2006年5月

プロデューサーズ5/1新宿アカデミー監督/スーザン・ストローマン脚本/メル・ブルックス、トーマス・ミーハン
1950年代の古典的なミュージカル手法が、そのまま使われている。パロディではない。いまどき、よくできたなあ、と思う。セットも振り付けも、まだできる人がいるのだね。古臭いといえば古臭い。懐かしいといえば懐かしい。新しさはないけれど、ベタな小ネタが満載で、くすくすと笑える。でもまあ、それだけ、ともいえる。いや、実際、オーディションの前のシーンあたりで5分ばかりうとうとしちゃったし。
Webで検索したら、もともと1968年にメル・ブルックスが監督した同内容映画があって、それが舞台になり、映画としてリメイクされたのだと。ふーん。いや、そのことは知らなくてね。エンドロールにやたらメル・ブルックスの名前があって、しかも、楽曲がすべてメル・ブルックスの作なので「え?」と思っていたのだ。で、ロールの終わりのおまけ映像の最後に、美女に囲まれたメルがでてきて、おやおや、まだ生きていたのだっけ、と思ったのだった。メルといえば「ヤング・フランケンシュタイン」「ブレージングサドル」「サイレントムービー」で、なかでも「ヤンフラ」が最高。「ブレージングサドル」はユダヤ人のジョークが分からなすぎて、どこが面白いのか笑いどころが分からない。つまりまあ、カルト的なところがあって、誰でも楽しめるようなものはつくらないのかと思っていたら、こういうのをつくっていたのだね、むかし。
この映画にも、ユダヤ人やスウェーデン人差別ジョークがあったけど、しつこくやってたのがアイルランド人のからかいだった。でも、いくら字幕で訛りを表現されても、おかしさはつたわらない。やっぱネイティブじゃないと分からないところが多すぎだよね、メル・ブルックスは。
タイフーン5/1新宿オデオン監督/クァク・キョンテク脚本/クァク・キョンテク
別にこれが見たかったわけではない。映画サービスデーだというのに、この時期いい写真がかかっていないのだよ。子供向けの映画があちこちでかかっていたりして、5月の連休は大人には物足りない。で、内容を知らずに入ったのだけれど、予想とは大違い。恋愛+人間ドラマ+台風直撃スペクタクル、かと思っていた。どっこい、なんだよ、またしても南北朝鮮物語かよ。で、がっかり。わるいが、このテーマはもう飽きてきた。そもそも、話が荒唐無稽でリアリティがなくバカバカしくてこけおどし。主人公に魅力がないし、だいいち美女がでてこない。これでは、見どころがないのと同じだ。
たかが海賊が米国籍の船を襲い、極秘輸送物を強奪するところからしてお笑い。これに対して、韓国はたった1人の、しかも、諜報工作は素人同然の士官を任命する。ううむ。マンガだ。海賊はかつて北朝鮮籍で、脱北。ところが、韓国が受け入れず、家族を失ったことを恨んで、韓国内に放射能汚染物質を降らそうと企んでいる、って、これもマンガ。さらに、別離していた姉と再会して号泣というのも、ううむ。姉弟が再会することに、それほどこだわるか? そんなに嬉しいか? なんか、説得力がないと思う。国民性の違いなのだろうけれどね。
で、ラストも、海賊は韓国への恨みを解消したんだかどーなんだか分からないような終わり方をしている。あの風船の中には汚染物質がなかった、って、じゃあ、何のために危険を冒して仲間を犠牲にしてまで風船を飛ばそうとしたのだよ。友情の手紙でも入っていたのか? うーむ。基本的になんだか、中味からっぽの映画だったなあ。
ニュー・ワールド5/2上野東急監督/テレンス・マリック脚本/テレンス・マリック
アメリカ大陸に植民するイギリス人の話だ。そうなると、いつかは戦いが起こり、イギリス人が原住民を殺戮し、追い払うシーンがあるはず。と思うと、気が重くなるわけで、それはいつなのが気になりながら見ていた。でも、前半の、時間の流れのゆったりした物語世界は、とても心地よい。このままの時間の流れで映画が終わってくれれば、と願った。後半は、とくに派手な殺戮はなかったものの、それでも何度かヨーロッパ的な身勝手な正義を主張する場面がいくつかあって、やっぱり気分が重くなった。自由を奪われ、白人の支配下に組み込まれてしまった原住民たちを見るのは辛いものがある。
自然の中で自然とともに暮らす原住民に対して、すべてに体系化を志し、自然と対立または自然を飼い慣らす西欧近代社会。その思考様式が対比的に描かれているのが象徴的。原住民に嫉妬や諍いがない、というのはいいすぎだろう。けれど、西欧人の自我=欲望がいかに醜いかを表すには、こういう理想化もしょうがないのかな、とも思う。でも、許容範囲内の、よくある手法としての様式化だろう。
さてと。前半の、緩やかさを伴った緊張感(いったい入植者と原住民はいつ戦い始めるのか、というもの)に比べて、後半の話が予想外につまらなかった。話が面白い方向に転がっていかない。ジョン・スミスは航海への野望に燃えて娘を捨ててしまう。さらに、ジョン・スミスは死んだと伝えられて魂が抜けてしまう娘。ちょいと類型的のような気がする。それに、白人の男と原住民の女、って話も類型的(原住民の男に白人娘という話は、あまりないだろうけど)。あまり後半は好きになれなかった。まあ、原住民が制圧されていく過程だからしょうがないけど。
娘は仕方なく結婚した男とイギリスに行って王に謁見。そこでジョン・スミスと再会するのだけれど、ドラマは起こらない。娘に会ってジョン・スミスは「約束通りになった」という。いったいどんな約束をしたっけ? 記憶にないよ・・・。困ったものだ。
というわけで、前半は雄大な自然を背景に、面白かった。後半は、いささか予想される展開。で、娘がポカホンタスと呼ばれていたので、あれ、これはポカホンタスの話なのか? と、頭の片隅で考えながら見ていた。ポカホンタスはアニメになっていた。でも、内容は知らない。ポカホンタスの話も知らなかった。Webで調べてみたら、「ニュー・ワールド」は、実写版としても何度目かのポカホンタスの映画らしい。で、書いてあった史実(伝説)に近い骨格をもっていて、それほど脚色しすぎていない話のようだ。だから、後半の展開や、あっけなく死んでしまうことも、これまた史実らしい。じゃあ、しょうがないか。
表現手法として豊かだなと思ったのは、時制や場所の違うシーンをフラッシュバックのように積み重ねていくもの。これが、娘の揺れる心、想いが多様な視線からつたわってくる。ポカホンタスを演じた女優は、いっちゃあなんだが、絶世の美女ではない。馬面でアゴが立派で、男みたい。まあ、いささかの線の細さ、可憐さも見えないわけではないが、たくましさの法が印象的。ま、実際にも、ポカホンタスはこの程度のものだった、かもしれない、という監督の選択なのだろう。乙女チックな物語にしたくなかったのかも知れない。それはそれで、ありだろう。
Vフォー・ヴェンデッタ5/2上野東急2監督/ジェームズ・マクティーグ脚本/アンディ・ウォシャウスキー、 ラリー・ウォシャウスキー
アクションとかサスペンスに分類されるのかも知れないけれど、ハリウッド映画にはないテイスト。饒舌かつ粘着的な描写や説明は、悪くいえばくどい。で、データを見たら英/独が製作国になっていた。なるほどね。アクションおよびサスペンスに徹しきれず、理念や観念が前に出ているのも、そのせいだったのか。または、知っている役者があまり出ていなかったのも、このせいだったのね。でも、「マトリックス」のウォシャウスキー兄弟が本を書いているのだが・・・。
正しいテロリズムの映画である。いきなり議事堂放火未遂とガイ・フォークスの名前がでてきて、高校の世界史を思い出した。あったよなあ、そういう事件が。でも、その詳しい内容までは覚えていなかったのだけれど、そーか、あれは反権力のテロリズムだったのか。で、そのガイ・フォークスに倣って、圧政に立ち向かう仮面の男が主人公だ。数10年後日のかの未来。アメリカは没落し、内戦で苦しんでいる。かつての宗主国イギリスは、どーゆーわけか独裁国家になっている。情報統制、監視カメラ、同性愛禁止、イスラム弾圧と、現在でも問題になっているあれやこれや。国民の自由はなくなっている。さらに、生物兵器開発のために人体実験を繰り返してきた過去があり、それを隠蔽しようとしている・・・。このあたりはナチ政権下のドイツやスターリン時代のソ連がイメージされる。まあ、よくあるパターンだ。
ところが、いくつか面白い設定がある。スクールバスへの攻撃、飲料水への毒薬混入、地下鉄での細菌ガス事件・・・。こうした事件は権力が反体制派への弾圧を正当化するための、でっちあげだ、というものだ。連想される事件は実際に発生していて、日本のサリン事件もそのひとつ。9.11にもその噂はあるし。ほんとうにテロリストがやったという確証もなく、大国の行動に都合の悪い国家へ侵略するための口実に使われている、かも知れないといわれている。こういうところに焦点をあてているのが、非アメリカ的な取り上げ方だよなと思う。アメリカだの日本で、9.11やサリンは謀略だ、なんて取り上げることなんか、できないだろ。そういう風潮になってしまっている。とくに、日本の右傾化は激しいから、総スカンを食らいそうだ。ヨーロッパというのは、少数意見もちゃんとマスメディアに反映できるのだなあと思った。こういった背景があって、圧政に対するテロは構わない、ということなのだろう。で、そのスタンスを正当化するために、歴史=ガイ・フォークスを引っ張り出してきているのかも知れないが、もう少し手短にやって欲しかった。
仮面の男のリアリティのなさも、困ったものだ。あんなにたくさんの仮面は、どこでつくらせたんだ。どうやって配付したんだ? 街中を歩くときは、仮面を外して覆面しているのか? 地下鉄駅の車両に自由に出入りできるって、なぜだ? 地下鉄に爆弾を運んでいる仮面男を想像すると、笑えるぞ。その他、様々な情報はどこから入ってくるのだ? レジスタンス仲間がたくさんいる、という説明でもない限り、納得できないよなあ。
よく分からないのが、仮面男が仲間(?)でありテロの継承者であるはずの女(ナタリー・ポートマン)を誘拐して拷問するエピソード、意味不明だ。それから、冒頭でナタリーが会おうとしていた相手が、太った上司だって言うのも、なんか、納得できないな。
ナタリー・ポートマンはいいとして、警視役の役者がオヤジ過ぎ。もっと見栄えのするいい男をもってこいよ。仮面男も、仮面をとった姿を描くこともない(つまり、かつていい男だった、ってな描写もない)のはもったいないと思う。
かもめ食堂5/8銀座テアトルシネマ監督/荻上直子脚本/荻上直子
脱力系の映画に入るのかな。重くなく軽くなく、これという事件も起きない。ささいな日常の繰り返し。それがつまらなくないのは、かもめ食堂がフィンランドにあるからだ。でも、リアリティはない。ある種のお伽噺。40凸凹の女がフィンランドで食堂を開店する、というところからしてありえない話である。いったい資金はどーした。小林聡美がフィンランド語を話せる理由は? といったことには触れない。片桐はいり、もたいまさこ、フィンランド人については背景がアバウトながら語られるのに、中心となる小林の過去には触れない。この辺り、ちょっとミステリアスだけど、「いやなことは、しない」し、合気道を習っているように、物事に逆らわないタイプと表現している。まあ、それでいいのだろう。あり得ない話を、なんだか、あるかもしれない、と思わせるような内容になっているだけで、成功しているのだろうと思う。
ほんとうにどーでもいいような話の中で、もたいまさこ、がかなり怪しい。何かを求めて森に行き、キノコを発見。食堂に持ってくるのかなと思ったら「途中でなくなった」という。で、ずっと以前に見つからなくなっていた旅行バッグがみつかったと連絡があって、あけてみたら輝くキノコが詰まっていた・・・。この、妙に幻想的な展開は何を意味しているのだろう。もたい、は、様々なモノを失う運命のもとに生きているのかな。わら人形に釘を打ったこともあるようだし・・・。もたいまさこ、のミステリアス。
片桐はいりは、3人のなかで一番現実社会に適応しようとしているみたい。けど、いつもグループの中に入れず、はじき出され、他人から何といわれているのかが気になって仕方がないタイプのようだ。
他にアニメオタクのフィンランド青年。夫に捨てられた中年女。うわさ好きなオババ3人、事業に失敗して家族に逃げられた男、なんかがでてくる。女3人は、噛みしめるようにセリフを語る。急がず焦らずゆっくりと。それが、この映画の主旨であるかのように。事件らしい事件も起きず、それでも、最初がらがらだった店内が、次第に客で埋まっていく。がんばらない毎日。なかなか気持ちのいい映画だった。
で、注文。画面に写り込むものには、注意を払って欲しいと思った。最初の1つは、片桐が小林の家で食事をするシーン。小林が椅子をひいて座ろうとしたとき、ランプにふれる。そのランプがぐらく゜ら揺れるのだ。こういうテイクは、ふつー採用しないでしょ。偶然そうなったのであって、意図的ではないはず。こんな映像は採用すべきではないと思うぞ。それから、店内の壁に貼りめぐらされた鏡。あの映り込みが、気になって仕方がなかった。意味ないだろ、あんな鏡。とっぱらっちまえばいいのに。これを除けば、居心地のよい映画だった。
トム・ヤム・クン!5/9シネマミラノ監督/プラッチャヤー・ピンゲーオ脚本/
「マッハ!」ではクライマックスで寝てしまった。今度も危ないな、と思っていたら、開始20分ぐらいで一瞬眠ってしまった。すぐ目覚めたけれど、ラスト10分は半睡状態で、かろうじて目が開いていた、ってな状態。タイ式ボクシングのアクションでけでは、興味が持続しない・・・。
冒頭は映画になっていた。カメラの動きもカット割りもシナリオも、ちゃんとしていた。やっぱり大手資本が介在すると、まともになるんだね、と思った。けど、逆にいえば荒々しさがなくなって、こぢんまりとしてしまったと思う。階段かけ上がりの10分ぐらいの長回しがあって、そこはさすがに凄いと思ったけれど、あとのアクションでは1カットでなく、うまくつないでいるところが目立つ。「マッハ!」の大胆不敵恐れを知らない肉体アクションのもつ、バカバカしくて稚拙だけれど勢いのある映画、ではなくなっていた。
で、物語なんだけど。なんかスッキリ落ちないのだよなあ。始まりは、象盗人。で、ラストがあれかい? 人を殺してまで象を盗む必要があるのか? とか、思うよね。しかも、主人公がどうやってオーストラリアにいる首謀者のところへたどり着いたのか、悪の巣へ潜り込めたのか、なーんていうのもはっきりしない。すごい大雑把。で、分からないのがラスト近くに出てきた金持ち一家の相続人争い。あの一家と、悪玉ボスのジョーはどーゆー関係なのだ? でもって、警察の幹部もつるんでいるけれど、あの辺りの関係がいまひつとよく分からない。
狂言回し的にタイ人警官が登場するけれど、使い方が中途半端。それから、主人公を助ける娘が登場するけれど、出てきたからには主人公と淡い恋愛関係にさせるのが筋だろう。いつのまにかどっかへ行ってしまうなんて、これも使い方が中途半端。アクションも、「マッハ!」で見てしまったので、同工異曲の戦いでは面白くも何ともない。大味なままのほうが、よかったかも。
驚いたのは、ちっよと登場する世界地図に日本列島がないことだ。あれは意図的なのか、島国はぜーんぶ省略しているのか、どーなんだろう。
間宮兄弟5/15新宿武蔵野館1監督/森田芳光脚本/森田芳光
面白い。森田芳光、面目躍如かな。軽いタッチで笑いどころ満載。でも、現代への皮肉もちゃんと込められている。いやホント、こんな青年ばっかりふえちゃっていいのかい? 原作は江國香織なんだという。原作の割合はどの程度なんだろう。森田テイストがかなり入っていると思うんだけど、どうなんだろう。ベースのほとんどは江國なのかな。ううむ。
30歳を過ぎて結婚もせず、男2人で共同生活の兄弟。父親が弁護士なのに、子供たちは向上心がない。兄はビール会社の開発部。弟は小学校の用務員。でも、知識がないわけじゃない。雑学は得意。趣味は多彩。でも、女性に対しては高校生レベル。軟弱、オタク、こんなんでいいのか! というのがフツーの反応だと思うんだけど、そうならない不思議。その存在は世間に認められている、ってことなのかね。特異なのが、セックスの臭いがしないこと。テーブルゲームでわいわいやってるだけで、触りたいと思わないのか! ううむ。それでも寂しくないらしい。こういうノンセックス人間は、増えているのだろうな。これまでは、女が「いい男がいない」と結婚せず、子供もふえなかった。でも、間宮兄弟のようノンセックス男が増えだしたら、もっと凄いことになるかも。
もっとも、間宮兄弟の周囲にいる男女は、ごく一般的な青年男女で、婚前交渉も不倫もなんでもあり。本来はこっちがフツーで、こっちにドラマがあるはずなんだけれど、そういう展開にはならない。不思議な主人公たちだ。
森田テイストも満載。周囲のささやきごえが入ったり。別のイメージが交互にインサートされたり(たとえば浴衣を着つつある間宮兄弟の心理を、縫いぐるみを着て客を歓待するかのように表したり)。そんな小細工が、鼻につかない程度に散りばめられている。さらに、キャスティングが素晴らしい。凸凹兄弟の弟の方が、演技賞ものだと思う。ひょうひょうとした感じが、素晴らしい。女の子たちも、それぞれの役割に合った役柄を演じている。残念なのは、前半のテンションが後半になるに連れて維持できなくなっていったこと。まあね。後半に盛り上がりもなく、物語はじょじょに収縮していくのだから、しょうがないけど。こういう話に、クライマックスもないだろうしなあ。でも、やっぱり、ラストまで、どうなっちゃうんだろう、という期待は持たせて欲しかった。というところで、ラストの、意外な人からの電話。あれは、戸田菜穂から間宮弟へのものだと思うんだけど。どうでしょうか。
単騎、千里を走る。5/18ギンレイホール監督/チャン・イーモウ、降旗康男脚本/ヅォウ・ジンジー
なんか、いまひとつ、ふたつ、みっつ、ってな感じ。で、何がいいたいの? うーむ。あまりにも単純かつシンプルすぎて、奥がない。っつーか、浅すぎる。この程度の話を映画にする必要があるのか? 映画にするのなら、もっと細部をえぐってくれよ、といいたい。
なにかの行き違いで絶縁状態の父、息子。息子が末期癌で死期が迫っていることを、息子の嫁につげられる。会いに行っても、息子は、会いたくないという。嫁が渡してくれた1本のビデオテープ。学者(らしい)の息子が中国で撮影してきた民族舞踏。前回の調査で撮影できなかったという舞踏「単騎、千里を走る。」を撮影しに、父は単身中国へ・・・。
が、主なあらすじ。なんだけど、なぜ父、息子が断絶したか。その理由がでてこない。また、「単騎、千里を走る。」を撮影することが息子のためになる、と即断した理由が分からない。むしろ、早とちりじゃないか。それに、何でもいいから撮影して戻ってきた方が、息子と和解のチャンスもあったろうに。なんとかいう踊り手にこだわって、あれやこれやしているから、息子の死に間に合わなくなってしまう。なんか、やることなすことトンマな親父にしか見えない。何10年も言いたいことが言えなかった父親が恥も外聞も捨てるなら、まずは直接話したらいいじゃないか。ああ、もどかしい。「不器用ですから」という過去のセリフがそのままになってる。だけど、哀しいことに不器用よりアホに見えてしまう。そうやって周囲に迷惑をふりまいているのだよ、と言いたくなってしまう。そのズレが、共感できるものになっていないのだ。
なにか足りないのだろうなあ。高倉健が恥じらいを見せたり焦ったり、動転したりしていないせい? なんか、演技を抑えているようで、つたわってこない。それに、鳥打ち帽を脱がないのも、気になってしまった。人と会うときぐらい帽子を取れ。と、いいたくなってしまった。それから、日本のシーンはほぼ寺島しのぶの電話しているところばかりで。おい、何か演技をしろ、といいたくなったぞ。で、この日本編だけど、全部降旗康男が撮っているのかな。チャン・イーモウの指示で? ううむ。よく分からん。
キャッチ ア ウェーブ5/19テアトル新宿監督/高橋伸之脚本/豊田和真
完全なる少年少女向けの青春映画だった。ストーリーは予定調和的で、意外性がない。つまり、つまらない。どっかで主人公がとんでもない状況に陥って、それを克服して成長する、という定番の流れが、希薄だ。まあその、チンピラサーファーとの対立、台風の日のウェーブという盛り上がりが後半にあるけれど、それまでの過程が平々凡々過ぎると思う。男3人組のうち、1人は主役だから目立っているけれど、あとの2人がほとんど描ききれていない。時間もあり、エピソードだってつくれたはずなのに、表面的なドタバタにしか残り2人を使っていない。とてももったいない。もっと活かせただろうに。個人としていちばん目立っていたのは、チンピラグループのハーフの少年だ。主人公と彼女が横須賀基地でチンピラグループにからまれるのだけれど、そのときの「日本はアメリカに守られていなければ何もできない」云々が、もっとも重みのあるセリフだった。ここででてくる、「守る」という概念をもっと上手く使えただろうにね。たとえば、主人公の少年が彼女を守る。竹中直人は幼い子供を守れなかった。とかね。坂口憲二にも、過去に誰かを守れなかったエピソードをつくってみるとかね。そうやって作り込んでいったりすれば、もうちょっと見られたものになったかもね。
竹中直人に訓練(家の掃除で)されるのは、「ウォーター・ボーイズ」の真似、というより「ベスト・キッズ」の真似か。ラストは「ビッグ・ウェンズデイ」だったりするし。青少年をなめていやしないか?
これって、ワーナー映画なんだね。ワーナーは入ると思ってつくったのかな。ああむ。質の悪いビデオ撮りで、色が青に転んでいる。しかも、ダビングを繰り返して情報量が減ったようなフラットな画像で、なんかこう、みんなペロンってな感じにしか見えない。とっても変。それにしても、いくら平日だといっても金曜日の4時15分からの回に観客が合わせて7人、しかも、少年少女はいないというのは、どっかおかしいんじゃないのかね。
ブロークン・フラワーズ5/22新宿武蔵野館3監督/ジム・ジャームッシュ脚本/ジム・ジャームッシュ
なんだか話しの骨格が「ハイ・フィデリティ」っていう映画に似てる。同棲中の彼女が出て行ってしまって。昔の恋人たちを訪れていくっていう、ジョン・キューザック主演の映画。いや。もとはといえば「舞踏会の手帖」なんだろうけど。で。この映画は、同棲中の彼女が出ていくまでは同じ。さて。そこに「20年前にあなたの子供を産んだ」という手紙が舞い込んで。思い当たる5人の彼女を訪れる、というものだ。とうぜん、相手はだれだ? と、見る方は期待するよな。昔の女じゃなければ、出て行った彼女か。それとも隣人でおせっかい焼きの黒人の友達か。いったい、真相は? けど、明らかにされない・・・じゃ、つまんねえだろ。いったい何がいいたかったんだ、ジャームッシュは。
では、昔の彼女たちを訪れる過程が面白いかというと、それほどでもない。ディテールにとくに含みはないし、エピソードも散漫。表面的な不思議さ、面白さがあっても、何らかのテーマに沿って描写しているように、見えない。主演のビル・マーレーも、たんに陰気なだけ(気の抜けたサイダーのよう)で、何を考えているのかも分からない。いまひとつ、食い足らない。でもまあ、食い足らないなりに妙な男を演じているのだけどね。たとえば、コンピュータ会社で大もうけして、もう会社の権利は売っぱらったのか、仕事はしていない。女に不自由しているわけでもなさそう。家庭が欲しいようにも思えない。室内にモノはすくなく、世間に迎合したり見栄を張るようなことも、なさそう。かと思いきや、「レンタカーはせめて○○○にしてくれ。トーラス(クルマ?)じゃなあ」と、見栄を張ったりする。サム・シェパードだ、ドン・ジョンソンだといわれて照れたりする。(実を言うと、サム・シェパードって? ドン・ジョンソンは? と、見ながら考えていた)とらえどころのないキャラクターだ。それが、なぜ「お前に息子がいる」だけで動揺、というか、その事実を確認したがるのだろう。自分の知らなかった息子、に関心があるってことだよなあ。
つまらないなあと思いながらも、意外なところでドッキリがあったりする。空港のクロスワードをする女。最初に訪れた元彼女の家での、娘のフルヌード。3番目の元彼女では、秘書の太腿。4番目の元彼女は荒くれだけど、何となく色っぽい。そんなんで、ところどころで眠気を払えていた。けれど、最後になって、青年にサンドイッチを買ってやるあたりで眠くなってきて、ラスト前にふっ、と寝てしまった。はっと気づくと、青年は逃げ出していて、ビル・マーレーの後ろ姿で終わっていた。あの、ほんのわずかの間に、なにかあったのかな? ないよね、きっと。・・・と思っていたら、2ちゃん、を見たら問題のカットがあって、それを見逃して(寝ていた)ようだ。ま、しょうがないか。ギンレイにかかったら、もう1度見てみようか。
ある子供5/23ギンレイホール監督/ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ脚本/ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ
ベルギー/フランス映画。舞台は、ベルギーなの? 見ているときは、イギリスの、労働階級のチンピラ青年を扱った映画に、似たようなタッチのがあったよなあ、なんて思いながら見ていた。もちろん、英語じゃないのは分かってたけど。帰ってから調べたら、「息子のまなざし」の監督なのね。なーるほど。納得。タッチが同じだ。
働くのが嫌い。窃盗品を売って、その日ぐらし。若い彼女には赤ん坊が誕生。金が入れば乳母車を買ったり衣服を買ったり散在。計画性はなく、なんとかなるさ、のいい加減さ。金もないし手間もかかるから、と青年は勝手に子供を養子にだして金を受け取る。若妻の怒りを鎮めようと、赤ん坊をとりもどす。その結果、仲介者に新たな借金が発生する・・・。挙げ句はひったくりで刑務所へ。こういうアホはどこにでもいるのだな。
この手の社会派の映画って、何を訴えようとしてるのだろう。1960-70年代には、この手の話はたくさんつくられ、貧困や教育のなさ、家庭環境なんかに原因を求めていった。こういう映画が、現在の途上国でつくられるのなら分かる。でも、ヨーロッパだ。ヨーロッパの下層階級はこうなのか? ううむ。よく分からない。
ボタンの掛け違いが分かるようになればね。もうちょっと我慢して地道に稼ぐようになればね。いまのことだけでなく明日のこと、1年2年先のことが考えられるようになればね。でも、それができないのは貧富の差や教育のあるなしや家庭環境のせいじゃないだろ。本人の性格や気質的なもんだい、生まれもった素質に影響されるんじゃないか? で。監督は何がいいたかったのだろう? ねえ。
では、つまらなかったのかといえば、そんなことはない。手持ちカメラでドキュメンタリーみたいなタッチ。これがより社会派のように感じられるのだけれど、物語だけをみればサスペンス性もあるし引き込まれる(実際、俺、寝なかったし)。川の中に逃げ込むところなんか1シーンの長回しなんだけど、とてもリアル。別に娯楽性を負荷しろとは言わないけれど、重く暗い印象はどーにかならないのかね、だな。
ホームページを見たら、ベルギーにおける若者の失業率は20%に達していて、働くことや学ぶことに期待を見いだせない状態になっているという。ふーん。で、それをどーしようというのだろう? 映画の中に、期待や曙光を見いだすことはできなかったけどな。それと、「子供」とは誰を指しているのかな?
歓びを歌にのせて5/23ギンレイホール監督/ケイ・ポラック脚本/ケイ・ポラック
スウェーデン映画。笑わせて、泣かせて、感動させてくれた。大きな拾いものだ。話しの転がし方が、上手い。
世界的な指揮者が体をこわして引退。生まれ故郷の寒村に、元学校の校舎を買った。村人たちは、指揮者が村の出身だということは知らない。音楽と縁を切るつもりだったけれど、教会の聖歌隊にであって指導するハメに。それが、自分の癒しになった。村人たちも、新鮮な気持ちになった。ふれあいは広がり、聖歌隊もめきめき上達していく。
不良グループが指導者との出会いで上達していく。しかし、外部からきた人間への抵抗感も村人の間に発生する。・・・というよくあるパターン。見る側も感情移入しやすいつくりになっている。村人たちがもなワケありで、それぞれ思いを爆発させていく。たとえば、小学校時代のいじめられっ子が、いじめたやつに刃向かう。小学校時代の恋心を、老人になって告白する。聖職者の妻が、キリスト教の欺瞞をつく。不倫相手の医師に、妻子がいることを教えてくれなかった周囲への恨み。暴行亭主への反逆。こうして思いの丈を発散させ、言うだけ言ってさっぱりする。そうして、また仲間になっていく。そんな感じ。日本だったら、感情のもつれで修復不可能、ってな流れになってもおかしくないのだけれど、平気で元の鞘に収めてしまう強引さが、不自然に感じられないのがいい。知恵遅れの青年も交えて、みな個性的で感情豊かに描けているしね。だから、村人たちに余計に入れ込んでしまう。
小学校時代、というのが手がかりになるね。主人公の指揮者が村を出たのも、「バイオリンなんか弾きやがって」という同級生たちのイジメから逃げるものだった。嫌な思い出しかなかったはずなのに、いちど心臓病を患って退避した先が、故郷の小学校の校舎だというのだから皮肉だ。彼は何を期待したのだろう。どういう接点を、村人ともとうとしたのだろう。死期を知って、いじめてくれた故郷への恩返しでもしようとしたのだろうか。
教会の牧師が哀れ。田舎なら知識人でいられ、周囲からも尊敬された。けれど、外部からデキルひとが入り込むと、抵抗しはじめる。既得権を守ろうとする井の中の特権階級だ。虚飾がどんどん剥がされていく過程は、そらみろ、ってな感じで見られる。けれど、自分だってどっかで既得権を守ろうとしていることもあるのだ・・・というようなことを伝えようとしているのだろう。けれど、これはよくあるパターン。でも、そのよくあるパターンの見せ方が上手いので、またか、という気持ちを抱かずに見られるのだ。
中盤の、暴行亭主にやられてばかりの女がソロをとるシーンは、感動的。歌詞がね。さらに、指揮者が暴行亭主にやられたああと、この村の出身だとカミングアウトするところの“アメージング・グレース”も、痺れる。そしてラストの発声だけのハモりがコンテスト会場を揺り動かすところも、そこそこ。そこそこ、にはわけがある。ラストがハッピーエンドには見えないからね。ゴホゴホと指揮者に咳をさせていたから、ひょっとして、とは思っていた。けれど、最後の最後にああいう場面でああしてしまうとは、哀しすぎる。せめて、コンテストで歌い終わってからにして欲しかった。
指揮者のことを好きになるコンビニの姉ちゃん(不倫相手に妻子がいるのを2年間知らなかった彼女)が、井川遥に似ていて、なんとなくほんわか。その他、女性陣も男性陣も多士済々。登場人物が多いのに、よく交通整理されていると思う。最近は途中で寝てしまうことが多いのに、今日なんか昼食後なのに「ある子供」から目が冴えて、こっちは覚醒しまくり。映画を楽しませてもらったぞい。
心霊写真5/31シネマミラノ監督/パークプム・ウォンプム、バンジョン・ピサヤタナクーン脚本/パークプム・ウォンプム、バンジョン・ピサヤタナクーン
タイ映画。話がシンプルで分かりやすく、テレビの2時間ドラマのよう。でも、正直いって僕には怖かった。いつ、どう登場するか、は分かりやすく、分かっているのだけれど、ドキッとさせられてしまった。ラストの肩車なんか「うげ」だけれど、考えてみれば伏線はあったのだから、ホラー好きの人なら予測できるんだろうな。
幽霊は日本スタイルで、得体の知れない怪しさがある。でも、日本のように理由も存在もはっきりしないのではなく、ちゃんと根拠があって特定の人をターゲットにしている。とても論理的だ。もっとも、あの程度のことで祟られ死にするとしたら、相当の数の野郎どもがビルの窓から飛び降りることになるだろうけど。なんていうことをいうと「あの程度ですって!」と女の方々には叱られるだろうけど。
タイ映画って、このところ質がどんどん高くなってきているね。生活環境もとても都会的で、室内や調度品も先進国並み。いいクルマに高級マンション、垢抜けたファッション、大学生、高層ビル群・・・。日本や韓国と、変わりないよなあ。でもね。役者が、ね。男前の役者はいるみたいだけど、どーも女優陣に魅力が足りないと思う。美人の尺度が違うのかな?
◆シネマミラノは、明日から新宿ミラノ3となるらしい。新宿ミラノ座が新宿ミラノ1、新宿東急が新宿ミラノ2。なんか意味があるのかな。ないような気がするのだがね。

 
 

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