテストのシーンがあるのだから、せめて結果だけでも・・・と期待するのは贅沢?(競争を描かない、ということなのかも知れないが) ラスト近く、コンテストの日の集合写真がアップになって、カメラが引いていく。静かに引いていって・・・横にトロフィーでも入り込んでくるかと思ったら、さにあらず。けっ。つまんねえよ。せめて3位入賞ぐらいにすればいいのに。というわけで、いろいろ隔靴掻痒がある。あるのだけれど、でも、なんかこの映画ののんびりと横たわるような時間の推移はカラダに滲みてくるのだなあ。そう。そんなに悪くはないのだよ。見ているときはちょっといらついたところもあったけれど、見終わったら、これはこれでいいのかも、と思ったりした。
上映中、他の観客のカサカサ音が気になった。2時25分からの回なのに、食っているやつがたくさんいたのだ。音に鈍感なやつらめ。さらに、途中退出する客も割といたりして、落ち着かない。なので、前半の30分をもう一度見た。そうしたら、1回目で分からなかったことが、よく分かるようになった。別れたと言っても、女が男に未練たらたらなことが、冒頭から伺えた。最初に見たときは、何気なく素通りしたシーンが、意味を持って見えてきた。これはつまり、舌足らずな演出のせいで、1回見ただけでは分からない程度にしか描かれていない、ということだ。注意深く見ていれば分かるのかも知れないけど、人間関係は、そうかんたんに把握できないよなあ。というわけで、2回見ると分かってくる映画、なのかも知れない。

 
 

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