2006年4月

大統領のカウントダウン4/3シネマミラノ監督/エヴゲニー・ラヴレンティエフ脚本/エヴゲニー・ラヴレンティエフ
1度通して見た。後半はいささかワクワクしたけれど、前半がモヤモヤしたままだ。誰がどっちの側かというのは、後半、次第に分かってくる。のだけれど、前半ではどう描かれていたのか気になった。それに、そもそもの思惑がどこにあったのか、それを確かめたくて、ひきつづいて冒頭から30分(2ヵ月後、に、場面転換したところまで)を再度見た。そうしたら、いろんなことがちゃんと(とはいえ、納得できるレベルではないが)描かれていた。なるほど。しかし、予習なしで関係を1回で分かれ、というには、あまりに説明不足だと思う。
分かりにくい理由のひとつは、見たことのないロシアの俳優ばかりで、誰を中心に見ていけば分からなかったことにもある。おそらく主人公はFSBのスモーリン少佐なのだろうけれど、主人公らしく描かれていかない。それ以外の、FSBのボスらしき男やチェチェンの大臣の息子だとか、怪しいロシアの大富豪だとかが、サブ的扱いというには出番がかなり多い。群像劇的な傾向もあるのだ。というわけで、手探りしながら見ていた自分が(1回目には)あった。
で、2回目の冒頭30分を見ても分からないことが大部残った。チェチェンの独立運動が、ロシアにテロを企てるのは分かる。しかし、最初の頃にでてきたアラブ人は何なんだ? アラブのテロリストがチェチェンと組むメリットは、どこにあるのだろう? また、アラブとチェチェンをとりもつ怪しいロシアの大富豪。あの男のポジションはどこにあるのだ?
こちらの理解を書けば、以下のようになるのだけれど、おぼつかない。えーと。大富豪は、チェチェン側。FSBの攻勢に手を焼いて、工作を思いつく。で、FSBのスモーリン少佐を捕虜にし、ウソの供述ビデオをつくる。そのビデオでは、スモーリンが民家を攻撃した、と自供している。このビデオを公開して、民衆の非難をロシアに向けようという魂胆だ。でもその前に、ロシア国内でのテロを成功させる必要がある。それはサーカスを占拠するものだ(でも、この目的が何かが分からない。声明もなかったし)。で、テロ発生とともに大富豪は亡命地からロシアに帰り、テロリストたちを説得して人質を解放させる手はずになっている。これによって、追放されたロシアへ安全に帰還し、国内での発言力を強めようという魂胆だ(でも、それでテロリストたちは安全に脱出できるのか? それに、テロリストが放射能をばらまいたら、人質を解放したことへの賞賛は半減するのでは?)。・・・てな流れかな。でも、いまひとつ芯となる流れがモヤモヤしてスッキリしない。チェチェンの大臣の息子が途中から重要なポジションを占めるのだけれど、彼はなぜ大富豪一派に嫌われているのか。アラブの役回りは何なの? 彼の恋人(?)らしい美人は、最初にちょっとでただけで、あとは出番なしかよ! 件の怪しいロシアの大富豪は、一体、何なのだ。そして、立場は? とかね、
中盤からのサーカスのテロで、ああ、あれがモデル化と分かってくる。実際にロシアでは劇場を占拠され、多くの人質が犠牲になった事件があった。この映画でも、サーカスにロシア軍が突入して機関銃を撃ちまくる。どれだけの犠牲があったか、なんてことは説明されないけれど、あれじゃ犠牲者が出ない方が不思議だ。で、そうした事実をベースにした話に、無理矢理スモーリン少佐の英雄譚を埋め込んだみたいなつくりになっていて、話がうまく噛み合っていない気がする。さらに、チェチェン人ながらテロリストと対立する大臣の息子を登場させることで、正義がロシアにあるのだ、ということを強調しようとしている。映画の謳い文句は「実在の諜報員をモデルにした」だけれど、こんな英雄行為をしたのか? と問いただしたい気がする。
というわけで、いろんなところで中途半端。もっと事実に即して描く方が、リアルだったかも知れない。でも、そうなるときっと、ロシアに都合の悪い部分がでてくるのではないかな。だから、アクション映画にしてしまった。でも、アクション映画としては、キレが悪いモノになってしまった。それはきっと、ロシアに都合のいいような解釈をいろいろ入れ込んでいるからではないだろうか。たとえばアラブのことだとか、ね。都はいいながら、サーカス以後の展開(脱出から飛行機のアクション)はハリウッドばりで、そこそこ見せる。もっとも、映画のテクニックは稚拙で、セリフもそうだけれど、構成やつなぎなど、いたるところになめらかさがない。ヒーロー映画にしては個人を浮き彫りにすることもない。どこに共感したらいいのかわからない、そういう中途半端さがミエミエ。ロシア映画の過渡的状況が見て取れる。
ファイヤーウォール4/4上野東急2監督/リチャード・ロンクレイン脚本/ジョー・フォート
スリルとサスペンスがどこにもないサスペンス映画。冒頭から後半まで、危機感も感じられなければ予測不可能な展開もなし。ハリソン・フォード一家を人質にとる悪漢一味も、なんとなく良い人たちに見えるし、緊張感がない。悪漢一味が素顔丸出しっていうのも変だし、ハリソンや妻が逃亡しようとしても、家族には危害を加えないという手ぬるさ。ええい、指の1本ぐらいへし折るとかして脅せよ、と悪漢一味の立場でイライラしていた。ここまでダラダラとつまらないのは見事としか言いようがない。
ハリソン・フォードも60も半ば近く。足腰立たずヨタヨタ歩きが哀しい。女優陣も不細工なのばかりで、見るべきところなし。せめて秘書役の女の子ぐらい、もうちょっとまともな娘にして欲しかった。
つまらない流れは、脚本が悪いせいだ。たとえば、ハリソンを罠にかけたいきさつその他をタクシーの中でハリソンが秘書に説明するのだけれど、ああいう口頭での説明は下手な映画の見本のようなもの。ハリソン君は脚本に文句をつけないのかね。でもって、演出がぬるい。それを補うように危機感を煽ろうとする音楽が鳴りっぱなしなんだけど、これがまたチンケ。徹底的に三流映画だ。
で、疑問なんだけど。安物のファクスのラインスキャナとiPodを使って、画面上で高速スクロールする文字列をスキャニングできるものなのか? 俺はムリだと思うんだけどなあ。それから、合併話はヤラセのようなことを言っていたけれど、そうなの? あの、合併相手の幹部で、ハリソンと対立した男は、仕事に忠実な有能男ではなかったの? 黒幕は、殺されたハリーという同僚だけ? そこのところが、よく分からんでした。
SPIRIT4/5上野東急監督/ロニー・ユー脚本/ビル・コン、クリス・チョウ
英語題名は「Fearless」。ワーナー配給の米国+香港合作らしい。
勝負に勝つことしか頭になかった武闘家・霍元甲が悲劇を乗り越え、武術の普及と愛国心に目覚めるお話。興味深いのは、「復讐の連鎖を止めなくてはならない」というメッセージが込められていること。因果応報の悲劇を悟った霍元甲の言葉だが、これを、中国人がいう。しかも、復讐の相手となる可能性があるのは、日本人。中国と日本でのののしりあいはやめよう、というメッセージにもとれる。これは、画期的だと思う。
ことの始まりは、中国武闘家同士の技比べ。それがエスカレートして殺し合いに発展。その復讐の連鎖を、霍元甲はやめて旅に出る。そしてたどり着いた山村で、少数民族(だと思う。何民族なのだろう?)と出会う。霍元甲は心身ともに成長。相手に勝つ武術ではなく、豊かな心と体をつくるものとして普及させる、という筋書きだ。で、天津に戻ってきた霍元甲は、中国人武闘家が外国人に負けているのに奮発。異種格闘技の試合に出場することになる。もっとも、心身ともに成長しながら、結局は外国人排斥には立ち上がるのか、という疑問はある。でもまあ、そこは中国人の愛国心の発露なのだろう、と好意的に解釈しておこう。
霍元甲は、井の中の蛙だった。これを象徴するのは、頭の弱い乞食が霍元甲に向けて言う「天津で一番」という言葉だろう。天津で1番になることが目標だった霍元甲。しかし、世の中はそんなローカルではない。西欧諸国や日本は中国を食い物にしようとしてやってきている。それになすすべもない中国人。「天津で一番」という言葉には、中国人の視野の狭さへの批判が込められているような気もする。
さてと。映画の時代背景は、どうなっているんだっけ。曖昧なので帰ってから調べたら日清戦争が1894-95、日露戦争が1904-05。映画の中の事件は、この直後の1907年に起こり、1910年に異種格闘技ということになる。中国は自信を失い、日本は鼻高々。欧米列強が中国を食い物にしようと乗り込んでいた時代だ。こういう時代に、霍元甲が外国人武闘家を破るのは、中国国民にとってストレス発散になったんだろうな。まるで日本における力道山と同じみたいだ。
欧米・日本相手の異種格闘技の中で、日本が最後の強敵として描かれている。しかも、まともに描かれているのが珍しい。ブルース・リーの時代なら、日本人はみなずる賢く、武術者も袴を前後ろにつけて日本刀を振り回す、ってなワンパターンだったけど、日本人武闘家(中村獅童)はフェアプレー精神をもつ武士として描かれている。しかも、「日本は西洋列強の一員」として描かれている。このあたりの視点は、かなり冷静だといえるだろう。日本人にもいいやつもいれば、悪いやつもいる、というスタンスは世界公開を考慮してのことか、それとも、中国自身の視点が変わったのか、どっちなのだろう。
盲目の娘は、何族?
格闘シーンはつまらない。カンフー好きなら楽しめるのかも知れないが、頭を使わなくてもよいので、だんだん眠くなってくる。しかも、長回しでなくカット割りが多く、迫力に乏しい。中村獅童の格闘シーンなどほとんど吹き替えだった。面白くなるのは、霍元甲が山の生活をし始めてから。やっとドラマが始まる、ってな感じなのだ。それにしても、実質的に内縁の夫婦関係であったろう盲目の娘と再会できないのは、可哀想。この映画は実在の人物を下敷きにしているらしいが、ラストはハッピーエンドにしてやってもよかったのではないのかな。
クラッシュ4/6新宿武蔵野館3監督/ポール・ハギス脚本/ポール・ハギス、ボビー・モレスコ
面白い映画というよりは、出来のいい映画と呼ぶべきか。完成度が高く、瑕疵がない。しかも、暗いばっかりの話になるかと思いきや、ちゃんと救いも描き出していて、見終わっても暗くならなくて済む。
人種差別主義者の白人警官、黒人刑事とヒスパニックの彼女、白人検事と妻、ペルシャ人、黒人窃盗コンビ、黒人演出家と妻・・・なんていう人々が、それぞれ僅かな接点をもちながら物語が進行していく。放り出されたエピソードや小道具が、あとからピタリと着地点に収まる。見事な脚本だ。言うことなし。
この映画の優れているところは、物事には両面があることを上手く見せていることだ。たとえば、非白人に偏見を持つベテラン警官が、一方で交通事故に遭った黒人を命を賭して救い出したりする。他の登場人物も、加害者/被害者、正義感/非正義など、相反する側面を併せもつ。まさに、光と影。オープニングと、ラスト近くに表れるクルマのライトは、この象徴かも。この光と影のバランスの取り方が巧みで、これまでの人種問題を扱った映画と違う。人間が描けていると思う。人種問題もかつてのように白人vs黒人ではなく、メキシコ人に間違われるヒスパニック(プエルトリコとなんとかの混血?)、俺たちはアラブじゃないのに、と不満をいうペルシャ人(って、イランのことか? ペルシャはアラブじゃないのか?)、アフリカ系黒人、中国人その他その他。移民同士の対立もあったりして、複雑怪奇だ。まさに、いまのアメリカが人種のるつぼだということが分かって面白い。
悲惨になりすぎないのも、救われるところ。数多くの人間が登場するのに、死ぬのは1人。これは、死ぬか? というシーンはたくさんあるのに、ほとんど悲劇にはならない。象徴的なのは、錠前屋(民族は不明)の娘とペルシャのオヤジだろうか。ああ、死んじゃうんだ、と思った。だって、予告編であのシーンはでてくるのだよ。ところが、奇跡的に救われるのだけれど、それはそれとして。あのシーンを予告編に入れちゃまずいだろ、と思う。
分からなかったところがひとつあって、車に轢かれた中国人が、病院にやってきた女にわたす小切手。でも、時間差で分かった。中国人が運転していたバンのなかに密航者たちが潜んでいたのだよな。で、その密航代かなんかだろう。なので、説明のつかないエピソードはなし。
そして、ひと粒のひかり4/10ギンレイホール監督/ジョシュア・マーストン脚本/ジョシュア・マーストン
原題は“Maria Full of Grace”。ひとことでいうと、麻薬の運び人の話。運び人になるのが、貧しい南米コロンビアの、妊娠中の17歳の娘っていうのがミソ。ってか、それしかないかも。面白かったのは中盤の、運び人になっていく過程。コンドームに入った麻薬を飲み込み、ニューヨークへたどり着くまでは、見ているこちらも吐き気こらえて緊張感だった。しかし、彼女がそうせざるを得なかった理由は説得力がないし、NYに着いてからの行動は「?」ばかり。素材はよかったけれど、料理の手際が悪いということだろう。
「コロンビアは子供を育てる場所じゃない」というのは、運び屋の先輩で、コンドームが破けて死んでしまうルーシーの姉の言葉だ。彼女はNYで暮らしている。では、コロンビアの暮らしはそんなにひどいか? というと、それほど悪くもないように見えるのだよな、これが。家は広いし個室はあるし。そりゃあ中学出てすぐ働かなくてはならないのは大変だろうけど、先進諸国と比べるのが悪い。国内的には、主人公マリアの家は、貧乏には見えない。母親と姉(私生児が1人)は、マリアの収入が頼りでたかりっぱなしだけれど、社会のせいと言うより、人間の問題だろう。花工場を首になったのも、つわりのせいだから、工場がすべて悪いとも言いきれない。コロンビアの生活のどうしようもなさが、つたわってこないのだ。
で、NYに着いて、マリアと友達のブランカは無事に麻薬を排泄する。ところがルーシーは急変し、胃を捌かれてしまう。その後の行動が、解せないことばかり。麻薬を持って逃げたら、故国の家族に危機が及ぶだろう。なのに、マリアは嫌がるブランカを引きずってルーシーの姉を訪ねる。・・・って、なんで? その理由が分からない。さらに、居場所がないからとルーシーの家に居座って、さらに、情報屋みたいなオヤジに色々話してしまう・・・って、おまえはバカか。結局、麻薬はヤクザに渡し、報酬も受け取る。でもさ、最初から逃げないで自分の報酬だけ受け取ってコロンビアに戻っていれば御の字だったじゃないか。本当に、わからない行動をとるマリア。なので、後半にいろいろあっても説得力がほとんどない。
前半。マリアに子供ができ、彼に告白すると、彼は「結婚するよ。責任は取る」と言ってくれた。なのに、「花工場はもう嫌だ、都会に出て働く」と、ふらふらでかけちゃうのも理解できない行動だよね。ささやかな幸せは望まず、上昇しようという腹づもりがあったのか? そんな風には見えなかったけどね。で、ラストは、故国に帰らずNYに残る決心をする。それは単に「コロンビアは子供を育てる場所じゃない」という言葉への答えなのだろうか? コロンビアへの決別、家族を棄てる決意なのか。自立と言うには、失うものは多いと思うのだけれどね。それに、目的意識もない。運び人、逮捕されかけ、知り合いの死、逃避行・・・と修羅場をくぐって、人間として大きくなったとでもいいたいのかな。それにしては、いまひとつふたつ訴えるものが少ないと思う。面白い素材なのだから、もっとキレよく見せてくれないとなあ。
どこの国か、というのが、ずーっと分からない。「ボゴタ」という都市名で南米は確定したけれど、国は国はどこだっけ? と悶々。後半になってやっと出てきた。それと、主人公の年齢も、運び人の元締めのところに行ってから、分かった。そういう基本情報は、もっと早く教えてくれないとなあ。
愛より強い旅4/10ギンレイホール監督/トニー・ガトリフ脚本/トニー・ガトリフ
原題は"EXILS"。実は最近ジプシー音楽に興味をもっているので、ずいぶん期待した。が、映画としてはかなり「うーむ」なデキで、何が言いたいのかいまひとつ分からなかった。分からないようにつくっているのかも知れないけどね。
お話しは、ルーツを求めてアルジェリア目指して旅をするもの。女は天然系で、他のことは関せずマイペース。男も似たり寄ったりだけど、女に惹かれて離れられないという感じ。その2人が「パリには何もない」と、セルビア→モロッコ→アルジェリアと旅をする。しかし、細かな経路は分からず。で、ストーリーらしきものはなく、旅の途中に出会った人々との交流を延々と描いていく。その内容に意味があるとは、あまり思えない。それより、2人の出自が曖昧。男の過去は説明されていたように思うのだけれど、よく覚えていない。爺さんのときからアルジェリアで、父親がパリに出て、両親と3人でアルジェリアを訪ねたときに事故にあって両親は事故死、だったかな。爺さんたちがもともとアルジェリアの人間なのか、フランス人として占領していた側なのか、分からない。あるときは「ジプシー」とも呼ばれていた。女は、名を名乗るといつもアラブ風の名前だといつも言われていた。そういう顔もしていたけれど、アルジェリア人なのか? いちばんありそうなのが、2人ともルーツをアルジェリアに持つジプシーじゃないかと思うのだけれどね。でも、よく分からない。なぜ説明しないのかも、理解できない。女は背中に傷を負っている。その理由を、女は明かさない。けれど、その傷をアルジェリアの占い師(?)の女にピタリと当てられ、なんだか悪魔払いのような、憑きものを落とすような踊りを踊るのだけれど、このシーンが延々と長くて眠りかけた。なんであんなに長いんだ?
で、男はルーツ(といっても祖父の墓だけど)を探し出し、「人間は先祖を否定できない」とかなんとかいうような歌だかなにかがあって、仲良くどこかへまた旅立っていく。いやはや。分からん。女は旅の途中で、色目をつけられた男と浮気をしちゃうんだけど、2人の関係がよく分からん。男はいちおうなじる。でも、女は反論する。男は、女を棄てられない。へんなの。で、「プカプカ」の歌詞を思い出してしまった。「あんたが、私の寝た男たちと、夜が明けるまでお酒飲める日まで、私、男やめないわ、いつもふむふむふむ」っていうようなやつ。あんな関係なのかな、このカップルは。うーむ。よく分からん。
リバティーン4/12シネセゾン渋谷監督/ローレンス・ダンモア脚本/スティーヴン・ジェフリーズ
すべてが、よく分からん、だった。国王とジョニー伯爵の関係もよく分からないし、国王とその弟(ってのは、どこかにでていたのか? 俺は、ジョニーが弟かと思っていたが、違うのかなと途中から思った)の関係もよく分からなかった。まして、詩人らしい伯爵が何を考えているのかも分からなかった。なので、10分ぐらいで眠くなって、10〜15分ぐらい寝てしまった。ふと気がついたら、すでに女優(サマンサ・モートン)に恋するようになっていた。あらら。
最初にジョニーが登場したとき、彼の立場が説明されない。だから、単なるスケベな詩人、かと思っていたら伯爵で、豪邸に妻と母と住んでいる。この妻がバカみたいに律儀で、酒と女と博打は男の本性、と亭主に言われても反論しない。どころか、酔っぱらって小便垂れ流し、挙げ句は梅毒(かな?)でボロボロになっても「愛しています」なんていう。女優との関係よりも、この正妻との関係の方が、よっぽど興味深いと思うのだがな。
性的な言葉を多用した詩や芝居を書く作家、しかも、伯爵。女郎屋に入り浸りで、女としほうだい。とくれば、設定に不満はない。なのに、映画は説明を省き、分かりにくくしている。これは、わざとなのかもね。映画も詩的に、散文調にしようとしているのかも。でも、お陰で人物の掘り下げ方は甘いし、誰がどういう思惑でそのような行動を取っているか、分かりにくい。起こっている出来事すら、よく分からない。時間の流れや場面転換に気遣うような演出もしていない。なんだか、完成間近のラッシュのようだ。てにおは、のない映画は、見ていてつまらない。
サマンサ・モートンは顔が貧相で、どうやったってフツーのオバサンにしか見えない。色事師を夢中にさせるような妖艶さには、欠ける。ジョニー・デップは髪を単発にしたり顔中あばたで鼻がもげたメイクをするなど、頑張っている。けど、映画のデキに反映されていないのは残念至極。
Webなどによると、この詩人は実在の人らしい。ふーん。自由を愛したとかなんとか書いてあるけれど、見方を変えれば単なる変人。映画は、その変人の枠を超えた何かを、ほとんど伝えきれていないと思う。
●水曜日1000円デーなので、満員。若い女から中年女性まで、あふれかえっていた。ジョニー・デップを見に来たのだろうけれど、面白く見ているのかな、みなさん。
the EYE 24/14新宿武蔵野館2監督/オキサイド・パン、ダニー・パン脚本/ ジョ・ジョ・ホイ
「呪怨」など日本ホラーの質の悪いコピー。論理的につじつまの合わないところがたくさんあって、いらいら。音響と幽霊の登場シーンでいくらかビクッとしたことはしたけれど、瞬間的。底知れぬ怖さにはほど遠い。しかも、ラストに近づくに連れて、緊張感はゆるくなっていく。ラストなんか、「だからなに!」と言いたくなってしまった。主演のスー・チーは、貧相な顔がさらに貧相に見えて、可愛さも色っぽさもなし。
館内左手の奥、これまで武蔵野興業の事務所があったスペースが、ロビーになっていた。広い。けど、使い勝手悪そう。でも、韓国映画などでオバサンがロビーを埋め尽くしたり、座るところがほとんどなかった現状は、改善されるだろう。もっとも、本日「the EYE 2」1時30分の回は9人しか客がいなかったので、ロビーは閑散としていたけれどね。
エミリー・ローズ4/17109シネマズ木場・シアター6監督/スコット・デリクソン脚本/ポール・ハリス・ボードマン、スコット・デリクソン
ホラーである。悪魔払いである。チラシには「裁判所が初めて悪魔の存在を認めた」とある。ホラーに、よりも、そっちの方に惹かれた。しかし、期待は完全に裏切られた。裁判所は悪魔の存在なんか、ちっとも認めていない。このキャッチフレーズは、大嘘である。
大学生の娘が死んだ。悪魔に取り憑かれ、牧師が悪魔払いをした。牧師は、それが正しい措置だったという。これに対し検事は、娘はてんかん+分裂病だったのに薬をやめさせたのが死の原因、と告発する。牧師の弁護に付いたのは、女弁護士。悪党でも何でも、無罪にしてしまうほどのやり手。さて、その結果は、という話。物語は単純すぎて面白くも何ともない。ただし、悪魔付きの娘の演技、演出、音響効果はなかなかで、そこそこ怖がらせる。そういうところでは眠くならなかったのだけれど、後半になるに連れて公判場面が多くなり、ホラーの要素が薄くなってきて・・・最後に女弁護士が陪審員に説得するあたりで、眠くなってきてしまった。そして、そのすぐ後、陪審員代表が評決を言う。「裁判所が悪魔を認めた」なら、牧師は無罪? と思ったら、「有罪」だよ。おいおい。キャッチフレーズに誤魔化しありじゃないか。裁判官は「精神分析的な話を聞いたのだから、悪魔払いの話も聞きましょう」とはいったけれど、悪魔の存在なんか認めてないだろ。まったく。嘘つき。
というわけで、拍子抜け。まあ、実際のところも多重人格+てんかん+分裂病+被害妄想的なことだろうと思うのだけどね。裁判関係で悪魔の影響を感じさせるのは、悪魔払いに同席した医師が自動車事故で死ぬぐらい。あとは、弁護士への影響も思わせぶり。いまひとつ、切れ味が悪い。いや、そもそも、何で悪魔があんな頭の悪そうな馬面娘に憑依したのか、そのメリットが思いつかない。悪魔の意図は、あくまでも分からない、ってか。顔を見たことがあるような俳優もでてこなくて、花がない。まあ、ちょっと調べたらそこそこの映画に出ている役者が多いようだけど、きっと脇なのだろう。基本的な部分ではテレフィーチャー的なレベルで、撮影がハリウッド的、ってな感じかな。
ヨコハマメリー4/24テアトル新宿監督/中村高寛構成/中村高寛
ヨコハマの街娼メリーの話だ。といっても、ただの街娼ではない。白粉を塗りたくった異様な風体。「下妻物語」みたいなロココ趣味の衣装。それが70歳を過ぎた婆さんなのだ。しかも、つい10年前までヨコハマの松坂屋近辺に立っていた。凄い話だ。その存在は、写真家の撮影した記録と、メリーを知る人々の証言で外堀から固められていく。これが、この映画の“見えない”縦軸。もうひとつは、元次郎というゲイのシャンソン歌手の存在。これが、“見える”縦軸。この2つの縦軸が絡み合いながら、話が進んでいく。で、面白かったのはメリーを知る人々の証言の数々だ。行きつけの美容室、着替え場所を提供していたクリーニング屋、米兵とヤクザとパンパンが客だったという飲み屋をめぐる人々、メリーが立っていても追い出さなかった宝飾店(メリーがお中元とお歳暮を贈っていたという話には泣けた)、メリーを写しつづけたカメラマン・・・。こういう人たちの証言で、メリーが際立ってくる。一方で舞踏家やセックスカウンセラーにして監督(メリーの映画を企画して、撮ったフィルムはなくしたという女)といった人たちからは、ほとんど感じるところがなかった。そして、元次郎という、もうひとりの主役も、本人が立ちすぎているのではないかと思えた。元次郎さんの存在をもう少し薄めても、よかったのではないのかな。もうひとり、舞台でメリーを演じる五大路子がいる。彼女の存在は大きいと思った。彼女が素で語るシーンではない。後半、五大がメリーの姿で松坂屋前に現れるシーンだ。あれは、痺れた。早すぎるラストシーンではないかと思ったほどだ。このシーンは2つのカットに分かれていて、フィックスしたカメラの右手からゆっくり現れて、左手に消えていくもの。次のカットが、こちらに向かってくる五大を正面からとらえたモノだ。この、正面からのショットが、いまひとつ対象をとらえきれていないのが、惜しい。
メリーの生の姿は、元次郎のコンサートで花を渡すシーン、ある舞台を鑑賞しにやってきたところを撮ったシーン、この2つ。この2つだけで終わるのか。そして、1995年に消えたというメリーは、本当に死んでしまったのか? と思わせて、メリーが田舎に帰り、養老院に入っていることを知らせる。そして、元次郎が尋ねていくのだ。実をいうと、生きていたとしても、その姿を映さないで欲しい、と思っていた。たとえ生きていたとしても、その姿を見せて欲しくなかったのだ。すべて伝説でありつづけ、幻で終わって欲しいと願った。ところが、元次郎は養老院でもシャンソンを歌う。そして、カメラが右にパンすると、そこに気品のある老婆が映し出された。おお。美人じゃないか。気高く、誇り高く座っている。とくに、田舎の老婆の中では、目立ちすぎるほど目立っていた。この姿を見て、ああ、現在の姿を映してくれてよかった、と考えを改めた。これこそ、ラストシーンに相応しい。五大路子の演じた生きた伝説は、仲入り前の高まりでよかったのかもね、と思った。
いや、それにしても、質の高いドキュメンタリーだ。ラストも、本人にしゃべらせたりしないところが、いい。ほどよい距離感ね。
僕のニューヨークライフ4/25ギンレイホール監督/ウディ・アレン脚本/ウディ・アレン
つまらなかった。昼飯を食ったあと、ってこともあってか、30分ぐらいで眠くなり、熟睡。後半の1時間ぐらいは見た。でも、やっぱり面白くなかった。ウディ・アレンらしいといえば、らしいのだけれど、なんの仕掛けもない。進化もない。むしろ、退化。むかしむかしのウディ・アレンのパターンを繰り返しているだけ。これでは退屈してしまう。会話の、うんちく+ジョーク+アフォリズム、もくどく感じてしまう。
だから、なに!?
である。かつてはウディ・アレン自身が主人公で女に振られたり振り回されたり勝手に妄想を抱いたり早とちりしたりしていた。しかし、ウディ・アレンではもう、もたない、と思ったのだろうか。若手の男優を主人公にもってきている。でも、この主人公がどーみても、トンマにも神経症的にもアホにもお人好しにも身勝手なヤツにも見えない。これじゃ、話が面白くなりようがない。っていうか、話自体が転がっていかず、だらだらと同じ地点でぐるぐると堂々巡りしているみたい。せいぜい、バックに流れるジャズが聴きどころ、ってなところかな。こんなんじゃ、もうウディ・アレンはいいや。と思わせる内容だった。
チェケラッチョ!!4/28テアトルダイヤ監督/宮本理江子脚本/秦建日子
東宝青春映画だ。観客の半数以上が女子中高生、およびカップル。オヤジやオバサンもいたけれど、肩身が狭い状態だ。こちらはメインキャストの出自もわからない。最近はお父さん役の多い平田満はさておき、父親役の陣内孝則、柳沢慎吾なんか、「ついこの間まで青春映画に登場してたろ」と言いたいぐらいだ。まあ、こちらのジジイ化現象を止める術はない。理解の範囲で映画を見ればよいのだ、と自分に言い聞かせるぞ。
約2時間。尺が長すぎる。90〜100分にまとめるべきだ。それに、スピード感がないのが気になった。テンポがのろい、というか、ズレていたりする。疾走感のある映像が撮れていないし、つなぎもゆるい。
話はどこかで見たことのあるような内容で、しかも、従来の青春ものからアクを抜いてしまったような、絞りかすのような内容。どこにでもある素材をただ並べただけで、料理されていない。こういう何の事件も起きず、登場人物が特に何の目標も持ってなくて、何らかの壁にぶつかったり、対決したり、克服したりしないので、飽きてしまう。「壁も対決も克服もあったろう」と反論されそうだが、あの程度ではドラマとは言い難い。成り行きまかせの生活で、ちょっとした面倒にでくわした程度のものでしかない。だから、主人公たちは魅力的に見えないのだ。
なにも、文化庁特選みたいなガンバル青年たちを描け、というのではない。もうちょっと、うまい料理の仕方があるだろ、と思ってしまうのだ。目標ももたず、漫然とせいかつする高校生。ラップやコンサートも自分からの憧れでなく、なりゆきでやってみただけ。恋心を抱く年上の女性も、肉体以外になんの魅力もない。同級生仲間も、大学進学を目指すひとりを除いて、目標をもっていない。親や教師や学校や権力や制度に反抗心をもつこともない。おまえら、それでいいのか? と思ってしまう。
なんていうと「いまの若い人は、反抗心なんかもたない。ああいうのが、最近の子」といわれそうだが、けど、ラップって、もともとは抑圧された黒人たちの反抗心から生まれたのでは? 「いーのいーの。表面的に真似してるだけだから」とたしなめられそうだなあ。なんかこう、ちっともガツンとこない映画を見て、楽しいと思うのか、近頃の児童・生徒諸君は。ううむ。いまひとつ、盛り上がらなかったなあ。オヤジには。

 
 

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