2006年6月

ジャケット6/1東劇監督/ジョン・メイバリー脚本/マッシー・タジェディン
なんと、製作者にジョージ・クルーニー、スティーヴン・ソダーバーグが名を連ねている。でもって制作総指揮のベン・コスグローヴってのは「グッドナイト&グッドラック」「シリアナ」の総指揮も務めている。もうなんか、一族だな、こいつら。ってのは、後からWebを見て知ったこと。こちらはキーラ・ナイトレイの貧乳が見えるという、そのことにつられて行ったわけであるがね。
がしかし、とても面白かった。終わってみれば話はとても簡単なんだけど、もって行き方が、なかなか。謎、怪しさ、思惑などがほどよい配合で絡み合っている。ラストはすっかりタイムトラベラーとラブロマンスになっちゃって、おいおい、という感じなのだけれど、まあいいか。むしろ、冒頭でのしつこいイラクの描写に何の意味があるのか、と思ってしまう。
「ジャケット」というのは精神病棟の拘束衣なんだよな。こんなカタカナ表記のタイトルにしちゃっちゃ、その示唆するところがつたわらんだろ。もったいない。主人公の墓標の隣に、病院で仲間になったハーディ・マッケンジーの墓標があったけれど、あれは何日になっていたのかな? 意味があるのかな? それから、ラストでつぶやかれたひと言の意味は、あれは何だ? ううむ。よく分からん。けど、全体を通してみると、なかなか上出来のお話しだった。手垢の付いた素材も、処理の仕方次第で、面白くもなるという見本かな。
ポセイドン6/6上野東急2監督/ウォルフガング・ペーターゼン脚本/マーク・プロトセヴィッチ
あの「ポセイドン・アドベンチャー」のリメイクだから2時間30分ぐらいあるのかな、と思ったら、上映時間の間隔が120分。あらら。予告編と待ち時間を引いたら、90分ぐらいなの?(実際のところは98分だ。けどクレジットの時間をさっ引けば、90分強というところだな) なので、どーゆー展開かと思ったら、人間ドラマをバッサリ。CGも大味なものだけ。どっちかっていうと、艦内うろうろ水中シーン多し、ってとこかな。リチャード・ドレファスを除いたら、A級映画の主演を張るような役者も登場しない。なんつーかこー、プログラムピクチャですな。あるいは、テレビでは3時間でやりましたが、それを90分にまとめてみました、つてな感じかな。
ストーリーの流れは知っているので、誰がどうやって死ぬか、が鑑賞のポイント。なのだけれど、なかなか残酷シーンが多くて、ちょっとあきれ顔だ。なんとも簡単に人を殺してしまう。いやその、船を転覆させた大波もそうだけれど、リチャード・ドレファスには仲間を蹴り落とすという、とんでもない役柄をあてはめられている(カルネアデスの舟板問題なんだけど、いともあっさりと結論をだしてしまった!)。その他にも、船内の死体をこれでもかと映し出す。なんか、趣味よくねーんじゃないの、この監督? ですなあ。
登場人物も、ちょっと魅力薄。なんでも反対するアーネスト・ボーグナインみたいのや、デブのシェリー・ウィンタースみたいな個性が発揮されていない。やっぱ、ジーン・ハックマンの牧師っていう、神に仕える身であるゆえに悩み、決断する"見どころ"が、ないんだよ。この映画では、人々をリードするのはギャンブラーと元市長だぜ。ロクでもないやつに決まってるじゃないか。しかも、人間ドラマをあまり掘り下げないから、ヒロインたちの登場時間も少なすぎ。
まあ、坂道を転がるような映画をつくりたかったのかも知れないけれど、どーせなら原作にもっち近い方が、よかったんではないのかな、と思ったりした。
嫌われ松子の一生6/7テアトルダイヤ監督/中島哲也脚本/山田宗樹
一代記のダイジェスト版を「風と共に去りぬ」「オズの魔法使い」ミュージカル、みたいに描いている。最初の頃はあまりに悲惨で、ジョークも笑えない。修学旅行で生徒が盗み、以下転落・・・あたりは、笑いどころがない。ところが、その後の人生は行き当たりばったり思いつき。しかも、自分で選択しているのだから、とくに同情もできない。なので、テキトーな笑いが効いてくる。でも、所々では哀愁に満ちて、ちょっと泣けてくる。で、最後の方になると、ちょっと飽きてきてしまって、まだ終わらないのか、ってな気分になった。悲惨さ、哀れさをもう少し薄めて、笑いが(といってもドタバタではなくジョーク、ウィット)多くなるとよかったのに、と思う。
岸田秀が書いていたけれど、故意に不幸を選択しているような女っていうのはいるらしい。もちろん本人は自覚していないのだけれどね。まあ、そんな人生なのかと考えれば、別に珍しい人生でもない、と思う。タイトルの「嫌われ〜」だけれど、そんなに嫌われていないじゃないか。友達だっているし、男には惚れられるし。嫌っていた、と名指しできるのは、父親ぐらいのものだろ。そう考えれば、可哀想な人生でもない。
人生の歯車が狂っていく過程を、もうちょいと「なるほど」と思わせるようにできなかったかなあ。修学旅行の盗み事件で学校を退職。それはまあいい。その後、作家志望の男とどう知り合ったのか、なぜソープ時代にヒモを殺したか、なんで昔の教え子と同棲するのだ、とか説得力が足りない。このあたりの展開に「なるほど」と思えるところがあると、転落人生ももっとリアルに見えたかも知れない。
あるシーンを女囚時代の友達の視点から、あとから松子の視点から、という表現がされていた。よくある手だけれど、もう1、2ヵ所で同じ様な手法を使ってもよかったんじゃないのかなあ。ラストは、少年たちに殺されてしまうのだけど、「ここまで不幸」とは感じられない。なんか、唐突。「ここまで不幸」と思わせたいなら、もっと劇中で「ここまで不幸」を描きつづけなくちゃなあ。
クレジットには、「え? どこにいた?」というような名前がずらり。クレジットと一緒に、ここで登場していましたの映像が欲しかったなあ。
天空の草原のナンサ6/9ギンレイホール監督/ビャンバスレン・ダヴァー脚本/ビャンバスレン・ダヴァー
内容はともかく。よくこんな映画が撮れたなと不思議に思う。主人公は7歳ぐらいの女の子。妹と弟がいる。それに若い両親。その一家の日常を描くだけなのだけれど、だれもカメラを意識せず、しかも、それなりにストーリーになっている。妹と弟は演技しているつもりはないだろうけれど、物語の中にうまくはまっているのだよな。で、主人公の女の子は、ちゃんと演技(というか、セリフをしゃべっている)している。とても自然にね。すぐ近くにカメラがあってスタッフがいてって、そんな感じに見えないのが凄い。
モンゴルのいま、なんだろうか。ゲルにすむ遊牧民。でも、学齢期になると寮にはいるのかな。長女が休みで帰ってきたところだ。夫は遊牧生活をやめて都会で働きたいと思っている。妻は、いまの生活に満足している。たまに町に出るにはバイクを使う。夜は自前の風力発電がつかえる。でも、テレビもラジオもない。羊の毛皮の需要がなくなれば、あっというまに失業だな。のどかだけど、あんな生活は長くつづかないだろうな、と思わせる。そういうバックグラウンドが、しみじみ迫ってくる。
物語は、長女が見つけてきたはぐれ犬を飼う、飼わないというもの。子供は飼いたい。父は、狼の生活が染み着いていると、羊を襲うからダメ。母親は、まあいいじゃないの、ってな感じ。ワガママな子供はちょっといらつくけれど、これは俺が親父だからかもそう思うのかも知れない。父親も、犬が嫌なら遠くに捨てに行けばいいのに、そのままにしている。それも、見ていていらつく。さっさと事を運べ、と。でもまあ、そういうのも含めて、先進国の忙しない心からでてくる反応なのかも知れない。
子供たちがじゃれあったり、喧嘩したり、お手伝いしたり、迷子になったり。そういうシーンを見ていると、自分の子供が幼かった頃のことを色々と思い出す。そういう作用がある映画だと思う。ああいう生活がいい、とか。ああいう生活をいつまでもして欲しい、とか。そういうことは思わない。だって、3日もやったら、きっと飽きるに決まっているからね。
南極物語6/9ギンレイホール監督/フランク・マーシャル脚本/デイヴ・ディジリオ
日本の「南極物語」をディズニーがリメイクした、らしい。事実は、置いてきぼりにした犬を、春に訪れた観測隊員が見つけた、ではなかったのかな。で、ちょっと調べたら、実際に生き残ったのは2/15でタロとジロ。ところが、このハリウッド板では6/8もの犬が生き残っている。リアリティがねえなあ。置き去りにされてからの犬の生活も、まるで犬たちに人間のようなチームワーク、負傷した仲間への思いやりなんかがあるみたいに描いている。まるっきりディズニーアニメだな。完全に擬人化されてしまっている。ま、こうしないとアメリカ人は喜ばない、ということだろう。
置き去りにした犬を積極的に、自前で救い出し(というか、遺体を見つけ)に行こうとするところも、大きな違いだ。罪悪感は日米とも同じだけれど、アメリカ版では救い出しに行く冒険譚に仕立て上げてしまっている。ヒーローの造形だな。
それから、置き去りにせざるを得なかった原因を、功名心にとらわれた学者のせいにしている。善悪の対立で、感情移入しやすくしているわけだな。そして、ワガママな学者は遭難しかけるのだけれど、これは天罰をくだしているわけだ。さらに、後になって悔悛し、犬を救い出しに行くための資金をだすまでに成長を遂げている。なんてステレオタイプな良識ある映画なのだろう。非の打ち所がないじゃないか。さすがハリウッド。日本人と、ものの視点がどう違うかを知るのに、恰好の題材ではないかと思う。
ハリウッドでディズニーといっても、有名どころは出演していない。役者だけ見ていると、みんなあまり個性がなく、テレビ映画みたいだ。ヒロインがアジアっぽい顔をしていたのだけれど、調べたら韓国+アイルランド+オランダだそうで、なかなか可愛かった。それだけ。
がんばれ! スリム6/10多摩六都科学館サイエンスエッグ監督/ピエール・ラシャペル脚本/フィリップ・バージェロン
原題は"Adventures in Animation 3D"で、Directed by Pierre Lachapelle,Writing credits Writing credits,Pierre LachapelleとIMDbにあった。多摩六都科学館でプラネタリウムでも見ようかとでかけたら時間が合わず、この全天周映画を選択した。時間は40分ぐらいのCGアニメだ。前半20分ぐらいはCGがいかにつくられるかを、CGキャラが説明するもの。後半が、そうしてつくられた主人公スリムが、でかい相手とボクシングをして勝つという3Dアニメ。この後半の物語は、チャップリンが大男に勝つ、という定番ストーリーのアニメ化、だ。内容がどーしたこーしたはない。赤青メガネをかけてみるんだけど、俺はいつも色が合わない。赤はちょうどいいんだけど、青の視界の方では赤のイメージが薄く残ってしまう。なので、ずうっとコーストがでているような感じで、どーも落ち着かない。3D自体はなかなかリアルなんだけど、メガネをかければ画面が暗くなるし、色も失われる。なので、メガネをかけての3Dは、好きではない。むしろ、左右に位相の違うイメージをカラーで上映してくれれば、裸眼立体視ができるのにな、と思ったりする。まあいい。
むしろ、前半のフツーのCGアニメの方が話としては面白かった。画面がズームインすると、相対的になのか、座っている座席が移動しているような錯覚にとらわれる。全天周(といいながら、実は天周の1/2ぐらいにしか映像は映っていないんだけど)の効果なんだろうな。CGの作り方も分かりやすく、面白かった。ま、あんまり突っ込んだことはやらなかったけど。で。声が爆笑問題の2人で、その掛合がなければ、案外と地味で真面目なアニメ、ってな感じがしたなあ。
全天周は2度目かな。前にナイアガラの滝の上を飛行機で飛ぶようなやつをみたことがあって、ああいうのはダメだ。酔ってしまう。この「がんばれ! スリム」はそれほどでもないけれど、前半の方が浮遊感があった。後半の物語になると、たんなるでかい3Dアニメでしかなかった。
GOAL!6/12上野東急監督/ダニー・キャノン脚本/マイク・ジェフリーズ、エイドリアン・ブッチャート、ディック・クレメント、イアン・ラ・フレネ
ナイキがたまに長尺のCMを放送したりするけれど、これはadidasの2時間CM、後援FIFAってとこかな。都合のいいところだけを寄せ集めてサクセスストーリーが一丁あがり、ってとこだ。そんなに上手く行くわけないだろう、と思いつつ、やっぱり成功の階段を登っていく姿はみていて楽しい。
主人公は単純頭のサッカー青年。メキシコの不法移民でぜん息持ちというハンデはあるが、思いは一途。プレー姿をたまたま英国の元選手が見てニューカッスルに推薦。絵に描いたような困難を乗り越え短期間でリザーブチームに昇格。看護婦の彼女はできるは正選手に昇格するわ、もう、ほとんど挫折らしいものはない。だって国難は、周囲がさっさと片づけてくれるのだ!! とくに、元選手のグレーは最大の功労者。次は旅費を捻出したお婆ちゃんだな。ずうっと反対していた親父も、正選手になるとテレビを見に行くし・・・(って、わざわざスポーツバーに行った理由がわからんが)。で、最後は自身でゴールも決めてチャンピオンリーグに進出、というところまで。いろんな要素がてんこ盛り。移籍金で稼ぐ有名選手、そのエージェント、軽々しく選手と寝る女たち、毎夜遊びに行く選手たち、怪我・・・。でも、みーんな軽い。軽すぎるほど軽い。人間ドラマは薄っぺら。ほんとコマーシャルだな、こりゃ。FIFA公認だと、こういう上っ面だけの映画がができる、というわけだ。
でもまあ、最後の、反対していた父ちゃんもテレビを見てた、という下りは、ちょっとよかったな。ただまあ、俺はサッカーに興味がないので、ヨーロッパの国々にどういうチームやリーグがあり、さらにその上は? なんてことも分からない。ました、チームの格付けもわからない。知っていれば、もう少し楽しめたのかな。カメオででてきた選手も、ジダンしか発見できなかったし・・・。
トランスポーター26/20新宿ミラノ3監督/ルイ・レテリエ脚本/リュック・ベッソン
前作はなかなか痛快だったので期待したのだけれど、単なるバカ映画になっていた。がんがん凄いカーアクション。でも、クルマには傷ひとつつかない。ばんばん殴られる主人公。でも、こちらも傷つかない。クルマのシャーシにつけられた爆弾を、クルマの空中回転で取ってしまう!!! あんぐり。いいよ、まあ。漫画だと思えばいいんだから。でも、そういうのがたび重なると、つまらなくなってくる。前半は、エロっちい女殺し屋の乳首が見える見えるなんて興味もそそられたけれど、後半になっても話がなかなか進んでいかない。あの薬は何だったのだ? なんて考えているうちに、少しずつ眠くなっていき、眼は完全につぶらなかったけれど、ラストのクライマックスはほとんど意識の外。はっと気がついたら、親子3人が病室で労り合っていた。うーむ。物事は上っ面だけで描くと、やっぱりつまらなくなる。
そうそう。子供が誘拐される病院で、なんだか空気がぼよよん、となるシーンがあつたけど、あれはなんだったんだ? それから。制作年度が2005年なのに、登場したiPodが古臭いのはなんでなんだ?
ビッグ・リバー6/26テアトル新宿監督/船橋淳脚本/船橋淳、エリック・ヴァン・デン・ブルール
逃げた女房を追い求めるパキスタン中年男、世界放浪中の日本人30男、得体の知れないアメリカ娘。この3人が1台のボロ車に乗って数日間を過ごすだけの話。3人がめぐり逢い、バキが女房に会う辺りまではテンションが保てたけれど、以降はほとんど意味がない。結局何が言いたいのかも分からない。言いたいことがなかったんじゃないかと思えるぐらい、メッセージ性が希薄。アメリカ生まれのバキ女がバキの男に嫁入りしたけど風習が合わずに逃げた・・・という設定はよい。けど、探し当てた(簡単に見つけてしまうのがつまらない)女房に「あんたが追い出したんじゃないの。帰ってよ」といわれ、何も言い返せずいるバキ男はなんなんだ。殴るとかすがるとか追い回すとかしろよ。わざわざアメリカまで追いかけてきた決意の程が、全然感じられないじゃないか。それに、ドラマも転がらない。わからないのが、バキが「女房を見つけた」といったのに、アメリカ娘(というには老け顔。ロシアの娼婦面で魅力に乏しい)は、さっさと2人とバイバイしない。それは何故なんだ? しかも、実はバキ男は女房に相手にされず手ぶらでバキに帰ると分かっても、のんびり西部の街を観光したり、のんびりしている。なんなんだ、あの娘は。そもそも得体の知れない日本人やバキ男を車に乗せることからして、この娘も怪しい。のだけど、その背景は最後まで明かされない。それじゃつまんないだろ。オダギリ・ジョーの日本人も、何を求めているのか見当がつかない。さっさとアメリカ娘と一発やっちゃうと、翌日から彼女に冷たく当たる。その理由は何なんだ? 冷たくされてなお、日本人にすり寄っていくアメリカ娘って、リアリティなさ過ぎないか? 酒場や警官に人種差別されても、事件は起きない。何もドラマが起きないとてもつまらなくて退屈な映画だった。ま、要するにまだ脚本を書くのに慣れていないのではないか。映画作りの勘所を捉えられていないのではないか、と思ったりする。
インサイド・マン6/26新宿武蔵野館2監督/スパイク・リー脚本/ラッセル・ジェウィルス
ひょっとすると、かなり洒落た映画なのではないかと思う。が、しかし、俺にはちょっと難解すぎるかも知れない。楽しむ勘所がつかみにくいんだよ、この映画。主なるストーリーはかなり分かりやすいのだけれど、あの、銀行家にまつわるナチスに身を売り渡して資産家になった云々の部分は、分かりにくい。それに、「おお!」と衝撃が走るような劇的展開にも感じられない。欧米では未だにナチの亡霊が映画や小説に登場してくるけれど、そんなにネタになるものなのだね。とも、思ってしまう。
銀行強盗。でも、すぐに発覚して包囲されてしまう・・・。で、包囲されたのは実は別の銀行で、煙は囮だとばっかり思っていた。そうして、本体は警備が手薄な別の銀行を襲っていた、とかね、ところがどっこい、そんな話ではなかった。っていうか、途中から、人質だった人々を尋問する様子がインサートされてきて、「なんなんだよ、これ」と思い始めた(ただし、その後の銀行内の描写はちょいと長すぎて、驚くような展開もなくて単調。ちょっとダレて眠くなった)。そして、メンバーのほとんどが人質と区別がつかないまま釈放され、さらには銀行家と市長のつてで、事件自体がもみ消されて行ったことまでは分かった。分かったのだけれど、で、あの犯行グループはどうやって銀行家の過去を暴いたのか? 誰のために暴いたのか? その秘密があの銀行のあの貸金庫にあることがなぜ分かったのか? というような疑問にとらわれてしまって、どーも入り込めなかった。
黒人刑事2人が白人警官を顎で使っていたりするのは、インパクトのある描写なのだろうか? そもそもデンゼル・ワシントンは有能じゃない刑事のように見えるん(っていうか、こいつらトンマなのか頭がいいのか分からん)だが、そういう解釈でいいんだろうか? 犯人たちはとってもカッコイイんだけれど、どういう使命感に後押しされて行動に走ったのだろうか? とかね。そういう、たいがいの場合は「なるほどね」と腑に落ちる展開をするのだけれど、そうなっていない。それが、いまひとつだな。それに難解だっていうのは、セリフの饒舌さも含めて、どこで笑ったり感心していいか分からないシーンが多々あったということだ。やっぱネイティブじゃないと、存分に楽しめないのかな。
テーマ音楽がなんかインドのリズムだったんだけど、なんか意味があるのかな?
初恋6/27新宿武蔵野館1監督/塙幸成脚本/塙幸成、市川はるみ、鴨川哲郎
うーむ。なんつーか、こう。ぐっとくるところはなかったけれど、見てしまったなあ。ちょっとびりびりきたのは、ラスト。あの仲間たちの消息が現れるところ。これは「アメリカン・グラフィティ」と同じ手法なので珍しくもないんだけど、それでも「そーか。そうなったのか」と、感慨深げ。
三億円事件を題材にしているけれど、どっちかっていうとロマンスの方に重点が置かれている。まあ、タイトル通りだ。といっても、恋ははかなく、そして、抑制が利きすぎている。そういう時代だったわけじゃないだろうな。まあ、主人公のみすず(宮崎あおい)が、母に捨てられ、叔父に育てられている=孤独=人に飢えている、という状況下にあったってことが影響しているのだろう。そして、そういう触ると壊れそうな繊細さをもつ少女に、宮崎あおいは、ぴったりだ。まさにもう、宮崎あおいのための映画、宮崎あおいを見るための映画なのかも知れない。
そのせいか、共演者は名前も顔も知らないような役者ばかり。まあ、あの時代の背伸びした青年たちを演ずるには、役者ずれしていない役者の方がいい、ってこともあるだろうけど。でも、青年たちがあまり光っていないのが残念。もちろん、演出のせいもあると思う。要するに、群像劇になってないのだ。これは意図したことなのだろうけれど、宮崎ばかりに偏りすぎて、他の連中の魅力を出し切れていないのだな。そもそも宮崎が兄のたむろっているジャズバーにやってくる、と宮崎の視点から描かれているけれど、むしろあのグループの誰かの視点でスタートした方が、よかったと思う。アングラ芝居を見に行ったシーンでグループの仲間の紹介が一気にされてしまうけれど、そういうご紹介ではなく、メンバーのエピソードを重ねていって、各自を紹介しながら時代の雰囲気や個々人のもつ悩み、考え方なんかを描いていくべきだったろう。そこに、1人の少女が迷い込んできて、仲間になっていく・・・の方が、自然ではないのかな。
淡い恋も、もうちょっと積極的な反応を描いておくべきだったよな。最終的に、三億円事件の発案者であり初恋の相手である東大生の岸は「消息不明」となっている。ならば、そうなる可能性の根拠を、描いておいて欲しかった。海外生活だけなのか、政治的に抹殺されたのか、それとも近くに住んでいたりするのか。映画なのだから、そんな手がかりが欲しい気がした。
1960〜70年代にかけての時代の空気を描こうとしているのは分かる。けれど、結局のところ素材は画面に散らしているけれど、空気感が漂ってこない。CGは最初の頃の伊勢丹だとか、それほど多くなくて(多分ね)、案外と実物を集めてきているように思う。けれど、そういうモノたちが、なんか浮いているんだよな。まるで60年代博物館のよう。そして、映されている画面の中だけに小さく置かれていて、画面のフレームの外まで見えてこないのだよ。まあ、銭を使えばもっとリアルは醸成できるのだろうけど、60年代末の新宿という街を描き出すには、セットもちゃちすぎる。いつも同じジャズ喫茶、同じ階段、同じ道路・・・。しかも、カメラを動かすこともできない。思い切って60年代の街そのものを創ってしまうほどのことをしなければ、ムリなのかもね。
リトル・ランナー6/28ギンレイホール監督/マイケル・マッゴーワン脚本/マイケル・マッゴーワン
原題は"Saint Ralph"。よくある類の設定、手垢のついた物語。なんだけど、主人公の少年ラルフの人物造形がとてもおかしい。日本の漫画の登場人物のようだ。マスかき、校則違反、うそつき。しかもトンマで恥知らず。いいとこなしの14歳。しかも、オヤジは名誉の戦死でお袋は現在入院中。どーゆーやつだ、こいつは、だ。きっとこれは、父親を早くなくし、母親に十分甘えられなかった反動に違いない。そう。不幸な子供だからといって、みんな暗いわけではないのだ。でもまあ、心の寂しさを紛らわせるために虚勢を張っていたり、バカなことをしていたともいえるんだけどね。やることなすことちぐはぐで単細胞。たったひとりの肉親の母が脳死状態(?)になっちまう。孤児院行きを恐れるラルフ。奇跡が起これば母親が眼を覚ます! と信じ込み、目標は一気にボストンマラソンで優勝、ってな話になるのが突拍子もない。しかも、実際に出場してトップを争って2位になるという、トンデモ話だ。こうやって書くとバカ映画のようだ。いや、前半はホントにバカ映画の色が濃い。でも、後半、マラソンに一途になる辺りから、ひしひしやってくる。でもって、マラソンのシーンでは手に汗を握り、ラルフを見守る人々の描写では泣けてくるざます。ううう。あまりにもミエミエの展開なんだけどねえ。
役者がみんないい。で、脚本がいいからみんな人物に厚みがある。主人公ラルフは別格として、ベッドに寝ているだけの母、同級生のメガネの友達、女友達、おばちゃん看護婦アリス、校長、元マラソン選手の先生・・・。みんな、生きてきた背景が見えるような描き方がちゃんとされている。この演出が素晴らしい。お話は、ありえねー! だけど、見ていると幸せになる映画なのだから、文句はない。
幸福のスイッチ6/29ル テアトル銀座監督/安田真奈脚本/安田真奈
今秋公開予定の映画。非公式ブログを見たら26日に初号試写が行なわれたばかりらしい。ほやほやの映画だな。なんでも自治体が費用の一部を負担し、自治体も制作に関与するシネマーケティング事業として制作されたらしい。その費用を出したのは和歌山県田辺市。の割に、地元らしさがあまりでてこない。思い返してみると、せいぜいミカン農家がでてきたのと浜辺(といっても、ただの浜辺だけど)が登場したぐらい。これじゃあ誰も田辺市だなんて分からないだろうし、ロケ地を訪れようなんて思わないだろう。お金を出しても地域への見返りがないんじゃ、今後、こういうシステムはつづかないんじゃないのかな。
田辺市は目だたなかったけれど、大きく目立っていたのが松下電器。っていうか、全編が松下の商品とサービスとイメージ広告そのもの。あまりにもベタな表現で、ちょっと鼻につく。きっとずいぶん金銭面で支援しているのだろう。けれど、やりすぎだと思う。だって、電気屋の話なんだぜ。でもって、主人公が家電店で、人間が脇役みたいな扱いになっている。顧客管理やサービスの話なんかをとうとうと描いているのだけれど、それって家電メーカーPRじゃないか。
絵が好きな娘が上京して挫折。一方、実家の家電店は量販店に押されている。父親が怪我で働けないので手伝っているうち、仕事を通して人とのふれあいを知る・・・って、よくある話で。で、枠組みが電気屋というのが珍しくて映画にしたのかも知れないけどね。
いまどき専門学校を出て、あんなヨタなイラストを描いて就職できる先は、ない。いや、あんなヨタなイラストで仕事になるなんて思っている学生は、いない。もうちょいリアルを追求してくれよ。量販店のおかげで息も絶え絶えの家電店。でも、描かれているのは20年ぐらい前の状況じゃないのかなあ。しかも、この映画に登場するイナデンは、まだまだ元気。現実はもっと厳しいと思うぞ。
妻と夫がつくった顧客名簿はファイルから外せない・・・。お婆ちゃんの耳は遠かった。だから補聴器。雷の日はトラブルが多い。こんな日にサービス力でお店の信頼を勝ち取ろう。それぞれエピソードとして悪くはない。視点は悪くはないんだけど、セールスプロモーションそのものすぎる。監督は松下でOL勤務歴があるらしいけれど、家電店に偏りすぎて人間ドラマが二の次になっている。
そのせいか、あんまり感動がない。店主(沢田研二)のモットーは、サービスは無料奉仕で人との交流を深め、それで仕事をとる、というもの。でも、かなりアナクロ。それに、人に奉仕すれば必ず報われる、という考えの押しつけにも思えてくる。俺は、怜が店内POPやチラシをつくったりして、それで、「いままでは自分本位過ぎた」と自覚する過程があるのかと思っていた。ところが、そういうのはなくて、怜が幼い頃に描いたカミナリ坊やが出てくるだけ。サービス巡回で人とふれあうぐらいで、怜が成長したりするっていうのが、いささか説得力不足。それと、父親の浮気疑惑だけれど、小さな街でそんなことがいままで伝わらないこと自体が不思議。っていうか、だって、相手の女は父親の病室までやってきているんだぜ。家族と合う可能性を考えていれば、浮気じゃないだろ。そのぐらい分かれよ。
最初出てきた沢田研二に気がつかなかった。あ、と思ったのは病室。なーるほど。さらに。その後も「上野樹里はどこにでてくるのだ?」としばらく思っていた。で、ひょっとして、この怜って女の子? と思って見ていたら、どーもそうらしかった。なんとも全然違う顔立ち、演技、性格で登場。気がつかなかった。いつも、ほよよんとした天然キャラなのに、こういう尖った役もこなすのだね。なるほど。怜の同級生のサービス担当の青年。なかなかいい役回りなのに、ほとんどクローズアップがない。っていうか、ちゃんと顔が見えるショットが1つしかなかった。なんか、画面構成もちまちまとモノが多すぎて、大胆な構図がとれていない。画面が、まだまだ素人な感じがした。ま、そのうち改善されるのかも知れないけどね。とはいうものの、大きな欠点はなく、ごくふつーの映画にまとまっているのは事実。あとは、切れ味だなあ。きっと。
マンダレイ6/30ギンレイシネマ監督/ラース・フォン・トリアー脚本/ラース・フォン・トリアー
「ドッグヴィル」はCATVで見ている。なんだかマーク・トゥエインの「ハドリバーグを堕落させた男」みたいなペシミスティックな映画だな、と思った。だって、最後は村人全部を殺しちまうのだから。で、この映画は「ドッグヴィル」のつづきらしい。するってーとあの、村人たちに奴隷のように扱われ、村の男に嬲られ、挙げ句に村人を殺してしまった女が今度はどういうことをするのだ? と、思うわけだ。なんとまあ、奴隷解放から50年(70年だっけ?)たっても奴隷制度を守りつづけてきた南部の農園にたどり着く。で、たまたま女主人が死んじまって、その後の奴隷解放と民主主義の実践を遂行することになるのだ。ところが黒人は自由や民主主義になれていない。計画性もないし共同性の意識もない。そして嘘つきだ。挙げ句の果てに綿花の売上金を1人の黒人が博打に使ってしまって仲間割れ。もともと農園にいた白人家族は逃げだし、黒人は何人か死んでしまう・・・。しかも、白人が黒人を管理・抑圧してきたと思っていたら、黒人の方から管理してもらっていた、というような様子が分かってきて、リーダーの女は愕然としてしまう! でもって、このままでは黒人たちの思想を教化されそうな雰囲気なので、ほうほうの体でトンズラする、という物語。
いろんな問題を提起しているように見えるけれど、案外と底は浅い。っていうか、奴隷および黒人差別というアメリカが内包する特異な問題なので、日本人から見ると「またかよ」ってな感じになる。いくら黒人差別をなくそうって言ったって無くならない(これこそ建て前と本音だと思う)国の、永遠のテーマなんだろう。こういうのが社会派になるのだよな。もったいぶって問題提起して、さも深い映画のように仕立て上げている、って感じしかしないのだけどなあ。で、8章に分かれているうち、1章の途中で眠くなり、3章の頭からはちゃんと見た。個人的には「ドッグヴィル」の方が面白いテーマを扱っているように思えた。「マンダレイ」の方は、いままでもよくある設定だと思う。

 
 

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