2006年10月

オトシモノ10/1東劇監督/古澤健脚本/古澤健、田中江里夏
恐がりの俺なので、ときどきゾクッとくるシーンはあった。けれど、全体を通して見終えてみると、いったい何が原因であの人物たちがあっちの世界に引きずり込まれていったのか、皆目見当がつかない。ほんとうに、ホラー映画はつじつまの合わないものばかりだ。
当初の原因とされていた八重子。でも、八重子も落とし物を拾って引きずり込まれたクチなんだろ? するってーと工事中にみつけた"とんでもないもの"が原因なのかい? でも、それが何かは説明されない。それじゃ納得いかないよなあ。それとも、"とんでもないもの"は落ち着いていたけれど、たまたま八重子の娘への執念が引き起こした? としても、事故時に0歳の赤ん坊が杉本彩まで成長するのだから40年近く経ってるってことだよなあ。その間も八重子は引きずり込んでいたのかい? だったらもっと噂が浸透していてもいいだろうに。だって対象は落とし物を拾った人なんだから、それこそたくさんいるに違いない。それと、あのドニーダーコのウサギの人形というかバルタン星人というか羊の人形というか、わけの分からんのが支配していた地下世界から、主人公の妹だけ助かるってのは都合よすぎるだろ。いやいや、素人がたまたま入り込んで行けてしまう地下の不思議空間ってのはないだろ。それともなにかい。鉄道のエライ人や政治家や線路補修の人々は、"とんでもないもの"の存在を知っているのかい? いやー、あらためて突っ込み所ばかりの映画だと思い知らされる。
コントラストが高く、赤などの原色が目立つような画質にしている。ざらっとした画調で雰囲気を出そうというのだろうが、小手先過ぎてつまらない。そんなことより、脚本をしっかりしてくれい。沼尻エリカは、ぺろんとした顔でどこも可愛くない。まるでフィギュアの、人間味のない人工的な顔立ちをしていて魅力がない。鉄道事故を題材にしているのに、ちゃんと駅で撮影している。クレジットを見たら北総鉄道や関東鉄道が協力していると書いてあった。ふーん。イメージ低下は、意識しないのだね。
イルマーレ10/3上野東急2監督/アレハンドロ・アグレスティ脚本/デヴィッド・オーバーン
韓国映画のリメイクで、時代を超えた男女が文通する話であるのは知っていた。その韓国版「イルマーレ」は見ていない。で。大きな破綻や辻褄の合わないところはあまりなくて、素直に見ていられる。のだけれど、ちょっと考えるとおかしなところもでてくる。たとえば、時代を超えたといっても2年なんだから、互いの時代で会おうと思えば簡単に会える。実際、キアヌの方は2004年のサンドラに何度か会っていて、しかも、それが文通相手の過去であることを認識している。だったら、2006年のサンドラも、同じ2006年に生きるキアヌを探そうと思えばできるはず。なのにしないのはサンドラの意志と言うより、映画の都合としか思えない。最初の方にサンドラが出くわす交通事故。見も知らない男がサンドラの腕の中で死んでいった・・・って、これがキアヌだろうというのはミエミエ。なので、脚本はそうではない方向に向かうかと思いきや、やっぱりキアヌだった。しかし、だ。交通事故の時点でサンドラはキアヌと何度か会っていて、踊り、キスを交わした仲のはずだよなあ。だったら、知らない男と言えないんじゃないのか? それに、2008年にサンドラは2006年の交通事故に気づくわけだけれど、「あと2年待って湖畔の家に来い」というのは、あまりに酷なのではないのかい? 待つ必要がどこにある? ないよなあ。それから、サンドラの愛読書を床下に隠して返したのは、キアヌ? いつ、どうやって侵入して床下に入れたのだろう?
結果としてタイムマシンものに近い展開をするこの映画。サンドラはキアヌの過去を変えてしまう訳なのだけれど、そういうことをしてよいのだろうか? と、ハッピーエンドを見ながら思ったのだった。もちろん、あれでキアヌが死んだままだったらハッピーになれないけれど、なったらなったで気になるところではある。
サンドラ・ブロックは40過ぎだというのに、こういう映画にでてもいいのかな。限界を超えているような気もしないでもない。がしかし、ときどき少女のような笑顔が見えたりするので、許してやってもいいか。と。
★タイミングよくCATVで韓国オリジナル「イルマーレ」をやっていたので、10/3の夜に見た。テイストは断然オリジナル。話の流れも韓国版がいい。事故の現場を前に持ってきた米国版は、やはりサンドラとキアヌに面識があるはずなので、不自然。ラストに事故を短時間で処理した韓国版は、事故の様子が生っぽすぎる。ここをもっと、あっさり処理した方がいいと思う。で、ラストは米国版に軍配。湖畔の家を出て行く女に男が突然訪ねていっても、彼女にとって"これから起こること"を説得できるはずがない。彼女はこれからの2年間を体験しなくてはならない。そのためには、2年間の猶予が必要なのだね。まあ、1年ぐらいで電話しちゃっても問題はないかも知れないけれど、深く理解し合うためには2年必要なんだと思う。
フラガール10/10シネマスクエアとうきゅう監督/李相日脚本/李相日、羽原大介
不覚にも後半、何度か泣いてしまった。前半には笑いもちょっとあったけれど、後半は暗く悲しく感動的な映画である。友人との別れ、去っていこうとするダンス教師へのフラによる手話。ツボをついた演出で、涙腺をしつこく緩ませる。予告編からは笑いとペーソスの映画だと思っていたけれど、哀愁レベルの物ではなかった。
泣かせてはもらったけれど、映画としてのデキはワザも何もないベタなもので、下手だと思う。泣き顔や感動的なシーンのカット尻があまりにも長すぎたり、念押しのようにセリフを繰り返したり、とてつもなくくどい。でもま、廃鉱、失業、落盤死、組合、団交、無知蒙昧、おまけに貧しい北関東・南東北とくれば、映画だって訛った方がいいのかも。で、その方言は「方言を組み込んだ標準語」をなるべく避けている様子。まあ、何とか通じるし意味が分からないところでも感情はつたわってくる。
もっと集団劇にするべきだったんじゃないのかな。松雪泰子と蒼井優ばかりに費やして、他の役者の持ち味が引き出されていない。まあ、岸部一徳と富司純子、寺島進は別格として、フラガールたちの魅力が乏しすぎる。蒼井をフラガールに引き込む娘は途中からいなくなっちゃうし(でも、そのエピソードはいいと思うけれど。高橋克美の暴力オヤジが凄かった)、後は子持ちのオバサンと南海キャンディーズの山崎静代(ほとんどセリフなしというのは、問題じゃないのか?)だけ。もっと描けよ、フラガール達を。
映画はフラガール募集とそれに応じた娘、松雪のダンス教師という線で進んでいく。で、常磐ハワイアンセンターがずうっとでてこないんだよな。これは問題だと思う。冒頭に、石油に押され閉山する様子、そして、炭坑がハワイアンセンターを企画する経過を手短に紹介してもいいんじゃなかろうか。そこで、いろいろな対立が発生して、その対立が交錯するながれにする・・・とか。なぜかっていうと、いまの脚本だと対立関係が弱すぎると思うのだ。しかも、その対立は解消されることなく、なんとなくハワイアンセンターのオープンにこぎ着けてしまっている。富司純子や豊川悦司が、いかに蒼井の行為およびハワイアンセンターを認めざるを得なくなったか、というのはこの映画の根幹に関わる出来事のはずだ。それを、なんとなく、にして逃げてしまっている。これじゃ、つまらんだろ。
その対立相手の一角は、古典的な頭をもった炭鉱労働者と組合なんだけど、昔ならあたりまえのような団交や主張が、とても空しく聞こえてくる。時代は変わった。っていうか、無茶苦茶な理屈を押し通していた時代があったのだ。でも、いまのように企業の方が力が強くなってリストラ当たり前というのも、悲しいのだけどね。
豊川悦司は富司純子の息子で蒼井優の兄、というには老けすぎだろう。観客は年配者が多かった。蒼井優の北関東弁はアクセントや強弱も的確で他の役者とは一線を画す上手さだったこと。プロフィールを見ると福岡で、北関東・東北ではないのにね。耳がいいんだろうか。ラストの蒼井のピンのフラダンス。バレエをやっていても、フラには対応できなかったのだな。ロングは吹き替えで蒼井のアップ一瞬およびちょっと腰フリをつないで誤魔化しているのがありあり。かなり萎えた。
レディ・イン・ザ・ウォーター10/11上野東急監督/M・ナイト・シャマラン脚本/M・ナイト・シャマラン
シャマランの映画は、どんどん質が落ちていく。「シックス・センス」が頂点。あとは迷走、どつぼ。この話も、よくもまあ「映画にしよう」ということに決まったもんだと思う。だって中味がないんだから。
集合住宅の管理人のところに、水の精がやってくる。将来、人間のために役立つ本(?)を書く人間を確認したら(?)水の世界に戻る(?)という。で、管理人はライター探し。これがなんと、集合住宅内だけで探そうとする。で、見つけてしまう。ご都合主義。水の精は、なにやら怪しい化け犬(?)に狙われている(?)らしい。その水の精を守るべく、住宅内の面々が立ち上がる・・・って、バカか、こいつら。管理人のホラばなしをみんな簡単に信じて、真剣に水の精を帰すことに懸命になる。おまえら何でそんなに素直なの? まるで宗教に侵されたみたいだ。なわけで、中国の婆さんが娘につたえ、娘がその娘につたえたお伽噺の同じようなホラ話の世界へ入っていく。いやほんとうに、憑きものに化かされているみたいに真剣に。
「シックス・センス」「アンブレイカブル」「ヴィレッジ」のような、最後の一発逆転どんでん返しは、ない。とちらかというと「サイン」のような、ハナからのホラ話。しかも、つまらない。どんでん返しもない。読み解くとしたら、こんなかな。・・・現在の世の中は得体の知れない邪悪に狙われている。その邪悪を退治するのは、私たち人間だ。どんな人間にもそれぞれ役割がある。その役割を果たせば、敵を封じ込めることができる。さあ、みんなでがんばろう! "ストーリー(物語)"という名前の女が、登場人物をかきあつめて、即興でひとつのストーリーをつくりました、とかね。で、登場する人種も、西欧白人、黒人、アジア人、インド人、ラテン系の人々・・・と色々で、こうした連携が描かれる。のだけど、もっとも知恵者はインド人で、そのインド人が書いた書物を読んだ少年が、将来のアメリカ大統領にでもなるようなことを言っていた。で、シャマランはインド人だからなあ、などと思っていたのだけれど、帰ってからシャマランの写真を見たら、映画に登場した作家がシャマランそのものだった。やっぱし。
なんだよ。インド人=俺の叡智が未来の人類を救う、ってわけかい。なんて傲慢なやつなんだ、シャマランってやつは。ぐぐぐ。こんな、俺様は神様だみたいなメッセージの映画のどこがいいんだろ。上野東急は水曜レディースデイなのに、観客は6人しか入っていなかったよ。
ああ、それから。冒頭にイラスト+ナレーションで、人間は昔、水の中にいたころ水の精と仲がよくて争いごとなんかしなかった云々という、ネタバレのようなものをしゃべってしまって、よかったのかい?
日本以外全部沈没10/16シネセゾン渋谷監督/河崎実、監修/実相寺昭雄脚本/右田昌万、河崎実
バカ映画。低予算で見かけも内容もチープ。演出テクニックもないので、出来の悪いピンク映画かVシネマを見ているような感覚だ。いや、エロもバイオレンスもないけどね。
脚本も悪い。ほとんどストーリーはなく、エピソードの羅列。なのではじめは「バカやってるよ」と笑って見ていられるのだけれど、だんだん飽きてくる。たぶん、予想外のはじけ方はしない、と分かってしまうからね。・・・のだけど、こういう素材を切れ味鋭い監督が仕上げても、面白くならないのかも知れない、とも思ったりする。そう思うと、こういう映画をモーニングショーとはいえ、シネセゾンで上映していいものか、いささか考えてしまう。テアトル池袋が存命だったら、そっちだよなあ、上映館は。
いまどきミニチュアを駆使した特撮が懐かしいけれど、それもチープ。でてくる役者も・・・。どうせなら、もっとはじけて欲しいと思ったぐらいだ。はじけ方が、バカ映画にしては足りないと思う。って、つくってる連中は大まじめだったりして?
美しい人10/18ギンレイホール監督/ロドリゴ・ガルシア脚本/ロドリゴ・ガルシア
原題は"Nine Lives"。制作総指揮は、監督の父親アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ。
第1話サンドラ/あんまりよく分からない。感情が激しすぎるというか自制心がないというか、これでは犯罪を犯してしまうだろ、ってな印象しかもたなかった。
第2話ダイアナ/元彼と元カノがスーパーマーケットで出会う、というだけの話。でも、語られないところに、いろんなことがあったんだろうなと想像してしまう。ともに、満たされない現実に妥協を強いられているのだろうな、と。
第3話ホリー/で、この姉は何を怒っているの? 妹は別に問題なく父親(不貞をはたらいて離婚した、らしいが)と暮らしているのに、興奮して自殺しかけるなんて、何があったの?と戸惑うだけ。
第4話ソニア/豪華マンションに転居した友人夫妻(夫は、第2話で登場した男)を訪ねるカップル。なんだけど、友人夫妻の前で実は堕胎しただの何だのと話だし、罵り合う。こういうのは、日本人には設定としても理解できない部類の話かも。
第5話サマンサ/東部の大学に進学せず、地元にとどまると主張する娘。それを説得する父は母。でも、父母は直接会話せず、娘を介して話をするみたいに見える。子供とは近しいが、夫婦間は冷めている。この距離感が、よく表現されている。しかも、母親は家事やつれしている。が、次第に夫が車椅子生活だと分かってくる。娘は、誰に気兼ねして東部行きをあきらめたのだろう。父親にか、父を介護する母親に、か。いまどきの娘は、そんなに優しいの? という疑問も感じるのだけれど。
第6話ローナ/前夫の妻が自殺して、その葬儀に出席する女。でも、そういう関係で葬儀に出席するか? フツー。女は前夫の妻一家には評判が悪いらしい。自殺は、女の責任だと思っているのかも。なんて見ていると、前夫は別れた妻=女に未練たらたららしい。っていうか、空き部屋を見付けて連れ込んで、「お前を思ってマスかいてる」なんて迫って、セックスしちゃうのだ。じゃあ、何で分かれたの? って話だよな。よく分からないし、後味が悪い。スポーツクラブで一緒だっていう女は、第2話に出てきた、マンション住まいの妻の方?
第7話ルース/男とモーテルにやってきた中年女。モーテルの別の部屋の女が、警官に連行されていくのを感慨深げに見ている。娘から電話がかかってきて、その娘が第5話のサマンサだと分かった。ああ、この女は家事やつれしていた妻の方か。そうか。夫が不能なので、渇きを癒しているのか。しかも、相手はどーも学校の先生みたい。第5話で「先生が言ってたわよ」なんていっていたけれど、こういうつき合いだったのね。というリンケージがあるけれど、話としてはありふれている。
第8話カミール/乳がんで乳房を失う手術前の女。付き添っているのは、夫。不安と言うより、乳房を失うことへの哀しみを表しているみたい。でも、印象が薄いお話しだ。ところで、でてきた黒人看護婦は第2話の感情的な姉の方?
第9話マギー/母親と娘、にしては年の離れた2人が墓参りにやってくる。ピクニックみたいに布を拡げ、墓の前でブドウを食べる。ただ、それだけの話。祖母のような歳なんだけれど、なんなんだ? と思っていたのだけれど、映画のWebサイトを見たら、あの少女(ダコタ・ファニング)はすでに死んでいる娘=墓の中に入っているので成長していない、らしい。ふーん。それは分からなかった。ふーん。死んだ娘に会いに来ていたのか。分かりにくいよ。
オムニバス映画だ。1シーン1ショットはご苦労さん。とくに2話のスーパーマーケット、4話の高級マンション、5話の家の中でのカメラの動きは神業? ちょっとカメラの動きを間違えたらアウトだもんな。でも、どうやって撮影しているんだろう。ステディカムのカメラマンが1人? 他のスタッフが周囲にいちゃ映っちゃうだろ。すると、指示は遠隔地から無線? 監督はビデオモニタを見ているのかな? 1シーン1ショットで、力のいれ具合が分かる。確かに緊張感はつたわってくるからね。それに、1幕芝居の脚本もなくちゃいけないし。そういう意味でもご苦労さん、だ。
ブルートで朝食を10/18ギンレイホール監督/ニール・ジョーダン脚本/ニール・ジョーダン、パトリック・マッケーブ
原題は"Breakfast on Pluto"。ここでいうブルートは冥王星のことらしいが、冥王星といえば今年になって惑星の座を失った星だ。名は、ローマ神話で冥界を司る神、に由来しているらしい。てなことは後から知ったこと。見ているときはよく分からなかった。分からなかったといえば、この映画の良さも分からなかった。俺にはひたすら退屈で、始まって2、30分して寝てしまった。どのぐらい寝たのか分からないけれど、起きてから時計を見たらまだ80分ほどあったから20分前後なのかも。起きてからは、まあ、見たけど、つまらなかった。IRAの爆破のときは、これでやっと面白そうな展開になるのか? と思ったのだけれど、ならなかった。最後に実母に会いに行くところだけは、並の映画並みに面白かった。後は、あってもなくてもいいエピソードをつないだだけ。いったい、覗き部屋だの手品だのなんだのかんだのというエピソードは、意味があるのか? 俺には関係ありそう(意味を読み解けるよう)に見えなかった。なので頭は働かず、壮大な時間の無駄のように思えた。「ヘドヴィク・アンド・アングリーインチ」とか「オール・アバウト・マイ・マザー」とか、なんとなく(なんとなくだよ)感じが似ている映画と比較しても、こっちの方が全然つまらない。だから、何? だ。アイルランドとイギリスの関係を知っていたりすると、違ってくるのかな?
音楽はよかった。懐かしのヒット曲満載で、音楽だけを聴いているだけで、まあいいや、という気分になったりした。
16ブロック10/18新宿ミラノ1監督/リチャード・ドナー脚本/リチャード・ウェンク
評判がいいようなので期待したんだけれど、期待が大きすぎた。悪くはないが、傑出しているとも思えない。上出来のアクション映画、ってとこだろうな。悪徳警官一味を、元仲間だった警官が告発する、っていうのもそれほど珍しくない。っていうか、手垢が付きすぎている。ま、告発に必要な証人の黒人青年を、わずか16ブロック離れた法廷に連れていく間の出来事、っていう設定がちょっと珍しい。のだけれど、わずか16ブロックの距離という感覚と、要する時間がよく見えないのが辛い。目標に向かってどう移動しているか、目標にどれだけ近づいたのか、なんてことがもっと分かるといいんだけどね。
ブルース・ウィリスの、びっこでアル中でボロボロの警官、というのが何か、つくりすぎのような気もする。その背景が描かれているならいいんだけど、それがないのだよね。つまりその、ブルースも元は悪徳の端に名前を連ねていたけれど、いまは仲間から外れている。それが自分の意思で抜けたのか、それとも何らかの理由があって抜けさせられたのか、その辺りがもやっとしている。それに、びっこになった時期や理由も分からない。もっと個人的背景が描き込まれていると、面白くなったのではないのかな。
連れとなる黒人青年の方は、これでもかと言うぐらい描き込まれている。お調子者でしゃべりすぎで人のいい盗み癖のある黒人。いかにも、という感じなのだけれど、こいつの存在がなかなかいい。どーしようもないと見せておいて、「人は変われる」という、ブルースの行き方、行動と通底するテーマをちゃんと描けている。それと、小咄というか心理ゲームみたいなのが登場するのだけれど、その使い方もいい(豪雨に運転している最中、病人と命の恩人といい女とに出会う。乗せられるのは1人。あなたならどうする? というもので、答えは事件の解決とともにブルースが応える。心理ゲームというより、なぞなぞなんだけど、みんなが平和になる手段を考える、という意味でも、ブルースの行き方につながっている。こういう、細部に凝っているところは高く評価)。
パンクしたバスを走らせてしまったり、どん詰まりの路地から逃げ出したり、あげくは妹の救急車を手配するというご都合主義もあったりして、最後になるにしたがって「それはないだろ」というところもあるのだけれど、まあ、納得できる許容範囲かな。
それにしても、「ダイハード」といい、ブルースはこういうどん詰まり状況の映画で、いいキャラクターとして働くよな。
アタゴオルは猫の森10/23新宿武蔵野館3監督/西久保瑞穂脚本/小林弘利
ますむらひろしの世界を3Dで実現。尺は80分程度。中味がなんにもない。わけの分からん封印を、たまたまヒデヨシが開けてしまう。すると、へんな女王みたいなのがでてきて、民衆(といってもネコだけど)の秩序化(といっても、精神をコントロールして行き魂を抜き、それを食して長生きをするという、グリム童話のずっと昔からあるような定番の物語)するという話。それと真っ向から戦う仲間に対して、ヒデヨシは生理で向かっていく。で、とうとう相手をやっつけて村が平和になりましたとさ。あー、つまんねえ。3Dの精度はそこそこだけれど、動きはいまいち。時間とコストの制約があるんだろうけど、だったら2次元で十分じゃないのかね。80分だから寝る前に終わるかなと思っていたのだけれど、クライマックスの直前に10分ほどうとうと。気がついたらクライマックスだった。子供が4、5人いたけれど、どっちが正しいとか悪いとか、そういうことは把握していないみたいだった。だって、ヒデヨシが固まったり無様な恰好になると、くすくす笑っていた。そうなんだよ、子供はそういうおバカが楽しいんだよ。教訓たれるようなお話しは好きじゃないのだよ。悪キャラはそれらしく不気味で憎らしく描かなきゃな。
音楽は石井竜也らしいけれど、なんだかどっかで聞いたようなメロディだったりして、あまりオリジナリティがない。
旅の贈りもの-0:00発10/24銀座テアトルシネマ監督/原田昌樹脚本/篠原高志
どんくさい映画。っていうか、おぞましいものを見てしまったっていう気もする。何でもかんでもセリフで説明してしまう脚本、あまりにもベタな演出、まるで2時間ドラマみたいな崖の上のクライマックス・・・。笑っちまったよ。いや、脱力感でいっぱいだな。こんな映画をつくっている人たちがいるのだなあ。凄いなあ。
そもそも、乗客たちが行き先不明の深夜電車に乗る動機がわからない。自殺願望(友人がいないから)の女子高生、タレントの夢やぶれたイメクラ嬢、リストラされたサラリーマン、失恋したキャリアガール、妻を亡くした定年男、単なる写真家(鉄道マニア)・・・。あまりにも設定が類型的。しかも別に現実から逃げるほどのこともないような連中だ。この程度のことでうじうじするんじゃない。と叱ってやりたい。
あの3両編成の列車は、本当に走っているのかな。実際の列車を使っているようなんだけど、どうしたんだろう。行き先不明、なんていう列車があるんだかないんだか知らないけれど、どーせならもっとファンタジーにしちまえばいいのにね。そうすれば、あの風町の人々の暢気さ陽気さも理解できるけれど、現実の延長上にある老人だらけの漁村だとしたら、実際は目も当てられないはず。そういうところに目をつぶって、なんとなくいい町を創り上げても、説得力がない。そうすれば、なんとなく「銀河鉄道999」みたいな設定も、まあなんとか許せるかも。
だいたい桜井淳子は主役を張る器か? 相手役に徳永英明? 若手女優もいまいちだし、むしろ元気なのは脇役たち。大滝秀治、梅津栄(どーも山谷初男と混同していた・・・)、樫山文恵、正司歌江なんかが目立ってしまう。でも、細川俊之は曖昧な役柄で損をしているね。それにしても役者がみんな旬ではない。せいぜい石丸謙二郎ぐらいかな。
なんか無理な設定での撮影が多かったみたいで、徳永が自転車を引いて桜井と砂浜を歩くシーンは、砂に車輪をとられていた。徳永が全力で自転車を引きずっているのばかりが目についた。同じく2人が海岸の石段でスイカを食べるシーンも異様。そもそももらったばかりのスイカで冷えていない。食べているスイカは包丁で切ってあるのに、横に置いてあるスイカはたたき割った様子。それに、わざわざあんな道ばたでスイカを食うか? あんな町に旅館だの映画館がなぜある? とかね。現実の延長だと、いろいろ無理が出てくるのだ。
そうそう。「東京物語」の表面的でチープな模倣も気になった。堤防に座る後ろ姿、港の石灯籠や鳥居・・・。モロだよなあ。
2番目のキス10/30ギンレイホール監督/ボビー・ファレリー、ピーター・ファレリー脚本/ローウェル・ガンツ、ババルー・マンデル
"Fever Pitch"がどうして「2番目のキス」になるのかよく分からん。これまでにも、なんとかのキス、ってタイトルがあったから、だけなのか? 野球バカと結婚する映画、となると女性観客が引いてしまうから、そういう印象を与えないように苦慮したのかも知れない。ドリュー・バリモアを見るだけのロマンチック・コメディ。しかし、こういう吉外野球ファンは、いるんだろうな、実際に。でも、外野だけのファンじゃなくてシーズンチケット(価値は1500万円?)をもっているってところが、格が違うファンだよな。
バリモアの仕事はよく分からないのだけれど、理科系で銭が取れる仕事らしい。なので、学校の先生をバカにしているのがなるほどと思わせる。教師はリッチな仕事ではなく、肉体労働者並の扱いだ。ってことは、これは逆玉の成功例ということになるのだな。だって、バリモアは「俺を取る=レッドソックスの試合を一緒に見るか、仕事をとるかの二者択一を迫られ、いったんは仕事をとったはず。なのに、反省してシーズンチケットを他人に譲ろうとする恋人を見て、「彼はあんなに大切なものを捨てようとしている。私は、大切なものを捨てたことがあるか?」と自問し、彼を選び取ってしまうのだから。映画ではバリモアが出世できなくなったとも仕事を辞めたとも言っていない。ボストンの試合を欠かさず見に行くようになったとも言っていない。そこのところは曖昧にしている。ほんとうは、そこのところをどう解決したのか、知りたいのだけれど。でも、映画は都合よくハッピーエンドのようなところで終わらせてしまう。ずるい。
バリモアが観衆でいっぱいのフェンウェイ・パークを走るシーン。あれは、本当の試合が始まる前に、ちょっと時間を割いて撮らせてもらったのだろうか。それともCGかな?
幸せのポートレート10/30ギンレイホール監督/トーマス・ベズーチャ脚本/トーマス・ベズーチャ
設定自体がなんか無理矢理というか強引というか、なさそうでなさそうな話だ。クリスマス。あちこちに散らばっている息子や娘がパートナーをつれて戻ってくる。ことしは、長男がつき合っている女性を連れてくる予定なのだけれど、すでに評判が悪い。N.Y.で姉妹がすでに会っていて、変人の噂がたっている。てなわけで集まったのは、長男と彼女。独身の次男(映画作家?)。ゲイの3男(唖)とそのパートナー(黒人)、妊娠中の長女(亭主とうまくいってない風)と娘、次女(彼氏いない状態)。で、長男の彼女は自己中で独善的で都会風? 初対面の相手にはハグも拒み、長男と一緒のベッドで寝ろと言われて「やだ」と次女をソファーに寝かせる始末。挙げ句は「自分の子供がゲイで喜ぶ親はいない」といったり、ジェスチャーで「黒衣の花嫁」という題をだされ、無意識に黒人の方を指さしたりして、総スカンを食らってしまう。
なんかなあ。わざとらしすぎねえか。「黒衣の花嫁」は次女のひっかけで、黒人の方を指すように仕組んだものだ。両親は「息子がゲイでよかったと思っている。子供たちみんながゲイならよかった」ともいう。これも、良識をふりかざすアメリカ人がよく使う手だよな。公には「人種差別はない、差別したら罪になる」といいながら、実際は根深いものがあるように。とりあえず触れない、蓋をする、いいつくろう、糊塗する。そうしないと、差別を助長させることになるからね。だから、みていて、あやうい家族のように見えてしまう。
それにしても、次男が唖でゲイで相手が黒人って、これでもかこれでもかって感じだよな。では、最初に息子が唖だと分かったときの感情は? ゲイだと分かったとき、本当に嬉しかったのかい? パートナーを連れてきたときは? 違和感なく喜んで受け入れられたのだろうか。映画の中の家族が喜んで受け入れたとして、では、この家族がアメリカの理想なのか? この家族と同じ様な家族は、果たしてどれだけいるのだろう。なんか、どーも素直に納得できなかったね。
むしろ、一番の泣かせどころは、長男の彼女が、母親が妊娠中の写真を複写して額に入れてもってきたこと、かな。なんだ。やさしいところ、あるじゃないか、と。なのだけど、この映画の話はこれでは終わらず、長男は、なんと、明日結婚指輪をあげようという彼女の妹に一目惚れし、次男は長男の彼女といい仲になってしまうという、どーなってんだおいどうやって収拾つけるつもりなんだ、という後半にもつれ込んでいくのだ。これはもう、ひねりが効くというレベルではないのではないだろうか。ひねりすぎて、どこにもじわっと来る感動なんかありはしない。とんでもない家族だとしか思えない。
トリスタンとイゾルデ10/31新宿武蔵野館3監督/ケヴィン・レイノルズ脚本/ディーン・ジョーガリス
トリスタンとイゾルデって、聞いたことはあるけれどそれがどういう話なのか、そこのところはほとんど知らなかった。叙事詩かなんかになってるんじゃなかったかな、ってな程度。なので荘厳だけど退屈な物語が待ち受けているのかな、と思っていたら大違い。血湧き肉躍る活劇と許されざる愛の物語だった。ローマ帝国滅亡後、あの辺りの覇権を握ったのがアイルランド。で、ブリテンの地方豪族は烏合の衆で、アイルランドの支配下にあった・・・。なんていうことが、冒頭からちゃんと分かるように解説(といっても、それほど説明的ではなく)してくれるので大助かり。地政学的見地からも、映画を見る手助けとなった。以降の進行も、最近のテンポばかり速くて何が何だか分からないああどうなってるのあれは誰なんでそうなるの、ってな流れでなく、実に丁寧。でも飽きさせない。っつーか、なんか「ロミオとジュリエット」に似てるなあ、とか、不倫関係は見つかっちゃうだろドキドキ、あー、最後は悲劇が待ってるんだろうな、ああハラハラ、なんて見ていた。辻褄の合わないところもなく、突っ込みどころもなし。内容を十分に堪能したぞ。いや、いい映画だ。っつーか、トリスタンとイゾルデが分かったよ。イゾルデのソフィア・マイルズは、美人ではないけれど心根の優しそうな印象で、いいね。

 
 

|back|

|ホームページへ戻る|