2006年9月

UDON9/1新宿スカラ1監督/本広克行脚本/戸田山雅司
いつになったら面白くなるのだ・・・? と思いつつ20分ぐらい。タウン誌が売れ出す頃から面白くなってきた。最初の方の、ユースケと小西が遭遇するクマの一件→事故のくだりは、なんとかならんか。たとえば小西がド近眼で水たまりに落ちるところなんか、その後の展開にまったく活かされていない。意味ないじゃん。
さてと。タウン誌が売れて讃岐うどんがブームになる・・・というのは面白いのだけれど、ちょっと首をひねった。「これは、いつの時代の話なのだ?」と。もう何年も前からうどんはブーム。映画に出てくるような、小屋がけみたいな、自分で調理したり具を調達するようなうどん屋は、テレビでも全国的に紹介されている。タイミング的には、遅いのでは? などと一瞬、思った。で、見つづけていて、わかってきた。この映画は、全国的にうどんブームが広がる前に、地元香川・丸亀辺りで起こった出来事、ということなのだなと。その辺りが、ちょい説明不足なのではないかな。ユースケが帰国した時点で1989年(麺通団のホームページによる)、とかね。クレジットをインサートすべきだよ。でないと、うどんが全国的に盛り上がる過程、というのを実感するまでに、タイムラグができてしまう。つまりその、讃岐の人たちの間でも、うどん店の情報は"驚き"だったということが、すっ、と伝わってこなかった。伝わってくるのには、ズレがあった。こういうズレを解消するには、時代をはっきりさせるのが1番だったのではないかと思う。
うどん店の紹介が、ずいぶんある。で、それがつまらないかというと、さにあらず。どっちかというと、ドラマ部分よりも、店の紹介の方が面白かった。むしろ、ずっと店の紹介をしてくれた方がよかったぐらいだ。だけど、タウン誌の取材模様は、画面をマルチに区切ってがちゃがちゃと紹介される。なんか、もったいない。
肝心のドラマ部分は、取りだしてみるとかなりありきたりで、とくに意外性があるわけではない。前半はほとんどドラマがなくて、後半のユースケと父親の和解と、うどん店の再開のエピソードが主。和解の話はそれこそ手垢が付きすぎていて、つまらない。むしろ、ユースケの姉(鈴木京香)とその夫(小日向文世)もからむ、うどん復活の話の方が楽しい(もっとも、蕎麦と違って2週間ぐらいでそこそこの味が出せてしまうところが、いくぶんチープだけどね)。子供や学生が、貼り紙やノートに書き込むメッセージが、泣かせるしね。最後は、復活した松井製麺所に、次第に客が集まってくる様子のんだけれど、これははもう「フィールド・オブ・ドリームス」そのもの。そういえば、ユースケの夢がコミックでインサートされるのだけれど、手法は「キル・ビル」で、内容は「ブレードランナー」というように、いろんな映画の匂いをいろいろ詰め込んでいる。まあ、これも楽しい。ただし、問題があるとしたらラブ・ロマンスの中途半端さだろうな。ユースケと小西は、いったいどういう関係なのか? 互いに惹かれ合っている、というようなシーンはない。せいぜい、最後の方で小西がトータスの果樹園で「うどんブームがなければ、あの人に会うこともなかった」というようなことを言うのがせいぜい。では、ほのかな思いなのか? にしては、最後の最後に単身、ユースケに会いにアメリカまで行くか? ってな疑問というか不満があるわけで、あまりにも男女関係が希薄すぎて物足りない。といっても、誰がユースケに惚れたりするか、あのキャラで! とか、小西真奈美はセックスしません! とかいうこともありそうで、その辺りは微妙に逃げた、とも考えられる。
「サマータイムマシンブルース」で活躍した面々が、あのときと同じような役柄・設定でちょろちょろ登場するのが楽しかった。他にもちょい役でいろんな役者が顔を見せていたようなんだけれど、エンドクレジットをゆっくり見ていられない。だって、画面の半分で、その後、のドラマが進行しているんだもん。画面を見たりクレジットを見たり、忙しい。クレジットが終わってN.Y.マンハッタンのシーンで終わるのだけれど、まあ、このラストはご愛敬だね。
夢遊ハワイ9/5新宿武蔵野館2監督/シュー・フーチュン脚本/シュー・フーチュン
なんだか、よく分からない映画だね。軍隊になじめず脱走した青年。受験戦争から落ちこぼれた娘。この2人は、結果的にあちら側の世界の住人になってしまっている。で、そういう2人と、脱走兵を連れ戻しにやってきた兵隊2人が、のんびりと自然な生活をしてしまう。どっちが狂ってる、なんていえないよなあ、という話で、あちら側の世界の人を肯定的に見る場合に、よく使われる設定だ。でもこういうテーマは古いないよなあ、とも思う。
それでも前半はそこそこ面白く見られたのは、台湾の軍隊の描写が不思議だったからだ。上下関係が希薄。体罰もおふざけ気味。除隊寸前の兵隊と新兵も、先輩後輩みたい。夜の外出も、ちょくちょく・・・ってな、こんなゆるい軍隊があるのか? 映画だからこうなの? 本当にこんなだったりして。あのアップルちゃんというのは、どういう存在なんだろう。セックスのサービスもしてくれるの? それとも、飲料を出すだけなのか? 不思議なキャラだ。てなところで、主人公が脱走兵を迎えに行き、ついでに小学校の同級生の女の子を訪ねていく・・・という辺りまでは、まあ、楽しめた。けれど、そのあとの意外性がない。まず、主人公はなぜ突然この時期に小学校の同級生の、特定の女の子のことを思い出し、会いに行こうと思ったんだろう? 彼女が溺れる夢を見た? いや、なぜそんな夢を今さら見るんだ? そこに理由付け、説得力が必要だろうと思う。看護婦だと思って精神病院に行くと、患者だった、という展開は完全に読めてしまう。意外性がない。で、主人公と、同期の兵隊と、吉外になってしまった彼女の3人で、脱走兵を捜しに行くという設定のムリさ加減が苦しい。突然、登場する脱走兵。それから数日間の、海辺の村でのいい加減な生活は、北野武の映画を連想させる。つまり、その後の展開が読めてしまうし、描かれる内容も想像できてしまう。で、一件落着で、主人公と同期の兵隊の2人は、めでたく除隊になる、のだけど。正規の追跡隊がつかまえる前に探し出せ、と上官にいわれていながら、結果的に脱走兵を追跡隊に始末させてしまった落とし前は、ないの? とか、気のいいアップルちゃんはどうなるの? とか、退院したという小学校の同級生の女の子は、どの程度まで回復したの? とか、脱走兵の元彼女はなんであんな場面ででてくるわけ? いうことはほったらかし。ううむ。なんか、振り返ってみると設定も話の転がし方も結末も、みんなとてつもなくいい加減だなあと思うのだった。
ゆるゆるさ加減はいいんだけれど、もっと気持ちのいいゆるゆるさが欲しかったね。なんだか、とても中途半端。てなわけで、脱走兵が登場する辺りから少しうとうとしてしまったのであった。
ハチミツとクローバー9/5新宿ミラノ3監督/高田雅博脚本/ 河原雅彦、高田雅博
青春群像としては、そこそこ面白い内容になっていると思う。いくつかのサイトの書き込みを見ると、純情すぎるとか原作のイメージと違うとか、コミックが原作だとありがちな突っ込みがあるけれど、原作を知らず映画だけを見たら、並以上のデキだと判断してもおかしくはない。
舞台は美術大学。竹本君(模型づくりが好きなレベル)は、花本はぐみ(子供の心をもった天才少女)が好き。山田あゆみ、は、真山巧(建築)が好き。真山はバイト先の年上デザイナー原田が好き。原田は、亡き夫(?)が忘れられない。そこに、大学8年生の森田(才気あり)や、教官(花本はぐみの叔父)がからんで、の恋模様。・・・なんだけれど、ラブコメではなく、純粋青春物語だ。大学8年生がいたり、自閉症のような天才少女がいたり、設定は少女マンガ的なところはある。けれど、それほど突飛でもないし、とくに違和感は感じない。むしろ、海に向かって叫んでみたり、後半によくでてきた青春ベタなセリフ(たとえば中村獅童がいう「自分探しの旅か?」とかね)は恥ずかしい気もする。あの辺りをもうちょい洗練させるというか、言葉で言わずに絵で見せていくことができたら、もうちょいキレのある映画になったんじゃないのかな。
いまどきの、いかも美大生が純情すぎるというけれど、ああいう学生諸君だって、いないことはないだろ。色事飲酒喧嘩嫉妬蔑視自殺後悔自堕落を描けば青春というわけでもなし。それよりも、なるほどと思ったのはキャラクターがそれなりに色づけされていること。みんながみんな油絵で切磋琢磨してる、というのではなく、主人公の竹本君はどっちかというと才能は並。芸術家肌というより職人タイプで、みているときは行く末を心配していたのだけれど、宮大工に弟子入りしそうな成り行きがでてきて、よしよし、と思った。発育不全自閉症気味の天才少女は、あぶない感じ。いつかはあっちの世界に行ってしまうそうなところで止まっている。竹本君と恋愛関係にはなれそうもないだろ。8年生の森田君は、計算ができる芸術家。才能はあるけれど、ちゃんと冷静に自分を見つめられる。真山君は、商業デザインに行きそうな感じ。建築科なのかな。芸術家というより、ビジネス指向なのかも知れない。もっとも、ストーカーばかりしているのは、危ないけれど。・・・というように、凡人もいれば作家性のある学生もいる、天才もいる。そうして、それぞれのレベルで限界を感じたり、将来を悩んだりしているところが、説得力がある。もうちょっとこっちの世界を描き込んで、セリフにも厚みを持たせてくれると、もっといい映画になったはず。でも、そうすると原作からは離れていくだろうけど。
こういう映画の宿命として、絵が登場する。天才が描いた絵があんなレベルかよ、という意見も出るだろ。でも、絵がいまいちというのは、仕方がないことだろうと思う。きっと、どんな絵をもってきても不平不満はでてくるに違いない。あー、そうそう。とても気になったのは、何回か登場する、CGの猫だ。本物を使わず、あえてCGにした理由って、なんかあるんだろうか? タイトルの「ハチミツとクローバー」とか、森田がつくった羽の生えた動物の人形とか、小道具としてあまり活用されていないのが、ちょっと不満。せめて「四つ葉のクローバが見つかった!」ぐらいのシーンを入れても良さそうなものだが。
グエムル -漢江の怪物-9/11有楽町スバル座監督/ホン・ジュノ脚本/ホン・ジュノ
期待が大きすぎたせいか、満足度は低い。とくにラストへかけての展開があっさりしすぎ。おい、もっと裏はないのか、どんでん返しはないのか?
事前に耳に入ってしまっていたのは、いままでの怪獣映画と違うということ。怪獣が主体ではなく、逃げる家族のドラマであるということ。では怪獣は出ないのかと思っていたら、テレビCMで怪獣がぶらぶらしているシーンが一瞬目に入ってしまった。なんだ、怪獣は出るんじゃないか。で、見はじめたら何とすぐに怪獣は登場し、がんがん暴れまくっている。なんだよ。人間ドラマもロクに始まっていないのに。しかも、真面目なのか冗談なのか分からないようなシーンが多くて、かなり笑える。っつーか、これってコメディ的要素の方が強いだろ。人はバンバン死んでいくのだけれど、あまり可哀想感はない。いやその。怪獣がたいして怖くないし、おぞましい感も少ないし。CGが下手で浮いてたりするから、リアルな感じが少ないのだよね。そんなせいもあって、笑っちゃうところがふんだんなのだ。
怪獣に食べられたと思っていた娘が、生きていた。その娘を助けに行こう、という家族4人のすったもんだが描かれている。オヤジはグータラ。そのせいで女房には逃げられている。兄弟は2人。兄はいい年こいて大卒のフリーター。妹はアーチェリーの選手だけど、どっか抜けていていつも銅メダル。父親はしがない売店の店主。もう、ぜんぜん恰好よくなんかない。こういう連中が、軍隊や警察や病院のガードをかいくぐって脱出し、怪獣をやっつける(?)までの話。なんだけど、病院から簡単に抜け出せたり、銃やクルマが簡単に手に入ったり、この売店の店主は一体何者なんだ? と、思っちゃうよな。あまりにも、軍隊・警察はザルに描かれている。だいいち川岸をうろうろしていたら、簡単に見つかっちゃうだろ? それに、携帯の逆探知で娘の居所が分かる(電話会社の社員レベル出だぜ)のに、警察は本気で娘を捜し出さないとか、ちょっとあり得ない設定だったりする。ま、体制批判なのかも知れないけどね。でもって、その体制の裏にはアメリカ人がいて、アメリカの言い分にはいつだって逆らえない。もともと怪獣ができたのだって、アメリカ軍技術者の命令で韓国人技術者が川に毒薬を流したから、ということにになっているし。反体制、アメリカ追従批判が色濃い映画だ。
メッセージはストレート。どこにも捻れているところがない。それが、いまひとつ共感できないところでもある。この映画の裏的な設定としては、ウィルスの存在、がある。怪獣に触れた人は感染者。だから隔離する。その体制側の管理体制が、虚偽だったこと。ウィルスなんか発見されなかったこと。じゃあ、その情報はどこからきたのだ? たとえば、アメリカが極秘に研究していたDNA再生プロジェクトがあって、そのDNAが川に流れ込んで怪獣が・・・とかね、あった方がよかったんじゃないかな。なんだか、単に怪獣と為政者に振り回された哀れな家族、ってだけの映画になってしまっていて物足りない。それに、ラストで妹はアーチェリーの特技を活かしてちょっぴりヒロインに、主人公のオヤジも怪獣と戦ってとどめを刺すけれど、どーもヒーローにはほど遠い。だいたい、怪獣はアメリカ軍が提供する、よく分からないガスでヨレヨレになっていたわけだし。で、どうしてそれが怪獣に効くのかの説明もなかつたけどね。もうちょっと生身の人間が怪獣とガチンコで戦ってくれてもよかったような気もする。それに、中学生の娘も、馬鹿力を発揮して怪獣を出し抜くとか、爽快感の残るラストにして欲しかった。あんな終わり方では、心がもやもやしたままだよ。つまらなくはないけれど、ツメがあちこち甘すぎる。完全にコメディにするわけでもなく、リアルにするわけでもなく、中途半端がもっともいけなかったような気がするなあ。
そうそう。俺がこの映画で助演賞をあげるとしたら、レイチェルの従姉妹の弁護士か、医者役のピート・ポスルスウェイトだなあ。
ブロークン・フラワーズ9/12ギンレイホール監督/ジム・ジャームッシュ脚本/ジム・ジャームッシュ
やっぱり何が言いたいのか、よくわからなかった。それで何なのよ? だ。で、前回、見逃していたかも知れない1カットは、たぶんクルマに乗ってる太った少年がビル・マーレーの方をじろっと見るところだろうと思う。前回見たような気もするし、見ていないような気もする。で、その映像の重要性といえば、ビル・マーレーの着ているのと同じストライプの入ったジャージを着ている、ってところぐらいか。最後にサンドイッチを食べさせた青年も同様のジャージを着ていたので、"似たような青年はこの世にいくらでもいる"ってことをつたえようとしたのかも。それ以上の意味はないように思う。
疲れていて、しかも食後すぐだったので、ピンクの手紙が送られてきたところで寝てしまった。どうせラスト近くだけが見られればいいや、と思っていたので、抵抗せずに素直に寝た。気づくと、最初の家に訪れるところで、娘が招き入れるところだった。そこからは、ラストまでちゃんと見た。それにしても、冴えない風采のビル・マーレーが、若い時にあんなに多くの女性と恋愛関係または同棲状態にあったなんて、なんか信じられない設定でもあるね。
ナイロビの蜂9/12ギンレイホール監督/フェルナンド・メイレレス脚本/ジェフリー・ケイン
「ハムナプトラ」のレイイチェル・ワイズがアカデミー助演女優賞を獲った映画だ。レイチェルは目玉と胸が大きいだけの大根だと思っていたけれど、この映画でも大した演技はしていないと思う。知的な感じはしないし、バカキャラを排したお陰で可愛さはなくなってしまっている。ちっとも魅力的な女じゃない。しかも、さっさと死んでしまう。なるほど、だから助演女優なのか。ポスターのイメージからは、てっきり主演クラスの活躍をしているのかと思っていたよ。まあいいけど。
ポスターでもアカデミーでもレイチェルがフィーチャーされているから、ナイロビを舞台にしたロマンスかなんかかと思っていた。が、どうだ。ずいぶん骨太なサスペンスで、テンポがいい。ちょっと見、過去か現在か分からないような映像をインサートして、しだいに分からせていったり、テクニックもさりげなく強い。サスペンスなのに情感のあるシーンも効果的に挟み込んだり、手際がいい。ところが、途中からあれこれ混乱が生じてくる。というのは、会社名や人名が頻出し、覚えるのもままならぬ。まして、製薬会社とそのバックと英国外務省とその官僚たちとの関係が、わけが分からなくなってくる。あとはもう、雰囲気で見ていくしかなかった。なんとか大筋はわかったけれど、細かなつながりなんかは納得できないまま。ううむ。字幕を追っているような見方では、把握するのは難しい。なので、大きな枠組みは「エリン・ブロコビッチ」みたいな感じなんだけど、製薬会社の儲けだとかバックの方々の利益だとか、大きなお金の流れがあるせいか、主人公たちは正統な主張もできないまま抹殺されてしまう。ううむ。アフリカがらみの利権は、闇が深いのかも。
しかし、外務省の書記官が、あんな社会運動家みたいなレイチェルと恋に落ちて結婚する、ってこと自体が、レイチェルの仕掛けた色仕掛けのサギみたいな気がしないでもない。利用しようとしたんだろ? やっぱり。そうとしか考えられないよな。そういう女なら、亭主の同僚に色仕掛けで迫っていくのも理解できるような気がする。うがった見方だと思われるかも知れないけど、ありそうなことだと思うぞ。
それにしても、だ。アフリカの悲惨さにつけこんで新薬の治験・開発を行なおうという製薬会社。世間的には悪いことだとは思うけれど、西洋的な視点からだったら、ありうるだろうな。しかも、とくに罪悪感を感じずに、ね。だって、ユダヤ人を大量虐殺した人種だ。いくら本音はそうでも、現在社会では建前上、そんなことはできない。人類はみな平等、ということになっているからなあ。というわけで、いまのところの正義は建て前の方にある。アフリカ人を救おう、というわけだ。だから、アフリカ人を人とも思わないようなことをしている連中は、この映画の中の悪人たちのように、社会悪になる。なので、こういう映画にアカデミーは積極的に喝采を送る、のかも知れない。迫害されたユダヤ人=貧困のアフリカ人という図式で共感しているのかも知れない。でも、ユダヤ人は一般の西欧人より知性が高く発明や金儲けが上手だ。かたやアフリカ人は、学問がなく野蛮だし好戦的で貧乏だ。社会を揺るがす新しい病気・エイズなんかもアフリカが発祥の地、と蔑まれている。実態はなんとも対照的だけれど、アカデミーにとっては恰好のプロパガンダ何じゃないかと思う。というわけで、薬害問題、アフリカ、人種差別、エイズ、同性愛者のアフリカ人・・・と、アカデミー好みの要素も盛りだくさん。賞をとるための細工がいろいろとしてある、という気がする。
アフリカ諸国も、内戦ばかりしているからいけない。目先の欲で横領やワイロを横行させたり、黒人同士の部族差別で殺戮したり、やっていることも前近代的。こういう人たちが武器職人から最新の機関銃を買い付けて、バリバリやってるわけだ。もうちょっと思慮深くなってくれよ、アフリカ人のみなさん、と思ってしまうところも、少なからず感じた、のだった。いくら白人が背後にいたからといって、なんでもかんでも白人が悪いといってないで、自らの力で成長していって欲しい。援助をもらい慣れた人たちは、堕落していく一方だ。そんなんじゃだめだろ、と思うのだよなあ。せっかく助けた子供たちだって、あと10年もたったら銃を片手に狂喜乱舞の殺戮を行いかねないのだよ。
佐賀のがばいばあちゃん9/13上野東急2監督/倉内均脚本/山元清多、島田洋七
ばあちゃんに吉行和子。きれいすぎて、下品でがめつい感じが出ていない。母親が工藤夕貴。童顔過ぎて、苦労の絶えない母親に見えない。で、原作者が漫才師の島田洋七なのに、現在の僕は三宅裕司のサラリーマン。なんか、リアリティが足りない。
舞台は昭和34年の広島。父親に先立たれたとはいえ、小学校3年生にもなるのに「かあちゃん、かあちゃん」って、いつまでだだをこねているんだ! ってな気分になった。その甘ったれだけじゃなくて貧乏が最大の原因だったんだろうけれど、少年は佐賀の祖母のところに1人で送られる。だが、ここで疑問がひとつ。なぜ母親も佐賀に帰らないのだ? 実家があって祖母(吉行)がいる。姉(浅田美代子)だっている。なのに広島で飲み屋をつづける。婆さんに1人暮らしさせないで、娘2人で世話すればいいじゃないか。理由があったんだろうが、映画には描かれていない。勘ぐってしまう。
吉行ばあちゃんは貧乏という割に広い家に住んでいる。小川をまたいで地所があり、橋を渡って竈がある。オシャレだね。吉行ばあちゃんは毎日早朝から仕事に出かけている。そこそこ稼いでいるんではないの? 本当に貧乏なのか、単にケチなのか、わからん。俺にはケチにしか見えなかった。
ケチなので、孫には何も買ってやれない。工藤夕貴の母親は、稼いでいるんじゃないの? 浅田美代子の姉は、資金援助ぐらいしてやれないのか? なんか裏がありそうだ。穿った見方は、置いておこう。ちょっと涙目にさせてくれたのは、運動会のとき、先生が弁当を交換してくれ、と言ってくるところ。あとは、涙腺への刺激はなかった。
主人公の少年が、あまりに単純なのにも驚く。冬は電車が動いていない、なんていうことを素直に信じてしまう。そんなこと、1週間も住んでいればわかるだろうに。バカバカしいったらありゃしない。お金がかかるスポーツはダメ、といわれて素直に運動場を走りまくる。小学校3、4年で、なんと単純なんだ!
こんなアホなのに、田舎でイジメに遭わない。どころか、すぐに地元に馴染んでしまう。このあたりが、人間の質の問題なのかと感心してしまう。それとも、佐賀の人々は他人に対して寛容なんだろうか。
たいしたエピソードもなく、どーでもいいような小ネタがつづくせいか、映画のテンポはとてもゆるい。何か事件が起こるのかなと思っていたので、かなり拍子抜け。そういう部分を補うためか、現在の俺(三宅裕司)が過去の自分を見る、という構成を取っている。これは、別になくてもいいんじゃないかと思う。それより、最初だけでてきた姉一家のことや、母親の病気や店の状態、ばあちゃんの仕事ぶりや、その後の様子なんてことの方が、気になる。自転車とぶつかったシーンでは、相手の女の子と何かあるのかな? と、思ったけれど、何もない。なんか、物語に広がりがない映画だ。佐賀の街(といっても、佐賀のどこだか知らないが)も、橋ばかりしかでてこない。もうちょっと工夫しろい! と思ってしまった。
驚いたのは、吉行ばあさんの年齢設定が、58歳ということ。「その歳で子供を育てるのは大変だろう」といわれる歳だったのか。ふーん。いまなら40過ぎて出産という人もすくなくないから、58歳でも子供が成人していなくてもおかしくない。ばあさんというより、お母さんと呼んだ方がいい年齢だ。おばあさん、なんて呼んだら目をつり上げて怒る人も多いはず。吉行の若顔と相まって、ますます"ばあちゃん"イメージからかけ離れていってしまう。
LOFT9/18テアトル新宿監督/黒沢清脚本/黒沢清
例によって何か怪しい雰囲気で始まって、泥を吐くだのミイラだの亡霊だのをだしてくる。さて、どんな方向にもっていくのかな? と見ていたら、れっきとしたホラーよりも怖いところがずいぶんでてくる。れっきとしたホラーは、怖いよ怖いよ、ほら、怖いよ、というような見せ方をするし、音楽もわざとらしい。そんな感じではないようなのに、ちょっとざらついた感じで、生々しく気色が悪い。別にミイラが、というわけでなく、れっきとしたホラーではない生々しさが滲み出ているのだ。とくに、カメラが誰かの視線のように動くことが多くて、誰かが見ている、という感触が伝わってくるのも気持ちが悪かった。俺は恐がりで、ホラーは嫌いなのだ。
ところが、話が形而上的になっていくとか不可思議さを増していくとか意味不明になっていくとか、そういうことがなくて、どんどん、れっきとしたホラーの方向に傾いて行くではないか。部屋の隅に立つ亡霊、ガラス越しにへばりつく亡霊、手形・・・って、これってもう清水崇の領域なんじゃないの? だんだんチープになっていく。そうして、ひょっとして、そんな方向に進むのかい? という、ありきたりの解決編に突入し、中谷美紀の部屋の前の住人や、その住人(安達祐実)が編集者(西島秀俊)に殺されただとか、死骸は教授(豊川悦司)が掘り出し、ミイラにするため池に沈めた・・・なんていうことが明らかにされていく。おいおい。これってもう、単なるホラーじゃん。展開はとくに珍しくもない。っていうか、ミイラの存在はどーなっちゃったんだよ。なんか、ミイラが置いてきぼりになっちゃったって言うか、ホラーの引き立て役なっちゃってるじゃないか。
ってなわけで、3/4ぐらいは怖がりながらも面白く見たけれど、後の1/4はとてもつまらなかった。手垢の付いたホラーなんかにせず、教授のミイラへの偏愛物語にでもしたほうが、よいと思うぞ。だって、中谷が泥を吐いたってことの意味が、どこにも示されていないじゃないか。実は中谷はミイラに憑依されたとか、先祖がミイラだったとか、書いていた物語に関係していたとか。はたまた、昔、ミイラを殺したのは陰陽師だった豊川の先祖で・・・とか、なんかつながりがないと、中谷が泥を吐く理由がわからない。安達祐実の亡霊が中谷と豊川にだけ寄りつくのも、なんか変じゃないの? 恨むなら、西島編集者を恨め、といいたくなってしまった。それと、豊川が中谷と穴掘り作業をしているとき、突如、中谷の名前の方を呼び捨てにして、さらに抱擁接吻までしてしまうって、いつのまにこの2人はそういう関係になっちまっていたのだ? よくわかんねえ。それと、西島が安達を殺した理由も、いまひとつ分からない。西島は中谷に性的に迫っているわけでもない。いったい、何が目的なんだ?
中途半端に答えなんかださずに、辻褄の合わない不可思議な世界の方に突っ走ってくれた方が、それはそれで面白かったのではないか、と思ったりする。
靴に恋する人魚9/19新宿武蔵野館2監督/ロビン・リー脚本/ロビン・リー
何だよこりゃ。これが人に見せる映画かよ。ひたすら退屈で、なんとか眠ることなく見終えたけれど、ラストになっても何もないからっぽの映画だった。本編に挟まれるちょっとしたエピソード、のような話を延々90分もだらだらやられた日にゃたまったもんじゃない。ドラマのかけらもなく、動く紙芝居のような塩梅で、各シーンの描写にナレーションがかぶる。まるで退屈な絵本を見せられているようだ。まあ、絵本を見せる、というのは当初の目的なのだろうけれども、こんなつまらない絵本は困るよね。ビビアン・スーもアイドルって年齢ではないし、彼女が画面に出ていればそれで満足、ってなわけにもいかないだろ。といいつつ、他に見るところもないのでビビアンしか見ていなかったけどね。時間の無駄だった。
バックダンサーズ!9/20新宿ミラノ3監督/永山耕三脚本/永山耕三、衛藤凛
尺が長い割に人物造形もいいかげんでエピソードも希薄。なにより、登場人物たちによる対立、克服、昇華といったドラマがほとんどない。テキトーに気分で進行し、気分で終わっている。つまり、中味がスカスカ。何も記憶に残らない。これで、見ている間は気持ちいい、というのならまだましなんだけど、音楽やダンスもヘロヘロで、盛り上がりがない。これは、撮り方にも責任があると思う。ダンスシーン、クラブでの群衆シーンなんか、みんなミドルかロングでだらだら撮ったものをそのまま映しているのだ。踊りの迫力より、リズムに合っていない周辺の人々が目に入ってしまったりで、情けないことこの上ない。ヨリとかカメラぶん回しなんかをインサートして、リズムに合わせればもっと軽快でノリがよくなったはず。で、音圧も弱くてクラブの熱気がほとんど伝わらない。もっとガンガン鳴らせよ。音楽。
その音楽だけれど、耳に残るメロディやフレーズが全然ない。なんとかしてくれよ。実はメンバーの父親で幻のミュージシャン陣内孝則の曲も、ちょっと使われるだけで、活かされているといえない。最後のコンサートシーンで、その父親の音楽を歌って再ヒットさせるとか、新曲の方を陣内と一緒に歌うとか、そういう趣向でもあるかと思ったら、それもない。なんだよ。つまんねえの。
4人がバックダンサーズになる過程が、省略されすぎ。あれだろ、3人のうち1人ジュリがアイドルでスカウトされ、売れず。イメチェンして売り出したら大当たり。そのバックを元々の仲間2人と、プラス2人でやってるんだよな。フツー、そこまで出世する間にもの凄いドラマがあるんじゃないのか? それに、そのジュリが音楽会社のドル箱になっている・・・のなら、一緒に踊ってるダンサーは、すでにスターだよなあ。なのに、ジュリの引退宣言とともに失職して・・・って、なんか、考えられない展開。もうちょい、リアルにやってくれ。それに、ラストコンサートの意外な評判に、音楽会社のプロデューサーらが行くと、「インディーズでデビューが決まってますから」と宣言するのは、その、音楽会社の社員であるマネージャーと、同じ社員の木村佳乃なんだよなあ。そういうことって、あり得ないだろ。
バックダンサーズ4人に、あまり魅力がない。平山あやは、悪いがすでにオバサン顔になってしまっている。ソニンは、女子プロ体型だ。hiroはちっとも美人ではないし、サエコはいかにも頭悪そう。でその、サエコが撮ったはずの乳だし写真は、スキャンダルにならなかったのかな? あ、あと、あんなステージを組んで「使用許可を取っていない」なんてこと、あるのかい?
東急レクリエーションの資本が入っているようだけれど、もうちょっとマシなことにお金を使って欲しい。
パビリオン山椒魚9/20シネセゾン渋谷監督/冨永昌敬脚本/冨永昌敬
歌舞伎町の台南担仔で定食を食べて満腹。そのまま渋谷に行って、この映画。寝るに違いない、と思っていたけれど、その通りになった。映画が刺激的ならそんなことはないのだけれど、冒頭から20分ぐらい見ていて、何が何だか分からない。人物関係も分からない。ふっ、と最初に山椒魚を盗むところで5分ぐらいうとうとし、20分ぐらい見ていたのだけれど、何が何だか分からない状態がつづいていたので、映画に入り込めず。また寝てしまった。後半の1時間近くは見たような気がするのだけれど、それを見ても、何が何だか分からなかった。
思わせぶりなこと、ものがちょろちょろと出てくる。意味ありげ、なんだけれど、きっと大した意味はないと思う。映画的神話の存在は知っているけれど、その必然性もないのに、また、そうせざるを得ないわけでもないのに、かっこづけでやっているだけ。シリアスっぽいかと思えば、突然、コメディタッチ。だけど、センスのないコメディで、とても笑えない。フツーの映画的文法から外れた演出やつなぎ、セリフも、うっとーしー。邪魔だ。フツーの映画をまず撮れ。それから、遊べ、といいたい。
山椒魚も、ビニール製か合成皮革の縫いぐるみか、チープすぎて笑えない。音楽は、菊地成孔のサックスが立派すぎて、浮いてしまっていたなあ。東京テアトルの資本が入っているようだけれど、もうちょっとマシなことにお金を使って欲しい。
ルイーズに訪れた恋は…9/22銀座テアトルシネマ監督/ディラン・キッド脚本/ディラン・キッド
原題は"p.s."。「追伸」か。誰への手紙なんだろ。よくわからんが、まあいい。
コロンビア大学の入学選考部長ルイーズが、入学志願の男子生徒スコットに色仕掛けで迫り、半ば無理矢理犯してしまうという話。濃厚なセックスシーンを3つほど入れたら、そのままポルノになってしまうような脚本だ。展開はそこそこ面白く、かなり笑えるところもある(といっても、本人たちは真面目なんだけれど、傍から見ているとおかしい、というようなシーンが多い)。なんだけど、ツメが甘い(と思える)ところがいくつかある。
俺は最初、スコットは、ルイーズの昔の恋人の息子かと勝手に思いこんでいた。名前と住所で判断して、それで、面接に呼び出したのだ、と。なので、面接の後、熟女が自分の部屋に若者を呼び込んでワインを飲ませ、同じソファに座るという、どう考えたって"誘っている"としか思えない行為に"オトコ日照の女なんだな"と思っていた。そして、昔の恋人の息子にまたがるなんて下品、と思った。とところが後半になって、それが間違いだと分かった。「F.スコット」という署名が、昔の恋人と同じだっただけなのだ。それがわかって、前半のドタバタを思い返すと、なるほど、と思うような個所もでてきた。ルイーズの前に現れたのは、昔の恋人そのもの、なのだ(恋人は交通事故死している)。そう考えると、ルイーズのはしゃぎっぷりが、可愛く思えてきた。39歳の熟女ルイーズは、突如、17歳の女子高生になってしまったんだ。つまり、自室に呼び込んで「はやくはやく」と迫るのは女子高生の態度そのものなのだ。
スコットが、名前も性格も昔の恋人にそっくり、ということが早いうちに分かっていたら、ルイーズの態度に、それほど嫌悪感を感じなかったかも知れない。とはいうものの、それをさっさとバラしてしまうと、謎がなくなってつまらなくなるのかも知れない。一般的には過去の出来事をフラッシュバックでインサートするのがよくある手法だけれど、そうはしていない。ま、監督の趣味嗜好なのだろう。
それにしたって、名前が同じだからって特権を利用して面接に来い、と電話し、いきなり自室に誘ってあれはないよな。スコットだって、やる気まんまんの、そこそこましなオバサンなら、相手をしちゃうだろ。後半の展開では、「僕を捨てるのか」なんてスコットに言わせているけれど、それほどスコットがルイーズにぞっこん、という感じには見えなかった。2人の関係を、もっと微妙に表現した方がよかったんじゃないのかな。名前も性格も似ているスコットに、興味はあるけれど言いだしかねているルイーズ。そんな彼女に興味をもつスコット。何かのきっかけでスコットの方からルイーズに接近して、キス…。それはいけないわ、という感じでキスを拒みながら、結局、腕を首に回すスコット…。いけないわ、こんなこと、といいつつ、ベッドへ…。というような、スコットの方から誘惑した、ということにしておかないと、どーもルイーズが悪者になってしまうような気がする。
それにしても、ルイーズは生徒に手を出す。別れた亭主(コロンビアの教授)はセックス中毒で、毎年のように女子学生をつまみ食いって、おいおい。それって大いに問題あり、じゃないのかい?
ルイーズの昔からの友達は、あまりその存在に意味がないような気がした。むしろ、気になったのは弟の存在で、30代半ばなのに独身で、でも、実家で母親のつくるパイを美味しそうに食べている。こいつの役回りをもう少し膨らませたりできなかったのかな。それと、ラスト近く、ルイーズが弟に電話して「あんたもやるじゃない」っていったのは、どういう意味なんだろう? 気になる。
ルイーズと若いスコットは別れることになるのかと思ったら、さにあらず。どーも、スコットがコロンビアに入学しても、つきあいはつづけるような終わり方だった。でもま、39歳のオバサンと22歳ぐらいの青年が、そう長くつづくはずがない。哀しい別れが待っているような気が、してしまう終わり方だった。
で、気になったのは、ルイーズの年齢。主演のローラ・リニーがあんまり美人ではなく、最初のうちは「部長」という肩書きから40代の半ばかと思っていた。ところが、設定は39歳。オバサン、と言い切ってしまうのは可哀想な気もする年齢だよなあ。女友達も「3年もセックスがない生活なんか耐えられないわ」といい、ルイーズと元亭主も最後の3年間はセックスレスだったといっている。米国では、夫婦間にセックスがないと、離婚の対象になっちまうのだね。オトコは大変だ。
ラフ ROUGH9/25テアトルダイヤ監督/大谷健太郎脚本/金子ありさ
エンドロールで知ったんだけど、あだち充のマンガが原作らしい。なるほど。そうか。主人公は男前だけどちょっとスローテンポ(そのせいで、中盤に5分ぐらいウトウトしてしまった。長澤と速水が夜の庭でちょっと熱くなるあたりから、1年が走馬燈のように過ぎていくあたりだ)。ライバルはがりがりのスポーツマン。そして、好きといえず「嫌い」と言ってしまう少女がいて…。なるほど。あだち充だ。青春ドラマなのに狂言回し役のバカな友達が登場したりしないのは、そのせいなのかもな。バカを排除して丁寧に撮っているのかと思ったのだけれど、原作に影響されていたのだな。
描写が中途半端な部分が多くて、はっきり分からない部分が多い。たとえば、長澤まさみの呼ぶ「おにいちゃん」というのは、本当は速水もこみちのことなのか? そのように思わせるセリフが冒頭にあり、ずっと気になっていたのだけれど、後半になってフクロウの人形を拾ってくれたのは速水だ、という映像がでてきた。では、幼い頃に同じ水泳教室に通っていたのかい? で、長澤は速水を「おにいちゃん」と呼んでいた、と。では、なぜいま、日本チャンピオンの仲西のことを「おにいちゃん」と呼んでいるのだ? その辺りのけじめが、ちゃんと着いてないと思う。あとは、見ている人が想像してくれ、ということなのか? それとも、みんな原作を読んでいるんだから、わかるよね? とでもいうのだろうか。または、俺のこの解釈は間違っている?
登場人物が多く、冒頭で主要人物について字幕まで見せて説明している割に、みんな効果的に使われていない。せいぜい速水と同室のも、親が心臓病で退部してしまう飛び込みの選手、ぐらいだ。速水に思いを寄せる飛び込みの女子、寮に入らないわけありの女子、デブの柔道女子、寮母の娘、その他、みんな中途半端以下にしか利用されていないのがもったいない。それと、主役2人の実家が和菓子屋で昔から犬猿の仲、という設定もほとんど活かされていない。これも、もったいない。時間の制約があって描けない、などと言い訳をしないで欲しい。たんに脚本が下手なだけだ。
女の子たちの水着姿がふんだんに見られるのは嬉しい。が、しかし、長澤がかわいく撮れていないのが、困った問題だ。シワが目立つブスにしか見えないシーンが多すぎる。脇にも可愛い娘がいない。もうちょっとキャスティングに気をつかってくれ。
美しき運命の傷痕9/26ギンレイホール監督/ダニス・タノヴィッチ脚本/クシシュトフ・ピエシェヴィッチ
原案がキエシロフスキー(キシェロフスキー?)なんだと。なるほどね。運命の連鎖みたいなのが濃厚なのは、そのせいなのだね。でも、根幹がそれでも、表現のタッチは、キエシロフスキーよりべたべたしている。乾きが足りない。
長女は夫の浮気に嫉妬。次女は老母の世話。三女は不倫相手の大学教授に捨てられて…。というロクでもない3姉妹の物語。本来はこの3バカ娘の奥に横たわっている、娘たちの母親と父親との物語の方が興味深いんだけれど、その全貌が明らかになるのが後半も後半で、ラストの、母親のひと言「それでも私は後悔していない」というメモ書き(母親はしゃべれない)はかなり強烈。けれど、その真偽は明らかにされることなく、物語は終わってしまう。あらま。3バカ娘の浮気だ不倫だ孤独だっていう、ありきたりのつまらない部分に時間を割きすぎて、本来、描くべきところを省いている。これじゃ物足りない。
オープニングタイトルのバックに映し出される鳥の雛。親が他の鳥の巣に卵を託し、ヒナが成長すると、本来のヒナを巣から落としてしまうっていうやつ。カッコーかホトトギスなのかな? あれが、この映画のテーマを語っているのだと思う。長女の亭主は浮気で家庭を破壊。三女は友達の父親と浮気して、その家庭を破壊。3姉妹の家庭は、父親が同性愛で破壊。その象徴なんだろうと思う。けれど、父親の同性愛は、疑惑の相手と見られていた本人が登場して、あれは違う、と否定するのだ。だから、「亭主は青年を部屋に連れ込んで…」という疑惑と告発(この告発を妻がしたっていうのもなんか凄いと思うが)は、間違いだったわけだ。なのに、父親が娘達に会うことを禁じ、会いに来た亭主を自殺に追い込んでしまった母親は、その新事実を聞かされても、「後悔していない」っていうんだよ。おいおい。どうなっているんだ。ホモ疑惑は口実で、実はもっととんでもないことが、夫婦間にあったってことなのかな。そこんところが、あまりにも曖昧。はっきりしてくれ、という気分だ。三女は大学で歴史でも学んでいるのか、王女メディアが自分の子供たちを殺すというエピソードが紹介される。これは、何を示唆しているのかな。3人娘は、母親に、実質的に殺されている、という話かね?
それから。長女の亭主が浮気相手のところに行って「妻と別れた」というと「子供たちはどうするの? 私も、5歳のときに父親が出て行ったのよ」と言って、浮気相手に三行半される(この映画ではオトコはほんと、能なしにしか描かれていない)。この辺りも、3姉妹の過去と相似形だ。過去、現在、未来。同じ様な関係、境遇が随所にアナロジーとして登場し、テーマが強調される。読み解きやすい話ではあるけれど、王女メディアや託卵の話といい、あまりにも直接的・生に出すぎで、奥ゆかしさに欠けると思う。映画なんだから、見えるドラマとして描いて欲しいものだと思う。
長女のエマニュエル・ベアールが嫉妬に狂い、夫の浮気相手を蛇のように追う様子は、ちと怖い。怖いけれど、エマニュエル・ベアールになら追われてみたい気もする。ってゆーか、あんなエロっぽい奥さんがいるのに、浮気する必要なんかないじゃん。
戦場のアリア9/26ギンレイホール監督/クリスチャン・カリオン脚本/クリスチャン・カリオン
クリスマス。最前線の敵国同士が休戦協定を結び、いっとき交歓したエピソードは知っていた。が、しかし。アルザス・ロレーヌを争う普仏戦争でだったとは知らなかった。第一次世界大戦でだと思っていた。…と書いたところでWebサイトのストーリーを見たら、なんだ、1914年の第一次世界大戦と書いてあった。え? 会話の中にアルザス、という地名が出てきたので、てっきりアルザス・ロレーヌに関係の深い前線かと思いこんでしまった。普仏戦争にどーしてイギリスの軍隊がでてくるんだ? と疑問をもちつつ見ていたのだけれど、第一次大戦と分かってみれば、なるほど。うーむ。あやふやでいい加減な知識で困ったものだ。
ドイツ軍の歌声にイギリス人がバグパイプを合わせると、オペラ歌手(?)が反応して歌い出し、ドイツ軍がクリスマスツリーを塹壕から出す…という、交歓のきっかけと以後の流れは、ちょいと感動。でも、思うに、大戦中の軍人が仲よく歓談するっていうのは、よくないな。情が湧いてしまって、戦争どころではなくなってしまう。相手に発砲すらできず、「おい。我が軍が砲撃を開始するから、こっちへ避難しろ」なんてハメになる。それじゃ戦争じゃないだろ。
いや、わかってるって。戦争ってのは、最前線を知らないエライ連中が国家の威信や利害のために兵隊の命をもてあそぶゲームだ、ということを訴えようとしているってことは、ね。でも、現在の世界情勢を見れば明らかなように、戦争反対と言っていればそれですべて収まる、というのは夢物語だ。民族や宗教的な対立、国境紛争、過去の戦争の清算…。日本だって無関係とは言えない。靖国や竹島や尖閣列島を前にして「平和」を訴えても、問題は解決しないに違いない。ということを思うと、この映画が描いているメッセージが、いくぶん空しく思えてしまうのだった。思えば、ヨーロッパ人だから宗教はほとんどがキリスト教。クリスマスを祝うという共通認識があるから、成立している物語だよね。のどかな時代もあったものだ、という懐古的なところはあるけれど、平和を訴えるには弱すぎる。
最初の方で、登場人物をさりげなく紹介してはいるけれど、なんか荒っぽい。もうちょっと人間個人を掘り下げる描き方をしてくれたらよかったのに、と思った。フランス軍中尉と、その上官って親子なんだね、って最後の方に分かったよ、やっと。それから、同盟国と連合国の塹壕が、100mもないような関係で対峙しているてのが、最初から分かっていた方がいいんじゃないかと思う。ドイツとイギリスの将校が中間地点に行ってはじめて、あんなに近かったのか、って分かるのでは遅すぎると思う。

 
 

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