2006年8月

サイレントヒル8/1新宿ジョイシネマ2監督/クリストフ・ガンズ脚本/ロジャー・エイヴァリー
単なる通俗的なホラーかと思いきや、随所に耽美的かつ蠱惑的な色合いが見える。登場するフリークスや屍体たちは、怖さや生々しさより、完成度の高いアート作品のよう。通せんぼの怪人たちなんか、山海塾だよなあ。スプラッターシーンもあるのだけれど、グロじゃない。なんかこう、みんな乾いた=ドライなテイスト。監督が、美に対する世界観をもっているように思える。もっとも、原作は日本産のゲームで、すでにその中にこの世界観が形成されているのかも知れないけど。
話の構造が2層3層になっていて、それも面白い。現実の世界。母子と女警官が入り込んでしまった異界(パラレルワールドなのかな?)。その異界の中で、突然、サイレン音とともに始まる悪魔の世界。で、なぜそうなっているかは最後まで説明されないのだけど、交差しつつ出会わない世界が並行して存在しつつけるという設定は、良くあるといえばそうなんだけれど、SFではないホラーで使われているのが面白いと思う。
で、もの物語の本質部分にはいると、なんだか良く分からなくなってしまう。主人公の少女の母親が孤児院に置き去りにされた娘で、その娘の母親がみんなに嫌われて火あぶりにされた女? その怨念が主人公の少女をサイレントヒルに呼び寄せて・・・。で、パラレルワールドに未だに巣くっている連中(気にくわない相手を「悪魔だ!」と呼び、火あぶりにする魔女狩り連中)をやっつけて欲しいと思った? ううむ。でも、成仏できない怨念が少女を呼び寄せても、なんの足しにもならないだろ。その養父母も呼び寄せる積もりだった? ううむ、それはムリがあるよなあ。それと、パラレルワールドが本当の悪魔が棲む世界になってしまっているのは、なぜなんだ? 火あぶりにされた怨念から生まれた世界なのか? あの火あぶり女にあんなパワーがあるなら、自分だけで魔女狩り連をやっつければいいじゃないか? いやまて、そもそもあのパラレルワールドは、なぜできてしまったんだ? とか、突っ込みどころは多い。多いんだけれど、まあ、そういうのは"謎"とも呼べるわけで、謎は推測したり解釈することができるわけで、まあ、何度も見たりしてそういうのが楽しめる映画でもあるのかも知れない。とくに、なぜそうなったかの事実経過とその後のスプラッターは短時間にいろんな情報が詰め込みすぎで、1度では把握できそうもなかった。ビデオなら、何度も確認しながら見たいところだね。
というわけで、怖さはそこそこだけれど、それ以上の魅力があったりする映画だと思う。
ダ・ヴィンチ・コード8/4新宿武蔵野館3監督/ ロン・ハワード脚本/ アキヴァ・ゴールズマン
すべてが中途半端で、あまり面白くない。サスペンス性が乏しく、謎や秘密が解かれていくスリリングな面もいまひとつ。
キリストに子供がいた云々という、この物語の最大の要素が一般紙などで広く報道されてしまったことが、面白くなくなった原因のひとつかも知れない。ふざけるなと言うことで世界各地で上映禁止運動が起こり、それが新聞ネタになった。けれど、そのおかげで映画を見る楽しみが奪われたわけだ。
とはいうものの、キリストに子供がいたことがそんなに大変なことなのかい? というのも率直な思い。なにせキリスト教に詳しくないのでね。キリストは神と人間との仲介者みたいなもの(父と子と聖霊の三位一体)で、神ではないと思っていた。違うのかな? でも、映画によると「神である」派と「人間である」派がいて、争っているように見えた。ふーん。そういう争いがあるのか(って、それは映画の中の話だ、ってか?)。しかも、キリストの血縁を守る秘密結社(性的な儀式を含む怪しい儀式をしているみたい)が一方にい。かたや、キリストの神性を維持するためカソリックはこの血縁者を捜し出して抹殺してきた。その抗争が、またもや顕在化した・・・。というのが発端で、秘密結社のボスにしてルーブル美術館館長が殺された、と。そういうことでいいのかな? しかしなあ、館長が死ぬ前にダ・ヴィンチの人体図の恰好をする(ダイ・サインっていうんだっけ?)っていうのが、あんまり意味がねえっていうか、昔々の探偵小説にこういうのがあったよなあ、と懐かしく思わされた。なんか、とても古臭い謎解きスタイルだ。で、その後の謎解きは面白みに欠ける。
いやそもそも、館長があんな謎解きでマリアの墓の場所を知らせたりしないで、さっさと孫娘(オドレイ・トトゥ)に言えばいいじゃん。なに、まどるっこしいことやってんだよ。しかも、トム・ハンクスの大学教授を指名して謎解きに参加させる必然性がわからねえ。さらに、小道具の時代性がよく分からん。というのは、暗号ボックス(酸が入っているやつ)は誰がつくったものなのだ? で、それは何年前なのだ? で、そのときすでにルーブル美術館の中にマリアの墓石が収められていたのか? しかも、薔薇のラインの下に置かれていたのか?
ジャン・レノがカソリックの手先みたいな刑事の役で登場するけれど、ずっとトムとオドレイを追ってきたのに、最後にはとくに興味を示さなくなってしまう。あれは何故なんだ? どーもトンマな刑事を演じているだけみたいにしか思えない。まあ、原作は長大だから2時間30分に収めるのは至難の業だったんだろうけれど、けれど、やっぱりあらゆる面で中途半端。それに、たかがキリストが人か否かで殺し合いが起こったり、現実には上映禁止が起きるなんていうのは、日本人からするとバカバカしいったらありゃしない。ほんとうに、宗教というのはやっかいだ。
それにしても、字幕でがんがん説明するところが多いから、画面を見ているより字幕を読み続けているところが発生したりして、いささか焦る。まあ、仕方がないのかも知れないけれど、なんとかならんか、だねえ。
リトル・イタリーの恋8/4ギンレイホール監督/ジャン・サルディ脚本/ジャン・サルディ
「ダ・ヴィンチ・コード」を、欠伸をかみ殺しながら見て。遅い昼飯を食べた後なので確実に寝るだろうと思っていた。ところがどっこい。面白さに引きつけられてしまった。いや、とても面白い映画だった。それに、1950年代のオーストラリアに、多くのイタリア移民がいたことも初めて知った。そして、何より驚いたのは、写真婚である。これって、日本の移民なんかでもあったはずで、Webで調べたらカナダ移民というのがたくさんヒットした。他にもブラジルだのあちこち移民しているはず。で、こういう婚姻システムは日本人だけなのかと思っていたのだけれど、イタリア人もしていたのね。映画では文通の仲介者が登場していたけれど、このシステムは日本独自のものではなく、世界のあちこちであったシステムなのかも知れないぞ。たまたま日本の移民もそのシステムを利用して嫁さんをもらったのかも、ね。
敗戦国イタリア。その移民は戦前からもあったようで、映画に登場するジーノ(弟)の恋人(コニー)は、オーストラリア生まれのイタリア系(二世)ということになっていた。学校ではいじめられ、アメリカ風のファッションを取り入れ、髪も金髪に染めている。そうやってオーストラリアに馴染もうとしている様子が、かえって痛々しく感じられた。敗戦国に歴史あり。それにしても、移民先でも群れるのは、日本人だけじゃないのだよね。アメリカではマフィアになったイタリア系。それに、「マイ・ビッグ・ファット・ウェディング」なんていうギリシア系の映画もあった。やっぱり結婚相手は同国人、ってことになるのかね。それとも、移民先の人々との結婚は、難しいのかな?
真面目だけど陰気な兄(アンジェロ)。軽いけどイケメンの弟(ジーノ)。弟には恋人がいる。兄は写真婚に頼ろうとしている。しかし、いつも断られてばかり。じゃあ、弟の写真を同封してみよう・・・。というのが発端。で、了承の返事がきて、いよいよ花嫁がやってくる・・・。おいおい、どうやってここを乗り切るのだ? という興味で、引っ張ってくれる。ここは正直に告白して、とりあえずクリア。では、この4人はどうなっていくんだ? と、またまた引っ張っていく。この、観客の興味を引っ張っていく手際がなかなかよい。最終的にどういうくっつき方をするか、それは、いくつか予想した中のひとつに決着するわけだけれど、それなりに納得できるハッピーエンド。イタリアからやってくる娘(ロゼッタ)は沢口靖子似の、いささか下ぶくれが気になるけれど、可愛い。
アンジェロを演じる ジョヴァンニ・リビシは上手いんだけれど、奥手とか陰気という感じよりも、マフィアっぽい危険な感じがし過ぎ。もうちょっとシャイで弱々しい感じの方がよいような気がする。金髪をやめてイタリア人の顔に戻る弟の恋人(コニー)が後半はかなり目立っていて、とても得をしている感じ。映画の折り目折り目に出てくる絵描きがいて、喫茶店の壁を描いているんだけど、この存在がなかなか有効。移民たちのイタリアへの思いなんかを、上手く表現するのに役立っている。IMDbを見たら、ジプシーの絵描きになっていて、なるほどと思わされた。あ、それから。リトル・イタリーっていうのは、リトル東京なんかと同じに、イタリア人街のことなのだね。ずっと分からなかったよ。
字幕が下手だった。会話されている微妙なニュアンスが、どっちが何をつたえようとしているのか、意味が分からないところが何カ所かあった。もっと、ぱっと分かる言い回しにしてくれなくては困るぞ。
パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト8/7上野東急監督/ゴア・ヴァービンスキー脚本/テッド・エリオット、テリー・ロッシオ
面白いんだか面白くないんだか、よく分からない。ってーのは、前作の流れをあまり覚えていないから、登場人物それぞれの遺恨や思惑、対立関係なんかが分からない。分からないままどんどん進んでいくのを追っていくだけになっちまう。やっぱり、直近に前作を見ておかないと、面白さは存分に味わえないのかも。
最初の1時間ぐらいはそこそこ面白く見たものの、だんだんつまらなくなっていく。話がよく分からない(誰が何のために動いているのか、よーく考えても分からなかったりするようになっていくのだよ、これが)ので、話に入れない。感情移入もできなくなる。さらに、大蛸がCGなので迫力がないことおびただしい。アクションの仕掛けも、いまひとつ。それに、探していた宝箱が砂浜で呆気なく見つかってしまうのも拍子抜け。なーんかなあ。
ジャック・スパロウの動きがさあ、つまらなくなったよなあ。1作目にあった首をコキコキッとひねるような、チック症みたいな妙な動きが面白かったのに、今度のジャックは当たり前の動きになってしまった。キーラ・ナイトレイは、ずうっと汚らしい恰好で色っぽくない(ただでさえ貧乳で顔が曲がっているというのに!)し。それに、ずいぶん顔がでかく見える。おっ、と思ったのはむしろジャックの元カノの黒人女性で、怪しいオババ風を可愛く演じている。
ラストは、つづく・・・という感じなので、3作目が用意されているのだろう。その予告でもぶら下がっているのかな? と思ったけれど、ついていなかった。
森のリトル・ギャング8/10新宿ミラノ2監督/ティム・ジョンソン、キャリー・カークパトリック脚本/レン・プラム、ローン・キャメロン、デヴィッド・ホセルトン、キャリー・カークパトリック、
吹き替え版。お調子者のアライグマRJに役所広司。くそ真面目なカメに武田鉄矢。役所広司の声はキャラと完全に外れていて、浮いている。同じように本人の声そのままなんだけれど、武田鉄矢は合っている。技術もあるのではないのかね。
自然の森が開発され、住宅地に。わずかに残された山林部に棲む動物たちが、あたふたする物語。しかし、テーマが露骨で、ストーリーも単純そのもの。元にしたのであろう「平成狸合戦ぽんぽこ」とは大違いだ。で、何が言いたいんだ? 人間は山を開発してはいけない、というのか? 共存を訴えるのか? 人間の食べ物が動物たちを堕落させる、と非難するのか? いったい、何を主張しようとしているのか、さっぱり分からない。っていうか、設定は社会性が濃いけれど、実はなーんも主張していないのだと思う。単に設定だけを拝借しただけで、何かを訴えようと言う意思もない。あとはドタバタ・・・?
話にヤマ場がない。なんとなくだらだらと単調に進み、どたばたしてオシマイ。動物は可哀想、人間は非情、ということだけ印象づけて、なんの解決策もださないし問題提起もしない。それでいいのかよ。うーむ。アメリカ映画はあれでいいんだろうなあ。
最初は動物園の中かと思っていた。だって、クマの穴に「エサをやらないで」なんていう看板があるんだぜ。勘違いしたっておかしくないだろ。だいたい、クマの穴をそのままに開発難かするか? いや、住宅地のど真ん中に、自然のママで放置する一角を設けたりするか? 合点がいかぬ。
ラストがよく分からなかった。なんで人工衛星が爆発したりするんだ? 意味不明。それに、木の実も大量にあったけれど、あればどこから採ってきたのだ? なんだか、思いつきで派手にしただけ、みたいにしか思えない。ううむ。
子ぎつねヘレン8/15ギンレイホール監督/河野圭太脚本/今井雅子
動物ものである。話の流れとしては、泣かせる感動作にするはすだった、ようだ。しかし、どこにも泣く要素がない。ホンもいまいち。演出も下手。役者たちもいまひとつノッてない。ゆいいつ可愛い高校生役の・・・と思ったら中2の設定らしい。それはちょっとムリじゃないかと思うが、まあいい・・・小林涼子だけが見どころだった。
困るのは、だれも本気でつんぼ&めくらの子ぎつねを愛していない、ということだ。主人公の少年は、ペットを飼うような単純さで騒ぎ立てるだけ。獣医の大沢たかおは迷惑顔。大沢の妹役の小林涼子は、子ぎつねなんか珍しくもない、という表情。ひとつの命が誕生し、しかし、自然の中で生きていくことは困難で、さらに、獣医も見放してしまうなんとかいう奇病で命が持たないというはかなさを、少しも描ききれていない。見終わった印象は、狐は感染症(?)を持っているので、さわらないこと。病原菌が脳に行くと飛んだり跳ねたり奇行の末に死ぬので危険だ、ということだけだ。もうちょっと子ぎつねの立場に立ったエピソードを交えて、泣かせてみろよ、といいたい。
子供+動物でよくあるパターンなんだけれど、大人が「禁止」というとそれを子供が破り、子供が危険に陥って・・・結局助かって安堵というやつ。この映画にもでてくるのだけれど、このガキがとにかく言うことを聞かないのに、大人の俺は頭にきてしまっていた。俺の子供ならはり倒しているところだ。「言う通りにしろ!」と。たとえばそれが、親に半分捨てられたような境遇であることの寂しさの発露であることを強調するとか、なんとかできるだろうに、そういうこともしない。学校でもがんがんいじめられるかと思いきや、そういうわけでもない。さらに、海外へ撮影に行っていた母親はさっさと帰ってきてしまう。それじゃ、ガキに同情できないよな。そういう、同情されるような境遇に追い込んで、そこで子ぎつねと心が通って、反対ばかりしていた頑固な獣医の心を翻す、とかさあ、ドラマをつくってくれよ。
吉田日出子という素晴らしい女優を使いながら、ぜんぜん生かし切れていないのももったいない。リヤカーを引く姿が魔法使いのおばあさんに見える、という妄想にちょっと使われるだけ。そのエピソードは、どっかで上手く活用できなかったのか? 実は動物のエサを運んでくる農家のオバサンで、逃げたヘレンを探し出してくれた・・・とか。それと、ラストの砂浜で少年がわずかに咲いている花をむしり取る(子ぎつねに夏を見せてやるため・・・って、なんで花が夏なんだか理解不能)シーンは、花の気持ちになってしまって痛かった。花を殺すな! である。阿部サダヲもそうだよなあ。もったいない使い方だよ。それから。最後にカラープリントを屋外の物干しに干すシーンがあるんだけれど、ああやって干すかフツー。干さないだろ。家でカラーをプリントしたときはああするのか? 大沢がプリンターから出力しているシーンがあったけどなあ・・・。
ユナイテッド938/18新宿武蔵野館1監督/ポール・グリーングラス脚本/ポール・グリーングラス
アメリカっていうのは不思議な国だ。こういう、生々しい出来事までさっさと映画にしてしまうのだから。「ミュンヘン」もそうだ。もうすぐ公開の「ワールド・トレード・センター」もそう。しかも、そこそこ娯楽映画にしてしまっているのだからね。この映画も、下敷きになる事実がなければ、そこそこのサスペンス映画として評価される仕上がりになっている。「ワールド・トレード・センター」も予告を見るとニコラス・ケイジがでていて、消防士(?)の英雄譚になっているようだ。にほんでも「突入せよ!「あさま山荘」事件」があったけれど、はるか昔の、ほとぼりも冷め、犯人も確定している話だ。サリン事件は「日本の黒い夏-冤罪-」になってるけれど、監督が熊井啓だから、昔からある社会派ドラマの範疇を抜け出ていない。
日本のこうしたドラマには、ヒーローは出てこない。なんたって現実が下敷きだから、できないんだろうけど。けど、アメリカではちゃんと主人公がいて、ヒーローがいる映画になっちゃうんだよなあ。この映画に主人公らしい個人は出ていない。けど、乗客すべてが主人公で、乗客すべてがヒーローであるという視点がちゃんとあって、たんに事実を下敷きにしたドキュメント(みたいなテイストの映画)で終わっていないのが、アメリカらしい。
ドキュメンタリー映画みたいな手法(カメラがぶれたり、ムダなカットが入ったままだったり)で、淡々と話が進む。航空機の管制室みたいなところと、軍の管制室みたいなところと、機内と。だいたい3つの場面なのかな。航空機の管制室は2ヵ所ぐらいあったのかな。なにしろ、字幕がでるだけなのでピンとこない。しかも、説明はほとんど省かれていて、見えているもの、聞こえてくる会話も、いかにも生っぽい。生っぽいといえば、エンドクレジットにas himselfというのが何人かいたけれど、管制官や軍関係者で、何人かは現実の本人が登場しているのかな。まあいい。で、生っぽいだけで説明不足な感じはするのだけれど、それ以上、説明は要らないのだと分かってくる。要するに、何かが起こっているということが伝わればいいような作りになっているのだ。それじゃあ2時間もたないだろう、と思いきやさにあらず。派手なテンションはないものの、じわじわと緊張感がつたわっている。でも、その緊張感はかなり抑制されていて、ほとんど演出されていないのではないか、と思えるほどのストイックさだ。事実をそのまま放り投げるよ、ってな感じで映されていく。たとえばワールド・トレード・センターへの激突も、ユナイテッド93の機長室では「新米パイロットか?」という半ば冗談のような会話で表現される。2機目の激突を管制室の窓から見ているスタッフも、フツーの映画のように絶叫したり手にしたカップを落としたり、そんなオーバーアクションをしない。現実はこんな反応だったんだろうな、と思わせるような冷静さで描かれる。余計なSEもない。これがかえってリアルに伝わってくる
でも、この映画に描かれる機内の様子は、ほとんどフィクションだ。ハイジャック後に機内の電話を使って外部の人間と会話した内容をもとにつくられている(のだろう)。だから、実際に機長室に突入したのか、突入したのは誰か? 犯人の何人かは取り押さえられたのか? といったことは、作り話である可能性が高い。しかし、その作り話であることを払拭するようなリアルが、この映画にはある。抑制された演出が、作り話をリアルへと感じさせてしまうのだ。(乗客が反乱したのは電話で地上につたえられたらしい。コックピックに入れたかどうかは怪しいらしい。また、機体は空中で爆発していて、爆弾が爆発した説、空軍が撃墜した説などがあるらしい)
ワールド・トレード・センター、ペンタゴンと次々に激突する3機ではなく、なんだか変なところに落ちた1機に焦点を当てた、というのが成功の原因だろうな。じわじわと事実の重みを見せつけていく手際は、なかなか。多くの乗客・乗員、管制室のスタッフの誰をもクローズアップせず、個人としての主人公をつくっていないのも、これも大成功。アラブ人に対する嫌悪感を含み、誰が正しくて誰が正しくないか、という見解を述べていないのも、よいと思う。"この事実の重みを考えるのは、あなたです"といっているようで、口数多く説得されるより、見た人は考えざるを得ないはずだ。
それにしても驚くのは、軍や管制室の混乱ぶり。情報はまともに入ってこない。入ってきても間違いだったりする。軍では命令がまともに伝わらない。なんで? と思うほど、混乱している。事実はこんなものなのかね。
THE 有頂天ホテル8/20ギンレイホール監督/三谷幸喜脚本/三谷幸喜
2度目。別に見たくて見たのではなく、勘違い。9時過ぎから「カクタス・ジャック」を見るつもりでいた。でも時間がつぶせない。ならばギンレイですでに見ている「ブロークバック・マウンテン」と未見の「ぼくを葬る」の2本立てに入って、「ブロークバック・マウンテン」では昼寝すればいいや、と思って入った。ところが、インターバルが終わって予告が始まると「ブロークバック・マウンテン」のなんだよ。これから見る映画の予告をなんでえ? と思っていたら、「THE 有頂天ホテル」が始まった。おおお。ってことは、俺が1週間勘違いしていたってことか。ぐあああああ。たまたま上映開示時間が同じ3時40分だったので、入る前に気づくってことがなかったんだな。ぐをををををわわわわわ。マヌケだ。いいか、昼寝すれば。といいつつ見てしまった。
すでに見ているので、アラが見えにくくなっていた。スローテンポも、オチが分かるベタなギャグも、まあのんびり見ればいいか、という気分。そういう気分で接していたら、楽しく見られた。
カクタス・ジャック8/20シネマライズ渋谷監督/アレファンドロ・ロサーノ脚本/アレファンドロ・ロサーノ、トニー・ダルトン、クリストフ
7時前に勝一でおろしトンカツを食べ、ブックファーストで小一時間つぶして、8時過ぎに劇場へ。1時間あまりロビーで読書。で、「ダ・ヴィンチ・コード」が終わって出てきた客と入れ替わりに入場。
トンマな誘拐犯と、その周辺の人々が繰り広げるバカ話。けれどテンポが小気味よく、ちょっとしたエピソードも笑える。・・・のだけれど、どういうわけか腹具合がおかしくなり、パーティに到着した辺りで1度トイレへ。もどったらカーチェイスの最中だった。いいところを見逃した。糞。しかしおさまらず、2人の社員が誘拐犯につかまったところで2度目のトイレ。もどったら、ほとんど話は解決していた、クライマックスを見逃した。糞。ああああああああ。くやしい。せっかくレイトショーに行ったのに。とても面白かったのに。ああああ。そういえば昨日の三平堂落語会で鈴々舎馬桜が「真景累ヶ淵・豊志賀の死」を演じて、怪談噺を聞いたあとは寄り道しないでまっすくお帰りに・・・なにか憑きものが・・・なんて言っていたので直帰したのだけれど、1日遅れで憑きものがやってきたのか? あああああ。それにしても悔しい。原題は"Matando Cabos"。どういう意味なのだろう?
スーパーマン リターンズ8/22上野東急2監督/ブライアン・シンガー脚本/マイケル・ドハティ、ダン・ハリス
長いよ。2時間30分は長すぎる。もっと尺を詰めて30分余り削ると、もっとスピーディでスリリングな映画になったかも知れない。なんだか情緒的なシーンがやたら多くて、もっと人間を動かせ! と思ってしまった。
話がしっかりとしていないのも、気になった。悪党レックスが資金を得るためどこかの未亡人をたらしこむ・・・ってのがあるけれど、なんかなあ。せこくないか? 北極(?)にあるスーパーマンの秘密基地を簡単に見つけ出してしまうのも「?」。クリスタルとクリプトナイト(博物館にあるのを簡単に盗むってのも、なんだかなあ・・・)をセットにして海中に投げるっていうのは、ただのクリスタルの大陸をつくるのではなく、スーパーマンが嫌いなクリプトナイトを含む大陸をつくろうとしたから、なのかな。それで、スーパーマンが新大陸で腑抜けのようにやられてしまった・・・なのかな? それでは、痛めつけられたスーパーマンが怪我を押して新大陸を力づくでもちあげて宇宙に捨てるなんてことが、よくできたな。なんか、基本的なところが曖昧だと説得力がないよなあ。
前シリーズを全部見ているわけではないので、または、内容を忘れているので、ロイスとセックスしていたのは知らなかった。スーパーマンの子を宿しながら同僚と同棲(?)しているというのは、性的欲求不満からくるものなのかね。では、スーパーマンが戻ってきたいま、ロイスは男性問題で頭を悩ませてもいいんじゃないのかなあ。
CGがたっぷりの映画になっていたけれど、やっぱりCGのシーンはつまらない。俺はスーパーマンが新大陸に乗り込んでいった(クリプトナイトを感じたらさっさと逃げればよかったのに、と思う)あたりから眠くなり、新大陸を宇宙へ捨てる辺りまで眠かった。どこかで一瞬寝たかも知れないが、ほんの数秒だろうと思う。つくりものの派手さより、人間のドラマ、人間のアクションが見たい。こういう映画が好きで興奮する人もいるのだろうけれど、俺はダメだ。
ぼくを葬(おく)る8/29ギンレイホール監督/フランソワ・オゾン脚本/フランソワ・オゾン
「葬る」は「おくる」と読ませるらしい。どういう映画かほとんど知らないまま見はじめた。同性愛者の写真家30歳が、ガンで余命3ヵ月と診断される。その3ヵ月の日々を描いていくというもの。設定は珍しくはない。話もシンプルでひねりがなく、実をいうといささか単調。そこそこ面白いけれど、どこにも意外性がない。「なるほど」はあるけれど、驚きや感動はない。ちょっと長めの、どこかの宗教団体か末期医療病棟のオリエンテーションビデオみたいな感じもする。作り手の突っ込み方が中途半端なのだろうな、と思う。
キューブラー・ロスの『死の瞬間』によれば、人が死を宣告された後の反応は、否認→怒り→取引→抑鬱→受容という過程を経るという。けど、この映画の主人公は案外と早く受容レベルまで達して、余命を落ち着いて過ごしたように思える。なので、死の恐怖はあまりつよく感じられない。まあ、描写されない部分で路上のバケツを蹴飛ばしたり陰気に街をさまよったりしていたのかも知れないけどね。自分自身の哀しみよりも、残していくものたちへの惜別の思いの方が感じられる。だから冷静な態度に見えるのかも知れない。もうちょい未練を見せたら、人間らしく感じられたかも知れないのだけれどね。
主人公はさっさと現在のパートナーとの別れを演出する。家族の写真なんか撮らないといっていたのに、相性の悪い姉とその子供の写真をそっと撮ったりする。気が弱くなっているからなのだろうけど。両親や姉に、死が近いことを知らせる(哀しみの協調分散)ことができず、祖母にしかつたえられないのも寂しい。この祖母を、しわくちゃのジャンヌ・モローが演じているんだけど、なかなか色っぽいんだよ、これが。まあ、亭主が死んで、息子(写真家の父親)の顔を見ると亭主を思い出すから、って子供を捨てて出奔した女、って設定だから、色っぽくて当然なのかも知れないが。彼女も芸術家肌なんだろう。しかし、ちゃんと相談できる(甘えられる)相手が家族やパートナーにもいなくて、縁遠い婆さんの胸の中でしか泣けないのも寂しい、かも。
こういう周辺との別れの他に、自分の人生の継続、というテーマが挿入されている。代理父として他人の女房とセックスして遺伝子を残す、という行為だ。祖母の家に行くとき、たまたま立ち寄ったレストランのウェイトレスが相談を持ちかけてきたんだけれど、そんなことはフツーはあり得ないわな。あり得ない設定だけれど、同性愛者で子供は嫌いといっていた主人公が、死を目前に繁殖作業に励んでしまうというのが、人間らしいといえばそうなんだけれど、なんだかこれも哀しい。死を意識していない時の大言壮語はみんな嘘っぱちで、未練をいろいろとカタチにしようとしているのだね。こうやって現世とのけじめをつけて、死に向かう。悟りを開いた僧のようじゃないか。フツーの人間に、こんな人生の演出ができるのだろうか。こんなに淡々とした死、なんて、そうそう迎え入れられないと思うがな。
それにしても、両親や姉は彼の死にいつ気づくんだろう。元のパートナーも。そうして、どう思うのだろうか。そっちの方が気になってしまった。

 
 

|back|

|ホームページへ戻る|